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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 97

「それって昨日の放課後に、イズミさんが俺に教えてくれた言葉か……?」

「ええ。そうですよ、柊吾君。改めて説明しましょうか」

 和泉が背筋を伸ばし、心なしか声を張った。まるでこの場にいる全員の耳へ届くように、〝言挙げ〟を響かせているかのようだった。

「神が、かかる。神がかり。神のような圧倒的高次元の存在を、己の身体に降ろす行為。このように己の身体を貸し出すことによって、神の意向を俗世の人々に届けるという仲介と伝達の役割を果たす者を、一般的に女性であれば『巫女』、男性であれば『巫覡(ふげき)』、『憑巫(よりまし)』と呼びます」

 既視感が柊吾の中で、明確な強さを帯びていく。

 これが二度目の説明であることは、疑いようもなかった。

 藤崎が、溜息を吐いた。

「三浦君。世の中で一番恐ろしいものは、一体何だと思いますか」

「え? それは……」

 突飛な質問に当惑し、柊吾は口籠る。回答も思いつかなかった。

「僕には分かりますよ」

 さらりと気だるげに言う和泉を、「君には訊いていませんよ」と藤崎は軽くあしらうと、植物の茎を刃物ですっぱり切るような鋭さで、言った。

「答えは、生きている人間です」

「……」

 すう、と胃の底が冷たくなった。

 ――生きている、人間。

「生きている人間には、肉体があります。五体満足の身体であれば、自由の利く手足があり、どんな悪意でも口にできる、発声器官も備えています。人を欺き陥れる、悪辣極まりない企ても、容易に実現できましょう。――生者は、何でも出来てしまうのですよ。それに対し、死者は何も出来ません。肉体を失っていますから。死人に口なしとの言葉通り、発声器官も持ちません。実体のない死者よりも、肉の器を持つ生者の方が、誰より、何より、恐ろしい」

「……」

 ――三浦くんは、分かってない。

 かつて撫子から言われた言葉を、柊吾は何度でも思い出す。

 ――三浦くん。女の子は、怖いよ。三浦くんが思ってる以上に、何でもするよ。嫌なことも、汚いことも、考えるよ。

 その通りだと、今なら思う。この世界には、柊吾の知らない貌がある。それだけが、全てではないとしても。

「つまり、人間は――」

 藤崎がさらに言葉を継ぎ、柊吾は身を硬くしたが、唇を結んで覚悟を決めた。

 どんなに残酷な〝言挙げ〟でも、受け止めようと思ったのだ。それを知ったところで柊吾に何も為せなくとも、知らなくてはと思ったのだ。

 撫子や美也子が知っていて、柊吾の知らない、世界の貌を。

 だが、次の藤崎の台詞には、柊吾の覚悟したような惨さはなかった。

「人間は、生きている限りにおいて、死者より遙かに強いのです」

「……」

 柊吾は瞠目し、藤崎は眦に皺を寄せて微笑んだ。長い年月を経て屹立する樹木のような、逞しさと包容力を併せ持った笑みだった。

「先の説明の通り、死者には肉体がありませんから。肉体を持つ人間には、どう足掻いても対抗など、出来るわけがないのですよ。たとえ幽玄の存在が現れようとも、我々は誰一人として負けませんよ。……但し、人間の心と身体は繋がっているものですから。心身が弱っていれば、其の限りではないのでしょう」

 最後の台詞だけ、藤崎の声音が沈み込む。

 それから「可哀そうに」とぽつりと言う。

「撫子さんは恐らく、良からぬものを身体に取り込んでしまったのでしょう。彼女の意思に関わらず、その瞳を媒介にして」

「取り込む? 瞳を、媒介に……? それって、雨宮の身体は『呉野貞枝』に乗っ取られてたってことですか?」

「三浦、その解釈は似てるけど、ちょっと違う」

 身を乗り出さんばかりの柊吾へ、反論したのは拓海だ。

「雨宮さんに起こった現象は、ただ単に身体を乗っ取られるだけの憑依現象じゃない。さっきの『神がかり』の説明に出てきた『巫女』や『巫覡』、『憑巫』って呼ばれる人達のことを思い出してほしい。イズミさんが言ったように、この人達は自分の身体に降ろした〝モノ〟の意思とか言葉を、俗世の人達へ代わりに伝えるのが役目なんだ」

「……。代わりに、伝える?」

 またしても強烈な既視感から、柊吾は顔色を変えた。

 ――『代わりに』、伝える。

 この一言から、柊吾はポニーテールの少女を連想したのだ。

 ――佐々木和音。

 何故この局面で和音なのかは、我ながら不思議だった。だが、何かが引っかかって仕方なかった。

「どうして雨宮さんは、九年前の再現のような行動を取ったのか。そんな疑問を持った時、俺はこの現象の名前はただの霊の憑依現象ではなく、『神がかり』の方が適切だと感じました。三浦、突飛なことを言うけど、聞いてほしい。特別な『目』を持つ雨宮さんは今、『神がかり』を実行できる『巫女』の体質に、限りなく近い状態なんだと思う」

「巫女……っ? 雨宮が?」

 あまりに吃驚し過ぎて、声が上ずってしまった。

 当の撫子はというと、柊吾の腕の中でどこかきょとんとした様子だ。話は聞こえていないだろうが、異様な雰囲気は察しているのかもしれない。

「もちろん、雨宮さんのそれは、本当の『神がかり』とも『巫女』とも全く違うものだと思う。それに身体に降ろしたものだって、神でも幽霊でもないよ」

 拓海は念押しのようにそう告げると、全ての迷いを断ち切るように息を短く吸ってから、和泉と克仁へ、向き直った。

「イズミさんはさっき、幽霊を信じないと言いました。じゃあこの泉に残ったものは何なのかって考えたら、それを『残留思念』だと暫定した上で、もしそういった人の心の『傷』みたいに『読み取ることなんて出来ないはずのもの』を『読み取る』異能が存在するなら、それは信じられると言いました。――そんな風に、『あり得ない』ものを『見てしまう』瞳。克仁さんの異能に、限りなく近い力を持った瞳。それが、雨宮さんの目です」

 その〝言挙げ〟の瞬間だった。

 森に強い冷風が吹き荒れて、夥しい数の枯葉が宙を舞った。

 無数の黒い影は蝙蝠の大群が飛び立つように、濃紺の空の彼方へ昇っていく。鴉がどこかで鳴き始めた。咆哮のような声だった。この森の自然全てが何らかの意思を携えて、魂の軋みを訴えているかのようだった。

「……!」

 柊吾はとにかく、撫子を腕で庇った。黒いカッターナイフのような薄い枯葉が何度も頬を掠めていき、思わず目を眇めてしまう。

「中二の初夏の事件で、雨宮さんは目を患いました。それは、呉野氷花さんの〝言霊〟の所為です。異能が原因で病んだ瞳は、『人の姿が見えなくなる』という特性を備えました。これはつまり言い換えれば、『瞳のピントが、現実世界の人間とは、別の場所に合っている』ということです。さらに別の言い方をするなら、『見えなく』なった人間の代わりに、違うものが『見えている』ということにもなります。そうですよね、克仁さん?」

 黒い枯葉の乱舞の中で、拓海の髪と白シャツも風に踊るのが垣間見えた。水を向けられた藤崎は、同じ風に嬲られながら、拓海を激励するように頷いた。その口角は僅かだが上がっていて、柊吾は単純に驚いた。今を楽しんでいたのは、和泉だけではなかったのだ。

「克仁さんの目に『心の傷』が見えるように、雨宮さんの特別な目にも『本来なら見えないはずのモノ』が見えてしまったんです。雨宮さんは元々身体が丈夫じゃない上に、呉野さんの〝言霊〟で弱ってました。並みの人間が持つような抵抗力はありません。それにイズミさんだって言いました。東袴塚学園で、風見さん母子の〝フォリア・ドゥ〟が分かった時に、風見さんの母親について、確かに俺に言いました。――『人は弱い生き物です。より強いモノが現れれば、たちまち淘汰されてしまう』」

 頬を叩く枯葉を厭わず、拓海は次に和泉を見た。

 黒い洪水に呑まれることなく、和泉は淡い笑みを返すだけだ。灰茶の髪が、橙の光を照り返す。白い着物が、浅葱の袴が、蝶の羽のようにはためいた。

「普通の健康な人間なら、克仁さんがさっき言ったみたいに、幽霊とか、俺達が知覚できないこの世のモノじゃない存在よりも、確かに強いのかもしれません。……でも、心も身体も衰弱しきった人間は、そういうわけにはいかないんだ」

 くっと拓海は、顔を上げた。

 黒に侵される世界に響いた〝言挙げ〟に、もし色彩があるのなら、その色はきっと白い光だ。真っ暗なトンネルの果てに見える、燦然と輝く出口の光だ。疾走感に背を押されながら、漠然と柊吾はそう思った。

「雨宮さんは、特別な瞳を媒介にして、身体に『貞枝さん』を降ろしました。この雨宮さんの状態を『巫女』と例えるなら、『貞枝さん』の正体は『神のような高次元の存在』となります。でも、この泉には何も居ません。何にも、居ないんです。呉野杏花さんが九年前に、『皆、居なくなっちゃえ』って言ったから。何かが居るわけがないんです。『巫女』が降ろせるようなものは、ここには、何も、居ないんです!」

 強く、拓海は繰り返した。何度も、何度も、繰り返した。身体に言葉が、沁み込むほどに。そこに込められた魂が、胸を強く打つほどに。

 何も、居ない。その台詞を、柊吾も舌の上で転がした。

 ――何も、居ない。

 ――この泉には、何も、居ない。

「じゃあ、雨宮さんが降ろした『貞枝さん』とは何なのか。ここに霊魂が残ってないなら、それでも残り得るものは感情くらいしかありません。それは克仁さんの目で見える『心の傷』のような情念、観念、残留思念――そういった、『存在は明らかだけど、決して誰の目にも見ることが不可能なもの』だと言えます」

 語りに呼応するように、やがて暴風は収束を見せ始めた。

 荒ぶる御魂が静まるように、森が落ち着きを取り戻していく。

「雨宮さんは特殊な目を持ったことで、『何もない』はずのものを、『神がかり』で降ろしていたんです。『あり得ない存在』を、『本当は居るわけがないもの』を、『巫女』として身体に降ろして、『居もしない』存在の代わりに、周囲へ伝え続けていたんです。本当なら伝えようがないものを、雨宮さん本人の意思に関わらず、伝え続けていたんです。……雨宮さんの身に起こった現象が『神がかり』で正しいなら、いろんな事に説明がつきます」

 拓海が深く息を吸いこんで、乱れた呼吸を整える。

 そして一拍の間を置いてから、引き続き淡々と〝言挙げ〟した。

「――まず、三浦達が証言してた神社の空気の禍々しさ。どうして異能を持たない人間まで、気分が悪くなるほどに空気の質が変わったのか。それは雨宮さんの存在が、『神がかり』によって読み取ったものを、可視化、具現化した所為です。……この森は、惨劇のあった場所だから。ここで生まれた感情も、悲しいものばかりだったから」

 悲しみの感情が血液のように、拓海の声に薄く滲む。

 その傷を痛みとして引き受けたような顔のまま、悲愴感だけは置き去りにして、声が、魂が、走り出す。

「次に、消えた〝包丁〟と、見つからなかった刃物やトラップ。これらがどうして、跡形もなく消えたのか。その理由を俺はさっき『鏡』を投げ入れた所為だと説明しましたが、それはイコール、『雨宮さんの『神がかり』が、俺が泉に投げ入れた『鏡』によって、強制終了された』からです。九年前の再現は、これによって断たれました。雨宮さんという仲介点を失った幻は、ただの幻に還りました」

 拓海は肩で息をついて、最後に小さな泉へ目を向けた。

 直向きな瞳だった。真摯ですらあった。墓前に花を手向けるような静謐な心を携えて、かつてのイズミ・イヴァーノヴィチのように、拓海は畔に立っている。九年前の青年の後を引き継いだ立ち姿の眩しさは、話にだけ聞いていた呉野國徳の存在を、柊吾へ鮮烈に想起させた。脈々と受け継がれていく血の流れを、目の当たりにしたようだった。

 夜を燦然と切り拓くような強さは、やがて着物の帯を解くような緩やかさで、落ち着いたものへと変わっていく。

 拓海はまるで手鞠をつくような優しさで、それでいて凛と清かな響きの声で、一連の〝言挙げ〟を締め括った。


「あれらは全部、まがい物の『神がかり』によって九年前の惨劇が再現された、偽物、幻です。本当は何一つ、この世界に残るわけがないんだ」


 因縁という名の仇を討つような、決意表明とも、宣戦布告とも取れる〝言挙げ〟に、攻撃的な尖りはなかった。ただ水面へ花を浮かべるような、粛然とした悼みがあるだけだ。

「……」

 風は完全に止み、場には沈黙が降りていた。

 誰も、言葉を発しなかった。耐え難い沈黙では、決してなかった。祭りの終わりのような気怠さが、全員の緊張を等しく包み、昂った心を宥めていく。疲労と充足感とがない交ぜになって、夏の夕暮れのような懐かしい匂いを伴いながら、辺りへ緩く延べ広がった。

 そんな雰囲気に声を溶かすように、柊吾はぽつりと、小声で言う。

「坂上、それは、つまり……」

 これを確認するには、少しの勇気が必要だった。

 戸惑いながら、幾ばくかの恐怖も覚えながら、それでも柊吾は逸る心に全ての躊躇を打ち負かされて、ついに、それを、口にした。

「……本当は、何もなかった、ってことなのか……?」

 鎮守の森の、小さな泉。

 貞枝が九年前に消えた場所で、撫子が〝包丁〟を持って立った場所。

 問題の〝包丁〟は、拓海の捜索では見つからなかった。

 そして、このまま二度と、見つからない。

 本当に、それを信じていいのだろうか。不安に揺れる胸の内に、柊吾は恐れ以外の感情も見つけていた。その名はきっと、希望なのだ。真っ黒なクレヨンで塗り込められたような世界の中に、一条の光を見た気がした。

「雨宮が握ってた〝包丁〟も……あの時、様子が変わったのも……この『目』が雨宮に『見せた』、性質の悪い幻覚みたいなもので……本当は、何もなかったってことなのか……?」

 答えを待つ沈黙は、そう長くは続かなかった。

 拓海が、微笑んで言ったからだ。

「……俺は、そう思ってるよ」

 身体の強張りが瞬く間に解けていき、次いで眩暈のような急激な安堵が襲ってきた。熱い奔流となって胸に迫ったその激情は、この森で風見美也子に対して抱いた殺意以上の温度で、あの時よりもずっと温かに、柊吾の胸にじんと沁みた。びっくりするくらいに頭の中に感情が溢れてしまい、一瞬、息もできなかった。

「……よかった……」

 やっとのことで、柊吾はそれだけを絞り出す。

 ――これで、撫子が抱いた罪の意識を、一つでも取り除いてやれるのだ。

 懇々と湧水のように込み上げてきた喜びを、柊吾はひっそりと噛みしめていたが……やがて、どっと疲れが押し寄せた。

「巫女、巫覡、神がかりって……イズミさん、最初から俺にヒントをくれてたつもりなんですか? 俺が昨日の放課後に、この場所に来た時から」

「ええ。そんな所ですよ」

 しかめっ面になる柊吾へ、和泉は照れ隠しのように破顔した。

「正確には君ではなく、拓海君へのヒントでした。君はこの情報を〝アソビ〟の渦中で一度思い出して、メンバー内で話題にしましたね。この未来を形作る為に必要なものを、僕も君達の間に立って、仲介、伝達していたというわけです」

「……イズミさんって、どこまでも面倒くせぇ」

 そう悪態を吐いてから、「待てよ」と柊吾は我に返った。

 さっきの謎解きに一つ、解せない点を見つけたのだ。

「雨宮は結局、坂上が言った『神がかり』で『呉野貞枝』って仮の名前の……えっと、雨宮の目にしか『見えない』観念みたいなのに身体を貸しちまって、その性質があんまり良くねえから、悪いものが実体化した……ってことだよな? 結局それって言い方が違うだけで、雨宮に異能があるって言ってるように聞こえるんだけど……」

 柊吾自身、先程の〝オニノメツキ〟について話された時は、己の異能を疑った。撫子についても『神がかり』だと言われるよりは、そういった能力なのだと言われる方が、すんなり頭に入ってくる。

 だが、それは要らぬ心配だったようだ。

「三浦、大丈夫。って言い方は変だけど。雨宮さんに異能はないよ」

 拓海が穏やかに答えると、それを和泉も笑みでもって肯定した。藤崎も「然う云えば〝同胞〟についてのおさらいがまだでしたね」と頷いてから、説明役を担ってくれた。

「例えば、然うですね。何度も解説がありましたが、私の異能は人の心の『傷』が見えるというものです。しかし万人の『傷』が見えるわけではありません。現に、其処に居るイズミ君の抱える『傷』は、私の目には見えません」

 藤崎が、和泉へ視線を投げる。応えた和泉は肩を竦めた。

 ――藤崎の異能は、和泉には効かないのだ。

「此のように、何故『傷』が見える相手と、然うでない相手が居るのか。其の理由は、イズミ君も私と同じ、異能を持つ者だからです。――互いに異能を持つ者同士は、異能による干渉が不可能。此れこそが、呉野の一族が長年に渡って異能者を輩出するうちに、自ずと掴んだ法則です」

「氷花さんが僕のことを『いつか殺す』と息巻きながら、〝言霊〟で殺せないのはその為です。僕の愚かで小物の妹の情けない体たらくは、同居を機に毎日拝めるようになりました」

 今にも口笛でも吹きそうな暢気さで、和泉が笑う。柊吾は氷花への同情半分、和泉への呆れ半分で黙るしかない。「兎も角」、と藤崎が咳払いした。

「私の目には依然として、撫子さんの〝鋏〟が見えています。撫子さんが私のように異能を持つ人間ならば、この〝鋏〟は決して見えない筈のものです。……呉野の同胞識別の法則に従うなら、の話ですが」

「……? もしかしてこの法則、何か間違ってたりするんですか?」

「いいえ。概ね間違ってはいませんよ。但し、同胞間では異能は効かないという大前提は、異能の家系、呉野の人間達の経験から得た解釈ですから。例外もあるという事です」

 平然とした口調で、藤崎は言う。だがその顔には何故だか自嘲めいた諦念が、はっきりと分かる苦さで浮かんでいた。

「……九年前に、呉野貞枝さんは消えました。イヴァンを亡き者にして、呉野伊槻さんを道連れにして、六歳の我が子を――『生まれ変わったら花になりたい』という凄絶な切望を口にした、あどけない我が子だけを、現に残して」

「生まれ変わったら……花に……」

 柊吾には、それを口にする氷花の姿を想像できなかった。柊吾の知る呉野氷花は、悪辣で、傲慢で、それでいて怖がりな、同い年の少女だ。

 だから、どうしても思うのだ。

 杏花が、氷花のように思えない。まるで違う人間のように感じてしまう。

 柊吾の知る氷花は、こんなにも生に絶望している少女ではなかった。もっと生きることに貪欲で、悲しみなんてどこ吹く風で、我が道を突き進むのが氷花だ。

 だが柊吾がどう思おうとも、現実に氷花は言ったのだ。

 ――生まれ変わったら、花になりたい。

 水墨画のような色彩に乏しい世界で、泣く幼女の姿が脳裏に浮かんだ。まだ悪辣な笑みを覚える前の、己を杏花だと信じていた、純真無垢な呉野氷花が、悲しみに溺れて泣いている。

 壮烈な虚無が、そこにあった。それはきっと、六歳という幼い魂が知るべきではない空白だ。そこに埋めるべきものを、誰かが意図的に取り上げて、本来与えるべきではないものを、無理やりに押し込んだ。そんな気が、不意にした。

「……三浦君も知っているかもしれませんが、〝言霊〟の異能を持つ氷花さんの母親である貞枝さん自身も、異能を持っていたのですよ。其の異能は他の一族の者に比べると、ごく小さな力であったようですが……其れでも、彼女は〝同胞〟でした」

 藤崎が、気遣わしげに囁いた。氷花を労わっているのか、それとも氷花と杏花へ想いを馳せた、柊吾を労わっているのか。なんとなく、後者な気がした。

「呉野貞枝は……どんな異能を、持ってたんですか」

 慎重に、柊吾は訊いた。

 思えば貞枝の異能に目を向けたことは、今まで一度もなかった。

「本当に、ささやかな能力だったようですよ」

 答えてくれたのは、和泉だった。

「彼女の異能は、他者の霊感の有無を識別する程度の力です。おはじきを戯れに指で弾くように、彼女は己とすれ違った人達の能力を、ただ眺め、傍観者として通り過ぎ、己の異能を生涯口外しませんでした。その秘密は遺書によって初めて明らかになり、現世に解き放たれたのです」

 繊細な哀愁が、和泉の青い瞳の内で、川面の灯篭のように揺れた気がした。それに気づいてしまった所為で、柊吾の胸が予期せず痛んだ。

 この和泉の顔は今度こそ、正真正銘、死者を悼む顔だった。

「……三浦君。貞枝さんは九年前、恐らくは氷花さんの〝言霊〟を、受け入れる気だったのですよ」

 藤崎が、溜息をついてから言った。

 何かを諦めるような嘆息ばかりが、藤崎の唇から零れている。

「氷花さんの異能によって己の身がどんな破滅に向かおうとも、其の異能への拒絶と抵抗は、旅立ちのあの瞬間、貞枝さんの心には無かったのです。――魂の込められた言葉を、其のまま全て、受け入れる事。其れこそが、〝同胞〟同士であっても己が異能を相手にぶつける為に、必要な条件なのではないか、と。推測する事は、可能ですが……」

「やはりそれは、憶測の域を出ませんから。せめてもう一例ほど実例を見ない事には、断言するには厳しい。でしたね、克仁さん?」

「……」

 藤崎が、真顔で和泉を見た。

 和泉は、やはり先と同じ顔で笑っていた。柊吾は、今度は胸騒ぎを覚えた。

 ――またしても和泉は、死者を悼む顔だった。

 ――――誰を、悼む顔をしている?

 鋭い猜疑が、柊吾の中で、鎌首をもたげた。

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