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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 110

 私はずっと、この狭い部屋で過ごしていた。

 開いたカーテンの隙間からは、相変わらず白い光が入ってくる。その日差しの高さと明るさが、私に時の流れを報せていた。四角く切り取られた青い空を、ベッドに腰かけた私は卵のサンドイッチを齧りながら、ぼんやりと眺め続けていた。

 退屈で、寂しかった。もう何年もの間、お父さん以外の人と口を利いていないような気がしてしまう。

 でもそんなことは絶対になくて、私はたくさんの大人の人と、たくさんのお話をしたはずだ。なのに、上手く思い出せない。お母さんのことをいっぱい訊かれた気がするけれど、私はとっても馬鹿だから、誰と何を話したかなんて、すぐに忘れてしまうのだ。少しだけ思い出そうとがんばってみたら、途端に頭の中いっぱいに白い霧が湧き出してきて、すごく眠たくなってしまった。私はのろのろとサンドイッチを食べ終わると、コンビニのビニール袋の口を縛って、立ち上がった。机の傍にあるゴミ箱まで歩くだけなのに、身体がぎしぎしと悲鳴を上げた。多分、筋肉痛だ。私ってば、一体何をしていたのだろう。

 ふっと頭に、おかっぱ頭の女の子の姿が浮かんだ。

 悲しそうな目の女の子だった。白くておぼろげな空間に、ぽつんと一人で立っている。

 その女の子は本当は、どこに立っているのだろう。私は目を閉じて考えた。

 思い出した。夕焼けが見える。ここは、小学校のグラウンドだ。私達は、みんなで仲良く、遊んでいた。かくれんぼをして、遊んでいたのだ。

 その遊びの中で、鬼を務めた女の子。

 その子こそが、おかっぱの女の子だ。

 ――みいちゃん。

 女の子が、私を呼んだ。

 ――お願いが、あるんだ。……聞いて、くれる?

「……うん。何でも言って、紺野ちゃん……」

 目頭が、熱くなった。

 そうだ。この子は、紺野ちゃん。思い出せて、すごく嬉しい。

 なのに、私の腕には鳥肌が立ったのだ。この女の子のことを愛しいと思っているはずなのに、一緒に地獄へ行こうとまで思っていたはずなのに、その気持ちと同じくらいの強さで、怖い、と思ったのだ。

 ううん、違う。怖い、では少し違う。私は、本当は、この子が。

 だめだ。私は、自分の心に蓋をした。だめだ。だめなのだ。そんな風に、思っては。私は両手で頭を掴み、めちゃくちゃに首を振った。だってこの子は、人間なのだ。私が、人間にした女の子。だから、受け入れないとだめなのだ。絶対に、大丈夫。もうこの子は、きれいだから。ぐるぐると、目が回りかけた。込み上げた吐き気で、口の中が酸っぱかった。私がぐらりとふらついて、机に手をついた時だった。

「美也子、どうしたっ? 美也子!」

 扉が開く音とともに、お父さんの呼び声がした。

 私は、額の脂汗を拭いながら振り返る。

 お父さんは、やっぱりくたびれた格好をしていた。昨日と似たり寄ったりの服装だと思ったけれど、昨日がどんな格好だったかは、すぐによく分からなくなった。お父さんはしきりに私を気遣う言葉を立て並べると、息が切れたみたいに苦しそうに喘いでから、ベッドに腰掛けて俯いてしまった。

 私は、心配になってしまう。お父さん、すごく疲れてる。

「お父さん、大丈夫?」

 私がそう訊ねたら、お父さんは、憔悴しきった顔で私を見た。

 何だか少しだけ、ぎらぎらした目つきだった。

「美也子。お父さんが全部の片付けを済ませたら、この街を出よう」

「この街を?」

「袴塚市を出て、もっと空気が良い所へ、今度こそ引っ越そう。前はお父さんは一緒じゃなかったけど、今度は美也子と、一緒に行くから。新しい場所で、お父さんと……一から、やり直そう」

「……そっか。うん。分かったよ、お父さん」

 私は笑って、そう答えた。

 そう答えるしか、なかったからだ。私は、とっても馬鹿だから。それに、私が馬鹿でなかったとしても、私は十五歳の子供だから、お父さんがそう言うなら、そうするしかなかった。

 お母さんが、反対してくれたらいいのにな。

 そうしたら、私、まだこの街にいられるかなあ。

 とりとめもなく考えたけれど、私はその思いを口に出さなかった。私がお母さんのことを話題にすると、お父さんはすごく悲しそうに、顔をくしゃくしゃにするからだ。そんなお父さんの顔を見たら、私まで同じ顔になってしまって、心の傷口がずきずきと疼いて痛いのだ。

 だから、私は何も言わない。

 馬鹿な私が忘れた思い出が、一斉に戻ってきそうで、怖いから。

「引っ越し、かあ……」

 私もお父さんの隣に腰かけて、何となく呟いた。

「二回目、だよね……この街を、出るの」

 お父さんが、私を横目に鋭く見た。

 その顔色があんまり悪くて、私はすごく落ち着かない気分にさせられた。

 けれど私だって、少しでも、私の気持ちを言いたいのだ。記憶の白い海辺に屈んだ私は、水面の上澄みをさらいながら、それを唇に乗せて歌うように、囁いた。

「今度の、引っ越しは……もう、帰って来れない引っ越しなんだね。……紺野ちゃん、撫子ちゃん……私……さびしい。さびしいよ……」

 お父さんが、真っ青な顔で立ち上がった。

 その時、携帯の電子音が、狭い部屋中に響き渡った。



     *



「じゃあ、まず僕から報告するね」

 陽一郎が、元気いっぱいに声を張った。

 六人掛けの円形シートに座った柊吾たちは、陽一郎の語りを待った。

 時刻は、午前十時半。

 袴塚西駅校内のファーストフードショップには、既に六名が集っていた。用事のある撫子を除く、全員だ。

 窓から入ってくる日差しは、今日も白く眩かった。時間が時間なので、以前よりもさらに客入りが少ないようだ。

「昨日、僕と綱田さんの二人で藤崎さんの家まで話を聞きに行ったよ。みいちゃんの事と、えっと、篠田さんが持ってた鏡について、教えてもらうために。まずは、みいちゃんの事から分かったことを話すね」

 舌足らずながらもはきはきと喋った陽一郎は、鞄から携帯を取り出した。

「藤崎さん、みいちゃんのお父さんと連絡がついたんだって」

「風見の父親とっ?」

 場が俄かにざわめいた。柊吾が代表で訊き返すと、陽一郎は「うん」と頷いた。

「ほら、怪我したみいちゃんを保護したのって、藤崎さんでしょ? だから警察を通じてみいちゃんのお父さんとコンタクトが取れたんだって。僕らが予想してた通り、みいちゃん達は今ビジネスホテルにいるみたい」

「それで藤崎さんは、風見の父親とどんな話をしたんだ?」

「藤崎さんから、撫子のことを話してくれたんだって」

 陽一郎は、打てば響くように答えてくれた。

「みいちゃんが一昨日、怪我をさせた女の子がいる、って。みいちゃんのお父さんに言ってくれたんだって。みいちゃんのお父さん、すごく申し訳なく思ってるみたいだって言ってたよ」

 ――美也子が、怪我をさせた女の子。

 撫子のことだ。あるいは、和音のことでもあるだろう。

 柊吾は和音をちらと見たが、黒いニット帽を被った長い黒髪の少女は、怪我人に自分が含まれているとは露にも思っていない様子だった。カーディガンに袖を通した腕を組むと、意思の強そうな瞳で陽一郎をじっと見て、「それで?」と話の続きを促している。

「う、うん。藤崎さん、みいちゃんのお父さんの連絡先を撫子達にも教えていいかって訊ねたら、お願いしますって言われたんだって。……これが、その番号」

 陽一郎が、今度は一枚のメモ用紙を取り出した。

 全員が身を乗り出し、その紙片を覗き込む。

 数字の羅列が、罫線に沿ってボールペンで書かれていた。何となく柊吾は、昨日撫子の家で見た、紺野の遺書を連想した。

「この番号を藤崎さんは、撫子の家に電話で教えてあげたみたい。同じものを、僕も一応教えてもらえたけど……電話をする時は、子供達だけでかけちゃ駄目って言われちゃった。柊吾の叔父さんに」

「ユキツグ叔父さんか……まあ、そうだろうな」

 柊吾は唸ったが、この程度の制約は気にするものではないだろう。むしろ、連絡手段を教えてくれただけ有難いというものだ。

「撫子ちゃんの家族の方、ミヤちゃんのお父さんに、電話したのかな」

 毬が、陽一郎と和音の間で不安そうに言う。

 美也子のことが、気がかりなのだろう。和音も、複雑そうな顔で言った。

「美也子自身のことも、今どうしてるのか知りたい。あの子、自分の置かれてる状況、ちゃんと分かってない気がするから」

「……うん」

 毬は俯いてしまい、誰も慰めの言葉をかけられなかった。

 ――現在の美也子は、一体どれほどのことを覚えているのだろう?

 氷花の〝言霊〟による忘却癖は、簡単に治りはしないはずだ。

 だとしたら、以前に拓海が懸念したように、一昨日の〝アソビ〟についても忘れている可能性が非常に高い。

「風見の現状は、分かんねえけど……多分だけど、雨宮の父親が電話はかけたと思うぞ。風見の父親に。ただ、火事があったばっかだからな。娘がやらかしたことの対処どころじゃなさそうだけど……」

 言いながら、少し柊吾は後悔した。

 こういった事は、柊吾が事前に撫子から訊いていれば良かったのだ。撫子も柊吾に連絡をしなかったのは、恐らく柊吾を気遣ってのことだろう。

 何しろ、昨日の夕方の帰り道は、柊吾の状態が普通ではなかったからだ。

 撫子は最初は柊吾に何があったかを訊ねてきたが、柊吾がガチガチに緊張している姿を見ると、何も訊かないでいてくれた。それが柊吾には有難かったが、不意打ちで思い出すと、かっと顔がそれと分かるほどに熱くなった。

「三浦、どうしたんだ?」

 隣に座った拓海が、少し怪訝そうに訊いてくる。

「な、何でも……続けてくれ」と震え声で何とか言った柊吾は、ストローを挿したコーラを握った。その冷たさが、今は心地よかった。

「? ならいいけど……。まあ、雨宮さんの家族がどういう風に動いたかは、雨宮さんが来た時に確認すればいいし、今は飛ばそう。とにかく、ありがとう。日比谷。……これがあれば、風見さんとはいつでも連絡が取れる」

 拓海はそう言って、ウーロン茶のカップをトレイに置いた。

 聡明に澄んだ瞳は真剣そのもので、少なくとも腰痛に苦しんでいるようにはもう見えない。この店に入るまでにこっそり柊吾が訊いたところ、激しい運動をしない限り問題ないと、苦笑いで答えてくれた。

「すごい。前進だね」

 明るく笑った七瀬が、嬉しそうに言った。

 こちらもマスクこそしているが、服装は薄手のニット姿だった。短いスカートだけは風邪引きの格好としてどうかと思う柊吾だが、本人に言わせれば、昨日我慢したのだから今日はこうでなくては気が済まない、とのことらしい。

「よし、じゃあ次の報告は? 日比谷君に鏡のことを続けて話してもらう?」

 七瀬が一同へ意見を求め、拓海が「ん、そうしよっか」と答えたが、はたと突然、その身体の動きが止まった。

「? どしたの、坂上君?」

「いや、その……俺からも、報告しないといけない事があるんだけど……」

 拓海は、急にぎくしゃくと言った。昨日までのリーダーシップは何処へやら、おどおどと全員の顔を見回している。七瀬が、不思議そうに小首を傾げた。

「そんなに言いにくいことなの?」

「えと……うん」

「私が代わりに言おっか? こうしてる時間がもったいないし。ね、教えてよ」

「いや、あの……篠田さんにも、言いにくいっていうか……女の子たちに、言いにくいんだ」

 その渋りようを見ていると、柊吾にはピンときた。

「坂上、まさかそれって……あれか? 一昨日の夜、呉野神社でイズミさんから聞いたやつ。……呉野の、『弱み』のことだろ?」

「呉野さんの?」

 七瀬が、意外そうに目を瞬いた。

「すごい、そんなことも分かったんだ! ねえ坂上くん、教えて!」

「や、あの……」

「呉野さんに気を遣ってるの? 気持ちは分かるけど、呉野さんは人の『弱み』を散々弄んできたんだもん。これからの自衛のために、みんなも知ってた方が絶対いいよ」

「篠田。坂上も、そういう風に言ってイズミさんから情報を訊き出したんだ」

「え、そうなの? じゃあ、なんで?」

「俺にも分かんねえけど、めちゃくちゃ言いにくいことらしい。なあ坂上、なんで言わねえんだ? 折角教えてもらったんだから、言えばいいだろ」

「……じゃあ……その、男子に先に教える、って方法じゃだめ?」

「はあ……?」

 柊吾と七瀬は顔を見合わせ、それぞれが胡乱な目を拓海に向ける。拓海は青汁を煽ったような顔で「無理、ほんと無理だから、ごめん」と主張して、決して譲ろうとしなかった。

 もちろん、この態度は女子達にも顰蹙だった。和音はジーパンを履いた足を組むと、絶対零度の目で拓海に向かって命令した。

「さっさと言って」

 対する拓海は、両手を合わせて項垂れた。

「ごめん、無理」

 和音は、面倒臭そうに溜息をついた。

「じゃあ、先に男子に言って。その後で、男子のうち誰かが私達に説明してくれるって理解でいい?」

 冷ややかな声で妥協案を提示され、柊吾と陽一郎は目を剥いた。

「待った。坂上が何言うつもりか知らねえけど、こんなに話すの嫌がってるってことは、ろくでもない内容なんだろ? なんか分かんねえけど、嫌だ! 坂上、お前が今すぐ言え!」

「む、無理だって! 俺だって嫌だって!」

「そんなあ! 何か分かんないけど、僕もやだよー!」

 ぱんっと両手が打ち鳴らされ、和音がぎろりと男子全員を睨んだので、柊吾達は一斉に口を閉ざした。

「早く男子達で話してきて。ここで話すのがそんなに無理なら、三人でお店の外に出てきて。戻って来る時には、誰が私達に報告してくれるかも決めておいて。いい?」

「……はい」

 拓海と陽一郎が肩を落として立ち上がり、柊吾も渋々とそれに倣った。三人揃ってすごすごと店の外に出ると、拓海は気まずそうに柊吾と陽一郎へ顔を寄せるよう手招きしてから、ひそひそと耳打ちしてくれた。

「……おおう」

「……えーっ?」

 とんでもない内容だった。

 また、あまりにもくだらない内容とも言えた。

「こんなアホらしいものが、呉野の『弱み』だと……」

「イズミさんは、そう言ってたけど……」

 確かにこれは、女子への報告に困るだろう。拓海の心情を慮り、柊吾も深く頷いた。

 だがこの首肯は、決してこの報告任務を請け負ったという意味ではない。

「で、坂上。陽一郎。……これ、誰が女子に報告する?」

「……」

「……」

「おい、俺は嫌だからな。これを聞いて来たの坂上だろ、お前が言え」

「や、やだ」

「やだじゃねえよ、俺だって嫌に決まってんだろ。じゃあ陽一郎、お前が言え」

「僕もやだってばー! 綱田さん達にこんなこと言えないよー!」

 かくして、駅構内のファーストフードショップ前で、男子三人の小突き合いと、醜い押し付け合いが始まった。その結果として最終的に、じゃんけんによって勝敗を決した。

「……なんで俺なんだ」

 仏頂面を極めながら、柊吾は露骨にほっとした顔の拓海と陽一郎を伴って、六人掛けのシートへ戻った。

 待たされ続けた女子達は、気のせいか重い圧力を放っていた。明らかに、くだらないことで時間を浪費するなと顔に書いてある。

 ぐっと柊吾は気圧されたが、逡巡の末に、「篠田、ちょっと」と手招きした。このメンバーの中では最も言いやすい相手だからだ。

「ちょっと三浦くん、今のって一体どういう人選?」

 七瀬はマスクをした頬をめいっぱい膨らませていたが、素直に席を立って柊吾についてきた。

 柊吾は躊躇ったが、無理やり気持ちに踏ん切りをつけると、拓海から聞かされた内容を、伝言ゲームよろしく七瀬にこそこそ囁いた。

 すると七瀬はぽかんと固まり、まじまじと柊吾の顔を見た。

 みるみるその顔が赤くなり、身体がわなわなと震え、柊吾を睨み付けてきた。狼狽えた柊吾は、先手を打って叫ぶしかなかった。

「お、俺だって、言いたくて言ったわけじゃねえんだからな!」

「さ、サイテー! こんなこと男子達でひそひそ喋ってたのっ? もうっ、信じらんない!」

「だからっ、こんなこと俺だって言いたくねえんだってば! あー、くそ! 全部呉野の阿呆の所為だ!」

 和装の異邦人は絶対に、この混乱を最初から見抜いていたに違いない。悔しさで地団太を踏みたい柊吾だった。

 ぎゃあぎゃあと騒ぐ柊吾達の立つ場所からは、日差しを燦々と浴びたバス停が見える。花壇の道が続く先には、清々しいほどに青い空が見えた。

 今日も、よく晴れている。

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