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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 123

「勝ーって、嬉しい、はないちもんめ!」

「負けーて、悔しい、はないちもんめ!」

「あの子が、欲しい!」

「あの子じゃ、分からん!」

「相談、しましょ!」

「そう、しましょ!」

 〝遊び〟の歌を唱和しながら、柊吾は焦りにも似た切望と高揚感の両方を熱気とともに感じていた。

 八人が足並みを揃えて動く度、八人の影も背後に真っ直ぐ長く伸びる。対して鳥居の元にいる撫子の影は、撫子自身のものだけだ。八人の声と一人の声。最早こうなっては声量の違いは明白で、歴然とした人数の差が、撫子の孤独を浮き彫りにする。

 だが、撫子の声は八人に引けを取らなかった。

 あの小さな身体の一体どこから、これほどの力を引き出しているのだろう。『もらわれた』子供という不足を己の〝言霊〟で補うように、人数が減れば減るほど声は伸びやかに天を貫き、呉野神社の境内に清らかな風を吹き込んだ。柊吾の視界の端で和装姿の異邦人が、感嘆の声を漏らしている。

「美しい。『リーダー』と巫女、二つの役目を担った乙女に、相応しい風格と言えましょう」

「そんなの、当たり前だ!」

 思わず対抗するように、柊吾は白い鉢巻グループで円形に集まりながら言い返した。柊吾達は単に撫子を守りたいという理由だけで、撫子を『リーダー』に抜擢したわけではない。撫子ならこの一連の事件に幕を引き、四年前から続いた差別と悲しみの負の連鎖に終止符を打てると信じたからだ。

 だから柊吾達は誰一人として、〝遊び〟を恐れてはいないのだ。撫子が一人になっても、その状況を柊吾がどんなにもどかしく思っても、そんなものは一時のことに過ぎないのだ。

 ただ、信じていればいい。

 撫子を信じて、撫子を信じた己を信じて、この〝遊び〟に身を任せればいい。

「――撫子が、欲しい!」

 八人で手を繋ぎ合って、万感の思いを呼び名に込めて〝言挙げ〟すれば、覚悟していても胸が痛み、押し隠したはずの切望が、柊吾の顔を歪ませる。

 苦しかった。片思いに似た苦しさだった。この〝言挙げ〟に嘘はないのに、正直な気持ちを叫ぶのはこんなにも苦しいことなのだ。撫子とまだ心が通じ合えていなかった、中二の初夏を思い出す。それが片思いだとさえ気づいていなかったあの頃の、閉塞感が懐かしい。

 撫子も、同じ気持ちでいてくれるだろうか。

 そんな風に、柊吾が過去を振り返った時だった。

 鳥居から射す茜色の閃光に、清かな声が凛と乗って、神風のように吹き抜けた。


「――柊吾が、欲しい!」


 口の端が意思に反して少し上がり、柊吾は目を細めた。

 撫子と一緒にいると、柊吾は本当に色んなことを教わるのだ。自分ではとっくに知っていると高を括っていた感情一つを取り上げても、そこからさらに色の異なる感情が植物のように枝分かれして、花を咲かせていると気づくのだ。

 今も一つ、撫子から新しい感情を教わった。

 両思いに似た、嬉しさだった。



     *



「決ーまった!」

 一人ぼっちになった撫子ちゃんが、鳥居の下で〝遊び〟の呪文を唱えている。大きな声で、精一杯、八人の声に負けないような勢いで。

 でも、一人だ。たったの一人ぼっちなのだ。同じグループの子供が『もらわれ』続けた『リーダー』は、あんな風にたったの一人で、八人に向かって叫ばないといけないのだ。

 ――私に、あんなことが出来るだろうか?

 もしこのメンバー皆が『もらわれて』、たった一人になった時、撫子ちゃんみたいに出来るだろうか?

 ――紺野ちゃん、怖い。すごく怖いよ。

 四年前の私は〝はないちもんめ〟を、友達と友達の絆を繋ぐ、至高の遊びだと信じていた。でも、この遊びは本当はとっても怖いのだ。〝はないちもんめ〟で最後まで取り残された女の子は、一人ぼっちの心細さとひたすら戦い続けなければならないのだ。

 なのに、白い鉢巻グループは皆は、誰も怖がってなんかいなかった。目の前の〝遊び〟に全力でぶつかっていく勢いが、掛け声の度に私の魂へ微かな光を投げかける。希望みたいな光の強さに、私の目が何度も眩んだ。

「――撫子が、欲しい!」

 なんて残酷な台詞だろう。名前の形をした渇望をみんなで一斉に叫びながら、その罪深さに私は震えた。この言葉がどれだけ本気かどうかなんて、私以外に分かる人なんて誰もいない。いるとするなら、一人だけだ。私はグループの真ん中から、一番右端にいる三浦君を盗み見た。

 表情の薄い三浦君は平静を装っているだけで、本心では辛いに決まっていた。撫子ちゃんを欲しがることは、撫子ちゃんの負けを意味する。私と三浦君は同じなのだ。この手を欲しいものに伸ばすことで、自分も、相手も、周りの皆さえも傷つける。月に雲がかかるように、心に影が差していく。光が途切れて、見えなくなる。さっき見えた光なんて、所詮まやかしだったのだ。皆の熱気に当てられて、見えるはずのないものが偶然見えただけなのだ。

 けれど光は何度だって、私の潜る黒い闇を、燦然と白く照らすのだ。

「――柊吾が、欲しい!」

 世界を変えるようなその叫びが、私の魂を揺さぶった。

 柊吾が欲しい、柊吾が欲しい、柊吾が欲しい――。男の子の名前を呼ぶ綺麗な声が、頭の中でエコーを伴って何度も響く。

 傷付かなかった、わけじゃない。でも、私はそれ以上に切なくなった。

 三浦君の表情が、微かだけど優しい感じに動いたからだ。涙腺の壊れた私の目から、まだまだ涙が溢れ出す。お互いを呼び合う撫子ちゃんと三浦君は、映画や小説の中で離れ離れになってしまった家族や恋人みたいだった。

「何よ、悲劇のヒロインぶっちゃって! いくらあんたが三浦柊吾を呼んだって、あんたは私に『奪われる』運命なのよ!」

「呉野さん、今のあんたってものすごーく三流の悪役っぽいからね? ここで負けたらあんたって、完全に撫子ちゃんと三浦君の引き立て役だからね?」

「何ですって! ちょっと撤回しなさいよ、誰が引き立て役なのよ! いつだって主役は私なのよ!」

 篠田さんと氷花ちゃんの間で、もう何回目か分からない喧嘩が始まった。坂上君と陽一郎が二人を宥めている間に、私は物思いに沈み込む。

 氷花ちゃんは馬鹿にしたけれど、私は撫子ちゃんを馬鹿になんて出来なかった。だってあの切実さは、私にとって他人事じゃない。好きな人を追い求める撫子ちゃんのひたむきさが、いつかの自分の姿と重なった。私は涙の跡が冷たく風にさらされた顔を上げて、茜と群青の水彩絵の具を溶き合わせたような空を仰いだ。恋を手放すにはうってつけの夕空が、私の頭上に広がっていた。

 私の恋は、私が恋と言い張るだけで、歪だったのかもしれない。

 けれど、歪でも恋だった。撫子ちゃんの好きな人が私じゃない別の人でも、恋をしている撫子ちゃんを私はやっぱり綺麗って思えたから、私も終わってしまった自分の恋に、胸を張っていたかった。

「ふん、まあいいわ。これであんた達との幼稚園児のお遊戯みたいな〝遊び〟から解放されるんだもの。私の勇姿をしっかりと目に焼き付けて、さっさと山を下りることね?」

 けたけたと気持ちよさそうに笑った氷花ちゃんは、境内の中央へ歩いて行った。私は急にタイムリミットを突き付けられた気分になって、頭の芯が冷えてしまう。

 ――このじゃんけんで勝負がついたら、〝遊び〟は。

「まだ終わってないよ。美也子」

 びくりと肩を弾ませて振り返ると、私の考えを見透かしたみたいに声を掛けてきたのは、黒いニット帽の女の子。和音ちゃんだ。その隣には毬ちゃんもいて、ふんわりしたスカートを揺らして私の傍に近寄ってくれた。

「ミヤちゃん、じゃんけん、見守ろう?」

「……うん」

 微笑んだ毬ちゃんの隣に私もおずおずと立って、三人並んで前を向いた。鳥居の向こうに沈む夕日は、輪切りのゆで卵みたいに鮮やかなオレンジ色で、さっきより赤味が増していた。

「夕日、きれいだね」

 朗らかな目で毬ちゃんが言うと、「うん」と和音ちゃんが不器用に返事をした。私も何か相槌を打とうとしたけれど、何だか胸がいっぱいになってしまって、嗚咽を堪えるだけで精一杯になってしまった。

 ――袴塚中学で私達は、この三人で過ごしたんだ。

 でも、こうやって三人で過ごすのは、多分だけれど今が最後。私は袴塚中学で卒業式を迎える日まで、この街にいられるか分からない。けれど私は忘れっぽいからこの瞬間の記憶だって、パンの欠片のようにぽろぽろ落としてしまうだろう。

 それでもせめて一かけらだけ、忘れないで残していたい。石畳の真ん中へ近づいていく氷花ちゃんと撫子ちゃんを見守りながら、私は神様に願いをかけた。赤は嫌いな色だけど、この赤だけは、覚えていたいって思ったから。

「最後に言い残したいことがあるなら、じゃんけんの前に聞いてあげてもいいわよ?」

 氷花ちゃんは得意げに、撫子ちゃんから三メートルほど離れた場所で腕組みした。白い鉢巻グループの皆はそんな氷花ちゃんに呆れ果てていたけれど、撫子ちゃんは感情の希薄な表情のまま、こくんと頷いて言った。

「じゃあ、一つだけ」

「あら、あるのね? いいわよ、言って御覧なさい?」

「さっき、私は柊吾が欲しい、って言ったけど、本当はもう一人、欲しいって言いたかった子がいるの」

 境内にいる全員が、すっと口を閉ざした。審判役として立ってくれている藤崎さんも、意外そうに目を瞠っている。けれどその隣に立つ外国人風の神主さんは、ふんわりと笑うだけだった。撫子ちゃんがこういう風に切り出すことを、最初から知っていたみたいだった。

「……誰よ、それは」

 氷花ちゃんが、警戒した様子の声で言った。白い鉢巻グループの皆も、互いに顔を見合わせている。そして、全員が合点の顔になった。このグループの中に、撫子ちゃんの言う『欲しい子供』はいない、と。

 私も、愕然と悟っていた。

「撫子ちゃん……まさか」

 春の夕方の冷たい匂いが、この神社の小山の麓の住宅街から立ち昇る晩御飯の匂いと混じり合って、甘く鼻腔を抜けていく。生活の匂いだ。私がこの街で過ごすうちに、身体に馴染んでいった匂い。そんな愛着のある匂いに、撫子ちゃんの優しい声は、子守唄みたいに溶け合った。


「紺野さんが、欲しい」


 その言葉を、聞いた瞬間――私は理屈ではなく、自分の負けを確信した。

 ――あの時と、同じ台詞だった。

 四年前の〝はないちもんめ〟と、全く同じ台詞だった。

「あはははは! 何を戯けたことを言ってるのよ! あんな劣等感の塊みたいな女を欲しがるなんて、酔狂もいいところね!」

 氷花ちゃんは、全く動じていなかった。嗜虐的に笑う顔にスプーンひと匙ほどの苛立ちが、砂糖が溶け残ったコーヒーみたいに、じゃりじゃりと混ざっただけだった。私は、首を横に振った。氷花ちゃんは、絶対勝てない。この撫子ちゃんに勝てる子なんて、この中にいるわけがない。

 ――だって、撫子ちゃんだけなんだよ?

 ――紺野ちゃんを欲しがったのは、撫子ちゃんだけなんだよ?

 覚えている。私はちゃんと覚えている。小学五年、四月の教室、紺野ちゃんと同じグループになった私。けれど私は紺野ちゃんを、本当に欲しがっていただろうか? 傷んだ果物みたいにぐずぐずに腐った、私にとって都合が悪くて関心もなくて、捨てるだけの黒い記憶が、四年経った今になって、私のことを責め立てる。自分の心のことなのに、見つめるのがすごく恐ろしい。

 でも、もう逃げられない。

 私は、紺野ちゃんのことを――本当は。

「言いたいことは、それだけ。じゃんけん、始めよう」

 撫子ちゃんが、一歩前へ進み出る。「ひっ」と叫んで後ずさった氷花ちゃんは、負けん気を振り絞ったような尖った声で、八回戦の勝負に挑んだ。

「じゃん、けん、ぽん!」

 同時に突き出された、二人の手が――この〝遊び〟の行方を、一瞬で決めた。

 どよめきが、白い鉢巻グループのあちこちから漏れた。

 ああ、と私も息を吐く。諦め、感嘆、どちらの想いの溜息なのか、自分でもよく分からない。時間の流れがものすごく緩やかになって、皆の動きがスローモーションみたいに見える。

 篠田さんが、感極まった様子で坂上君に抱きついた。和音ちゃんがうんざり顔で、篠田さんの脇腹を肘で突いた。毬ちゃんも泣き笑いの顔で拳を握り、陽一郎が「やったぁ!」と叫んだ瞬間、水の中に沈んだみたいな世界の時間が、魔法が解けたみたいに元に戻った。三浦君の身体が、動き出す。風が、ふわっと私の髪を揺らしていった。

 ――ああ、行っちゃうんだね。三浦君。

 そうだよね、行っちゃうよね。奇跡みたいな必然で、離れ離れになった二人は、また一緒になれるのだ。いいな。すごく羨ましい。氷花ちゃんが地団太を踏んで悔しがっているすぐ脇を、三浦君の大柄な身体が通り過ぎる。そこからは気持ちが抑えきれなかったのか、三浦君は撫子ちゃんの元へ一足飛びに駆けていった。

「柊吾!」

 撫子ちゃんが、三浦君を呼んだ。呼び声が空へ木霊して、小山の隅々にまで響き渡り、小さな手が三浦君へ伸ばされる。とびきり綺麗な笑顔だった。

「雨宮!」

 三浦君も、撫子ちゃんを呼んだ。伸ばされた手を力強く繋いでから、二人は夕日に向かって走っていき、鳥居の手前で足を止めて、私達を振り返る。

 ――〝はないちもんめ〟の一人ぼっちが、二人になった。

 泣き疲れて茫然としながら、私は今、ちょっとだけ悔しかった。

 ――赤色を、初めて綺麗だと思ってしまったからだ。

 視界は涙で滲むばかりだけれど、それでも夕日は綺麗だった。私の身体に鎖みたいに巻き付いた血の匂いのする拘りが、二人を照らす茜の斜光で浄化されていくみたいだった。神様に願いなんて掛けなくても、私はこの夕景色をきっと覚えていられるだろう。

「――『山椒大夫』。人買いに攫われた少年が、姉という犠牲を払いながらも、母親と再会を果たす物語。今回の事件で取り上げた本に鴎外を選んだ僕の勘は、やはり正しかったようですね」

「イズミ君、出来過ぎですよ。君は私を煙に巻いていましたが、本当は此の展開を判った上で選書をしていたのでしょう? 但し、其の正しさとやらに関しては反論の余地がありますね。撫子さんは少女ですから、母親役は頂けませんよ」

「前者については、神のみぞ知るという事で追及をご容赦下さい。そして後者については、仰る通りですね。克仁さん」

 悪戯っぽく笑う神主さんと、藤崎さんの話し声が聞こえてくる。不思議な話に私が耳を傾けようとしていると、氷花ちゃんがのしのしと大股歩きで戻ってきて、憤慨の叫びを上げ始めた。

「許せないわ……こんな屈辱、許せないわ! 見てなさいよ、絶対に引き裂いてやるんだから!」

「呉野さんにできるの?」

 篠田さんが、氷花ちゃんの覚悟を試すみたいな口調で訊いた。また喧嘩が始まったけれど、それを止める坂上君も陽一郎も、それに喧嘩を仕掛けた篠田さんも、その様子を慌てた様子で見る毬ちゃんも、全員を穏やかに眺める和音ちゃんも、みんな楽しそうに笑っていた。

 私は、やっぱりどんな顔をすればいいのか分からない。けれどさっき感じた輝きを、もう気の所為だなんて思えない。

 紺野ちゃん、どうしよう? 私は紺野ちゃんと二人で地獄に行くことしか、今まで考えこなかった。これから先のことなんて、何にも考えられないよ。紺野ちゃん、教えてよ、教えてよ、馬鹿な私に教えてよ――。

 呼びかけに、答えが返ってこないまま――撫子ちゃんが逆転勝利した〝はないちもんめ〟は、坂道を転がるように加速して、私を攫って進んでいった。

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