花一匁 109
撫子の家を出たのは、午後の四時だった。
ほんのりと東雲色に染まる青い空が、柊吾と撫子の頭上に広がっていた。傾いた日差しの橙を受けた飛行機雲が、流星群のように幾筋も、細く、長く、たなびいている。息をすうと吸い込むと、涼しく澄んだ春の匂い。住宅街を抜けて桜並木の道を進めば、木の枝に硬い蕾をいくつも見つけた。
春になれば袴塚市には、たくさんの桜が咲き乱れる。灰色の住宅街が一面の桃色に染まる風景は、壮観だ。
季節はこういう風にして、移ろっていくのだろう。少し肌寒さを感じた柊吾は、脱いでいた上着に袖を通してから、傍らの撫子に声をかけた。
「寒くないか?」
「うん。平気」
撫子は、上着を厚手のものに着替えていた。包帯の目立つ足は、ジーパンを履いて隠している。髪も団子にまとめてキャスケット帽に押し込んでいるので、普段と打って変わってボーイッシュに見える。
「外出、許してくれるなんて思わなかった」
撫子は、少し嬉しそうに見えた。普段とあまり表情が変わらないが、浮き足立っている雰囲気が伝わってくる。柊吾も気持ちは同じだが、言葉にしていないと忘れそうになるので、自分達へ言い聞かせるように敢えて言った。
「って言っても、これはただの散歩ってことになってるからな。あいつらに会ったら、すぐ帰るぞ」
撫子が外に出たいと申し出た時、撫子の父親は渋い顔をしていたが、母親が許可を出してくれた。だから柊吾はこうして撫子と二人、散歩という名目で駅まで歩く権利を得られたのだ。
それ自体は嬉しいのだが、柊吾にはどうにも撫子の父親が、自分を見る目が鋭くなっている気がしてならない。撫子の母親は笑っていたので深刻な問題ではないと信じたいが、原因は十中八九、昨夜撫子が熱を出した時の悶着だ。一たび思い出せば猛烈な羞恥心に襲われてしまい、柊吾は思わず片手で顔を覆った。
「柊吾、どうしたの?」
心配そうに撫子が訊いてきた時、メールの着信音がズボンのポケットで鳴った。
「ああ、陽一郎からだろうな」と答えながら、柊吾は携帯を取り出してメールを開いた。
「やっぱり、陽一郎からだ。綱田と一緒に、袴塚西駅まで戻ってきたらしい」
「そっか。……二人とも、私のこと、こわいって思ってないかな」
「大丈夫だ。そんな風に思ってる奴は、一人もいない」
「……うん」
柊吾は携帯をポケットに仕舞うと、撫子と手を繋いで、橙の陽光が淡く降り注ぐアスファルトを歩いた。
この光の道は、どこに続いているのだろう。漠然と、柊吾は考えた。
未来なんて、何一つとして見えなかった。それはきっと〝先見〟の異能を持つ和泉にだって、全ては見通せないほど果てしなく、変幻自在のものだろう。
だが、不安はなく、恐れもなかった。
この手を握って歩いていけば、仲間と共に歩いていけば、きっとどこかに辿り着ける。その場所へ皆で行くために、一歩、一歩、今を歩いていけばいい。
それを、続けていけばいい。
*
袴塚西駅に着く頃には、辺りには早くも白い街灯がぽつぽつと灯り始めていた。
茜色の空の下、聳える駅舎が一際眩しい。駅構内のファーストフードショップの窓からは、店内の活気と共に明かりが煌々と漏れていた。
「毬ちゃんと陽一郎、どこにいるのかな」
雑踏の中で、撫子がきょろきょろと辺りを見回す。柊吾が改めてメールを確認すると、陽一郎から追加のメールが届いていた。
「あっちでドーナツ食べてるらしい。行くか」
撫子を連れて駅構内に入った柊吾は、今朝のファーストフードショップとは反対の方角へ向かった。店の入り口にはメニューと共に、可愛らしいポップがいくつも飾りつけてある。ドーナツがずらりと陳列された店内を、自動ドア越しに柊吾は眺め、視線を隅々まで巡らせて――やがて、呆けた。
「ん……?」
店内の一番奥の、六人掛けの席。そこに、陽一郎と毬が並んで座っているのが見えたのだ。
しかも、毬の隣にはもう一人いる。
黒いブレザーに、黒いニット帽。佐々木和音だ。
和音は、壮絶に眠そうな目をしていた。不機嫌そうな顔で黙々と、その場の話に耳を傾けている様子が窺える。本当に受験を終えたその足で、ここへやって来たようだった。
「……和音ちゃん?」
撫子も和音に気付き、そして柊吾同様、ぽかんとした顔になる。
毬と、陽一郎と、和音の対面に――少年少女の二人組が、座っていたのだ。
一番奥の席に座った少年の方が、熱心に何かを話している。その隣に座った少女と和音の二人が、少年の語りの聞き役といった印象だ。
二人はこちらに背を向ける形で座っているので、顔は見えない。
だが、明らかに見覚えのある後姿だった。
しかも、少年の方は普通のジャンパー姿だったが、少女の方は思わず二度見してしまうほどインパクトのある服装だった。異様に着膨れているのだ。暖かい店内にいるにも関わらず、コートとマフラーという重装備だ。耳に白い紐が掛かっているので、マスクまで付けているのだろう。
「……ったく、あいつらは……」
柊吾は、額に手を当てて呟いた。
――あれだけ休むよう厳命しても、結局、こうしてやって来るのだ。
「あ……」
撫子が、口元に手を当てた。少年と少女の正体に、気付いたのだ。
その目元が、今にも泣き出しそうに歪む。顔を一度俯けてから、撫子は柊吾の腕をぐいと引いて、眼前の自動ドアに向かっていった。柊吾もその勢いに逆らわずに、早歩きで店の奥をまっすぐ目指す。
席へ近づいてくる人影に、真っ先に気付いたのは毬だった。
「あっ」と小さな悲鳴にも似た声で叫んでから、ショートボブの髪を揺らして立ち上がる。隣に座っていた陽一郎も、顔一面に驚きを浮かべて席を立った。
その驚きは連鎖して、次に和音も、撫子に気付いた。はっと息を吸い込むと、切羽詰まった切なさを顔に湛えて、立ち上がる。
三人が席を立ったことで、残りの二人も、こちらに気付いた。
少女の方が、弾かれたように立ち上がった。少年の方も同じように立ち上がろうとしていたが、こちらは椅子へ墜落した。腰が痛いのだろう。
「……っ、撫子ちゃん!」
声が、すかんと抜けるように響き渡った。
店内の客が一瞬ぎょっとして、声の方角を一斉に見た。
そうなって初めて――篠田七瀬は少し動揺した様子で、マスク越しに口を押さえた。
その身体が、少しふらつく。今日は巻いていない髪がさらりと揺れて、桃色のマフラーの隙間から流れた。口元はやはりマスクで覆われていたが、大きく見開かれた瞳から、湧水のように溢れ出した感情は、柊吾にも十分伝わってきた。
「雨宮さん……」
茫然の声が、七瀬の後ろから聞こえてくる。
坂上拓海が、ふらりと立ち上がっていた。
そのままこちらへ来ようとしていたが、さっきの墜落がよほど腰に堪えたのだろう。「いてててて!」と押し殺した声を上げてテーブルに手をつくと、さっきの七瀬と同様に、慌てた様子で口を押さえた。
「お前ら、何やってんだ……」
柊吾が呆れていると、撫子がつかつかと、七瀬と拓海の元へ歩いていった。
「撫子ちゃん!」
七瀬は、早くも涙目になっている。ばっと腕を広げて撫子へ駆け寄ろうとしていたが、はっと我に返った様子で足に急ブレーキをかけてから、わたわたと悲しげに手を振ってきた。
「わ、私、風邪引いてるから、伝染しちゃうから……」
その言葉が終わらないうちに、撫子が、七瀬の胸に飛び込んでいった。
どんっ、と重い音がして、椅子に尻餅をついた七瀬が、目を丸くする。もこもこに着膨れた身体にぎゅっとしがみ付いた撫子が、しゃくり上げながら、囁いた。
「ごめんね……噛んで、ごめんね……七瀬ちゃん……」
「そんなの……忘れててよ、もう!」
細く掠れた声で訴え、七瀬の顔が歪んだ。怒っているのか悲しんでいるのか、見分けがつかない顔になる。その形相のまま撫子の首元に顔を埋め、小さな身体をきつく抱きしめ返しながら、「もう離さない! 離さないからねぇー!」などと感極まって泣き叫んでいる。
「……良かった」
声に柊吾が振り向くと、和音が柊吾の隣に立っていた。
和音は無表情に近かったが、撫子と七瀬を見下ろす眼差しには、包み込むような優しさがあった。
だがすぐに辺りへ目を配ると、「三浦君も、もう少し私達の席の方に寄って。邪魔になるから。見られてるし」とぶっきらぼうに言った。
確かにその指摘通り、泣いている女子二人が店内で注目を集め始めている。柊吾は少し慌ててから、六人掛けのテーブル席へ身体を寄せた。
すると、撫子は七瀬の腕の中から顔を上げて、傍に立った和音を見た。
「和音ちゃん……やっと、会えた」
「……うん」
「今朝は、家まで届け物、ありがとう……無事で、よかった」
「こっちこそ…………元気そうで、安心した」
「神社にいた時も、助けてくれて、ありがとう……」
「別に……」
和音は撫子から目を逸らして、なんと、頬を朱に染めた。まさか和音がこんな反応をするとは思いもよらず、柊吾は二人を見比べた。
「っていうか佐々木、よくここまで来れたな……受験、大丈夫だったのか?」
「最悪だった。受かってたら奇跡だと思う」
数秒前の恥じらいは何処へやら、和音は凄みのある真顔になった。少し悔しそうにも見えるので、案外負けず嫌いなのかもしれない。柊吾は無難に「……お疲れ」と言うしかなかったが、結果はどうあれ、こうしてここまで来れたのだから、タフなものだと思う。
感心していると、和音が渋い顔で睨んできた。
「あなたからも、七瀬ちゃんに早く帰るように言って。七瀬ちゃん、声は出るようになってるし、家を出た時には熱も下がってたみたいだけど、今はまた熱が上がってきてるから。それにまさか七瀬ちゃんが、こんな凄い格好で来るなんて思わなかった」
「凄い格好って言うなあ!」
即座に、七瀬が顔を真っ赤にして噛みついてきた。
「仕方ないでしょっ、このくらい厚着しないと出かけちゃだめって、お母さんが言うんだからぁ!」
七瀬としてもこの格好は、プライドに反するものらしかった。内側に何枚着こんでいるのか、コートの腕がみっちりと膨らんでいる。そんな剛腕で撫子をしっかりホールドしているので、再び撫子の顔がコートの胸元に埋没していた。遅れてそれに気づいた柊吾は、大慌てで止めに入った。
「やめろ篠田、潰れる! 今のお前は普段よりヤバいって自覚しろ!」
「失礼しちゃう! 潰れないってば! 三浦くんに比べたら、絶対潰れないんだからーっ、げほっげほげほ!」
「あー! なんで来たんだこのアホは! 坂上、早くこいつ連れて帰れ!」
「もう! すぐに人のことアホとか言っちゃうんだから!」
七瀬は撫子をようやく解放すると、ぷりぷりと柊吾へ怒ってきた。
その呼吸は少し荒く、マスクから覗く頬も赤い。
和音がさっき言ったように、本当に早く家に帰すべきだ。
そう促そうとした柊吾だが、「私だけ除け者とか、許さないからね!」と、七瀬が啖呵を切る方が早かった。
「大体、昨日あんなことがあったのに、みんなの無事もちゃんと確認しないまま、寝てられるわけないでしょっ? 変態の呉野兄妹とも決着ついてないし! これじゃあ呉野さん達の勝ち逃げじゃない! そんなのやだ! 許さない! このまま終わらせてなんか、やらないんだから! ねえ、そうでしょっ!?」
「……。そうだな」
考えた末に、柊吾は落ち着いた声でそう答えた。
この体調での外出は肯定できないが、柊吾がこの七瀬の台詞を、好ましく思ったのも事実だった。
今までに聞いた中で、一等威勢のいい宣言だった。
他のメンバー達も、放心の顔で聞き惚れているようだった。毬や陽一郎は徐々に晴れやかな笑みを見せ、和音も仕方なさそうに嘆息してから、ほんの少しだけ口角を上げた。撫子は七瀬の顔を眩しそうに見上げていて、その隣では椅子に座っていた拓海が、小さな声で、笑っていた。
「なんか、やっと日常が帰ってきた気がする。……雨宮さん、無事でよかった」
「……」
撫子が、拓海をゆっくりと振り返った。
その顔には、緊張した様子の強張りがあった。
柊吾がそれに気づくと同時に、七瀬もまたそれに気づいたらしかった。そっと席を立ってから撫子の肩に手を置くと、「ほら、座って?」と拓海の隣の席を勧めた。撫子は、首を横に振った。硬い表情のままだった。
やがて震える声で告げられたのは、予期していた通り、謝罪だった。
「坂上くんも、ごめんなさい。私、おでこ……」
「俺は怪我してないよ。大丈夫」
拓海は、凪いだ海のように穏やかな声で応えて、笑った。
撫子が、拓海を見つめる。その目にはまたもや涙が盛り上がり、見る間にぼろぼろと大粒の滴となって零れ始めた。
「へっ? えっ、えっ、えっ……? 雨宮さん……っ?」
「おい、これ以上泣かすな」
柊吾が横目に睨むと、拓海は弱り切った様子で「ご、ごめん……」と謝ったり、「えっと、えっと」ともごもご言っていたが、やがてそろりと手を伸ばすと、撫子の頭をゆっくり撫でて、笑いかけた。
「本当に、大丈夫だから……ありがとう。俺の心配まで、してくれて」
それは、完全に逆効果だった。
撫子はついに顔を両手で覆ってしまい、か細い声を上げて泣き出した。
「えっ、えぇっ!? なんでっ?」
「き、嫌われた、って、お、思って、た」
「そんなの、ない! ないって! 絶対! わああ、えっと、えっと……!」
「ちょっと坂上くん、泣かさないでよね!」
七瀬がマスクに覆われた頬を膨らませ、拓海は「篠田さんまで」などと言いながらも可哀想なくらいに慌てている。その対面では毬と陽一郎までもが一緒になって慌て始め、「撫子ちゃん、大丈夫だよ?」と毬がハンカチを差し出すと、「撫子、ドーナツ食べる? 美味しいよ」と陽一郎はもたもたとトレイのドーナツを集め始めた。何だか泣き出してしまった預かりの子供を、必死にあやしているような光景だ。柊吾は頭を抱えた。
「なんか、もう滅茶苦茶だな……」
「私は、ちょっと安心しちゃった」
輪から離れた七瀬が、柊吾と和音の隣に立った。
穏やかそうに目を細め、七瀬は撫子を見下ろしている。
「撫子ちゃんって、今まで大人っぽいって言われることも多かったみたいだけど……こういう顔も見せてくれて、私、うれしい。私達が撫子ちゃんに近づけたんじゃなくって、撫子ちゃんが私達に、近づいてきてくれた気がするから」
「……ん。そうだな」
柊吾はもう一度そう答えて、改めて撫子達を見下ろした。
テーブル席についた撫子は、拓海と毬との間に挟まれる形で座らされ、対面には陽一郎が座っていた。
おどおどと狼狽えまくっている三人は、次々と撫子の前へドーナツを積み上げていく。撫子は泣きじゃくっていたが、蜂蜜の塗られたドーナツを両手で握り、齧歯類の小動物が木の実を齧るように、少しずつ噛んで食べ始めた。
「……本当に、無事でよかった」
和音が小さく、噛みしめるように言った。
「そうだよね。本当に」
七瀬も微笑んで答えると、くるりと柊吾へ向き直った。
その表情からは、口元は見えなくとも、何かを切り替えたのだと伝わってくる。
「……さっきまで私達、坂上くんから昨夜の話を聞いてたの。毬と日比谷くんの二人には、三浦くんから話してくれたんでしょ? 毬達には同じ話を二回聞かせることになっちゃうから、ちょっと申し訳ないけどね」
「でも私達も、ちゃんと知っておきたいから」
和音が、低い声で言う。七瀬は軽い調子で笑ってから、「それに和音ちゃんは、呉野さんのこともあんまり知らないからね。最初からみっちりおさらいしてたんだ」と補足で告げて、柊吾の反応を待っている。
「……そうか。坂上が話してくれたんだな」
柊吾がテーブル席へ視線を戻すと、撫子はまだべそをかいていたが、気持ちは落ち着いてきたようだった。拓海もほっとした様子で笑っていて、チョコレートでコーティングされたドーナツを食べている。この二人にもそこそこの身長差があるので、こうしていると兄妹のようだ。
「……坂上が来てくれて、正直なところ助かった。陽一郎や綱田だって、俺の説明じゃ頼りないだろうし、二回聞くくらいが丁度いいだろうな。……佐々木、篠田。こっちも一つ、悪りぃんだけど。俺と雨宮、もう帰らないといけないんだ」
「ん、そうだよね」
七瀬が残念そうに笑い、和音も微かな落胆を顔に覗かせたが、二人とも切り替えは早かった。
「じゃあさ、明日に再集合しようよ。今度はできるだけフルメンバーで。……急いだ方が、いいんでしょ?」
「……。ああ。明日の午前中だったら雨宮は無理だけど、他のメンバーは?」
「オッケーだって。みんなに確認も済んでるよ」
七瀬が、親指を立ててにっと笑った。和音は、ひたと柊吾を見た。
「毬と日比谷君の二人が、師範の家に行った件なんだけど」
緊張が薄らと身体に走り、柊吾は和音を見つめ返す。
美也子の現状と、七瀬の鏡のこと。
それらについて、何か情報が得られたのだろうか。
視線で問うと、和音がこくりと頷いた。
「毬と日比谷君、報告したいことがあるみたい。私達もさわりだけ聞いたけど、話が長くなりそうだし、これから考えないといけないことも出てくると思う。この件についても、明日の午前中に仕切り直そう」
「分かった」
明日も、忙しい一日になりそうだ。逸る鼓動を感じながら、柊吾は明日へ思いを馳せた。
漠然と、予感があったのだ。
きっと、明日。何かが起こる。
この一連の事件に完全な幕を引くための何かが、必ず起こる。
「篠田、ちゃんと風邪治しとけよ。……明日は、帰れなんて言わねえからな」
「任せといて」
七瀬が勝気に笑った時、撫子がまだ拓海に「ごめんね」と謝っているのが聞こえてきた。
「大丈夫だって、ほら、怪我してないよ」
拓海はのほほんと微笑みながら、泣き止んだ撫子に額を見せている。
陽一郎も席から身を乗り出すと、「そうだよっ、撫子! 坂上君は怪我したんじゃなくて、腰を痛めただけだよ!」と、援護射撃ならぬ爆弾発言を放っていたので、びきりと場の空気が凍りついた。
「腰?」
七瀬が小首を傾げ、陽一郎の顔が真っ青になる。拓海は「ななな、なんでもないからっ!」と挙動不審全開で、手をぶんぶんと大きく振った。柊吾はげんなりしてから、「あー、とにかく!」と声を張った。
「俺と雨宮は帰るからな。明日また参加するから」
「えー、もう帰っちゃうの?」
話題が変わったことで救われたような顔をした陽一郎が、唇を尖らせる。撫子はこくんと頷いてから、席を立った。
「私、明日はもっと長い時間、外にいられると思う。みんなが午前中から集まるなら、途中から合流したい」
「うん。撫子ちゃん、お大事にね」
七瀬が元気よく笑ったので、「まずはお前がな」と柊吾はつっこみを入れてから、一同を振り返った。
視線が集まったのを感じ、柊吾は胸元を塞いだ緊張感を飲み下す。
そして、発声の為に、息を吸った。
ここを去る前にどうしても、言いたいことがあったからだ。
「じゃあ、また明日な。その時に、これからのことを、ちゃんと皆で決めるぞ。俺は……もう一度、風見達に、会いたいから。あいつらに会って、今回起こったことを、ちゃんと終わりにしたいから。だから……皆で、決着をつけに行こう。――このままじゃ、終われねえから」
*
いざ帰ろうとした柊吾だったが、店を出る直前に、足を止めた。
「柊吾?」
手を繋いだ撫子が、不思議そうに柊吾を見上げた。自動ドアの手前で柊吾はしばし逡巡してから、背後を振り返った。
「悪りぃ。用事を思い出した。雨宮は篠田達の所で待っててくれ」
「いいけど、柊吾はどうするの?」
「用事があるんだ。……陽一郎に」
「陽一郎?」
ますます不思議そうに、撫子が柊吾を見た。
柊吾は答えようとして口を開きかけ、開いた自動ドアから新たに客が入って来たので、撫子の手を引いて脇へ寄った。話すタイミングを逸した形になってしまい、結局そのまま口を閉ざした。
どういう風に口にすべきか、柊吾自身、まだ答えを見つけられていないのだ。
撫子が柊吾の複雑な心境をどう理解したかは分からないが、それ以上は訊ねなかった。二人で店の奥へ戻っていくと、真っ先に気付いた和音が、軽く目を瞠っていた。
「忘れ物?」
「いや、そういうのじゃ、ねえんだけど……ちょっと、陽一郎を借りてく」
「え、僕?」
「悪りぃけど、雨宮はここに置いてくから。頼んだ」
「うん、オッケー。撫子ちゃん、おいで!」
ぱあっと七瀬が嬉しそうに笑い、両腕を広げて撫子を招いた。自分が風邪引きだということを忘れているのではないだろうか。柊吾はじろりと睨んだが、撫子もおずおずとだが嬉しそうに歩いていったので、まあいいかと深く考えないことにした。
「柊吾、なあに?」
ととと、と陽一郎が、人懐こい小型犬のように寄ってきた。
「少し、訊きたいことがあってだな……とりあえず、来てくれ」
きょとんとする陽一郎を伴って、柊吾は店の外に向かった。
暖色のライトの外へ出ると、遠目に見えた空は、茜色の水溶液に薄紫を溶き合わせたような色へ変わっていた。街灯の白い明かりも、ここへ来た時より際立って見える。往来の人の流れに意味もなく目を向けながら、柊吾は覚悟を決めた。
日が暮れるまでの間に、何度も考えてはみたのだ。
それでも柊吾は、自力で答えに辿り着けなかった。
だが、そこへ行くための道標なら知っている。柊吾は、陽一郎のひょろりとした立ち姿を見下ろした。
躊躇いはあったが、時間はないのだ。早く撫子を帰宅させなくてはならないし、撫子の目の問題を少しでも解決に導くためにも、これは必要な通過点だ。
「あのさ、陽一郎。突然なんだけど……今までに俺から言われた台詞で、一番傷付いたこと……って、何か、あったりするか?」
「え? 柊吾に言われて、傷付いたこと?」
陽一郎は、目をぱちぱちと瞬いた。どうしてそんなことを訊くのかと、明らかに不思議がっている顔だった。柊吾は髪に手をやり、弁解のように言葉を重ねた。
「あー……俺、口悪い時あるし。お前に酷いこと言ってきたかもしれないって、思ってだな……」
「えっと? 別に僕、気にしてることなんて何もないよ?」
陽一郎は、天真爛漫に笑った。柊吾もそこで引き下がればいいのだろうが、内面に広がったのは、安堵と相反する焦りだった。
陽一郎は、本当に何も気にしていないのだろうか?
そんな事は、ないはずだ。そうでなければ呉野神社の神主が、あんな託宣を柊吾へ授けるわけがないのだ。
だがいくら柊吾が拘泥しても、当の本人が気にしていないと言っているのだ。これ以上は、柊吾には訊ねようがなかった。
「……そうか。変なこと訊いて、悪かったな」
そう言って、柊吾が陽一郎への質問を諦めかけた時だった。
「あーっ!」
陽一郎が目を真ん丸に見開いて、大声で叫んだのは。
仰天し、柊吾は絶句する。陽一郎は思い出せたことが嬉しいのか、「一個、あったよ!」と、興奮も露わにうきうきと言った。
「本当かっ?」
柊吾も勢い込んで訊くと、陽一郎は楽しげに頷いた。
「うん! ほら、僕が撫子と付き合ってた時のことなんだけど」
「あぁ?」
思わず、不機嫌が噴出してしまった。
陽一郎がびくりと震え、「ひっ」と押し殺した叫びを上げて後退する。今にも尻尾を巻いて逃げ出そうとしているので、「いや、別に、怒ってるとかそんなんじゃないから」などと我ながら白々しい言葉を吐きながら、柊吾はその首根っこを掴んで逃亡を阻んだ。以前よりも撫子に関わる諸々について感情の沸点が下がったような気はしたが、それは今は問題ではない。
「ううう……言っても怒らない?」
「怒らないから言え。大丈夫だから」
「じゃあ……」
陽一郎は柊吾を振り返ると、何だか少し言いにくそうにぼそぼそと、告げた。
「……結婚とか、そんなの、考えられないって、言ったよね?」
「……。は?」
「ほ、ほら! 僕らが、二年の時! 撫子の目のことで、クラスの雰囲気がすっごく重かった時期あったでしょ? あの時に僕、撫子とどう付き合っていけばいいか分からなくて、辛くて……言ったじゃん! 柊吾に! 柊吾は僕に、撫子とこのまま付き合っていって、結婚するとか、そういうの、考えろっていうの? って」
「……」
柊吾は、茫然と口を開けた。
たった今、記憶が強風のように唸りを上げて、正面から身体に叩きつけて、背後へ抜けていくのを感じたのだ。
――このまま付き合って、ずっと一緒にいて、それで結婚するとか、そういうのっ、考えろっていうの? 無理だよ! 僕には、まだ!
中二の初夏、誰もが塞ぎこんだ顔をした教室で、陽一郎が叫んでいる。
悲痛で切実な叫びだった。十四歳の少年が、その身にかかる重圧に耐えかね、思わず発した声だった。
「僕がそう言ったら、柊吾、怒ったよね? 僕にとって撫子のことは遊びなのかって怒ったよね? あっ、でもね柊吾! 今なら怒られても仕方ないって、僕にだって分かるよ? あの時には理不尽だって思ったけど、そんな風に僕が思ったことだって、あの事件の終わりにちゃんと僕だって、柊吾に言ったし……だから僕、もうあの時のことは本当に気にしてないよ? って、柊吾? 柊吾? 柊吾ー?」
陽一郎が、あわあわと必死に喋っている。黙っている柊吾が、怒っているとでも思い込んでいるらしかった。
だが、柊吾は何も言えなかった。
――それどころでは、なかったからだ。
まさか、という思いでいっぱいだった。
まさか、あの頃に陽一郎へ向けた怒りが、誠意が、言葉が、ブーメランのように自分目掛けて返ってくることになろうとは。
柊吾の脳裏で、呉野和泉がにやにやと楽しげに笑っている。次いで微笑ましげな顔の藤崎克仁が、耳に鮮明に蘇る。この決断は、中学生には酷だ、と。
「…………まじか」
それだけを呟くと、柊吾は、額を手で押さえた。
触れた顔は、夜気に晒されているのに熱かった。
――目を患った撫子が、今でも確実に『見える』人間。
それは、陽一郎。教師。それから――両親。
つまり――――家族。
ようやく、柊吾にも分かっていた。
撫子に、柊吾を常に『見て』もらう為に、何を〝言挙げ〟すべきかを。




