鏡よ鏡 4
すぐに、まずい事をしてしまったと七瀬は気づいていた。
去年の授業中に、鏡を触っていた女子生徒が、教師に見咎められて鏡を没収された事がある。その一件が脳裏を過ったからこそ鏡をポケットへ隠したのだが、血の付いた指ですべきではなかった。
夕暮れの色彩をほんのりと帯び始めた無人の廊下で足を止めると、上履きが床に擦れる音もぴたりと止んだ。そうなると七瀬の耳に聞こえてくるのは、遠い調理室の喧騒と、グラウンドで野球をしている生徒達の声援、窓枠が風に叩かれて小刻みに揺れる音だけだった。
七瀬は周囲をそろりと窺い、エプロンの裾を左手で捲り――渋面になった。
スカートは、血でべったりと汚れていた。指が布地を滑った痕まで残っていて、ミステリードラマに出てきそうな事件被害者の様相を呈している。スカートがシックな紺色なので目立たないが、それでも制服を血で汚してしまった事に七瀬は少なからずショックを受けた。これでは経血に見えてしまう。
同じようにスカートを汚してしまった同級生を、七瀬は以前に見た事がある。周期の安定しない生理に、まだ慣れていなかったのだろう。せめて自分で気づきたかったはずだが、周囲が先に気づいてしまった。友達に庇われながら教室を出ていったその少女は結局ジャージに着替えたが、普段そんな格好で帰宅などしないので、恥ずかしくて堪らなかったと思う。当時も可哀想だと思ったが、今こうして似た状況に立たされてみると、あの時の自分は生理で俯く少女とは他人で、文字通り他人事だったのだ、と。そんな風に思ってしまった。
「はあ……最悪」
エプロンで血痕を隠した七瀬は、落胆を振り切って保健室へ急いだ。せめて人気がない時間帯で助かったが、考えてみれば授業中だからこそ、鏡を慌てて隠したのだ。結局は七瀬の不真面目な授業態度の所為だった。先程までの散漫な思索の数々を思うと、何だか馬鹿馬鹿しくなってくる。
……普段、こんな風にうじうじと考え込むことなんて、ほとんどなかった。
根が短気だからだろう、悩む前に怒っていたからだ。小学生の頃は、男子とも取っ組み合いの喧嘩をよくやった。だがそれは小学生だから許容された行為であり、変化を拒んで我を通せば、七瀬は女子コミュニティから弾かれるだろう。
それでも七瀬は、我慢の限界を迎えた瞬間、螺子が飛んだように怒るだろう。見栄と体裁と姑息さが、七瀬の理性を繋いでいる。そこへの執着を振り切った途端、七瀬は以前の七瀬に戻るのだ。
悩むよりも、怒ればいい。ミユキに、夏美に、『大人しい』少女達に? ……やっぱり、今は駄目だった。
指の傷口が、じくじくと熱く痛む。夏美に指摘されるまで気づかなかったが、本当にどうしてこんな怪我をしたのだろう。気味の悪さを抱えながら、七瀬は廊下の突き当たりを曲がり――足を止めた。
声が、聞こえてきたからだ。
「……でも、良かったなあ。お前の事、まだ見込んでくれてるみたいだぞ。本当にいいのか? 棒に振って」
「いいんです。っていうか、もう俺はほとんど活動してないのに、そんなんでいいんですか。部長だって、もっと適任いると思うし。鈍ってるんで、使い物にならないと思います」
「鈍ってるわけあるか。立派に部の皆を率いてくれているじゃないか」
校舎一階の、保健室や職員室が並ぶ廊下に――三人の人間が立っていた。
一人は、中年の男性だ。ごつごつした手の甲は日焼けの名残なのか浅黒く、身体つきはスーツの上からでも分かるほど精悍だ。七瀬は女子中学生の平均身長よりやや高いくらいの背丈だが、目の前の男はまるで壁のようだ。
屈強な男の傍には、一組の男女がいた。歳は七瀬と同じくらいに見えたが、男女共にブレザーは濃紺で、スカートとズボンは青と白のチェック柄だ。
袴塚西中学の制服だ。ここからは少し遠い学校だが、七瀬の近所の学習塾に袴塚西の生徒が通っているので知っている。女子の制服のリボンタイが洒落ていて、金色のボタンが印象に残っていた。生徒の引率らしき男の体格にも七瀬は驚いたが、目の前の少年少女も、奇抜さでは大人に引けを取らなかった。
少年は満身創痍で、頬と手の甲に、剥がれかけの絆創膏をぺたぺたと数枚貼っていたのだ。一般的な茶色の絆創膏ではなく、ピンクやオレンジといったポップな色彩の絆創膏だ。
しかも、ファンシーな絆創膏まみれの少年は――隣の少女と、手を繋いでいた。
「……」
何故、他校の学生達が、七瀬の学校で手を繋いでいるのだろう。それに、少年と会話を弾ませる男の声にも、からかいのニュアンスが見当たらなかった。
絆創膏の少年はかなり大柄だが、対する少女はかなり小柄だった。発育不良を疑うほどの小ささから兎やハムスターといった小動物を連想し、可愛い子だな、と七瀬は素朴な感想を持ったが、その手を握る少年との体格差が凄まじかった。大きな熊が小さな兎を連れているように見える。
呆然としていると、ちぐはぐな身長差カップルの男子の方が、七瀬に気づいた。引率の男も顔を上げたが、栗色の髪をハーフアップツインに結った少女だけは動かなかった。七瀬は見知らぬ二人からの視線にたじろいだが、先に相手を眺め回したのはこちらだ。軽く頭を下げようとすると、少年が「あ」と声を漏らした。
「監督、俺ら邪魔」
「なんだ? 三浦」
「保健室。三人もいたら塞ぐから。先生を待つ場所、変えませんか」
「ああ、しまった。じゃあ、先に会議室で待っていなさい。すぐに行くから」
「はい」
応えた少年が、少女の手を軽く引いた。少女は緩やかに顔を上げたが、それ以上の反応を見せなかった。琥珀色の瞳に微かな困惑が過った気はしたが、あまり表情が動かない。そんな少女と握り合う手を、少年がそっと離した。
一体何をするつもりなのかと見守る七瀬の前で、少年は少女の肩に腕を回し、自然な動作で引き寄せた。そのまま軽く屈みながら、もう片方の手が少女の下肢に伸びて――ひょいと、少女を抱きかかえた。
「え、えぇっ?」
……姫抱っこなんて、初めて見た。あんぐりと口を開けた七瀬を、少年は少女を抱えたまま一瞥し、照れた様子など一切見せずに「指、血ぃ出てるぞ。大丈夫か?」と、朴訥とした声音で訊いてきた。
「あ……うん。平気」
七瀬が頷くと、少年は浅く頷き返し、こちらに背を向けてすたすたと歩き始めた。呆気に取られた七瀬が慌てて「あ、ありがとう……?」と礼を述べると、顔だけで振り返った少年は「ん」と答え、廊下を黙々と歩いて行ってしまった。
白昼夢を見せられた気分になっていると、場に残った男が七瀬を見下ろしていた。目が合った七瀬は驚いたが、相手はもっと驚いていた。先程の少年の指摘で、七瀬の怪我に気づいたのだ。
「君、大丈夫か? いや、本当にすまなかった。邪魔だっただろう。早く先生に診てもらいなさい」
「あ……多分もう血は止まったから、大丈夫ですけど……あれは一体……?」
初対面ということも忘れ、気もそぞろに七瀬が訊くと、ああ、と男は厳つい顔の表情筋を不意に緩め、温厚に笑った。
「気にしないでやってくれ。あの子は、ちょっとした不自由を抱えてるから。途中まではいけると思ったんだが、無理をさせ過ぎたか。悪いことをしたなあ」
「?」
七瀬は首を捻ったが、やがて薄らと察しがついた。男の笑みに、悲しみに似た何かが通ったからだ。
――少年が連れて行ったあの少女は、何らかの障害を抱えているのだろう。
「ここで見た事は、何も言わないでくれないか。他校で噂なんかになれば、あの子が可哀想だからな。芯は強い子だが、強いからって人間、何でも耐えられるわけじゃないんだ」
語り口こそ優しいが、重い言葉だ。身長差カップルだの姫抱っこだのと、浮かれている場合ではないのだ。七瀬が神妙に頷くと、男は重くなった空気を吹き飛ばすような豪胆さで笑った。
「ああ、先生はな、袴塚西中学で体育教師と、野球部顧問をやってる森定だ。東袴塚中の野球部と、近々春の交歓会をやる事になってるんでな。その事前打ち合わせで、うちの野球部部長とマネージャーを連れて来た」
「袴塚西の、先生?」
目を瞬いた七瀬は、道理で、と納得した。それならば、他校の生徒がここにいるのも頷ける。しかし帰宅部の七瀬には、会合の中身がぴんとこない。
「野球部の交歓会って、どういうことをするんですか?」
「まあ、小難しいことはどうでもいいから、皆で仲良く野球しようぜっていう会だな」
他校の体育教師は、実に適当な説明をしてくれた。緊張が解れ、七瀬は小さく笑った。森定は、袴塚西中学で生徒から好かれているに違いない。
「それじゃ、お大事にな。調理実習、大変だなあ」
「大変ですよ。退屈だし、つまんない」
「先生相手に言うか? まあ、ここだけの話、先生も学生の時は調理実習が嫌でフケてたクチだから、あんまり偉そうな指導はできないんだがなぁ。まあ、適当に頑張れ。怪我してるのに、引き留めて悪かったな」
「いえ、ありがとうございました。適当でいいなら、頑張ります」
――頑張れ。
……母が、よく使う言葉だ。
七瀬はあまり好きな言葉ではなかったが、目の前のこの教師から聞くと、不思議と抵抗が少なかった。七瀬は森定に一礼すると、保健室の扉の前に立った。丁度背後でも職員室の扉が開き、東袴塚学園の方の体育教師が出てきた。大人同士のやり取りを耳に入れながら、七瀬はそっと廊下の様子を窺った。
会議室のある一角は電気が点いておらず、一列に並んだ曇り空色の磨り硝子が、寒々しさを煽っている。先程の少年と少女は、会議室の扉をなんとか開けて、室内へ入るところだった。
胎児のように抱えられた少女の手が、少年の頬と首筋の絆創膏に触れる。そして恐る恐るといった様子で、少年の首を抱くのを、七瀬は見た。
普通であれば、教師が真っ青になって止めに入りそうな光景だ。少女の抱える障害が何なのか気になったが、同時に見てはいけないものを見てしまった気分になり、単純な羨ましさも二人に感じた。少しだけ熱くなった頬を誤魔化すように、七瀬は保健室の扉をノックした。
だが、返事がなかった。
「……?」
首を傾げた七瀬はもう一度ノックし、今度は返答を待たずに、扉を開けた。
「失礼します」
――ひゅうう、と。風が、頬に吹き付けた。
七瀬は、保健室に足を踏み入れかけて――止まる。
「……あら、ごめんなさいね。気づかなかった。どうしたの?」
保健室の女性教師が、七瀬を振り返る。その表情には驚きがあった。二度のノックに気付かれなかった理由を、七瀬も目の当たりにしていた。後ろ手に扉を閉める事も、入り口でスリッパに履き替える事も忘れて立ち尽くす七瀬の髪とスカートを、風が音を立てて揺らしていく。
……窓が、開いているのだ。
白い壁、白い床、白いカーテン。白を基調とした保健室へ吹き込む風が、桜の花弁を運んでくる。書類も紙吹雪となって床へ散らばり、簡易ベッドを仕切る布のパーティションの水色が、目に鮮やかなほどの白さだった。
「ええと、篠田さんね。ごめんなさい、散らかってて」
保健室の教師は弁解し、七瀬の指を見て息を呑む。「そこに座って」と指示されたが、非現実的な白さに幻惑された七瀬は思うように口が利けず、緩慢に室内を見回した。
「何、これ」
「色々あったのよ」
白衣の女性教師はガーゼと消毒液を準備しながら曖昧に濁し、七瀬の質問に答えなかった。代わりに「座りなさい、篠田さん。手を見せて」と早口で言われたので、七瀬は金縛りが解けたように上履きをスリッパに履き替えて、のろのろと室内に入り、回転椅子に腰掛けた。
「調理実習ということは、包丁で切ったの?」
「いえ、何で切ったのかは分からないんですけど……」
七瀬は口を開いたが、どう説明すればいいか分からない。それに、意識は保健室の惨状へ向いたままだ。床には書類の他にも消しゴムやメモ用紙など、重さの軽いものも落ちていた。事務机には紙束とダイヤ型のペーパーウェイトが雑多に積まれているので、保健室の教師はこれらを拾っている最中だったのかもしれない。一際強い風が吹き、桜の雨が開けっ放しの窓を越えて、七瀬達に降り注ぐ。この所為で、部屋が滅茶苦茶になったのだ。
「窓……閉めないと。先生」
「こっちが先でしょう。じっとしていて」
消毒液で湿した綿で、ちょんちょんと傷口を突かれた。「痛っ」と悲鳴を上げた七瀬は涙目で相手を睨んだが、保健室の教師は七瀬の抗議には見向きもしない。不機嫌が顔に出ているので、片付け中にやって来た七瀬が邪魔で苛々しているのかもしれない。予想はできたが、だからと言って今の八つ当たりのような仕打ちを許せるかどうかは別問題だ。
「先生。保健室、どうしてこんなに滅茶苦茶になってるんですか?」
改めて七瀬は訊いてみたが、保健室の教師は「治療が先よ」と譲らなかった。きっと七瀬の傷の手当てが済んだ後には「授業が先よ」とでも言うつもりだ。反発から七瀬がむくれた時、背後から「どうしたんですか?」と声がかかった。
振り返ると、東袴塚の体育教師と森定がいて、「うわっ。戸田先生、何事ですか」と叫んでいた。冷たい春風に乗った桜が、廊下にまで零れたのだ。
保健室の教師――今知ったが、戸田というらしい――は、二人の姿を認めた途端、ぱっと顔色を明るくした。同僚が来て安堵したのだろう。七瀬一人を相手にしている時とは、態度に雲泥の差があった。
「ああ、丁度よかったです。先生、申し訳ないんですけど、窓を閉めて頂けませんか? 今、手が塞がっていて」
言いながら、戸田は七瀬の指にガーゼを当てて、包帯をくるくると巻き始めた。体育教師は狐につままれたような顔をしていたが、我に返った様子で靴を脱いだ。先程の七瀬と同じ感慨を抱いたのだろう。大人と同じ感性が自分にも備わっている事が、少しだけ不思議だった。教師は桜の花びらをスーツにくっつけながら歩き、開け放たれた窓を閉めた。
す、と。風の音が、テレビの電源を落としたかのように、止まる。
唐突に訪れた静寂が、大人ばかりが集結した保健室に、重く落ちた。
誰もが一瞬口を利くのを憚ったが、口火を切ったのは森定だった。
「一体、何事ですか。これは」
それは一度七瀬がぶつけた質問だったが、全く相手にされなかった質問だった。
問われた戸田は、ほっとした顔つきで、口を開きかけたが――ちら、と七瀬を意味ありげに見てきた。
「……」
邪魔だから出ていけと、そう言いたいのだろう。有難いほど分かりやすい。
同性の倦厭の目とは、どうしてこうも腹が立ち、どうしてこうも許せないのだろう。本当に不思議だと七瀬は思う。きっと七瀬たち女子生徒の遺伝子には、喧嘩の相手を完膚なきまでに叩き潰さなければ気が済まない、陰険で業の深い闘争心が織り込まれているに違いない。
ならば、上等だった。先程の件もあるので、ここで折れる気はなかった。にこりと無垢を装って笑って見せると、七瀬は回転椅子に居座り続けた。戸田の眼差しに苛立ちがこもり、これ見よがしに溜息を吐かれてかちんときたが、七瀬は笑顔をキープする。相手も引き攣り笑いで応じてきたので、七瀬は足をぶらぶらさせて、退く気はない意思をアピールした。最早水面下ではなく堂々といがみ合っていると、「先生、この子は口が堅いと思いますよ」と森定が助け舟を出してくれた。少し面白がるような顔で「どいつもこいつも、血気盛んだな」と付け足されたので、七瀬のような強情張りが、他の教え子にもいるのだろう。窘められた七瀬が気まり悪さから目を逸らすと、戸田も居心地悪そうにそっぽを向いた。
「どうしてこんなに散らかっているんです? 他の生徒もここに来たらびっくりすると思いますよ。差し支えないところまでなら、話を聞かせても問題ないのではありませんか?」
「……はあ」
戸田はもう一度溜息をついたが、今度は七瀬を追い払う為ではなく、観念の溜息らしい。戸田はそれでも言い渋ったが、教師二名を待たせているからだろう、重い口を開いた。
「ついさっきまで、そこのベッドで女の子が一人寝ていたんですよ。頭が痛いとか何とか言って。仮病でしょうけどね。体育のマット運動が嫌なんでしょ」
「その女子生徒がどうしたんです?」
教師が訊くと、戸田は困った様子で頬に手を当てた。
「いなくなっちゃったんです。その子」
「いなくなった?」
「ええ。突然。いきなりなんですよ」
戸田は、大きく頷いた。語りながら、興奮してきたらしい。窓を恨めしげに振り返っている。
「本当についさっきまで、そこでゆっくりしていたんですよ。でも、その子はお手洗いに行くと言ってベッドを出て、扉の方にゆっくり歩いて行ったんですけど……そこで、急に様子が変わったんです。お化けでも見たような顔だったわ。真っ青だったんですもの」
戸田は、不可解そうに首を捻った。
「それからよ。いきなり凄く焦り出して。殺されるから匿って欲しいなんて言い出すし。わけを訊こうとして、名前を呼んだら……思い切り突き飛ばされました。その子、それからどうしたと思います? いきなり窓を一つ全開にして、スカート捲って飛び出していったんですよ。そこの窓から、飛び降りて!」
どんどん恨み節を効かせながら、戸田は熱っぽく語り出す。その熱弁を聞く全員が、肝を潰した顔で黙りこくった。七瀬も、唖然としてしまった。
殺される? スカート捲って飛び出した?
女の子が――逃げた?
……あまりの奇行に、掛ける言葉が見つからなかった。
「まあ、一階だから怪我はないでしょうけど。追いかけようにも今日は風が強いですから、この有様で。篠田さんも丁度来たし、身動きが取れなかったんです」
話を締め括った戸田は、椅子からすっくと立ち上がった。
「私、呉野さんを探してきます。篠田さん、あなたは授業に戻るのよ。いいわね?」
戸田はこちらへ、余計なことは喋るなよ、と威圧を込めた目線を寄越し、保健室から出ていった。そんな風に圧をかけるくらいなら、件の女子生徒の名前を最後まで徹底して伏せればいいのに。七瀬は呆れたが、戸田に治療の礼を言いそびれた事に気がついた。廊下を小走りで駆けていく戸田の背中へ「指、ありがとうございました」と叫んだが、振り返った戸田には「授業中よっ」と怒られた。今日は踏んだり蹴ったりだと思う。
その時、ふと隣に立つ森定が「呉野……?」と呟いたのが聞こえ、七瀬は顔を上げた。森定は表情が硬く、何かを深く考え込んでいるようだった。やがて森定は眉根を寄せたまま、東袴塚の体育教師へ向き直った。
「小柴先生、お伺いしたいのですが……戸田先生はさっき、逃げ出した女子生徒を〝クレノ〟と呼ばれたように思うのですが。ひょっとして『い涼呉月』の呉に、野原の野で、呉野と書くのではないですか?」
「そうですよ。三年五組の呉野氷花の事で間違いないでしょう。しかし、信じられません。授業態度はとても真面目で、優等生の鏡のような生徒として、そりゃあ有名なんです。そういえば森定先生、呉野の以前の学校はそちらでしたね」
「ええ。印象的な苗字ですから。もしやと思いまして」
そう答えた森定は、緊張気味の顔をしていた。
「先生……?」
怪訝に思った七瀬が呼ぶと、森定ははっとした様子で動きを止めて、七瀬に優しく笑いかけた。
「いや、何でもないんだ。……小柴先生、すみませんが、連れてきた生徒の様子が気になります。呉野の捜索をお手伝いさせて頂きたいのは山々ですが、先に生徒の元へ寄らせて頂きます」
「いえいえ、是非そうなさって下さい。こちらのごたごたに巻き込んで、申し訳ありません」
体育教師は他にも何か言いたげな様子だったが、七瀬がいるからだろう、口を噤んだ。そして「授業に戻りなさい」と戸田と同じ文句を残して保健室を出ると、職員室へ駆け込んでいった。
「……私、調理室に戻ります」
七瀬は森定に声を掛けたが、「ああ、お大事に」と言った森定も、他の教師同様に早足で保健室を出ていった。
「……」
今、何が起こっているのだろう。事情が読めない部分もあるが、少女の失踪という椿事によって、教師達が右往左往させられていることは理解できた。
〝くれの〟という生徒を、七瀬は知らない。東袴塚学園は生徒数がかなり多いので、名前が判る人間よりも、判らない人間の方が多いのだ。保健室を出て廊下を歩きながら、七瀬は〝くれの〟という少女の行動を想像する。殺されるから匿って欲しい。そう訴えた理由は何だろう?
ただ、想像するまでもなく、逃げた理由なんてシンプルなものに思える。勉強が苦手な七瀬でも分かるほどだ。
きっと、保健室の外に会いたくない人間がいたのだ。
その人物に、〝殺される〟と思った。
だから、逃げた。
……。
「……はあ」
笑えない。七瀬は虚脱感に襲われた。この仮説が正しいなら、少女を殺そうとしている誰かが、あの場にいた事になる。もし本気なら、物騒な話だ。
そんなにも、恨まれているのだろうか。〝くれの〟という少女は。
もちろん、全ては少女の被害妄想、狂言という可能性の方が大きいだろう。何せ〝殺される〟だ。いかにも嘘っぽい。けれど本気で〝殺される〟と思っているなら、誇大化されたヒロイズムだと切って捨てるのも可哀想な気がする。そんな風にあれこれと考えながら廊下を進み、階段前を通過した時だった。
「篠田七瀬。見つけたわ」
――ばきん、と。嫌な音が、服の中から聞こえた。
「あ」
七瀬は、呆けたように呟く。
右太腿が、熱い――その温度を痛覚が捉えた途端、激痛が弾けた。
「……!」
かくん、と七瀬は床に両膝をつき、左手もついた。右手でエプロン越しにスカートを押さえると、ずきんと痛みが鋭く疼き、飛び出しかけた悲鳴を殺した。頭から血が下がっていく気持ち悪さが、寒気となって身体を廻る。震える指でもう一度スカートのポケットを探ると、白い包帯が赤く染まり、太腿からぬるりと液体が伝い落ちた。
――血が、出ている。
七瀬は愕然としながら、動揺で乱れ始めた呼吸を必死に宥め、意を決して、ポケットの中に手を入れた。
じゃりっ――と、巾着の中でおはじき同士がぶつかり合うような音がした。それが決壊の合図だった。ポケットの底が裂けて、中身が一気に零れ落ちた。
じゃらららら……。鈍色に輝く欠片が、次々と落ちて、床で跳ねる。割れた硝子に似た澄んだ轟音が重なり合い、崩落の音色を奏でた。
「あ……」
七瀬は、目を見開いた。
――分かったのだ。何故、指が切れたのか。そして何故、再び怪我をしたのか。
「ふうん、何それ? ゴミ? ねえ、篠田七瀬。お取り込み中悪いけど、それの掃除をする前に、私の話を聞いてくれない?」
腿から血を流し、片膝を床に付けた体勢のまま、七瀬は声の方角を見上げた。そして、階段の踊り場に立つセーラー服姿の人物が、上履きを履いていないのを見た。保健室で、上履きを履き替えたことを思い出す。連想が働いた。
「……。もしかして、〝くれの〟さん?」
問いかけた七瀬は――窓からの日差しを背に受けた、長い黒髪の少女を睨んだ。
睨むべき相手だ。それを瞬時に悟ったからだ。七瀬は腿を庇って身体の向きを僅かに変えた。そうやって臨戦態勢の構えを取りながら、押し隠した狼狽の代わりに、冷たい敵愾心を瞳に宿す。
腿の傷は痛いが、我慢できないものではない。スカートの下に履いた体操着の半ズボンのおかげで助かったのだ。
だから――割れて飛び散った鏡が、深く刺さらずに済んだ。
「あら、私を知っているの?」
少女が、軽やかな声音で笑った。鈴を転がすような声だった。同時に、ひどく癇に障る声でもあった。
どうしてそんな風に思うのかは、女子なら誰でも分かるだろう。もし分からないのなら、女子を名乗る資格もない。少なくとも七瀬はそう思う。
今、この少女は――明確な悪意を、七瀬に向けている。
「悪いけど、私はあんたなんか知らないから。顔は見たことあるなってくらい。ぜんっぜん印象に残ってなかった」
七瀬はわざと、つっけんどんに言った。相手がなかなかの美貌の持ち主だったので、その自尊心が手に取るように分かったのだ。
案の定、少女はすぐさま反応を見せた。かっと顔がリトマス紙のように赤くなり、つかつかと階段の踊り場から一階へと駆け下りてくる。
い涼呉月の呉に、野原の野で、くれの――呉野氷花。
この土壇場になって、フルネームを思い出した。名前だけなら、以前から七瀬は知っていたのだ。氷の花と書いてヒョウカと読む。去年の一学期の途中から東袴塚学園へ通い始めた転校生の名前だった。美少女との噂だったが、七瀬は関心がなかった。そもそも七瀬には葉月がいたので、転校生の事なんか過ぎ去った小テスト並みにどうでもよかったのだ。
そんな七瀬の内心に気づいたのか、それとも先程の発言がまだ許せないのか。氷花は激しい憤りの形相だったが、やがて不敵にも笑った。
「篠田七瀬。貴女、自分の状況分かってる? いいの? そんな大きな口利いちゃって。ねえ、むかつくからストレス発散の道具になりなさいよ」
「はあっ? 意味分かんないんだけど。呉野さん、頭湧いてんじゃないの?」
七瀬は言葉を選ばなかった。ストレートに思った通りの言葉を叩き込むと、階段を半ばまで下りてきた氷花が突如「うるさいわよ! 時間がないの!」と激昂した。七瀬は心底びっくりして、息を大きく吸い込んだ。
意味不明過ぎたからだ。確かに怒らせるつもりで七瀬は言ったが、先に喧嘩を売ったのは氷花であり、暴言を吐いた以上、多少の反撃はつきものだろう。にもかかわらず反論一つで鬼のような激昂を見せるのは謎であり、今の絶叫で七瀬は思い切り引いてしまった。
――怖い。というより、関わりたくない。
じりじりと腿を庇いながら後ずさると、氷花はすぐに七瀬の行動に気づいた。にやりと陰湿な笑みを浮かべ、とん、とん、と弾む足取りで近づいてくる。
「どういうつもりであの女を送り込んできたのかは知らないけど……クソ兄貴。そっちがその気なら、私だって好きにやらせてもらうわよ。いつまでも大人しくしてると思ったら、大間違いなんだから……!」
「ほんとに頭、大丈夫?」
吐き捨てた七瀬は、氷花から距離を取ろうと後退する。だが、立ち上がろうとした瞬間、スカートの中から何かが落ちて、ごとんと重い音がした。
咄嗟に、ポケットに残留した破片が落ちたのかと思った。だが今の音は、もっと質量のある別の何かが、重力に従って落ちる音だ。七瀬はしゃがんだまま床を見て――はっとした。
――鏡が、床に落ちていた。
一つは、チョコミントカラーの長方形。葉月と買った、おそろいの鏡だ。
そして……もう一つ。
正方形のコンパクトは、艶のある朱色で螺鈿の輝きを帯びている。目覚ましい紅色と卵色で手毬の柄が描かれた、もう一つの鏡。
――母の、鏡。
しかし、優美さは見る影もなかった。コンパクトは真っ二つに割れていて、蜘蛛の巣状の罅が入っている。中央に据えられた円形の鏡も同様で、特に大きな破片が三つほど、鋭利な石器の形で剥がれていた。残りは見事に粉々だった。粗目糖のように床へぶちまけられた欠片はどれも、一階の天井を映し、窓からの光をオレンジ色に反射して、七瀬の顔に虹色の光彩を浴びせかける。
まるで、内側から爆発四散したかのようだった。
そして、無残に割れた鏡を見た瞬間――咄嗟に、手が伸びた。
――『絶対に、身に着けていないと駄目よ』
母の台詞が、蘇る。その声の凄みを鮮明に思い出した時、強迫観念のように突き上げた焦りが、七瀬に氷花の存在を刹那忘れさせた。
――拾わないと。
だが、一歩及ばなかった。
破片の一つに七瀬の手が届くより先に、白い指が伸びてきて、あっという間に一番大きな鏡の欠片が、さっと持ち上げられて攫われた。欠片を目で追って顔を上げると、にやりと悪辣にせせら笑う、氷花の悪意がそこにあった。
「……さっき、あんたゴミって言ったよね。今ゴミを触ってることになるけど、いいの?」
七瀬は、立ち上がる。腿は本当に軽傷だったらしい。敵の姿を意識した途端、驚きから解放された身体はすんなりと動いた。
氷花の口角が、三日月形に吊り上がる。笑みに不穏なものを感じた瞬間、氷花は儀式の宣誓でもするかのように、高らかに通る声で言い放った。
「――篠田七瀬! 貴女の『弱み』は『鏡に執着している』ことよ!」
「……っ? はあ?」
突然、何を言い出すのだ。七瀬は肩透かしを食らった気分になったが、氷花は「ちっ」と舌打ちした。
「まだ掠ってないのかしら。じゃあ次。――篠田七瀬の『弱み』は『鏡を大切にしていること』よ! 『大事な鏡を私に取られたこと』が、気に食わなくて仕方ないんでしょう!」
「ちょっ、ほんとに何言ってんのっ? っていうか。返して」
「ふふ、やっぱりそうなのね」
氷花は愉悦を隠さず笑ったが、七瀬は状況についていけず、突然叫ばれた言葉が、ただただ不気味で――ぞっとした。
何故、恐れたのかは分からない。だが、今の氷花の台詞はどれも凄みを孕んでいた。鏡の欠片を凶器にして、今にもこちらの喉笛を掻き切りそうな獰猛さが、氷花の言葉から溢れていた。
逃げた方がいい。関わってはいけない。本能的にそれを理解し、七瀬は焦る。
だが、逃げなかった。逃げるつもりもなかった。逃げるわけにはいかないのだ。まだ鏡の破片を取り返せていないのに、ここから逃げるのは嫌だった。
割れた鏡。もう用をなさない鏡。それでも取り返したい理由は、単純だ。
こんな異様な少女に、私物をべたべたと触られるのが我慢ならない。それだけだ。
「呉野さん、さっき保健室で殺されるとか喚いてたんでしょ? 保健室の先生を突き飛ばして。それで先生たち皆であんたを探してるの知らないでしょ。私が大声出したら、あんたなんかすぐに見つかると思うけど? それ、早く返して」
「そうなる前に、あんたは私が殺す」
「……。はあっ!?」
――殺す。
常軌を逸した言葉に目を剥く七瀬へ、氷花が鏡の欠片を掲げてきた。その行為が七瀬の神経を逆撫ですると明らかに自覚している底意地の悪さで、欠片を振って挑発してくる。
「篠田七瀬。貴女、面倒臭いわ。もっと貴女の事を調べてから追い詰めたかったのに、残念ね。だから、貴女が自分で吐いてくれたら楽になると思うの。貴女は何が怖い? 何が恐ろしい? 何をされたら、発狂しそうなほどの怒りや脆さに直結する? ねえ? 何? 早く教えて?」
「ああああもう! 知るかあぁ!」
七瀬は堪らず叫んだ。やはり意味不明だった。それでもぶつけられた言葉の不快さが、七瀬の堪忍袋の緒をぶった切った。今日はミユキや夏美と喧嘩になりかけ、保健室では戸田ともいがみ合った。だが一番癇に障ったのは、間違いなくこの女子だ。呉野氷花ほど腹の立つ同性に、七瀬は今まで出会ったことがない。
「先生! 誰か来て! 呉野氷花がここにいます! 誰か!」
「!」
氷花の表情が変わる。そして七瀬を憎々しげに睨み据えると、再び声を張り上げて悍ましい言葉を詠唱した。
「――『篠田七瀬は、鏡が割れる事が怖い』! ねえ、何がそんなに怖いの? 鏡なんて、捨てて買い替えればおしまいじゃない! 何故執着するの? 大事だから? それとも怖いから? ――『鏡が怖い』のね!」
「怖いわけないでしょ! いい加減にして!」
七瀬が叫び返した時、会議室の方角から物音が聞こえた。
もうすぐ、助けが来る――ほっとして気が緩んだ途端、氷花が焦ったのか、七瀬から距離を取ったが、後退しながらも言葉は止まらなかった。絶え間ない銃撃のように、言葉の乱射は続いていた。
「何故『鏡が怖い』のかしら? 『鏡が不気味』なのかしら? 何か『鏡の怖い話でも聞いちゃって、それを引き摺ってる』のかしら?」
「――誰かあぁぁ! 来てぇぇ! 呉野さんがあぁぁ!」
七瀬は目をきつく閉じ、腹に力を込めて叫んだ。一階どころか二階にまで響いたかもしれない大声に、さしもの氷花もたじろいだが、鏡は頑なに手放さなかった。
しかも――言葉の暴力も、続行していた。
「――『学校の階段の踊り場は異世界に通じている』! 『四時四十四分に鏡の前に立つと向こう側へ引き込まれる』!」
「ちょっ……ベタな都市伝説くらいで、ビビるわけないでしょ!」
七瀬はぎょっとして、狼狽えながら叫んだ。しかしその時、唐突に蘇る顔があった。
――葉月。
中学二年の時。
泊まりで。
葉月が。
怪談を。
「あ……っ」
悪寒が、背筋を駆け抜けていった。反論の言葉が、喉に引っかかって止まる。流れ続ける氷花の言葉を、遮ることができない。罵声のように叩きつけられる言葉はどれも、『鏡』の怪談ばかりだった。篠田七瀬は、鏡が怖い。そう当たりをつけて『鏡』にまつわる怖い話を装填し、照準を合わさず出鱈目に撃たれる言葉の銃弾の豪雨を前に、いつしか七瀬は圧倒されて、口が利けなくなっていた。
それでも己を奮い立たせた七瀬が、再び一階中に響き渡るほどの大声を出そうとした、その瞬間。
「――『合わせ鏡』!」
氷花の声が、空間を丸ごと破壊するような暴力性を伴って、閑散とした一階の階段前に響き渡った。
「……っ、あ」
途端に、七瀬は呼吸が苦しくなった。空気中の酸素が何の前触れもなく別の物質に入れ替わったかのようだった。目の前の少女に対する生理的嫌悪がざわざわとした鳥肌となって全身に広がり、身体から力が抜けていく。
再び膝から崩れ落ちた七瀬は、呆然としながら、床についた自分の手が震えているのを見た。こんなにも生々しい不快感は、生まれて初めてのものだった。
氷花はそんな七瀬の姿を観察し、面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「違う。まだね。今のじゃ浅いわ。でも、手応えはあったと見ていいのかしら? 『合わせ鏡』の怪談に、何か思い出でもあるの?」
「な、何、言って……!」
氷花としては、この七瀬の反応は求めていたものとは違うらしい。だが七瀬はそれどころではなかった。自分が今、かなり危険な状態にある。理解など、それだけで沢山だった。
これから何をされるのかは分からないが、氷花は七瀬を殺すと言った。女子中学生が学校で、本当に七瀬を殺せるわけがない。頭では理解していたが、本能が警鐘を鳴らしていた。殺されなかったとしても、こちらにとって大迷惑な何かを、目の前の少女はやってのけるに決まっている。七瀬は不自由な身体を立て直せないまま、ひたと氷花を睨め上げた。
負けるつもりはなかった。こんなにも馬鹿みたいなやり取りで負けるなんて、冗談ではないのだ。
「……ふぅん。強情なのね。ただのちゃらちゃらした馬鹿な子だと思ってたし、そこまで気が強いとは思わなかったわ。……気に入らないわね」
氷花の目元に、はっきりとした憎悪が浮かぶ。
そして、反射でその目を睨み返した七瀬へ、何かを言おうと、唇が開いて――悪意ある〝言葉〟が紡ぎ出されるのと、男子生徒の声が割り込むのは同時だった。
「篠田さん!」
切羽詰まった呼び掛けが、階段前の空気をぱしんと叩いた。場に満ちた禍々しさが、夢の終わりのように一掃される。声に振り向いた七瀬は、驚いた。
黒いシンプルなエプロンに、頭には灰色の三角巾。調理実習を抜け出してきたと一目で分かる出で立ちの少年が、たった一人、廊下の真ん中に立っていた。
「坂上くん?」
坂上拓海も、ひどく驚いた様子で立ち竦んでいたが、七瀬の太腿を伝った血液に気づいたようだ。表情が、さっと目に見えて強張った。
「なっ……何っ、やってるんだよ……!」
使命感と狼狽が入り混じった顔で、拓海が走ってくる。傍目にも氷花が悪者に見えるらしい。氷花は割れた鏡を七瀬に突き付けているのだから、当然と言えば当然だ。
氷花が、舌打ちする。そして「坂上、ね。邪魔だわ」と低い呟きを漏らすのを、七瀬は聞き逃さなかった。
その直後、ぱっと氷花がいきなり駆け出した。
「あっ」と叫んだが遅かった。上履きを履かず、紺色のソックスのまま、謎の同級生は猫のような俊敏さで逃げていく。階段を駆け上がる氷花の長い黒髪が踊り場の向こうへ消えていくのを、七瀬は腰が抜けたまま見送ることしか出来なかった。
「篠田さん!」
それと入れ替わるように、拓海が七瀬の元へ到着した。血を見下ろして怯んだ表情になりながら、片膝を床について屈み込み、「大丈夫?」と訊いてくる。
「坂上くん、なんで……」
「保健室から戻るのが遅かったから、様子を見に来た。その、日直だし」
普通そういった役割は、保健委員のものだろう。突っ込みを入れたかったが、思えばまだ委員決めなどしていない。七瀬は、階段をもう一度見上げた。
呉野氷花の姿は、もうどこにも見当たらない。
「ありがと。……多分、来てくれて、助かった」
「へ?」
目を瞬かせる拓海の背後から、がたがたと騒がしい音が聞こえてきた。
二人で振り返ると、会議室の扉が、ばんっ! と音を立てて開け放たれた。続いて遠くの職員室の扉も開き、数人の教師が顔を覗かせた。七瀬の悲鳴を聞きつけて出てきてくれたらしい。それにしても、遅すぎる。恨めしかったが、今はどうでもよかった。拓海が来てくれた安堵で身体から力が抜けてしまい、もう先程感じた悪寒なんて身体には残っていないのに、自力で立ち上がれなかった。こちらへ走ってくる教師の中には森定の姿もあって、七瀬は「あはは、大げさなことになっちゃった」と曖昧に笑った。
「篠田さん、血が……」
「あ、えっと……鏡で切れただけ。大したことないと思う」
真っ青になっている拓海に、七瀬は疲れた声で笑いながら答えた。覇気のない声を絞り出して初めて、自分がかなり消耗していると気づかされたが、何故そんなにも疲れてしまったのか、自分でもよく分からなかった。
――それに。
「……鏡、取られちゃった」
「鏡?」
不思議そうに、拓海が言う。七瀬は、足元の残骸を見下ろした。
「大切にしてた、鏡なの。……破片を、呉野さんに持っていかれた」
その時、しゃがむ拓海と、立ち上がれない七瀬の頭上から、すっと大きな影が差した。ざっ、と足音も近くで止まる。
教師の誰かだろうと思ったので、七瀬はそこに立つ人物を見上げて驚いた。
「あ。さっきの……」
濃紺のブレザーに、青と白のチェック柄のズボン。あの大柄な体躯の他校生だった。連れの少女の姿は見当たらず、少年一人だけのようだ。
「なあ。さっき、呉野って言ったよな」
「え?」
面食らった七瀬は、少年の顔が固く強張っている事に気づき、黙る。
「……俺、袴塚西中三年の、三浦柊吾。そっちは?」
「……篠田七瀬。三年」
三浦柊吾と名乗った少年は、七瀬の隣に立つ拓海を見る。見られた拓海は「え、俺も?」などと言いながらおろおろと立ち上がり、「坂上拓海。俺も三年」と答えた。簡素な自己紹介を聞いた柊吾が、浅く頷く。
そして――七瀬の方を、見下ろした。
「多分、面倒なことになると思うぞ。特にそっち」
「わ、私?」
「呉野に狙われただろ。あいつに何か、ごちゃごちゃ鬱陶しいことを言われたんじゃないか?」
「え? ……分かる、の?」
七瀬が戸惑いながら訊くと、「ああ」と柊吾は、今度は力強く頷いた。
「俺も、経験があるから分かるんだ」
七瀬は思わず拓海を見上げたが、拓海は七瀬以上に困惑しているようで、突然現れた他校の少年を見つめている。説明を求めようとしてか唇が薄く開いたが、教師達が続々と近寄ってきて、「どうしたの」と声が飛んできた。眉を顰めた柊吾は、七瀬と拓海に素早く言った。
「篠田と坂上。ここで何があったか、後で俺に教えてほしい。あと、篠田は絶対に一人になるな。っていうか、そうしないと多分、お前は呉野にやられる」
「はあっ? やられる?」
七瀬は目を丸くしたが、柊吾の目は本気だった。先程ここまで来てくれた拓海の顔を思い出す。あの使命感と同じ温度を、強い瞳から感じた。
一体どんな感情が、この少年を駆り立てるのだろう。
怒り? 殺意? ……分からない。
「絶対、余所でもやると思ってたんだ。……今度こそ、ぶっ潰す」
柊吾の声は、俄かに騒がしくなった一階の廊下のどんな音にも掻き消されずに、七瀬の耳に届く。直向きな眼差しは、会議室の方に向けられていた。
その横顔を見上げた時、触れてはいけない部分だと七瀬は思った。何も知らない七瀬が、関わるべきではない領域だ。
だから七瀬は、やがて教師に手を引かれ、再び保健室へと連れ戻されながら――それ以上柊吾にどんな言葉を掛ければいいのか分からず、慌てて追ってきた拓海と共に、廊下を歩き始めたのだった。




