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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 98

「克仁さん、話が脱線していますよ。撫子さんの〝鋏〟が貴方の目に見えているのは分かりました。すなわち撫子さんは僕達の〝同胞〟ではなく、異能を持たないという結論が出ます。異能でないなら、彼女の力は何なのか。それをもっと端的に、言葉で言い表せばどうなりますか?」

 最後の台詞だけは、藤崎ではなく拓海宛てだったのだろう。意図を聡明に汲んだ拓海は、すぐに最適な解を叩き出した。

「病です」

「ご明察」

 短い言葉で、和泉は拓海を賞賛した。珍しい言い回しに聞こえたのは、きっと敬語ではないからだ。

「異能を持たない雨宮撫子さんは、特殊な目の力によってのみ、『貞枝』さんを識別できるのです。『神がかり』によって『見た』ものを現実世界に降ろす力は、一見すれば異能と見紛うものですが、この目の異常さえ治ってしまえば、撫子さんの『巫女』体質も消失します。言ってしまえば、その程度の力です。『異能』と呼ぶより、『病』と呼ぶ方が適切でしょう」

 和泉は目を細め、やがて瞳を閉じ、その瞳を開いてから、柊吾を見つめた。

 先程までにはなかった毅然とした光を、柊吾は青い瞳の中に見た。

「この泉に残った感情。それは撫子さんの目に『呉野貞枝』さんとして映りました。『感情』を目に見える形で網膜に投影すると、そんな形を取ったのでしょう。しかし、この現象が特殊な目の力によって引き起こされた『神がかり』であるにしろ、生前の呉野貞枝さんと一切の関わりを持たない撫子さんに、『真っ黒な長い髪の女』が見えたのは問題です。僕はこの呉野神社の宮司を務める者として、この問題を根本的に解決しなくてはなりません。僕が、この地を去る前に」

「……え?」

「いつか、の話ですよ」

 和泉はそう言って、ウインクをして見せた。普段の和泉らしからぬ外国人めいた仕草から、異国の匂いを柊吾は嗅ぎ取る。

「イズミ、さん……?」

「おっと。柊吾君。もうお開きの時間は目前です。僕についての個人的な質問は、明日以降にしませんか。餅でも焼いて歓待しますよ」

 和泉は柊吾に取り合わず、代わりに撫子へ視線を転じた。

 その表情は和やかだが、何だか抜き差しならない凄みがあった。

「……僕が撫子さんを〝アソビ〟に巻き込んだ理由の一つが、これなのですよ。この泉の異常を知覚できるのは、現時点では雨宮撫子さんただ一人。それは偏に彼女がそういった〝モノ〟を知覚できる目を持ったからに他ならず、この先永遠に彼女以外の人間は、『呉野貞枝』さんを『見る』ことも、彼女の形をした感情に振り回されることもないでしょう。僕の〝先見〟の異能は、既にその未来を確定しています。――ですが」

 和泉が言って、顔を上げた。

「それは僕が、僕なりの〝惟神〟に従って、現在を生きて、生き抜いたからこそ得られる未来です」

 決然とした、言葉だった。まるで、この〝言挙げ〟を聞く者全てに別れを告げているかのような、潔くも物悲しい、悲壮な決意の言葉だった。

「僕は、九年前に名を捨てました。イズミ・イヴァーノヴィチでは成れぬ者に成る為に、氷花さんの兄になりました。呉野和泉でなくては、為せぬこともあるのです。もし僕が呉野和泉としての役目を放棄して、今回撫子さんの身に起こった出来事への対処を怠れば、僕は〝先見〟の異能で見た未来へ進むための、足がかりを失います。己の使命を果たせなかったという僕の苦い感情は、かつて水底へ沈んだ包丁のように、地獄へ通ずる泉に揺蕩い、此処へ残り続けることでしょう。この『貞枝』さんと、同じように」

 唄を諳んじるようにそう言って、和装の異邦人は小さな泉へ目を向ける。

 水面ではいくつもの丸い輪が、広がっては消えていく。誰かがここに立っていて、涙を流しているかのようだった。枯葉が水面へ落ちただけだと分かっていても、柊吾の胸にやるせない思いが込み上げた。

 ――呉野貞枝は、己の死を受け入れていた。

 一体どんな思いで、貞枝は死地への旅路を歩んだのだろう。柊吾にはその心情が理解できなかった。生前の貞枝を知らず、遺書とやらに目を通してもいない柊吾には、きっと一生理解できないままなのだ。

 そんな風に埋められない断絶が、世の中には存在する。非情でありながら紛れもないこの現実も、今回の〝アソビ〟を通して知ったことの一つだった。

「柊吾君」

 不意に和泉が、柊吾を呼ぶ。

 すらりとした痩躯の背筋が、端然と伸びた。

「君達が、高校へ入学するまでの間に――いえ。君達の仲間の、門出の日。僕はきっとその日までに、撫子さんの目が起こす『神がかり』を、解決すると誓いましょう」

「え……、えっ? イズミさん! 雨宮の目、治るのか!?」

 つい夜中だと忘れ、柊吾は大きな声で訊いてしまった。

 撫子の目による『神がかり』に――和泉が、対処してくれる?

「正確な言い方をすれば、この『貞枝』さんを撫子さんの目に『見えなく』する方法を模索します。少々時間を要しますが、解決の目途も立っています」

 落ち着き払った声で、和泉は答えた。その傍では藤崎も、雷に打たれたような驚きを見せている。和泉によるこの提案は、藤崎が聞いても衝撃的なものなのだ。

 そんな藤崎の顔を、拓海が愕然の顔で凝視していた。

「克仁さん……? 何を、そんなに驚いて……」

「イズミさん! 教えて下さい! 雨宮の目、どうすれば治るんですか!」

 何かを訊こうとする拓海を遮り、柊吾は怒鳴りつけるような声で訊いた。撫子の目について知り得ることは、何でも教えて欲しかった。

「まだ検討中の段階ですから、解決が叶ってから教えましょう」

 和泉は何だか薄幸に笑うだけで、解決の目途とやらについての明言は避けられた。柊吾は食い下がろうとしたが、逡巡してそれを堪えた。和泉の態度は、一応だが真摯で誠実なものに見える。そんな己の直感を、今は信じることにした。

「時間こそかかりますが、必ずや解決してみせましょう。その為に撫子さんには、僕に協力してもらう必要があるのです」

「協力? 雨宮に?」

「ええ、難しいことではありませんよ。柊吾君にも協力して頂きたいことです」

「……内容によります」

「柊吾君と撫子さんの二人は……春の間は、できるだけ、たくさん。この神社へ遊びに来て下さい」

「……え?」

 柊吾は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔になる。これには拓海も驚いたようで、隣で目を瞬いていた。両者の反応を最初から予想していたのか、和泉はただ柔和に笑った。

「〝オニノメツキ〟の君がついていれば、撫子さんも『神がかり』はできませんから。彼女の体調がもう少し安定すれば、神社の空気にも耐性ができるはずです。できれば拓海君も、七瀬さんも和音さんも、毬さんも陽一郎君も、皆さんで遊びに来て下さい。森閑とした境内が子供達で賑わえば、この場所も寂しくなくなりますから」

「それは……本気で、言ってるんですか?」

 怪しみながら、柊吾は訊いた。

 勘繰り過ぎかもしれないが、何だか和泉が嘘をついている気がしたのだ。

 この神社に、悲しい感情が残っているから?

 だから柊吾達に、遊びに来いと言っている?

 そんな理由で、和泉は柊吾達を招いているわけではない気がした。

「……では、こういう理由なら君は納得できるのでは?」

 優しい口調で、和泉が言う。いつもに増して嫋やかな声は、むずがる幼児を宥める子守唄のようだった。

「僕はもう二度と『貞枝さん』が雨宮撫子さんの目に『見えない』ように、撫子さんを研究したいのです。現時点では撫子さんしか『貞枝さん』を知覚できませんし、彼女のような特別の目を持つ者は今後出ない予定ですが、その保障に胡坐をかいて、何もせぬまま居直るわけには参りません。それは人道に(もと)る行為だとは思いませんか? 少なくとも僕は、仁義に反すると思うのです」

「それじゃあ、雨宮が……なんか、モルモットみたいで、嫌だ」

 柊吾は、とにかく反論した。別に神社へ遊びに来るのが嫌だというわけではなかったが、もう少しだけでも和泉から、本心を引き出したかったのだ。

「大体、雨宮に『呉野貞枝』が『見える』ってことは、また『神がかり』をするかもしれないってことですよね?」

「ええ。撫子さんが今撫子さんのままで居られるのは、彼女が心身共に落ち着きを取り戻したからですよ。今は〝オニノメツキ〟の君もいますしね」

「その二つの条件が欠けたら、ヤバいってことじゃないですか」

 柊吾はつっけんどんに言い返してから、何だかやっぱり子供を見守る親のような眼差しの和泉から、居心地が悪くなって目を逸らした。そしてこちらの方は、親に叱られた子供のような顔で、言い捨てる。

「俺はもう二度と雨宮に……あんな風にはなってほしくないし、させたくない」

「もちろん、無理強いはしませんよ」

 和泉はあっさりと引き下がったが、万人を拒まず懐に優しく引き入れるような仁愛の声で、「ですが」と細やかに続けた。

「この提案、君にとっても十分価値のあるものだとは思いますよ。何故なら撫子さん自身にとって、大きなメリットがありますから」

「メリット? 雨宮に?」

「ええ。もし撫子さんに『貞枝』さんを『見えなく』することができれば、氷花さんが〝言霊〟で彼女の胸に刺した〝鋏〟、取り除けるかもしれません」

「! 本当ですかっ?」

「むしろ〝鋏〟さえ抜ければ、目の異常も回復するはずです。撫子さんの訴える身体の痛みも、時間をかければ癒えるでしょう。その為に研究を重ねる時間を、どうか僕に頂けませんか? 決して君達にとって、悪い提案ではないはずです」

「……俺達がどんな返事をするか、イズミさんには分かってるんですよね?」

 和泉は、透明な微笑みで応えてくる。柊吾はしばらくその微笑と見つめ合い、裏を探り、探り切れるわけもなく、小さな溜息を藤崎のように吐き出してから、ぼそりと答えることにした。

「……どうせ春休みとか、暇だし。雨宮は、明日にでも俺から説得します。坂上も、それでいいよな?」

「うん、もちろん。俺からも、皆に声をかけとくよ」

 拓海も、何だかほっとしたような顔で笑っていた。少しずつ和やかな方向へ流されていくのを感じながら、柊吾はもう一度溜息を吐く。

 結局、和泉のペースだ。戦う気でやって来たのに、何だか情けないことだと思う。

 そんな柊吾の内心を読んだのだろう。和泉は優雅に笑っていたが、やがて笑いを収めた頃に、静かな口調で語り出した。

「――僕は、幾つかの未来を見ました。その未来は、極めて断片的なものです。何を見たかは、申せません。僕がこの未来を〝言挙げ〟することによって、未来を歪めたくないのです。〝言霊〟は、現実世界に影響を及ぼします。ですから僕は、〝言挙げ〟しません。〝先見〟の異能を受け継いだ僕の言葉という諸刃の剣で、未来を傷つけない為に。僕は敢えて、〝言挙げ〟しません」

 淡々と、次第に朗々と、祝詞を上げるような厳粛さで、和泉は語った。

 それはまるで数世紀も昔から定められていた歴史を、巻物を紐解いて読み上げるように。呼吸一つさえ憚られるほどの静謐さで、語った。

「それでも今の僕が言えるのは、この未来を選ぶことで、撫子さんが救われること。そして、風見美也子さんも。最終的には、救われるということです」

「雨宮が……? それに、風見も?」

「先程克仁さんが仰った通り、柊吾君は撫子さんと、以前より親密になれましたね。撫子さんは以前よりも、君を好きだという気持ちに、素直になろうと決めたようです」

 こんなにストレートに言われると、どんな顔をしたらいいか分からなくなってしまう。怒りたいのに口角が上がりかけ、柊吾は仏頂面の維持に努める。

「撫子さんの内面が、そんな変化をしたのは何故なのか。それは理詰めで考えるまでもない事ですが、野暮を承知で、一つだけ指摘するならば。おそらく君が撫子さんのことを、理解しようとしたからです」

「理解……?」

「もう分かっているのでしょう? 彼女が何を、気に病んでいたのかを」

 確かに、それは今更、誰かに指摘されるまでもない事だ。

 撫子が気に病んでいたことなら、その大半をこの泉の畔で聞いたのだ。昨年の初夏の出来事だって、今も撫子を苦しめている。

「……」

 何度だって、柊吾は後悔する。言い換えれば和泉の言葉は、柊吾が今まで撫子を理解しようとしていなかったという事になるからだ。反発したい気持ちもあるが、それが事実であることを、もう思い知らされていた。

 結局のところ、柊吾は和泉への怒りよりも、自分への怒りの方が強いのだ。

 少なくとも、柊吾が撫子の辛さをもっと早く知ろうとしていたなら、こんな結果にはならなかった。

「……そんな事は、ないと思いますよ」

 和泉が、瞳を閉じて心を読んだ。柊吾は言い返そうとして、やめにした。

「柊吾君。君は人の感情の機敏に関して、繊細な方だと思います。小五の紺野沙菜さんが花を切った後のことで、彼女が犯人だと気付けたのは、撫子さんと美也子さんを除けば君だけです。そんな君でも気づけなかったのです。それは撫子さんが君には隠していたからですよ」

「……隠す必要なんて、ねえのに」

「それも分かっているのでしょう? 七瀬さんがこの森で言っていたではありませんか。撫子さんが美也子さんの事を、『嫌い』だと打ち明けた時に。撫子さんの心情を慮って、言いましたよ。『思っていても、そんな事は言いたくない』、と。僕もその通りだと思いますよ。好きな男の子になら尚更、己の闇を見せたいとは思いません」

「君が恋愛を語るのは、些か皮肉な光景に見えますよ」

 藤崎が、静かに口を挟んだ。

 だが台詞の内容に反して、その言葉には棘がなかった。ただ黄昏時のような寂しさが拭い難く染みついて、声を掠れさせているだけだった。

 和泉は、柔らかく笑った。実の父親へと、微笑むように。

 そして過去との決別を示すように頤を上げて、柊吾へ、拓海へ、声をかけた。

「僕はこの〝アソビ〟を阻止するのではなく、見守ることを選びました。それは撫子さんと美也子さん、双方の少女の未来の為です。まずは、撫子さんについて語りましょう。あの〝アソビ〟の解決は、出来る限り子供に任せたかったのです。理由は、拓海君なら分かりますね?」

「はい。この答えを、俺はイズミさんに一度言っています。『子供の遊びに、大人が混じったら興醒めだから』。もし大人が〝アソビ〟を邪魔した場合、まずい未来になるんだ。それが、イズミさんが克仁さんを味方に抱き込んだ理由ですね?」

「其れでも私は、止めたかった」

 悔しそうに、藤崎が握り拳を作った。

 苦しげに寄せられた眉間の皺が痛々しく、静かに憤る大人の男を、柊吾は茫然と見つめた。和泉は、ほんの少しだけ柳眉を下げた。

「僕に『見える』未来は、確定的なものばかりです。それが國徳御父様の異能の性質でした。『見た』未来は必ず訪れるものであり、覆せるものではありません。ああ、これだけは言っておきましょう。僕は、絶望的な未来は見ていませんよ。――ですが。もしこの未来を僕達がなぞれなかった場合、そこに待つのは破滅です。少なくとも克仁さんや、柊吾君にとっての破滅です」

 その台詞の最後だけは、声音がひどく冷ややかだった。

 脅しめいた言葉の温度に、柊吾の心が否応なく揺すぶられる。

 力ある言葉だった。常人には決して出せない、持ち得ない力がそこにある。

 ――まるで、呉野氷花の〝言霊〟のような。

「克仁さんがもし、撫子さんの窮地に居てもたってもいられずに、この家から飛び出していたのなら。その場では、事件は丸く収まった事でしょう。ですが風見美也子さんは〝鬼〟のままです。再び必ず戻ってきて、撫子さんを襲います。回数が変わるだけに過ぎません。失敗すれば、また繰り返しです。取り返しがつかない事態に陥るまで、この鬼ごっこは続きます」

 ぎっ、と柊吾は唇を噛んだ。回数の問題ではない。そう言おうとしたが、あんな目に何度も遭う撫子を想像したら、それだけで心が千切れそうになった。

 二度目は、耐えられない。

 撫子ではなく、柊吾の方が先に潰れてしまう。

「克仁さん。貴方にも一度説明しましたが、この場合無事で済まないのは貴方とて同じです。子供の恨みは、大人が思うよりも怖いものですよ」

「其れだけを理由に、よく私を止められたものです」

 心底恨めしそうに、藤崎が和泉を睨めつけた。その様子を見ていると、何となくだがシナリオが読めた。柊吾は躊躇いながら、藤崎に訊く。

「あの、その怪我はもしかして……」

「僕の所為ですよ」

 和泉が、藤崎に先んじて答えてくれた。

「撫子さんの悲鳴が聞こえた時に、それまで耐えていた克仁さんも限界を迎えられたのです。畳を蹴って走っていかれたので、僕が足止めしていました」

「足止めって……イズミさんが?」

 柊吾は、ぎょっとしてしまう。和泉は足止めと軽く言ったが、藤崎は少林寺拳法の道場師範だ。よく相手が務まったものだ。

「僕とて不意を打てば戦えますよ。それに克仁さんは僕の日本の父ですから。僕もかつては習っていたのですよ。拓海君。今の君と同じように」

 柊吾は拓海と顔を見合わせ、二人揃って藤崎を見る。

 藤崎の額に貼られた、血の滲んだガーゼ。

 ……大人達の間にも、柊吾達の知らない戦いがあったのだ。

 少年二人の視線を気にしてか、藤崎が軽く頭を振った。

「此れはイズミ君に殴られたわけではありません。小競り合いの最中に、私が障子戸に額をぶつけただけの事ですから。心配には及びませんよ」

「本心から、僕は胸が痛かったのです。ただの説得だけで克仁さんを止められるとは、元より思っていませんから。少女の悲鳴を聞いた克仁さんの良心は、僕の言いつけを断固として拒否します。僕はその未来も『見て』いました」

「当たり前です」

 藤崎が、低くしゃがれた声で言う。

 良心の呵責か、和泉への怒りだろうか。撫子へ贖罪の念もあるだろう。夜叉の面構えで和泉を睨むその視線は、鋭く悲痛なものだった。

「イズミ君に、云われましたよ。あの局面で私達大人が撫子さんを助けたら、今までと此れからの全ての道筋が失われてしまうのだと。此れまでに流されてきた血の意味も、犠牲も、魂も、何もかもが無に還ってしまうのだと。頼むから、止めてくれるなと。死ぬことだけはないから、必ず助かるから、止めてくれるなと。然う、熱く語られたのですよ。まるで、九年前の青年のような情熱で以て。其れでも私は助けたかったのです。しかし己も異能を持つ者の端くれとして、あの國徳さんの異能を、〝先見〟の異能を受け継いだ者の言葉を、無視する危険は冒せません」

 藤崎の顔が、自嘲で歪んだ。

 酸いも甘いも噛み分けたようなこの男でも、こんな葛藤を見せるのだ。柊吾にはそれがただ意外だった。

「私は、私の選択によって撫子さんの命が脅かされることを恐れたのです。……全く滑稽なものです。命の危険なら、すぐ傍にあったというのに。訪れるかも分からない未来の危険に、恐れを為していたのですから」

 深い紺色に染まる空を、藤崎が振り仰いだ。

 まるでそこに、永年の呪縛の鎖を見るように。

「私は、異能に囚われています。若かりし頃の私は、己が異能を徹底的に理解しようと戦いました。よく、身に沁みて判りましたよ。私の戦いは、まだ終わっていないのだ、と」

「……藤崎さん。本当に、あんまり気に病まないで下さい」

 思わず、柊吾はそう言った。

 本心とは、少し異なる言葉だった。それでも、そう言わざるを得なかった。

 分かってしまったからだ。藤崎が、心から責めている相手が誰なのか。

 時間が経てば、また藤崎に対しても怒りを持つこともあるかもしれない。

 だが今の柊吾は、藤崎が撫子のことで心を砕いてくれたのが嬉しかった。その気持ちを素直に認めて、受けとめればいいと思う。

「……克仁さんは最終的には僕と袂を分かつにしても、〝アソビ〟開始以前から、僕の指示に従って下さいました。その理由は、僕が撫子さんと風見さんを救う為だと説明したからです。……柊吾君。撫子さんは、君に救われました」

 和泉が、ひたと柊吾を見た。

 柊吾は思わずたじろいでしまい、咄嗟に返す言葉が出てこない。

「君は、撫子さんとたくさん話が出来たのでしょう? 今までに君が彼女の傍にいた時間は長かったですが、その時間に見合う分だけ、君達の言葉が足りていたとは思えません。その空白を、君はほんの少しだけ埋められました」

「それは……そうかも、しれねえけど」

「撫子さんは、もう大丈夫ですよ。僕が保障しましょう」

 和泉は言う。朗らかな微笑は、本心から撫子の未来が守られたことを安堵しているように見えて、柊吾の中で、怒りが、揺らいだ。

 本当に、卑怯で、狡い相手だった。

 ……善人のように笑うから、こちらは怒り続けていられない。

「イズミさんに保障されたって、そんなんじゃ全然安心できません」

「その台詞は、君の本心とは異なりますね。君は撫子さんを幸せにしたいと思っているではありませんか。僕の言葉が保障にならないと言うのなら、君自身が撫子さんの保障になれば良いのです。本心では君だって、その心積もりでいるのでしょう?」

「ちょっ、イズミさん、待った、待った」

 この異邦人の好きなように喋らせていたら、こちらの分がどんどん悪くなってしまう。まごついた柊吾へ、和泉はさらに言い募る。

「それに、撫子さんがこの先も大丈夫だという保障なら、他ならぬ君が彼女に植え付けたのですよ。分かりませんか?」

「俺が? ……何を?」

 柊吾には、心当たりがなかった。

 首を捻っていると、和泉は何だか呆れに似た笑みを覗かせた。

「君は、撫子さんに言いましたよ。『撫子さんがいなければ、生きていけない』と。同い年の男の子からこんな泣き言で迫られたら、うかうかと自殺なんて考えてはいられませんよ。君なら、後追いしかねませんから」

「……」

 頬が、熱を持った。居た堪れなさと羞恥心で、頭の中がいっぱいになる。かといって逃げるわけにもいかず、反論する余地もない。全て事実だからだ。後追いしかねないという、怒ってもいい部分まで含めてだ。

「彼女は謂わば、君の為に生きる責任を持ちました。だから僕は〝言挙げ〟したのです。撫子さんは、もう大丈夫です、と。彼女はきっと、前を見据えて生きていけます。この力をもっと強いものへと支えていくのは、彼女をこの世に繋ぎ止めた、君の責任と言えましょう。とはいっても彼女自身、本気で自殺を考えていたわけではないようですが、ともかく」

 和泉が、柊吾と撫子の二人を見た。

「良かったですね」

 ぽつん、と。

 ひどく孤独に、その台詞は響いた。

「君達はこれで、ずっと一緒に居られますよ」

 短い、台詞だった。

 だがその言葉の中には、凄絶なまでの哀愁がこもっていた。

 濃密な質量の未練が、悲嘆が、切望が、その一言に詰まっている。まるで失われた家族の絆を羨むような言葉に、柊吾は返す言葉がなかった。狂おしいほどの欠落が、和泉の胸にぽっかりと穴を空けていた。

 まるで、角の欠けた、鬼の面。

 欠けた鬼の角だって、心の一部には違いないのだ。

 欠ければそこは、何もない。空洞だ。代わりのものなんて、何もない。

 これは、そんな人間だからこそ、発せられる言葉だった。

「……イズミ君。彼等のことを、『妬ましい』と言っているように聞こえますよ」

 藤崎が、小さな溜息の後に言う。

 何となく、胸を衝かれる言葉だった。

 和泉のこの表情に、これ以上ないというほど適切な言葉。

 それは、妬みだ。

 仁愛に満ちた和装の異邦人に、最も似つかわしくない感情。

 この男にだけは、そんなもの、存在しないのだと思っていた。


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