花一匁 105
「そんな事があったんだねえ……」
食べかけのハンバーガーを手に、陽一郎が圧倒された様子で呟いた。
毬も似たような反応で、自分の友人が水面下で思わぬ動きを見せたからか、茫然自失にも似た驚きを顔にありありと浮かべている。
「柊吾、佐々木さんが託したものって何だったの?」
陽一郎が訊いてきたが、答えを薄々察しているような顔だった。柊吾はコーラをトレイへ戻し、和音から託された物の名を告げた。
「紺野の遺書だ」
「やっぱり……」
俯く毬の白い顔を、窓際の陽光がさらに白々と照らしていた。
紺野沙菜という少女が、書き残した遺書。
その存在はメンバー全員が知っているが、本文に目を通した者は、佐々木和音ひとりだけだ。
「三浦君、和音ちゃんは、遺書の中身について何か言ってた?」
「何も。ただ、雨宮が読むべきだって言ってた。それが、紺野に必要なことだ、って……」
本来ならば、故人の遺した日記など、他人が勝手に読むべきものではないだろう。和音がそう言っていたのと同様に、柊吾もまたそう思う。
それでも、和音はあの遺書を、撫子が読むべきだと判断した。
「紺野の遺書は、今朝、俺と佐々木の二人で雨宮の家まで行って、郵便受けに入れてきた。大事な物だし、手渡したかったけど……それじゃ雨宮の手に渡るのが、遅くなるから」
撫子の家に着いた柊吾と和音は、茶封筒に連名で名前を記してから、それを郵便受けに投函した。すぐ傍に撫子がいるというのに手渡せないのがもどかしく、自分達が変なことをしている気になったものだ。
紺野の遺書が、郵便受けの底に落ちる音を聞いた時。
和音は唇を噛みしめて、じっと前を睨んでいた。
あまりに思い詰めた横顔に、柊吾は声をかけられなかった。
――このままじゃ、終われない。
絞り出すような声で言われた、決意の表れのような言葉。
この台詞が、危機感が、定まった思いの言葉が、今も柊吾の頭から消えなかった。耳にした瞬間に、心の琴線に何かが触れた。この感情は、共感だ。それだけは確かに分かるのに、自分が一体和音の何にこれほど共感したのかが、柊吾には分からないままだった。これから何をするべきか和音は分からないと言ったが、柊吾も気持ちは同じなのだ。これからすべき事なんて、何一つとして分からない。
ただ、何かとても大切なことを、和音に言われた気がしていた。
「さっき俺は、雨宮と連絡がまだ取れてないって言ったけど……俺の母さんは、雨宮と少し話したんだ。雨宮、俺に伝言残してくれてた。俺と佐々木が投函した封筒、ちゃんと受け取った、って」
「そっか……」
陽一郎が、寂しげに笑う。柊吾も、やりきれない胸の痛みを覚えた。
「雨宮には、午後になったらもう一回、電話しようと思う」
撫子のことが、心配だった。あの遺書を撫子は、一人で読むかもしれないのだ。和音が読んでもいいと判断したくらいなので、暴言などは書かれていないと信じたい。だが小五の昔話を聞く限り、そこには苛めの実態が綴られているに違いない。ある程度の生々しさは、覚悟した方がいいはずだ。
そもそも、そんな覚悟もない人間には、読む資格などないのだろうか。
だから和音は、撫子を選んだのだろうか。
「うん、柊吾。そうしてあげたら撫子きっと喜ぶよ」
陽一郎が、今度は明るく笑った。つられて毬も微笑んだので、いつしか重くなっていた空気が、ほんの少しだけ軽くなった。
「あっ、そうだ! もし撫子の体調がいいならさ、後でお見舞いに行くのはどう? 僕たち、この後どうするか決めてないし!」
「ああ、そうだな……」
柊吾は、相槌を打ちながら考える。もしそれを実現させるなら、先に片付けておくべき話があるからだ。まずは和音について、補足で柊吾は言い添えた。
「佐々木は受験が終わったら、こっちに合流するって言ってたぞ。まあ、疲れて眠ってなかったら、の話だけどな」
「和音ちゃん、大丈夫かな」
心配そうに囁く毬に、柊吾はコーラを手に取りながら、渋い顔で答える。
「……大丈夫には、見えなかったな」
今朝、柊吾は和音を家まで送ったが、礼を言ってきた和音の目は、糸のように細かった。不機嫌という理由ではなく、とことん眠いらしかった。あの調子で受験は本当に大丈夫なのかと、こちらまでひやひやさせられた。
だが、ここに来るなら来るとして、柊吾は受け入れるまでだ。
「陽一郎。前もって言ってた通り、佐々木にはお前の携帯の番号を教えといたからな。合流できそうな時は電話するって言ってたぞ」
「オッケー」
親指を立てて、陽一郎がにこっと笑う。そして得意げな様子で「ねえねえ柊吾、今日の僕って昨日よりは、皆の役に立ってる気がしない?」などと調子のいいことを言ってきたので、柊吾は呆れてしまった。
「胸張って言うことか、アホ」
そう言って話題を変えようとしたが、ふと、思い立ってそれを止めた。
陽一郎の顔を見たら、和装の異邦人の声が耳に蘇ってきたからだ。
――撫子さんの『目』だけを限定的に治したいのであれば、根本的な解決にはなりませんが、方法はあります。柊吾君。君の姿だけならば、撫子さんが常に『見える』ようにはできますよ。
「ん? なあに?」
陽一郎が、目を瞬いて柊吾を見上げた。何となく小型の犬を髣髴とさせる待機の姿勢だ。尻尾を振り回して懐いてきそうな友人の顔を、柊吾はまじまじと見つめてしまった。
――方法は、一つだけです。君が心を込めて、ある〝言挙げ〟をすれば良いのです。……ですが果たして君に、その〝言挙げ〟が出来ますか?
――どうしても君一人で考えて判らなければ、日比谷陽一郎君に助けを求めてはいかがです? 君の知りたい答えの鍵は、彼が握っています。最後の手段として心に留めておけば宜しいかと。その際にはこんな風に、彼に訊ねてみればいいですよ。
――『今までに柊吾君から言われた言葉で、一番傷付いたものは何か?』……と。
「柊吾? 柊吾? 僕の顔に何かついてる?」
「えっと……」
毬が、陽一郎と柊吾の二人を、代わる代わる見つめて困っている。どうやら、柊吾が陽一郎の口の端のソースを凝視していると思ったらしい。
「……別に、何も」
とりあえず、柊吾は言葉を濁した。
この問題の答えは、必ず突きとめるつもりでいた。撫子の目がかかっているのだ。できるだけ早く、何を〝言挙げ〟すればいいか見極めたかった。
だが、その解決に陽一郎を巻き込むかどうかは、ぎりぎりまで悩みたかった。
和泉の言葉が正しいなら、柊吾は過去に、陽一郎を傷つけている。
そんな過去を、蒸し返していいものだろうか。
先延ばしにしていい問題ではないことは、十二分に分かっていた。今朝の和音の放った言葉が、今も胸に刺さっている。このままじゃ、終われない。急がなくてはいけない、と。
「……」
もし、この集まりの解散までに、柊吾に答えが分からなければ。その時は潔く、陽一郎へ訊ねよう。
一たび決心がつけば、しゃんと背筋が伸びた。ここからが正念場なので柊吾はコーラで喉を潤すと、気を引き締めて新たな報告作業へ立ち向かった。
「次は、昨夜に俺達が公園で解散した後の話だけど……」
だが予想通り、こちらの伝達にはかなり難儀させられた。
拓海と和泉のやりとりはどれも現実感を欠いていて、そもそも異能という言葉自体が非現実感の塊だ。語っている柊吾自身が狐に化かされた気分になっていき、懸命に聞いてくれる二人も狐につままれたような顔になった。
「うーん……」
「異能……神主さんが……」
陽一郎は目を回し、毬も些かオーバーヒート気味に頬を赤くした。そもそも二人は呉野の一族の異能についても初耳な上に、柊吾も九年前の事件については雑な説明しかできなかった。柊吾も眉間に皺を刻み、二人と一緒になって唸った。
「すまん、俺もよく分かってないことばっかだから……」
しかもこんなにも拙い説明を、今度は和音、七瀬、撫子といった欠席メンバーにもしなくてはならないのだ。それを思うと、少しだけ気が滅入った。
同時に、昨日の拓海の肩に掛かっていたものを改めて思い、溜息が出た。
こんなものを、拓海は一人で、抱え込もうとしていたのだ。
広大な海の前に方位磁石一つを持って立たされたような、心細さが胸に閊えた。
「柊吾、ありがと。大変だったんだねえ……」
またしてもしみじみと言った陽一郎は、「僕からも、少し報告があるよ」と続けて、不意に表情を陰らせた。
「柊吾も綱田さんも、今朝はテレビ見た?」
予想外の前置きだった。柊吾は毬と顔を見合わせ、それぞれが違う言葉で見ていないと返事をする。
「朝は寝なおしてたから、見てねえな」
「私も……今、家にテレビないから」
その台詞が、場の空気にひやりとしたものを舞い込ませた。何故、と柊吾は問いかけて、愚問だと悟って言葉を呑む。毬の家庭の事情については、昨夜の公園で聞いていた。陽一郎も居合わせていたので、すぐに理由に気付いたようだ。
「ご、ごめ……」
「あ……こっちこそ、変なこと言ってごめんね」
真っ青になる陽一郎へ、毬が慌てて手を振った。
「日比谷君、私のことは気にしないでね。後で私も自分のことで、少しだけ報告したいことがあるから……」
「……うん」
しゅんと肩を落とした陽一郎は、舌足らずな声で続けた。
「みいちゃんの家の火事、ニュースになってたよ」
柊吾と毬は、二人揃って息を呑んだ。
場違いに明るいBGMが、流れた沈黙を埋めていく。十二時を回ったことで、少し客が増え始めた。活気づいてきた店内で、柊吾達の座る場所だけが、日陰のように寒々しい。コーラのカップを握る柊吾の手に、冷たい結露が、滑り落ちた。
「そんなに大きなニュースじゃないけど、みいちゃんのお母さんの名前は出てたよ。みいちゃんと、みいちゃんのお父さんの名前は出てないよ。でも、なんか……僕が思ってたよりも、大事になってて、びっくりした」
「ミヤちゃん……今、どうしてるのかな」
ジュースを握る毬の手に、力がこもった。陽一郎はおろおろしながら、小さな声で言葉を継いだ。
「僕も……ニュース見ながら、綱田さんとおんなじように言ったんだ。みいちゃん、今どうしてるのかな、って。そしたら僕のお母さんが、もしかしたらみいちゃん達、公民館に泊まってるんじゃないかなって話してたよ。もしそこが駄目だったら、袴塚市内のビジネスホテルじゃないか、って」
「ビジネスホテル……」
柊吾は、半ば茫然と復唱する。市内のビジネスホテルなど、市内に住む人間には、まず無縁の場所だった。外国語で話しかけられた時のような、寄る辺のない戸惑いを覚えた。
「ミヤちゃん、本当にそういう所に泊まってるのかな。頼れる親戚とか、いなかったのかな……」
そう言った毬の顔が、やがて凍りついたように強張った。自分の言葉で傷ついたような様子が見ていられず、柊吾は声を割り込ませた。
「陽一郎、じゃあその後は? お前の母さん、何か他にも言ってたか? 風見達はそこに泊まった後、どうすると思う?」
「しばらくは、とっても忙しいと思う、って言ってたよ」
陽一郎が、眉を下げた。声が、湿っぽくなっていく。
「身分証明書とかの再発行とか、保険の手続きとか……やることいっぱいだって言ってたよ。それに……亡くなったお母さんの、お葬式もあるよね?」
その台詞に、何だかはっとさせられた。柊吾は再び、毬と顔を見合わせる。
当たり前のことを、言われただけだ。
それなのに、その当たり前について、考えが及んでいなかった。
「でも、僕のお母さんの話だと、お葬式はまだ先になるんじゃないかなあ、だって。みいちゃんのお母さんの遺体って、まだ警察から返って来てないかもしれないって、聞いたから」
「は? 警察だと? ちょっと待て、なんで警察が出てくるんだ?」
「えっと……検死が、あるんじゃないか、って。みいちゃんのお母さんって、焼身自殺……ってことに、なるんだよね? でも、ほんとに自殺かどうかなんて分かんないし……そういう時って、司法解剖とかしなきゃいけないかもしれなくて、そういうのに時間がかかる、みたいなこと、聞いたんだけど……」
たどたどしく、陽一郎は話した。まさかこの少年から検死や司法解剖などという言葉が出るとは思いも寄らず、柊吾は度肝を抜かれてしまう。
だが、それらを口にした陽一郎自信が、そんな自分に戸惑っているようだった。覚束ない声音はまるで慣れない下駄で歩いているかのように危うげで、今にも鼻緒が切れてしまいそうな、抜き差しならないものを孕んでいた。
沈黙を、BGMがまた食い荒らす。アップテンポな曲調があまりにこの場に不釣り合いで、柊吾は、気分が悪くなった。毬が、泣きそうな顔で言った。
「じゃあ、お葬式は……」
「遅れるんじゃないかな……期間なんて分かんないけど、二・三日は……」
おどおどと陽一郎が答え、視線をそわそわと彷徨わせてから、「僕にも、分かんないよ……」と、最後は半泣きの声でぽつんと言った。
柊吾は言葉を失くしていたが、乾いた大地に雨水が浸み込んでいくように、徐々に言葉の意味を理解する。そうして見つけ出した一つの事実を、柊吾はやがて、口にした。
「つまり……風見はこの二・三日は、袴塚市にいるんだな?」
束の間、場が静まり返った。
浮ついたBGMさえも全く聞こえなくなるほどに、意識の冴えを感じていた。
二人も、同じ思いでいたのだろう。息を吸い込む音とともに、毬と陽一郎は顔を上げて柊吾を見る。
柊吾は、一語一句はきはきと、確認の言葉を繰り返した。
「風見は、今日と明日は絶対に、この袴塚市内にいるんだな? この街から出ていかずに、間違いなく、いるんだな? そういう理解で、いいんだよな?」
「……そうだね、うん、そうだよ」
陽一郎の声が、ほんの僅かだが弾んだ。泣き笑いのような顔で、自分を鼓舞するように言う。
「柊吾。僕、帰ってからたくさん考えてたんだ。昨日起こったこととか、みいちゃんのこととか。みいちゃんはどうして、あんな風にしないと気が済まなかったのかな、って。僕はみいちゃんと小五で同じクラスだったのに……僕、みいちゃんが悲しんでた事とかって、全然分かってなかったのかな、って」
「陽一郎?」
思わぬ告解が始まったので、柊吾は純粋に驚いた。
「紺野さんのことも、僕、少し後悔してるんだ。撫子が、紺野さんのことを話してくれた時に言ってたよね? 紺野さん、僕のことはそんなに嫌いじゃなかったと思う、って。もしかして、もっと僕が紺野さんに話しかけてたら、こんな事にならなかったのかな、って。ほら、それに最近だって、僕はみいちゃんのこと、何回か見捨てるみたいなことしちゃってるし……撫子の、ことだって。僕、最後まで誰かと一緒にいたことって、一回もないんだなあ、って」
手元のペーパーナプキンを弄りながら、陽一郎は言う。
それを手放してから「でも」と告げた顔は、笑っていた。窓からの白い光が、澄んだ瞳の奥を照らし出す。
「今度はみいちゃんの話、もっと聞いてあげたいんだ。みいちゃんって撫子にひどいことしたけど、僕、それとは別に心配なんだ。みいちゃん多分、今も一人で泣いてるよ。ううん、お父さんと一緒に泣いてるのかな。分かんないけど、みいちゃんとこんな風に別れたまま、もう二度と会えないのって……なんか、僕、やだよ。みいちゃんとこれからバイバイしないといけないんだとしても、ちゃんと最後に話がしたいよ。だから……僕、このままじゃ、終われないよ」
「……」
その言葉は、柊吾にとって青天の霹靂だった。
――このままじゃ、終われない。
同じ日に、同じ言葉を、二度も聞くなんて思わなかった。
柊吾が何も言えないでいると、「……私も」とか細い声で毬も答えた。
「二人とも、もう聞いてるかもしれないけど……私の家、ちょっと大変なことになってて。だから、テレビもなくて。でも、三浦君の叔父さんが助けてくれたから、昨日の夜は、お父さんもお母さんも笑ってたの。久しぶりに家族みんなで、笑い合えたと思うの」
つっかえながら、毬は話した。相当の勇気を振り絞って、この告白をしているに違いなかった。琥珀色の目は先ほどよりも、ずっと赤く潤んでいた。
「だから、昨日家に帰ってからは、お父さんともお母さんとも、家の話しかしなかったの。よかったね、って。これからは大丈夫だよ、って。……だから私、ミヤちゃんの話、しなかったの。学校でずっと一緒にいた友達なのに、その友達の、お母さんが亡くなったのに。なんにも話、しなかったの」
「それは……仕方ないことだって、俺は思う」
髪に手をやりながら、柊吾は口を挟む。毬の声に、自責の響きを感じたからだ。
「ううん、違うの」
首を振って、毬は悲しげに笑った。
「私は……ミヤちゃんのこと、友達だって、思ってるの。でも……撫子ちゃんも、私にとっては大事な友達なの。ミヤちゃんが、撫子ちゃんにしたこと……私、本当は怖かった。一日経ったら、もっと怖くなったの。私の知ってるミヤちゃんと、そういうことをするミヤちゃんが、重ならなくて、今も怖いの」
今度は、柊吾も何も言えなかった。
その感じ方は、尤もだ。誰が悪いわけではなく、自然な心の動きだろう。だからこそ自責の念も分かるのだ。美也子と毬の友情に関わりのない柊吾が、それを否定するのは簡単なようで難しい。
「私はもともと、人付き合いとか、苦手で……そういうところ、ミヤちゃんにいっぱい助けてもらってきたの。中学三年のクラスで楽しく過ごせたのは、ミヤちゃんのおかげだって思うの。……私、これからミヤちゃんとどう付き合っていったらいいか、分からない。でも、答えを出さなきゃいけない日は、もう、すごく近い気がして……もしかしたら、私は、これから……ミヤちゃんに今までしてもらったことを、ものすごく酷い形で、返しちゃうのかも、しれなくて……でも、私は」
毬は俯いたが、指で目尻を拭う仕草をしてから、顔を上げた。
ショートボブの髪を掻き上げて、薄く微笑んで、頷いてくる。
「まずはミヤちゃんに、今までのことをありがとうって言いたいの。そうじゃないと……さよなら、できないから。このままじゃ、終われないの」
心臓が、跳ねた。柊吾は、吹っ切れた表情の毬を見つめる。
――このままじゃ、終われない。
もう、これで、三人目だ。
毬が、遠慮がちに柊吾を見上げてきた。
「あの、三浦君……よかったら、叔父さんの連絡先、教えてもらってもいい? 昨日、家まで送ってもらった時に、すごくお世話になったから。うちのお父さんが、ちゃんとお礼を言いたいって……」
「あ、ああ」
柊吾は気もそぞろに返事をしたが、恭嗣の名が挙がったことで、一つ思いつくことがあった。
「……なあ、もしかしてユキツグ叔父さんなら、風見の動向を何か知ってるんじゃないか? 風見の父親探し出して、文句言いに行く気満々だったし」
まさに柊吾がそう言った瞬間、電話の着信音が鳴り響いた。円形テーブルの上で着信を受けたのは、陽一郎の方の携帯だった。
「わわっ……、また篠田さん?」
大慌てで携帯を開いた陽一郎が、「あ、坂上君だ」と拍子抜けの顔で言う。
「坂上? ……あ、そういえば電話寄越せって言われてたのに、連絡するの忘れてたな。陽一郎、貸してくれるか? たぶん俺宛てだ」
陽一郎から携帯を受け取り、柊吾は通話ボタンを押して耳に当てた。『もしもし? 日比谷?』と、拓海の躊躇いがちな声が聞こえた。
「坂上、三浦だ。今、陽一郎と綱田といっしょに飯食ってる」
『三浦! 電話してくれって言ったじゃん!』
「悪りぃ、忘れてた。ちゃんと寝れたか?」
『うん、まあまあ。あと三時間くらいしたら、合流したいって考えてたとこ』
「いや、寝てろって……今日はもういいから……」
和音といい七瀬といい、体力が尽き果てても這い上がってくる者ばかりだ。柊吾は頭痛を覚えたが、タイミングがいいので訊いてみた。
「坂上、何か俺らに指示したい事があるって言ってたな? それって何だ?」
『うん、そのために電話したんだ。ちょっと三人に頼みたいことがあって。日比谷も綱田さんも、お願いしていい?』
「ん、伝えるからちょっと待ってくれ。陽一郎、綱田、坂上が頼みがあるって言ってる」
「頼み? 何か分かんないけど、いいよー! なんでも言って!」
「えっと、私にできることなら……」
陽一郎は元気いっぱいに安請け合いし、毬はびくびくと健気に答えている。携帯で繋がる向こう側で、拓海が苦笑した気配があった。二人の声が聞こえたらしい。この長閑な光景も、目に浮かんでいるのだろう。
『お願いしたいことは、二つあるんだ』
重々しい口調で拓海は言ったが、途端に『いてて』と聞こえてきたので、まだまだ腰痛に苦しめられているようだった。
『うう……ごめん……えっと、まず一つ目は、風見さんの現在について、三浦たち三人で出来る限り探ってほしいんだ』
「風見の現在について、探る?」
『風見さん達は、昨夜は大変だったと思う。火事なんて大それたことになって、これからもしばらくは、いろんな手続きとかに振り回されるはずだ。……だから。今のうちに、手を打ちたいんだ。このまま俺らが手をこまねいてるうちに、風見さんが、どこかに行ってしまわないように。この袴塚市にいてくれるうちに、何か行動を起こしたいんだ』
「風見が、袴塚市にいるうちに……」
その懸念は、奇しくも和音のものと同じだった。
「坂上……お前も、風見がこの街から消えると思ってるのか?」
『可能性は、高いと思う』
拓海は毅然と答えたが、直後にまたしても『いててて』と呻いていた。全く様にならない探偵役だ。早く寝るよう促すのも疲れたので、柊吾は「それで?」と先を促した。
――これからの道筋が、見えてきた。
そんな予感が胸に萌し、微かな高揚で心が、震えた。
『とにかく、風見さん達がこの街から出て行ったら、俺達はその時、きっと後悔すると思うんだ。だって、昨日から今までに起こったことで、解決してることなんて一つだけじゃん』
「一つ? それって何だ?」
『〝氷鬼〟の〝アソビ〟が、終わったこと。それだけだよ』
「それだけ……って、どういう意味だ?」
『言葉通りだよ、三浦。まだ、何にも終わってない。俺達は呉野さんとろくに話せてないし、風見さんの精神状態だって分からない。もしかしたら『忘れていく』症状が進んでるかもしれないし、昨日のことだって何も覚えてないかもしれない。もしその予想が正しかったら、紺野沙菜さんのことだって、今どんな風に覚えてるか分からない。それに雨宮さんに『嫌い』って言われたことで、さらに傷ついてるかもしれない。それさえも、忘れてるかもしれないけど……風見さんの抱えた『弱み』に、何の決着もついてないじゃん』
柊吾は、目を瞠る。呉野和泉の声が、またしても頭を過っていく。
――拓海君。君はまるで、風見美也子さんを救おうとしているようですね。
拓海は、やはり――美也子を、救う気でいるのだ。
「じゃあ坂上は……一体どういう状態が、俺達の『解決』だと思うんだ?」
柊吾は、そう訊いた。深い意味なんてなかった。ただ、柊吾の思いつきの質問に、拓海がどう答えるか訊きたかった。
『そんなの、決まってるよ』
拓海の声が、明るく爽やかなものに変わった。
『この事件で泣いた女の子が、みんな笑顔になるまで。そこまで辿り着けないと、このままじゃ終われないよ』
いかにも、拓海らしい答えだった。柊吾は思わず、口の端で笑った。
――これで、四人目だ。
「……腰痛めてる状態じゃ、何言っても格好つかねえぞ、坂上」
『へっ? えっ、えっ、俺、別に格好つけてなんか』
「で、風見の動向を探ることと、二つ目の頼みごとは何だ?」
『あ、そうだった。もう一つ頼みたいのは、『鏡』について調べて欲しいんだ』
「鏡?」
首を捻った柊吾だが、まさかと思い、訊き返した。
「鏡って、篠田の鏡のことか?」
『うん。元々は篠田さんが持ってたあの鏡は、〝アソビ〟で雨宮さんを正気に返した貴重なアイテムだから。できれば、おんなじ物が欲しい。俺の持ってた破片はもう見つからないと思うから、何とか代わりを見つけて欲しいんだ。目を患ってる雨宮さんには、あの鏡が必要だと思うんだ。少なくとも、あれを身に付けていたら『神がかり』は防げると思う』
「……そうか、なるほど」
それは、盲点だった。呆気に取られた柊吾は、やがて深く感嘆した。
あの鏡さえあれば――撫子は、守ってもらえるのだ。
気持ちが一瞬浮き立ったが、すぐに柊吾は眉根を寄せた。
「まずは、篠田にメールしてみるけど……」
あの鏡と同じ物が、そう簡単に見つかるだろうか。無駄足を覚悟で毬にメールを頼もうと目を向けると、毬が、おずおずと小声で言った。
「七瀬ちゃんの、鏡って……あの、オレンジっぽい朱色のコンパクトの、きらきらした鏡のこと?」
柊吾は、目を見開いた。
「篠田の鏡、見たことあるのか」
「うん。さっきの『鏡』の話に出てきた鏡って……あの鏡のことだったんだ」
放心した様子で毬は囁き、つ、と柊吾を見て言った。
「七瀬ちゃんの鏡が、どうしたの……?」
「ああ、坂上が、同じ物を探して欲しいって言ってるんだ」
「だったら……七瀬ちゃんじゃなくて、師範に聞いた方がいいかも」
「師範? ……藤崎さんか?」
――藤崎克仁。
呉野兄妹の養父の名が、何故ここで出てくるのか。意外な名前に驚く柊吾へ、毬は懸命に、逸る心を押さえきれない様子で、続けた。
「七瀬ちゃんの綺麗な鏡、元々は師範の物なの。七瀬ちゃんが少林寺の道場を辞めた日に、師範が、七瀬ちゃんにプレゼントしたの……」
「……」
柊吾は茫然と、次第に愕然とした面持ちで、それを言う毬を凝視した。
導かれている、と感じたのだ。手元に光る糸が細く張られ、その糸が続く先まで手繰ってみろ、と誰かに告げられたような気がしていたのだ。
まだ柊吾には、その糸の先が何に結ばれているのか分からない。分からないことだらけだった。この事件の解決へ向けて走るために、何をすべきかも分からない。和音が、陽一郎が、毬が、拓海が、次々と答えを掴んでいくのに、柊吾にはまだ掴めなかった。
だが、分からないままでも、動くことはできるのだ。
「……坂上。風見のことも、篠田の鏡のことも、二つとも一気に分かりそうだ。藤崎さんって、今日は一日家にいるんだよな?」
『うん。昨夜の話だと、三浦の叔父さんが訊きたいことがあるとか言ってたよな? 二人で家にいると思う』
「だったら、一石二鳥だな」
柊吾は、毬と陽一郎を見る。
二人とも、既に了解している顔だった。柊吾は頷き、宣言した。
「行くか。藤崎さんの家に」




