花一匁 108
灰色の住宅街を迷いのない足取りで進み、何度も通った一軒家のインターホンを押した柊吾を迎えたのは、撫子本人だった。
門扉から玄関扉までを繋ぐ短い階段の先に、ひょこりと巣穴から顔を出す栗鼠のように現れた撫子は、丈の長いブラウスに、ゆったりとしたカーディガン姿だった。袖から覗く指には真新しい包帯が巻かれていたが、髪は左右が不揃いのままだった。それを誤魔化すように髪をサイドへ寄せて結っているので、七瀬と同じ髪型になっている。
「あー、その……」
柊吾は口ごもり、髪に手をやった。
まずは母親が出てくるとばかり思っていたので、心の準備ができていなかった。昨夜の自室での出来事が急にフラッシュバックして、頬が熱を持ち始める。
とにかく何か言わなくてはと焦ったが、思いつくことといえば、この髪型が意外にも似合っていることくらいのもので、混乱で目が回りかける始末だった。
昨日のことは全部、夢だったのではないか。そんな風にさえ、思えてくる。
撫子が、柊吾を好きだと言ったことなんて。
だが、撫子が「おはよう、柊吾」と呼んで、微笑んでくれたから。
あれは現実だったのだ、と。認識がゆっくりと、意識に追いついて沁み込んだ。
「……ん、おはよう」
「来てくれて、ありがと。上がって」
階段を上がった柊吾は三和土に入り、玄関から真っ直ぐに伸びる廊下を眺めた。フローリングの床は清潔な光沢を帯びていて、柊吾の背後から射す外光を、ぼんやりと淡く照り返した。
この家はいつだって、掃除が隅々まで行き届いている。
「突然押しかけて、迷惑じゃなかったか?」
柊吾が訊くと、上り框にスリッパを並べてくれた撫子が、「ううん、嬉しい」と顔を上げながら答えた。
「今朝はごめんね。電話、掛けなおしてくれたでしょう?」
「こっちこそ、寝ててごめん。あと、佐々木は一応元気だったぞ。眠そうにしてるけど、怪我はそんなに酷くなかった」
「うん。知ってる。和音ちゃん、封筒にお手紙も入れてくれてたから」
「へえ?」
和音が、そんなことをしていたとは。細やかな気配りに柊吾は感嘆したが、それを口に出すのはなんだか失礼な気がしたので、「よかったな」とだけ答えてから、ふと思い直してこう訊ねた。
「美容院、行かなかったんだな」
「うん。予約とれなくて。行くのは明日の午前中」
「そうか」
撫子は、明日の午前中は不在。そのスケジュールを脳に淡々と記録しながら、柊吾は他のメンバーへ思いを馳せた。
明日の午後であれば、全員の集合が叶うだろうか。
「……」
柊吾から緊迫感を気取ったのか、撫子は扉の前で立ち止まった。
一緒に柊吾も立ち止まると、硝子の嵌った扉越しに、四角く切り取られた部屋を見た。
そこに広がっているのは、柔らかな日差しに染まったリビングだ。四人掛けのダイニングテーブルと、キッチンを仕切るカウンターが見える。置かれた花瓶には一輪の花が挿してあった。
壁も、風に揺れるカーテンも、日差しと溶け合って同化しそうなほどに白かった。撫子がここで育ったことを、肌で感じさせるものが、この部屋にはあった。
「……入って」
小さな声で撫子が言って、扉を開けた。
その途端に、ふわっと日差しが溢れ出した。一瞬だけ、雲の中へ紛れ込んだ気分になる。硝子越しに見た部屋は白一色の空間だったが、こうして足を踏み入れれば、様々な色が灯っていたのだと気付かされる。
カウンターの花瓶に咲いた、ガーベラの薄桃色。
リビングの隅に設えられた、焦げ茶色の食器棚。
そこに収まった蔦の柄のティーセットに、写真立ての中の三人家族。
それに――テーブルに置かれた、黒い、遺書。
「三浦くん、じゃなくて、柊吾。座って」
撫子に促されて、柊吾は「ああ」と返事をして、椅子を引いた。
だが、まだ座る気にはなれなかった。
時間がないのは、分かっている。
分かっていても、もう少しだけ撫子と、当たり障りのないことを話したかった。
「……ここに来る前にかけた電話でも、言ったけど。今日は、俺と、陽一郎と、綱田しか来れなかったんだ。あの二人、まだ藤崎さんの所にいる。坂上に頼まれた調べもの、二人で引き受けてくれたんだ」
「……毬ちゃんと陽一郎、がんばってくれてるんだね」
撫子も、そんな柊吾の思いを汲んでくれたのだろうか。囁くようにそう言って、キッチンへと歩いていく。
「私も、早くみんなに会いたい」
「まだ外出、駄目だって言われてるんだろ」
「うん。でも、もう大丈夫だと思うの」
キッチンから戻ってきた撫子は、手にトレイを持っていた。茶の入った二つのグラスを手際よく並べてから、撫子は「見てて」と心なしか得意げに言って、今度はキッチンと反対方向の窓際まで、ゆっくりと歩を進めていく。
空いた窓から風が入り、春の匂いが舞い込んだ。白いカーテンが風を孕み、ふわりと大きく捲れ上がる。食器棚に飾られていた天使の形のガラス細工に、午後の日差しが当たったのか、虹色の光が真昼の花火のように弾け、生まれたばかりの流星が空を自在に泳ぐように、歩く撫子の身体の周りできらきらと自由に飛び回った。
綺麗な、風景だった。撫子のいる風景は、柊吾にとってこんなにも、美しく見えるものなのだ。もし柊吾ではない別の人間が、同じ風景を、同じ目線で見たとしたら、その人間の感じる美しいという感じ方は、柊吾のものとは、違う気がした。
そんな事をとりとめもなく考えていると、くるりと、撫子が振り返った。
「どう?」
「ど、どうって……あー、その……か……かわいい……とか……?」
撫子が、きょとんと目を瞬いた。そして「ありがとう……でも、そういうことじゃなくて……」と少し困った様子で言われてしまい、柊吾は心にさっくりと投げナイフを食らったような傷を負った。
「ね、ちゃんと歩けてるでしょ?」
「……あ、ああ。そうだな」
気を取り直して柊吾が撫子を見下ろすと、ふわふわのルームシューズを履いた左足のふくらはぎにも、包帯が巻き直されているのが分かった。
確かに撫子の足取りは昨夜よりしっかりしていたが、一夜明けたくらいで急に癒えるものでもないだろう。無理をしているのでは、と柊吾が密かに勘ぐっていると、撫子がこちらに戻ってきた。
「昨日みたいに、痛くないの。身体も、いつもより楽なくらい」
「そうなのか?」
「うん。昨日の夜は、柊吾とずっと一緒にいたからかな。言ったでしょ? 三浦くんは、あったかい、って。ぽかぽかする、って」
言い終わってから、撫子が口を手で押さえた。そのまま恥じらうように俯いてしまい、短く切られた側の栗色の髪が、赤らんだ頬を掠めた。
「呼び方変えるの、難しいね。すぐに間違っちゃう」
「……」
「柊吾、どうしたの?」
「いや、なんでも……」
額をテーブルに打ちつけたくなる衝動を抑えていた、とは言えなかった。柊吾は平静を装いながら、ふと気になって話題を変えた。
「そういえば、雨宮の母さんは?」
「二階にいるよ。お父さんも。私が、そうしてってお願いしたの」
「? なんで……」
言いかけて、柊吾は撫子の表情を見て、黙る。
どんなに表情が希薄でも、感じ取れることだってあるのだ。それ以上を知りたいなら、ちゃんと言葉で訊き出せばいい。それを柊吾は、今回の事件で学んだ。
「どうした?」
「……話したいことがあるの」
撫子は、柊吾の目をしっかりと見た。
窓からの白い光が、撫子の澄んだ瞳を照らし出す。虹彩の溝さえ見通せそうな澄んだ瞳と見つめ合い、柊吾は、椅子を引いて腰かけた。撫子も柊吾の対面に腰を下ろすと、どこか厳かに張り詰めた声で、言った。
「お願い。私が話す前に、柊吾が先に、昨日の夜のことを教えてくれる?」
「それって、森でイズミさん達と話した時のことか?」
「うん。私はあそこにいても、ほとんど何も分からなかったから」
「……分かった」
考えがあってのことなのだろう。柊吾は昨夜の出来事を、撫子に請われるままに話し始めた。
撫子は、静かに耳を傾けていた。時折頷きながら、悲壮感をうっすらと漂わせながら、黙々と話を聞き続けた。
やがて壁掛け時計の針が午後の三時を指し、柊吾が全てを語り終えると、二人っきりの室内に、沈黙が訪れた。
長い沈黙ではなかった。驚くほど、短いと思ったくらいだった。
撫子は瞳を閉じて、開いて、覚悟を決めた様子で、沈黙を破った。
「紺野さんの遺書、読んだ」
乾いた声だった。それでいて同時に、慈しみを感じる声だった。
包帯に覆われた手を伸ばして、撫子は遺書の黒い表紙を撫でた。赤子を抱きかかえるような優しい手つきで、遺書を、手に取っている。
「ここには、私たちが小五の時のことが書かれてた。でも、紺野さんはあの頃のことを全部書いてるわけじゃないよ。紺野さんが書けたのは、本当に一部なんだと思う。つらいこと、悲しいこと、悔しいこと、されて嫌だったことを、一つ一つ思い出しながら書くなんて、出来ないと思うから。本当は、書くのも辛かったと思う。言葉の形に書き出しても、辛いままだったと思う」
「うん」
柊吾はただ、相槌を打った。
きっと柊吾はこの先も、紺野の遺書を読むことはないだろう。
だから、柊吾が知る紺野沙菜は、この撫子の語りが全てだ。撫子の声が、思いが、柊吾にとっての紺野沙菜になる。
だから、懸命に、耳を澄ませた。
何ひとつ、心を取りこぼさないように。
「紺野さんは、私のことが嫌いなんだって思ってた。先にこの遺書を読んだ和音ちゃんは、少し違うよって教えてくれた。紺野さんは、私のことが、羨ましかったんだ、って。私、少しびっくりした。でも、何となく、最初からそれを分かってたような気もしたの。紺野さんから見た私が、どんな風に見えてたか」
ぽつり、ぽつりと、撫子は語った。希薄な表情が、僅かに動く。
そこにあるのは、悲嘆の色ではなかった。ただ、事実を口にしている。それを言葉にする勇気を、柊吾は透明な声に感じた。撫子の声は、こんな風にも響くのだ。柊吾は、「うん」と相槌を打ち続けた。
「和音ちゃんにも言ったけど、私、紺野さんが亡くなったのを知った時、あんまり悲しくなかったの。私にとって紺野さんは、友達になれないままいなくなった女の子で、それ以上でも、以下でもなくて、でも他人なんかじゃ、絶対になくて。どんな名前をつけたらいいのか、分からない女の子、だったから。もう少し時間があったなら、私たち、友達になれたのかな。おはよう、ってもっと自然に言えるようになれたのかな。そうしたら私は、紺野さんのことを、もっとたくさん知れたかな。辛くて悲しいことばかりじゃなくて、紺野さんの好きなものも、ちゃんと知っていけたかな。……柊吾。ここに書いてあることが、紺野さんの全部なの。ここからは、もう、何にも増えない。生まれない」
「……うん」
何も、増えない。生まれない。それを、柊吾も知っている。
だが、本当にそうだろうか。柊吾は、撫子を見つめた。
撫子も、本当にそう思っているのだろうか。和泉の声が、不意に頭の中で蘇る。
死者を弔いたい時、何をするか。その台詞に答えて見せた、家族の声も思い出す。
たとえどんなに悼んでも、死んだ人間は、帰らない。〝アソビ〟の終わりに、拓海だって言っていた。死者とは、二度と遊べない。
そんなことは、分かっている。
分かっていても、人は死者を、弔うのだ。
かつて生きていた人間を、今も生きている人間は、弔ってまた、生きていく。
まだ、できることはあるのだ。柊吾達に、できることが。
「私、もっと紺野さんのこと、知りたい」
撫子が、柊吾を見つめ返した。
「私のことを、こんなに考えてくれてて、ずっと拘ってくれてた女の子のこと、私も、ちゃんと知りたいの。私は、紺野さんを……こんな日記帳一冊で、収まっちゃうような女の子に、したくない」
撫子は遺書をテーブルに置き直し、最後の頁を捲った。
そして顔を上げると、「ここ、見て」と真っ白なページの隅を指さした。
柊吾は身を乗り出して、示された場所を覗きこみ、瞠目する。
小さな数字の羅列が、鉛筆で刻まれていた。
「これ……まさか」
「電話番号。……美也子のお母さんは、連絡先は書いてないって言ってたけど、ちゃんと書いてた。紺野さんの、お父さんとお母さんに、繋がると思う」
「……電話、かけるつもりなんだな?」
「うん」
遺書の頁を静かに閉じて、撫子は顔を上げた。
凛とした、眼差しだった。どんな言葉をかけたとしても、決して心を変えないだろう。白い部屋の中でその強さが一際眩しく見えてしまい、柊吾は、慎重に言葉を重ねた。
「……電話して、何を話すんだ?」
「許しを、もらうの」
「許し?」
「やりたいことが、できたの。どうしても、やりたいことなの。でも、それを私がするのは、私の……エゴかも、しれないから」
柊吾は、言葉を呑み込まされる。
撫子の口から、そんな言葉が出てくるなんて、思いがけなかったのだ。
「それでも、どうしてもやりたいの。エゴでも、何でも、やりたいの。もし私が紺野さんだったら、って考えたの。考えて、決めたの。私は……紺野さんの最後の願いを、叶えたい」
「紺野の、最後の願い?」
「遺書に、書いてた」
撫子が、その時初めて、寂しい笑みを浮かべた。
その悲痛さがあまりにも胸に迫ったから、紺野が生前に一体何を願ったのか、柊吾は咄嗟に訊けなかった。
やっとのことで訊ねた声は、撫子にしか聞こえないほど、酷く小さなものだった。
それに答えてくれた撫子の声も、同じくらいに小さかった。
それでも二人の間に声は通い、柊吾は、息を吸いこんだ。
「……そんなの、って……」
撫子は、やはり悲しい笑みを浮かべていた。
もう、決めてしまっているのだ。悲壮で揺るぎない覚悟が、そこにあった。
「柊吾。私、何となく分かるの。この遺書、美也子は読んでないよ。美也子のお母さん、隠してたと思うから。こんな言葉、美也子には、見せたくないって思うのが……お母さんから子供への、気持ちだって思うから」
「……このこと、雨宮の父さんと、母さんは」
「知ってるよ。二人に相談したの。小五の時のナデシコの花のことで、お父さんもお母さんも、紺野さんのこと、覚えてた。……美也子のことも、覚えてるよ」
「だったら、尚更……反対、されたんじゃないのか?」
「……うん。私がやりたいって思うことを相談したら、反対、された。危ないよ、って。もう、関わらないでいいんだよ、って。傷つきにいかなくていいよ、って。それに……それを私がやるのは、おかしいよ、……って。それはとても、悲しいことだよ、って。言う方も、言われる方も、悲しくて、心が痛くなって、どうしようもなくなることだよって、言われた。……全部、分かるの。私だって、そう思うから」
「じゃあ……」
「でも。言いたいの。それが、どんなに酷くて、残酷なことだとしても。辛さとか、悲しさとか、悔しさとか、紺野さんが思ったいろんなことを、新しく生み出してしまうようなものだとしても。誰にも、理解されなくても。私自身が、こんなの酷いって、思っていても。……そうじゃないと、終われない」
言葉を切って、撫子は頭を振った。
無惨に切られた髪が揺れ、懸命な眼差しが、柊吾を捉えた。
「紺野さんは、この気持ちをちゃんと伝えないと、終われない。このままじゃ、いつまで経っても、終われないの」
声が、静謐な空間を貫いていった。
その響きはまるで音楽のように、柊吾の身体を吹き抜けて、春風のようなそよぎと共に、彼方へ清かに、流れていった。その力強さに心を奪われ、柊吾は何も、言えなくなった。
――このままじゃ、終われない。
それは、生きている柊吾達だけではないのだ。
紺野沙菜も、終われない。
まだ、終われないままでいるのだ。
「柊吾がここに来るまでの間、私、まだ迷ってたの。柊吾、私……怖い。こんなことは本当に、するべきじゃないのかもしれないから。誰も望んでないのかもしれないし、こんな風に誰かを傷つける権利なんて、私にも、誰にも、あるわけないから。それに、紺野さんのお父さんとお母さんだって……私のこと、恨んでるかもしれないから。娘を、苛めから助けてくれなかった子供って……思ってるかも、しれないから……」
「雨宮……」
「でも、それでも、言いたいの。さっきの柊吾の話を聞いて、やっぱりそうしようって、決めたの。私がこうすることで、紺野さんの両親を、もっと傷つけるかもしれなくても……それでも私は、もう何も言えない紺野さんの――『代わりに』、あの子の心を、伝えたい」
「代わり、に……」
柊吾は茫然と、その言葉を唇に乗せた。
それは、今回の事件の最中で、様々な人間が〝言挙げ〟した言葉だった。
撫子が、愁眉を開いて微笑んだ。
悲しい因果を、儚むように。
「さっきの柊吾のお話で、『神がかり』って言葉が出てきたでしょ? それを聞いて、私、何だかすごいなって思ったの。巫女って、自分とは違った存在の意思や言葉を、代わりに伝える人達なんでしょう? 神主さんは、最初から……私がこういう風にしようって決めること、分かってたのかも、しれないね……」
「……イズミさん」
和泉の笑う顔を思い出して、柊吾の胸が、不意に痛んだ。
澄んだ空のような青い目で、和泉はどんな未来を見たのだろう。
巡りゆく季節の中に、じきに桜が咲き誇る春の中に、笑い合っている柊吾達の姿はあっただろうか。
きっと、ある。そう、柊吾には信じられた。根拠なんて何もないのに、何故だか強く、信じられた。
和泉は、この先の未来を知っている。
撫子が、こういう風にすることで――巫女の役割を、担うことで、変わる何かを、知っている。
「本当は、私、紺野さん本人に訊きたいの。私がこういう風に、あなたの『代わりに』なってもいい? ……って。でも、紺野さんにはもう訊けない。だから、電話で訊くの。きっとこの世界で、誰よりも……紺野沙菜さんのことを、愛してた人達に。私が紺野沙菜さんの『代わりに』、この言葉を言うことを、許してほしいから」
撫子は、椅子を引いて立ち上がった。
遺書を胸に抱いたまま、柊吾の傍まで歩いてくる。
「でも、それじゃあ……雨宮の両親は、いいのか?」
「私のお父さんとお母さんは、私がどうしてもって言うなら、電話してみなさいって言ってくれた。でも本当は、させたくないって言ってた。私のいないところで、二人がもっとたくさん話し合ってるのも、知ってる。電話かけるなら、後で必ず代わって、って言われたから」
「でも……」
「それに、私がこういう風にすることは……私と、紺野さんだけの問題じゃないよ。でも、紺野さんと美也子だけの問題でもないよ。……柊吾。私も、この中に入ってるの。これは、私と美也子の問題でもあるの。それに、私と紺野さんと美也子の、三人の問題でもあるの。私は、そういう風に思ってるの」
撫子は睫毛を伏せたが、瞳の強さは、変わらなかった。
存外に強い言葉を受けて、柊吾は気圧され、黙ってしまう。
二人で見下ろした紺野の遺書には、きっとたくさんの思い出がつまっている。
その思い出の群れの中に、柊吾の姿はいないだろう。
だが、撫子達は、そこにいる。柊吾の知らない貌で、いる。
「私、小五の時……美也子に対して、誠実じゃなかったと思うの。美也子が怖くて、避けてたから。だから、私がこんな風に、誰かと決着をつけようとしてるのって、お父さんとお母さんには、初めてに見えたみたい。……だから、私のしたいようにさせてみようって、思ってくれたのかな」
「……坂上も、似たようなこと言ってたぞ。昨日の夜に、神社に行く前に。あいつも親と話し合って、そういう風に言われたって」
「みんな、おんなじだね。私達、大切にされてる」
「……ああ」
「……柊吾。お願い。今からここで、電話をかけるから……少しの間だけ、リビングの外で、待っててくれる?」
「いいけど……一人で、大丈夫か?」
「うん。その方が、ちゃんと喋れる気がするから」
撫子はそう言って、テーブルのすぐ傍にある棚へ向かった。
濃いグレーの固定電話が、そこにある。遺書を抱く撫子の腕が微かに震えていることに、柊吾はさっきから気付いていた。
その震えを、止めてやりたかった。
だが、これは撫子の戦いだ。そういう風に、言われてしまった。このまま手を出さないで見守ることが、今の柊吾にできるたった一つのことなのだ。逸る感情とは裏腹に、心の最も深い部分が、柊吾へ静かに諭していた。
だから、これが今の柊吾に言える、精一杯の激励だった。
「……そこの扉から、様子、見てるから。親に代わる時は、俺が呼んでくる」
「うん。ありがとう」
撫子は硬い表情で応えてから、柊吾に背中を向けた。
電話の傍に紺野の遺書を置く指が、ぎこちなく震え続けている。
やりきれない思いが胸を切なく締め付けたが、柊吾は拳を握りしめると、後ろ髪を引かれながら、リビングの外へ向かった。
扉に手をかけて引き開けると、その音が嫌に大きく耳に響いた。
廊下に出て扉を閉めると、その音もまた嫌に大きく響き渡った。
静けさが、辺りを支配した。
息を吐いた柊吾は、背後に残してきた戦いを振り返る。
「……」
硝子の嵌った扉の向こうに、撫子の華奢な立ち姿が見えた。その姿はやはり凛としていたが、受話器を耳に当てる横顔に、仄かな赤みが差していた。唇は浅く開いていて、呼吸が乱れているのが分かる。
「……」
撫子は、一度受話器を置いてしまった。琥珀色の瞳を閉じて、深呼吸を繰り返し、もう一度受話器を耳に当てるまでの間、柊吾も呼吸を忘れていた。止まっていた息を吸って、大きく吐き出して、同じ息苦しさの只中に立ちながら、柊吾は今すぐリビングに戻りたくて堪らなかった。
震える小さな手のひらから、あの受話器を取り上げたい。撫子がそれを拒むなら、強く言って聞かせたかった。
そんなことはしなくていい、わざわざ傷つきに行かなくていいのだと、撫子の両親が言ったように、柊吾も言ってやりたかった。
だが、そんな風に言う自分は、まるで想像できなかった。
――このままじゃ、終われない。
仲間達が次々に告げた言葉が、柊吾の動きを止めるのだ。
「……」
撫子の腕が、持ち上がった。
人差し指がゆっくりと、順番に数字のボタンを押していく。
電話が、紺野の遺族に繋がろうとしている。
「……」
固唾を呑んで、柊吾は見守り続けた。
時間が、永劫に感じられた。このまま、時が止まればいい。そうでなければ、時の流れが風のように速くなって、この永劫を早く壊してほしかった。いつしか、祈るような気持ちになっていた。
「……」
やがて――撫子の小さな声が、柊吾の元に聞こえた。
何を言っているのかは、聞こえなかった。
電話がついに繋がってしまったことしか、柊吾には分からなかった。
ただ、この瞬間、目に飛び込んできた光景があった。
受話器を耳に当てた、撫子の横顔。
表情の希薄な、横顔に――涙が、音もなく一筋、伝い落ちていった。
それだけが、柊吾の目に見えていた。
それだけが、この時の世界の全てだった。
許されたのか、許されないのか、これでは測りようがないだろう。ここにいる人間がもし撫子ではなかったなら、柊吾はそんな風に思ったはずだ。
だが、柊吾には分かっていた。
撫子が、俯くでもなく、心細そうに震えるでもなく、ただ、涙を流したから。
泣いたというそれだけで、もう、言葉は要らなかった。
「……よかった」
小声で言ってから、柊吾はリビングに背を向けた。数歩だけ廊下を歩き、とんと壁に背を預ける。
もし、紺野の両親が、撫子を憎んでいたのなら。
手酷い拒絶の言葉を、撫子へ叩きつけていたのなら。
撫子は、この場では、きっと泣かない。
そういう少女だと、柊吾は知っている。
*
「ありがとう、って、言われたの」
嗚咽混じりの声が、服越しにこもって聞こえる。
日差しが傾き、白い光の中に飴色の輝きが混じり始める頃、リビングではまだ何かを話す声が続いていた。
壁に背中をつけていても、内容はやっぱり上手く聞き取れない。だが和やかさだけは廊下にも伝わってきていたから、柊吾は気にならなかった。
「苛め、止めようとしてくれてありがとうって、言われたの。毎朝おはようって言ってくれてありがとうって、言われたの。それから、ごめんなさいって謝られた。沙菜ちゃんは、あなたにひどいことしたけど、本当は、友達になりたかったんだと思うって、言ってくれた」
「うん」
背に回した腕に力を込めて、柊吾は撫子の身体をさすった。
痩せた背中だった。こんなに心許ない身体で、今まで、たくさんの物を抱えててきたのだ。四年もの間、ずっと、たった一人で。
「紺野さんのお母さん、言ってた、私は沙菜ちゃんじゃないけど、でも、沙菜ちゃんはきっと、友達に、なりたかったって、親だから分かるって、言ってくれた。紺野さんが、亡くなってから、紺野さんのお父さんとお母さん、私に、ずっと、電話したかった、って。でも、私のこと、気にして、電話しないって決めたって、言ってた。私は、沙菜ちゃんのこと、忘れて生きていったらいい、って、思ってたって」
怖かっただろう。本当に、怖かっただろう。どれだけの勇気を振り絞って、あの場に立っていたのだろう。離したくないと、柊吾は思った。柊吾にできるやり方で、撫子を支えたかった。痛みを、分かち合いたかった。
「でも、電話で、言われたの。やっぱり、覚えてて、って。沙菜ちゃんのこと、忘れないでって……覚えててほしいって……」
「うん」
「忘れない」
「うん」
「ずっと、覚えてる」
「うん」
「友達に、なりたかった……なりたかった……」
「うん……」
廊下の薄暗がりを照らすリビングからの白い日差しは、美しかった。
清らかな斜光の内側からは、撫子の父親がまだ電話で話す声が聞こえてくる。柊吾は撫子の栗色の髪を撫でながら、さっき挨拶した撫子の母親が涙ぐんでいたことを思い出した。
二人はまだ、リビングから出てこない。
撫子の両親が、このリビングから出てきた時。
撫子と同じ歳の子供を亡くした二人の大人も、笑顔になっていればいい。
そんな風に、柊吾は願った。今は難しくても、きっといつか、笑顔になっていればいい。
「声に出した言葉は、現実世界に影響を与える……か」
ぽつりと思わず、そう漏らした。
言葉は、世界を変えていく。
時に優しく、時に苛烈に、そして、時に美しく。
撫子の放った言葉は、きっと、世界を少し変えた。
この展開を、呉野神社の神主は知っていたのだろうか。漫然と和泉のことを考えていると、腕の中で、撫子が身じろぎした。
「柊吾」
撫子が、顔を上げていた。
その表情の機微から、変わらない決意を柊吾は感じ取る。
「本当に、やるんだな」
「うん。……だって」
日陰の中で笑う撫子の涙が、仄かな明かりに光って見える。その姿が、やっぱり柊吾には綺麗に見えた。
「みんなに会うのは、これからだし……このままじゃ、終われないから」
「……これで、五人目か。いや、紺野も入れて、六人目か」
「え?」
不思議そうにする撫子の頭を、柊吾は自分の胸板へ押し付けた。
つくづく自分は口下手で、もう言い尽くされたこの言葉は、今更柊吾が言わなくても、現実世界に及ぼす影響は微々たるものに思われた。
だが、たとえそうだとしても。
きちんと〝言挙げ〟したい言葉が、柊吾の中にも、生まれていた。




