花一匁 114
柊吾が家を出たのは、午後の二時だ。母が作ってくれた昼食のオムライスを平らげてから、柊吾は後ろ手にナデシコの小さな花束を隠し持って、アパートの螺旋階段を降りていた。
まだ、気持ちがふわふわしていた。花を切りながら母と交わした会話が、ずっと頭の中で再生されている。
――『俺達、袴塚市の外に引っ越す予定だったのか?』
そう柊吾は訊ねたのだ。いい機会だと思ったからだ。今を逃せば、次にいつこんな風に訊ねる勇気を持てるか分からない。
母は泣いて赤くなった目で、穏やかに笑んで答えてくれた。
――『ええ。おじいちゃんやおばあちゃん達に、うちにおいでって言ってもらえたのよ。でも、私はこの袴塚市で暮らしたかったの』
――『なんで?』
――『だって』
束ねたナデシコの花に白いリボンをかけながら、母は何でもないことのように、さらりと言って、小首を傾げた。
――『柊吾、撫子ちゃんと離れるの、嫌だったでしょう?』
「……」
額に手を当てると、案の定熱かった。
本人でさえあの頃には無自覚だったものを、母親に勘付かれていたとは恥ずかしい。しかも今こうして手に持っている花束だって、実質ほとんど母親が用意したようなものなのだ。これは、果たしていいのだろうか。誰にも言わないでおこう、と柊吾は堅く心に決めた。螺旋階段の終わりで、深呼吸をする。
――柊吾が昼食を食べ終わった頃、一本の電話が入っていた。
相手は撫子の母親で、用件はこれから撫子が柊吾のアパートへ来てもいいかというものだった。
もちろん、即答で了承した。話はとんとん拍子に進み、撫子の母親が車でここまで撫子を送り届け、約束の四時が近づけば柊吾と撫子は一緒に神社へ向かう手筈となった。その過程で、七瀬や和音とも合流することになるだろう。
そして、撫子との約束の時間を迎えた今。
おそらく撫子は、このアパートの入り口にいる。
さっき二階の外廊下を歩いた時に、車のエンジン音を聞いたのだ。
「……」
緊張し過ぎて、息が苦しくなってきた。
撫子は、受け取ってくれるだろうか。不安に胸中を掻き乱されて、目まで回ってくる始末だった。そもそも、受け取る受け取らない以前に、撫子に思いきり引かれる可能性だってゼロではないのだ。それにもし、受け取ってもらえなかった場合は。返事を、保留にされた場合は。
「……どうにでもなれ」
投げやりに呟いてから、柊吾は大股で歩き出した。半ば以上自棄だった。頭の中に呉野和泉のにやけ顔が浮かんだので、全力で映像を頭の中から振り払った。
だが、こんなにも覚悟を決めて臨んだのに、アパートの入り口は無人だった。
青天の下、温い風が吹き抜けて、アパートの敷地の砂を浚っていく。柊吾は歩道へ顔を出してみたが、撫子はおろか、人っ子一人見当たらない。
「雨宮……?」
小声で呼んでみたが、返事はない。
代わりに、こそりと何かが動く気配が、視界の左斜めを横切った。
次に、ニャア、と鳴く声が聞こえてくる。
「……?」
振り返り、柊吾はぽかんと棒立ちになった。
自転車の駐輪所の近くで、猫が二匹ほど寝そべっていたのだ。
この周辺は、野良猫が多い。午後になっていよいよ暖かくなってきたので、日向ぼっこに集まってきたのだろう。
ただし、柊吾が茫然とした理由は、猫ではない。
猫の手前で、背を向けてしゃがんでいる――一人の、小柄な少年が理由だ。
ジーパンにパーカー姿の少年は、フードをしっかりと頭に被っていた。小さな黒いポシェットを斜め掛けに提げている。顔こそ見えなかったが、柊吾はその後ろ姿に強い見覚えを感じ、理解した。
この人物は、少年ではない。少女だ。
「……」
そろりと柊吾が少女へ向かって近づいていくと、フードの少女は猫の腹を撫でながら、「にゃーん」などと鳴いていた。間違いない。綺麗な声だ。
寝ていた猫が柊吾に気づき、前足をぐっと伸ばして立ち上がると、のそのそと花壇の方へ去っていった。
少女も今初めて足音に気付いたのか、柊吾を振り返った。
琥珀色の目が、驚きに見開かれる。
陶器のように白い頬が、何故か、赤味を帯び始めた。
そんな動揺の理由がまるで分からず、柊吾が戸惑っていると――撫子は立ち上がり、フードを両手でぎゅっと握って駆け出した。
「えっ? な、なんで逃げるんだっ?」
泡を食いながら、柊吾も走って追い駆けた。
撫子に追いつくくらい簡単だと思いきや、持ち前の身軽さ故か、柊吾の想定より撫子の逃げ足は速かった。怪我人をこれ以上走らせたくはなかったので、柊吾は走るのをやめにした。
代わりに、来た道を早歩きで戻り、待ち伏せた。
すると、予想通り――顔を真っ赤にして走ってきた撫子と、アパートの入り口で鉢合わせた。
驚き顔の撫子は、走った勢いを殺せずに、柊吾の胸板に衝突した。「みゅっ」と悲鳴をあげながら身体が手鞠のようにバウンドしたので、柊吾はすかさずその細腕を引っ掴むと、慌てて、左手の花を背に隠した。
「……」
撫子は片手でぎゅっとフードを抑えて、泣きそうな目で柊吾を見上げてくる。怯えている風にも見えたので、柊吾はおそるおそる訊いてみた。
「その……俺、なんか悪いこと、した……?」
撫子は、ふるふると首を横に振って、か細い声で、答えた。
「一昨日……」
「ん?」
「いろいろあったこと、思い出したら……急に、恥ずかしくなったから……」
「……」
「ごめんね……」
「べ、別に……」
答える声が、裏返りかけた。改まって言われると、柊吾の方も恥ずかしくなってしまう。追い打ちをかけるように撫子が「……今日は、お願いがあって来たの」と、さっきより輪をかけて小さな声で言ってきた。
「柊吾がもしよかったら……あのノート、私にくれる?」
「ノート? ……って、まさか」
ぎくりとして、頬の筋肉が引き攣った。
撫子の言うノートなんて、ひとつしかない。柊吾が撫子に別れを切り出された時に、思いつく端から引き留める言葉を書き連ねた、あのノートだ。
思い出すだけで、このまま地面を転げ回りたくなってきた。確か、撫子がいなければ生きていけない、とまで書いてしまった。二度とページを開けない禁断のノートを、この世に生み出してしまった。
「だめ?」
撫子がフードを握ったまま、潤んだ目で柊吾を見つめてくる。
こんな懇願の眼差しを受けて、恥ずかし過ぎて悶死するから嫌だとは言えなかった。柊吾がぎこちなく頷くと、撫子の顔に、ぱっと明るい笑顔が咲いた。
「ありがとう。うれしい」
どきりと胸が弾み、柊吾はぼうっとしてしまった。
実際に件のノートを前にしたら床を転げ回ると分かっていても、こんな笑顔を見られるならノートくらい何冊でも贈ろうと、我ながら調子のいいことを考えてしまう。春の陽気に、当てられたのかもしれなかった。
「……坂上くんからのメール、読んだよ。今日、全部が終わるんだね」
撫子が、ふっと微笑を消して言った。
唐突な切り替えだったので、柊吾は肩透かしを食らった気分になったが、遅れて意味を理解した。
撫子はその為に、アパートまで来たのだ。ノートなんてついでに過ぎず、本命は情報の共有だ。互いの心意気のベクトルに微妙なズレが生じているのを感じ取り、柊吾は頭に手をやった。
四時には決戦だというのに、これでは良くないのだろう。柊吾も直ちに気持ちを切り替え、来るべき時に備えるべきだ。
――その為にも、早く伝えなくてはならなかった。
「俺からも、詳しく話す。けど、それはうちに上がってもらってからでもよくて……その前に、話したいことがあるんだ」
「? なあに?」
「えっと……あー……その……」
いよいよとなると、かっと全身が熱くなるのを感じた。自分の心臓の音が異様に大きく聞こえ、ジェットコースターが頂点に上り詰めた時のような緊迫感と浮遊感で、気道の辺りが苦しくなる。この時の為に考え尽くしたはずなのに、びっくりするほど言葉が出ない。花を握る手が背中で震え、ああ、自分は怖いのだ、と柊吾は素直な気持ちで悟っていた。
言葉を発するという行為に、これほどの恐れを抱いたことはなかった。
相手に何かを伝えるのは、こんなにも心細いことなのだ。
「……」
葛藤する柊吾を、撫子は落ち着いた様子で待ってくれた。
表情はいつものように希薄だったが、僅かに読み取れた感情の中には、もたつく柊吾への不安や苛立ちなどは見当たらない。むしろこの感情は、夜明けの植物が葉に乗せた朝露のように、きらきらしたもので出来ている。柊吾には、そんな風に見えた。
「……悪りぃ。時間かかって」
「ううん、気にしないで。急がないでいいよ」
撫子は首を横に振ってから、ふと、考え込むような顔になった。
「私も、言葉には慎重になるから。私は多分、言葉が怖いの」
「言葉が、怖い?」
「うん」
囁いた撫子は、青い空を振り仰いだ。
今気付いたが、撫子の頬のガーゼは外れていた。怪我をした指も、今日は包帯は巻かれておらず、大きめの絆創膏が貼られているだけだ。
「例えば、学校での噂話とか、色んな人達の間を伝わっていくうちに、尾ひれがついて、元々の言葉ではなくなっちゃった言葉を、想像してみて。最初は、誰かが誰かに、優しい言葉をかけたところを。でも、それは伝聞で広がっていくうちに、誰かが誰かに、酷いことをいった場面に変わっちゃうかもしれないでしょ?」
「……そうだな。学校でやらされた伝言ゲームなんかでも、最後は滅茶苦茶だったしな」
柊吾は小学校での出来事を振り返りながら、相槌を打った。
クラスで行ったレクリエーションで、班ごとに分かれて伝言ゲームをしたことがあった。班の各一名に教師から秘密の文章が教えられ、それを班のメンバー達に伝達していくゲームだ。
最後の伝言を受けたメンバーは、渡されたボードにマジックで答えを記入する。最終的に、最も正確に伝言ができた班が勝ちだ。
あの時の熱狂を思い出すと、当時は何も思わなかったはずなのに、柊吾は何だか胸が塞いだ。
皆がどっと笑う時は、決まって伝言が失敗した時だ。
どれだけ面白おかしく、事実と違ってしまった言葉を生み出せるか。皆が皆、そこに心血を注いでいたような気がした。
「言葉って、変わっていくものだと思うの。声に出して発した後は、どんどん自分の手を離れて、違うものに変わっちゃう。それは誰にも止められなくて、どうしようもない事なのかもしれないけど、私は、それが怖いの」
見上げた雲一つない空の海を、数羽の鳥が泳いでいく。一羽が遅れを取り、低空飛行し、群れから取り残されてしまった。群れは空の彼方へ飛翔して、遅れた一羽も、後を追う。必ず追いつけるのだという意思を、遺伝子に宿しているかのようだった。飛び去っていく鳥を見送りながら、撫子は続けた。
「自分の言葉になら、責任を持てるかもしれない。でも、自分の手を離れた言葉には、どんな風に責任を持てばいいか、分からない。ううん、多分責任、持てないと思うの」
「……すごいな」
「何が?」
「責任とか、そういうのを……考えてるだけじゃなくて、言えるところが」
責任という言葉は、重い言葉だと柊吾は思う。
撫子は、自分の手を離れた言葉には、責任を持てないと言った。だがその一方で、己の手の内にある言葉には、責任を持てるかもしれないと言った。
それはきっと、誰にでも言える言葉ではない。
「すごいのかな。でも、その分考え込む時間が長いから、無口になるよ」
小首を傾げ、撫子は答えた。褒められるとは思いも寄らなかったのか、不思議そうな面持ちで、フードを握りしめている。
さっきから思っていたが、どうして頭を隠すのだろう。
柊吾が訊ねようか迷っていると、撫子はさらに続けて言った。
「私、そんなにたくさん喋る方じゃないから、表情があんまりないとか、お人形さんとか、能面とか、何考えてるのか分からないって、色んな人に言われたよ。そういう風に言われたこと、寂しい時もあったけど……今は、そんな風には思わないの」
「え? ……なんでだ?」
「だって、柊吾が分かってくれてるから」
春の風が、温かく吹き抜けた。撫子の握るフードが揺れ、栗色の髪の毛先がちらりと顔を出す。今にも巣から飛び立とうとする雛鳥をそっと制するように、撫子がフードを押さえ直し、横顔が細腕の影に隠れてしまう。
「柊吾だけじゃなくて、七瀬ちゃんとか、坂上くんとか、私の好きな人たちは、私のことを、ちゃんと人だって分かってくれてる。だから、いいの。誰に、どんな風に言われても、私は、人でいられる」
その言葉で思い浮かんだのは、もうどこにもいない紺野沙菜の、おぼろげな立ち姿だった。おかっぱの、黒い頭髪。すぼめた肩。重い足取り。周囲のクラスメイト達から、人間扱いされなかった少女。
「私は、紺野さんのことを、とても強い女の子だって思ったの」
撫子が、小さな声で言った。
誰にも教えない秘密を、そっと打ち明けるように。
「紺野さんは、遺書に書いてた。私は、人間だ、って。誰に認められなくても、どんな境遇の中にいても、自分は人間だって言えた紺野さんは……強くて、格好いい女の子だった」
「……俺も、そう思う」
柊吾も、小さな声で言った。
紺野に対しては、もうどんな言葉も手遅れなのだと分かっている。紺野がもしこれらの言葉を聞いたなら、顔を顰めるかもしれない。暴風のような苛めや差別の戦場から生き残った人間達の綺麗ごとだと罵られても、柊吾は言い返す言葉を持てないだろう。
それでも、柊吾は思うのだ。
死者に言葉が届くなら、この数日で皆が口にした言葉を、花のように束ねて紺野に贈りたい。たとえエゴでも、できるものなら、そうしたかった。
「……」
自然と、二人で黙り込んだ。
重い静寂ではなかった。いろんな鬱積も、煩悶も、あらゆる言葉や行動によって、過去の地点に置いてきた。すっきりと身軽になった二人が、緩やかな春風に吹かれながら、ここに立っているだけだ。
柊吾はもう一度、青い空を振り仰いだ。
本当に、いい天気だった。
父が亡くなった翌日も、こんな風に清々しい快晴の青空だった。
火葬場の煙が果てしない蒼穹へ立ち昇るのを見上げた時、ああ、本当に父は死んだのだ、と。どこかで父が亡くなったことを夢のように感じていた自分の頬を、誰かに張られた気分になった。
まだ大切な人を失うことなんて考えもしなかった、あの頃を思うと――途端に、郷愁が胸に迫ってきた。
父がまだ生きていて、柊吾がランドセルを背負っていた頃の記憶。それらがシャボン玉が風に乗って光るように、次々と溢れ出して流れていく。
日差しで熱せられたグラウンドに、授業が始まる直前の青い静けさに包まれた校舎。教室に入れば賑やかな声が十人十色のリズムで弾け、黒板を照らす窓からの光は白く、斜光はトンボの羽のような虹色に輝いて見えた。
日向の匂いは、学校の匂いに似ているのだ。だから、ふとした瞬間に記憶が過る。
学校で生きてきた柊吾達は、一人の同級生を失った。だが、ここには闇ばかりが蟠っているわけではないのだ。光だって、射している。
そんな日向の世界で、柊吾は撫子と出会ったのだ。
人に対して誠実で、言葉に対して慎重な、撫子と。
「雨宮」
いつものように、柊吾は撫子を呼んだ。
撫子はぴくんと顔を上げたが、フードから手を離さなかった。何だか緊張している様子が伝わってきたので、新しい髪型を見られたくないのだ、とようやく柊吾は察した。柊吾も緊張したが、ちゃんと言った。
「髪、切ったんだろ? 見たい」
「……」
撫子は何かを言いかけたが、ぎゅっと唇を一文字に結ぶと、一大決心をしたように悲壮さで頷いて、頑なに被り続けていたフードを、頭から下ろした。
栗色の髪が、さらりと零れる。
柊吾は目を瞠り、つい茫然と見入った。
予想できたこととはいえ、これほど思い切るとは、意外だった。
「……男の子みたいになっちゃったから、今までの服も、似合わなくなった気がして……それで」
道理で、ボーイッシュな格好をしてきたわけだ。柊吾は改めてしげしげと、撫子の髪を見下ろした。
――撫子は、髪をばっさりと切っていた。
元々、美也子が鋏を入れた所為で、片側だけ顎のラインまで短くされていた。その長さに合わせてカットしたようで、柔らかでありながら艶のある栗色の髪は、少年のような短さになっていた。
「変かな」
撫子は恥ずかしそうに両手を胸元で握っていたが、その口調は今の髪型と同じように、さっぱりとしたものだった。
「変じゃない。その……似合ってる。だから服装とかも、あんまり気にしなくていいと思う」
柊吾は、言った。本心だ。この髪型を、柊吾はいいと思ったのだ。
髪が短くなった撫子は、普段よりも活発な少女に見えた。病的に白い肌も、聡明さを宿した琥珀色の目も、何も変わっていないのに、何かが明確に変わっていた。
それはまるで、今まで撫子を繭のように包んでいた触れるだけで壊れてしまいそうな少女性が、切り落とした髪と一緒に取り払われたかのようだった。
そんな喪失感にも似た変化を、柊吾は寂しいとは思わない。
むしろ、好ましく感じたくらいだった。
また一つ、柊吾の知らない撫子を知ることができた。それが多分、嬉しいのだ。
「……ありがとう。よかった。こんなに短くしたの久しぶりだったから、ちょっと自信なかったの」
そう言って、ようやく撫子は微笑んでくれた。
「七瀬ちゃんみたいに巻いてみたかったけど、伸びるのに二年くらいかかるかも」
「じゃあ、高二か。そんなの、あっという間だ。多分」
二年も時が流れたなら、柊吾達もまた変わるだろう。
使う言葉も、抱える想いも、純粋に今と同じままではいられない。
だからこそ、現在という十五歳の柊吾の言葉で、この気持ちを伝えたい。
すとんと覚悟が、胸に落ちた。
今度は、しっかり言える気がした。
「雨宮。……これ」
柊吾は、背に隠していた左手を、撫子へ向けた。
陽光を受けて、可憐な白が淡く光る。束ねた花が、さわさわと揺れた。細い放射状に広がる葉の緑と、純白の細いリボンも、風に揺れた。
撫子が、大きく目を見開いた。
薄い唇が動きかけ、言葉にならずに、引き結ばれる。目元が微かに、震えた気がした。一度俯いた撫子は、柊吾を見上げ、透明な笑顔を作って見せた。
「ありがとう」
そう囁いてから、手を伸ばそうとする。
その指先が、花に触れるより前に――柊吾は、叫んでいた。
「……っ、大人に、なったらっ」
撫子の指が、止まった。
弾かれたように顔を上げて、柊吾を見上げる瞳と、見つめ合った。
「大人になったら、もう一回、渡すから! だから……受け取って、ほしい。これからも……一緒に、いてほしいから!」
声が、空に吸い込まれる。
エコーを伴った告白を、撫子は驚きに染まった顔で聞いていた。
やがて、小さな手をそっと伸ばし、花束を柊吾の手から、受け取った。
まるで新しい命を抱きかかえるように花束を持った撫子の目に、薄く、涙が滲んでいく。
潤んだ瞳に浮かぶ光を、零れ落ちた涙を、永遠に忘れたくないと柊吾は思った。この先に何が起こっても、どんな風に柊吾達が変わっても、目の前の少女はこの瞬間、柊吾にとって、世界中の誰より綺麗だ。
「びっくり、した」
片手で涙を拭った撫子は、柊吾を見上げて微笑んだ。
今までに柊吾が見たどんな笑みより、美しい笑みだった。
「お見舞いじゃないお花をもらうの、初めて。お花をもらうのって、こんなに……うれしいことなんだって、知らなかった」
深い安堵で、肩から力が抜けていく。
柊吾にも、撫子に教えられることがあるのだ。その喜びを、柊吾も撫子に伝えたかった。贈った言葉を、魂を、誰かに受け入れてもらえることは、こんなにもうれしいことなのだ、と。
「柊吾」
ナデシコの花を胸に、短髪を風にそよがせた撫子が、柊吾へ一歩、距離を詰めた。
「早く、大人になりたいね」
胸を衝かれ、柊吾は息を詰まらせた。
この台詞を、こんなにも幸福な気持ちで、耳にする日が来たのだ。
その嬉しさを表す言葉を、柊吾はもう、使い果たしてしまった。
柊吾は撫子の両肩に手を添えると、上体をぐっと屈めて、低い位置にある頭に顔を近づけ、唇を寄せた。
目を閉じる刹那、春の光が虹色に輝く中に、いつか本物の家族になって歩く自分達の姿が、見えた気がした。




