花一匁 99
風が柔らかに木々の間を吹き抜けて、足元で枯れ葉が小さな音を立てて転がった。
柊吾は、軽い放心状態になっていた。撫子の今後にも微かだが希望を持てたので、とりあえず今は良しとすればいいのだろうか。そう割り切ってしまって本当にいいのか、まだ不安は尽きなかった。
腕の中を見下ろせば、撫子は少し苦しげに見えた。目隠しの所為で表情の大半は隠れているが、痛みを押し隠している時の顔は、柊吾にも見分けがつく。
「雨宮さん、最後に痛み止め飲んだのはいつ?」
拓海も心配そうに、それから申し訳なさそうに聞いてくる。
結局森での滞在時間が長くなってしまったので、責任を感じているのだろう。拓海が気にすることではないので、柊吾は意識して普通の声で答えた。
「受験が終わった時に一回飲んだって言ってたから、そろそろ効き目が切れる時間だ。……せめて身体の痛みだけでも、すぐに何とかできたらいいのに」
最後の方は、拓海への返答ではなく独り言だ。ぽつりと意識せずに零れた言葉が、雨垂れのように泉へ落ちる。水面へ波紋が広がるように、次々に不安が生まれていった。
「目のことだって、イズミさんは何とかしてくれるって言ってくれたけど……もしそれでも駄目だったら、雨宮が可哀想だ」
撫子の目に常時『見える』人間は、相変わらず家族、陽一郎、学校関係者といった面々のみだ。
今までは理解のある教師やクラスメイトに恵まれたので乗り切れたが、これからは違う。柊吾達は高校へ通うようになり、その先だってどんどん新しい場所へと羽ばたいていく。
ずっとこのままでは、いられない。
撫子がもっと生きやすくなる方法を、出来るだけ早く模索しなくてはならないのだ。
柊吾が物思いに沈んでいると、突然、あっけらかんとした声がかかった。
「方法は、ありますよ」
「え?」
俯いていた顔を上げた途端、和泉と目が合った。茶目っ気たっぷりに、笑っている。
「身体の痛みについては、先程も言ったように僕に暫く時間を下さい。君達が高校に進学するまでには、きっと。ですが撫子さんの『目』だけを限定的に治したいのであれば、根本的な解決にはなりませんが、方法はあります。……柊吾君。君の姿だけならば、撫子さんが常に『見える』ようにはできますよ」
「……ほんとですかっ!?」
びっくりした柊吾は、叫んでいるのと変わらない大声を上げた。隣の拓海も驚き顔になっている。どちらかというと和泉の台詞の内容より、柊吾の声量に驚いたのかもしれない。
「イズミさん、教えて下さい! どうしたらいいんですか!」
「……」
すぐに答えてくれるものと思いきや、何故か和泉は黙ってしまった。
肩透かしを食らった柊吾は、唖然と異邦人を見返した。
すると、数秒の沈黙を経て、急に。
和泉がにやりと、何だか下世話な笑みを向けてきた。
「方法は、一つだけです。君が心を込めて、ある〝言挙げ〟をすれば良いのです。……ですが果たして君に、その〝言挙げ〟が出来ますか?」
くつくつと声を立てて和泉が笑い始め、柊吾は妙にぎくりとした。この和泉はまだ〝イズミ・イヴァーノヴィチ〟なのだろうか。だがそれにしたって、あまりに笑い方が軽薄すぎる。
「な、何なんだ……?」
「イズミ君、まさか其の〝言挙げ〟とは……全く、君も意地が悪い。三浦君が可哀想ですよ、困っているじゃあないですか」
笑われる柊吾を見兼ねてか、藤崎が仲裁に入ってくれた。ほっと息をついた柊吾だが、よくよく見れば藤崎の顔も、しっかりと笑みの表情だ。柊吾に同情を寄せる傍ら、この状況を面白がっているのが明白だ。
「藤崎さんまで……一体何なんですか! その〝言挙げ〟って! 俺は雨宮に何を言えばいんですかっ?」
「三浦君、其れは不可ませんよ。自分で考えなくては」
藤崎は柊吾が意外に思うほどに、ばっさりと返答を断った。
だが、路頭に迷った子供のような顔の柊吾へ、情けをかけてくれたのだろう。遠い山の稜線へ視線を馳せるような目で、丁寧に、ゆっくりと、悠久の時の流れに声を乗せるように囁いた。
「……じっくりと、時間を掛けて、誠実に考えて御覧なさい。君はまだまだ若いですから、焦ることも、早急に答えを出す必要もないのです」
「若い? 年齢が何か関係あるんですか? でも藤崎さん、時間なんてありません。雨宮の目にずっと『見える』人間は、一人でも多く増えた方が……」
「其れは尤もな意見ですね。ですが時には撫子さんだけのことではなく、三浦君自身のことも考えるのも肝要です。何しろ此の〝言挙げ〟は、中学生の君には些と酷です」
「こ、酷って……そんなに、難しいことなのか……?」
混乱から、ぐるぐると目が回ってきた。
柊吾が考えなくてはならない〝言挙げ〟は、中学生という若さでは難しく、しかも和泉や藤崎を笑顔にさせるものだという。こんなにも滅茶苦茶な推理材料を集めても、答えなど出るわけがない。
「坂上、お前なら……と、悪りぃ。今のなし。自分で考える」
隣へ顔を向けた直後、柊吾は藤崎の言葉を思い出して踏み止まった。
拓海は曖昧な表情をしていたが、ふと目を見開き、黙り込んだ。
「……坂上。お前、答えが分かったんだな?」
「……えーと」
目が泳いでいる拓海へ詰め寄っていると、和泉が柔らかな声で制してきた。
「柊吾君、どうしても君一人で考えて判らなければ、日比谷陽一郎君に助けを求めてはいかがです?」
「よ、陽一郎……っ? なんで……?」
柊吾は耳を疑った。あまりに意外過ぎる名前だった。
大体どうして陽一郎が、撫子の目の問題と関わっているのだ。
そう自問しかけてすぐに、そういえば撫子が目を患う原因となった〝言霊〟には、陽一郎が絡んでいたと思い出す。ついでのように今晩の別れ際に早く家に帰りたいとわんわん泣かれたことまで思い出してしまったので、柊吾は青汁を煽ったような顔になる。
こちらの回想を読み取ってか、和泉が可笑しそうに吹き出した。
「君の知りたい答えの鍵は、彼が握っています。最後の手段として心に留めておけば宜しいかと。その際にはこんな風に、彼に訊ねてみればいいですよ。――『今までに柊吾君から言われた言葉で、一番傷付いたものは何か?』……と」
「俺が、陽一郎に言った言葉で……?」
思いがけない言葉だった。
――柊吾が今までに、陽一郎を傷つけた?
心当たりはゼロではないが、柊吾には陽一郎が気に病むほどの暴言を吐いた覚えはなかった。ただしその認識は、柊吾の主観に基づくものだ。記憶を掘り返そうと試みたが、今は思い出せそうになかった。
「克仁さんが仰ったように、じっくりと考えてみることです。君自身が改めてかつての君の〝言挙げ〟を受けた時に、君はこの謎の答えを知りますよ」
青色の目を猫のように細め、和泉は和やかに言った。
葛藤を促すように、そんな姿を見守るように、やはり人の、親のように。
「ただし、君が言葉の形で触れるそれは、陽一郎君にとっての傷痕かもしれません。触れるか触れないかは君の自由ですが、古傷に触れられることで余計に膿む場合もあれば、それが薬となって快方に向かう場合もありましょう。どちらにせよ、決めるのは君です。陽一郎君に訊くか、訊かないか。撫子さんに、〝言挙げ〟するか、しないか」
そう言って、和泉は踵を返した。
「では、そろそろお開きにしましょうか。鳥居まで送っていきますよ。キョウジさんへの挨拶も兼ねて」
柊吾は再び、何だか茫然としてしまった。
急に、眠気を覚えてしまったのだ。森に薄い霧がかかって見える。夢と現の境界が薄くなって、二つの世界が溶け合う狭間に、立たされたような気分になった。
――本当に、長い一日だったのだ。
――そんな長い一日が、終わろうとしているのだ。
薄青い感慨に駆られ、睡魔に襲われ、柊吾は何も考えられずに、和泉の後姿を見守った。
白い着物と浅葱の袴が、繊細に揺れる灰茶の髪が、柊吾の元から離れていく。このまま和泉だけが何処かへ歩み去ってしまっても、何の不思議もない気がした。
そんな、柊吾の幻想を――声で、打ち破った者がいた。
「待って下さい。イズミさん」
手拍子のようなその声に、はっと柊吾の意識が覚醒した。
声の主は、拓海だった。
麻の白シャツに身を包んだ体躯が、さっと和泉を追い駆けていく。
和泉は、顔だけで振り返った。
次いで浅沓を履いた足が止まり、下草を踏む湿った音が、闇に沈んだ森に響く。少年を見下ろす和泉の顔には、人を食ったような笑み。柊吾は、少し緊張した。
――まだ、何かが起こるのだ。
「イズミさん。解散の前に、俺達に言うことがあるんじゃないですか?」
「君達に言うこと? それは、謝罪の言葉ですか?」
「いいえ。謝罪の言葉なんて求めてません。そんなのよりも、もっと欲しいものがあります」
拓海が和泉に追いつき、泉の畔で少年と男が見つめ合った。柊吾の場所から垣間見える拓海の顔も、僅かだが笑みを含んでいた。
――明らかに、腹に一物ある顔だ。
「欲しいもの、ですか。ついにきましたね」
和泉が、したり顔で笑った。
「一応訊ねておきましょうか。君にどんなに欲しいものがあったとしても、僕がそれを与える理由はないのでは?」
「いいえ。イズミさんは俺達の要求に応える義務があります」
「ほう、強気ですね。では拓海君、君が僕に求めているものは何ですか?」
「迷惑料です」
きっぱりと、拓海は言った。
その表情から笑みは消え、ひどく真面目で真摯なものへ戻っている。
「謝罪なんて、要りません。イズミさんはイズミさんなりの〝惟神〟に従って動いていただけで、雨宮さんのことを考えてくれてたのは確かだから。でも俺達はその行動のせいで振り回されたし、雨宮さんだって怪我をしました。今回の事件の迷惑料を、俺はイズミさんに請求します」
「……。それは、金銭ですか?」
「違います」
「では、君は僕に、一体何を請求するつもりですか?」
「情報です」
拓海が答え、きっ、と己の頭一つはゆうに高い長身を見上げた。
「――呉野氷花さんの『弱み』を、教えて下さい」
柊吾は、息を呑んだ。
それは、予想もしない言葉だった。
――呉野氷花の、『弱み』。
〝言霊〟の異能で他者を弄んできた、氷花自身の――『弱み』。
「俺には、ずっと前から疑問だったことがあるんです。雨宮さんの目が『見えなく』なった事件の最後に、雨宮さんは呉野氷花さんを襲いましたよね。それを聞いた時から不思議でしたが、今まで訊けずにいました。蒸し返すのも、怖かったから。でも、どうしても知りたいんです」
拓海が、落ち着いた声で言う。
続けられたその台詞に、柊吾は意表を突かれてしまう。
「どうして氷花さんは、その件で雨宮さんを告発しなかったんですか? 言い方は悪いけど、氷花さんだったら間違いなく、自分のことを棚に上げて、雨宮さんを警察に突き出すくらいする気がします。……自分を殺そうとした女の子を、どうして見逃したのか、俺にはそれが不思議です。〝言霊〟のこととか、説明がややこしいからって理由もあるかもしれないけど……それだけが理由じゃ、ないんですよね?」
「……」
「この事件の時に、雨宮さんを庇った人がいるんですよね? たとえば氷花さんの家族とかが、氷花さんの『弱み』なんかを使って脅して、あの出来事を口外しないように説得したんですよね? そんな説得を可能にするような『弱み』が……氷花さんには、あるんですよね?」
「……」
「呉野氷花さんの『弱み』を、教えて下さい。次に何かヤバい事件が起こったら、俺達はそれを盾に自衛します。だから」
「拓海君。こちらへ」
和泉の腕が、動いた。
素早い動きだった。白い和装がひらりと揺れて、拓海の腕を掴んで引き寄せる。「えっ」などと声を上げて驚く拓海を尻目に、懐へ抱き入れた少年の耳へ、和泉の唇が寄せられた。
「なんだ……?」
柊吾はめいっぱい訝しみながら、目の前の状況を見守った。どうでもいいが、暑苦しいのでさっさと離れてほしい。そう文句をぼやきかけた所で、拓海は和泉から解放された。
だが――何だか、様子が変だった。
拓海は何故か、よろめきながら柊吾の元へ帰ってきたのだ。
その顔色は、妖精に生気を吸い取られたかのように真っ白だ。確かそんな怪談があった気がする。藤崎や七瀬辺りに聞けば分かるかもしれない。ともかく、灰になった、という形容がぴったりの有様だった。
「おい、大丈夫か? イズミさんに変なことでも言われたのか?」
「ああ、うん。大丈夫……ただ、ちょっと……あまりに、なんというか……これって『弱み』なのかなって……ごめん、受け止めるのに時間がかかる……」
歯切れ悪く、表情の摩耗した顔で拓海は答えた。
正確に言えば、そこには何らかの感情があるのだろう。とはいえ何だかこの顔は、未知の宇宙人に遭遇したものの、それが本当に宇宙人なのか、それらしい着ぐるみを着た偽物なのではないか、と妙に難しく勘繰っているような、それらの煩悶が一周して無に還ったような、そんな顔だ。
訊くのが怖くなったが、柊吾はそれでも、訊くしかない。
「……呉野の、『弱み』。俺にも教えろよ」
「…………。明日、話す」
虚脱状態の拓海の台詞が、この種明かしの集いで交わされた、最後の言葉になってしまった。
あまりにも格好のつかない、間の抜けた幕引きだった。
*
柊吾達が神社の境内へ戻ると、鳥居の傍に恭嗣がいた。
蛍光灯で区切られた丸い光の輪の中から、恭嗣は表情も無く柊吾達を迎えた。頭上からの灯りの所為で、顔に落ちる影が濃い。
時間をオーバーしたことに対して何か言われるかと身構えたが、恭嗣が苦言を呈すことはなかった。少しだけ不服そうに、目元に険が寄っただけだった。
「三浦の叔父さん。約束の時間を守れなくてすみませんでした」
おっかなびっくり謝る拓海へ、恭嗣はさして怒っている風でもなく「悪いと思ってるなら、ちょっと頼まれてくれるか?」と言って、拓海へ腕を差し向けた。
その手には、二冊の本が握られていた。
「拾った。捺してあるスタンプ、東袴塚学園のだろ? 誰が落としたのか知らねえけど、学校に返却しといてくれ」
「これは……」
拓海が本を受け取り、柊吾も近寄って目を瞠った。
――『山椒大夫・高瀬舟』と、植物図鑑だったのだ。
確か陽一郎が、図書室から持ち出してしまった二冊の本だ。その陽一郎が〝アソビ〟の渦中で森に落としてしまった場面だって、柊吾も目にしたので覚えている。紺野の遺書だけは和音が回収していたが、他は拾いそびれていたのだろう。
それを、恭嗣が拾ったということは。
「……ユキツグ叔父さん。俺らの話、聞いてた?」
「知らねえなあ」
恭嗣は表情も変えずにはぐらかしたが、柊吾達から逸らされた目は、和泉と藤崎の方へ向いていた。
「……藤崎さん。明日、そちらに窺っても構いませんか? 話し合いたいことがありますんで」
「構いませんよ。明日は道場を閉める予定ですから。恭嗣君の都合の良い時間にお越し下さい」
藤崎は鷹揚とも淡白とも取れる態度で応じ、恭嗣もまた鷹揚とも淡白とも取れる態度で首肯してから、拓海へ本を差し出した。
拓海も恭嗣の正面へ進み出ると、本を受け取ろうと手を伸ばした。
だが、二冊の本が拓海の手に渡ることはなかった。
第三者の手が、突然割って入ったからだ。
「キョウジさん。その二冊の本、僕が預かりましょう」
男の骨ばった長い指が、しなやかな動きで本に触れた。
白い着物の、裾が揺れる。恭嗣の視線が上がり、本から、人物へと移っていく。気だるげに動いた首の動きで、その短髪も、夜風に揺れた。
「……イズミ君。あんたには頼んじゃいねえよ」
鋭い眼光で睨めつけられても、本を掴んだ第三者は――和泉は、柔らかな笑みを絶やさない。
それどころか、慈愛の笑みを深めてくる。
「この本は、氷花さんに託しておきますよ。彼女も少し前までは東袴塚学園の生徒でしたから。中学の卒業も近い今、かつて通った学校の恩師への挨拶も兼ねられる、良い機会だと思います」
「あの娘っ子が、素直に行くかねえ」
鼻を鳴らし、恭嗣は吐き捨てた。
言いながら、その手は本から離れない。和泉と恭嗣の手の狭間で、二冊の本は行き場もなく、宙に浮いたままだった。
意地と思惑が、拮抗している。それを、柊吾は感じ取った。
「大体な、東袴塚学園っつったら、あんたの妹が謹慎処分を食らったとこだろうが。そんな処分下した学校に、行きたがるとは思えないね」
「ほう。氷花さんの猫かぶりが通用しない大人がいるとは。やりますね、キョウジさん」
「あんな猿芝居に騙されるのは、筋金入りの鈍感か、ケツの青いガキくらいだ」
「相変わらず、お口が悪いようで」
「……。まあいい。任せてやる」
尊大な言い方をした恭嗣の手が、投げやりに離された。
二冊の本が、和泉の胸に収まる。様子を見守っていた拓海が、おずおずと口を挟んだ。
「あの……俺、返しておきますよ。元々は俺達が持ち出した本だし……」
和泉はもう答えずに、拓海へ笑いかけただけだった。
恭嗣の眼光が一層鋭くなり、藤崎はやはり溜息を吐いていた。柊吾の腕の中で撫子がもぞもぞと動き出して、「もう、外していい?」と小さな声で訴えてくる。全員の注意がそちらに逸れて、「ええ、お疲れ様でした」と、和泉が和やかに微笑んだ。
「……」
何かが変わろうとしていることを、柊吾は肌で実感した。
もうじき柊吾達は、中学を卒業する。
そして高校へ入学するように、世界は日々、変わっていく。
そんな小さな、それでいて大きな歩みが、今日という一日にあったのだ。
こうして、柊吾たち中学生の、長い一日が、終わった。




