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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第3章 鏡よ鏡
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鏡よ鏡 5

「篠田の事を、教えてほしいんだけど」

 三浦柊吾からそう訊ねられた時、坂上拓海の脳裏をめぐった顔はたくさんあった。

 笑っている顔。

 怒っている顔。

 退屈そうな顔。

 篠田七瀬。拓海の新しいクラスメイト。万華鏡のようにくるくる変わる表情は、席が隣なので知っていた。

 だが、拓海は答えられなかった。保健室の扉から少し離れた場所で、こちらの返答を待っている柊吾に対し、何と答えたらいいのか本気で分からなかった。

 拓海は、七瀬という人間を知らな過ぎる。七瀬が違う感情を見せる度、違う人間が隣に立ったように思う。鏡の迷宮に映り込んだ鏡像の七瀬一人一人に、別々の個性を見ているようだった。眺める角度が異なるだけで、違う七瀬がそこにいる。それが、坂上拓海にとっての篠田七瀬だった。

「篠田さんとは、今まで話したことがなかったんだ。だから、ごめん。俺はあんまり、分かんないんだけど……でも」

 今の拓海でも、確かに判ることは一つだけだ。

「多分……無理してると思うんだ」


     *


 中学三年生に進級した時には既に、拓海は七瀬の事を知っていた。

 今まで同じクラスにはならなかったが、七瀬の親友と思しき一之瀬葉月とは、一年生の時にクラスが同じだった。だから、二年生に上がったばかりの頃、拓海は廊下で葉月とすれ違った時、実はかなり驚いていた。

 ……結構、派手な子と一緒にいる。

 内向的な一之瀬葉月に対して、誰とでも物怖じせずに話せる篠田七瀬は真逆のタイプだろう。明るい笑みには屈託がなく、いつも生き生きとして見える。友達と過ごす時間が、本気で楽しくて堪らない。それが伝わってくる笑みだった。

 だから、印象に残っていた。

 だから、三年生の新しいクラスで、隣の席という縁に驚いた。

 だから――そこで初めて、七瀬が笑顔以外の顔も見せる事を知って、驚いた。

 本音を言えば、拓海は七瀬が苦手だった。しかしそれは七瀬が嫌いだという意味ではなく、拓海の一方的な引け目にるものだ。

 拓海は、七瀬に限らず――女子生徒全般が、苦手なのだった。

 そのトラウマが植え付けられたのは、小学三年生の昼休みだった。教室で騒ぎ声が聞こえたので振り向くと、クラスのリーダー格の女子生徒とその取り巻きが、一人の男子生徒と口論になっていた。拓海を始めとするクラスメイト達がその喧嘩に気づいた時、既に場の雰囲気は最悪に近いほど悪かった。

 女子生徒と男子生徒は、皆がはらはらと見守る中で、両手を組み合わせていがみ合った。まるで相撲のような格好だったが、律義に手だけで戦っていたのは、可哀想なことに男子生徒だけだった。

 女子生徒は、突然足を思い切り振り上げ、スカートがめくれるのもお構いなしに、男子生徒の股間を蹴っ飛ばしたのだ。

 間違いなく本気の蹴りだった。クラスの半分が凍りつき、残りの半分は爆笑した。もちろん拓海は前者だった。そして、倒れた男子生徒が悶絶する様をぎゃはははと笑い飛ばす、リーダー格の女子生徒――野島亜美のじまあみという名前だった気がする――が、のしのしとどこかに歩き去ってしまうまで、身動き一つ取れなかった。

 あまりにも情けないトラウマだと自分でも思うが、この日を境に拓海は女子生徒を少しだけ避けるようになった。そんな姿を周囲から挙動不審と指摘された以外には、拓海の日常は平凡に過ぎていった。学校では仲の良い友人と過ごし、家に帰ればゲームをする。最近では読書や音楽にも興味の幅が広がっていたが、今でも友人とは専らゲームで遊んでいた。受験生なのでプレイ時間は減らしているが、勉強は苦にならないので、さしたる悩みも抱えていない。充足していたと拓海は思う。少なくとも、不足感はなかった。

 ただ、一度だけ。平凡で充足した日常を、覆すような事件が起きた。

 去年、クラスメイトの女子生徒に告白されたのだ。

 女子生徒を怖がる自分のどこに、好かれる要素があるのだろう。付き合ってほしいと言われた拓海は恐縮して断ったが、その女子生徒には泣かれてしまった。

 泣かれるほどに、好かれていた。それを初めて知った時、殴られたようなショックと共に、拓海は目が覚めた気分になった。

 簡単に、傷ついてしまう。女子生徒だって、拓海と同じ人間だ。ゲームだってするだろうし、その勝ち負けや展開に一喜一憂するだろう。目に見えている顔だけが、心の全てではないのだ。

 だから、拓海は七瀬の事が気になったのかもしれない。つい、目で追ってしまうのだ。当の七瀬は拓海に見られているとは露ほども思っていないだろうが、拓海は七瀬の事が気がかりだった。

 どうして七瀬は、一之瀬葉月との交友を薄くするのだろう。二人が互いを気にし合っているのは、拓海の目には明らかなのだ。それなのに二人が避け合っているように見えるのは、主に七瀬の方から葉月を避けている所為だと、拓海はそれとなく七瀬を目で追ううちに気づいていた。

 だから、目で追うことを、余計に止められなくなった。

 七瀬の事は、多分まだ苦手なのだと拓海は思う。

 だが、寂しかった。七瀬が、笑わないことが。楽しそうに笑う七瀬に気後れを感じたはずなのに、笑わない七瀬が隣に座っていると、胸に冷たく空虚な穴が、ぽっかりと空いた気分になる。

 笑っている方がいいのに、と。

 拓海は、素朴にそう思ったのだ。


 *


 保健室に再び入った七瀬は、なかなか出て来なかった。

 きっと室内では怪我の治療と同時に、教師からの質問攻めに遭っているのだろう。真向いの職員室にも教師が慌ただしく出入りしているので、おそらくは呉野氷花の捜索も始まったのだ。

 大ごとになってしまったと思う。しかも、その珍事にはどうやら自分も巻き込まれている。保健室前の壁にもたれた拓海は、隣に立つ柊吾を見た。

「……あのさ。質問、いいか?」

 柊吾は表情を動かさないまま、ふいとこちらを振り返った。独特の風格のある少年だ。大柄な体躯がそう見せるのかもしれない。少し気圧されたが、拓海は訊いた。

「三浦は……っていうか、袴塚西中の生徒がなんで、俺らの学校にいるんだ?」

「東袴塚の野球部と、近いうちに交歓会をやるから、その打ち合わせで先生と来た。もう一人、女子が一緒だ」

「……そっか」

 帰宅部の拓海にはあまりぴんと来なかったが、東袴塚学園の高等部は、野球の強豪校として有名だ。他校とのパイプもあるのだろう。曖昧に納得した拓海を柊吾は横目に見ていたが、やがてぽつりと、こう言った。

「坂上。篠田の事、分かんないってさっき言ったけど。お前ら、友達でもないのか?」

 ずきんと、言葉が胸に突き刺さった。拓海は、その痛みに驚く。とても寂しいことを言い当てられた。そんな気がしたのだ。

 だが、傷つくのも妙な話だ。実際に、その通りなのだから。弁解の言葉など、何もなかった。

「……席が隣ってだけ。後は今日、二人で日直やってる。今までクラスが一緒になった事もなかったから、多分、今朝初めて会話したと思う」

「じゃあ、なんであいつが無理してるって思うんだ」

 壁から背を離した柊吾の目は、やはり真剣なものだった。初めて会った時からずっと、この少年は緊張感を漲らせている。拓海は戸惑ったが、柊吾の警戒の理由だけなら、この目で見たから分かっていた。

 ――呉野氷花が、七瀬に危害を加えかけたからだ。

 風変わりなその名前を、拓海は今まで知らなかった。東袴塚学園は一学年につきクラスが十もあり、関わりが一切ない生徒など、数え始めればきりがない。

 氷花はあの時、へたり込む七瀬に鏡の欠片を突き付けていた。二人の間に何があったのかは不明だが、氷花は七瀬に明らかな害意を向けていた。

 だが、その件についてどうして他校生の柊吾が躍起になるのだろう。こうして保健室前で静かに待つ間に、拓海の心からは先程感じた切迫感が、徐々に薄れつつあった。柊吾の危機感を上手く共有できない自分がひどく冷たい人間に思え、自己嫌悪で胸が悪くなる。そんな拓海が七瀬のプライバシーを勝手に話してしまうのは、何だか狡い行いに思えた。

 拓海が黙り込んでも、柊吾は落胆を見せなかった。ただ、「イズミさんがいたら、説明が楽なんだけどな」とやりにくそうに呟いて、髪に手をやっている。

「いきなり他校の奴に色々言われて、混乱するのも無理ないし、人のこと勝手にべらべら喋るのって、言う方も言われる方もヤだと思う。……でもあいつ、呉野に目ぇつけられてる。周りの奴が気をつけてくれないと、困るんだ」

「どうして、三浦が困るんだ」

 拓海が思わず訊くと、「当たり前だろ」と柊吾は打てば響くように答えた。

「人が目の前で危ない目に遭ってるのに、本当に危ないってことをちゃんと分かってないんだ。だったら理解させるか、周りが守ってやるしかない」

「三浦は、どうしてそんなに必死になるんだ?」

「お前は篠田の事を、友達じゃないって言った。けど、無理してるって思うんだろ。俺よりも坂上の方が、篠田が心配なはずだ」

「心配……」

「心配なんだろ。それくらい認めろ。それに俺は、目の前で確実に起こる殺人は、絶対に潰す。篠田が壊れてからじゃ遅いんだ」

「殺人っ? 壊れる?」

 拓海がぎょっとすると、柊吾も我に返ったらしい。口の端を苦々しげに歪めた。

「呉野は絶対に、これくらいじゃ諦めねえと思う。あいつ、ターゲットは適当に選ぶくせに、めちゃくちゃ粘着質でしつこいからな」

「……」

 柊吾はきっと、氷花と過去に〝何か〟あったのだ。二人を繋ぐ糸は、どこから伸びてきたのだろう。その糸に七瀬が絡めとられようとしているなら、拓海が今すべきことは、糸を辿った先にあるものを知ることかもしれない。

 七瀬の、安全の為に。

 ――『ありがと。……多分、来てくれて、助かった』

 憔悴した声が、耳に蘇る。ほっとした様子で笑う顔は、傍目にも明らかなほど、血の気が失せて白かった。たった一人で怖い思いをしただろうに、心細さなんておくびにも出さないで、氷花と対峙した七瀬は強いだろう。そう拓海は思う。

 だが、本当に強いのだろうか。強いということは本当に、裏返しの弱さの否定になるのだろうか。かつて泣かせてしまった女子生徒を思い出す。強いと盲信していた人間の涙の記憶が、拓海に訴えかけている。

 現に、七瀬は、もう――以前のようには、笑っていない。

「……うん。三浦の言う通りだよ。俺、篠田さんが心配なんだと思う」

 自分が思っていたよりも、ずっと落ち着いた声が出た。壁にもたせかけていた背中をそっと離し、拓海は柊吾の強い眼差しと向き合った。

「三浦。話すよ。だから俺にも、呉野さんの事を教えてほしい」

 柊吾は少し驚いたようだったが、ふ、と微睡まどろむように笑った。体格の厳つさから伝わる印象よりも、ずっと純朴で優しい少年なのかもしれない。親しみやすさを覚えたが、今はそれより七瀬の事だ。拓海は表情を引き締めた。

「俺には、篠田さんの考えは分かんないけど、何となく最近は辛そうだなって思ってた。仲が良かった友達と、上手くいってないみたいなんだ」

「言い方悪いけど、それって孤立してるってことか?」

「いや、友達は多いし、クラスでも最近つるんでる子がいる。でも、多分そうしたいわけじゃないんだ。同じクラスに親友の女子がいるのに、どうしてか分かんないけど、そっちに行かないんだよな」

「……それ、もっと詳しく分からないか? ヤバい気がする」

「ヤバい? 何が?」

「『弱み』になりそうだなって。そう思った」

「弱み?」

「し。静かに」

 いつの間にか、声が大きくなっていたらしい。諫められた拓海が慌てて「ご、ごめん」と抑えた声で謝ると、柊吾は呆れ顔になった。

「そういや、今って授業中なんだろ。篠田は怪我だから仕方ないけど、お前はいいのか?」

「良くはないけど……あんなとこ見たら、帰れないって」

 せめて大事だいじないことを確認しなければ、授業に戻っても気が散るばかりだ。拓海の返事を聞いた柊吾は、何かを言いかけて、眉根を寄せた。

 まずいことでも言っただろうかと拓海は無意味に焦ったが、保健室から物音が聞こえたので、意味を察した。

 七瀬と教師が、戻ってくるのだ。ここでの会話は、一旦打ち止めらしい。二人は顔を見合わせて、早口でひそひそと喋った。

「篠田が帰ってきたら、お前ら二人とも授業に戻るんだな」

「ん、そうなると思う。そろそろ先生が黙ってないだろうし。三浦は?」

「もう用事は済んだから、残れる。授業が終わったら篠田と校門前に来てくれるか? 俺、携帯持ってないから。悪りぃけど、連絡は取れない」

「分かった。えっと、結局俺は、呉野さんに気をつけて……篠田さんと一緒にいればいいんだよな?」

「そうだな。あと、呉野が何か喋り出したら、篠田を連れて速攻で逃げろ。耳を貸すな。絶対だからな」

「? うん。分かった」

 何だか奇妙な気はしたが、強い調子に押し切られ、拓海は頷く。

「でも、三浦やけに心配してくれてるけど、今日はもう大丈夫じゃないか? 呉野さんはまだ見つかってないけど、先生が見つけてくれるって」

「……そう思いたいけどな」

 柊吾がうそぶいた時、保健室の扉がスライドした。

「あ。……待っててくれたんだ」

 現れた七瀬は、拓海達を見て目を丸くした。スカートの裾からは、包帯が僅かに覗いている。一日で右手と右太腿に包帯を巻く羽目になった七瀬の姿は痛々しく、改めて目の当たりにすると胸が痛んだ。柊吾も息を呑んでいたが、淡々とした口調で言った。

「鏡で切ったんだったな。傷、具合は?」

「浅いし、平気。縫うほどじゃないし、見た目が大げさなだけ。病院にも、行かないでいいみたい」

「……篠田。俺、さっきから訊きたかったんだけど」

 柊吾が保健室の扉を気にしながら、厳しい表情で、七瀬に訊ねた。

「あの時、何が起こってたんだ?」

 ――それは、拓海も気になっていた事だった。

 拓海が駆け付けた時、七瀬の足元は一面破片の海だった。飛散したそれらを拓海は硝子だと思ったほどだ。鈍色に輝く欠片一つ一つが自分達や天井を映す鏡だという事実など、七瀬の言葉を聞かなければ気づかなかっただろう。

「……ごめん。三浦くん。私にも分かんない」

 七瀬は困惑の表情で、真新しい包帯が巻き直された右手を見下ろした。

「授業中に、スカートのポケットに手を入れたら、指が切れちゃった。あの時は気づかなかったけど、そこに入れてた手鏡が割れてたの。だから保健室で先生に診てもらって、調理室に戻る途中で、呉野さんに会って……その時に、ばんっ、って。鏡が弾けたみたい」

「弾けた?」

「うん。だから、変な話だけど……二回、割れたことになるの。呉野さんに会った時と、それよりも前に」

 七瀬は思案気にスカートを摘まんだが、慌てた様子でエプロンを引っ張って、ポケットを隠した。拓海は不思議に思ったが、紺色のスカートが水を吸って黒ずんでいるのに気づき、何となく目を逸らした。

「足の怪我は、割れた鏡が刺さった時のものだから、呉野さんにやられたわけじゃないよ。でも呉野さん、わけ分かんないことをいっぱい言ってたんだよね。……何がしたかったんだろ、あの人」

 柊吾が、沈黙する。拓海はふと気になって、その隙に口を挟んでみた。

「なあ、鏡って、突然割れるもんなの?」

「分かんない。でも……鏡、取られちゃった」

 七瀬が、悔しそうに唇を噛んだ。

「呉野さん、割れた鏡なんて持っていってどうする気なの。自分でもゴミって言ってたのに」

「篠田の『弱み』として、使えそうだって思ったからだろ」

 柊吾が腕組をして吐き捨てたので、拓海と七瀬はきょとんとした。

「弱み?」

 さっきも一度耳にした言葉だ。訊き返したが、そこでタイムアップだった。保健室から教師が出てきて、「まだいたの?」と拓海たち三人を睨み――他校の生徒まで混じっている事に驚いたのか、口を開けて固まった。

「……じゃあ、後でな」

 教師を尻目に、すっと柊吾が歩き出す。だが、大股で歩き去ろうとする柊吾へ、七瀬が「あ」と叫んだ。

「三浦くん。怪我、してなかったの?」

「? 何の話だ?」

「だって、さっき絆創膏してたでしょ。いっぱい。かわいいやつ」

「……見てたのか」

 柊吾は短髪を手で掻き揚げると、困ったように目を逸らした。気の所為か、頬が赤い。拓海には何のことやら分からず、見る限り一枚の絆創膏も貼っていない柊吾の立ち姿を眺めた。

「今は要らないから、剥がしてるだけだ。……気にすんな。っていうか、忘れてくれ。頼む」

 七瀬は首を傾げたが、柊吾は廊下を進んで会議室の扉を開き、室内へ消えた。ぴしゃん、と扉が閉ざされる音が響き渡ると、教師が「ほら、早く授業に戻って」と目を吊り上げる。その権幕に拓海はたじろいだが、七瀬の方は退屈そうに聞き流していた。

 それでも七瀬は「ありがとうございました」と、拓海が意外に思うほど丁寧に頭を下げた。不意打ちで覗いた律義さに、拓海は驚く。爽やかな風が吹き抜けていったような余韻が、胸に残った。また一人、知らない七瀬を、拓海は知った。

 ――『お前ら、友達でもないのか?』

 柊吾の言葉を思い出して、やっぱり拓海は寂しくなる。

 ――拓海は、七瀬と友達になりたいのだろうか。

 異性相手にそんな風に思った事などなかったので、この心の動きは拓海にとって未知の領域だ。ふわふわと捉えどころのない感情を掴みあぐねていると、「行こっか。坂上くん」と振り返った七瀬に呼ばれたので、「あ、うん」と間の抜けた返事をした拓海は、七瀬と肩を並べてゆっくりと、調理室に向かって歩き出した。

「怪我、大丈夫?」

「うん」

「……」

「……待っててくれて、ありがと」

「……うん」

「……」

 二人の間に、会話はほとんどなかった。時折どちらかが声を掛けて、短い返事をする。沈黙を挟みながら、それを繰り返した。あと五分で六時間目が終わるから、歩調が遅いものになったのかもしれない。それに、調理室に着く前に話しておくべきこともある。拓海は腹を決めると、本題に入った。

「……三浦が、言ってたんだ。篠田さん、呉野さんに狙われてるみたいだ」

 廊下に響く足音が、一人分だけ、先に止まる。拓海も足を止めて振り返ると、無表情に近い顔つきの七瀬と目が合った。

「私も、そんな気がしてた」

 静謐な声音から、拓海は七瀬が怒っているのだと分かった。拓海を真っ直ぐに捉える瞳が、窓からの斜光を凛と跳ね返す。

「私、呉野さんとは初めて話したと思う。なのに、なんであんな言いがかりをつけられたのか、ほんとに分かんない。すごく、むかつく」

「何を言われたのか、俺が訊いても平気?」

 おずおずと伺う拓海へ、七瀬は不可解そうな顔をした。

「坂上くんって、どうしてそんなに畏まってるの?」

「いや……うん、性格なんだと思う。ごめん」

「別に、謝らなくてもいいけど」

 七瀬は呆れていたが、やがて小さな溜息をつき、「殺すって言われた」と素っ気なく言った。簡素な言い方だった分、聞かされた拓海は驚愕した。

「殺すっ?」

「私が気に入らないんだって。あとは、時間がないとか言ってたかな。呉野さん、自分が誰かに殺されるかもしれないって騒いでるみたい」

「へ……?」

「変でしょ。呉野さんが殺されるかもしれない事と、私とは全然関係ないのに。それに、鏡の事も。落とした鏡を私が焦って拾おうとしたからかな。鏡を怖がってるって誤解されたみたい。それで、鏡の怖い話をいっぱい言ってきたの」

 確かに、変な話だった。拓海は返答に困ったが、ふと柊吾の言葉を思い出した。

「多分だけど、篠田さんが呉野さんに絡まれたのって、特に理由はないと思う」

「え、どうして?」

「ターゲットは適当に決めるって、三浦が言ってた。でも、ごめん。詳しい話はまだ知らないんだ。……あのさ、篠田さん。今日の放課後、空いてる?」

「え?」

「三浦が待ってるんだ。放課後に、校門前で。篠田さんが危ないかもしれないから、ちゃんと話したいことがあるって」

「三浦くんって、どうしてそこまでしてくれるんだろ」

「分かんないけど……優しい奴だなって思ったよ」

 それに多分だが、柊吾は氷花と因縁があるからだろう。仔細を知らない拓海はそれ以上のことは言えなかったが、七瀬も「そうだね」と囁いて目を伏せたので、拓海と同じ想像をどこかで育てていたのかもしれない。

「分かった。ありがと。でも、ごめんね。私、長くても三十分しか時間ないや」

「何か、用事あるんだ?」

「うん。友達と会うの」

 ふわりと七瀬が笑い、拓海は一瞬、息が止まった。七瀬が今見せた笑みは、一ノ瀬葉月に向けられていたものと、ひどく質が似ていたのだ。

「篠田さん、怪我してるのに」

 心配になった拓海が言うと、七瀬は顔色を曇らせて「いいでしょ、別に」と言い返した。

「滅多に会えない子だし、携帯持ってない相手だから、待ちぼうけなんてさせられないし……会いたいじゃん。やっぱ」

「……」

 何故だろう。やっと七瀬が笑ったのに、拓海の心は晴れなかった。

 今の笑顔では、まだ何かが足りないのだろうか。一度は薄れたはずの切迫感が、緩やかに熱を取り戻す。義務感に似た衝動が喉元にまで込み上げて、拓海は気づけば、言っていた。

「……篠田さん、なんで一之瀬さんを避けてんの」

「え?」

「一緒にいたら、いいのにって。俺、ずっと思ってた。仲、良かったじゃん。廊下とかで見た事あるから、知ってるんだ。なんで、篠田さんは」

「坂上くんには関係ない」

 ぴしゃりと、七瀬が言った。強い語調ではなかったが、感情を無理に抑え込んだような声は、まるで拓海を拒絶するように、廊下の静けさをぱしんと叩く。拓海は、息を吸い込んだ。出しゃばり過ぎたと、気づいていた。

「……ごめん」

「どうして、坂上くんが謝るの。言い方悪いの、私の方でしょ」

 七瀬は項垂れる拓海を見上げて、小さく笑った。笑われるとは思っていなかった拓海が目を瞠ると、窓からの日差しに頬を照らされた七瀬は、少し照れたように、それでいて卑屈そうに、笑みを歪めた。

「なあんだ。班の男子にもバレてて格好悪いなって思ってたけど、ほんとにバレバレなんだね。……坂上くん。誤解しないで欲しいけど、私、葉月が好きだよ」

 七瀬は、はっきりと言った。どきりとするほど、ストレートな告白だった。

「葉月の事は、嫌いだから避けてるわけじゃない。でも、今日は考えたくないの。今日は、毬に会うんだから。それに、今は葉月の事よりも、呉野さんが次にどういう出方をしてくるのか、そっちの方が気になるし……」

「……あの、さ」

「うん?」

「……無理、してない?」

「……」

 七瀬は、黙る。拓海は、待った。なけなしの勇気を振り絞ってぶつけた言葉だったが、七瀬は透明に笑っただけだった。ただ、笑みから卑屈さは抜けていた。

「私、呉野さんにさっき『合わせ鏡』って言われたんだよね」

「合わせ鏡?」

「うん。ベタな怪談。……葉月って、怖い話とか大好きで。家に泊まりに行った時とかに、よく怪談を聞かされたんだよね」

 開いた窓から風が入り、向き合う二人の間を桜の花弁はなびらがすり抜ける。澄んだ日差しが香る廊下で、七瀬は懐かしそうに目を細めた。

「だから、呉野さんから『合わせ鏡』って言われた時に、葉月のことを色々思い出しちゃって……なんか、気分悪くなっちゃった」

「へっ? 気分悪い?」

「だって、そうでしょ」

 七瀬が、拓海を睨んだ。自分が怒られたようで竦む拓海だったが、怒りの矛先は氷花のようだ。

「葉月の事は、私の問題だもん。呉野さんみたいな失礼な人に、簡単に触ってほしくない。あっ、一個思い出した。あの子、私をストレス発散の道具にするとか言ってた。ほんと信じらんない」

 文句を言いながら、七瀬が再び歩き始めた。置いて行かれる形になった拓海は、「篠田さん」と慌てて七瀬を呼び止めた。

「? 何?」

「これ……」

 拓海はエプロンのポケットから、薄いブルーのハンカチを取り出した。上部を絞ったハンカチの包みからは、小波さざなみみぎわの砂を洗うような、遠い海の音がした。七瀬が、目を見開いた。

「篠田さんを待ってる間に、それを取りに戻ってたんだ。鏡の破片を呉野さんに持っていかれたこと、気にしてたみたいだから……」

 拓海は拙く説明しながら、これで良かったのだろうかと不安になった。だが、七瀬が少しだけ泣きそうな目で、拓海からハンカチを両手で受け取ったから――これで良かったのだ、と心が落ち着いていった。

「……粉々だったから、砂っぽい欠片とかは拾い切れてないけど、できるだけ拾ったから。あと、割れてない緑色の方も。細かい破片まみれだから、ここに一緒に入れちゃってる。……その、ごめん、な?」

「坂上くんは……馬鹿にしないの?」

「え? 何を?」

「割れたものなのに。そんなのに拘ってるの、馬鹿にされると思った。……それに、鏡を二枚も持ってたことも」

「しないよ」

 拓海は慌てて、首を横に振った。考えもしないことだった。

「だって、大事にしてた物だって篠田さん言ってたじゃん。俺は鏡に対しては分かんないけど、大事にしてる物が駄目になったら、寂しいって思うし……それって、普通のことだと思う」

 考えながら拓海は言ったが、何だか気恥ずかしくなってしまい、最後の方は小声だった。そんな情けない体たらくだったからか、七瀬が淡く笑った。

「……ありがと。坂上くん」

 小さな言葉の余韻を引き継ぐように、丁度チャイムが鳴った。校舎のあちこちで机や椅子を動かす騒がしい音がする。調理室はもう目と鼻の先だ。七瀬はハンカチの包みをエプロンのポケットへ仕舞うと、両手を組み合わせて伸びをした。面倒な調理実習の終わりを喜んでいるように見え、やはり最近の七瀬は少し窮屈そうだと拓海は思う。

「それじゃ、放課後ね」

「……うん。放課後な」

 拓海が頷くと、七瀬が調理室の扉に近づき、開けた。途端に、わっと喧騒がドーナツの甘い匂いに乗って溢れ出す。

「ななせー、大丈夫?」

 女子生徒の声が飛んできて、戻ってきた七瀬を迎え入れた。七瀬は「うん、大したことないって」と答えながら、さりげなくスカートとエプロンを引っ張って、腿の包帯を隠した。背後にいた拓海には、そんな仕草が見えてしまう。

 ――七瀬はやはり、無理をしている。

 拓海も調理室に入ると、片付けで居残る生徒の中に、こちらを見ている人物を見つけた。拓海と目が合った直後、その女子生徒は後ろめたそうに顔を背けた。やるせない気分になり、拓海は少し切なくなる。

 好きな者同士、仲良く一緒にいればいいのに。せめて理由を知りたかった。七瀬が笑顔を失うほどの理由は、果たしてそこにあるのだろうか。一之瀬葉月の背中を見ながら、何度だって拓海は思う。

 笑っている方が、いいのに……と。

 そんな風にぼんやりとしていたから、拓海は忘れてしまったのだと思う。

 注意力が散漫になっていた拓海は、片付けを済ませ、調理室を出て、帰りのHR(ホームルーム)が終わって初めて――忘れ物に、気づいたのだ。

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