花一匁 91
鎮守の森の最奥。泉の正面に縁側を構えた、誰からも存在を忘れ去られたような襤褸屋。
遠目に窺える障子戸には、暈けた光が行燈のように灯っていた。
光源は、縁側の奥の障子戸だ。薄い和紙を透かせた光は暮れ行く空のような橙で、周辺からはむせ返るような緑の匂いと、差時代錯誤な赴きと、退廃の気配とが満ちていた。障子戸の内側で日本髪の女達が百物語に興じていても、何の不思議もない気がした。
柊吾達は、黙々と歩いた。先頭を神主である呉野和泉、その次に拓海、柊吾と撫子の順に続き、最後尾を藤崎が歩いた。暗緑色の深い森を無言で一列で行く様は、まるで東袴塚学園でイズミから聞かされた、山伏の話を柊吾に連想させていた。
山に、伏す。山伏。古来より神聖視された山中で、厳しい修行によって徳を得るという信仰。天狗の装いは山伏のそれと同じだと、柊吾は漠然と回想する。
この山にも、柊吾には想像もつかない霊的な力があるのだろうか。
歩き続けてほどなくすると、襤褸屋の異様な様相が、夜闇にありありと浮かび上がった。
「これは……」
思わず呟いた柊吾の肌に、鳥肌が立つ。
縁側を臨む障子戸には、幾つもの穴が穿たれていたのだ。
子供の悪戯、には見えなかった。そもそもこの家には障子に穴を空けて喜ぶような、幼い子供はいないのだ。鋭く尖った感情の具現のような生々しさから、柊吾はこの場所に居た〝鬼〟の少女の存在と、拓海が昨年の夏に語ってくれた、昔話を思い出す。
九年前の、夏の罪。
普段は誰もが忘れていて、意識などしていない。
だが、少なくともこの場所は――人が一人、死んだ場所だ。
「……」
風に嬲られた木々の梢が、一斉に騒ぎ声を立て始める。女の嗤い声のようだった。気の所為か項の辺りに視線を感じて、背中の産毛がちりちりする。盗み見のように背後を向けば、藤崎の傍で泉の水面が、月光を映して輝いた。波紋が丸く広がって、何だか背筋が寒くなる。柊吾は恐れを振り払うように首を振ると、両腕で抱えた撫子を見下ろした。
この状況は、視界が塞がっている撫子の方が、より怖いに決まっている。
「……大丈夫か?」
顔を寄せて、小声で訊いた。
先程から同じ言葉を、こまめにかけ続けていた。森の入り口で恭嗣と別れてから、五回以上は訊いたと思う。
だが撫子は、ついに返事をしなくなった。
柊吾の首に腕を回したまま、不安そうに震えている。白い目隠し布が、怯えを表すように小さく揺れた。
「……」
考えた後に、柊吾は撫子の肩に沿えた手の指先で、華奢な身体をとんと叩いた。
小さな首肯が返ってきたので、気持ちだけは、通じ合えたと信じたい。
「……雨宮さん、まさか」
先を歩いていた拓海が振り向き、一目で事態を見抜いてくる。
「ああ。……俺も、ここまでみたいだ」
心の内では辛かったが、予想の範疇ではあった。
むしろ、ここまで粘れただけでも喜ぶべきだ。撫子の目が『見えなく』なった当初よりも、柊吾が『見える』時間が伸びている。
「ユキツグ叔父さんに十五分って言われた時は、無茶だって思ったけど……雨宮にとっては、それで良かったんだと思う」
多分だが撫子は、ここに長居しない方がいいのだろう。
それを、十二分に承知の上で――柊吾には、譲れない思いがある。
「坂上。間で少しだけ俺にも時間をくれ。イズミさんに直接言いたい事がある」
「ん、いいよ」
断られるかと思ったが、拓海は了承してくれた。
「……短く済ませる」
低く呟き返した柊吾は、泉の畔を通過する。襤褸屋の手前、縁側の真正面まで歩いたところで、拓海と揃って足を止めた。
その先を行く異邦人は、足を止めはしなかった。悠々と庭へ入っていくと、縁側へ腰かけてから、顔を上げて莞爾する。
最後尾にいた藤崎は、己の立ち位置を探るように、ぐるりと辺りを見回した。そして畔には留まらず、さりとて縁側にも行かなかった。襤褸屋の玄関付近に立ち、そこで歩みを止めている。
丁度、柊吾と和泉の中間地点の位置だった。
「……」
まるで対立するように、自然と立ち位置が分かれていた。
これが、正しい配置なのだ。そう柊吾は直感した。和泉と藤崎は確かに結託していたが、その志す所が同じだとは、さすがにもう思えない。
「拓海君。君がまさか、抜け道を知っているとは思いませんでした」
出し抜けに、和泉が言った。
どこか人を喰ったような口ぶりだ。愉しげな口調に応えて、拓海も勝気な笑みを見せる。その笑みの質は柊吾に篠田七瀬を思わせた。
拓海は、確実に変化した。
柊吾も第三者の目で見たならば、きっと何かが変化している。
「あの道を実際に使ったのは初めてです。結構すごい虫もいたから、できればもう使いたくないですね」
「おやおや。近年の若者は軟弱ですね。山暮らしに一たび慣れれば、虫など可愛いものですよ」
「そうですか。じゃあイズミさんの家は今、悲鳴が絶えなくて賑やかなんじゃないですか?」
拓海の声に、和泉の表情が刹那止まる。
灰茶の髪が僅かな身じろぎに合わせて揺れた直後、にこりと貼り付けたような笑みが、異邦人の美貌に乗る。
「意味が分かりかねますね。拓海君、言葉が足りていないようです。一体誰の悲鳴です? 捕捉の〝言挙げ〟をどうぞ」
「はっきり言っていいんですね? 三浦を怒らせることになりますよ」
「俺が?」
突然槍玉に挙げられた柊吾は、意味が全く分からない。
「三浦、黙っててごめん。俺がこれを確信したのは、〝アソビ〟の後で克仁さんの家に入った時なんだ」
目だけで振り返ってきた拓海は柊吾へ囁き、縁側へ厳しい表情を向けた。
「イズミさん。役者は揃ってなんかいません。あと一人を連れてきて下さい」
「はて、それは何方でしょう?」
「呉野氷花さんのことです」
その名に柊吾は、はっとした。
――呉野氷花。
この〝アソビ〟の始まりに関わり、そして終わりへ導いた少女。
氷花の不在を忘れたわけではなかったが、柊吾はこの尋問の席に和泉と藤崎が着いたことで、満足していた節がある。忘れていい相手ではないので、柊吾も障子戸の穴の向こうへ厳しい視線を投げかけた。
――あの〝アソビ〟が終わった時、氷花はこの家へ逃げ込んだ。
「氷花さんも出して下さい。この家にいますよね?」
物怖じせずに、拓海が言う。十五の少年が発した毅然とした〝言挙げ〟に、二十七の男は全く悪びれた風もなく、飄々とした笑みを返す。
「拓海君。確かに僕は彼女を匿い、氷花さんはここから顔を出して〝アソビ〟を終わらせてみせました。その後に再び家に引っ込んだのは、皆さんも御覧の通りです。ですがその後もここに居るのだと、どうして君は疑うのです? もう〝アソビ〟はおしまいですから、匿う理由もありませんよ」
白々しい言い逃れだった。完全犯罪を遂行した殺人犯のような余裕の態度はいっそ清々しいほどで、柊吾は頭に血が上る。
「イズミさん。時間の無駄です。証拠はもう上がってるんです」
拓海はあくまで冷静な態度を崩さなかった。往生際悪く逃げようとする犯人を追いつめるように、淡々と〝言挙げ〟を重ねていく。
「〝アソビ〟が終わってから俺達は、克仁さんの家に行きました。篠田さんは泉に飛び込んだし、それを抜きにしても全員が疲弊していたので、一度休む必要があったからです」
「それは良い処置ですね。七瀬さんも御無事なようで何よりです」
和泉は労いを述べてから、やや含みのある目つきになった。
「ですが君、体力をかなり消耗したのでは? あの家まで七瀬さんを運ぶのは相当大変だったでしょう。一つ予言をしておきましょう。君、明日は一日動けませんよ。七瀬さんも同様です。受験も終わったことですし、ゆっくりと静養して下さい。柊吾君、君達も明日は東袴塚学園の二人を頼れませんよ。残されたメンバーで、役割分担を相談すれば宜しいかと」
「俺のことはいいです。とにかく」
差し伸べられた手を振り払うように、拓海が話を戻した。
「克仁さんの家に着いた俺は、篠田さんのことを佐々木さんに任せてから、家の中をざっと一通り見に行きました。その理由は、荒らされた家の中から今回の事件について何か手がかりを得られるかもしれないからです。それに篠田さん達には黙ってたけど、俺にとって克仁さんの家に向かった最大の理由は、あの家を調べたかったからなんです」
その内容は、柊吾にとって初耳だ。柊吾が撫子と共に〝アソビ〟の場から離脱した後の出来事だろう。固唾を呑んで聞いていると、拓海は厳かに言った。
「そして俺は、意外な真実に気づきました」
「君が何を見つけたのか、聞かせて頂きましょう」
和泉が薄ら笑い、拓海はそんな和泉を見つめ返す。襤褸屋に灯る煌々とした橙が、その瞳で揺れていた。背に薄明かりを受けた異邦人の全身も、同じ色に染まっていた。二人は同じ灯りに照らされながら、互いだけを見つめていた。一触即発の空気の中で、柊吾は息を詰めて見守った。
……この戦いの場に拓海がいて、本当によかったと感じていた。
おそらく柊吾一人では、和泉に太刀打ちできなかった。
「結論から、先に言います」
落ち着いた口調で、だがはっきりと拓海は告げた。
「呉野氷花さんは、もうあの家に住んでいません。それも、だいぶ以前から。違いますか」
「……な」
柊吾は、愕然と口を開けた。
「大体の時期も特定できます。氷花さんがイズミさんとこの襤褸屋で暮らすことになった場合を想定するだけで、答えは簡単に出てきます」
「君、さりげなく僕と御父様の家を襤褸屋だと言いましたね? まあいいでしょう。続けて下さい」
「呉野氷花さんは、祖父である呉野國徳さんとは同居できません。生前の國徳さんが、それを拒んでいたからです。かつて己の家族を破滅させるきっかけとなった少女と、毎日を一緒に過ごすことはできません。――つまり。國徳さんが逝去された後なら、イズミさんと氷花さんは、一緒に暮らせることになります」
拓海の言葉は揺るがなかった。光のように冴え渡った眼差しで、暗がりに隠された真実を、次々に照らし出していく。〝言挙げ〟されたその名前に、柊吾は再び驚いた。
――呉野國徳。
訃報は、最近知ったばかりだった。時期は、確か、去年の――。
「國徳さんが亡くなられたのは、去年の九月です。俺がイズミさん達の過去を知った八月の、約一ヶ月後だったそうですね」
この時の拓海の台詞には、どこか他人を詰るような響きがあった。そんな友人の心の動きが、柊吾には手に取るように理解できた。
もし、拓海の推理が正しいなら――これは到底、許せるようなことではない。
「呉野氷花さんの養父は、ここにいる藤崎克仁さんです。二人は九年前から同居していた。でも、それがどこかの時点で変わったんだ。二人はもう同じ家に住んでいない。俺達が知らないうちに、同居は解消されてたんだ。呉野氷花さんは、〝アソビ〟が始まるよりもずっと前から、國徳さんが亡くなられた九月から、この家に――神社の家に、戻っていたんだ」
「君の推論の根拠は?」
肯定も否定もしない和泉は、常のように微笑んだ。
「制服が、ありませんでした」
拓海は少し言いにくそうに、やがてその憚りを捨てるように答えた。
「俺は一度、氷花さんの部屋を見ています。去年の夏、俺がイズミさんに呼び出されたあの部屋です。イズミさんの瞳には、氷の花が降っているように見える……綺麗な花が降る、あの部屋です」
和泉が沈黙し、同じく黙していた藤崎が、僅かに目を見開いた。もしかしたら藤崎は、拓海がこんな話し方をするところを、初めて見たのかもしれなかった。
「あの夏の日には、氷花さんの部屋の壁に東袴塚学園のセーラー服が吊るしてあったのを覚えています。同じような習慣の持ち主であれば、現在は壁に袴塚中学の制服がかかっているべきです」
「根拠としては弱いのでは? そこに制服がないという事は、即ち制服を着て活動していると考えられます」
「なくなったのは制服だけじゃありません。文机の上にあった本、『罪と罰』もなくなってました」
――『罪と罰』
中学二年の初夏。柊吾の生き方を鮮烈に塗り変えていった、氷花との衝突。その象徴とも呼ぶべき本は、柊吾にとって世界との戦い方を初めて示してくれた『武器』だった。
「あれは氷花さんの私物ですよね? 上巻だけ適当に読んで下巻を読もうとしなかった氷花さんを、兄であるイズミさんが馬鹿にしたって話は聞いています。でもそれから時間が経って、氷花さんはこの本をこっそり読み進めていたそうですね。そんな氷花さんなら、転居先に本も持っていくと思います。自分を馬鹿にした兄を見返してやる為に」
「……」
「それにここまで具体的に言わなくても、あの場所は空き部屋同然にすかすかでした。他の部屋に移った様子もありません。それなのに氷花さんが住んでいた痕跡が消えたなら、住む家を移ったと考えるのが自然です」
「おい、坂上、それじゃあ……」
柊吾は、しゃがれた声で、口にした。
わなわなと、撫子を抱きかかえる腕が震えそうになる。軽く俯いただけで、撫子の頬に貼られたガーゼが目に飛び込んでくる。薄らいでいた憤りが、濃密に膨れ上がっていくのを感じた。
――この上まだ怒る事になろうとは、さすがに思ってもみなかった。
「ああ。そうだよ、三浦」
首肯した拓海は、とどめのように言った。
「イズミさん。克仁さん。俺が少し前に、氷花さんの異能についてお願いに行ったのを覚えていますか」
その語りを、柊吾だって覚えている。
受験前、拓海は柊吾達を心配して、大人へ交渉に出向いていた。
――氷花の異能が、柊吾達を巻き込まないように。
――もう二度と、撫子のような被害者を出さないように。
「その返事は当然、掛け合ってくれるというものでした。ゆっくり話し合っていると言われました。でも、実際には」
拓海が、大人達を睨んだ。
瞳に、悲痛な色が混じる。親から約束を破られた子供のような瞳で、だが正義感に支えられた声は、掠れることなく、夜に響いた。
「呉野氷花さんは、俺達の知らない間に住まいを変えていました。しかも氷花さんの異能が原因の〝アソビ〟も始まりました。その〝アソビ〟を終わらせたのも氷花さんだけど、その時の〝言挙げ〟の中身は、風見美也子さんにとって他人の俺から見ても、あまりに酷いものでした。――あの〝言霊〟の使い方を見た限り、イズミさん達は俺が頼んだ説得だって、していません。俺は、それを確信しました。多分、期待してたんです。イズミさん達は大人だから、氷花さんの保護者だから、対応してくれるって思い込んで、甘えていました。その前提が元々おかしかったなんて、事実に気付くまで分からなかった」
最後だけ感情の激しさが滲んだ声を、拓海はすぐに、取り繕った。
そして冷静さの戻った声で、「イズミさん」と短く呼ぶ。
「俺は、怒っています。だからイズミさん達が困るように、策を練りました」
「それは、君がこの場へ持ち込んだ物に、関係のある話ですね?」
「そうです。俺が持ってきた物くらい、説明しなくてもイズミさんなら分かりますよね」
異能者たる和泉は、微笑で以て返答とする。その段になって柊吾はようやく、今の拓海が手ぶらであると気がついた。
「坂上、あの荷物はどうしたんだ?」
「ああ。これから説明する」
低く小さな返答は、どこか凄みのある声だった。柊吾は少し、ぞっとした。
「イズミさんの指摘通り、俺はこの場所に抜け道を通ってやってきました」
拓海は、そう言って、背後の森をさし示す。
その方向へ柊吾も目を凝らしたが、多様な広葉樹の広がる黒い森の、どこに抜け道があるかは見えなかった。
「先回りをした俺は、ここで真っ先にある物を探しました。それが何だか分かりますか?」
「包丁でしょう?」
和泉は事もなげに答えたが、それは柊吾にとって予期せぬ言葉だった。
「包丁、だと……っ? なんで、そんな物っ」
度肝を抜かれた柊吾だが、それを詰問する前に、自分自身でも気づいていた。
――柊吾だって、その〝包丁〟を見たはずだ。
「……!」
肌が粟立った。弾かれたように、柊吾は泉の水面を振り返る。
暗く夜空を映した泉は、やはり鏡のようだった。水底の様子は全く見えない。
あの包丁のことを、柊吾は不思議なことに忘れていた。幻のように現れて消えた歪な凶器は、まるで消える定めであるかのように、記憶からも薄れていた。撫子の手にあんなものがあったことさえ、自然なことのように感じていた。
――今思えば、明らかに異様な感覚だった。
「仕方ないよ、三浦。あの〝包丁〟は、多分すぐに見えなくなったから」
拓海が慰めるように言ってきたが、こちらからは余裕がすっかり奪われてしまった。掴みかかるような勢いで、柊吾は拓海に詰め寄った。
「坂上……あれが本物の包丁だとしたら、なんで、雨宮は……っ」
――あんなものを、握っていた?
高所から落下したような浮遊感が、胃の底を押し上げる。吐き気にも似た緊張感がせり上がり、胸元を圧迫した。
「雨宮……」
腕の中の少女を見下ろし、柊吾は震える声で名を呼んだ。
返事が欲しくて、呼んだわけではなかった。むしろ逆だ。返事がない事を期待したのだ。ここからの説明が撫子本人の耳に入って、大丈夫なのかが分からない。撫子の『目』の欠陥に、こんな形で頼らざるを得なくなる。その矛盾も歯痒かった。
「三浦。大丈夫だから。少なくとも雨宮さんは、自分の意思であんな物を握ったわけじゃない」
拓海が諭すような口調で言って、話の軌道を元に戻した。
「イズミさん。あの包丁は、俺の見立てでは消滅しました。何かの条件が揃えばまた現れるかもしれないけど、少なくとも普通に生活してる限りは、俺達の目に触れることはありません。……ただし。雨宮さんが『見た』場合を除いては」
「雨宮が?」
意味が呑み込めなかったが、拓海はこの件についてはまだ掘り下げる気がないらしかった。
「雨宮さんについては、後でしっかり話しましょう。ともかく俺は〝包丁〟の存在が気がかりでした。頭では結論が出ているんです。ここをどんなに探しても、〝包丁〟は見つからない。けれどもしそれが俺の思い違いだった場合、ここには〝包丁〟が沈んだままということになります」
拓海は眉を下げて、一呼吸の間を開けた。
「――それでは、困るんです。雨宮さんはたとえ一瞬であったとしても、〝包丁〟を握ってしまったんだ。万一、雨宮さんのことを良く思っていない呉野氷花さんがその現場を見ていたら、ないとは思いたいですが雨宮さんを脅したり、警察に突き出したり、俺達にとって困ることに利用するかもしれません」
不意を衝かれ、柊吾は息を詰まらせた。
……そんな可能性は、考えてもみなかったのだ。
「俺はさっき少しだけ、雨宮さんが歩いていた辺りを重点的に、虫捕り網で水底をさらってみました。夜間だから見えづらいし、ちゃんと探し切れてないとは思いますが、〝包丁〟は見つかりませんでした。多分日中に探しにきても、結果は同じだと思います。〝包丁〟も、俺が投げ入れた物も。あとは他にも一つ、茂みに落ちていないか探してみた物もありますが、そちらについては後で話します」
そう報告した拓海の足は、よく見れば靴下を脱いでいた。今になって初めて気づき、柊吾は目を瞠ってしまう。ここへ到着してすぐに、行動を起こしてくれたのだろう。
「……君が投げ入れた物。それは一体何です?」
問いかけた和泉へ、打てば響くように拓海は答えた。
「『鏡』です」
端的な宣言とほぼ同時に、柊吾の脳裏にはあの瞬間の、鮮烈な光景が蘇った。
――撫子が正気を失い、ふらふらと泉の中央へ進んでいった、あの時。
機転を利かせた拓海が、黒いパスケースを投げてきた。
――あれは、篠田七瀬の『鏡』だった。
拓海と七瀬、東袴塚学園の二人が、柊吾達の仲間になるきっかけとも言うべき、二枚の『鏡』を巡る事件。氷花との衝突を経て砕け散った『鏡』の破片を、後に七瀬は神社で供養したと聞いている。
――たった一欠片、拓海がパスケースに持っていたものを除いては。
まだ分からないことだらけだが、柊吾にも一つだけ、仕組みが理解できていた。
「『坂上は守られてる』ってさっきイズミさん言ってたけど、そういう意味だったのか……」
かつて『合わせ鏡』と化した東袴塚学園から、七瀬の魂を守り抜いた鏡。
そして今回は、この泉に投げ入れたことで、撫子を正気に返した鏡。
おそらく拓海はこの『鏡』を『所有』していたことによって、先程和泉が言ったような神社を覆う禍々しさから、守られていたに違いない。一欠片の『鏡』の持つ絶大な守護の力に、柊吾は今更ながら感嘆した。
「もしかして、篠田のやつが失った『鏡』って、実はすげえ貴重なものだったんじゃないのか……?」
恐る恐る口にすると、和泉は何とも曖昧なニュアンスを滲ませて微笑した。
悲しみを笑みで誤魔化したようなその顔は、まるで死者を悼むような表情で、そんな風に感じた己に、ふと柊吾は疑問を持った。そしてすぐに、それが何故なのか気付いてしまう。
――この表情を、柊吾は一度見ているのだ。
昨日の放課後、神社を訪れた時に。今と全く同じ場所で、餅を焼いていた和泉へと、柊吾がお悔みを述べた時に――和泉は、こんな顔をした。
死者を悼む、顔をした。
「……拓海君。君は〝包丁〟を見つけた場合、どうする心算だったのです? 犯罪を隠匿するのですか?」
「犯罪ではありません。雨宮さんは確かに包丁を握りましたが、誰も殺していませんし、誰かを脅したわけでもありません。ただ無理やり握らされていた程度のことで、これ以上雨宮さんが傷つくような事態になるのは、絶対にあってはならないことです。俺はそれを防ぎにきました」
「だから君は、敵方である僕達より先に、この森を調べにきたのですか」
拓海が「はい」と、迷いのない目で頷いた。
「先回りした俺が、ここで何をしてたか。イズミさんなら言わなくても分かると思いますが、簡単に説明します。俺が持ってきた物には全て、名前が書かれていました。スコップの柄には『藤崎克仁』。軍手の方には『呉野和泉』とありました。バケツと虫捕り網にもそれぞれ名前が入っています」
名を挙げられた藤崎が、何故か苦虫を噛み潰したような顔になった。柊吾にはその渋面の意味するところが理解できず、撫子を抱えたまま戸惑った。
すると、和泉が愉快気に笑った。
「スコップが何故必要だったのかも、君に訊いてみたいところですが」
「それは後で話します」
「そう言うと思いましたよ。では、君に訊きましょう。僕と克仁さんの名が入った物たちを、一体どう使ったのです?」
拓海は頷き、こう答えた。
「泉に沈めました」
「……はあ?」
柊吾は、目を丸く見開く。
和泉は「おやおや」と言って優雅に笑い、目を細めた。
「どういう意図で、君はそんなことをしたのです?」
「イズミさん達を、困らせる為です」
きっぱりと、拓海は言った。
柊吾はまだ混乱したままだったが、次に続けられた拓海の冷酷な〝言挙げ〟を聞くにつれて、唖然と口を開けてしまった。
「万一、風見美也子さんの件や、呉野氷花さんの告発によってここに警察の捜査が入った場合、〝包丁〟に指紋を残してしまった雨宮さんが窮地に立たされます。その時に雨宮さんを守る為に、俺はイズミさんと克仁さんの私物をこの泉へ沈めました。軍手とスコップと虫捕り網。それから傷付いた女の子が一人いれば、自然と疑惑は、二人の成人男性の方にも向くはずです」
「……!」
冷血な策だった。陥れる相手が身内だとは思えない。情を排したこの策が、あの温厚な拓海から出たものだとは、到底信じられなかった。
拓海は先程、怒っていると言った。
その台詞は言葉通りに、誠のものだったのだ。
「俺だって、本気でイズミさんや克仁さんを陥れたいわけではありません」
冷徹に、あるいは冷徹さを糊塗して武装しているような声で、拓海は言う。
「ただ、雨宮さんにばかり非難や責任問題が集中するのが許せないんです。それに雨宮さんは怪我をしました。この怪我に関して、風見美也子さんや呉野氷花さんだけでなく、他の人間も責任を持つべきです」
「……返す言葉もありません」
藤崎は瞳を閉じ、殊勝に項垂れている。自分達の倍以上も生きている大人の哀惜に触れた拓海は、心を痛めたような顔になった。
柊吾も同感だ。藤崎を傷つけているようで、悪者になった気分だった。しかも和泉はといえば、相変わらず余裕の笑みを浮かべている。こちらには毛ほども心が痛まなかったので、むかっ腹が立ってきた。
「えっと、克仁さん、すみませんでした。あの、さっきも言ったけど、本気で警察に突き出すつもりとかじゃないので……話を、戻します」
拓海はまだ藤崎にフォローを入れたそうにしていたが、それ以上の言葉を無理に呑んだようだった。
「……。君がそんなに無理をしてまで、この冷酷な策を選んだ理由と狙い。僕には分かっていますよ、拓海君。僕が相手なら全て『読まれて』しまうと分かっていても、克仁さんを傷つけてでも、君にはこのやり取りを踏襲する必要があるのですね?」
謎めいた台詞だった。柊吾は眉を顰めたが、拓海にはそれで通じたらしい。
愁眉を開いた拓海は、何かを諦めたような声で言う。
「……全部分かられていたとしても、必要な言葉ですよ、イズミさん。だって言葉って、段階を踏んでいくものでもあると思うんです。たとえば俺に欲しいものがあったとして、それをストレートに『ほしい』ってお願いしても、もらえない場合だってあるはずです。でも最初に『それがどうしても必要だから』とか『ないと困るから』とか、そう、例えば、『あなたに酷いことをされたから、賠償金代わりにこれをほしい』とか、そういう前置きがあったなら、すんなりと『もらえる』かもしれません」
「君の言葉、最後は脅しですよ」
くつくつと和泉は笑い、「面白い」と繰り返した。
拓海も、寂しげながら笑みを見せた。
「イズミさん、ここでの会話は俺にとって、もう『謎解き』じゃありません。『種明かし』を話し合うつもりで、俺はここに来ました。〝アソビ〟が終わった今、イズミさんだって同じ気持ちでいますよね?」
「……ええ。その心算ですよ」
穏やかな夜風に乗ったその台詞に、顔を上げた藤崎が、ひたと和泉の顔を見る。その視線が思いのほか鋭くて、柊吾は和泉の嘘に気付いてしまう。
「……坂上。気をつけろ。イズミさんは、ここで全部話す気はないみたいだ」
「ああ。多分、全部は無理だろうな。時間的にも厳しいし」
耳打ちする柊吾へ、拓海は前を向いたまま答えた。
「後日でも訊けそうな内容は、今日は諦める。でも〝アソビ〟の種明かしは、ちゃんとしてくれると思うんだ。……三浦。今ならいいよ。イズミさんに言いたい文句、あるよな?」
「ああ」
柊吾は頷くと、一歩だけ前へ進み出た。
「……イズミさん」
この〝アソビ〟が始まってから、最も和泉へ言いたかった言葉。
いい加減に、それをぶつけないままではいられなかった。
「なんで俺達を――雨宮を、助けなかったんですか」
 




