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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 107

 がらがらと、立てつけの悪い扉が、音を立てて開いた。

 柊吾も、毬も、陽一郎も、全員が驚いて目を瞠った。

「おやおや、皆さんお揃いで。こんにちは、差し入れを持ってまいりました」

 そこに立っていたのは――呉野和泉だった。

 装いは昨夜と同じ、白い着物に浅葱の袴、神職の格好だ。灰茶の髪を優美に靡かせながら、白皙の美貌の男は、一同へ朗らかな笑みを向けた。

 その手には、大きな白いビニール袋が下がっている。どうやら、中身は寿司のようだ。三人前はあるだろう。

 柊吾はあんぐりと口を開けて、和泉と寿司とを見比べた。

「イズミさん、なんで寿司……?」

「昼食を作るのも手間だろうと思いまして。克仁さんの家はまだ片付けが途中でしょうからね。キョウジさんもまだ昼食は摂られていないのでしょう? どうぞ、貴方の好きな海老の握りもありますよ」

「やかましいわ腐れ神主! どの面提げて出やがった! あぁ!?」

 恭嗣が突然、目を三角に吊り上げて気炎を吐いた。

 首に掛けたタオルをテーブルへ叩きつけるや否や、どすどすと足音高らかに和装の異邦人へ詰め寄っていく。

「ゆ、ユキツグ叔父さんっ? 待った、なんでそんなに怒ってるんだっ?」

 仰天して、柊吾は叫んだ。とにかく止めた方がいいだろうと判断し、叔父を素早く羽交い絞めにした。

 途端に、「離せシュウゴ! この野郎、一回シメないと気が済まねえ!」と、いたいけな中学生の前では控えて欲しい暴言が威勢よく飛んできて、陽一郎が視界の端で震え上がり、毬がそんな陽一郎を宥めていた。

 ただ一人、藤崎は表情を変えなかったが、やがてじろりと和泉を睨んだ。

「イズミ君。私も恭嗣君から先程訊きましたよ。全く、君はなんと小賢しい真似をするのです。恭嗣君が可哀想じゃあないですか」

「えっ? イズミさん、なんかユキツグ叔父さんを怒らせるようなことしたのか?」

「克仁さん、柊吾君、それはとんだ誤解ですよ。僕は何もしていません」

「何もしてないだあ? 嘘つけ! 貴様の所為でこっちは不審者扱いされかけたんだからな!?」

「はあっ? イズミさん、ほんとに何したんだっ?」

「イズミ君」

 恭嗣が突然、口調を真面目なものへ変えた。

「はい、何でしょう」

 和泉も、律義に答えた。慇懃にも聞こえる答え方だ。和泉の微笑みを見た柊吾がそんな感想を持った時、次に発せられた恭嗣の声にも、静かで明確な怒りが通った。

「俺は今日、この家に来る前に、葛羅(かずら)神社に行ってきた」

「葛羅神社?」

 柊吾は、恭嗣から身体を離しながら復唱した。

 知らない神社だった。ただ、何となく聞き覚えのある名前だった。陽一郎と毬に目を向けると、陽一郎は恐怖に震えたままだったが、毬の方が、ひそひそと小声で教えてくれた。

「東袴塚学園の近くの神社じゃないかな……袴塚市で一番大きくて、参拝客も多い神社だと思う……」

「……そうなのか」

 呉野神社にしか行ったことのない柊吾には、それは新鮮な発見だった。

 うらぶれた神社だが、愛着はある。同じような思いを抱いてあの神社へ通う氏子は、少ないなりに一定数いるはずだが、どうやらその葛羅神社の方が賑わっているようだ。

「キョウジさん、葛羅さんへ何の御用があったのです?」

 微笑みながら、和泉が訊いた。

 午後の陽光を受けた青色の双眸は、快晴の空のように透き通っていて美しい。だが、異国の色を宿す瞳に雨雲のように萌した陰りを、柊吾は見逃さなかった。

 恭嗣もまた、見逃さなかったのだと思う。和泉を睨む横顔で、眉間に皺が、刻まれた。

「イズミ君。単刀直入に訊くぞ。呉野神社、畳む気でいるんだろ?」

「……。えっ?」

 頭の中が真っ白になって、柊吾は唖然と、和泉を見る。

 ――和泉が、呉野神社を畳む?

「キョウジさん、その言い方は不自然ですよ。呉野神社はあの場所に残り続けますからね。商いのように店を畳むのとはわけが違います」

 飄々と答えて、和泉は笑った。

「詭弁はどうでもいいんだよ」

 恭嗣の眉間の皺が、深くなった。

「どうなんだ? 呉野神社の宮司、呉野和泉。俺が言いたいのは、お前が宮司を辞めようとしてるってことだけだ」

「ほう、僕が宮司を辞める」

 和泉は興味深げに頷いてから、軽く肩を竦めて微笑んだ。

「何故、そんなにも突拍子のない結論を出したのです? 僕は今だってこうして神主の装いで、貴方の前に立っていますよ」

「それがどうした。葛羅神社の宮司さんに訊いてみたんだよ、呉野神社の名物・異人さんが居なくなるって噂は本当か、ってな。そしたら何も知らないの一点張り。ありゃあ絶対、口止めしてる奴がいるね。っていうか! イズミ君てめぇ、あの宮司さんに『呉野神社の宮司の個人情報を嗅ぎ回る、怪しい男が来るかもしれない』なんて抜かしやがったそうだな!? その所為で不審者扱いされただろうが!」

「なあ、そもそも、宮司って何だ?」

 憤慨している恭嗣には悪いが、柊吾は挙手して訊いてみた。

 藤崎がすかさず「神主、と思っていただければ問題ありませんよ。正確には、少し語弊がありますが」と、苦笑の顔で答えてくれた。

「宮司とは、其の神社の代表者のことをいいます。では神主とどう違うのかと云いますと、神主という此の呼称は、職業としての名に当たります。さらに正確に云うのであれば、神主ではなく、神職です。例えばお寺の例を挙げるならば、お坊さんの呼び方が、僧侶、お上人さん、住職など、多岐に渡っていることと似ていますね。神社の清らかさを守る神職は、まさに其の場所の主。神主という呼ばれ方が定着したのも、納得のいく話でしょう。ああ、ちなみに余談ですが、神社に就職することを言い表すには、奉職、という言葉を用います」

「つまり、イズミさんも……神主で、宮司さん?」

 柊吾は、まじまじと和泉を見つめた。

 あまり聞き慣れない言葉で表された和泉の姿が、何だか急に見知らぬ大人に見えてしまった。

 目が合った和泉は、にこりと綺麗に笑って手を振ってきた。ブラウン管の向こうの男優のような白い美貌に、いつの間にか毬がぼうっと見入っている。

「ええ。イズミ君も宮司です。また、此の袴塚市ではイズミ君のように神社を一人で切り盛りする神職が大半です。つまり、其の神社の神職、イコール、宮司というわけですね。さらに、市内の神社のうちのいくつかは、常駐している宮司がいないのが現状です」

 藤崎は、物憂げな目で和泉を見た。

 説明に頷きかけた柊吾は、考え直して、ぽかんとした。

「宮司が、いない? それって、つまり……無人?」

「はい、其の通りです。イズミ君のように世襲で神社に奉職した場合であれば尚更、次の担い手が現れなければ、いずれは無人の神社となるでしょう。然ういった時、どうするかと云いますと」

「余所の神社の宮司が、その神社の宮司を兼務する。無人の神社にだって、宮司は絶対に一人いるからな」

 険しい表情の恭嗣が、藤崎の言葉を引き継いだ。

 しん、と薄ら寒い沈黙が、道場に降りた。

 窓からの日差しがフローリングに桟の影を長く伸ばし、ちらちらと舞う塵芥が、やたらと眩しく見える。

 そんな空間に和泉はただ、嫋やかに微笑んで立っている。

 その沈黙に、急に不安を煽られた。

 柊吾は息を吸いこんで、意を決して、声を出した。

「……イズミさん。ユキツグ叔父さんが言ってること、本当ですか?」

「それを君に教えるのは、明日の夕方にしましょう」

「明日? ……夕方? なんで今じゃ駄目なんですか?」

「今でも構いませんが、後日にした方がいいと思います。そもそも、柊吾君はここへ何をしに来たのです? 僕の進退について議論を重ねて、貴重な時間を無駄遣いしても良いのですか?」

「む、無駄って……別に、無駄なことじゃないです。イズミさんのことを知るのは。だって、あの神社の宮司は……イズミさんじゃん」

 ぼそぼそと柊吾が言うと、和泉は軽い驚きの顔を浮かべた。

 それからふわりと花のように微笑むと、「君に一つ、有意義な情報を授けましょう」と、長閑な口調で言った。

「柊吾君はまだ撫子さんと、今日は連絡が取れていないのでしょう?」

「? そうですけど……」

「撫子さん、もう自宅に戻られていますよ。お見舞いに行ってみてはいかがです? 彼女の元には明け方に、大切な物が届けられたようですね。撫子さんがそれを一人で読んだことが、君は気になっているのでしょう?」

「え? えっ! なんで、知って……!」

 柊吾は動揺し、勢い込んで訊いた。今の和泉の台詞には、明らかに心を読んだだけでは知り得ない情報が混じっている。

 和泉は微笑みを返すだけで、言葉の形で応えない。美しく整った笑みの中に、花の一片ほどの憂いが落ちたような気がして、柊吾は、拓海の見解を思い出す。

 ――和泉の異能は、強くなっている。

「……まだ、雨宮の所には行けません。ユキツグ叔父さんと藤崎さんに、訊きたいことがあるから……」

 目を逸らしながら、柊吾は言う。

 美也子の動向についてはもっと話を聞くべきであり、七瀬の鏡についてはまだ何も訊けていないのだ。切なさが心を撫子の元へと引っ張ったが、まだ、柊吾は、ここを離れるわけにはいかない。

「そうですか。事情があるなら、仕方がありませんね」

 寿司の袋を藤崎へ託しながら、和泉はさらりと答えた。こちらが鼻白むほどに淡白な声だったが、柊吾を責めるような響きは感じられなかった。

 きっと和泉は、見抜いているのだ。本当は柊吾がどうしたいかを、おそらく柊吾本人よりも、正確に言葉の形で分かっている。

 だから、こんなにも、優美に笑う。笑いながら、待っている。柊吾が、その答えに気付くのを。

「では、僕はこれでお暇しましょう。そろそろ神社へ戻らなくては」

「待て。イズミ君」

 恭嗣が、尖った声で和泉を呼び止めた。

「イズミ君。君に未練はないのか?」

 一同に背を向けた和泉が、立ち止まる。

 浅葱の袴が翻り、灰茶の髪も繊細に靡く。

 揺れる柳のように優美なその後ろ姿を、恭嗣の声が乱暴に叩いた。

 まるで、置いてきぼりにされた子供が、親の背中を、叩くように。

「先代の後を継ぐのが、あんたの夢だったんだろ? それが叶ったばっかりじゃねえか。なのに、なんで辞めるんだ? 今のイズミ君を見てたらな、立つ鳥跡を濁さず、って言葉が頭に浮かぶんだよ。大体な、あんたら呉野の一族の暮らし方、聞けば聞くほど滅茶苦茶じゃねえか。あんたの妹の度重なる転校だって、なんで許した? そんな費用も手間もかかることが、なんであんたも先代も出来たんだ? まるで、今後の生活とか、何も後先考えてねえみたいな……これから先の人生を、ちゃんと生きていく気がねえみたいに、見えんだよ」

 その台詞に虚を衝かれ、柊吾は弾かれたように和泉を見た。

 思ってもみないことだった。同時に、もっと早く気づいていてもよかったことだった。

 和泉は、まだ振り向かない。そういう遊びをしているように柊吾には見えた。振り向かないで、このまま誰とも目を合わせないで、振り向いた時には嘘の準備ができている。孤独で、一方的な、鬼の遊戯。

 恭嗣の声に、苦渋が滲んだ。

「……イズミ君、未練はないのか? 何が目的なのか知らねえけど、ここで、ちゃんと生きていきゃあいいじゃねえか。こんな事は例えでも言いたかないけど、もし俺達の人生が今日で終いなんだとしたら、あれもできなかった、これもできなかった、って後悔まみれになるもんじゃねえのか? そんな悔いが、君にはねえのか? なあ、イズミ君。教えろよ。君に、未練はないのか?」

 恭嗣の長い台詞が終わるまで、誰も口を利けなかった。

 柊吾は圧倒されて言葉が出ず、それはきっと隣の二人も同じだった。藤崎は、再び物憂げな目つきに戻っていた。

 先程よりも、ずっと重く、長い沈黙。

 その果てに、和泉が選んだ言葉は。

「死者を弔いたい時、貴方は何をしますか?」

 質問、だった。

 恭嗣が、飴玉を呑んだような顔になる。やがて狼狽と苛立ちが入り混じったような顔で和泉の背中を睨んだが、答えなくては話にならないと踏んだのだろう。ぶっきらぼうに、吐き捨てた。

「墓参りに行く。花を持って、家族を連れてな」

 柊吾は、黙って恭嗣の横顔を見上げた。

 恭嗣が誰のことを思いながら、そんな風に言ったのか、簡単に想像できていた。

「有難うございます。いつか必ず、貴方にお聞きしたいと思っていました。僕が同じ質問を受けたなら、きっと貴方と同じ答えを口にしたことでしょう。それでも僕は、近しい友人である貴方の答えを、一度聞いておきたかったのです」

 引き戸の手前で、和泉がようやく振り返る。

 その顔には、柔らかな微笑が桜の花弁のように乗っていた。集めた花弁に吐息を吹きかけるような繊細さで、和泉は細やかに言った。

「生への未練は、ありません」

 穏やかな、声だった。

 春の空のように清々しく、安らいだ温みを帯びた声だった。

「僕は、今までに様々な出会いに恵まれました。キョウジさん。克仁さん。柊吾君を始めたくさんの中学生達にも出会えました。その出会い一つ一つが、僕には愛おしくてなりません。僕は人が好きなのですよ。何度だって言いましょう。僕は日本に来て、幸せでした。幸せなのですよ。満ち足りているのです。それに僕の今後の行動は、先代も全て御承知です。僕があの御方と生前に交わした約束も、昨年の九月に子の務めとして果たしました。僕は先代が亡くなった時から、それより以前に、父が亡くなり、呉野和泉になった時から、こうする事を決めていました。それを達成できる日の訪れが、僕には安らぎに思えてなりません。……キョウジさん、僕に未練はありません。別れがどんなに辛くとも、僕は寂しさよりも嬉しさを感じているのです。ようやく、新たな場所へ旅立ってゆけるのですから。そこで再び、僕は歩み始めるでしょう。いつかまた、きっと皆さんと巡り合える日が来ます。そんな希望の光の中へ、きっと歩み始めるでしょう。そんな僕に、もし未練があるとするならば……それは、僕が柊吾君とした約束を守ることと、少女が『見た』未練を断ち、あの神社の清らかさを守り、神主としての最後の務めを果たすこと。それから……氷花さん、でしょうね」

 ふ、と和泉の目元に、思慕にも哀愁にも似た憂いが浮かぶ。

「しかし、それらの未練さえも、僕は全て断ち切ってみせましょう」

 そう言って笑う和泉の顔には、もう先程までの憂いは見当たらなかった。

 柊吾は、戸惑いながら和泉を見る。

 和泉の感情が、読めなかった。ただ、ひどく途方もない悲しみと、それをも超えていく達観を、柊吾は大人の瞳に見てしまった。伸ばした手が届かない高みに、和泉は、登り詰めようとしている。

 恭嗣も、絶句しているようだった。生への未練を問いかけて、ないときっぱり言われたことで、肩透かしを食らったような顔になっている。和泉が、小さく笑った。

「これで、お判り頂けたでしょう? 僕に、生への未練はないのですよ。幸せなことに、ないのですよ。僕にそう思わせて下さった出会いがあったからこそ、僕に、未練はないのですよ……」

 ふと和泉は口を噤み、喋り過ぎたとでも言わんばかりの照れ笑いを浮かべた。

 そして「それではまた明日、お会いしましょう」とだけ言い残すと、道場を出て静々と歩き去った。

 場には、魂が抜けたように茫然とする一同が残された。

「……くそっ、全く意味が分からん」

 恭嗣は、口をへの字に曲げていた。

「頑固者ですよ、本当に」

 藤崎がぽつりとそう言って、パイプ椅子に腰かけた。

 少しぞんざいな響きの声だった。真面目さの中にひと匙の倦怠感を添えたような表情で、藤崎は和泉の消えた引き戸を見つめている。

 敏感に反応した恭嗣が、「藤崎さんは、いいんですか? 良くないでしょう、締め上げましょう」と滅茶苦茶なことを言っていたが、藤崎は首を縦には振らなかった。

「勿論、良くはありませんよ。しかし、止められぬことも判っています。だからと云って諦めたわけではありませんが、左様ならば、仕方がない。私の反対を振り切る為に、周到に根回しをした男ですから。生半可な制止では、心を変えはしませんよ」

 恭嗣はやきもきと藤崎に詰め寄っていたが、二人の会話に耳を傾けながら、柊吾の頭の中は依然として、真っ白になったままだった。

「イズミさんは、何をしようとしてるんだ……?」

 ――立つ鳥跡を濁さず。

 そんな恭嗣の台詞が、脳裏でぐるぐると回っていた。

 ――和泉は、宮司を辞めようとしている?

 その為に、余所の神社へお願いに行った?

 呉野神社の宮司を、兼務してもらう為に?

 それは、本当なのだろうか。もし本当だとしたら、身辺を整理した和泉は、これから何をする気でいるのだろう。

「まさか……ロシアに帰ったり、しねえよな……?」

「そりゃあねえだろ! 今更!」

 思わず呟いた懸念を、恭嗣が硬い声で笑い飛ばした。柊吾は、叔父をじろりと見た。どうせ否定するのなら、もっとはっきりとした声で否定してほしい。

 そんな無言の訴えを察してか、「だってよ……」と、恭嗣はむっとした声で言った。

「幾らなんでも、もうすぐ高校生になる妹を残して単身ロシアに行くのはねえだろ。あの子だって、日本の高校を受験したはずだ。なあ?」

「そんなの知らねえ。呉野の志望校、知ってる奴いねえんだ」

「だーっ、もう、分かんねえことだらけで苛々するなあ!」

「憶測を元に議論しても、仕方がありませんよ、恭嗣君」

 藤崎がまた恭嗣を窘め、柊吾も一旦それについて考えるのをやめにした。

 もちろん、いずれは和泉からちゃんとした話を聞かせてほしい。だが明日の夕方には教えてくれると言ったのだ。焦ることはないだろう。

 それに、和泉本人に釘を刺されてしまったように、今の柊吾には他にすべき事がある。

 壁に据えられた丸い時計を見上げれば、現在時刻は一時半。まだまだ明るい時間帯だが、のんびりはしていられない。後で撫子の家に寄るのなら、早く質問を済ませた方がいいだろう。

 美也子のことと、七瀬の鏡のこと。どちらから先に訊くべきか、柊吾が逡巡していた時だった。

 少年の舌足らずな声が、広い道場へ明るく響いた。

「行っておいでよ、柊吾」

「……陽一郎?」

 陽一郎が、立ち上がっていた。「行っておいでよ」と繰り返し、気丈な笑みを向けてくる。

「坂上君から頼まれた質問は、僕がやるから大丈夫だよ。全員で質問しなくたっていいじゃん。柊吾は撫子の所へ行っておいでよ」

「あの、三浦君。これ……使って。連絡取れないと困るから……」

 毬も立ち上がり、わたわたとポケットに手を入れて携帯を取り出した。

 ピンク色の筐体を柊吾へ差し出して、淡い笑みを浮かべている。

「綱田……」

「後で、合流できたらいいんじゃないかな。日比谷君の携帯にかけてもらったら、いいよね?」

「うん、そうしよ!」

 陽一郎が、乗り気で頷く。毬はほっとした様子で息をついてから、緊張で上気した頬の色はそのままに、懸命な様子で言葉を継いだ。

「三浦君は、撫子ちゃんに会ってきて。日比谷君とがんばるから。……あの、後で撫子ちゃんの様子、どうだったか教えてくれる?」

「……いいのか? それに、陽一郎だって……ちゃんと質問事項、覚えてるんだろうな?」

「大丈夫だよ! ほら、ペンで手にメモしてきたから!」

 ぱ、と陽一郎が両手を広げた。ちまちまとした文字で書かれたカンペを見て、毬が小さく吹き出した。そんな子供達の様子を大人二人が、微笑ましげに見守っている。

「……ああ。さんきゅ。助かる」

 柊吾は、毬から携帯を受け取った。

 たった一人で紺野の遺書と向き合っている、撫子へ会いに行く為に。

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