花一匁 84
拓海は、深く息を吐き出すと、一度だけ空を振り仰いだ。
紺色の空は闇を深め、きらきらと星が瞬いている。
この空の下で戦う二人の少女を、見守っているかのようだった。
「……あの」
毬が、弱々しく声をかけてきた。
こちらが憔悴しているように見えたのだろうか。心遣いだけを受け取った拓海は、「いいんだ」と答えて微笑んだ。
――こんな日が、いつか来るような気はしていたのだ。
動揺は、していない。気後れもなかった。七瀬の親友だった少女に対する申し訳なさも、実を言えばあまりないのだ。そんな自分の冷酷さが嫌になって苦しい時期は、とうに二人で乗り越えた。
七瀬は、拓海を選ぶと言ってくれた。
拓海も、七瀬を選んだのだ。
この気持ちに、罪悪感を持ちたくなかった。そんな風に強く気持ちを持つのは拓海にとって難しいことだったが、貫きたいと思うのだ。
「……七瀬ちゃんって、すごいよね」
毬が、ぽつりと言った。
「……うん。本当に、すごいと思う」
拓海も、小声で返事した。
七瀬の告白を受けてから、和音の戦い方が明白に変化した。
切れのいい動きで身体を動かす和音の姿は、まるで神社の神様に捧ぐ演舞のように綺麗だった。七瀬へ作っていた透明な壁を、取り去ったかのようだった。
本気なのだ、と拓海は悟る。
和音は持てる力の全てを使って、全身全霊で七瀬と戦っている。
こんな身体捌きを会得するのに、どれほどの努力を重ねたのだろう。
こつこつと積まれた鍛練に、拓海は敬意を覚えて感嘆した。
「篠田さんも、すごいけど……佐々木さんも、すごいと思う」
そう漏らすと、毬が少し寂しげに微笑んだ。
左頬に泣き黒子のある白い頬を、月光が青く照らしている。何だか毬が凍えているような気がして、拓海は心配になってしまった。
「綱田さん、寒くない? ごめんな、俺、貸せるものとか何も持ってなくて」
「あ……ううん、大丈夫。いいの」
ぱっと手を振った毬は、やっぱり寂しげに笑った。
拓海は、気がかりから眉尻を下げる。
毬が何か、痛みを我慢したような気がしたのだ。
「……」
不意に訪れた沈黙を、少女達の掛け声が埋めていく。
毬はしばらく二人の友達の勇姿を見つめ、それから、くっと、顔を上げた。
まるでこの戦いに、心を動かされたとでもいうように。
「坂上君。少しだけ、私のことを話させて」
そう前置きしてから、毬はたどたどしく話し始めた。
「私の家の、ことなんだけど……今、ちょっとごたごたしてて」
「ごたごた?」
「お父さんが、失業しちゃって……」
拓海は掛ける言葉をなくしたが、あまり驚いてはいなかった。
今までの七瀬の毬への接し方から、毬が何かを抱えているのは察していた。
「そのことが、親戚に知られちゃってからかな。少しだけ、毎日が変になっちゃって……今まであんまり付き合いがなかった叔父さんと叔母さんが、しょっちゅう家に来るようになったの。嫌なことを、言われるようになったけど……当面の生活は、援助してもらえるみたい」
「その、綱田さん。高校は……」
「大丈夫。通えるよ。……でも、あんまり叔父さん夫婦のお世話になってたら、いつか、困る気がするの」
言葉通り困ったような表情で、毬は痛ましく微笑した。
「叔父さんも叔母さんも、うちの生活を回す為に、家財道具を売った方がいいって言って、勝手に家の物を持ち出そうとしたりして……家族で、やめてって言ったよ。でも、私達って弱いの。子供の学費だってこれからは満足に払っていけないって、お父さんとお母さん、言われてた。私とか、小学生の妹とか弟には聞こえないようにしてくれてたけど、知ってるの。聞えちゃった」
毬は気持ちを落ち着けるように息を吸って、顔を空に向けた。
吐息が白く流れ、冷気に晒され続けた頬には、微かな赤みが差していた。
「……七瀬ちゃんも、さっき言ってたことだけど……人って、変わっちゃうみたい。こんなにひどくて、誰かに話しても信じられないようなことを、平気でする人が世の中にはいるんだって、こんなに近くにいたんだって、私、怖くなった」
拓海は、口を挟もうとした。
何を言うわけでもない、ただ、聞いていて辛くなったからだ。
そんな衝動に歯止めをかけて、拓海は首を、横に振る。
辛い痛みに目を向けて、向き合っている人間がいるのだ。
話を聞いているだけの拓海が、耳を塞ぐわけにはいかない。
「綱田さん、訊いてもいい?」
だから、慎重に声をかけた。
今こそ拓海はこの問いを、毬に投げかけるべきだと思ったのだ。
「それがなんで、コートとかを……着ないことに、繋がるのかな」
「……変かな」
「ううん。変じゃないよ。でも、みんな気にしてる」
「……そう。うん。そうだよね」
笑顔のまま、毬が瞳を潤ませる。
ようやく涙を流せることを、安堵しているかのようだった。
「少し前に、叔父さんと叔母さんに、嫌がらせで家の服とか小物を持って行かれちゃったことがあるの。アクセサリーは気に入ったものは叔母さんが使ってて、一部はバザーで売っちゃったんだって」
「そんな……めちゃくちゃだ」
つい感情的になった拓海だが、それ以上の言葉は呑み込んだ。行為の非道さに怒るより先に、毬が今本当に伝えたいことを汲むべきだ。
「綱田さんのコートやマフラーも、盗られたってこと……?」
そう口にしながら、拓海は据わりの悪さを感じていた。
何故なら今の話では、毬が一切の防寒具を付けない理由にはならないからだ。
学校指定のコートがないなら、代わりのものを着ればいい。袴塚中学の校則の問題だとしても、事情を話せば融通だって利くはずだ。
「ううん」
毬は、首を横に振った。
どこか沈鬱で、それでいて清々しい、まるで告解を決めたような顔だった。
「盗られてないの」
「え?」
「私のコートは、盗られてないの。マフラーも、あるの。手袋だって。全部、自分の持ってるの。なくしてないの。家にあるの」
「じゃあ、なんで……」
「なんでかな」
毬が目元の涙を指で拭い、やっぱり笑みを返してきた。
「可哀想って、思われたかったのかな。今まで付けてたコートもマフラーも手袋も外して、学校に行くようになったら……誰か気づいてくれるかなって、思ってたのかな。私、悲しいって誰かに言いたかったのかな。悲しいよって、言ってないのに。そんなの、言う勇気、なかったのに」
泣き笑いの告白に、拓海の胸が痛くなる。
この毬の立ち姿は、毬なりに必死の思いでようやく出した、SOSだったのだ。
東袴塚学園で、毬を気遣っていた七瀬の姿を思い出す。確かその時に、今度話を聞かせて欲しいと言っていた。
七瀬はまだ、毬の事情を知らないのだ。
きっとこの夜が明けて、新しい朝が訪れたら、この秘密を知るのだろう。
「和音ちゃんは、私が寒そうにしてたら、自分のマフラーも手袋も全部、私にくれようとしたの」
くすぐったそうに、毬が微笑む。
それから睫毛を伏せて、サンダルを履いた爪先を見た。
「嬉しかった。でも、私の為にそこまでさせちゃうのが、申し訳なかったの」
「佐々木さんなら、そうする気持ちも分かるよ」
何だか優しい気持ちになって、拓海も笑みを返した。和音のぶっきらぼうな表情と、相反する優しさが、情景として目に浮かぶようだ。
「ミヤちゃんは、私に誕生日プレゼントって、マフラーをくれたの」
相槌に安堵したのか毬は語りを続けたが、今度は笑顔に、影が差した。
「私、ちゃんと喜べなかった。あの日、ミヤちゃんに言われたことが、悲しかったから。でも私、お喋りとか、人と話すの苦手で……そういうの得意なミヤちゃんに、学校で助けてもらうことって多かったの」
美也子の名前に、拓海は少し表情を硬くする。
――拓海は、一足先に知ってしまったからだ。
鬼と成り果てたこの少女の未来は、茨の道に他ならない。
「私、ミヤちゃんのこと、まだ友達だって思ってるの」
拓海の変化に気付かない毬は、穏やかに、それでいて決然と言い切った。
「こういう風になっても、友達だって思っていたいの。……でも」
美しく澄んだ眼差しを、毬は公園の中央に向けた。
ショートボブの黒髪が、月明かりの下で冴え冴えと光った。
「私の、一番の友達は……内緒だけど、七瀬ちゃんだと思ってるの」
思いがけない言い方に、拓海は軽く目を見開いた。
毬は、淡く微笑んだ。今までで、一番綺麗な笑みだった。
「学校が変わっても、将来離れ離れになっても、ずっと友達のまま続いていくのは、七瀬ちゃんだと思ってるの。……七瀬ちゃんも、おんなじように思ってくれてたら、嬉しいな」
「……ありがとう。綱田さん」
「? どうして、お礼?」
「なんでだろう。言いたくなったから。それに綱田さんは、篠田さんの恩人でもあるし」
「?」
毬は不思議そうな顔をしたが、拓海はひとまず笑って濁してしまう。
七瀬が『鏡』の世界から戻ってこれたのは、毬のおかげだ、と。それを説明するのは、もう少し時が経ってからでいいのだろう。
「さっきの話の、続きだけど……私は、和音ちゃんとも、七瀬ちゃんみたいな関係になりたいな、って思ってるの」
そう言って、毬は和音を見つめた。
「和音ちゃん、遠くに行っちゃうかもしれないから……でも、学校が変わっても、私は和音ちゃんとも仲良くしたい。三年、一緒にいたんだもん。もっと長く、一緒にいたい。和音ちゃんにも、そう思ってもらえたら、いいな……って」
毬は拓海を振り返り、「内緒ね」と恥ずかしそうに微笑んだ。
拓海はその微笑に、ふわりと心が絆されるのを感じながら――覚悟を決めて、訊ねた。
「風見さん、は……?」
意地の悪い質問だ。訊く必要すらないかもしれない。
だが毬は、美也子を友達だと言ったのだ。
こういう風になっても、友達だと言ったのだ。
ならば拓海は、心を鬼にしてでも――毬の気持ちを、確かめたかった。
「ミヤちゃんは」
毬は、また笑った。
諦観めいたその笑みは、それでいて傷付いている様子を感じさせない、一定の距離を保った友人に向けるような――おそらくは、その悲しい皮肉に毬自身が気づいていない、他人行儀なものだった。
「ミヤちゃんにとっての大事な友達は、私じゃないよ。学校でも、友達がすごくたくさんいるから。きっとミヤちゃんにも、他に誰かそういう人がいると思う。私にとっての七瀬ちゃんみたいな人が、きっと、他にいると思う」
*
走ってきた七瀬が、飛び蹴りを繰り出してきた。
もう滅茶苦茶だった。少林寺の型など一切関係のない攻撃を和音は何なく躱してやると、がら空きの背中に回り込んで、七瀬の膝裏に素早い蹴りを叩き込んだ。
七瀬は悲鳴もなく転倒すると、地面に両手を強くついて、バネのように弾みを付けて横に転がる。その勢いで器用に立ち上がって振り返ると、荒い息を吐きながら、和音を睨み付けてきた。
――やはり、強い。
それを、もう和音は認めていた。
だが七瀬の強さを認めても、和音の中に生まれた劣等感は消えないのだ。
この気持ちを消す為の呪文を、和音は一文字も知らないのだ。誰も教えてくれなかった。自分で見つける時間もない。
この性急さに、怒りに、焦りに、心の熱さに、ついて来れるのは身体だけだ。言葉では速さが足りないのだ。全然、足りていないのだ。
だから、七瀬の言うように――和音達は、戦うしかないのだ。
この手で、身体で、全力で。ここで決着をつけるのだ。
「和音ちゃん、高校、どこ受けるのっ」
七瀬が膝蹴りを繰り出しながら、和音に向かって叫んでくる。
「受かるまでっ、教えない!」
内腿を叩いて転ばせてやると、七瀬は小型犬のような俊敏さで跳ね起きて、和音に足払いをかけてきた。
「意地っ張り!」
まともに食らった和音は身体のバランスを崩しかけたが、片足を軸に踏ん張ってから、片手を地について逃げ延びた。
「受験日が今日じゃないってことは、県外でしょ! 教えてくれたっていいじゃない!」
「受かるまで教えないったら!」
「どうせ受かったって! 教えてくれる気なんかないんでしょ!」
「そんなこと……っ!」
「じゃあ結果出たら電話してよ! ううん、直接会って話してよ! 和音ちゃんは誰相手なら! そんな風に自分のことを報告するの!?」
「それは……っ」
「毬でしょ!」
七瀬が、逃げる和音の腕を掴んできた。
「毬になら! 話したんでしょ! そういう人が、和音ちゃんにだっているくせに! 私にとっての葉月みたいな人が、ちゃんといるくせに!」
「毬は私のことを、そんな風には思ってない!」
「そんなわけない!」
「毬は! 私以外にだって友達がたくさんいるじゃない! 高校に行けば、もっとそういう子が増えるでしょ! だったら! 私は! あの子にとっての大事な友達なんかじゃない!」
和音がそう叫んだ時、微かに聞こえた外野の声を、耳が拾ってしまっていた。
――毬の声だった。
「ミヤちゃんにとっての大事な友達は、私じゃないよ。学校でも、友達がすごくたくさんいるから。きっとミヤちゃんにも、他に誰かそういう人がいると思う。私にとっての七瀬ちゃんみたいな人が、きっと、他にいると思う」
小さな、本当に小さな毬の声。遠い世界の出来事のような、ここではないどこかの誰かの囁く声のような、自分とは何の関係のない、余所事。
それを耳に入れてしまって、ああ、と和音は泣きたくなった。
なんということだろう。毬の言葉は、残酷だ。
それがたとえ、揺るがない事実であったとしても。
「――それは、『誰もいない』って言ってるのと、変わらない!」
全身の力を振り絞って、和音は七瀬の腕を振り解いた。
「和音ちゃんは、分かってない!」
振り解いたはずの七瀬の腕が、再び和音に伸びてきた。
胸倉を掴まれ、二人の距離が、狭まっていく。
「誰にも、渡したくないなら!」
怖いくらいに真剣な目をした七瀬が、和音を真っ直ぐに見つめている。月光に照らされた唇の動きが、ひどくゆっくりに見えた。
「好きって、ちゃんと伝えなよ」
「そんなの……言えるわけない!」
和音は、七瀬を突き飛ばした。
七瀬は派手に転びかけたが、両足でタイルを滑りながら膝をついて踏み止まった。和音は大きく息を吐き、揺れた心を引き摺りながら、逃げるように距離を取った。
どくん、どくん、と心臓が忙しく拍動する。好きという言葉に、動悸がした。
和音の心を七瀬に全部、見透かされたような気がしたのだ。
「和音ちゃん……?」
七瀬が、和音をじっと見る。和音は、内心で竦み上がった。
見ないで欲しい。何も、和音のことを見ないで欲しい。知られたくないのだ。自分が怯えているのだと、これほどはっきり自覚したことはなかった。
無言の時は、そう長くは続かなかった。
得心したように、七瀬が頷く。
そして、体勢を立て直してから――おもむろに。
「和音ちゃん。さっきから、言おうと思ってたけど……」
にっと楽しげに、和音に笑みを向けてきた。
「髪下ろしてるの、可愛いよ。ポニーテールよりもそっちの方が、和音ちゃんには似合ってるんじゃない?」
「……!? なっ……!」
びっくりし過ぎて、変な声が出てしまった。
それが、隙になってしまった。
七瀬が、和音に向かって走ってくる。ぐんぐん距離が狭まっていき、卑怯だ、と混乱に埋め尽くされた頭で和音は思った。
だが間に合わない。身構えるだけで精一杯で、七瀬がどんな攻撃を仕掛けてくるか、想像さえもできなかった。
七瀬の手が、伸びてくる。顔に向かって伸びてくる。
殴り飛ばされるのだろうか。それとも平手打ちだろうか。
避けようとしたが、もうそんな距離ではなくなってしまった。
目前に迫った顔を見て、観念したように身体を、後ろへ、退こうとして――七瀬の両腕が、和音の両頬の横をすり抜けた。
どんっ――、と。胸板同士がぶつかる痛みが、鈍く身体全体に響いていく。
首に回った両腕の力は、対照的に柔らかだった。
ふわりと鼻腔に、衣服の匂いが流れてくる。日向のい草の香りに似ていた。それから石鹸の匂いと、和音がずっと避けてきた、女の子の匂いがした。
燦然と降る月光に、目が眩む。青白い光の洪水に海のように呑まれながら、解けた二人の髪が躍るのを、眩い光の中に見た。
その奔流に、何もかもが押し流されていく。
悔しさも、悲しさも、辛さも、過去に変わって消えていく。
世界中で、たったの二人きりになった気がした。
それを、嫌だと思わない自分がいた。
背中が、地面に叩きつけられる。砂利が弾ける音も鈍いエコーを伴って、遅れて耳に届いてきた。
「痛っ……」
和音が思わず叫ぶと、黒い学ランに着られている少女の方も、「いったぁ」と情けない叫びを上げた。
――それから、くすくすと笑い出した。
「何を、笑ってるの……」
「だって。嬉しいから」
げんなりとする和音から、七瀬は顔を、少しだけ起こした。
目を細め、口の端を勝気に吊り上げ、和音に微笑みかけてくる。
「私の勝ち」
宣言する七瀬の唇を、月光が口紅のような艶やかさで照らしていた。
男子生徒の装いの七瀬の身体が、和音に再び覆い被さってくる。抱きしめられながら、和音は戸惑う余裕もないままに、すとんと、負けを認めていた。
和音は、負けた。
七瀬が、勝った。
あっさりと、勝敗がついてしまった。
「……悔しい」
ぽつりと、和音はそう漏らした。
本心だった。こんなやり方は、和音にはできない。七瀬はいつだって和音の先を歩いていて、和音はいつも七瀬の背中を見つめてばかりだった。
この感情の名前は、劣等感。
だが、本当にそうだろうか。
違う言い方も、できるはずだ。
何故なら言葉は、一つだけではないからだ。
この劣等感を、違う言葉で言いたかった。そうすべきだと、思ったのだ。
今のこの和音の気持ちを、七瀬に対して抱いた気持ちを、より正確な言葉で、言い表したくなったのだ。
七瀬に負けた今しか、それはできない。
今を逃せば、永遠にできない。
「私は……」
もう、気負うことも、勇気を捻り出す必要もなかった。
和音は力を抜いて、素直な己の心を見つめ直し、ようやく探し当てた本当の想いを、認められなかった心を、言葉の形に整えて――吐息とともに、声に乗せた。
「七瀬ちゃんのことが、羨ましかったんだ」
四年前の夏に、一人の少女が、撫子を羨んだのと同じように。
和音も、本当は、七瀬のことが――羨ましかった、だけなのだ。
「……」
触れ合った身体が、少しだけ動いた。七瀬が驚いているのだろうか。
もう一度七瀬が上体を僅かに起こしたので、和音はその顔を間近に見る。
そして、狐につままれたような顔をしてしまった。
七瀬は、困惑とも狼狽とも表現できない、複雑な顔をしていたのだ。
まるで喧嘩の相手を間違えて、相手を叩きのめしてしまったことに、遅れて気が付いたような。そんな顔。
「和音ちゃん、もしかして……彼氏できたって、言わなかったの、怒ってる?」
「そんなこと、あるわけ…………分からない」
「ちょっと、何それ。和音ちゃんらしくない」
「私らしいって、何……」
和音は、恥ずかしくなって目を逸らした。
そうかもしれない、と素直に頷いてしまう方が、楽だというより正しいのだ。
事実として和音は、面白くなかったのだから。
「……えっと、ごめんね?」
「謝られても……」
「今からでも、話す?」
「……私が、いらいらしない言い方を、選んでくれるなら」
「やだ、和音ちゃんってば、めんどくさい」
「……お互い様でしょ」
罵倒で返すと、七瀬が圧し掛かってきた。
急に倒れてきたので、和音は体重に呻く。七瀬は、楽しそうに笑っていた。本当に楽しそうに笑っていたから、もう文句を言う気は失せてしまった。
「……」
和音は、腕を持ち上げた。抱きしめられてしまったから、まるで脊髄反射のように、腕を七瀬の背に沿えてしまう。
ごわごわした学ランの生地の手触りは、何だか物珍しくて、新鮮で、微かに感じた胸の痛みは、少女の体温で溶かされた。和音は、ぼんやりと空を仰いだ。
何だか、不思議だった。空は深い紺色で、満天の星が瞬いていて、こんなにも冷えた夜に全身砂塗れになりながら、寂れた公園で寝転がっているのに。
なのに、孤独ではないのだ。
心にぽっかりと空いた隙間の部分に、何か温かなものが満ちていく。
ああ、自分はこれが欲しかったのか、と。
漠然とだが、分かった気がした。
「……ごめん」
和音は、小声で謝った。
「何のこと?」
七瀬は、笑ってとぼけた。
「……なんでもない」
目を閉じた和音はそう答えて、ひと筋だけ零れた涙で濡れた頬を、友達の湿った髪に押し付けた。




