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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 85

「……よかった」

 拓海はそう呟いて、ほっと胸を撫で下ろした。

 公園の中央では、七瀬と和音が折り重なるように倒れている。

 何事かを語らっている様子の二人は、やがてそろりと身体を起こすと、拓海達に背を向けて、体操座りで寄り添い合った。

 穏やかな時の流れを感じ取り、拓海は目を細めて微笑んだ。

 七瀬も和音も、これからはきっと良い友人になるのだろう。それが自分のことのように嬉しかった。

「……終わったみたいだな」

 突然背後から声がかかり、拓海はびっくりして振り向いた。

「三浦……!」

 柊吾が、そこに立っていた。

 制服は既に着替えていて、ダウンジャケットにジャージのズボンという出で立ちだ。手には何故か、可愛らしい藤編みのバスケットを提げている。隣では陽一郎が、びくびくと肩を縮こまらせ立っている。

 その手に握られた携帯を見て、拓海はからくりを把握した。

 道理で、先程から陽一郎が静かだったわけだ。

「陽一郎の阿呆が、さっき電話で泣きついてきた。篠田と佐々木が女子とは思えない暴れ方してて、誰にも止められないから助けてくれ、だとよ」

 むすっと唇を結んだ柊吾が、陽一郎を睨んだ。

「だってぇ」

 陽一郎は潤んだ目で言い返すが、柊吾はあからさまに不機嫌なままだ。

「まあ、間違いじゃないけど……」

 拓海は、苦笑いで応えた。陽一郎はもう少し言葉を選ばなければ、そのうち七瀬辺りに締め上げられる気がする。

「でも、三浦が言うように終わったよ。……三浦。まだ佐々木さんのこと、怒ってる?」

「……別に、怒ってねえし。あいつにも言われたんだ。佐々木に会うなら、怒らないでくれって」

 ばつが悪そうに目を逸らす柊吾の、目元が赤いことに拓海は気付く。

 撫子と、何かあったのだろうか。

 あるいは家族から、厳しい言葉を投げかけられたのだろうか。

 だが涙の痕とは裏腹に、柊吾の様子は晴れやかに見えた。

 まるで拓海達の頭上に広がる澄んだ濃紺の夜空のように、厚い雲を取り払ったような清々しさが、横顔から伝わってくる。

「雨宮、言ってた。学外に出てからは、佐々木にだいぶ助けられた、って。そもそもあいつらが学外に出なかったら、こんな事にはなってねえけど……あんな血だらけになってまで守ってくれた奴に、どうこうなんて言えねえだろ」

「……佐々木さんも、雨宮さんのこと気にしてるみたいだったよ」

 弁護のつもりで、拓海は言った。

 和音と撫子の間には、友情と呼べるものが生まれている。和音を見ていればそれくらいは分かるのだ。

「ああ。分かってる」

 その言葉通り、柊吾にも分かっているのだろう。

 和音を見る柊吾の目に、怒りの感情は見当たらない。感情の嵐が過ぎ去った後の、穏やかな凪だけがそこにあった。

「……坂上。佐々木の怪我は、大丈夫なのか?」

「ああ、うん。病院を勧めたけど断られた。本人は平気って言ってるし、見た感じは本当に平気そうだけど……その後ですぐこういうことになっちゃって……ごめん。病院行こうって、もう一回説得してみる」

「お前が謝ることじゃねえし……っていうか、俺の方も悪かった。お前に後のこと全部任せて帰っちまって」

「それは、気にしないでいいよ。誰も気にしてないし、それに」

 拓海は、仲間ひとりひとりの顔を見回してから、笑う。

「俺、一人じゃないし。皆がいたから、平気だよ」

「……そうか」

 柊吾も微かな笑みを顔に浮かべて、公園の中央に目を向けた。

 そこではまだ七瀬と和音が、膝を抱えて座っている。和音が時折びっくりした様子で七瀬の横顔を振り返り、頬を朱に染めている。

 ……一体、何を話しているのだろう。

 自分が話題になっている気がして、拓海はそわそわと落ち着かない。何となく、まずい話題のような気もする。だが七瀬と和音が楽しそうにしているので、まあいいか、とも思ってしまった。

「佐々木と雨宮が、東袴塚学園を出た後のこと。俺、少しだけ聞いたんだ」

 語らう和音と七瀬を見ながら、柊吾がぽつりと言った。

 驚いた拓海は、柊吾に期待の目を向ける。

「じゃあ佐々木さんと雨宮さんの行動、何か聞けた?」

 柊吾は、重々しく頷いた。拓海の背筋が、自然と伸びる。

 どうやら、覚悟が必要になる話のようだ。

「学校出てから風見の母親に捕まって、家に連れ込まれたって言ってたぞ。髪の色で雨宮だってバレたらしい。ほら、あいつの髪の色、周りと少し違うだろ」

「ああ……うん」

 栗色の髪を思い浮かべ、拓海は頷く。

 柊吾は、険しげな顔になった。

「あの母親は、雨宮のこと……良く思ってなかったらしい」

 その心理を、拓海は想像してみる。

 小五の同級生の、母親。苛めの加害者の、母親。

 果して風見美也子に、己が苛めっ子だという自覚はあっただろうか。

 また、果たして美也子の母親に、己が苛めっ子の母親だという自覚はあっただろうか。

 ――それに、紺野沙菜の遺書。

 和音がずっと手に持っていた、小型のノート。

 そこに綴られた内容を、拓海は知らない。和音からはもう少し、話を聞き出す必要があるだろう。

 とはいえ、揃った証言と物証から、何となくだが筋は読める。

 美也子の母親は、撫子に対して――筋違いで、同時にある意味では正当な、怨恨を抱いているのだろう。

「佐々木の機転で『篠田』って偽名使ったらしいけど、あとは俺らが電話で聞いてた通りだ。正体がバレて、襲い掛かってきたそうだ。……坂上。この母親に対して、俺らがこれからどう出るかは……俺らだけで、決めない方がいいと思う」

 その言い方に、冷たいナイフをひやりと背に当てられた気分になった。

 柊吾は、拓海の目をひたと見る。

 そうやって、あの時の拓海達に見えなかった現実を、淡々と端的に口にした。

「雨宮と佐々木は、その母親から、包丁向けられてる」

 拓海は瞠目して、何かを言おうと口を開けて、何も言えずに言葉を呑んだ。

 驚きよりも、納得の気持ちの方が強かった。生々しい狂乱は、学校で携帯から中継されていたのだから。

 毬と陽一郎は、ぎょっとした様子で竦んでいる。それでいて非現実的な内容に、リアルな感情が追いつかないでいるのだろう。驚きの気持ちを掴みあぐねているような、もどかしげな顔で黙っていた。

「この話は、まだ大人にはしてない」

 緊張感が互いの間を伝播する中、柊吾は険しい顔のまま拓海を見た。

 勇壮な、目つきだった。

 何らかの決意をそこに感じ、拓海は密かに、身構える。

「ユキツグ叔父さんとかに話す前に、雨宮と佐々木から話を聞いて、それに坂上、お前にも話を全部聞いてもらってからにしたかったからだ。……けど、大人には絶対に話すつもりだ。だから、坂上。どういう形で話すかを、これから皆で決めさせてほしい。できるだけ、早めに。時間がないんだ」

「……うん」

 拓海は、頷いた。緊張で硬くなった身体から、自由を奪い返そうとするように。

 まだ、終わっていないのだ。その実感を、新たにする。

 事件は何も、終わっていない。

 〝アソビ〟の後始末は、ここからが本番だ。

「あいつらが、東袴塚学園出てからのこと。全部聞き出せたわけじゃない。それに雨宮は、多分まだ何か隠してる。学校を出てすぐに風見の母親に捕まったって言ってたけど……なんか、それだけじゃない気がする」

 そう言った柊吾は、この時だけ合点がいかない様子で目を細めたが、「けど、今はいい」と頭を振った。

「佐々木のことは、責めたりなんかしねえから。安心しろ」

 安堵する拓海だが、隣から毬がそわそわとこちらを見上げているのに気づき、はっと柊吾に向き直った。

 事件のこれからも大事だが、それより先に、確認したいことがある。

「三浦。あの、雨宮さんの具合は……」

「ああ。大丈夫だ」

 打てば響くように、柊吾は答えた。

 明快な答えだった。真っ先にそれを話すべきだったと己の失態を悔いるような顔つきからも、拓海はこの報告の明るさを、言葉より先に理解した。

「指の爪だけは、一応明日の朝一で医者に診せる。他は、母さんの見立てだと軽傷だって。……気持ちの方も、もう大丈夫だと思う」

 ――深い安堵で、胸が潰れそうになった。

「……よかった」

 毬が涙ぐんで、両手で顔を覆った。拓海も「よかった」と絞り出すように口にすると、頭を垂れて、膝に両手をついてしまう。

 よかったと、思う。本当に、よかったと思う。

「雨宮、お前らの心配してたぞ。謝りたいんだと。俺が出かけるって言ったら、付いてきたがってた」

 面々の反応が、柊吾にとっても嬉しかったに違いない。声音には労わりの響きがあった。

「そんな、謝ることなんてないのに」

「俺からもそう言ったけど、特に篠田と坂上、お前らには……怪我させたこと、気にしてるっぽい」

 拓海は身体を起こし、渋面を作った柊吾と向き合う。

 気持ちは同じだったので、こちらも表情を陰らせた。

 あの森での、出来事を――撫子は、記憶しているらしい。

「……忘れてくれたら、いいのに」

 囁くように拓海が言うと、柊吾も浅く首肯した。

 やりきれない思いまで、共通しているようだった。

「何となく、そのうち忘れるような気はするんだ。中二の時の事件だって記憶があやふやになってきてるって、篠田に相談してたらしい。それでもあの時の事を、雨宮が何とか覚えていられたのは……あいつ自身が、自分がやった事を、真剣に受け止めてたからなんじゃないか……って。俺は、そう思ってる」

 つっかえながら言う柊吾に、拓海はふと、見入ってしまう。

 柊吾の雰囲気が、少し会わない間に変化した気がしたのだ。

 自分の内面で雲のように揺蕩うものを、何とか言葉の形に変えて掴もうとしている。そんな悪戦苦闘が感じられる、不器用ながらも懸命な、言葉探し。

 友達の変化を気取った拓海を、柊吾の方でもすぐに気取ったようだった。

 照れたように頭髪を掻き回してから、毬と陽一郎の目を気にしてか、拓海の腕を掴んで歩こうとする。

 公園内にベンチがあるので、そこに移動するつもりだろう。

 拓海が抵抗せずに従うと、「ねーねー柊吾どこ行くの?」と陽一郎が子犬のように追ってきたが、「多分内緒話だよ、待ってよう?」と察しのいい毬からやんわり止められている。

「ごめんな二人共、ちょっとだけ待ってて」

 振り返って謝る拓海を、柊吾が今更のようにまじまじと見てきた。

「っていうか坂上、何でそんな格好してるんだ?」

「……い、いろいろあって」

 彼女に身ぐるみを剥がされたとは、さすがに言えない拓海だった。

 柊吾は公園の中央にいる七瀬の学ランへ一瞥を寄越すと、「……大変だったな」と雑に拓海を労ってから、白いベンチに腰を下ろした。

 拓海も隣に座ると、柊吾は二人の間にバスケットを置いた。

 さっきから気になっていたが、これは一体何だろう。

 訊こうとすると、柊吾が消え入りそうな声で、言った。

「……雨宮と、話したんだ」

「……うん」

 神妙な様子に、拓海も引き込まれて唾を呑む。

「……雨宮が、俺に言ったんだ」

「……雨宮さん、なんて?」

「お……俺のことが、好きだって」

「……。それ、森でも言ってなかったっけ?」

 思わず突っ込みを入れた拓海に、柊吾は返事をしない。顔を真っ赤にして俯きながら、訥々と言葉を継いでいる。

「俺からは、そういうの、ちゃんと言ってこなかったから……あんな誤解、させたんだ。っていうか、まだ誤解されてると思うし、ちゃんと信じてもらうのに、時間かかりそうだけど……」

「?」

 話がさっぱり読めなかった。

 とはいえ柊吾なりに必死なのは伝わってくるので、拓海は無理に理解しようとはせずに、「そっか」と相槌だけを打って、話の先を促した。

「まだ雨宮とは、これからもたくさん話していかないと駄目だって、思うけど……けど、今は」

 額に片手を押し当てて、柊吾が顔を隠してしまう。

 呻き声に似た小さな声が、夜風に乗って、聞こえてきた。

「家に帰ったら、まだいてくれるんだ、って……それが、すげー嬉しい」

 拓海は、ぽかんと黙った。

 やがて薄く微笑むと、「……うん」と答えて、頷いた。

 どういう経緯があったか分からないが、柊吾はどうやら以前よりも、多くを語ろうと決めたらしい。

 その相手はきっと撫子に違いないのだろうが、今日は拓海に対しても、同じようにしてくれるようだ。単純な嬉しさで、心がぽかぽかと温まっていく。

 言葉にしないでもいい想いも、世界にはきっとたくさんあるのだろう。

 だが言葉の形で聞けたなら、もっと嬉しくなる想いも――こうして、ここに、確かにある。

「三浦なら、大丈夫だよ。雨宮さんも、二人とも。……皆で高校、行こうな」

「……ん」

 柊吾はこくりと頷くと、バスケットを拓海の方へ少し押した。

「? さっきから訊こうと思ってたけど、これ何?」

「晩飯の差し入れ」

「へ?」

「俺が出かける前に、雨宮の母さんも家に来たんだ。その時に、陽一郎から電話かかってきて、お前らが藤崎さんの家の近くにまだいるって分かったから……お前ら、まだ何も食べてないんだろ? 俺の家と、雨宮の家の晩飯つめてきた。揚げ物は、母さん達がサンドイッチにしてくれた。……食えよ。全員分あるから」

「……」

 拓海はバスケットを開けて、息を呑んだ。レタスとトマトの緑と赤が、鮮やかに目に飛び込んでくる。カツサンドと卵サンドが、その隣に行儀よく並んでいた。

 返事をするよりも先に、指先の震えた手でカツサンドを掴んだ。揚げ物の、良い匂いがした。

 口に近づけ、躊躇う心を置き去りにして、一口齧る。

 美味しくて、びっくりした。次に、視界が霞んで、びっくりした。緊張の糸がふっつりと静かに切れてしまい、拓海はただがむしゃらになって、遅れた夕飯を口に運んだ。

「……坂上? うわ、おい、泣いてんのか?」

「三浦。すごく、美味しい」

 手の甲で涙を拭って、拓海はサンドイッチに齧りついた。泣きながら何かを食べるなんて、生まれて初めてのことだった。

 様々な出来事が、心の奥からシャボン玉のように浮かび上がっていく。

 異能に関わる事件から、七瀬を守りたいと思ったこと。

 仲間達の中心に立って、本来なら味方であるはずの和泉と議論を重ねたこと。

 和音との折り合いが、あまり良くなかったこと。

 一度、何もかもを投げ出して、挫けかけてしまったこと。

 和音と撫子が、学校から消えてしまったこと。

 撫子が、怪我をしてしまったこと。

 友達が、血を流したこと。

 そうさせないと誓ったのに、助けられなかったこと。

 追い詰められた美也子の姿が、九年前に壊れた男と、重なって見えてしまったこと――。

 緊張の糸が解けた所為で、抱え込んでいた記憶と想いを、支えきれずに落としてしまう。多様な色彩を帯びたそれらの一つ一つを拾いながら、拓海は静かに、泣いていた。

 泣くきっかけが、こんなにも些細なものだった。そんな発見も、驚きだった。

 辛いとは、思わなかった。思っていない、はずだった。

 悲しさとも、違うはずだ。悲しさを感じる余裕なんて、この時間のどこにもなかった。

 ああ、だからなのかと、拓海は不意に、気づいてしまう。

 辛さと悲しさに浸る時間を、今の今まで、持てなかった。

 だから、今、やっと泣けた。

 目を閉じると、瞼が熱い。盲目の闇に一人立って、拓海は己と向き合った。

 こういう風にして初めて、己の辛さと悲しさを、直視できたような気がした。

「俺、さっき、皆がいるから平気だって言ったけど……やっぱり、慣れないことして、疲れてたのかもしんない……雨宮さんが、あんな事になって……俺だって、悲しいし、申し訳ないし、悔しかったんだ……」

 撫子があんな風になる前に、拓海なら何とかできたかもしれないのだ。

 あと一歩、早く神社についていれば。撫子の身体に刻まれた傷を、一つでも減らせただろうか。

 分かっていた。これは、そんな問題ですらないのだ。たとえ一つの傷だって、許すべきではなかったのだ。

 力の及ばなかった自分の事を、今ほど不甲斐なく思ったことはなかった。

 この無力が、弱さが、中学生の拓海の限界なのだろうか。

「……お前は、がんばったよ」

 ぽん、と柊吾が頭に手を置いてきた。頷きながら、拓海はサンドイッチを咀嚼した。味付けの塩気なのか、口の端に伝った涙の所為なのか、分からないまま拓海は食べた。食べきって、涙をもう一度手の甲で拭ってから、空を大きく振り仰ぐ。

 星空が、綺麗だった。空気が澄んでいるのが分かる。

 息を吸い込むと、夜の清かな匂いがした。

「でも、もう少し、がんばらないとだめなんだ」

 時の流れは、待ってくれない。いずれ、夜は更けていく。

 最後の戦いに備えて、拓海はまだ、折れるわけにはいかないのだ。

「篠田さんには、一人でがんばらなくてもいいって言われたんだ。俺も、一人で全部をしなくてもいいって、思えるようになってきた。……でも、ここから先に、皆は連れていけないから。俺は、俺にできることをするんだ」

「お前が何しようとしてるのか、分かんねえけど……付き合うぞ。最後まで」

「うん。そのつもりで、三浦に話した」

「お前のことは、最初は巻き込んだって、思ってたのに……いつの間にか、俺よりずっと戦ってて……なんか、大人に近づいた気がする」

 思いがけない言葉だった。

 拓海は、不意を打たれて柊吾を見る。

 柊吾はベンチに背を預けて、空へ視線を馳せている。その時になってようやく拓海は、柊吾も何かに焦っていたのだと気がついた。

 もしかしたら――自惚れで、なければ。

 柊吾は、拓海を羨んでいたのだろうか。

 柊吾の目には、拓海が少しでも、大人に見えていたのだろうか。

 もし、そうだとしたら……嬉しいようで、それでいて、何だか居た堪れなくなってしまう。

 拓海は、曖昧に笑った。情けなさで、もっと泣けそうな気分だった。

 それでも、もう泣くつもりはなかった。

「俺は、まだまだだよ。三浦。本当に、子供で、まだまだだよ。……いつになったら間違えずに、最善を選べるようになるんだろう」

「……分かんねえよ」

 柊吾もバスケットへ手を伸ばすと、プチトマトを口に放り込んだ。

 それを咀嚼して呑み込んでから、「でも」と、先程より大きな声で、まるで拓海達がこれから立ち向かっていかなければならない大きな流れへと挑みかかるように、夜空を睨め上げて宣誓した。

「強くなる。今よりは、絶対に」

「うん」

「なろうぜ」

「うん。……強く」

「……なあ、坂上」

 柊吾の探るような目が、拓海を捉えた。

「俺、考えてたんだけど……呉野の異能がらみの被害者って、異能の所為で起こしたことを、いずれ忘れるように出来てるんじゃないか?」

「……もしかしたら、それが呉野さんの異能の特徴なのかもしれない」

 否、それは氷花の異能に限った話だけではなく。

 呉野の一族の異能、全てを通しての特徴なのかもしれなかった。

「……何か、判ったのか?」

 思案する拓海から感じ取るものがあったのだろう。柊吾が切り込むように訊いてきたが、拓海は首を横に振った。

「判ったかもしれない。でもこれを話すのは、もう少し先に取っとく」

「先? それって、いつだ」

「イズミさんと、話す時」

 柊吾が、息を呑んだ。

 拓海の覚悟を測るように、じっと瞳を見つめてくる。

「……会いに行く気なんだな?」

「うん。三浦にも来てほしい」

「……他のメンバーは?」

「……女子は、ほぼ全員外れてもらう。日比谷も、連れていけない」

「じゃあ、俺とお前の二人か?」

「ううん。違う。……もう一人だけ、連れて行きたい」

「それは、誰だ?」

「雨宮さん」

 柊吾が、驚きを露わに拓海を見る。見つめ返して、拓海は微笑んでみせた。気持ちを立て直せたことを、そうやってきちんと伝えたかった。

「坂上、それは……難しい」

「怪我の具合、まずい?」

「違う。あいつ今、熱出してるんだ。家からは動かせない」

「……大人が、付き添いにいても?」

 柊吾が、表情を僅かに変化させた。

「こういう言い方したら、イズミさんみたいだけど……多分俺達は、このメンバーで戦いにいけると思う。イズミさんが教えてくれた〝惟神〟って言葉を、何となく思い出すんだ。自然の成り行きが、俺達をそこまで運んでくれると思うんだ。……その為に。三浦はここに、あの人を連れてきてくれたんだと思う」

「坂上……?」

「公園の入り口の、白い車。三浦、あの人にここまで送ってもらったんだよな?」

 柊吾は、驚いた様子で拓海を見ている。それから公園の入り口を振り返った。

 そこには、残してきた毬と陽一郎の他に――もう一人。

 中学生に話しかける、大人の男が立っている。

「あの人が、三浦の叔父さん?」

「……ああ。ユキツグ叔父さん。車で待つって言ってたのに、出てきたのか」

「やっぱり。ここで会える気がしてた。……ごめんな、三浦。時間ないって、言っててくれてたのに。佐々木さんから話を色々聞きたかったけど、本当に時間切れみたいだ。このまま、ぶっつけ本番でいこう」

 拓海は、すっくと立ち上がった。

 ずっと、考えてはいたのだ。

 これから拓海達が夜の袴塚市を動く上で、必要になるメンバー。

 この人物をおいて、適任は他にいない。

「そういえばさっき、佐々木さんにした例え話が途中になってたっけ。俺達がイズミさんの所に行く時は、体勢を整え直さないと無理だって話をしてたんだ。俺達中学生がいくら集まっても、あの神社には乗り込めない。じゃあ一体どうすれば正当な順路も通ってなくて、ラスボス討伐に必要なレベルも全然足りてない俺達が、あの場所でイズミさん達と戦えるのか――それってさ、単純な話なんだ」

 呆気にとられる柊吾を尻目に、拓海は答えを告げて、笑う。

「パーティを、再編成すればいい。俺達がレベル五の寄り集まりだとしても、あの人ならレベル九十はかたい。一人いるだけで百人力だ」

「お前が何の話してんのか、分かんねえけど……坂上、舐めてかかんない方がいいぞ。ユキツグ叔父さん、怒ると怖ぇから……」

「うん。ありがとう。それに、差し入れも。本当に美味しかった」

 拓海が礼を言うと、公園の中央から元気のいい声が響いてきた。

「あーっ、三浦くんっ? 坂上くんも、何美味しそうなの食べてるの?」

 七瀬と和音が、こちらに向かって歩いてくる。

 和音は拓海の顔をちらと見ると、何故か赤面して怒ったような顔で睨んできた。

「えっ、と……?」

 拓海は、たじたじと後ずさる。何か悪いことでもしただろうか。だが今はそれどころではないので、拓海はそわそわとした気持ちを引き摺りながらも、公園の入り口を振り返る。

 ――毬と陽一郎と、もう一人も。こちらに向かって歩いてきた。

「……」

 全員が、示し合わせたように黙った。

 誰も声には出さなかったが、奇妙な連帯感がドーナツ状の輪になって、全員の間を繋いでいた。学園ではばらばらだった心同士が、ようやく繋がった実感があった。

 そんな連帯感の輪の中で、唯一の大人の背丈は、そう高くはなかった。

 柊吾が大柄な所為もあるだろう。やや小柄で愛嬌のある丸い目をした男性を、拓海を始め全員が、じっと静かに見守っている。

 七瀬と和音は、戸惑いを目に浮かべている。

 毬と陽一郎は、先に自己紹介を受けたからだろう。先の二人よりは緊張の解れた顔付きだが、それでも戸惑った様子の面立ちだ。

 柊吾は、泰然と構えている。それでいて少しだけ面映ゆそうに見えるのは、相手が身内だからだろう。

 そんな全員の反応を一望してから、意を決した拓海は一歩前に進み出た。

 すると、相手の方から先に言った。

「ああ、君が坂上君か。……なんか、話に聞いてた感じと少し違うな」

「へ? あ……はい。坂上です。初めまして」

 せっかく覚悟を決めていたのに、何だか情けない挨拶になってしまった。

 かはは、と笑った男は「どうも。シュウゴの叔父だ」と簡素に名乗ると、場の一人一人見回して、呆れたように目を細めた。

「ったく、ガキが夜遅くに喧嘩してるって聞いて来てみたら……あんまり楽しそうだったから、邪魔できなかったじゃねえか」

 和音が気まずそうに、七瀬は首を竦めて目を逸らす。拓海もまずは怒られるとばかり思っていたので、意外な反応に拍子抜けした。

「……そういえば、いつから見てたんですか」

「シュウゴとここに来た時には、もう喧嘩は終わりかけって感じだったな。事情も、陽一郎君から少し聞いてる。……さて」

 ジャンパーの腕を組んで、男――三浦恭嗣が。

 全員を見回して、剣呑な目つきになった。

「皆、陽一郎君から聞いたんだろ? どこまで聞いちゃったのかねえ」

「……何の話、ですか?」

 控えめに聞いたのは、七瀬だ。

 その言葉には初対面の恭嗣への不信と警戒が、薄らとだが滲んでいる。隣では和音も七瀬に同調するように、隙のない眼差しで恭嗣の顔を見据えている。

「……風見さんのこと、ですよね」

 拓海が率先して言うと、視線がざっと集まってきた。

 特に毬と陽一郎の視線が、労りと配慮を込めて痛々しく刺さってくる。

 この二人は、事情を知っているからだ。拓海は目線を合わせてそれに応えて、恭嗣に向き直る。

 恭嗣は、口元だけで笑っていた。

 どことなく、挑戦的な笑みだった。リーダーシップを取る拓海を、面白がっているのだろう。内心で少し委縮したが、堂々と構えていたかった。背筋を伸ばし、拓海は恭嗣の言葉を待つ。

「……どこまで、聞いた?」

「風見さんの家で、小火騒ぎになったと聞きました」

「小火……火事っ?」

 七瀬が、ぎょっとした様子で割り込んできた。

 和音も余程驚いたのか、目を丸く見開いている。

「美也子の家が……? 嘘、じゃあ、おばさんは……っ?」

 メンバーの混乱を、恭嗣は不思議そうに見下ろしている。

「一緒にいる割には、知ってるメンバーと知らないメンバーとばらけてるな?」

「ちょっと坂上くん、知ってたのになんで教えてくれなかったのっ?」

 七瀬がぷりぷりと怒りながら、拓海に近寄って抗議してくる。

「ご、ごめん」

 拓海はしどろもどろに謝ってから、慌ただしく説明した。

「実は、篠田さんと佐々木さんがお風呂場に行ってる間に、日比谷から聞いたんだ。あ、これの情報元は日比谷のお母さん。風見さんの家で小火騒ぎがあったって聞き付けたらしくて、日比谷に電話で教えてくれたんだ。その電話を代わってもらって、詳しい話を聞かせてもらおうとしたら……その、篠田さんが……」

「ストップ」

 和音が、赤い顔で拓海に短く叫んだ。「う、うん」と拓海は慌てて返事をする。

 やっぱり気の所為ではない。和音が拓海を見る目が明らかにきつくなっている。理由が思い至らないだけに混乱したが、拓海は少し傷つきつつも、気を取り直して本題に戻ろうとした。

 その時、だった。

「……そういう、伝わり方してるのか」

 はあ、と大げさに溜息をついて、恭嗣が顔を顰めたのは。

「伝言ゲームって奴は、尾ひれ付いたり変形したり、正確には伝わらないもんだけどさあ……」

「? どういう事、ですか……」

「小火じゃないさ」

 笑みを消した柊吾の叔父は、こんな内容を中学生に伝えるのは心底嫌で堪らないのだと、世界そのものを恨むような根深い怠惰を、人の良さそうな顔に浮かべて――ぼそりと、吐き捨てるように言った。


「全焼、だ。……さっき、この目で見てきた」

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