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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 120

「――勝ーって、嬉しい、はないちもんめ!」

 初めて唱えた少女たちの遊びの呪文が、境内と夕空へ木霊した。

 男子の掛け声が混ざった所為で、その響きは野太かった。それが可笑しかったのか、柊吾の視界の端で七瀬が笑い出した。四人揃って歩を進めて足を力強く蹴り上げると、四人の影も眼前の石畳で地を蹴った。

「――負けーて、悔しい、はないちもんめ!」

 相手陣営が張った声は、柊吾達より澄んでいた。向こうには男子が陽一郎しかいないからだ。その陽一郎の声も男子にしては高いので、少女の声に馴染んでいる。眩しく笑う陽一郎へ、柊吾も自然と笑い返した。

「あの子が、欲しい!」

「あの子じゃ、分からん!」

「相談、しましょ!」

「そう、しましょ!」

 五人が叫び終わると同時に、氷花が舌を突き出して挑発してきた。七瀬も「いーっ」と顔を顰めていて、二つのグループは赤く熟した夕陽の斜光を浴びながら、円陣を組んで顔を合わせた。

「どうする?」

 柊吾が訊くと、七瀬が「毬でいこう」と真面目な顔で耳打ちした。

「日比谷くんは、風見さんと長く一緒にいた方がいいと思うんだよね。ぎりぎりまであっちのグループでがんばってもらおう」

「それなら先に『もらう』メンバーは、佐々木さんの方がいいんじゃないか?」

 拓海も素早く、真剣な面持ちで提案してきた。

「佐々木さんと綱田さんなら、何となく綱田さんの方が、日比谷と同じ役割を担える気がする。どう?」

「確かに」

 柊吾も、短く同調した。それに和音は、三月三日の夜に美也子と喧嘩している。あの件について、二人で話し合えてもいないはずだ。

 そんな不安を打ち消すように、「大丈夫だよ、二人とも」と、撫子が落ち着いた声で発言した。

「毬ちゃんでいこう。陽一郎だけじゃなくて、和音ちゃんも美也子の傍にいた方がいいって思うから」

「うん、右に同じ!」

 巻髪を揺らせた七瀬が、とびきりの笑顔で賛成した。

「毬は和音ちゃんよりも、風見さんと過ごした時間が長いもんね。だから、和音ちゃんにも作ってあげよう? 風見さんと、過ごす時間」

「――分かった」

 七瀬と撫子を、信じる。柊吾と拓海は手を取り合い、快活に笑った七瀬もそれに続き、赤い鉢巻を巻いた撫子をメンバーの中心に据えて〝はないちもんめ〟の陣形を再び取った柊吾達は、神社の拝殿めがけて宣言した。

「――決ーまった!」

 すると氷花達からも、「決ーまった!」と声が上がった。

 向き合った両陣営の間を抜ける風は、さっきよりも冷たかった。なのに、寒さは全然感じない。刻一刻と日没が迫る袴塚市の、灰色の街より天に少しだけ近い神域で、七瀬が「じゃあ、行くよ! せーのっ」と音頭を取って、柊吾達は〝言挙げ〟した。

 ところが、予想もしないことが起きた。

「綱田が、欲しい!」

「まーりが、欲しい!」

 呼び掛けが、男子と女子でばらけたのだ。柊吾は「あ、やべ」と口走り、拓海は「えっと」と口籠り、即座に睨んできた七瀬から「照れない! ちゃんと名前で! やり直し!」ときつい駄目だしを食らってしまった。

「あらあら、息が揃ってなくて全然駄目ね?」

 氷花が小馬鹿にしたように笑ってきたので、ぐっと柊吾は息を詰まらせる。

 敵陣の配置は、柊吾から見て右側から――氷花、陽一郎、美也子、毬、和音の順だ。氷花が美也子と手を繋ぐのを拒否した為、そして陽一郎が率先して美也子と手を繋いだ為、こういう配置になっている。

「最初の一回失敗しちゃったくらいで、いい気になんてならないでよね!」

 七瀬はへこたれずに反論し、氷花に笑みさえ向けて対抗した。溌剌と輝く表情のまま「行くよっ、皆! もう一回!」と叫んだので、柊吾も「おう!」と応えて叫び返した。七瀬の言葉ではないが、照れている場合ではないのだ。

「まーりが、欲しい!」

 今度はばっちり決まった。呼ばれた毬が、あわあわと照れている。だがそんな反応にこちらも照れてしまったのは一瞬で、次の瞬間には相手側からも、メンバーの要求が叫ばれた。


「――拓海が、欲しい!」


 唱和がエコーを伴って虚空に響き、拓海が、不意を衝かれた顔をした。だが柊吾も七瀬も撫子も、それぞれが納得の顔を見合わせた。

「予想通りだよね。まずは坂上くんかなって思ってた」

「うん。私も」

「な、なんで?」

「なんでって、そりゃあ、お前……」

 柊吾が理由を言おうとすると、氷花が高笑いで遮った。

「消去法よ、消去法! 三浦柊吾! 篠田七瀬! あんた達なんて要らないもの! 私は頭の中が蛍光ピンクな男子と手なんか繋ぎたくないし、学校を丸焼きにしかけた放火犯なんて論外よ! まずは一番無害なあんたに来てもらうわ! 坂上拓海!」

「ヒデェ消去法だな、おい。誰が蛍光ピンクだ」

「何あれむかつく。三浦くん、絶対に勝とうね」

 七瀬が、闘志を燃やしている。ぽつりと撫子が、口を挟んだ。

「じゃんけん、誰がいく?」

「ああ、そうだな。――まずは俺がいく。そっちは誰だ?」

 柊吾はそう請け負って、一歩前に進み出た。

 新しく決めた『ルール』によって『リーダー』の存在は定義したが、かといって『リーダー』が毎回じゃんけんに駆り出されなくてもいい。勝ち負けの責任が一人に集中するのを避ける為に、柊吾達はそう決めている。

「私が行くわ。お飾りでインスタントな『仲間』なんかにこんな役割を任せたら、八百長(やおちょう)されそうで怖いもの。ねえ?」

 厭味たっぷりにそう言って、進み出てきたのは氷花だ。

 和音が、うんざりした様子で氷花の後姿を見つめている。その不機嫌を毬が小声で宥めていたが、その毬の身の置き所が、この勝負に懸かっているのだ。

「大丈夫。勝てるよ」

 撫子が、澄んだ声を風に乗せた。

 それだけで本当に、力が滾々と湧いてくる。柊吾は意気揚々と、氷花は威風堂々と、それぞれ石畳を歩き、両者の間が二メートル程になったところで、立ち止まる。一陣の風が吹いた時、互いにタイミングを計ったように手を出した。

「じゃんけん、ぽん!」

 ――勝敗は、一発で決した。

「やったぁ!」

 振り返れば、歓声を上げた七瀬が撫子とハイタッチを交わしていた。柊吾が横目に見た先では、氷花が柳眉を険しく寄せて、形のいい唇を噛んでいる。

「……運が良かったわね? 次は同じようにはいかないんだから」

「ほざけ。綱田は俺らが『もらう』」

 柊吾が吐き捨てるように宣言すると、敵陣で毬がはにかんだ。薄手の上着を羽織ったその背中を、和音が柔和な表情でぽんと叩く。毬が家族に送り出される子供のように走り出すと、陽一郎が元気よく手を振った。

 美也子は――複雑な表情で、毬の背中を見つめていた。

 戸惑いが、感情の多くを占めた瞳だった。泡のように浮かぶ多様な感情の触れ方を知らない、生まれたての赤子のような無垢さで、美也子は泣き出しそうな顔をしている。

 だが、美也子は自らの意思で、この〝遊び〟を求めたのだ。まるで夜明けの空に広がる(あんず)色の朝焼けを瞳に焼き付けた瞬間のような、克明な高揚が星のように瞬いている。

 そんな輝きを、状況に流されただけの人間が、宿せるわけがないのだ。

「……まだ、これからだ。風見」

 柊吾は呟き、前を向いた。

 伝えたい言葉が、あるのだ。美也子という、一人の少女に。

 一人では決して伝えきれない、数えきれないほどの思いが。



     *



 手の震えが、止まらなかった。

 私の右手は毬ちゃんに、左手は陽一郎に繋がれている。氷花ちゃんが、私を嫌そうに避けたからだ。和音ちゃんは、私のことをどう思っているか分からない。それが怖くて、他にもいろんなことがすごく怖くて、私は震え続けていた。

 心が、暴れ出して止まらないのだ。それも怖くて仕方ないのだ。私の両側にいる優しい男の子と女の子の手を、振り切って逃げてしまいたいくらいに。

 でも、どこに逃げられるだろう?

 帰る家なんて、どこにもない。頼れる人なんて、誰もいない。私はとっても馬鹿だけれど、どんなに馬鹿でも女の子だから、寂しいことは分かるのだ。

 私は、お父さんに愛されているわけじゃない。お父さんは、私の面倒を見ることで、私を愛しているのだと、世間に言い訳したいだけ。

 そんなこと、ずっと前から分かっていた。信じたくなかっただけなのだ。辛くて汚い現実を、綺麗でふわふわした綿菓子みたいに甘い夢で、隠したかっただけなのだ。

 ――隠せるわけが、なかったのに。

 私は、『ばい菌』。人間の姿を演じ続けた、道化みたいな人でなし。人に身体を触られれば、みんな苦しみ抜いて死んでいく。だから学校のみんなから嫌われる、不潔で、穢れた、嫌な存在。

 人間でさえない私に、居場所なんてあるわけないのだ。『ばい菌』が生きていける場所なんて、地獄くらいしかないのだ。

 だから私は、そこを目指した。

 そこでしか生きていけないから――紺野ちゃんと、地獄を目指した。

 でも、私はまだここにいる。

 紺野ちゃんと、地獄へ行けずに――この場所にまだ、居続けている。

 夕陽を背にした撫子ちゃん達四人の子供が、手を繋ぎ合って前へ進み、一斉に足を蹴り上げている。

 ――〝はないちもんめ〟。

 思えば小学五年の時も、私は撫子ちゃんとは〝はないちもんめ〟で、違うグループに分かれていた。私達はこういう風に、戦い合う運命なのだろうか。

 でも、これは、戦いじゃない。

 ――〝遊び〟なんだ、と皆がずっと叫んでいた。

 私の手の震えは、まだ止まらない。頭の中に、また白い霧が湧き出してきた。私の記憶を食べてしまう、微睡(まどろ)みみたいに優しくて、友情みたいに儚くて、恋みたいに残酷な霧だ。私は、手を、ぎゅっと握った。爪が手の平に食い込む痛みで、白い霧を追い払う。

 ――今は、まだ、忘れたくない。

 だって、始まったばかりなのだ。

 私がずっと、恋い焦がれてやまなかった――友達と友達の絆を繋ぐ、世界で一番綺麗な、遊びが。

「ちょっと、みいちゃん聞いてる?」

 棘のある声が、私の鼓膜に突き刺さった。いつの間にか私達は手を繋ぐのをやめていて、円の形に集まっている。私がぼうっとしている間に、〝遊び〟が少し進んだようだ。

「どうせ私達の話なんか、何にも聞いてなかったんでしょ? ま、別にいいけどね。これから私達が『奪う』のは、坂上拓海で行くからね」

 氷花ちゃんは言いたいことだけ言い切ると、じゃんけんをする為にぱっと背中を向けて歩いていった。そして、あっさりと負けて戻ってきた。拍子抜けするくらいに、あっさりとだ。私はちょっとだけ笑いかけて、それからちょっとだけ驚いた。

 ――お母さんが死んでも、紺野ちゃんに会えなくても……私は、笑うことができるのだ。

 けれど、こんなことを暢気に考えていた私は、本当に救いようのない大馬鹿だ。氷花ちゃんが負けてしまった重要性を、何も分かっていないのだから。

「じゃあね、ミヤちゃん」

 はっとした時にはもう、私の隣で女の子が動いていた。

 ――毬ちゃんだ。

 夕陽の輝きに包まれながら、毬ちゃんは淡く笑っている。ゆったりとした上着の裾を翻して、ショートボブの髪を揺らして、赤い海原の中に建つ灯台のような丹色の鳥居の方に向かって、小柄な身体がゆっくり、ゆっくり、走っていく。

「あっ……」

 追い縋るように私は右手を伸ばしたけれど、引き留められるわけがない。これはそういう『ルール』なのだ。〝はないちもんめ〟で『もらわれて』いく毬ちゃんの夕日に照らされた横顔は、今までで一番美人に見えた。毬ちゃんの左頬の泣き黒子が目に焼き付いた私は、漠然と予感した。

 内気で恥ずかしがり屋の毬ちゃんは、高校できっと綺麗になる。私の蔑みなんて吹き飛ばしてしまうくらいに、今よりとびきり綺麗になる。鳥居の下では逆光で黒い立ち姿の子供達が、大きく手を振って毬ちゃんを迎えていた。その光景を眩しく感じてしまったのは、夕陽の所為だけじゃない。私は置いてけぼりにされた気分になって、乾いた唇を噛みしめた。

 ――あの手は、私を呼んでくれているわけではないのだ。

「みいちゃん、大丈夫だよ」

 宙に浮いたままだった私の手を、陽一郎が握ってくれた。

「……どうして、大丈夫なんて思うの?」

「だって、まだ一回戦だよ? 二回戦、がんばろうよ!」

 人懐こい子犬みたいな顔で、陽一郎は私と握った手を揺らしてくる。今度こそ私は、少しだけ笑ってしまった。

「がんばろうって……じゃんけんを?」

 陽一郎は、相変わらずだ。学校の皆とはテンポが微妙にずれていて、でもマイペースで、優しいんだ。

 そんな陽一郎だから――紺野ちゃんも、心を許していたのかな。

 血液みたいに赤い夕陽の光が、俯いた私の足元を染めている。石畳のスクリーンには私の影が映っていて、その隣には、陽一郎の影法師。

 けれど、私は孤独だった。陽一郎は人間だけど、私は違う。人間じゃない。

 そんな、一人ぼっちの影法師へ――手を繋いできた影法師が現れて、私はびっくりして顔を上げた。陽一郎ではない、別の子だ。

「しっかりして。次が始まるから」

 ぶっきらぼうに私の目を見て言ったのは、黒いニット帽の女の子だ。長い黒髪の毛先は背中の真ん中で揺れている。きっと頭の怪我の所為で、髪をポニーテールに結えないのだ。私は困ってしまい、口ごもった。

 どういう顔で、この女の子と向き合えばいいのか、分からない。

「和音ちゃん……」

「負けたいの?」

「そ、そんなこと……」

「じゃあ、ちゃんと参加して。『リーダー』は美也子なんだから」

 そう言って和音ちゃんが毅然と前を向いた時、〝はないちもんめ〟二回戦の掛け声が、高らかに境内へ響き渡った。

「勝ーって、嬉しい、はないちもんめ!」

「負けーて、悔しい、はないちもんめ!」

「あの子が、欲しい!」

「あの子じゃ、分からん!」

「相談、しましょ!」

「そう、しましょ!」

 私も、慌てて声を合わせた。とにかく、目の前のことに必死になって、目が回りそうになる。騙し討ちで遊園地に連れてこられて、乗るつもりのなかったアトラクションに乗せられているみたいだった。私は、今、楽しんでる? ずっとやりたかった〝遊び〟ができて、ちゃんと満足できている? 分からない。分からない。分からない。あっという間に皆で繋ぎ合った手は解かれ、私達は再び円陣を組んでいた。狡い、と私は泣きたくなった。こんな風に振り回されて、ちゃんと考えられるわけがない。

「二人目に『もらう』メンバーは、決まってるな? よし、行くぞ!」

 私の大嫌いな三浦君の声が、すとんと真っ直ぐここまで届く。五人は息を合わせたみたいに頷き合うと、私から見て右側から、篠田さん、坂上君、撫子ちゃん、三浦君、そして毬ちゃんの順番で、横一列に並んでいく。毬ちゃんを入れて五人になったメンバーの顔は、皆きらきらと輝いていた。

「美也子。こっちも決まったから。手、繫いで」

 和音ちゃんが、私の手を引いてきた。

 きっと和音ちゃんは、私が〝遊び〟に集中できるように、的確にリードしてくれている。その優しさをちゃんと感じ取れるのに、私の手の震えはまだ止まらない。心も、揺れ続けたままだった。そんな私の心へ冷や水を浴びせかけるように、〝遊び〟の呼び声が響き渡った。


「――和音が、欲しい!」


 心臓が、文字通り跳ねてしまった。

 二人目は、和音ちゃん。毬ちゃんの次は、和音ちゃん。

「――拓海が、欲しい!」

 心に罅が入った私を置き去りにして、氷花ちゃんも陽一郎も、名前を呼ばれた和音ちゃんさえも、相手への要求を叫んでいる。私には、それが信じられなかった。何故だか分からないけれど、全然分からないけれど、それどころじゃない、と叫びたくなっていた。

「えぇっ、またっ?」

 坂上君は、仰天の顔で目を白黒させている。三浦君もずっこけそうになりながら、「おい、お前らどんだけ坂上のこと好きなんだ!」なんて大きな声で叫んでいた。氷花ちゃんも綺麗な顔を、汚く歪めて喚いている。

「馬鹿言わないで頂戴! 狙った獲物を逃がしたくないだけなんだから! それにあんた達があまりにケダモノ揃いだから、他に選択肢がないだけよ! 覚悟することね坂上拓海! あんたを『奪う』まで狙い続けてやるわ!」

「ストーカーか! (こえ)ぇ!」

「そういう嫌がらせやめてくれる!? 呉野さんみたいな変態には、坂上くんは渡さないんだから!」

「誰が変態よ! 変態は兄さん一人で十分よ!」

「えっと、なんで俺こんな立場になってんの?」

 坂上君は何だか微妙に困ったみたいな表情で、隣で怒っている篠田さんを見下ろしている。私の胸が、つきんと痛んだ。

 ――いいな、と思ったのだ。

 あの男の子はこんなにも、皆から好かれている。欲しがられて、守られて、グループの大事な一人として扱われている。もう一回俯きかけた私の視界に、後頭部で括った白い鉢巻の端っこが、旗みたいに翻った。

 ――『リーダー』で、良かった。

 私が『リーダー』なんかじゃなくて、ただの風見美也子だったら――こんな風に、私を欲しがってくれる子なんか、絶対、一人もいなかった。

「美也子。ちゃんと見て」

 和音ちゃんが、静かに言った。

 シビアな響きの声だった。辛くて嫌な勉強を強いてくる、学校の先生みたいな声だった。私は目をぎゅっと閉じて、網膜に射す茜の光を遮断した。

「見るの。美也子。この〝遊び〟は、あなたがしたかった遊びでしょ?」

「……生きてる意味なんて、ない」

 私は、涙声で呟いた。

 これでは、支離滅裂だ。全然、会話になっていない。いくら馬鹿な私でも、それくらいのことは分かる。でも、寂しくて堪らないのだ。〝遊び〟を楽しみたい気持ちが本物でも、寂しさだって本物なのだ。

 けれど、傷心の私に返ってきたのは、あまりにドライな台詞だった。

「そんなもの、私だって知らない。それでも生きてるんだから仕方ないでしょ」

 衝撃で茫然とした私の頭に、かっと次第に、血が上った。

「そんなの……ひどいよ」

 涙の張った目を開いて、私は和音ちゃんを睨み付ける。

 和音ちゃんは、やっぱり冷たい。この女の子は三月三日のあの夜から、何にも変わっていないのだ。萎んだ風船みたいにくたびれた殺意がむくむくと膨らんでいったけれど、「ねえ」と続いた和音ちゃんの一言が、その衝動を削いでしまった。

「生きることに、どうして意味が必要なの?」

「え? どうして、って……」

「生きる意味なんて見つけられなくても、私も美也子も、生きてる。それじゃ駄目な理由は、何?」

「それ、は……」

 ――生きる意味が見つけられなくても、生きている。

 そんな風に考えたことなんて、今までになかった。

 どうして、私は、生きることに――理由を、求めるようになったのだろう?

 分からない。ううん、知ってるはずだ。私がどうしてこんなにも、生きる理由を求めたのか。それがないと死ぬしかないって、地獄にいくしかないって、思ったきっかけがあるはずだ。

 私の胸に、熱くて鋭利な痛みが走った。心から、血が溢れ出す。鉄臭いその匂いに嗅覚を侵されそうになった時、私は自然と、悟っていた。

「それは、和音ちゃん……私が、人間じゃないからだよ」

 頬を、熱い涙がぼろぼろと伝った。

 生まれついて『人間』の和音ちゃんには、絶対にこの痛みは分からない。

「『ばい菌』は……理由がないと、生きてけないんだもん。――理由がないと! みんなに嫌がられるんだもん! いるだけで迷惑って、言われるんだもん!」

「『ばい菌』なんて、知らない」

「……え?」

「少なくとも、私はあんたのことを『ばい菌』なんて呼んだことないし、ここにいる子達だって、全員そうでしょ。違う?」

「……」

 違わない。その通りだ。けれど私の心は、胸の痛みは、そんな事実を告げられた程度で癒えるほどに、簡単な構造をしていない。私は泣き笑いなのか睨んでいるのか自分でも分からない顔で、和音ちゃんに抗議した。

「和音ちゃんは……やっぱり、冷たいよ……私がほしい言葉、ぜんぜん、分かってない……」

 和音ちゃんは、返事をしなかった。もしかしたら、何かを言おうとしていたのかもしれない。私を横目に見た顔には表情があんまりなかったけれど、きっと怒っているわけじゃなくて、だけど笑っているわけでもない。でも、めちゃくちゃな我儘を言った私に、呆れているわけでもないのだ。友達だった女の子なのに心が何にも分からなくて、どきっとするほど大人びて見えた。ああ、と私は項垂れながら、自分の間違いに一つ気づいた。

 この子はもう、三月三日の夜の和音ちゃんとは違うのだ。

 その変化の理由を知りたくて、でもそれ以上にもっと和音ちゃんから色んな言葉を引き出したくて、私が口を開いた時だった。

「じゃんけん、ぽん!」

 気付いたら氷花ちゃんと三浦君が、二回目のじゃんけんをしていた。

 私は、急に怖くなった。和音ちゃんが、『もらわれて』しまう。もう一度目をぎゅっと瞑ると、和音ちゃんが私と握り合った手を引いた。そして、幼い時に歯医者さんで号泣していた私を宥めるお母さんみたいな声で、言ったのだ。

「勝ったよ。美也子」

「……え?」

「向こうの負け。私達はまた、五人になる」

 目を開けた私は、坂上君がうっすらと寂しげに笑いながら、こちらへ歩いてくるのを見た。氷花ちゃんは勝ち誇ったような表情で、胸を反らしてガッツポーズを決めている。こういう剽軽(ひょうきん)なことをするから、美少女が台無しなんじゃないかなあ。私はすっかり気抜けしてしまって、その場に蹲りたくなった。


 ――和音ちゃんは、『もらわれないで』済んだのだ。


 どうして、安堵しているのだろう。私は和音ちゃんのことなんて、大嫌いなはずなのに。あの夜の公園で、死んじゃえって言ったくらいなのに。和音ちゃんの凛とした横顔を見つめながら茫然とする私の耳に、三浦君が苦々しさの滲んだ渋い声で、仲間に呼びかけているのが聞こえた。

「悪りぃ。坂上がやられた」

「大丈夫。やられてないよ、柊吾」

 視界の隅っこで撫子ちゃんが、三浦君の右手を握った。空いた左手の方は篠田さんが握りながら、「どんまい!」と明るく笑い飛ばしていた。

「『奪われた』なら、『奪い返せ』ばいいだけでしょ? 三回戦、行くよ!」

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