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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第3章 鏡よ鏡
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鏡よ鏡 3

 一之瀬葉月いちのせはづきは、七瀬が中学二年生の時からクラスで仲良くしていた少女だった。

 面識だけなら小学生の頃からあったのだが、クラスやクラブ、委員会などにおいて、七瀬と葉月の領域は一度も重ならなかった。共通の友人もいなかったので、中学二年の春が二人にとっての転機だった。

 葉月と過ごす時間が、七瀬はとにかく楽しかった。学校では好きな漫画や音楽について語り合い、休日には一緒に映画も観に行った。ファーストフード店では帰宅の時間を惜しむようにポテトとドリンクだけで粘り、夏休みに入ると互いの家に泊まって勉強するという名目で、怪談を夜通し語り明かして盛り上がった。

 記憶を振り返ってみると、葉月と一緒にいたいと思うこの感情は、友愛よりも恋愛に質が似ていたように思う。かといって葉月と手を繋ぎたいとかキスをしたいと思った事はないので、やはりこの感情は友愛以外の何物でもないのだろう。

 恋愛の話だけは、今まで葉月と深く話した事がなかった。こういう話こそ泊まりの夜にすべきだと思うのだが、葉月は恋の話よりも怪談の方が好きらしく、七瀬は専ら怖い話ばかり聞かされてきた。

 だからといって、葉月は恋愛に興味がないわけではないと、七瀬は思う。あまり洒落っ気のない子だが、お洒落の仕方が分からないだけで、関心が薄いわけではないはずだ。

 葉月は、誰の事が好きなのだろう。たまに七瀬の方から探りを入れてみるのだが、葉月は恥ずかしそうに首を横に振って「七瀬ちゃんは?」と明言を避ける。いつもそんな感じだった。

 誰か、いるにはいるのだろう。それは間違いないのだ。けれど葉月は、それを誰にも教えないのだろう。葉月にはぐらかされる度、七瀬は漠然とそう思った。七瀬にさえ言わない葉月が、他の誰かに言うとも思えない。本人になど、絶対に言わないだろう。そうやって中学を卒業して、気持ちがどこにも伝わらないまま、初めから何もなかったかのように、静かに終わっていくのだろう。葉月とは、そういう子だ。

 だから、『大人しい』と切って捨てられても、庇いにくいところはある。それは七瀬がいくら悔しい思いをしても、揺るがない事実だ。

 だとしても、七瀬はミユキや夏美の言葉をそのまま肯定するわけにはいかなかった。葉月の『大人しさ』に触れられたあの瞬間、喧嘩も辞さない覚悟が七瀬の中に出来上がった。葉月を巻き込みたくないという気持ちだけが、衝動にブレーキをかけていた。

 新学期の初日は、こうではなかった。三年生のクラス名簿が廊下に張り出された朝、七瀬と葉月はまた同じクラスになれた事を、声を上げて喜び合った。

 それなのに翌日、七瀬と葉月の関係が、予期せぬ形で歪んでしまった。

 教室に着いた七瀬が、先に登校を済ませていた葉月の元に向かうと、いつもと変わらない笑い方をする友達の周囲は、いつもと明確に違っていた。

 葉月の傍には、三人の女子生徒がいたのだ。

『七瀬ちゃん、おはよう』

 振り返った葉月は、七瀬に明るく笑いかけた。他の三人も口々におはようと言ってくれたが、その笑顔は硬かった。緊張気味にかけられた挨拶はぎこちなく、初めて言葉を交わす相手に抱く緊張とは、多分種類が違っていた。

 『大人しい』葉月は、新しい友人を作れたらしい。そんな葉月が七瀬に紹介した子は皆、多かれ少なかれ、葉月同様の『大人しさ』を備えた少女達だった。

 七瀬は、その時。はっきりと、自分と他者を比較した。

 七瀬だけでなく、その場にいる全員が、同じようにしたと思う。皮膚が切れそうなほど鋭い視線が、戸惑いで重く淀んだ空気の中で、ナイフで刻み合うように交叉した。

 スカートを短く折り、ヘアアイロンで緩く巻いた髪をサイドで結った自分、篠田七瀬。対面には、目立つこと全てを恐れるような『大人しさ』で武装した少女達の、倦厭の目。

 その瞬間、七瀬が抱いた感想は『生々しい』だった。これほどに剥き身の拒絶を面と向かって突き付けられたのは、生まれて初めてのことだった。だから、咄嗟に分からなくなった。明瞭に提示された軋轢と溝を前にして、自分がどんな反応をすべきなのか、分からなくなった。対面で動揺する少女達も、きっと同じだった。自分達が人数で七瀬を圧倒し、感情が空気へ溶け出した事に気づいていた。

 葉月だけは、驚いていた。新しく結んだ絆の中で、その輪に明らかにそぐわない七瀬を見て、顔色が青くなっていく。七瀬は、ああ、と思ってしまった。

 ――葉月を、困らせてしまった。

 悲しさを感じたが、鋭い痛みではなかった。七瀬はこれを、葉月の裏切り行為だとも思っていない。葉月のあんな顔を見てしまっては、もう、思ってはいけないのだ。そんな風に七瀬は自分に言い聞かせると、のろのろと動き出した会話へ適当な相槌を適当な数打って、言葉が途切れた頃合いを見計らって、気まずい輪の中から抜け出した。

 七瀬は、その日以降。葉月と少しずつ、距離を置き始めた。

 ――教室が静か過ぎると、つまらない事ばかり考えてしまう。

 調理室の丸椅子に座った七瀬は、指を絡めて、膝の上で伸びをする。何もすることがない状況でも、調理実習で疲れるのは何故だろう。普段とは異なる授業を受けたことで、気疲れしたのだろうか。七瀬はやっぱり学校の調理実習が苦手だ。

 静まり返った室内には、教師の声だけが流れている。ドーナツの生地を寝かせている時間を利用して、油で揚げる流れを説明しているのだ。

 教師の話し方に淀みが全くないのは、ドーナツを何十回と作ってきたからだろうか。眠気で回らない頭で、七瀬は想像してみる。粉砂糖をふんだんにまぶしたドーナツ。艶々の蜂蜜を刷毛はけで塗ったドーナツ。ぽってりとしたイチゴミルク色のチョコレートドーナツ。脳内を色とりどりのドーナツでいっぱいにしていると、ふと斜め前のテーブルを囲んだ男子生徒の一人に目が留まった。

 男子生徒は、何かを手元の冊子に書きつけている。教師の説明はメモを取る必要がなさそうな話ばかりなので、紙にシャーペンを走らせる動作は目を引いた。紐で綴じるタイプの黒い冊子は、七瀬達のクラスの日誌だ。

 ――坂上拓海さかがみたくみだ。

 昨日までは隣の席の男子としか思っていなかったが、今では少し違っていた。今朝の出来事をきっかけにして、七瀬は拓海にささやかな興味を持っていた。

 ――どういう人なんだろう。坂上くんって。

 それほど気弱という印象はなかったが、実際に話してみるとあまりに女子慣れしていない感じがして意外だった。七瀬が転んだ時には手を差し伸べてくれたが、その後思い切り逃げている。妙な男子だと七瀬は思う。

 拓海は日誌を隠すような前屈みの姿勢を取り、時折顔を上げては教師の話にも反応している。日誌にはその日の授業内容を記入する欄があり、七瀬は三時間目までを担当し、残りを拓海に任せていた。拓海はそれを、休み時間ではなく授業中に片づける腹積もりらしい。七瀬も同様にしていたので、親近感が湧いた。

 この調理実習の班分けは、教室の席順で区切られたものだ。七瀬と拓海は席が隣同士だが、ぎりぎりで別の班に分かれていた。案外、隣の席に座っている時よりも違う場所にいる方が、仕草や人となりは見えやすいのかもしれない。七瀬も違う場所に座る人間から見れば、七瀬が思う自分とは違う映り方をするのだろうか。だとしたら、今の七瀬は、葉月の目に、どう映っているのだろう? 

 視線を少しずらすだけで、青い三角巾の頭を見つけた。髪型は、見れば見るほど毬に似ている。

 思えば毬という少女も相当に内向的だが、七瀬はそんな個性が嫌いではなかった。そういった『大人しい』少女から見れば、七瀬の方は『派手で怖い』とでも評されてしまうに違いない。七瀬からすれば身だしなみを整えているだけなのだが、スカート丈に関しては言い訳の余地がないかもしれない。

 ミユキと夏美も、『派手』な生徒だ。席が近かった縁で仲良くなった二人は、態度も持ち物も華やかで、物言いは多少強引だが、面倒見がよく優しいところもある。七瀬もお洒落にこだわるのは好きなので、二人とすぐに打ち解けた。

 なのに、今の七瀬は二人と居ても、葉月を目で追っている。結局七瀬のしていることは、ミユキや夏美に失礼で、葉月との溝を広げていくだけのものでしかない。自覚はあるが、学校とはそういう場所だ。大人の目には見えない水面下の戦いへ身を投じ、卒業という終戦目掛けて仲間としのぎを削り合い、傷つけ合いながら生きていく。大げさではなく、それほどの苛烈かれつさはあるだろう。現にこの学年にも苛めは存在し、不登校の生徒もいる。狡さを承知の上で、七瀬は学校での友達付き合いを、おざなりにしない。単純に友達が大切だという気持ちもあるが、絆は守りになるからだ。

 ミユキと夏美の事も、大切にしたいと七瀬は思う。一緒にいて楽しいと思える相手であり、二人に対して葉月の事で苛立っても、それだけが二人を嫌う理由にはならない。友達を相手に、手を抜いた付き合いをするつもりはなかった。

 ――その相手が、一之瀬葉月ではないとしても。

 四月の間はどのグループも交友関係が固まっていないが、五月になれば修正は難しくなるだろう。自分の身の置き所を定める時間は、あまり残されていない。

 桜が全て散って、五月の陽気を迎える頃。七瀬は誰の隣で、どんな風に笑っているのだろう。『大人しさ』で武装した少女達の、拒絶と倦厭の目を思う。零れそうになる溜息を、七瀬は意識的に殺した。

 そうして、気づけば――癖で、スカートのポケットに手を伸ばしている。

 ――鏡を、肌身離さず身に着けておくように。

 そう母に言いつけられた季節も、思い返せば春だった。中学一年生の春から、七瀬は神経質なほどに鏡のカバーを指でなぞる癖がついてしまった。もし失くしたら母に叱られるという恐れから、財布や定期券といった貴重品のように鏡を扱う癖がついたのだろうか。少しだけ恨めしい気持ちになった七瀬は、ポケットから長方形の手鏡を取り出した。

 プラスチックのカバーは茶色の水玉模様が入ったミント色で、葉月とお揃いで選んだものだ。七瀬はカバーを開こうとして、思い止まった。蛍光灯の光を反射して、誰かが眩しい思いをしてしまう。それに元々、鏡を見る理由もなかった。

「可愛いね、それ」

 隣の丸椅子に座る夏美が、目聡く声を掛けてきた。七瀬は教師の目を気にしながら「でしょ」と答えて、そっと笑った。誇らしい気持ちになれたからだ。『派手』な少女でも、『大人しい』少女が選んだものを可愛いと言った。葉月が褒められた気分になる。七瀬は青い三角巾をもう一度見て、切なさを静かに呑み込んだ。

 傷つかなかった、わけではない。葉月が新しい友達を作ったことに対する嫉妬もあるかもしれない。『大人しい』少女達に自分が受け入れられない存在だった事実も、心の表面を引っ掻いていた。

 だがそれでも、葉月との交友が絶えたわけではないのだ。会えば、挨拶する。話もできる。それに、たったあれだけの小さな事件で、葉月に関する全てを諦めてしまうのは――あまりにも、寂し過ぎる。チョコミント色の鏡を、握りしめた。

 七瀬は、手に取る鏡を間違えない。ミユキや夏美に合わせて笑うのは、見栄ではなく七瀬の本心だ。そこには嘘も演技もない。

 ただ――ここで取り出す鏡を選んだ七瀬の行為だけは、間違いなく見栄だった。

「……はあ」

 どうにも、気分の切り替えが上手くいかない。今朝は毬との再会を燃料にして気持ちを盛り上げていたが、渦中の人物が一堂に会した現状では、目を逸らそうにも逸らし辛い。溶けかけた砂糖みたいにぐずついた鬱屈なんてドーナツ生地に練り込んで焼き払ってしまいたいが、そんなドーナツはあまり美味しくなさそうだ。気づけば悶々としていたので、七瀬は最初、夏美の声に気づかなかった。

 そして、「血!」と大きな声で叫ばれた時、耳元で爆発した声量に、七瀬は心底ぎょっとした。

「ななせ、血! 血が出てる!」

「えっ? 何?」

「血! 指、見て! 指!」

 言われて、七瀬は指を見た。

 鏡に触れた、自分の右手。その人差し指を伝う、赤い液体が、一筋。

「……えっ、何これ」

 それが紛れもなく自分の血液で、人差し指の腹から流れ出している事実を呑み込んだ瞬間、「きゃああ!」とミユキが大げさな悲鳴を上げた。静かだった室内の空気が一変し、視線が七瀬に集中した。

 慌てた七瀬は、鏡を咄嗟にポケットへ放り込んだ。指にぴりっとした痛みが電気のように走り、ようやく知覚できた痛みで「あっ」と悲鳴にもなっていない細い声が、自分の喉から飛び出した。

 騒ぎに気づいた教師が「どうしたの、篠田さん」と言いながら教壇から下りてくる。「篠田さん、手が切れてるんです」という夏美の説明に従うように七瀬も改めて右手を見下ろすと、確かに擦り傷などではなく、薄い紙ですらりと肌を傷つけてしまった時と同じような怪我だった。

「……なんで切れたんだろ? 包丁、使ってないのに」

「ななせっ、暢気なこと言ってないで、保健室!」

 首を傾げていると、ミユキにせっつかれた。その勢いに圧された七瀬は立ち上がり、「すみません、保健室行ってきてもいいですか?」と教師に伺いを立てた。気遣いの目で七瀬を見守る中には、青ざめた顔の葉月もいた。気づいた七瀬は、軽い調子で笑って見せる。葉月の気遣いが嬉しかった。

 だが、背後から「ドーナツ、続きは任せてね! ななせの分は取っておくから!」と、自己顕示欲と気合の入ったミユキの声が聞こえた途端、砂糖水を煽ったような胸やけを覚えた。しばらくの間は、ドーナツは買ったものでも食べたくないかもしれない。少し失礼なことを考えながら、七瀬は調理室を後にした。

 扉を閉めた時に垣間見えた室内に、驚いた様子で目を見開いた坂上拓海がいた気がした。

 ――多分、気のせいだろう。

 そう結論付けた七瀬は、静寂の広がる廊下を、足早に歩き始めた。

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