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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 102

 目覚めた私が一番に見たものは、知らない部屋の天井だった。

 少しくすんだ灰色の天井は、きっと元は白かったに違いない。薄らと橙色に空気が色付いて見えるのは、きっと私のすぐ傍にかかったベージュのほつれたカーテンが、光をほんのりと透かす所為だ。靄を集めて瓶詰したみたいな薄い明かりに満ちた部屋を、私は寝起きの霞んだ目で、ただ茫然と眺めていた。

 ここは、一体どこだろう。少なくとも、私の部屋じゃない。

 身体を動かすと、全身がすごく痛かった。硬い手触りの白いシーツが私の身体を覆っていて、ああ、私はベッドで寝ているんだ、と他人事みたいに理解した。

 仰向けに寝たまま改めて眺めた部屋は、とっても狭い場所だった。私の寝ているベッドが部屋の真ん中にあって、右隣にはもう一つ、誰も寝ていない空のベッドが並んでいる。私の足の爪先の向こうには小さな机と小さなテレビが、僅かな居場所を奪い合うようにして、部屋に押し込められていた。

 今は、朝? それとも、夕方? 私はカーテンを引く為に腕をぎこちなく動かして、シーツから出した自分の手が目に入って、ひっと悲鳴を上げてしまった。

 私の手は、擦り傷だらけだったのだ。

 躊躇い傷みたいな形の傷痕が、汚い錆に似た赤色が、こんなにたくさん、私の腕に。引き攣った呼吸が喉からひゅうと漏れた時、左の頬もずきんと疼いた。私はうっかり熱い薬缶に素手で触ってしまった時みたいに、とってもびっくりして竦んでしまった。

 おそるおそる頬に触れると、私の乾いた指先に、ガーゼのごわごわした感触が伝わった。頭から血の気が引いていって、ざあっと砂場に水を流すような、嫌な音が耳に響いた。

 どうして私は、こんな事になっているの?

 見慣れない薄いグリーンのパジャマの生地は、このベッドのシーツと同じで乾いていて、私の肌に痛かった。どんどん荒くなっていく呼吸を整えることもできなくて、思考も靄の中に溶け出すように、私の頭から零れていく。

 ――何も、思い出せなかった。

 私はとっても馬鹿だから、眠りに落ちる前のことが、どんなに考えても思い出せない。それでも馬鹿な私なりに必死に考えてみたけれど、この部屋に薄く漂う靄みたいな霧が頭の中に湧き出して、私の頭の中を煙でいっぱいにしてしまう。

 急に、私は怖くなった。この煙の中に私の意識を全部取られてしまったら、私はもう、私ではいられなくなってしまう。そんな怖い怪物から逃げるように頭をめちゃくちゃに振って抵抗したら、私の頭はあっけなく、硬い枕から落ちてしまった。私の頬が、ベッドに叩きつけられる。激痛で、目に火花が散った。私はしばらく獣みたいなわけの分からない声で呻いてから、ぐずぐずと惨めにすすり泣いた。

 もう、死にたかった。ごく自然に、私はそんな風に思っていた。私はなんでこんなにも、早く死にたいと願うんだろう。理由をなんにも思い出せないままなのに、どうしようもなく死にたかった。

 涙で歪んだ私の視界が、シーツの白でいっぱいになる。その白が本当にシーツの色なのか、私の頭の中に麻酔みたいに湧き出した乳白色の霧なのか、私にはもう分からなかった。微睡に意識を吸い込まれそうになった時、どんどん深く濃くなっていく霧の中に、一人の女の子の姿が見えた。

 黒い、おかっぱ頭。私がいないと何もできない、弱くて無口な、女の子。名前を、どうしても思い出せない。

 でも、その女の子の後ろ姿を見て、私は安らいだ気持ちになってしまった。

 この背中に、ついていこう。そうすれば、痛いことも、苦しいことも、きっと全部終わりにできる。それに私は元々こうすることを、魂に誓っていたような気がするのだ。この子と一緒に、地獄へ行こうねって。

 だからこの子は、私を迎えに来てくれたのかな。とっても馬鹿な私が何でもかんでも忘れるから、怒ったり、泣いたりして、私に思い出させてくれたのかな。

 だとしたら、嬉しいな。

 本当に、そうだったらいいのにな。

 ごめんね、遅くなってごめんね。今、そっちに行くからね。

 私は、進んで目を閉じた。

 心も、身体も、もう何にも要らなかった。

 私の魂は私を捨てて、あの子と一緒に向こうへいく。

 ――でも、神様は本当に、どこまでも私に非情だった。

 あの子の元に行きたくて、私は目を閉じたのに――濃く広がっていた白い霧は、さあっと風に吹き流されるように散ったのだ。

 閉じた私の瞼の裏は、すぐにただの闇に戻る。

 入れ替わるようにして闇の中に、ぼんやりと赤い火が灯った。

 ――部屋が、さっきより明るくなったのだ。

 反射で、私は瞳をぎゅっと閉じた。まだ、目覚めたくないのだ。揺り籠のような微睡の中で、いつまでも包まっていたかった。

 でも、光は怯える私の背中をゆっくりと撫でさするような優しさで、柔らかく降り注ぎ続けていた。

 何だかその優しさは、私が小学校の二年生の頃、まだ自転車に乗れなくて泣きべををかいていた私の後ろで、大丈夫、乗れるよ、と自転車を支え続けてくれていた、お母さんの声みたいだった。そんな励ましを松葉杖のようにして、私は思い切って、怖々と、初めて一人だけの力で自転車を漕いだ時と同じ気持ちで、目を開いた。

 天井は、まだ薄らと霞んで見えた。ゆらゆらと白い陽炎の中でたゆたう殺風景な部屋の中で、かがり火の揺らぎみたいな透明の光が過る。天井に一筋だけ、光の筋が伸びていた。

 その光は、綺麗だった。薄明るくて、弱々しくて、けれど澄みきった水みたいに清々しい光はまるで、私の全てを肯定して、許してくれるような煌めきだった。川の流れのような光の源を辿っていくと、カーテンの合わせ目に行きついた。

 日差しだ、と私は悟った。今、朝日が昇ったのだ。

 身体の痛みを押し殺して、私は震える腕を、窓に伸ばした。

 傷と絆創膏まみれの汚い手が、カーテンの裾を弱々しく握る。縋りつくように引っ張った所為で、カーテンレールからは女の人の叫び声みたいな痛々しい音がした。私は十字架に縋りつく囚人みたいに這いずって、あふれだした白い光を、全身にシャワーのように浴びた。

 頬を、熱い涙が伝った。

 私は瞼の腫れぼったさを、この時ようやく自覚した。

 ――私は、昨日から泣いていたんだ。

 どうして、泣いていたんだろう? 涙の理由も、思い出せない。とっても大切なことをたくさん忘れている気がするのに、もう思い出すのも怖かった。

 それなのに、私は今、嬉しかった。

 懐かしい、と思ったのだ。私は、こんな光を知っている。抜けるように白い肌、涼しげに揺れる栗色の髪、誰より綺麗で、透明で、私の支えだった女の子。初めて出会った教室でも、あの子はそんな光の中から現れた。私はあの時、嬉しかった。本当に嬉しかったのだ。

 その嬉しさを思い出したら、今度はすごく悲しくなった。

 だって私はもう、あの子とは二度と会えないからだ。

 ――拒絶、されてしまったから。

 何にも思い出せないままなのに、それだけははっきり覚えていた。私の頭からどんなに記憶が欠落しても、傷付いた心はそのままだ。血の流れた痕を見れば、私は悲しみを突きつけられる。もう呼ぶことさえ許されないかもしれない名前を、私が唇に乗せた時だった。

 がちゃりと扉が開く音がして、部屋の空気が動いた。

 涙で汚れた顔を私が向けると、部屋に入ってきたその人は、血相を変えて私のベッドまで駆け寄った。

「美也子……」

 私の名前を呼んだきり、その人は黙り込んでしまった。

 目の下にはどす黒い隈が浮いていて、いつもは整っている髪も乱れている。しわくちゃのワイシャツを着たその人に私は最初怯えたけれど、すぐにほっとして微笑んだ。やっと、思い出していたからだ。

「おとうさん」

 目が覚めてから初めて私が紡いだ言葉は、さっきの泣き声と変わらないくらいに湿っていて、潰れていて、くぐもっていて、全然綺麗じゃない声だった。自分でも悲しくなるくらいにひどい声でも、私を見下ろしたお父さんは、泣き笑いみたいな変な顔で、掠れた返事をしてくれた。

「おはよう、美也子……」

「おとうさん、ここは、どこ……?」

「美也子。これから、まだまだしばらくは大変だけど……でも、乗り切っていこうな……乗り切っていこうな……」

 お父さんは、今度はちゃんとした返事をしてくれなかった。私の質問を全然聞いてないみたい。まだ身体を起こせない私の額に触れながら、やっぱり泣き笑いみたいな変な顔で「乗り切っていこうな……」って言ってばかり。今日のお父さんは、ちょっと変だ。

 それでも、私は嬉しくなった。

 お父さんが私に話しかけてくれたのは、とっても久しぶりな気がするのだ。

 だから、ここがどこで、私がさっきまで何を考えていたかなんて、何にも思い出せなくたって、今はいいと思えたのだ。

「おとうさん、おなかすいたね。私ね、すっごくたくさん眠ったみたい。おかあさんといっしょに、ごはんにしよう? 三人で、ごはんにしよう?」

 私はめいっぱい明るく言ったのに、それを聞いたお父さんの顔からは、笑顔の方だけが消えてしまった。泣き顔の方だけは残っていて、丸めた折り紙みたいに顔がくしゃくしゃに歪む。その顔を大きな片手で覆ったお父さんは、私に背中を向けて、肩を震わせた。

「美也子…………母さんは」


 そして私は、思い出す。

 私の、お母さんは――。



     *



 三月六日、土曜日。午前十一時、二十五分。

 袴塚西駅前のロータリーは、行き交う人の流れが穏やかだった。

 通勤や通学の慌ただしさの抜けた昼時は、よく晴れた青空の下、まったりと長閑な空気が、春の陽気のように滞留しているのが感じられる。ベージュがかった茶色のタイルで舗装された駅前の道を、三浦柊吾は歩いていた。

 待ち合わせ場所は、このロータリーを通り過ぎて、駅舎に沿って左に折れた先だ。柊吾が今歩いているのはタクシーと一般車両用のロータリーだが、この先にはバス専用のロータリーがあって、そこまでの道筋には小さな花壇とベンチがある。心持ち早足で、柊吾は歩いた。待ち合わせ時間まで、あと五分だ。

 角を曲がると、真っ直ぐに伸びる道の左側に、細長く整った花壇があった。小ぶりな白い柵の中で、黄色や紫色のパンジーが、こんもりと花弁を溢れさせている。水を撒かれた後なのか、鮮やかな緑の葉には水の玉が乗っていた。

 こうやって花を眺めていると、柊吾は和泉に教えてもらった福寿草という黄色の花を思い出した。

 切り落とされた花の頭が、柊吾達へ事件の始まりを告げたからだ。

 少しだけ胸にほろ苦いものが珈琲のように広がったが、「柊吾!」と甲高い声に呼ばれ、柊吾は顔を上げた。

 ほんの二メートルほど先のベンチに、二人の少年少女が座っていた。

 二人とも、ラフな私服姿だった。少年の羽織ったゆったりとしたジャケットも、少女の履いたふんわりとしたスカートも、どちらも春先の格好だ。夜明けとともに季節もまた、確実に移り変わっていくのを実感した。

 少年の方が立ち上がり、ぶんぶんと元気いっぱいに手を振ってくる。柊吾も軽く片手を上げて、二人と同じく薄手のものに変えたパーカーの紐を揺らしながら、足早に仲間の元へ駆け寄った。

「おはよう。悪かったな、待ったか?」

「ううん、僕らが早く着きすぎただけだよ。ね、綱田さん」

 日比谷陽一郎はそう言って、背後の少女へにっこりする。

 綱田毬もこくんと一つ頷いてから、柊吾へ軽くお辞儀をした。

「おはよう、えっと、三浦君」

「ああ。二人とも、昨日は大丈夫だったか?」

「うーん、僕の方は大丈夫だけど、あとで話したいことがあるよ」

「私も……色々、あったよ」

 二人とも苦笑いに似た顔になったが、同時にそれは何かを吹っ切った顔でもあった。二人の清々しさは午前の空気の静謐さと混じり合って、それらが心地よく伝播した柊吾も「そうか」と穏やかに返事をした。

 こちらにも、二人と同じような感情で、伝えたい言葉がたくさんある。

「ねえ、昨日篠田さんのメールに書いてた件って、柊吾から話してもらえるってこと?」

 陽一郎が、柊吾を見上げて訊いてくる。

 昨日の騒動からたった一夜明けただけだが、この友人は元気なものだ。こういうメンバーが一人でも二人でも残って良かったと思う。隣の毬は少し眠たそうだが、概ね元気そうに見えた。柊吾も実は、かなり眠い。気を抜けば欠伸をしそうになるのを堪えて、「ああ」と陽一郎に返事をする。

「今日来れないメンバーには、俺と坂上で分担して、個別に会うなり電話するなりして伝える」

「ねえ柊吾、撫子が来れないのは分かるんだけど、他の皆が来れないのって、何か用事があったから?」

「いや、用事があったのは一人だけだ。他は全員、病欠。……あー。その辺りのことも話すから、とりあえず移動するか」

「? うん、じゃあ柊吾、綱田さん。行こっか」

 陽一郎が音頭を取って、全員の足が駅の方に向かう。

 柊吾は歩幅の狭い二人に合わせて歩調をゆっくりと落としながら、隣に並んだ陽一郎へ「携帯は持ってきたな?」と念押しした。

 陽一郎は「もちろん」と答えてにこっと笑い、得意げに胸を張った。

「柊吾に電話で言われた通り、ちゃんと持ってきたよ。あっ、それに今日は綱田さんも、携帯を持ってきてくれたんだよ」

「お母さんの携帯、借りただけなんだけどね」

 毬は控えめに微笑んで、上着のポケットからピンク色の携帯を取り出した。

「助かる」

 柊吾は二人へ軽く頷いてから、まさか昨日のメンバーの再集合がこんな形になろうとは、と。何だか奇妙な感慨に浸っていた。

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