花一匁 86
その凶報は、風見家の近隣住民によって速やかに各所へ伝達された。
火の回りは早く、消防へ最初の通報が入った時には既に、家屋からは火柱と黒煙が上がっていた。夜の袴塚市の暗い空に、火の粉の赤い花が咲いた。鱗粉のように虚空へ吸い込まれる光の粒子は、まるで葬送の送り火のように見えたという。
異様な状況だった。何故これほどに燃え広がるまで、誰一人として異変に気がつかなかったのか。
しかも家屋全焼という被害を出しながら、炎は隣近所には燃え移らなかったらしいのだ。
突然夜空を照らした炎は、風見の家だけを焼いていた。まるで天の狗が空から落とした雷のように、人間には到底為し得ない怪現象が起こっていた。
近隣住人達は皆一様に首を捻り、やがて判で捺したように同一の表情になると、口々に言った。
――曰く、いつかこうなると思っていた、と。
――曰く、風見家の人達は外面は良いが、玄関先で立ち話をした者は、会話に違和感を覚えた、と。
――曰く、母親は精神的な異常者で、隣家の庭の枯葉が家の敷地に舞い込んだ際などには、烈火の如く激昂して、ホースで水を撒かれた、と。
――曰く、風見家からは時々、女の金切り声が聞こえる、と。
――曰く、一人娘は明るく可愛い少女だが、屋内から聞こえてくる金切り声には、時折娘のものも混じるのだ、と。
――曰く、旦那さんは家庭を顧みず、家を留守にしている事が多い、と。
――曰く、着々と進んでいる離婚話は、隣家にまで明瞭に聞こえるのだ……と。
消火活動中の家を遠巻きに眺めながら、集まった見物人の中で風見家を知る者達は、一人、また一人と口を開いた。
まるで、禁断の秘密を紐解くような甘やかさで。笑みの寸前のような歪な顔で。集団で一人を苛める子供達のような酷薄さで。甘い蜜にした不幸を口に含んで語っていた。
最初は語りに躊躇を覚えていた者も、やがては舌を滑らかに動かして語りの輪へと加わった。張りのある声の唱和は呪詛めいた儀式のように夜闇の喧騒に紛れて響き、陰惨な火事場は罵詈雑言の坩堝と化した。
また、燃え盛る家の窓硝子の向こう側で、きりきり舞いをする女の影を見た者もいるという。そんな真偽不明の目撃談も、この事件に得体の知れない不気味さを添えていた。
「……以上だ。質問のある奴はいるか?」
その問いかけに、最初は誰も返事ができなかった。
「……」
沈黙が、耳に痛い。公園の隅で蕾をつけた桜の木が、梢をさわさわと揺らせている。
その沈黙を、破るのは――この語り部、三浦恭嗣の甥である、自分の責任だと思った。
「ユキツグ叔父さん、それ……なんで、早く教えてくれなかったんだ!」
周囲の面々が、ざっと柊吾に視線を向けた。
皆が皆、怯えたような目をしていた。明らかに全員が同じ質問をしたいのに、それが出来ずに苦しんでいる。柊吾だって同じ思いだ。そこへ理不尽さへの怒りが加わり、胸を熱く焦がしていく。
だが噛みついた柊吾の訴えを、「言えるか、こんな話」と恭嗣はばっさりと切り捨てた。
「家には撫子ちゃんが居ただろうが。こんな話、今のあの子には聞かせるべきじゃないね。いずれ知る事になるにしても、だ。シュウゴ。お前にだって分かるはずだ」
「それは、そうだけど……っ、けど、車の中で言ってくれたって……!」
柊吾は文句を重ねたが、恭嗣は心底不本意でならないといった表情で腕を組んだ。
「あのなあ。正直に言うけどな、俺はこんなヒデェ事件、ほんとにお前らに言いたくなんてなかったんだ。けど風見さんとこのお嬢さんには、因縁があるみてえだしな。それにここまで大事になっちまった以上、シュウゴ達の耳に入るのは時間の問題だ。ならせめて変な尾ひれ付いたもんが伝わるよりは、俺から言うことにしたって話だ」
まるで取りつく島がない。柊吾は歯噛みしながら、反論の文句を捻り出そうと躍起になる。
すると、挙手する者があった。
「……質問が、あります」
澄んだ声の元へ視線が集まり、柊吾は純粋に驚いた。
発言の主は、和音だった。青白い頬には、頭部からの出血の痕が残ったままだ。伏し目がちだが真っ直ぐに、恭嗣の顔を見つめている。
「おばさんは……風見美也子さんの、お母さんは、どうなったんですか」
沈黙が、再び場を満たすかと思われた。
だが恭嗣は、場の空気が凍るのを、これ以上良しとはしなかった。
首を緩く横に振って「死んだよ」と、実に素っ気なく言った。
それでも、冷えた空気がドライアイスのように寂れた公園に広がった。
毬が茫然の表情で「死んだ……?」と恭嗣の言葉を復唱する。もしかしたら美也子の母親と、顔見知りなのかもしれない。
「毬、しっかり」
七瀬が毬に寄り添い、「日比谷くんも」と同じく蒼ざめた顔の陽一郎を叱咤する。そして和音を振り返ると、「和音ちゃんもね」と小さく言った。
和音は七瀬に頷くだけで、「……そうですか」と、恭嗣に遅れた返事をした。
その顔色は、毬以上に蒼かった。
――ここにいる大人がもし、恭嗣でない人間なら。
美也子の母という人間の死を、もっと柔らかな言葉に置き換えて、皆に伝えてくれただろう。
だがここに居るのは、柊吾の叔父だ。
この場には不要な甘やかしの一切を、排した言葉しか口にしない。端的な言葉が時として優しさになることを、恭嗣は知っているのだ。
いつしか薄らいだ怒りを感じながら、そんな風に、柊吾は思う。
「……坂上」
隣に立つ拓海を、柊吾は腕で小突いて小声で呼んだ。
そうやって恭嗣には気取られないよう、視線を前に向けたまま囁く。
「どうする」
拓海の顔を見ないまま返事を待つと、「まずいな」とひそひそ声が返ってきた。
「何がだ?」
「佐々木さんの、立場が。それにもし佐々木さんが自分の行動を話したら、ややこしい事になる。ここは黙っててもらった方がいい」
「ややこしい事って、なんだ?」
「三浦の叔父さんに、俺らの行動全部を話してる時間はないんだ。佐々木さんの時にも同じ理由で説明を端折っといて、こんな言い分は酷いって分かってるけど……えーと、本当にごめん。三浦の叔父さんのこと、協力者には引き込みたいけど、お説教の方は食らってるどころじゃない」
「……坂上、やっぱりお前、時々言い方えげつないぞ」
「う……ごめん」
謝った拓海は「三浦はそのまま」と言い残すと、和音の傍に歩いて行った。
和音は急に近寄ってきた男子生徒を見ると、何故か赤面して後ずさった。
柊吾は、奇妙な反応に首を捻る。
少し会わない間に拓海との距離感が変わったようだが、赤面する必要はないはずだ。
妙に警戒している様子の和音の隣に、拓海が並ぶ。
そして何事かをごく自然に耳打ちしたので、柊吾は意味を理解した。
拓海の唇は、こう動いていたのだ。――佐々木さんの所為じゃない。
和音の顔から、強張りが解けた。不意を打たれたような驚きが表情に緩く広がっていき、拓海の顔を見上げている。
そんな和音と視線を合わせないまま、拓海はその時だけ浮かべた笑みを引っ込めて、真剣な面持ちで進み出ると、恭嗣を見上げて対峙した。
「家には、風見さんのお母さん一人だけだったんですか」
「ああ、一人だ。娘も旦那もいねえ」
恭嗣が、探るような目で拓海を見る。柊吾には恭嗣が面白がっているのだとはっきり分かった。拓海がどこまで知っているか、試そうとしているのだ。
だが、拓海も負けてはいなかった。
「いえ。そんなはずはありません。日比谷、そうだよな?」
きっぱりと言い切ると、陽一郎に水を向けた。
「えっ? 僕?」
陽一郎は怯えたが、全員の視線に取り巻かれて観念したのだろう。たどたどしく話し始めた。
「えっと……さっき僕のお母さんから電話があって、言われたんだ。みいちゃんのおうちで小火騒ぎがあって……様子を見に行くんだ、って。柊吾の家族と撫子のお母さんとも、合流するって言われたよ」
「三浦の叔父さん。この通りです。俺らに情報が『小火騒ぎ』として伝わったのは、まだ日比谷のお母さんが火事をご自分の目で見て確かめてなかったからです。今からもう一度電話で確認をすれば、情報は更新されているはずです」
はきはきと、拓海は言った。まるで犯罪の証拠を突きつける探偵のように、陽一郎の証言をもとにして、さらなる確認を重ねていく。
「日比谷、続けて。他にはどんなことを聞いた?」
「うん……僕の帰宅が遅いし、最近みいちゃんから家に電話がかかってきたことも、お母さん知ってるから……僕が何か事件に巻き込まれたんじゃないかって、心配したんだって。それで柊吾の家にも電話をしたみたいなんだ」
「……ユキツグ叔父さんが母さんと出かけてった理由って、これの事だったのか」
ようやく経緯が目に見えて、柊吾は思わず口を挟んだ。
――撫子が風呂から上がった頃に、柊吾の家にかかってきた一本の電話。
あの通話をきっかけに、恭嗣と母は家を出てしまった。
――陽一郎の母親と、落ち合う。
そう告げて出かけて行った先で、恭嗣達が何を話し合ったのか。それさえも柊吾は知らされていなかった。
おそらくは陽一郎の帰宅が遅い所為で何かしら連絡があったのだろうと、あやふやな推測を立ててはいた。それ以降は事実を確認しようにも慌ただしく、撫子が落ち着いた頃には件の陽一郎本人から電話が入り、七瀬と和音の喧嘩を止めてくれと嘆願されてしまった上に、ようやく帰宅した恭嗣は、撫子の母親を伴っていた。目まぐるしく過ぎる時間の中で、舞台裏を知るのは困難だった。
事情が分かってほっとしたが、状況の不穏さは変わらない。
知らず手に力がこもるのを意識して、柊吾は己の焦りに歯止めをかける。
――自宅には、撫子と母を残しているのだ。
もし、これ以上何かが起こるなら――絶対にここで、食い止めなくてはならない。
「小火騒ぎの電話があってから、ついさっき、お母さんからメールもきたんだけど……」
陽一郎がびくびくと、小動物のように縮こまって恭嗣を見上げた。
そして次に放たれた言葉に、全員の時が等しく止まった。
「あの、みいちゃんの家族、家には娘も旦那もいないって、さっき言われたけど……旦那さん……みいちゃんのお父さんは、家に帰ってきたんだよね?」
「……風見の、父親が?」
柊吾は、耳を疑った。
仲間達と目配せを交わし合うと、全員が驚きを顔に浮かべていた。これらの情報は毬も一部は聞いたようだが、どうやらこの話は初耳らしい。意外そうに目を瞬いている。
「そういえば、あいつの母親のことは話題に挙がっても、父親のことは誰も証言してねえな」
ぽつりと小声で、柊吾は言う。
騙し絵を見ていたことに、遅れて気付かされた気分だった。
――風見美也子の、父親。
美也子の母親のインパクトが強すぎて、父親の存在など忘れていた。
だが、この人間も間違いなく――今回の事件の、当事者だ。
「……事情が横から駄々漏れじゃあ、駆け引きなんて成り立たねえな」
恭嗣は、鼻を鳴らした。不機嫌が態度に滲み出ている。どうやら陽一郎の母親が、これほど喋るとは思っていなかったようだ。
律義な拓海は「すみません」と、少し申し訳なさそうに謝っている。
目に諦めを浮かべた恭嗣は、微かな微笑みを唇の端に引っ掛けて、さっきと同じ質問を繰り返した。
「……どこまで聞いた?」
「日比谷が今言ったように、旦那さんは帰ってきたことは聞きました。火事を見てかなり取り乱されたそうですね。今どうしてるかは聞いてません。でも予想はつきます。警察で取り調べを受けているんじゃないですか」
「お前さんは、まるで見てきたように喋るんだな……なーんか俺の悪友に、喋り方が似てるしさあ……まあ、当たりだがな」
呆れたように恭嗣は言って、腕組みをし直した。
「風見の親父さんの方は見つかったよ。こっちも撫子ちゃんのことがあるんでな、すぐに問い詰めたかったんだがなあ……ありゃあ、話にならん。家に帰ってきたら家が全焼じゃあ、取り乱すのも無理はないがな」
「話しにならないって、どういう意味だ?」
気になった柊吾は、もう一度口を挟んだ。
「さっきの言葉通りだ。錯乱してんだよ」
恭嗣は答えると、濃紺の空を仰いで目を眇めた。
夜風が、冷たく吹きすさぶ。髪が濡れている七瀬がくしゃみをして、毬が寒そうに身体を震わせた。そちらを気遣うように見た恭嗣が、やや早口で続けた。
「というよりな、あの人は事情が全く呑み込めてねえんだ。消火活動中の家に帰ってきた風見さんの父親な、あー、これは中学生の前でする話じゃないんだがな……」
一拍の間を置いた恭嗣は、居心地悪そうに短い頭髪に手をやった。
そして「三日間ほど、家を空けてたんだ」と苦し紛れに告げた。
柊吾は、その言葉の意味を汲み取る。
他の中学生達も同様だ。わざわざ意味を、訊き返すような事はしない。嘘をつけない不器用さが、いかにも恭嗣らしかった。
居心地の悪い空気が、場に薄らと広がった。
「あの父親は、娘の居所すら知らねえんだ。今日は高校受験当日だっていうのにな。奥さんが死んだってことを聞かされても、魂が抜けたみたいな顔して聞いてるかと思いきや、突然泣きながら笑い出して……」
そこで、恭嗣は言葉を切って首を振る。
その判断理由にすぐさま気づき、柊吾は恭嗣を思わず睨んだ。
おそらくは、これは中学生相手に打ち明ける内容ではない、と。内心で勝手に精査されて、口を閉ざされてしまったのだ。
「あの人は風見美也子ちゃんの父親でも、部外者みたいなもんだ。それでもあの父親の娘がやったことは、何も変わらないし動かねえ。明日、必ず出直すさ」
「ユキツグ叔父さん。待った。さっき何を言いかけたんだ? 風見の父親のこと、もっと聞かせてほしい」
「聞かなくていい」
「三浦、ストップ。もう少し俺に話させて」
恭嗣と拓海から、同時にぴしゃりと諌められた。柊吾は渋々と引き下がり、二人に視線で会話を促す。
先に頷いたのは、拓海だった。
「じゃあ風見さんの父親は……自分の娘が、袴塚市の花を切って回ってたことを知らないんだな」
「花ぁ? なんだそりゃ」
「風見美也子さんは、一昨日から今までの間、鋏を持って住宅街の花を切って回った犯人の疑いが強いんです。ほら。あそこの花壇を見て下さい。花の部分だけ切り落とされています」
拓海が、公園の入り口を指でさす。振り返った恭嗣が、怪訝そうな顔をした。
柊吾は拓海の意図を感じ取り、思わず感嘆の吐息をもらした。
――どうやら拓海は美也子のことを、『花の切り取り事件』の犯人として、恭嗣に紹介すると決めたらしい。
その上で、呉野氷花の異能については、今は一切を伏せる気だ。
和音の行動も、美也子の狂気も、氷花の〝言霊〟の異能が関わってくる以上、説明が非常に困難だ。
今は拓海が言うように、説明する時間も余裕もないからだろう。
それに、こういうやり方を選んだのは……おそらくは、拓海の優しさだ。
ちらと、柊吾は和音を見る。
すると、視線が合ってしまった。
「……」
和音は気まずそうに黙したが、やがて七瀬を伴って、柊吾の隣までやって来た。
「……あの人。私のこと、庇おうとしてる? 私が、怒られたりしないように」
「……だろうな」
「……撫子ちゃん、は?」
「大丈夫だ。軽傷だって。熱は出したけど、気持ちはしっかりしてるから。……佐々木のことも、心配してた」
和音が、俯いた。
横で黙って話を聞いていた七瀬が、穏やかに笑った。
「そっか。よかった」
その笑みを見て、柊吾は漠然と理解する。
七瀬はここに柊吾がやって来た時点で、撫子の無事を確信していたのだろう。大げさな喜び方を想像していただけに、ふっと肩から力が抜けてしまう。ごく薄い笑みが、柊吾の顔に浮かんだ。
泉に飛び込んだ七瀬のことは、柊吾や撫子の方でも気がかりだったのだ。
暴れられるほど元気なら、七瀬らしくて何よりだ。
「……ごめんなさい」
和音が軽く頭を下げて、小声で謝ってきた。
「……こっちこそ。いろいろ悪かった」
素直な気持ちで、柊吾も言った。
事件がここまで激動を見せた今、和音への怒りなど、心に欠片も残っていない。
それに、考え方を変えたなら――今の状況は、柊吾としては悪くないのだ。
「……お前のおかげで、雨宮といろいろ話せた、と、思う。佐々木も、今日のところは坂上に任せたらいい。あいつなら、何とかまとめてくれるから」
「……それは、困る」
つい、と和音が目を逸らした。
またしても、頬を赤らめている。
謎の反応に柊吾が呆けていると、七瀬がくすりと、悪戯っぽく笑った。
「和音ちゃんに、私と坂上くんとのこと話したら、さっきからこうなの」
「七瀬ちゃんは油断し過ぎ。これからはスカート丈ももうちょっと長くして。あの人、絶対危険だから」
「もう、風紀委員みたいなこと言っちゃって。彼氏だからいいんだってば」
「そういう問題じゃないから」
「おい篠田……どんな話し方をお前はしたんだ……」
拓海があまりに不憫だった。頭を抱えたくなったが、このガールズトークが万一拓海の耳に入ったなら、全体の士気にも関わりかねない。柊吾は何も聞かなかったフリをした。
「風見さんの家の火事現場では、さっき三浦の叔父さんが話して下さったような色んな証言が飛び交っていたそうです。そのほとんどは、『風見さんの家は表面上は綺麗に見えるけど、実は壊れた一家だ』という内容のものでした。俺が日比谷から聞いた内容も、だいたい同じです」
背筋を伸ばし、拓海は淀みなく演説している。
凛と張られた声からは、薄らとだが自信を感じた。
拓海の立ち姿を見守りながら、柊吾の胸に、憧憬の念が萌していく。
――出会った頃は、少し挙動不審なものの、普通の同級生だったのに。
拓海は、異能の事件に関わる中で、本当に、逞しくなったと思う。
「風見さんの近所の人達は、家から聞こえてきた色んな言葉を覚えていました。――『死にたい』。『娘を殺して私も死ぬ』。『汚い家族』。『どうすれば綺麗になれるのか』……」
「おいおい……日比谷さんはそんな事まで喋ったのか……」
恭嗣が右手で顔を覆って呆れている。
その様子を細めた瞳で見た七瀬が、ぽつりと誰にともなく言った。
「女の子はミーハーだもん。子供も大人も関係ないよ。喋りたかったらとことん喋るんじゃない? ヤな話って火がついたら、燃え広がるの早いでしょ」
「七瀬ちゃん、言い方が不謹慎。ほんとに燃えてるんだから」
嘆息した和音が、七瀬を腕で小突いている。
この二人も随分と、雰囲気が柔らかになったものだ。柊吾も和音のように吐息をつくと、会話に意識を戻した。
――恭嗣と陽一郎、そして拓海による告白は衝撃的だった。
とはいっても、予想の範疇ではあった。
東袴塚学園で、美也子という少女が抱えた歪さは既に聞いているのだ。和音が、陽一郎が、撫子が、拓海の先導で証言した。
それらに思いを馳せるうちに、ぴんとくるものがあった。
「……あ。まさか」
異能の事件に関わるうちに、いつの間にか柊吾の中にも育っていた理解力。変貌する人間の心が辿る、狂気の道へのメカニズム。
それらに導かれるようにして、何となくだが得心した。
――美也子の家が、何故燃えてしまったのか。
「うん。三浦の考え通りだ」
首肯した拓海によって、正解は厳かに〝言挙げ〟された。
「三浦の叔父さん。現場を見に行かれたなら、何か聞かれたんじゃないですか。風見さんの家がどうして燃えたか。放火か、それとも、別の理由――風見さんが自分で火をつけたのか」
「どうしてそう考えたのか、聞かせてもらおうか」
にやりと、恭嗣が愉快気に笑う。薄らと漲った緊張感に、柊吾は唾を呑み込んだ。
いつしか二人の問答は、東袴塚学園での論戦の様相を呈していた。
「想像するしかありませんが、風見さんの母親が、『家を燃やさなければ救われない』と思い詰めたからだと思います」
淡々と拓海は答え、恭嗣は突拍子のない言葉に目を丸くした。
「家を燃やさないと、救われない?」
「はい。さっき俺が日比谷から聞いたことを、もう一度おさらいします」
そう断ってから、拓海は語りに合わせて指を一本、二本と立てていった。
「風見さんのお母さんは『死にたい』と思っていました。『娘を殺して私も死ぬ』。そんな言葉を思わず言ってしまうくらいに、心が追い詰められていたんです。自分達のことを『汚い家族』だと思い込んでいたんです」
言葉に誘い込まれるように、柊吾はその心理を想像した。
美醜の狭間で懊悩し、孤独に追い詰められていく一人の大人。
さっき七瀬が、子供も大人も関係ないと言っていた。何気ないその台詞が、酷く象徴的なものに思えてきた。胸に訴えかけてくる切実な何かが、確かにそこに鎮座している。
その引っ掛かりに、目を向けて――柊吾はようやく、思い出した。
神社の神主である男も――今にして思えば、柊吾達に問いかけていたからだ。
――拓海君。人は弱い生き物です。より強いモノが現れれば、たちまち淘汰されてしまう。価値観は自我と共に崩落し、自他の境は融解し、己のものなど何もなくなる。
――その暴虐に、人はどこまで抗うことが出来るでしょうか? あるいは大人なら耐えられるでしょうか? 人のままでいられるでしょうか? 紛れもなく正気だったはずの魂は、果たして狂わずにいられるでしょうか?
――君達は同じ立場に立たされた時、己の魂の健全さを、守ることができますか……?
氷花の〝言霊〟の異能によって、異常な狂気に染まった美也子。
その美也子に〝フォリア・ドゥ〟で感応して、同じ狂気に染められた母親。
この和泉の歌うような〝言挙げ〟は、美也子の母親を指していた。
そうやって言葉で示した上で、呉野和泉は柊吾達に問うたのだ。
美也子の母が和音と撫子に襲い掛かり、一触即発の空気の中で、呉野和泉という人間だけは、美也子の母親を案じていた。
異能を持った和泉にだけは、美也子の母親の抱えた苦痛と、その先に待っている破滅までもが、予め『判って』いたからだろうか。
いや、それだけではないはずだ。いまだ複雑な心境のまま、柊吾は、それでも頭を振る。
――きっと、異能の存在など関係ないのだ。
呉野和泉という人間だから、個人の痛みを斟酌できた。
思い出せ、と柊吾の中で訴える声が響いている。今回の事件で、和泉は明らかな敵方として柊吾達の前へ立ちはだかった。
だが本来の柊吾達の関係は、こんな形ではなかったはずだ。
だから東袴塚学園で、拓海も、撫子も、言ったのだ。
和泉がこんな態度を取ることには、何か理由があるのでは――と。
「じゃあ、『どうすれば綺麗になれるのか』。美しさと汚さに拘り過ぎなくらいに拘ってしまって、その状態から抜け出せなくなった風見さんの母親は、ついにその答えを決めてしまったんだ。――それが、『家を燃やす』ことです」
拓海の語りは、続いていた。全てを吹っ切ったような口調から、柊吾は悟る。
きっと拓海も、呉野和泉の言葉を思い出している。
「燃やせば、何もなくなります。――だから。全部、白紙に戻せばいい。自分が『汚い』と思ったもの全て、この世から自分ごと消し去ればいい。それを実行に移すことで――やっと、救われたんだと思います」
「何だか、暴論に聞こえるけどな……自殺だ、と。そう言いたいのか」
「……こんな推測を立てなくても、明日のニュースでそういう報道をされるはずです」
拓海は、寂しい微笑を浮かべた。
死者の存在を論った罪深さを、自ら背負い込んだかのように。
「自殺がこのタイミングだったのは、娘の美也子さんの失踪が引き金になった可能性が高いからです。今日は高校受験でしたが、美也子さんはおそらく、受験をすっぽかしました。人が耐えてきたものが、限界を迎える瞬間とか、そういう、何かが振り切れる時って……こういう事の、積み重ねっていうか……上手く、言えないんですけど……」
拓海の声が、急に萎んでいった。
みるみる歯切れ悪くなる言葉を、皆が不思議そうに聞いている。柊吾もその内の一人だったが、和音だけは違った。
思慮深い眼差しで、どこか痛ましげに拓海を見ている。
喪に服すような沈鬱さから、柊吾も隠された意味に気が付いた。
四苦八苦しながらも、拓海が〝言挙げ〟をやめないのは――やはり和音の為なのだ。
この話の流れでは、美也子の母の突然の自殺は、和音の登場によって促進されたと聞こえかねない。
もちろん、和音が美也子の家を訪れたことは、柊吾達しか知らない。
だがこの議論を聞いた和音は、己の行動を知っている。
だから拓海は、和音に聞かせる為だけに、語り続けるのをやめないのだ。
和音の所為ではないのだと、先の言葉通りに訴える為に。恭嗣にとっては聞く必要のない、だが和音にとっては必要だと拓海が信じる〝言挙げ〟を、真摯な思いで続けている。
「……佐々木。坂上のこと、見直してやれよ」
こっそり耳打ちすると、「……考えとく」と小声で言われ、ぷいとそっぽを向かれてしまう。つくづくと、柊吾は嘆息した。
偶然か必然か、集められた中学生メンバーは――本当に、癖のある人間ばかりだった。
「でもこれは、あくまで有力な可能性の一つです。……本当の理由は、別の所にあるかもしれない」
そう呟いた拓海は、この時だけ、真剣そのものの顔で沈黙した。
ぞっとする凄みを刹那感じたが、たとえ追及したとしても、恭嗣の前だ。歯痒さを感じながら、柊吾は疑念を呑み込む。
拓海の奮闘を、恭嗣がどう見たのかは分からなかった。
もしかしたら中学生同士の結託など、全部お見通しなのかもしれない。
腕組みをやめた恭嗣は、ふっと煙草の紫煙を吐き出すように、息を吐いた。
「よく考えたもんだな」
その言葉を聞いた拓海は、「もう一つ、分かることがあります」と言って、公園にいる全員を見回した。
「風見美也子さんのことだけど……多分。もうじき見つかると思うんだ」
「……何?」
恭嗣が、色めき立つ。柊吾も、度肝を抜かれた。
――美也子が、見つかる?
「待った、坂上。話が読めねえぞ。そういえば風見の奴、今はどうなって……」
「ああ、ごめんな。そういえば三浦は知らなかったっけ……風見さん、今は行方知れずなんだ」
拓海の言葉に、何人かの表情が変わった。
柊吾は意外な反応に驚き、顔色を変えたメンバーを見る。
――七瀬、和音、毬、陽一郎……つまり、柊吾以外の全員だ。
一目で分かった。拓海は今、嘘をついた。
本当は全員が、美也子の居場所に心当たりがあるのだ。
「でも、すぐに見つかると思います」
掴みかからんばかりに近寄った恭嗣に、拓海はひやりとした焦りを顔に浮かべながらも、声だけは冷静に答えていた。
穏やかな面立ちに、仄かな笑みが浮かぶ。
その淡さから無償の愛にも似た慈悲を感じ、柊吾は純粋な驚愕で絶句する。
今、初めて思ったのだ。
拓海のことを、ある人物に似ている――と。
「……俺の知り合いにも、そういうわけ分からん予言をする奴がいるけどさあ、一体、何の冗談……」
恭嗣が茶化した風に、それでいて真顔で言った瞬間だった。
電子音が、鳴り響いた。
「あっ」と陽一郎が声を上げた。慌てた様子でズボンのポケットから携帯を引っ張り出し、周囲の顔色を窺ってから、フリップを開いて画面を見る。電話ではなく、メールの着信だったようだ。
陽一郎の目が、やがて大きく見開かれた。
「陽一郎、見せろ!」
柊吾は茫然とする陽一郎の手から携帯をもぎ取ると、画面に視線を走らせる。
メールの送り主は、やはり陽一郎の母親だ。早く帰ってきてほしいという文章から始まり、受験の手応えを訊く言葉。柊吾は忙しく、文面を下方へスクロールしていった。見たい言葉は、知るべき情報は、その先に必ずある。
そして、遂に見つけたその言葉に――柊吾は、息を呑んだ。
顔を上げると、鬼気迫る表情で、皆が柊吾を見つめている。
柊吾は気圧されながら、乾いた声で、新たに判った事実を告げた。
「風見美也子が、見つかった。……藤崎さんが、保護したらしい」
恭嗣が、愕然の表情で拓海を見ている。
拓海はその視線に、幾らかの気後れと羞恥を交えたような顔で応えてから――戦いに臨む緊迫感を孕んだ目で、宣戦布告のように言った。
「これはきっと――イズミさんの、筋書き通りだ」




