花一匁 88
柊吾の住むアパートは、袴塚市郊外の寂れた区画に位置している。
袴塚西中学校の通学区域にぎりぎり食い込めるくらいの遠さ、とは柊吾の言で、実際に何度か遊びに来た拓海は、周辺の家々の少なさに驚いたものだ。
『家も狭いけど、二人暮らしだから丁度いい』
いつだったか柊吾はそんな風に言っていたが、四月からは恭嗣も交えた三人暮らしがスタートすると聞いている。柊吾の通う高校が決まってから引っ越しを検討するとの事なので、ここで母子二人が過ごすのは、あと僅かになるのだろう。
扉が開け放たれると、蛍光灯の眩さが暗闇に慣れた目を刺激した。真っ先に視界に入った居間からは、微かに夕餉の匂いがした。
「ただいま」
そう言った柊吾を先頭に、拓海が靴を脱いで居間に上がった時だった。
真正面に見える窓の右隣、四畳半の柊吾の部屋で、襖が動く音がした。
やがて閉じていた襖が開き、撫子がぴょこんと顔を出した。
「雨宮さん……!」
拓海は、安堵のこもった声を上げた。
撫子は赤く大きなジャージの上をワンピースのように着込んでいて、裾からは紺色のスカートがひらひらと覗いている。
ジャージはおそらく柊吾のもので、スカートは柊吾の母親のものだろう。
借り物の衣服に包まった撫子は、ひょこひょことヒヨコのような足取りで、玄関に向かって走ってきた。
その姿は、見る限り元気そうだった。栗色の髪は左右不揃いに揺れていて、顔にも素足にもガーゼや絆創膏が貼られていたが、切なげに潤んだ瞳は確かな希望を宿していて、柊吾をまっすぐ見つめていた。
柊吾だけを、見つめていた。
「……ん?」
この時に、何かがおかしいことには気付いていた。
恭嗣も異変を察したようだが、両者共に口を挟む余裕はなかった。
頬を真っ赤に染めた撫子は、よたよたと頼りなげに、それでも懸命に走ってきて――柊吾の胸に飛び込んで、ジャケットをぎゅっと握りしめた。
「おかえりっ……」
柊吾は、手に持っていた空のバスケットを床に思いっきり落としていた。凍りついたように動きを止めて、やがて小さな声で言う。
「ど、どうし、た……?」
「あ、甘え方が、分からなくて……あの、これで、いい?」
数秒の間を空けてから、柊吾は機会仕掛けのようにぶんぶんと首を縦に振る。恭嗣はあんぐりと口を開けていたが、やがてその口をへの字に曲げた。
「なるほど。今はシュウゴの奴しか『見えて』ないのか……」
「え? 雨宮さんの事情、知ってるんですか?」
「まあ、ちょっとだけな」
訊ねる拓海に肯定すると、恭嗣は柊吾の背中をぎろりと睨んだ。
「おいこら、シュウゴ。早く撫子ちゃんに俺らもいるって伝えろ」
撫子は玄関の人の気配を気取ったのか、ぴくりと栗鼠のように身じろぎする。
かあっと頬が、先程よりも赤く染まった。
「三浦くん、一人じゃない……? ご、ごめんなさい……」
もじもじと俯いた撫子が、柊吾から離れていく。
その腕を柊吾ががしっと掴んで引き留めると、「ひとり! 俺、ひとり!」と日本語を覚えたての外国人のようなアクセントで主張して、混乱する撫子に詰め寄った。
恭嗣は半笑いの顔のまま、額に青筋を立てていた。
「ほーう? そうやって速攻でバレる嘘ついて、俺らの存在を抹消する魂胆か? っていうかむかつくなこの光景!? シュウゴてめぇいい加減にしろ! 中坊が色気づきやがって! 俺と坂上君が家に入れないだろうが!」
嵐のような非難を受けても、柊吾は知らんぷりを貫いている。
「えっと……まあまあ」
拓海は恭嗣を宥めたが、確かにこれ以上時間を割かれるのは困る。一応自分のことを棚に上げている自覚はあったが、ともかく。
「三浦の叔父さん。このままじゃ雨宮さんも可哀想だし、こうしましょう」
背後の扉へ手をかけると、拓海はゆっくりと開閉した。
ばたん、と重い音が響き渡り、夜風が室内に滑り込む。
目を瞬いた撫子は、誰かが入ってきたと誤解してくれたようだった。慌てた様子で柊吾の胸板を押して離れ、柊吾の方は、露骨なまでにふくれていた。
「三浦くん。そこにいるのは……三浦くんの、叔父さん?」
か細い声で撫子が訊ね、柊吾は拓海をちらと見る。
拓海は首を横に振って、約束通りの合図をした。
「……ああ。ユキツグ叔父さんだけだ」
恭嗣も、拓海を横目で見下ろした。
「あんまり褒められたやり方じゃねえな。それこそいつバレるか分かったもんじゃねえぞ?」
「いいんです。雨宮さんの『目』に見つかった時は見つかった時で。でも俺が『見えてない』なら、今日のところはそのままがいいです」
異能の遊戯に巻き込まれたメンバーの中で、最も疲弊したのが撫子だ。美也子に襲われた記憶がまだ鮮明な現状では、拓海達への引け目や罪悪感もあるだろう。
そんな撫子を拓海はこれから、再び外に連れ出すのだ。
撫子の心に、必要以上の負荷をかけたくなかった。せっかく柊吾とも話し合えたのだ。他の中学生メンバーと向き合うのは、明日以降でいいだろう。
「三浦。雨宮さん、熱あるんだっけ」
「ああ。けど、さっきより下がったみたいだ」
柊吾が撫子の額に手を当てると、撫子はくすぐったそうに目を細めた。いつもと変わらない二人の姿に、それでも拓海は軽く目を瞠っていた。
撫子の雰囲気が、少し変わったように見えたのだ。
何が変わったのかは、一目瞭然だった。
――表情だ。
撫子の顔に、以前よりも分かりやすい感情が表れている。平常時は雪色をした感情に、淡い色がついた気がした。
〝アソビ〟が柊吾の心へ変化の兆しを生んだように、根雪の下から春の緑が芽吹くように、撫子の方にも確かな変化が生まれたのだ。
「……よかった。本当に」
微笑んだ拓海は、七瀬を帰らせたことをほんの少しだけ後悔した。
もし七瀬がこの場にいたのなら、友達の小さなこの変化を、一緒に喜んでくれたに違いない。
撫子はきっとこれから、今より感情表現の幅が広がっていくのだろう。
ほっとして力の抜けた拓海だが、その時一つ、気になるものが目に入った。
「……三浦。ちょっと」
「なんだ?」
「雨宮さんの、足の怪我。見せてほしい」
「あぁ?」
柊吾が、少し嫌そうに拓海を見る。まだ不貞腐れているようだったが「いいから早く」と押し切ると、渋々とだが「雨宮、ちょっと座ってくれるか?」と声をかけて、不思議そうにする撫子を座らせた。
ぺたんと腿を床につけて座る撫子の、ワンピースから伸びた素足。
その左のふくらはぎには、包帯がしっかりと巻かれている。
ぎろりと柊吾が拓海を睨み、ひそひそ声で耳打ちした。
「おい、じろじろ見るな。何が気になるんだ?」
「じ、じろじろなんて見てないって……けどこの怪我、変じゃないか?」
「変? 何がだ?」
「さっき雨宮さん、歩き方も変だったじゃん。この怪我の所為だろうけど……なんかこれだけは、風見さんの仕業じゃない気がする」
「足の怪我がどうしたって?」
脱いだ靴を揃えながら、恭嗣も会話に加わってきた。
「三浦の叔父さんも。雨宮さんの足の怪我、おかしいって思いませんか」
「おかしいって言うなら、女の子が満身創痍になってるこの現状自体がおかしいがな」
恭嗣は口ではそう言っているが、実際のところ拓海ほどの奇異は感じていない様子だった。他の大量の怪我との区別を、特に見い出せないでいるのだろう。柊吾も同様の表情で、拓海の顔を見返してくる。
「……」
だが、拓海は懸念を拭えなかった。
妙に、嫌な感じがした。それはまるで陰口を言う他人の存在を曲がり角の向こうに知覚しながら、そこにある悪意に淡々と向き合い続ける時間のような、あるいは呉野氷花の異能と対峙した者が、その身に感じる悪寒のような、説明不能の忌避感を、拓海は傷から感じていた。
この足の怪我は、どうも怪しいのだ。
美也子が撫子に与えた傷の大半は、上半身に付けられた、鋏による打撃なのだ。
頬に当てられたガーゼも、これらの怪我の中では異質と言えたが……怪しさで言うならば、この足の怪我ほどではない。
――脳裏で笑う、女の顔があった。
不吉な疑念がまた一つ、拓海の中で、増えていった。
「……やっぱりこれ、風見さんの仕業じゃない。この傷、深かったんじゃないか? 傷が集中してる上半身からも遠いし、あんなに切れ味の悪そうな鋏で、包帯を巻くほどの怪我になるとは思えない。……三浦。これがどういう経緯でできた怪我か、雨宮さんから聞いてる?」
「……。雨宮。この足の怪我も、風見にやられたのか?」
柊吾はすとんとしゃがみ込むと、撫子の肩に手を添えた。
撫子は考え込むように、首を少し傾ける。
そして数秒の黙考を経た後に、「美也子にやられた怪我じゃない」と、落ち着いた声音で断言した。
「じゃあ、なんで怪我したんだ?」
驚いた柊吾が訊き返すが、撫子は首を横に振った。
まるで途方に暮れた子供のように、物寂しげな瞳になる。
「ごめんなさい、分からないの。神社の森を走って、美也子から逃げてたら……急に切れたから、私もびっくりした」
「三浦。切れたって、それは雑草で? それとも……鋭利な、刃物で?」
柊吾が、弾かれたように振り返った。
目には、驚愕の色。拓海の言葉の心髄を、どこかで気取ったような顔。臆したように唇が震え、そこから言葉が紡がれるより早く、今度は恭嗣が口を挟んだ。
「シュウゴ、それを言うなら撫子ちゃん、まだ他にも怪我してるところがあるんじゃないか?」
「な、なんだよ、ユキツグ叔父さんまで……今度はどこの怪我の話だ?」
「ん、この辺か?」
とんとん、と恭嗣が胸の真ん中辺りをノックする。
これには、柊吾だけではなく拓海も驚かされてしまった。
「なんで、ユキツグ叔父さんがそれ……」
「ああ、やっぱり何か抱えてんのか。それ、風見さんとこの嬢ちゃんにやられる前からだろ?」
微かな憐憫と深い労りの混ざる目で、恭嗣は撫子を見下ろした。
慈悲さえ感じる温度の笑みは、拓海に和泉の顔を思い出させた。
「撫子ちゃんな、たまに歩きながらちょっと上体を庇ってるように見えるんだよ。癖になってるっぽい動きだから、今日の怪我だけでそうしてるわけじゃないなって分かった」
「……」
凄い観察眼だった。それともこれは、人として当然の観察眼なのだろうか。
拓海は柊吾と顔を見合わせ、無言で目を逸らし合った。
たとえ大人に撫子の窮状が伝わっても、解決手段は今のところゼロだからだ。
「抱えてるそれ、ちゃんと病院で診てもらってんのか?」
「……ん。心因性の痛みだって言われてる。……俺は、違うと思うけど」
「……そうか」
「どうしたら、少しでも楽にしてやれるのか……誰にも、分からないままなんだ」
「分からないなら、分かる人に訊いてみたらどうだ?」
「え?」
「たとえば、撫子ちゃんに似てる人に」
恭嗣は、さらりと言ってのける。
柊吾は、声も出ない様子だった。その視線が、室内の奥へ移ろっていく。
純粋な驚きを見せた甥っ子を、恭嗣は温かな眼差しで見つめていた。
「似た者同士、抱えてる痛みにも共感があるだろうよ。もちろん、全く同じものじゃなくてもだ。そこからはまた、お前が考えていけばいい」
「ユキツグ叔父さんってさ、なんていうか……分からない問題の答えを、人に聞き出したりするの、悪いって言わないよな」
「ん? それのどこが悪いんだ?」
恭嗣は意味が分からないとでも言いたげに、肩を竦めた。
「自分で考えて考えて考え尽くして、それで分からないのに何を考えろって言うんだ? 分かる奴に教えてくれって訊けばいいだろ」
「……そうやって頼って、突き放されたばっかだから」
唇を尖らせて、柊吾は不満を示す。恭嗣は首を捻っていたが、拓海には柊吾の憤懣が伝わった。
……多分、呉野和泉のことを言っているのだ。
少し庇おうかと拓海が考えていると、座ったままの撫子が言った。
「もう立ってもいい?」
柊吾が視線で指示を仰いでくるので、拓海が慌てて「ああ、ごめんな。もういいよ」と答えると、ほぼ同時に別の人物の声も聞こえた。
「皆、おかえりなさい。撫子ちゃんは、まだ寝ていなくちゃだめよ。……あら」
全員の視線が、玄関のすぐ傍にある洗面所の方へ流れる。
そこにはショートの黒髪を肩口で揺らす、小柄な女性の姿があった。
「ああ、ハルちゃん。ただいま」
恭嗣が鷹揚に応えた相手は、柊吾の母親だ。ふわりと柔らかな微笑みは若々しく朗らかで、春に咲く花のように麗らかだ。
「あ……」
挨拶をしようとして、拓海は瞬時に状況を思い出す。咄嗟に、唇に人差し指を押し当てた。
相手はきょとんとしていたが、顔には微笑がすぐに戻った。
「撫子ちゃん。さあ、お布団に戻りましょ? お母さんももう少しで戻って来るから」
そう言って撫子の手を引くと、襖の方へ歩いていく。華奢なその後ろ姿に、拓海は深く頭を下げた。
撫子は、少しだけ名残惜しそうにこちらを振り返る。
そして襖を閉じてしまう前に、柊吾に小さく、手を振った。
ぱたんと音を立てて襖が閉まり、二人の姿が見えなくなる。
「……」
柊吾は糸が切れたように、かくんとその場に膝をつく。そして次の瞬間、傍らの靴箱へ猛然と額を打ちつけ始めた。がんがんと硬い音を聞きながら、拓海は顔を引き攣らせる。
「み、三浦が壊れた……」
「破壊力抜群だな」
恭嗣は呆れ笑いを浮かべながら、「うるせえぞシュウゴ。近所迷惑だ」と一蹴してから、丁度襖を開けて一人だけ出てきた柊吾の母へ言った。
「ハルちゃん。雨宮さんの奥さんは?」
「一度家に帰られたわ。撫子ちゃんの着替えを取りに」
「着替え?」
拓海は思わぬ言葉にぽかんとして、柊吾をそっと振り返る。
柊吾はしれっとそっぽを向いて、拓海から目を逸らしていた。
「まさか歩きで帰られたのか? しまったな。タイミングが悪かった」
「いいえ、タクシーを呼んだわ。恐縮されてたから、もしかしたら帰りは歩いて戻って来られるかもしれないけれど」
「そりゃまずいな。迎えに行く」
「待って。行き違いになったらいけないわ。電話が繋がればいいんだけれど」
柊吾の母は固定電話のある棚の方へ、身を翻して歩いていく。その最中にはたと歩みを止めてから、改めて拓海に向き直った。
柔和な笑みが、再度若々しい顔に湛えられる。
「坂上君、こんばんは。慌ただしくてごめんなさいね。今日は大変な一日だったわね」
「えと……こんばんは。夜分遅くにすみません。お邪魔してます」
「いいのよ。撫子ちゃんのことが気になったのね」
「はい……」
拓海は、若干の照れを交えながら頷く。靴箱のある斜め下あたりから柊吾が矢のように睨んでくるので、落ち着かなくて堪らない。
柊吾の母にもその視線は伝わったのか、くすりと小さく、笑っていた。
「ありがとう。撫子ちゃんのお母さんも、きっと気持ちは嬉しいと思うわ。でもね、もうこんな時間よ? ご家族の方にはちゃんと言ってあるのよね?」
「ああ、坂上君の親御さんにも会ってきたぞ」
恭嗣が腕時計に目をやりながら、笑み混じりの顔で拓海を軽く睨んできた。
「どーしても今晩、撫子ちゃんが本当に無事かどうか見なきゃ気が済まないっていうからな。ったく、彼氏かよ」
「ユキツグ叔父さんうぜぇし。そんなんじゃねえし。こいつ彼女いるし」
「はいはい、やきもち妬きもうぜぇから。ともかく、どんなに遅くても日付が変わる前までって制限付きで預かった。ま、そんな遅くまで預かるつもりはねえけどな。それに坂上君もこれで満足したろ? 撫子ちゃんは大丈夫だから、今日のところは大人しく帰れ」
「待ってください。話が違います」
拓海は首を竦めたが、何とか無理やり食い下がった。
「三浦の叔父さん。さっき少しお話させていただいたように、お願いします」
「あのなあ、坂上君。一生懸命なのは分かるがな、そりゃあ、ちと無茶だ」
恭嗣は閉ざされた襖を振り返り、心なしか小声で言う。
「こっちは他所のお嬢さんを預かってるんだ。雨宮さんのご両親の立場になって考えてみたか? 保護者さしおいて他人が連れ回すわけにはいかんだろ。大体、あんなに傷だらけになって熱まで出してる女の子を、こんな夜中に神社に連れて行けると思うか?」
「もちろん、雨宮さんには歩かせません。俺が負ぶっていきます」
「おいこら。そんなの聞いてねえぞ。雨宮連れてくなら俺が」
「シュウゴ、お前が会話に割り込んでくるとややこしい。静かにしてろ」
「三浦の叔父さん。時間はありません。雨宮さんを連れて神社へ行くことを許して下さい」
――そこからの議論は、決着までに困難を極めた。
拓海と恭嗣は居間の小さなテーブルを挟み、差向いに掛けて話し合った。
「雨宮さんが襲われた時、神社にはイズミさんがいたはずです。つまりイズミさんは雨宮さんの悲鳴を聞いていたはずで、それを無視した可能性が高いです。直接的な加害者じゃなくても、それについて今日中に追及すべきだと思います」
懸命に、拓海は訴えた。
異能のことは、話せない。話したが最後、今夜のうちに神社へ向かう術が、いよいよ断たれてしまうだろう。それでも限られた言葉を誠意を持って選び取り、目上の相手へ訴えた。
「坂上君。君の言うことは尤もだと思うぞ。喧嘩にはすぐ対処しないと、時間が経てば経つほど『やった』『やってない』の世界になって、有耶無耶にされて終わっちまうからな」
恭嗣は拓海の言葉の腰を折らずに、言葉を全て聞いてくれた。
その上で、時折手厳しい言葉を投げかけて、拓海の瞳を真っ直ぐ見た。
「だがな。なーんか履き違えてないか? 論破できりゃあさぞ気持ちがいいだろうよ。けど今大事なのは、和泉君を追及することじゃない。撫子ちゃんが身体を休めることの方が大事だとは思わないか? 熱だってまだ下がりきってないんだ。君が身体を動かすのは苦じゃなくても、この子にはその当たり前ができないかもしれない。そこんとこ、ちゃんと考えた上で言ってるか?」
「考えました。でも、考えきれてないかもしれません。俺は雨宮さんじゃないから、身体がどんなに辛いかは、想像するしかできません。それでも、俺は」
引き下がるわけには、いかないのだ。
ここで引き下がっては、本当に恭嗣の言葉通り、全てが有耶無耶になるからだ。
それに撫子の為を思うなら、これは間違いなく必要な処置だ。
拓海は反論される度に内心で傷つき、言葉の正しさにはっとさせられ、またある時は反発をも覚えながら、それでも受けた言葉を咀嚼して、呑み込んで、受け入れて、考えた。
東袴塚学園で和泉を相手にした時より、何倍も手強く感じていた。
当然と言えば当然だ。拓海と恭嗣では、踏んできた場数にあまりに差があり過ぎる。勝ち目のない戦いだった。そもそもこれを『戦い』と捉えること自体が何だかひどく子供のようで、まだ自分は相手と同じ土俵にすら立っていないのだと、突き付けられたような気がした。
「やっぱり駄目だ。諦めな」
だが、何度そう言われても執拗に食い下がる拓海の気迫に――徐々に、恭嗣の表情は変わっていった。
瞳には悪戯っぽい光が宿り、笑みの質は明るかった。
最初は気の所為かと思ったが、いつしか拓海は気付いていた。
――恭嗣も本心では、撫子を連れていきたいのだ。
それは、和泉への怒りだろうか。恭嗣も、不服を述べたいのだ。大人の振る舞いという形式的な態度の奥に、恭嗣の本心が透けて見えた。
あるいは、見えるようにしてくれたのか。
拓海は、情けない笑みを浮かべてしまう。
これではまるで、東袴塚学園の時と同じだった。呉野和泉と最初に衝突した時も、拓海は勝ちを譲られたようなものだった。
大人に勝つのは、難しい。
それを百も承知の上で、拓海は神社に行こうとしている。
「いい根性してんなぁ、君は」
恭嗣がそう言って、最早隠さずに楽しげな笑みを見せた時だった。
「……私、行きたい」
襖の扉が、開いたのは。
ぎくりと、拓海は背筋を伸ばす。
「……あ、雨宮さん」
撫子が布団から這い出てきて、こちらをじっと見つめていた。
見つかったかと焦る拓海だったが、そうではなかった。
撫子の傍らには、いつの間にやら柊吾が座っていたからだ。
「……あー、俺とユキツグ叔父さんが、神社に今すぐ行くか行かないかで揉めてるって言ったら、行きたいって」
柊吾が、もごもごと言い難そうに嘘をつく。
撫子はそんな柊吾の不審さをきちんと見抜いているようだったが、熱が上がった所為だろうか。気にする余裕もなさそうだった。
額に手を当てた撫子は、熱で潤んだ目を細め、舌足らずな声で言う。
「……私も、神主さんに会いにいきたい。もしかしたら『見えない』かもしれないけど、それでも知りたいの。あの人が本当は、何を考えてたのか、聞いてみたい……私も、連れて行って下さい。お願いします」
ぺこりと、撫子が頭を下げた。柊吾も一拍遅れてから、気まずそうに頭を下げる。
「……困ったなぁ」
そう言いながらも恭嗣は、しめたとばかりに笑っている。
やはり思った通りのようなので、拓海も愁眉を開いて笑って見せた。
「三浦の叔父さんも、やっぱり神社に行きたかったんですね」
「だってよ、喧嘩相手はその日中に締め上げたいだろ。『やった』『やってない』の世界になったら本当にくそ面倒だしな。相手には言い訳を考える時間なんて、一分一秒でも与えたくないね。ただし、条件が二つある」
「何ですか?」
「あと一時間で、撫子ちゃんのお父さんがここに到着する。それがタイムリミットだ。それまでには全員家に帰ること」
「……分かりました。もう一つは?」
内心で、臍を噛んだ。和泉との直接対決は、時間との戦いにもなるだろう。さらなる制約への身構えから、拓海は恭嗣の顔色を窺った。
聞き入れる内容であればいいのだが、果たしてどんなものだろう。
だが恭嗣の出した条件は、実に他愛のないものだった。
「撫子ちゃんを今日のうちに、自分の家に帰すこと。これが条件だ」
「……へ?」
呆気に取られ、拓海は目が点になってしまう。
「ほら、あそこの我儘坊主が難癖つけやがったんだよ」
にやにやと下世話に笑った恭嗣が、和室の柊吾に目を向けた。
「撫子ちゃんが熱出したのをいいことに、『泊まっていけばいい』だの『熱出してるのに寒い外には出すべきじゃない』だの、あの手この手で泊まらせようと必死こいてさあ。結局ハルちゃんも撫子ちゃんのお母さんも押し切られてな、母親も一緒に泊まるって話で、一回まとまってたんだよ」
「み、三浦……いつの間にそんな話を……」
「けどなあ、撫子ちゃんをこれから外に連れ出すなら、熱出してるからなんて泊まりの理由にはならねえからな? そもそも撫子ちゃんのご両親は最初から娘を連れて帰るつもりでいたから、泊まれって言われてかなり恐縮されてるし、しかも、うちにいるのはエロガキだしな」
「ユキツグ叔父さん、なんか俺の悪口言ってないか?」
只ならぬ成り行きを地獄耳で察したのか、柊吾が和室から凄い形相で睨んできた。撫子は疲れ果ててしまったのか、柊吾に凭れて眠っている。
「やかましいわ。中学生男子なんか、そこらの大人よりよっぽどエロいんだよ」
容赦なく切り捨てた恭嗣は、拓海に向き直って「どうだ?」と訊いた。
丸い瞳が猫のように細くなり、試すような口ぶりで続けてくる。
「今から一時間後のタイムリミットを迎えたら、撫子ちゃんは雨宮さんのご両親の元へ帰す。そういう条件なら、撫子ちゃんのお母さんを説得して、今から神社に行ってもいいぞ」
拓海は決断を迷わなかった。
この程度の妥協で外出を許してもらえるなら、お安い御用だと思ったのだ。
「はい。分かりました。帰しましょう、雨宮さん」
「はあぁっ? おいこら、ふざけんな! 坂が……っ、後でっ、殺す……!」
成り行きを聞かれてしまったに違いない。和室にいる柊吾が怒り狂いながら拓海を罵倒しようとして、名前さえ呼べずに歯ぎしりしている。
「ご、ごめん……けど、泊まりは無茶だって、三浦……」
拓海は殊勝に手を合わせた。申し訳ないとは思うが、恨むなら拓海ではなく、〝アソビ〟に関与している呉野兄妹か、さもなくばこの選択を迫った恭嗣を恨んでほしい。
「決まりだな。じゃ、撫子ちゃんのお母さんと相談してくるわ」
椅子から腰を上げた恭嗣は、まずは柊吾の母を呼んでから、二人で相談をし始めた。
「……ありがとうございます」
拓海はその背中に礼を言って、和室にいる撫子にも向き直る。
今は聞えないと知っていても、きちんと伝えたかったのだ。
「雨宮さんも……ありがとう」
これで、ようやく――メンバーの再編成が完了した。
後は恭嗣と撫子の母次第だが、きっと、いや、必ず外に出られるだろう。拓海と、柊吾と、撫子と、付き添いの恭嗣を入れた四人で、呉野神社へ辿り着ける。
拓海は小さく息をついてから、もう一度呉野和泉の事を考える。
和泉は何故、拓海達を翻弄したのか。
本来なら回避できたはずの〝アソビ〟に、何故敢えて撫子を巻き込んだのか。
――その答えは、一応用意できていた。
ただ、まだそれだけでは不十分だ。
和泉に勝つ為に必要な証拠が、あと一手だけ不足している。
その不足を補うのは、簡単だ。
「……雨宮さん」
唾を呑み込み、拓海は撫子の顔を見る。
そして決して届かない言葉を、届かないと分かっていながら、それでも敢えて、〝言挙げ〟した。
「――『鬼さんこちら、手の鳴る方へ』……って。なんであの時、唄ったんだ?」
撫子は、返事をしない。眠りが深くなったのだろうか。
柊吾の方も、拓海の言葉には気づいていない様子だった。撫子を布団に横たえて、寝顔に視線を落としている。
声は、他者の誰にも届かなかった。
呉野氷花の〝言霊〟は、発動に会話を条件とする。その規範に則るならば、ただの独り言と化した言葉には、意義も、意味も、御魂さえも生まれない。
生まれてすぐに消え去った泡のような〝言挙げ〟を、拓海はなかった事にした。
撫子を、無暗に刺激するべきではないのだ。
だから今はまだ、訊けないままでも構わない。
後でもう一度、訊いてみればいいだけだ。
鎮守の森の最奥の、月光照り返す泉の前で、あの時柊吾が問うたように。
拓海も、誰何すればいい。
「……誰なんだ」
呼び声に呼応するように、窓硝子がかたかたと揺れた。
傍の窓へ目を向けると、墨のような夜の闇を四角く切り取った窓硝子へ、枯葉が打ちつけられていた。はらりはらりとベランダのコンクリートに落ちたそれらは再び風に煽られて、底知れぬ闇へ呑まれていく。
拓海は、柊吾と撫子を振り返った。
そのさらに背後で会話する、もうすぐ生まれ直す夫婦の姿にも目を向ける。
家族の絆が、団欒の温もりが、家を柔らかに温めていた。
そこへひしひしと忍び寄る、ヒトガタをした、不吉の名。
その名を、拓海は知っている。




