花一匁 111
再び着席した柊吾達は、たくさんのことを話し合った。
本当に、不思議な縁だと柊吾は思う。一昨日の〝アソビ〟の日には、ほとんど会話を交わさなかった相手だっているのだ。なのにもうずっと以前から、知り合っていたような気さえした。希薄だった絆の糸を縒り合せて結ぶように、柊吾達は話し続けた。時にはさっきの氷花の『弱み』の話のように思いきり騒ぎ合ったりもしながら、限られた時間の中で声に出して、様々な意見を交わし合った。いつしか強い連帯感が、皆を繋いでいくのを感じていた。
「鏡のことは……まずいことになったな」
拓海が腕組みして、少し険しい顔になった。
「まさか、そんなことになってたなんて……」
七瀬も、判明した事実に戸惑っているように見えた。かつて特別な『鏡』を所有していた者としては、陽一郎の言葉は寝耳に水に違いない。
「どうする?」
柊吾は、敢えてそう訊いた。
一同が、柊吾を見る。「どうする?」と重ねて柊吾は訊いた。
「篠田が持ってたものと同じ『鏡』が、もう一枚だけ存在する。それを今『所有』してる奴に、会いに行こうと思えば会えるんだ。……どうする?」
「……。ねえ、それってさ、これからどうする、っていう質問でもあったりする?」
七瀬が、ふっと笑った。柊吾が本当は何を問いたいか、全部分かっている顔だった。
「ねえ、みんな。私ね、〝アソビ〟が終わってからずっと考えてたんだ。みんなは、これからどうしたい?」
その台詞に、一番に答えたのは毬だった。
「私は……ミヤちゃんに、もう一度会いたい」
皆が、毬を見つめた。
毬は俯いていたが、顔を上げて、悲しげに笑った。
「ミヤちゃんが始めたことだもん。ミヤちゃん抜きで終わらせたら、いけないと思うの」
「その理論を通すなら、呉野さんも外せないよね」
七瀬が、勝気に笑って続けた。
「あの〝アソビ〟は、風見さん一人で始めたものじゃないもん。呉野さんにも、最後まで見届けてもらわないと困る」
「うん、そうだよね」
同調したのは、陽一郎だ。楽しそうな笑みだったが、ほんの僅かな寂しさを、柊吾は幼馴染の顔から感じ取る。
「みいちゃんと、呉野さん。二人に会うっていうのは、絶対だよね。僕達は、二人に会わないといけないんだ」
「じゃあ、俺達が風見さんと呉野さん、二人に会うっていう条件を満たして、できること。それって何があると思う?」
穏やかに、拓海が言葉を引き継いだ。青い空の遙か彼方、地平線を遠く眺めるような目で、全員へ呼びかけている。
「難しいね」
毬が、唇に指を当てて困っている。
「そうかな」
和音が、テーブルの斜め下へ視線を逃がしながら、嘯いた。
「私達は誰も、終わった〝アソビ〟に納得してない。だったら私達がこれからすることなんて、一つしかない」
「うん。俺も、そう思う」
拓海が、和音へ微笑んだ。
「風見さんだって、このままじゃ救われない。もしこんな状態のまま風見さんが、〝アソビ〟のことも、雨宮さんのことも、紺野さんのことも、これから忘れてしまうなら。そんなのって、救われたって言わないと思うんだ」
「ああ。そうだな」
柊吾も、同調して頷いた。
今でも、まざまざと鮮明に思い出せる。あの暗い森の中で、傷だらけで倒れていた撫子と、鋏を向ける美也子の狂気。
柊吾はこれらを、なかったことにはできないのだ。
美也子がたとえ、全てを忘れたとしても。
何もなかったことになんて、ならないのだ。
「イズミさんも言ってたけど、風見が〝アソビ〟のことを忘れたとしても、それって今だけのことかもしれねえだろ? いつかまた思い出すかもしれないし、そうなった時また〝アソビ〟を始める可能性だって、ゼロじゃないんだ。本当の意味では、まだ、何も終わってねえ」
「なんか、悲しいね」
七瀬が、影のある笑みを見せた。
「誰かのことを、好きになったり、嫌いになったり。そんな単純なところから、全部スタートしてるんだよね。好きとか嫌いの気持ちって、果てしなくて、悲しいね」
「でも、終わりは作れる」
和音が、囁いた。
顔を上げて、一同を一人一人見渡してから、もう一度言った。
「終わりは、作れる。声の形で発した言葉は、現実世界を変えるんでしょ?」
「……そうだったな」
柊吾は、強く同意した。
――言霊。
その言葉が、概念が、柊吾達の絆なのだ。異能の血を引く呉野の一族の末裔が、清らかな言葉で教えてくれた。柊吾達は、和泉を通じてここにいる。ここにいる全員が、言霊で繋がっているのだ。
「終わらせよう。悲しいことを」
拓海が、包み込むような笑顔で言った。
「風見さんがいつかまた〝アソビ〟を始めるかもしれないなら、この事件に終わりがないなら、俺らが皆で、終わりを作ろう。悲しみの連鎖を、ここで断ち切ろう。きっとできると思うんだ。何か方法があるはずだ」
「悲しみの連鎖を、断ち切る……」
なんて途方もない響きだろう。なのに、全然恐ろしく感じなかった。できる。柊吾の胸に、確信が燃えていた。必ず、できる。言葉で、世界は変えられる。撫子が昨日、世界を確かに変えたように。
不意に、頭に響く言葉があった。
――どんな言葉でもいいんだ。君の声なら、何でも。
優しい、テノールの響きだった。
もう二度と耳にすることの叶わない、柊吾の父の声だった。
――挨拶でも名前を呼ぶ事でも、本当に何だっていい。大事なのは、その子と会話をする事だ。その子を想う言葉なら、心を込めた言葉なら、声に出した言葉なら。どんなものでも構わないんだ。
柊吾達が小学五年の頃の、苛め。
誰もが救おうとしなかった紺野沙菜を、ただ一人気にかけていた撫子へ、父が授けた希望の言葉。あの頃には意味を捉えられなかった言葉の群れが、すとんと柊吾の胸へ落ちた。温もりが、かがり火のように熱く灯る。
「言葉は……強い」
父の遺したその言葉を、柊吾は胸に、深く刻む。
言葉は、強い。それを〝言挙げ〟する人間が、ここで、生きている限り。
「……なあ、皆」
柊吾は、全員へ呼びかけた。
どうしても、言いたいことができたのだ。
「さっき挙がった、俺達がこれからしたいことの必須条件。風見と呉野に会うことの他に、もう一個追加だ。紺野も、関われる形にしないか?」
「紺野さんも?」
七瀬が、目を瞠る。毬も息を吸い込んだが、その隣では、和音が微かに頷いた。柊吾がこういう提案をすることを、予め知っていたかのようだった。
「いいと思う。エゴかもしれないけど、私は賛成」
「エゴ、か」
――撫子も、使っていた言葉だ。
確かに、これはエゴだろう。柊吾だってそう思う。他のメンバー全員だって、きっと思いは同じのはずだ。
だが、そんなことは承知の上だ。その遺志を叶えることが、たとえ世界中の誰からも、非難されることだとしても。
それでも、撫子は望んだのだ。
巫女として、紺野の『代わり』を務めることを。そして巫女である以前に一人の人間として、一人の人間だった少女の為に、少女の『代わり』を務めることを。
そんな撫子の願いなら、既に、柊吾は全員に伝えている。
「じゃあ……本当に、言うの?」
毬が、辛そうに呟いた。
懺悔のような、声だった。この行為を遂げる撫子の代わりに、罰と許しを乞おうとするような敬虔さが、聞く者の胸を切なく刺す。
だが、止まれないのだ。止まるわけには、いかないのだ。
柊吾は美也子のことだけではなく、紺野沙菜のことも考えたいのだ。
「言おう。雨宮は、覚悟を決めてる。だから、俺は……支えたいって、思う」
「私も。それに、撫子ちゃん一人の問題じゃないから。一緒に背負いたい」
七瀬が、すぐに乗ってきた。
次いで拓海が、「俺も」とはにかんで言った。
「苛めって、さ。止めないで見てる方も、苛めのうちに入る、って言われるじゃん。だから、ってわけじゃないんだけどさ……〝言挙げ〟するのは一人でも、それを背負うのは、全員がいい。俺は、そうしたいって思うんだ」
陽一郎はもじもじと肩を揺らせていたが、やがて「うん」と小さく言った。
「僕も……紺野さんの気持ち、大事にしたい。誰も笑顔にならないかも、しれなくても」
「……毬」
和音が呼ぶと、毬は膝の上でぎゅっと拳を握って、目を瞑った。
その目を開くと、毬は苦しげな顔のまま、言った。
「……うん。ミヤちゃんにとっての私が、たくさんいる友達のうちの一人で、私にとってのミヤちゃんも、一番の友達じゃなくても……都合がいいって、思われても。全部が終わった時に、ミヤちゃんのこと、支えたい。それがきっと、私がミヤちゃんにしてあげられる……最後のことだと、思うから。もういなくなった紺野沙菜さんの……『代わりに』」
「……。『代わりに』、か。その言葉、美也子も言ってた」
遠い目をした和音が、窓の向こうへ視線を馳せた。
物憂げな横顔を見るうちに、柊吾は、一つの気がかりを思い出した。
「佐々木。『代わりに』って言葉に、聞き覚えでもあるのか?」
「そうだけど、それが何?」
「前に、東袴塚学園でこの言葉が出た時に……なんか、顔色変えてただろ」
「ああ」
和音は毬をちらと見て、「大したことじゃないけど」と、前置きしてから、赤い背もたれに背を預けた。
「美也子から、前に言われたことがあったの。『代わりに謝れ』……って」
「代わりに、謝れ? ……何を?」
柊吾は訝しんだが、七瀬は覚えがあったらしい。「あっ」と叫んで、和音を見た。
「それ、覚えてる。私達の受験が終わった時のことでしょ? グラウンドで、鋏を持った風見さんが、和音ちゃんに言ってたっけ」
「うん。どうして美也子があんなことを言ってきたのか、私には今でも分からない。毬の誕生日の夜に喧嘩したことを、責められてるんだと思ってた。けど、紺野さんの過去を知った今は……そんな理由じゃなかったのかも、って考えてる」
「どういう意味だ?」
柊吾は、踏み込んで訊ねてみた。
純粋に疑問だからだ。和音の達観の理由を、知りたかった。
「だって、『代わりに』って言葉は、もともと紺野さんの言葉でしょ」
和音の声は、どこか気だるげだった。
まるで、親しい友人を転校で失うと分かっているのに、それによって切れる絆を時に任せて眺めるような、怠惰と諦観が、そこにあった。
「私、美也子が不気味だった。事件を通して、どんどん知らない美也子の顔が見えたから。でも、今は……そうでもない。美也子だって、誰かに強く拘ってるだけの普通の女の子だって思えたから。美也子が言った『代わりに』って言葉が、その証拠。あの子は、紺野さんに囚われてる。自分が苛めた紺野さんに。自分より下に見てたはずの紺野さんに。それから……友達の、紺野さんに」
「……友達」
柊吾は、息が詰まった。
友達というその言葉が、ひどく歪に聞こえたのだ。
だが、それでいて同時に――何故だか、腑に落ちる感覚もあったのだ。
「あの子達の関係の本当の名前なんて。美也子にしか断言できないと思う。ううん、美也子自身にだって、よく分かってないのかもしれない。でも、どういう形かは分からないけど、今も美也子は拘ってる。いなくなった、紺野さんに。だから生前の紺野さんと、同じ言葉を使ったんだと思う。そういう風に、考えたら……私は美也子のことを少しだけ、嫌いじゃなくなる気がしたの。忘れるより、覚えてる方がいいって思うから」
話している和音自身、友達という言葉を、覚悟をもって使ったに違いなかった。何だか遊び疲れた子供が眠りに落ちるような疲労と忘我の表情で、窓の向こうを眺めている。
往来の眩しさを映す瞳が、すうと閉じられた。
「美也子はまだ、紺野さんのことを覚えてる。これから忘れるのかもしれなくても、まだ、なんとか覚えてる。そういう意地とか、拘りみたいなものは……私は、嫌いじゃないから」
「佐々木……」
「もちろん、こんなのはただの偶然で、あの子は何も意識なんてしてないかもしれないけどね」
目を開けた和音が、柊吾を見た。
「答えは、出た?」
不意を打たれ、柊吾は息を呑む。
「私達は、これから何をする?」
全員の顔を見回すと、柊吾と目が合った面々は、みんな悲しげながらも、笑っていた。各々が後押しのように、頷いて見せてくる。
答えなら、もう出ているのだ。
「……その〝言挙げ〟は、俺よりリーダーにやってもらった方がいいだろ」
柊吾は、隣席の拓海を腕で小突いた。
「えっ、俺っ?」
拓海は大いに狼狽えた様子で、声を上げて頬を掻いた。
肩を窄めている挙動不審の少年へ、和音は表情の薄い顔を向ける。
その仏頂面に、ほんの僅かだが、笑みが乗った。
「じゃあ、お願い」
「あ……うん。分かった」
虚を衝かれたような顔してから、拓海は少しだけ照れ臭そうに笑った。
そして、きっ、と表情を精悍なものへ変えて、言った。
「呉野さんと風見さんが始めた、今回の〝アソビ〟。その結果に俺達は、誰も納得してない。だから、俺達はこれから皆で、何かをしたい。呉野さんと、風見さんと――紺野さんを、交えて。その為に、俺達に、できることは」
三月七日、日曜日。午前十一時、四十五分。
柊吾達は、これから先の行動を、決定した。
満場一致で、決定した。




