花一匁 100
月明かりの降る境内には、二人の男が立っていた。
一人は、呉野和泉。
呉野神社の神主である和装姿の異邦人。木造の拝殿と鳥居を繋ぐ石畳に立ち、濃紺の夜空を見上げている。
もう一人は、藤崎克仁。
和泉が十一歳の頃から十八歳の夏までを、共に過ごした初老の男。鳥居の真下に立っていて、胸を痛めた様子で石段を見下ろしている。
「月が綺麗な夜ですね」
夜気に染み入るような和泉の声が、しんと透明に響いていく。
「僕達の愛する人が居なくなってしまった日も、月の綺麗な夜でした。僕はあれから月を見る度、父を偲んでいるのです。國徳御父様もそうでした」
「君と國徳さんは、良い関係を築けたのですね」
克仁は、そう相槌を打った。
静かな声だった。墓標に立って物言わぬ墓石に語りかけているかのような声は、長い年月を経るうちに胸に秘めた激情を、擦り減らし、折り合いをつけ、それでも絶やさず密やかに今まで守ってきた蝋燭の最後の一本に灯る焔のような、仄かな温もりを宿していた。
「同じ欠落を抱えた家族同士、其の欠落を埋められない儘であっても、寄り添い合って生きていく姿は、私の目には時に微笑ましく、時に力強いものとして映りました。君と出逢ってからの九年間、國徳さんは幸せだったと思います。彼の最期が孤独ではなかったことも、私は一人の友人として嬉しく思っていますよ」
「僕こそ、子の務めを果たせて幸せでした」
「何ですか、其の気取った云い方は。もっと素直に云えば宜しい」
「僕が胸の内を明らかにすればするほどに、御父様は照れ隠しに怒ってしまう御方でしたからね。もちろん、僕も幸せでしたよ。御父様と過ごした九年間は、僕にとってかけがえのない思い出です。扨て、克仁さん。今日はうちに泊まっていかれては如何です? 貴方の家は一階を中心に、相当荒らされているはずですから。明日になれば、僕も片付けに馳せ参じますよ」
「心遣いだけを受け取っておきましょう。私が君の家に泊まるとなれば、氷花さんが気を遣います。折角の兄妹水入らず、邪魔するわけには参りません」
「何を水臭いことを。貴方と氷花さんの仲ではありませんか」
「だからですよ、イズミ君。私が居ると、あの子はぴしっと居住まいを正してばかり。楽な格好も出来ません。昔から然ういう子でしたよ」
「成程。確かにそれも、彼女の個性の側面です」
しみじみと、和泉が頷く。その口調は朗らかだったが、対する克仁は違っていた。視線は石段に落ちたまま、身体も微動だにしない。夕刻にそこで倒れていた人間を、幻視しているかのようだった。
沈黙が流れ、冴え渡る月が雲に隠れる。
世界から刹那、青色の光が消えた。
やがて清浄な青色が再び境内を照らした時、悲痛な告解を思わせる声で、同時に微かな覚悟を窺わせる声で、克仁は滔々と、語り出した。
「私が誘いを断ることは、君にも判っていた筈ですよ。……私は、帰らなくてはなりません。君の予言によれば子供が一人、私の家へ戻って来るとのことですから。此の大切な時期に、此れ以上夜更かしをさせるわけにはいきませんよ」
「彼女の進路なら盤石ですよ。僕には明日の受験の結果も、大よその見当がついています。ですがこれは濫りに行う〝言挙げ〟ではありませんから、口を噤んでおきましょう」
「全くです。君自身だって云っていたじゃあないですか。人は現在を懸命に生きてこそ、新たな未来を築き上げていけるのです。扨て、戯言は此処までにしましょう。イズミ君、あの子が私の自宅に到着するのは何時ですか」
「二十二時です。克仁さん、あまりご無理はなされぬよう」
「イズミ君。もう一つ、君に云っておきたいことがあります」
「はい、何でしょう?」
「恭嗣君は、どうやら私の味方になるようです」
「……」
和泉が、振り返る。その顔には、ごく自然な薄い笑み。
克仁もまた振り返ったが、こちらの表情は険しいままだ。
「恭嗣君が何故、君ではなく私との対面を望んだか判りますか? 屹度、君ではなく私に訊く方が、事実が明らかになると見做したからですよ。私は明日、現在の私が知り得る全ての事象と出来事、其れから私自身の憶測を、恭嗣君に語ります。君が何を目論んでいるのか、彼もまた調べ始めることでしょう。そして導き出される幕引きには、私にも見当がついています。……君、時間の問題ですよ。外の人間に暴き立てられるより前に、自ら白状しては如何です?」
「まるで僕が、悪人のような言い様ですね。克仁さん、僕は悲しいですよ」
「君の為そうとする行為を、悪だと断じる心算はありませんよ」
克仁は、首を横に振った。
そして、はっきりとした口調で告げた。
「ですが其れは、善とも云えぬ行いです」
濃紺の空の下、血の繋がらない親子は見つめ合う。互いが言葉の奥に隠したものを、探り当てようとするかのように。
やがて短い沈黙を挟んで、口火を切ったのは克仁だった。
「イズミ君。君、地獄に堕ちますよ」
和泉は笑みを儚げなものへ変えて、「ええ。屹度」と囁いた。
「貴方のその〝言挙げ〟は、今日で二度目のものですね。それを知っている僕は、こう返すしかないのでしょう。――その地獄。美しければ、構いません」
「君の其の台詞も、二度目のものですね」
克仁の眉間に、葛藤で微細な皺が寄る。
養父の苦しみと向き合った和泉は、少しだけ申し訳なさそうに、目を閉じた。
「貴方はお優しい方ですから、屹度再び僕と一緒に地獄へ堕ちてもいいと、そう言って下さるのでしょう? いけませんよ、克仁さん。それだけは、いけません。貴方は生きねばならぬ御方です。子供に親は必要ですから、これからも、生きて頂かなくては。その歩みを支えてゆく道標のような光なら、貴方はこの世界に見つけています。もう、見つけているのです。ですから、僕と貴方は、同じ地獄には行けません。これも、二度目の台詞ですが……貴方がこの世から去る時は……地獄ではなく、どうか。もっといい処へ行って下さい」
「……君は、やはり、其の為に……あの子を、私に、引き合わせたのですか」
「さあ。どうでしょうね。僕が彼を、気に入っただけですよ」
青い月が、雲間から顔を出した。
雲の流れは影となって地上に降り、境内の石畳で黒い陽炎のように揺蕩った。徐々に青白い光で満たされていく世界の中で、灰茶の髪を風にそよがせ、和泉は無邪気に微笑んだ。
幼い子供のような笑みだった。かつてこの森で清らかな魂を喪失した、純真無垢な少女のように、穢れのない笑みだった。
「克仁さん。仁徳の人、清らかな貴方、僕の日本の御父様。どうか、親不孝をお許し下さい。御気持ちだけは、忘れませんから。ですが、何度引き留めて頂いても、僕は同じ言葉しか返せません。僕が二度、三度と生まれ変われば、いつか同じ処へ行けるのだと、きっと信じていますから……」
「君の代わりは、誰もいませんよ」
克仁は、密やかに返した。和泉の言葉を悲しんでいる風でもなく、さりとて怒りを見せるわけでもなく、ただただ静かに、そう返した。
「斯様な所業を許せと云われて、許す親など居ませんよ。イヴァンがもし生きていたら、同じ台詞を云った筈です。イズミ君、私に何度〝言挙げ〟しても、私の答えは変わりません。地獄なんて、行かなきゃいい。……反対されると判っているなら、せめて〝言挙げ〟せぬことですね。声の形にすらされていない内面までは、私にも文句のつけようがありませんから」
コートの前を合わせた克仁が、石段を降り始めた。
その足が、途中で止まる。
克仁は和泉に背を向けたまま、「然う云えば」と、付け足しのように言った。
「君はさっきの種明かしの場で、またしても重要なことを云いませんでしたね」
「そうでしたか? 僕は全てを言い切ったつもりでいましたが」
白を切るように笑う和泉の顔を、月光が照らし出す。振り返らない克仁には、息子の顔が目に見えない。二人は視線を外したまま、言葉だけで間を繋いだ。
「あの泉に残ったものを、君は感情だと云いましたね。私の目が人の心の〝傷〟を見るように、撫子さんもまた同様に、その存在は確かでありながら、常人の目には決して見えないモノを捉えてしまったのだ、と」
「ええ。その通りです」
「ですが君と拓海君が指摘したように、あの泉には本来、何かが残るわけがないのですよ。たとえ其れが、感情であったとしてもです。何故なら幼い氷花さんによって、『皆、居なくなっちゃえ』と〝言挙げ〟されていますから。何も残れないのです。――そんな絶対的な〝言霊〟を受けて尚、否、受けたからこそ、其処に残らずには居られない。そんな感情は、確かに一つだけありますね。ですが君は其の感情の名を、遂に明かしませんでした」
「……あの泉で、撫子さんの目には『貞枝さん』として映ったモノ。〝言霊〟の異能によって消えよと命ぜられて尚、残ってしまった感情。克仁さんならそれを、どんな名で呼びますか?」
「其れは、君。決まっていますよ」
石畳に打った透明な水が、月明かりを弾いて、煌めく。
花に溜まった夜露が流れるような光の中から、克仁が振り返り、言った。
「未練、ですよ。……左様なら、と。人に別れを告げる時と、同じ想いの」
声が、虚空に沁み渡る。
それを告げる克仁の顔は、九年前と同じものだった。かつて左様ならという言葉の意味を、十八の青年に告げた時と違わない、未練を知る者の顔だった。
「……左様なら。克仁さん」
和泉の消え入りそうな声に、克仁は答えない。ただ月光色の境内を眩しそうに見上げてから、別れの言葉の代わりに「おやすみなさい、イズミ君。良い夢を」と囁いて、仄かに浮かんだ微笑の顔を、再び石段の果てへ、下界へ向けた。
段々と小さくなっていく初老の男の後ろ姿へ、和泉は深く、頭を下げた。
「おやすみなさい、克仁さん。良い夢を……」
そして頭を上げてから、一人きりになった和装の異邦人は、踵を返し、鎮守の森へ歩き始めた。
深い森を和泉は進み、やがて二度も惨劇の舞台となった泉の畔を通り過ぎる。そして雪洞の如き薄明かりの灯った襤褸屋の前へ到着した。
玄関は、磨り硝子越しに入ってくる煌々とした月明かりで溢れていた。和泉は三和土で浅沓を脱ぎ、青白い光をてらてらと照り返す木の床を、足袋を履いた足で静々と進んでいく。縁側を通り過ぎた時、すぐ右手の障子戸の向こう側から、騒がしい物音が立った。
和泉はそれを気にした風もなく、突き当りの廊下を右に折れ、かつての呉野國徳の部屋、現在の自室へ向かった。そうして月光だけが射しこむ和室で、和泉は神職に就く者の装いを解いていく。
騒がしい物音は、その間も断続的に続いていた。
天井裏を鼠が走るような忙しない音の後に、何かを蹴倒すような打音が響く。衣紋掛けに通した藍鼠色の木綿の浴衣へ手を伸ばしながら、和泉は堪えきれないといった風情で、小さく笑った。
「……今夜も、派手にやっていますね」
黄土の帯を丁寧に締め、灰色の羽織を纏ってから、和泉は和室を後にする。
手には三浦恭嗣から預かった二冊の本、『山椒大夫・高瀬舟』と植物図鑑があった。それらを着物の袂に仕舞った和泉は、時間の巻き戻しのように元来た道を戻っていき、縁側で足をぴたりと止めた。
立ち止まる和泉の左手には、夜空を映した泉がある。丸い月が水面で揺れて、美しい光の波が立った。
そして右手には、明かりを透かした障子戸がある。数時間前に、鋏を携えた鬼の少女、風見美也子の急襲を受けて、穴を幾つも穿たれた障子戸だ。
「……」
和泉はしばらく無言で立っていたが、ふ、と苦笑を漏らしてから、障子戸の前に立ち、すらりと両の扉をスライドさせた。
眼前に広がる、和室には――少女が一人、ばたばたと畳を走り回っていた。
手には、丸めた新聞紙と殺虫剤。本来なら腰まで届く黒髪は、後ろで雑に纏めていた。海老茶色のテーブルの周りを必死の形相で駆けていた少女は、障子戸前に立つ和泉に気付き、ぎょっとした様子で立ち止まる。
そして餌を待つ雛鳥のような姦しさで、猛然と文句を言い始めた。
「遅いのよ! 兄さんがいない内に何匹出たと思ってるの! 早くそこの障子の穴塞いで! そこからどんどん入ってくるんだから!」
「小さな羽虫でしょう? 毎度毎度、貴女は大げさですね」
「うるさいわよ! あんなに触覚が長いのよ! きっとゴキブリよ! 早く殺して! ほら、あそこの壁にいるのよ! 貴方がやらないなら、私が殺ってやるんだから……!」
そう叫び散らして、殺虫剤の噴射口を掲げた少女は――呉野氷花だった。
今回の〝アソビ〟において、ひたすら行方をくらまし続けた、〝言霊〟を操る異能の少女。
しかしその装いは、今やジャージに変わっていた。ひっつめた団子頭は本人の疲労を表してか、少し崩れ始めている。和泉は、手で口を覆って笑い出した。
「見たところ、ゴキブリではありませんね。貴女だってゴキブリとその他の虫の区別くらいつくでしょう。僕に殺して欲しいからといって、つまらぬ嘘はいけませんよ。ああ、氷花さん。むやみやたらに殺虫剤を散布しないで下さい。ここは僕らの食卓ですよ。大体、その格好はどうしたのです? 巫女装束はもう良いのですか? それにしてもあの衣裳、よく見つけてきましたね。貞枝さんの衣服は全て処分したと思っていました」
「あんなにしんどい格好、いつまでも出来るわけないじゃない!」
「胸を張って言われると、いっそ清々しいですね。しかもそのジャージ、東袴塚学園時代のものですね? サツマイモの皮の色をしたジャージ、通称・芋ジャージ。あの学園の女子生徒達からダサいと非難囂々のジャージではないですか。たとえ格好はつかなくとも、着心地は良いと見えますね。しかし、このジャージを寝巻にしているうら若き乙女は、貴女くらいだと思いますよ」
「う、うるさいわね! 大体ね、神社の家なのに巫女の服を捨てるだなんて、貴方もお爺様も頭おかしいんじゃないの!?」
「保存する意味のない衣裳だからですよ。大体、貴女はほとんど神社の仕事を手伝わないではありませんか。女子の居ない神社には、あの衣裳は無用の長物。取っておいても着る者などいませんよ」
「失礼ね! 今年の正月は手伝ったでしょ! その時にだって着てたわよ! どうしてころっと忘れるのよ! 鳥頭なんじゃないの!?」
氷花が、新聞紙と殺虫剤を振り回して気炎を吐いた。和泉はやれやれとばかりに肩を竦め、障子戸を開け放ったまま八畳間の和室に入った。即座に氷花から「扉閉めなさいよっ! 馬鹿兄貴!」と罵声が飛ぶが、意に介した様子もない。それどころか、いつも通り莞爾した。
「僕の悪口は結構ですが、御父様の悪口はいただけませんね。氷花さん、郷に入っては郷に従え、ですよ。この家に住む以上、貴女の罵詈雑言に僕は耳を貸しませんから」
「知らないわよ、そんなもの! 勝手に言ってればいいのよ!」
氷花はふんぞり返ったが、壁を這っていた羽虫が飛び立ったからだろう。ぎゃっと美少女にあるまじき悲鳴を上げて、大慌てで逃げ始めた。
「全く、滑稽な姿ですね。学校社会で高嶺の花と崇め奉られた存在が、斯様な不様を晒すとは。柊吾君達に見せてあげたいものです。どうせ巫女の服を着ていたのも、格好つけたかっただけでしょう? ですが、貴女が巫女の装いを纏ったところで神社の娘には見えませんね。では何に見えるかと問われたなら、そうですね。ジャパニーズ・カルチャーで言うところの、何でしたっけ、コス――」
「コスプレじゃないわよっ、死ねぇーっ!」
氷花が新聞紙と殺虫剤を放り出し、和箪笥の上に飾ってあった白い達磨をドッジボールよろしく投げ飛ばした。
和泉は投げられた達磨を片手で受け止め、「嘆かわしい。これは貴女の高校合格祈願の達磨ですよ」と嘆息を漏らしてから、左目だけ墨で目を入れた達磨と見つめ合った。
氷花は肩で息をしていたが、ぷいとそっぽを向くと台所の方へ消えていった。
その間に和泉が達磨を元の位置へ飾り直し、氷花が暴れ回ったことで位置がずれた座布団も丁寧に整えてからくつろいでいると、ほどなく氷花が戻ってきた。
その手には、黒い盆があった。
蕎麦の青い丼が一つ、そこでほかほかと湯気を立てている。
「おやおや、僕の帰宅に合わせて作っていてくれたのですか。いつも有難うございます。ところで氷花さん、僕は蕎麦よりラーメン派だと、常々お願いしているのですが」
「この家に私を住まわせる以上、ラーメンより断然蕎麦よ。兄さんの偏食に付き合う気はないわ。出されたものを食べることね」
どんっ、と丼を和泉の前に氷花は置いた。つゆが少し跳ねて和泉は首を竦めたが、やがて「いただきます」と手を合わせてから、蕎麦に乗った海老の天麩羅を、美味しそうに食べ始めた。
氷花は仕留め損ねた羽虫が気になって仕方ないのか、テーブルを挟んで和泉の向かい側の座布団へ、びくびくしながら座っている。
そして食事の出来栄えを訊ねるような調子で、どこか甘やかに、それでいて不安げに、あるいは挑みかかるように、こう訊ねた。
「ねえ、兄さん。さっき坂上拓海に私の『弱み』を訊かれたでしょう? ……まさか、話してないわよね?」
「おや。やはり盗み聞きをしていましたか」
「当然じゃない。でも最後だけは、小声で全然聞き取れなかったもの。ねえ、坂上拓海と何を話していたの? 完全無欠の私に『弱み』なんてつまらないもの存在しないに決まってるけど、兄さんが私に『弱み』があると勘違いしてるのは迷惑よ。どんな大嘘をついたのか、早く白状しなさいよ」
「貴女の『弱み』など、幾通りも想像できますよ。まず、高飛車で、高慢ちきで、三度の飯より他人苛めが大好きな小悪党。そして小物ですね」
「全部私の悪口じゃない! 死ね!」
「罵倒されながらの蕎麦も楽しめるほどに、僕もこの生活に慣れてしまいました。ああ、氷花さん。拓海君とて、貴女がどこに出しても恥ずかしくない正真正銘の小物であるという事実など、とうにお見通しですからね。僕が語る程度のことは、彼も想定済みですよ」
「答えになってない気がするし、何回殺しても殺したりないくらいにむかつく台詞だけど……要するに、言ってないのね?」
「ええ。貴女の『弱み』は、言ってません」
「そ。ならいいわ」
氷花は素っ気なく答え、辺りを恐る恐る見回してから、虫の影が視界から消えたことに仮初の安堵を見出してか、少しリラックスした様子で足を伸ばした。
茶の間には暫し、蕎麦を啜る音だけが流れた。
やがて和泉が食事を終え、熱い茶を飲み干し、「ごちそうさまでした」と手を再び合わせた時、氷花が気だるげに、ぽつりと言った。
「兄さん。どうしてさっき、『神がかり』なんて言葉を使ったの?」
和泉は動きを止めて、氷花を見る。
氷花は、何かを考え込むような面持ちで、和泉を真正面から見つめていた。
「どんな言葉を使ったって、雨宮撫子がここで何かを『見た』のには変わりないじゃない。だったらそれは、幽霊って言葉でも問題ないはずよ」
「いいえ、そんなことはありませんよ。ただの幽霊の憑依現象では、今回の怪現象を説明できません。『神がかり』という言葉でなくては、拓海君が言ったような『代わりに伝える』という行為を果たせませんから」
「ふぅん。納得がいかないわね」
和泉の穏やかな説明を、氷花は冷ややかに一蹴した。
「兄さん、貴方って胡散臭いのよ。何か他の狙いもあったとしか思えないわ。貴方の言った『代わりに伝える』って台詞、昔に聞いたことがあるのよ。言ったのは多分、小五の誰かだと思うわ。思い出せないけどね。きっとつまらない記憶なのよ。……でも兄さんは、これを意識してる気がするの。私にとってはつまらない言葉だけど、この言葉を強調したくて、わざわざ『神がかり』の役目について、三浦君たちに話したんじゃない? それによって三浦君達のこれからの行動に、貴方は何かを期待してるんじゃないかしら? もしそうなら、本当に迷惑極まりないわね。それって敵に塩を送るような行為よ」
さらさらと、墨を吸わせた筆を半紙で泳がせるように、氷花は滑らかに語った。髪を束ねていたゴムも怠惰な動きで解き、黒髪が、艶やかに背を流れる。
「驚きましたね」
和泉は、素直な感嘆を見せた。
「あら、やっぱり当たりなのね」
「正解かどうかはさて置き、貴女が今回の事件について、考察を巡らせたことが意外なのです。貴女は『鏡』の事件の時だって、思考を放棄して金槌を握っていたではありませんか」
「むかつく過去を思い出させないで頂戴! むかつく女の顔を思い出しちゃったじゃない!」
「まあまあ、今となっては良い思い出ですよ。きっと今の貴女の推理を聞けば、七瀬さんだって驚かれると思いますよ。大体貴女は、今回の美也子さんの〝アソビ〟だって馬鹿にしていたではありませんか。どういう風の吹き回しです? 拓海君に感化されたのですか?」
「まさか。気になっただけよ」
「それにしても、大したものです。それに貴女は美也子さんを恐れてもいませんでしたからね」
「あんな女、怖いわけないじゃない」
ようやく虫への恐怖を克服したのか、一時的に忘れたのか、氷花は鼻で笑い、胸を張った。
「『醜い』みいちゃんなんかに、私が負けるもんですか。あの子ったら、可笑しいのよ? 服装一つ変わるだけで、私のことが見抜けないんだもの。それに私にはお父様や貴方だってついてるわけだし、もし襲われそうになったとしても、〝言霊〟で返り討ちにしてやるわ。事実、他愛ないものだったわよ? 弱い女ってこれだから厭ね。だからね、兄さん。私は怖くて隠れていたわけじゃないのよ? そこは誤解してもらっちゃ困るわ。もちろん、狂った女は恐ろしいわよ? 雨宮撫子がいい例よ。あの女は愛くるしい小動物の皮を被ったケダモノよ。風見美也子に襲われたって、いい気味だと思ったくらいよ。あんな女、狂ったみいちゃんの好きなように、もっと可愛がられたら良かったのよ」
「雨宮撫子さんのことが、まだ余程恐ろしいと見えますね」
「当たり前じゃない! あんな殺人鬼、もう二度と会いたくないわ!」
「成程。……その望み、残念ながら叶いませんよ」
「? 兄さん、何て言ったの? 聞き取りにくかったわ」
「夜食にラーメンを食べたいと言いました」
狐につままれたような顔になる氷花へ、和泉はとりなすように続けた。
「しかし、珍しく頭を使っていたらしい貴女への褒美として、一つお話を聞かせてあげましょう。柊吾君にも拓海君にも、まだ話していない物語ですよ」
「お話? つまらない話なら願い下げよ」
「きっと、聞き入ると思いますよ」
「厭に自信満々ね。くだらなかったら承知しないわ」
氷花は頬杖をついて、挑発的に笑って見せる。和泉は凪いだ微笑みを返してから、居住まいを但し、息を吸った。
「この場所では九年前に、死人が出ました」
その言葉を聞いた氷花の顔が、固まる。笑みは、雪が解けるように消え失せた。
和泉は構わず、忌まわしい事件を語り出した。
「亡くなったのは、イヴァン・クニノリヴィチ・クレノ。それに、呉野伊槻さん。貴女は先ほど藤崎克仁さんを指してお父様と呼びましたが、血の繋がりで語るなら、本当の父親は彼ですね。僕が挙げたこの二人は、九年前に亡くなりました。二人を死へ誘った犯人も、この世から姿を消しましたが……彼女が死んだ瞬間を、僕は、直接見ていません」
「……お兄様、冗談が過ぎるわ。まさか、貴方は」
「おっと、氷花さん。それは早とちりというものです。僕は何も、貞枝さんが実は生きていた、などと口にする気はありませんよ」
「……じゃあ、何が言いたいの?」
「拓海君が、僕に言ったのですよ」
話しの流れを断つように、和泉が徐に言った。
だが、話が終わってなどいない事は、氷花にも伝わったようだった。氷花は緊張の面持ちで、和泉の話に聞き入っている。
「僕の父親は、包丁の斬撃に因って亡くなりましたが、その死因は全く異なるものへすり替わりました。その理由を拓海君は、こう推理したのです。――それは、異能が持つ自浄作用ではないか、と。異質な出来事は現実と調和するように、作用しているのではないか、と。もしそれが理由でないなら、かつての幼い少女の〝言霊〟の効果が、現在も継続しているのではないか、と。……つまり、貴女の言葉です。氷花さん」
「……貴方、回りくどいわ」
「では、もっと要点を絞って言いましょう」
機械的に、和泉は言う。天井から落ちる橙色の光を受けて、小さな羽虫の影が、テーブル上を横切った。今度は、氷花も騒がなかった。
「かつての幼い少女による〝言挙げ〟が、世界から三人の大人を消しました。うち二人は、僕の父親と伊槻さんです。しかし僕の父親は死因のすり替わりという現象が起き、伊槻さんは遺体も残りませんでした。それはきっと、伊槻さんに関しては〝彼女〟が『連れていく』と事前に言っていたからでしょう。僕の父親を殺めたという、あまりに重いその罪に、伊槻さんは耐えられません。それを予め分かっていてか、それとも貞淑な妻を演じるための、駒と使ったまでなのか。今となっては推察さえもできませんが、伊槻さんは〝彼女〟の意思によって連れていかれたと考えて、まず間違いないでしょう」
「伊槻お父様は、弱い人だもの」
氷花は髪を耳に掛けながら、言った。
やはり怠惰な動きだった。終わった夏祭りを遠目に眺めるような疲労と孤独が、燃え尽きた花火の残り香のように、空気へ混じり、溶けていく。
「あの人はあまりに普通で、普通過ぎて、お母様を愛してしまった所為で人生が狂った不幸な人よ。異常を愛せない普通の人。それが私のお父様」
物憂げに、氷花は続けた。
「だから、あの人は私を愛せなかったのよ。普通の人しか愛せない伊槻お父様が、疎んでいた異常。その異常の中には六歳の私だって、含まれていたんだもの。……ねえ、兄さん。私はあの夏に知ってしまったの。愛なんて、まやかしよ。憎しみを隠すための欺瞞でしかないんだわ。あの夏に私を愛していた人なんて、この世には一人もいなかった。きっとこれは私達人間が時間をかけて知っていく世界のどうしようもなく汚い部分で、私はそれを、六歳で知ってしまったのよ。……許さないわよ? そういう汚さを、隠す努力すらしなかった貴方達なんて。嘘でも愛がある振りをしてくれたら良かったのに、貴方達はそれを放棄したわ。だから私は、貴方達が許せないの。本当は『憎悪』に塗れているくせに、いまだに『愛』を信じているみたいな顔をした、大嘘つきの貴方達のことが、私は許せないの」
そう言って、氷花は唇を吊り上げて笑った。
挑戦的な笑みだった。篠田七瀬に通じるような勝気さに溢れた笑い方に、先程までの哀愁は、狭霧が晴れるように消えていく。和泉もまた、晴れた空を見上げるような笑みを見せた。
「……貴女は、まだ『愛』を否定するのですね」
「当然だわ。兄さん、涼しい顔をしていられるのも今のうちよ? 貴方にだって『憎悪』があるに決まっているもの。私はそれを突きとめたいの。必ず突きとめてみせるんだから。……ちょっと、何が可笑しいの?」
「失礼。貴女は本当に、変わらないと思っただけですよ」
「あら。変わらないことの何がいけないの?」
「いいのですか? 和音さんも、柊吾君も、拓海君も、撫子さんも、七瀬さんも、貴女と関わりを持った少年少女達は、日々成長しています。しかし貴女だけは只一人、貴女のままでいるのですね」
「簡単に変わっちゃうなんて軟弱ね。ころころ色を変えちゃうカメレオンみたいな人達と、私を一緒にしないでくれる?」
「成程。貴女の美しくない〝言挙げ〟は、僕の美意識に反しますが……変わらないこともまた、美徳と言えなくもないでしょう」
和泉は立ち上がり、「少しだけ、待っていて下さい」と律義に氷花へ断ってから、先程の氷花のように台所へ姿を消した。
そして、一分と経たずに戻ってきた和泉の手には、酒の一升瓶と御猪口があった。
「呑みながら話すつもり? 珍しいじゃない、お酒なんて」
「こんな夜には良いかと。ああ、貴女は駄目ですよ。未成年ですからね」
「要らないわよ、そんな不味そうなもの」
氷花は顔を歪めて吐き捨てたが、和泉がテーブルに置いた一升瓶へ手を伸ばし、御猪口を引き寄せて酒を注いだ。白い御猪口に透明な液体が満たされていく様を、和泉は思案気に黙り、見守っていた。
「……別に、貴方の為にこうするわけじゃないわ。克仁お父様にも、時々こうしていたからよ」
「釈明のような言葉ですね。ともあれ、有難うございます。話の続きに戻りましょうか」
一口だけ御猪口に口を付けた和泉は、微笑んでから語りに戻った。




