花一匁 90
「人にモノ頼める立場だと思ってんのか? ああ?」
恭嗣は取り合わなかった。つかつかと和泉の真正面へ歩いていくと、笑みを消して凄んでいる。
「和泉君。俺は悲しいよ。出会った時には天使みたいに可愛かった和泉君が、襲われてる女の子を見殺しにするようなクズになっちまってよ」
「僕も悲しいですよ、キョウジさん。僕がそんな狼藉を働いたと、何故断言できるのです? まさか中学生の証言をそのまま鵜呑みにしたのでは? 寂しいですね、僕達の友情がそんなにも儚いものだとは」
「こんな夢みたいな世迷言ばっかの阿呆よりは、坂上君の方がよっぽど頭が切れるし有能だね。お前さん、あの子の師匠なんだって? 頼むからあの無垢な少年を、あんたみたいな外道にだけはしてくれるなよ?」
「其れについては、全くの同意見です」
拝殿の方角から別の声が割って入り、柊吾はそちらを振り向き、息を呑む。
賽銭箱のすぐ傍に、初老の男が立っていた。
「藤崎さん……」
藤崎克仁だった。
七瀬を始めとする子供達から、師範と呼ばれ慕われる男。
かつての和泉の養父であり、現在は、氷花の養父である男。
また、呉野の一族に属さない、異能の持ち主でもあって――人の〝傷〟が、『見える』男。
拝殿の屋根の下は、蛍光灯の光が届かない。暗がりに佇む藤崎は、険しい面持ちでこちらをじっと見つめていた。あの柔和な藤崎克仁がこれほどに思い詰めた顔をするところを、柊吾は初めて見た気がした。
「あ……」
撫子が背中で、放心したような声を上げた。
「どうした?」
「藤崎さん、怪我してる。……額」
驚いた柊吾が藤崎を見ると、確かに、こめかみの辺りに大きな絆創膏が貼られていた。藤崎がこちらへ歩いてきたので、怪我の様子がより鮮明に見えてくる。
絆創膏には血がしっかりと滲んでいて、傷の周囲は痣になっていた。
それを見た瞬間に、柊吾は公園での七瀬と和音の戦いを思い出す。
この藤崎の怪我は、まるで――誰かに殴られたような、そんな怪我だ。
「……」
撫子が心細げに沈黙し、労りの空気が伝播して、柊吾も口を噤んでしまう。
――正直なところ柊吾には、藤崎が何を考えているのかが分からなかった。
拓海の推理によれば和泉や氷花側についているとの事だったが、こうして対面した今でも藤崎を悪人だとはどうしても思えず、その考えは正しいのではないかと思う。
何故なら藤崎は、撫子を気遣っていたからだ。
撫子の胸にある〝鋏〟を、柊吾に教えてくれたのは藤崎だ。
それを口にした痛ましげな表情を、はっきりと柊吾は覚えている。
藤崎は、味方だ。
だが、だとしたら一体何故、藤崎は和泉側についたのか。目の前の人間を信じればいいのか、警戒すればいいのか、柊吾には判断出来なかった。
「どうも、藤崎さん。お久しぶりです。どうしてあなたのような人までいながら、こんな事態になったんです?」
「面目ありません」
藤崎は深く頭を下げた。そして、それ以上は何も言わない。恭嗣は藤崎の言葉を待っていた様子だったが、やがて不満を露わに鼻を鳴らした。
「あくまで、俺に教える気はないんですね?」
「恭嗣君。まさか君まで現れるとは思いませんでした」
「今日はもう遅い時間なんで、保護者代表ってことで来ました。明日には撫子ちゃんのご両親が来られますよ。事情を聞きにね。この腐れ神主がどんな言い訳するつもりか、今から先に聞かせてもらえませんかね?」
「待った、ユキツグ叔父さん。藤崎さんと知り合いなのか?」
思わず訊ねた柊吾へ、「ああ」と恭嗣が頷いた。表情の険しさが少し解け、知り合った当時を懐かしんでいるような、柔らかな目つきに変わる。
「俺が和泉君と知り合ったのは、こいつが小学六年のガキの頃で、俺の方は就職したてだったかな。和泉君は中学から日本で暮らすようになったから、保護者代わりの藤崎さんの家には、たまに上がらせてもらってたんだよ」
「そうだったのか……」
柊吾は、気の抜けた返事をする。恭嗣と和泉の間に交友があるのは知っていたが、藤崎克仁との親交については、今日初めて知ったからだ。
「私も、知らなかった」
耳元の声に振り向くと、すぐ傍にある撫子の顔も、純粋な驚きの表情だ。
聡明に澄んだ瞳は三人の大人へ向いていて、この段になって初めて、柊吾はようやく、気がついた。
「……あ」
さっきの違和感の正体も、今ならはっきり理解できる。
あの時の、撫子は――恭嗣と、会話をしていたのだ。
「雨宮、『目』……! いつから『見えて』たんだっ?」
「ううん、ちゃんとは『見えない』の。『見えた』り、『見えなく』なったりするの。車を降りた時に、三浦くんの……柊吾の叔父さんが『見えて』、今は三人とも、『見えてる』けど……」
すうと腕を伸ばした撫子が、指で彼方をさし示す。
「多分、あっちに行ったら、『見えなく』なっちゃう……」
柊吾が目を向けた先には、石畳から外れた先に、鎮守の森。
――惨劇の、舞台。
「……ここ、やっぱり空気が、痛い……神社なのに……変……」
撫子が、力なく柊吾の背中に突っ伏す。柊吾は慌てたが、恭嗣も負けないくらいに慌てていた。素早くこちらへ駆け寄ってから、きっ、と和泉を睨み付ける。
「おい。和泉君。この様子を見ても何も思わねえのか?」
「……やはり。感じやすくなっていますね」
「ああ?」
「この神社の空気を禍々しく感じた者は、貴女の他にも多数いたようです。おそらくは……あの場で唯一、絶対的な〝守り〟の配下にあった、坂上拓海君を除いて、全員。いくら柊吾君であっても、これは防ぎきれるものではありませんから。……ですが。貴女の現在の苦しみの理由。それは貴女の存在に原因がありますよ、雨宮撫子さん」
青色の双眸が、撫子を真っ直ぐに捉えた。
撫子が、微かな怯えを見せて震える。
柊吾は条件反射で和泉を睨み付けながら、同時に激しい衝撃も受けていた。
今の和泉の台詞は、聞き捨てならないものだらけだった。
「俺では、防ぎきれない? 坂上は、守られてる? 雨宮に、原因がある……?」
「ええ。そうですよ、柊吾君。ですが撫子さんについてだけは、少し語弊がありましたね」
和泉が柊吾へ向き直り、莞爾と笑う。
どこか、うら寂しげな表情だった。
「正確には……貴女をそんな身体にした、僕ら呉野の一族の咎に、原因があると言うべきです。撫子さん、さぞお辛いでしょう。環境に影響されやすく周囲のモノが一斉になだれ込んでくる辛さは、僕にも経験があるので分かります。貴女が〝同胞〟でさえあれば、制御の方法を僕なりにお伝え出来るのですが……それが出来ないこの身が、只不甲斐ないばかりです」
「おい和泉君。いい加減にしろ。ロシア語にも日本語にも聞こえねえぞ。分かる言語で喋れ」
「キョウジさん、お静かに。さすが柊吾君の叔父上ですね。罵倒の仕方がそっくりです」
「なんだとこら。喧嘩売ってんのか」
さらなる罵倒を受けても、和泉は飄々と構えていた。
嫋やかな微笑をそのままに、柊吾と撫子へ向き直る。
「――さあ、柊吾君。撫子さんをあちらへ。ああ、僕が言うまでもないでしょうが、彼女から身体を離さぬようお願いします。君の魂には〝お守り〟がありますからね。たとえあの時の拓海君ほどに強固な〝守り〟を持たなくとも、二人でいれば、何も危険はありませんよ」
和泉は鎮守の森の方角を、腕で指し示して微笑んだ。
柊吾は、躊躇う。だが拒む理由はないのだ。戦いの舞台は、ここではない。ここよりさらに進んだ先の、あの泉の前へ行かなくては。
不安と反発に蓋をして、迷う心を振り切って、柊吾は一歩、足を踏み出す。
今度は何が起こっても、必ず撫子を守ってみせる。
食ってかかったのは、恭嗣だ。
「待て、和泉君。今すぐここで決着を付けさせろ」
「申し訳ありませんがキョウジさん。先程言った通りです」
「あのなあ!」
恭嗣が和泉の着物の襟を掴み上げた、その時だった。
視界の端、鎮守の森の入り口に――友人の顔を、見つけたのは。
「あ」
柊吾は、思わず声を上げてしまった。
それによって撫子を除いた全員が、新たに舞台に上がった人物に気が付いた。
皆の視線をスポットライトのように浴びて、その人物はやや狼狽えた様子だったが、気丈な表情を形作ると、首を縦に振ってくる。
その動作の意図する行為を、柊吾は正確に汲み取った。
「……雨宮。悪りぃけど、もう一回目隠し」
「?」
柊吾は撫子を背から下ろすと、ポケットから取り出したハンカチで、撫子の両目を覆い隠す。そして「見えない」と呟きながら両手をふわふわと前へ伸ばす小さな身体を抱き上げてから、和泉へと目配せした。
応えた和泉は、微笑んだ。
「……ひとまず、あちらまで移動をお願いします」
促されて、一同が移動を始める。恭嗣だけは抵抗するようにその場へ立ち止まっていたが、舌打ちしてついて来る。柊吾の両腕には、撫子の身体の震えが伝わってきた。
「何も見えないの、こわい」
「……大丈夫だ。離さないから」
「うん……」
首にぎゅっと巻き付いてくる温かな力を感じながら、柊吾は前方を見据える。
――この短時間で、どこまで成果を上げられたかは不明だった。
とはいっても、今は無事に合流できたことに安堵した。一見した限りでは、特に怪我もした様子もない。そういえば、体育の成績は五段階評価で四を取ったと聞いている。柊吾はつい自分を基準に考えがちだが、相手も運動は並み以上には出来るのだろう。
森へ踏み込むと、頭上の梢の影が一斉に降ってきたような圧迫感を覚えた。
ずしりと肺の辺りが重くなり、心なしか息苦しい。撫子が怯えたのが分かったので華奢な身体を抱え直すと、柊吾は改めて目の前の人物と向き合った。
「……こんばんは。皆さん」
麻の白シャツにカーキのズボンの少年は、凛々しい表情で立っていた。
出会った頃より段違いに、強くなったのだと思う。何度だって、柊吾は思う。微かな羨望を覚えたが、もう羨んでばかりもいられない。
柊吾も、そこへ追いつけばいいだけだ。それだけの、単純なことなのだ。
「……」
藤崎の表情に、沈鬱な痛々しさが混じる。白髪交じりの黒髪が、夜風にさらりと靡いた。
疲労の濃く出た顔色には、やがて微かな安堵と喜びも混じっていく。
「……拓海君。君はまた少し、背が伸びたようですね。私の服を着ていても、あまり丈が余っていません」
「勝手に借りて、すみません。……克仁さん。ただいま」
坂上拓海は、困ったような笑みを浮かべた。
まるで些細な失敗を親に見つかった子供のような、照れ臭そうにさえ見える微笑だった。
「三浦の叔父さん。話はここから聞いてました。イズミさんの言う通りにしましょう」
「は? 言う通りって……俺を除け者にする気か?」
「まあ、そうなります。すみません」
拓海は眉尻を下げて、謝った。
一見殊勝なその態度に、柊吾はぴんと来るものを感じた。
「まさかあいつ……最初から、その気で……」
ここで恭嗣を残して鎮守の森を進んだ場合、メンバーは拓海、柊吾、撫子に、和泉と克仁で五人になる。
つまり、全員が事情を熟知している人間だ。
〝言霊〟の異能について知識のない、恭嗣をここへ残していけば、余計な説明の手間をかけずに、和泉と話がつけられる。
拓海は、最悪の場合そのつもりで――ここで恭嗣を切り捨てることを、計算に入れて動いていた。
だが当然、恭嗣も黙ってはいなかった。
「嫌だね。何のための付き添いだと思ってるんだ」
「お願いします。イズミさんがこう言ってるから……多分、俺達だけの方が、言いやすいことがあるんだと思います。俺は、それを聞きたいです」
「……」
恭嗣は、黙った。拓海の意図に気付いたのかもしれない。悪鬼のような表情で拓海を睨み、和泉を睨み、それから藤崎をも睨み付ける。柊吾は睨まれなかったが、思わず首を竦めてしまった。つくづく、敵には回したくない大人だと思う。
恭嗣に何を言われるか、安易に想像ができていた。
十中八九、拒否される。それこそここで引き下がっては、恭嗣の言うように何のための付き添いか分からない。
だが、返って来たのは意外な言葉だった。
「……。十五分だ」
妥協の言葉が重々しく、森の黙へ響いた。
「今から十五分だけ、ここで待っててやるよ。その時間が過ぎたら、好きにさせてもらうぞ?」
「……ありがとうございます。それから、すみませんでした」
「ったく、したたかなガキだな」
「ユキツグ叔父さん、なんで許してくれたんだ……?」
「ま、下準備をいろいろ頑張ってたみたいだしな。好きにさせてみたくなっただけだよ。言っとくが、今日だけだぞ? こういうのはな。ほれ、もっと有難がれ」
恭嗣は腕組みをすると、近くの木の幹にどっかりと凭れた。
拓海が、胸が痛んだような表情を見せる。それから、深く頭を下げた。
その横顔が微かに強張っているのを見て、柊吾も事の重大さに気がついた。
「十五分って……おい、そんなの……」
無理だ、と思った。元々のタイムリミットから、さらに四十五分も引かれてしまった事になるのだ。いくら拓海といえど和泉相手にそんな短時間では戦えない。全力を出し切れないに決まっている。
だが顔を上げた拓海を見て、そんな心配は消え去ってしまった。
――拓海は、快活に笑っていたのだ。
「三浦の叔父さんが来る前に、俺が和泉さんと話をつけてきます。イズミさん。行きましょう。決着は一度ついたけど、俺にはまだ今回の〝アソビ〟で明らかにしたい事があるんです」
「……本当に、君はどこまで伸びるんでしょうね」
くつくつと和泉が笑った。拓海のしなやかま強さを眩しそうに見つめる瞳は、まるで快晴の空を指の隙間から見上げるような、そんな所作によく似ていた。
「望むところですよ、拓海君。では、参りましょうか」
浅葱の袴を翻して、和泉が森を歩いていく。その隣に拓海も追いつき、二人の姿が柊吾達から離れていく。
柊吾もついて行こうとして、ふと、足を止めてしまう。
藤崎が、立ち止まったままなのだ。
表情の失せた顔は青白く、細められた双眸は、前方へと向いている。
その視線を追い掛けた先には、和泉と拓海の背中があった。
肩を並べて歩く二人を、藤崎は哀愁のこもった瞳で見守っている。
その姿から、柊吾は目を離せなかった。
寂し過ぎると、感じたのだ。和泉と拓海の背中を見る、その眼差しがあまりにも。心が、微かにざわついた。
まるで永遠の別離を二人に見ているような、そんな薄幸さがあったのだ。
「藤崎さん……?」
「……本当に、申し訳ありません」
苦しげに紡がれた、謝罪の言葉が返ってきた。
不意打ちだったので、柊吾は狼狽えてしまう。
「御無事で、とは言い難いのは承知しています。ですが、其れでも。……生きていてくれて、良かった」
懺悔の言葉に、撫子の身体が微かに動いた。
だが、撫子は何も言わない。おそらくは先程の言葉通り、人が『見えなく』なったのだ。藤崎の謝罪も、聞こえなくなっている。
「……後で、俺から伝えときます」
「いいえ、其れには及びません。言葉は伝わってこそですから。後でもう一度撫子さんに謝罪します」
儚げな声音でそう言ってから、藤崎は「では、我々も向かいましょう」と、柊吾と撫子を促した。
「私から説明出来ることは、其れほど多くはありません。ですが、出来る限りの助力はさせて頂きますよ。例えば、イズミ君の本心を明かすこと。……其れは、私も知るべき事ですから。知らなくては、なりませんから……」
夜風が、両者の間に吹き抜ける。
撫子の栗色の髪と、藤崎の着たコートの裾が揺れ、枯葉が擦れ合う音を聞きながら柊吾は返事を考えたが、すぐには言葉にできなかった。
ただこの時に、一つはっきりと答えが出た。
――藤崎は、やはり味方だったのだ。
何らかの事情があって、和泉に加担せざるを得なかった。
そうとしか、思えなかった。こんなにも切迫感を帯びた言葉を聞かされては、もう疑うことなど出来なかった。
「……」
沈黙のまま、時が流れる。
柊吾は何かを言わなくてはと、懸命に言葉を探し続けた。
その果てに、「……雨宮は、気にしてないって、言うと思います」とだけ、拙く言葉を、返してから――藤崎の浮かべた淡い笑みに、こちらまで酷く胸が痛んでしまい、何も責められなくなってしまった事だけを、ほんの少しだけ、悔いた。




