花一匁 113
柊吾がアパートに帰った時には、時刻は午後の一時半になろうとしていた。
スーパーの袋をがさがさと鳴らしながら、柊吾はこそこそと泥棒のような足取りでアパートの外周を歩き、辺りを注意深く見回した。
母は、パートに出掛けている。だから柊吾はこれから一人で昼食を作り、四時の待ち合わせに備えて腹ごしらえをしなくてはならない。
だが、昼食を摂るより先に、火急でこなすべき作業があった。
「……」
快晴の空に昇る太陽は、ちょうど頂点を過ぎたところだった。陽の当たる場所はぽかぽかと暖かいが、柊吾が歩いているアパートの壁際は、日陰になっていて肌寒い。この場所にだけ冬が去らずに、居座っているかのようだった。
灰色の外壁の終わりを右折すると、今朝がた和音を誘った自転車の駐輪所へ辿り着く。コンクリートで舗装されているのは自転車を停めている辺りのみで、後は開けた砂地が広がっている。柊吾は緊張の面持ちで、足を止めた。
「……」
ここは、狭いながらも庭になっている。ほんの五歩ほど先に平坦なブロック塀が築かれているだけの殺風景な場所だが、日当たりはなかなか悪くない。塀の手前に一本だけ植えられた梅の木は、白粉に紅を溶いたような色の花をつけていたが、満開を過ぎた花は、少しずつ散り始めている。
その梅の木の隣には、横長に一メートルほどに渡って、砂地を煉瓦で区切った花壇があった。
「……」
この花壇はアパートの住人達の共用スペースで、自由に花を植えていいことになっている。だが柊吾はここに花が植えられているところを滅多にみたことがなく、現在に至ってもそれは同じだ。柊吾の目の前では風媒花の雑草が、薄い紫色の花をぽつんと一輪咲かせるのみで、土も見るからに乾いて痩せている。
そんなうらぶれた花壇へ、柊吾は近づいて行った。
「……」
正面に立つと、念入りに左右を確認した。一体何度確認するのかと我ながら呆れるが、万一見つかってしまった場合、リアクションと言い訳に困ることになる。
ここから見える範囲では、人影は見えない。それでも心配になったので、柊吾は忍び足でアパートの入り口まで戻り、そこから顔を出してみた。
道路と、その向こう側に並ぶくすんだ緑の空き地の列が、真っ先に目に飛び込んでくる。一台の車が眼前を横切っていき、そのエンジン音につられるように、柊吾は道路の果てに目を向けた。一直線に続く道路と青空のコントラストが爽やかで、日差しを浴びた空き地からも、春の息吹が感じられる。
――父が亡くなってから、ずっとここで過ごしてきた。
あの頃の柊吾にとって、この殺風景な場所は新しい住処であると同時に、自分には母しかいなくなってしまったのだ、という途方もない喪失感を、突き付けられた場所でもあった。
もう、三年になるのだ。
長い時が、過ぎていた。
あの頃に感じた喪失感を、忘れる時間が生まれるほどに。
「……」
踵を返し、柊吾はビニール袋をがさがさと鳴らしながら花壇へ戻った。
とにかく、早く手に持ったこれをなんとかする必要があった。
まずは、スコップが必要だ。軍手もあった方がいいのだろうか。普通に土に穴を掘って埋めればいいだけだと分かっているのに、変に思考が力んでしまう。うろうろと花壇の傍を無駄に歩き回ってから、二つのビニール袋のうち一つを、ゆっくりと慎重に地面へ置いた。
二つ買った花の苗が、柔らかく足元に着地する。
「……あぁー……」
堪えきれず、柊吾はしおしおとその場にうずくまった。
どうしようもなかったのだ。あの苗を買うしかなかったのだ。他の花は思いつかなかった。この花でなくてはならなかったが、かといってこれを買って、自分はどうするつもりだったのだ。このまま渡すわけにはいかないだろう。進退窮まった柊吾にできる唯一のことは、これを植えてしまうことだけだった。というよりも、植える以外に道がない。渡す花は、後日考え直した方がいい。
冷や汗を流しながら、柊吾が改めてスコップを探そうとした時だった。
「柊吾?」
頭上の方から、声がかかった。
「……」
柊吾は硬直し、油を挿さないまま放置した機械のような動きで、振り返る。
アパートの二階、外廊下に繋がる螺旋階段の途中に、小柄な女性の姿が見えた。
清潔そうな白いリネンのブラウスに、夜明け前の空のような縹色のロングスカート。ふわりと春風を孕んで膨らんだ裾を、そっと片手で押さえている。
「……母さん、なんで、パート……」
ロボットのような片言で、柊吾は言った。
あらゆる意味で、一番見つかりたくなかった相手に、見つかってしまったかもしれない。
「早引きさせてもらったの。義兄さんから電話があったから。柊吾達、夕方に出かけるんでしょう? だから、心配になって……あら?」
「……」
柊吾はカニ歩きで立ち位置をずらし、足元のビニール袋を隠す。息子の無駄な抵抗を見た母は、目を丸くしてから、ふっと笑った。
透き通った小さな声が、風に乗って、ここまで届く。
「柊吾、買い物ありがとうね。……上がっていらっしゃい」
*
少し待っていてね、と言い残した母は、柊吾にスーパーで買ってきた食材を冷蔵庫に入れるよう指示すると、洗面所へと消えていった。
何をしに行ったのかは、何となく想像できていた。洗面台の下の抽斗の中に、柊吾は鈍色の武骨な鋏を見たことがある。二本の細い金属を交叉させたようなシンプルな作りの鋏で、手の平サイズながらもずっしりと重い。きっとあれを、取りに行っているのだろう。
まだ柊吾が一軒家に住んでいた頃に、母はあの鋏を使っていた。
午前の眩い光に白く照らされた母は、柊吾が学校で育てていた朝顔の鉢へ、如雨露で水をあげていた。青い空の下、シャワーの雨を庭の芝生に降らせた母は、今よりも病弱で顔色も青白かったが、透明な微笑は、今も昔も変わらない。花の水やりを終えた母は間で休憩を挟みながら、小さな剪定鋏を使って、庭の垣根を手入れしていた。
夏休みの、記憶だろう。何だか急に、背に翼でも生えたかのような身軽さを感じた。小学生だったあの頃が、見上げた太陽のように眩しかった。
「柊吾。お待たせ」
戻ってきた母の手には、やはり鈍色の鋏があった。
「やっぱり、その……花を、切るってことだよな?」
「そうした方がいいと思うわ。ああ、でも柊吾が植木鉢に入れてプレゼントしたいなら、小さいものを買ってきましょう。撫子ちゃん、きっと喜んでくれるわ」
「な、なんで雨宮にって……」
「なんでって、お見舞いでしょう?」
「えっと……その」
柊吾は、もごもごと口を噤んだ。ほんの一時間ほど前に、七瀬相手にはつけた嘘が、母相手にはつけなかった。
「植木鉢じゃなくて……束ねる方で」
「ええ、分かったわ」
ふわりと、母が笑う。小さなテーブルの横を通り過ぎた母は、窓の前でしゃがみ込むと、そこに予め用意していた新聞紙をばさりと広げた。
明かりをつけない狭い部屋は、ほんのりと青い影に染まっていた。まるで水槽の中にいるようだ、と柊吾は思う。自分も、母も、ビニール袋に入れた花も、その花をこれから切る鈍色の鋏も、みんな水の中に沈んでいる。青い風景の中から見た窓辺は、海底から見上げた海面のように明るかった。
「柊吾、お花を出してくれる?」
柔らかな斜光を横顔に受けた母が、座ったまま、柊吾を振り返る。
居心地の悪い思いを引き摺りながら、柊吾は母の元へ向かい、隣に座った。床に置いたビニール袋から慎重に花の苗を取り出して、新聞紙の上にそっと置いた。
白い花弁と細い葉が、ふるっと身じろぎするように揺れた。
可憐な花だった。桜の形に似た五枚の花弁が、風車のようにくるりと丸く開花している。そんな花が五つあり、もっと花の咲いた苗がもう一つある。母は、満足げに頷いた。
「いいお花を買ったのね。このナデシコ、よく見かけるものよりも少しだけ大きくて立派だわ。十二本もあるなら、きっと素敵な花束になるわ」
「あの、ほんとに切るのか? なんか、切っていいのかって、心配になるっていうか……」
花を切る。思えばそんな行為から、今回の事件は始まった。
風見美也子は、鋏を使った。花の命を無惨に刈り取るというその行為に、柊吾達は当然だが、良い感情を抱かなかった。
それなのに、柊吾もこれから、花を切ろうとしているのだ。
「切りましょう。大丈夫よ」
母は、優しく諭した。柊吾の躊躇や恐れの気持ちを、全部見通しているかのようだった。
「ほら、ここを見て。まだまだ蕾がたくさんあるわ。花を切らせてもらった後は、あそこの花壇に植えさせてもらいましょ。これからも長く咲いてくれるわ。それに植物を育てる時って、咲くお花の数を増やす為に、あえて鋏を入れて間引く時だってあるのよ」
「そうなのか……」
安堵した柊吾だが、花に酷いことをしているような気分は消えなかった。
そんな柊吾とは対照的に、目の前のナデシコの花は、青い部屋に沈んでいても、慎ましくそこに坐している。柊吾よりも花の方が、よっぽど落ち着いているように見えた。
「……じゃあ、切りましょうか」
母は愛おしげに目を細めると、右手に剪定鋏を握り直した。
華奢な左手はナデシコの花の細い茎をそっと摘まみ、鋏の刃が、当てられる。
ぱちん、と清々しい音がした。
鋏の刃同士がささやかな音を奏でるとともに、一輪の白い花が、母の左手に残される。命が断たれたその一瞬、柊吾は胸に、痛みを覚えた。鳴らした鈴の音が凛と鼓膜へ届くように、自分の身体の奥深くが、この花の命に共鳴したかのようだった。
切ったばかりのナデシコを、母は新聞紙の隅へ横たえた。するりと肌を撫でるように動いた手が、次のナデシコの茎に伸びる。
鋏の両刃の合わせ目が細い茎を挟んだ時、柊吾は息が詰まったが、最期をきちんと見届けた。ぱちん、と音が、柔らかく響く。
「寂しい?」
母が、手を止めて訊いてきた。
そんな風に訊く母の方が、寂しそうに笑っている。
柊吾は少し考えて、素直にこくりと頷いた。母は鋏を三本目のナデシコの茎へ向けていたが、手を止めると、顔を少し俯けてはにかんだ。
「柊吾が優しい子に育ってくれて、うれしい」
「……うん」
「ナデシコのお花ってね、寒さには弱いけれど、とっても強い花なのよ。霜に何度も当たったりしなければ、ちゃんと冬を越して、綺麗な花を咲かせるわ」
ぱちん、と三本目の花が、切られる。その音が、身体の隅々にまで響き渡った。海中で歌うクジラの声は、何キロも先の地点へ届くのだと、学校の理科の授業中に、教師から聞かされたことがある。だから、海に似たこの場所で、花が奏でたこの音も、きっと遠いところまで、響き渡る。
四本目の花にも、鈍色の鋏の刃先が伸びた。
だが、母は花を切らなかった。緩やかに柊吾を振り返り、鋏を逆手に握り直してから、柊吾にそれを、差し出してくる。
「ここからは、柊吾が」
「……うん」
柊吾は受け取ると、鋏を開いた。
ぴったりと閉じた鋏は、開くのに握力が必要だった。見た目通りの重量を片手に感じながら、柊吾は鋏の刃を開き、瑞々しく伸びた細長い葉を片手で寄せて、折れそうなほど危うげな茎に、刃で触れる。
躊躇いも、恐れも、何もかもを断ち切ろうとして、上手く断ち切れずに息を吸った。罪悪感と向き合ってから、心の中で一つの言葉を告げた柊吾は、静かに、鋏の刃を合わせた。
ぱちん、と軽やかな音が、鳴った。
「ごめんね」
その言葉に、柊吾は何だかはっとした。
心の中を、言い当てられた気がしたのだ。
隣に座っている母は、柊吾を見つめていた。窓からの光が、さっきよりもずっと白く、柔らかい。水面の光を受けた母は悲しそうに笑ったまま、「ごめんね」と繰り返した。
「私が弱かったから、柊吾にはしないでいい苦労を、たくさんさせてしまって」
「なんで……」
なんで、今。そう訊ねようとしたのに、不思議に思っていない自分を感じた。笑う母の顔が、別の少女と重なる。
こんな風に、逆に見えたのは初めてだった。
「雨宮さんのお母さんが、以前に私に仰ったことがあるの。ナデシコのお花は、思い出のお花なんですって。撫子ちゃんのお父さんがプロポーズの時にくれたお花が、ナデシコの花だったそうよ。撫子ちゃんのお母さん、幸せだって、仰ってたわ。けれど、生まれてきた女の子の身体が、あまり丈夫じゃなかったから……長い間、気を揉んでこられたそうよ」
前半の話にどきりとしたが、すぐにそんな動揺は消え失せた。柊吾は鋏を持った手を膝に下ろし、神妙に話に聞き入る。
母はきっと、とても大切な話を、しようとしている。
「撫子ちゃんのお母さんは、元々身体が丈夫な方で、撫子ちゃんの虚弱な体質が、最初は理解できなかったんですって。どうして、人並みの体力がつかないんだろう。どうして、周りの子と同じかけっこが出来なくて、周りの子より早く疲れてしまうんだろう。大きな病気をしているわけでは、ないはずなのに。……当たり前の、疑問だと思うわ。そんな風に思う方も、思われてしまう方も、どちらも悪くないんだもの」
話を聞くうちに、思い出される顔がたくさんあった。
袴塚西中学で、柊吾が一緒に過ごしてきたクラスメイト達。あるいは、他のクラスの生徒達。事情を知っているだけの、人間達。
撫子を見守る目は、決して、優しいものだけではなかった。
「柊吾達が中学二年の時をきっかけに、撫子ちゃんのお母さんは、考え方を変えられたそうよ。娘のことを、もっと知ろう、って思ったんですって」
「雨宮のことを、もっと知る……」
その台詞が、胸につきんと刺さった。
撫子のことを、柊吾はきちんと知ろうとしなかった。事件の渦中で抱いた後悔を、小さな痛みとともに思い出す。
それに、思い返せば恭嗣だって、柊吾に言っていたではないか。
撫子のことを、知りたいなら――似た人に、話を聞いてみてはどうか、と。
「親子なのに、変に思うかもしれないわね。でも親子って、普段からずっと一緒にいて、あんまり近すぎる存在だから、相手のことを知ろうとしなくたって、もう知っている気になっているけれど……きっと、そうじゃないのね。知ろうとしなければ、知らないままになってしまうことって、たくさんあるのかもしれないわ」
母は座ったまま、躊躇いがちに、目を伏せる。
「撫子ちゃんのお母さんが、娘のことをもっと知ろうと思うって仰った時……私、すごく嬉しかったの。撫子ちゃんは、あんまり思ってることを顔に出さない女の子で、痛いことも、苦しいことも、上手く表現できなかったり、時には隠してしまったりするでしょう? どうしてそんな風なのか、他の誰に理解できなくても、私にはそんな撫子ちゃんの気持ちが、とてもよく分かるの。だって、私もそうだもの。あの子は、私に似ているわ」
柊吾は、声もなく驚いた。
母も、同じように思っていたのだ。
左手に握ったままだったナデシコの花が、微かに揺れる。植物の青い香りが、青い部屋に溶けていく。
「弱い、って、とても辛いことなのよ。どうして周りの人にできていることが、自分にはできないのか。自分でも分からないからよ。なんとか周りに合わせようと努力しても、空回るし、追いつけない。自分の身体の限界を、誰かに打ち明けることもできない。そのうちに、もう自分はどこにもいけないんじゃないかって、世界がまっくろになる。周りの人たちだって、そんな私のことを迷惑に思う。生きていてごめんねって、何度思ったか、分からない」
「母さん」
「怖いのよ。生きることが。この弱さは、周りの迷惑になってしまうんだもの。克服したくても、できなかった。諦めたわけじゃなくても、現実に今の自分がとても弱いってことからは、目を逸らすなんてできないもの」
母は小さく嗚咽して、指で目元を拭った。
「本当は、こんな身体、嫌なの。撫子ちゃんだって、同じよ。誰にも迷惑なんてかけたくないのに、生きているだけで、誰かの負担になる。それって、とても辛いことなのよ。いっそ、消えてしまいたいくらいに」
「弱くていい」
柊吾は、鋏を新聞の上に置いた。
「弱くていい。俺は……そんな母さんが、好きだから。……だから、消えたいなんて、嘘でも、言わないでほしい。ちゃんと嘘だって、分かってるから」
母は、とても驚いた様子だった。短い黒髪を揺らして振り返り、真ん丸に見開かれた瞳には、青い光が映り込んでいる。見る間に潤んで海の泡のように零れた涙が、頬を濡らした。顔が歪み、身体がこちらへ飛び込んでくる。
「柊吾」
座ったまま、柊吾は母の身体を抱き留めた。
すっぽりと腕の中に収まった人の身体は、少女のように小柄だった。
こんなにも、小さかっただろうか。柊吾には、それが不思議だった。母と手を繋いで歩くことに気恥ずかしさなんてなかった頃には、母は痩せているのに、大きく見えたはずだった。拍子抜けにも似た気持ちで、柊吾は小さな温もりを抱き続けた。嗚咽に紛れて、シュンちゃん、と呼ばれた気がした。柊吾はそれを、聞かなかった振りをした。
窓からの光が、眩しい。父のことを、柊吾は思った。母のことを、自身にとっての光だと言った父のことを。
父に、教えてあげたくなった。母にとっての光は、父だ。柊吾も、母の光になれただろうか。
きっと、なれた。だからこうして、一緒にいる。手放しそびれたナデシコの花を母の背中で握りながら、柊吾は静かに、納得した。
この人は三浦遥奈で、柊吾の母親で、これからもずっと守っていきたい家族なのだ、と。




