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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 83

 戦いに身を投じながら、和音は混乱したままだった。

 七瀬の戦い方が、滅茶苦茶だったからだ。

「はああぁぁぁっ!」

 威勢よく叫びながら突進してくる七瀬の動きは、どれも大振りで荒っぽく、避けやすいものが大半だった。

「七瀬ちゃん! 止まって!」

 首元を狙ってきた右の拳を、和音は難なく身体半分で避けきった。その勢いを殺さないまま相手の懐へ滑り込んで、素早く蹴りを叩き込む。

 確実に当たるはずだった。

 だが七瀬の膝を狙ったはずの右足は、虚空を蹴り抜いて風を切った。

「!」

 濡れた髪の毛先が、視界の端で水滴を散らした。

 ――七瀬は、身体を斜めに傾けていた。

 片足を前に踏み込んだ姿勢で、もう片方の足を斜め後ろに引いている。突然見せつけられた戦い方に、和音は愕然としてしまった。

 ――知っている戦い方だった。

 これは、和音と同じ避け方だ。この姿勢のまま斜め前へ掻い潜るように迫っていけば、相手は急に距離を詰められたような気になって、次の攻撃を出しにくくなる。

 全部、習ったことだった。

 七瀬も習ったことだった。

「ちっ……!」

 眼前に迫った黒い学ランを、和音は危ういところで何とか避けた。足元からは砂利が弾ける音がして、反射で飛び退いて距離を取る。

「惜しい!」

 笑みを含んだ声と同時に、七瀬の履いた靴が、砂混じりのタイルを蹴った。

 驚愕か武者震いか、和音の背筋の産毛がぞくぞくと逆立っていく。

 ――この蹴り足が、たった今和音を狙ったものの正体だ。

 七瀬は和音の攻撃を見切っただけでなく、反撃までして見せたのだ。

「七瀬ちゃん、もうやめて!」

 ともかく、和音は叫んだ。口を開けた途端に解けた髪が唇の辺りに纏わりついて、決死の発声の邪魔をする。それを片手で振り払って和音は叫んだ。

「七瀬ちゃんの都合に、私を振り回さないで! こんな事、私は望んでない!」

「そんなの、嘘! 和音ちゃんは、私に言いたいことがある!」

 七瀬はきっぱりと断言し、和音に拳を見舞ってきた。

「どうして、七瀬ちゃんが……私のことを、決めつけるの!」

 ぱしっ――、と。

 硬く、乾いた音がした。

「……っ」

 和音は右の手の平で、七瀬の拳を受け止めた。

 少女同士の手が、腕が、拮抗した力で震え出す。

 七瀬が歯を見せて笑みを作り、和音を睨みつけてくる。

 和音も険しく眉根を寄せて、同じく七瀬を睨みつけた。

「七瀬ちゃん……こんな事したって、何の意味も、ない!」

「意味なら、ある!」

 七瀬が、腕に力を込めてきた。

 和音の身体が押され、靴底がタイルにざりざりと擦れた。

「このやり方なら、私達は分かり合える!」

「どうして!」

「分からないのっ?」

 七瀬が、にっと笑った。

「私達は、言葉より! 身体の方が早いから!」

 そう叫んで、和音に笑ってくる姿は――やはり、いつもの七瀬だった。

 何に対しても自信があって、たくさんの友人にも囲まれて、こんな状況でも勝気な態度を崩さない、和音のような人間の悩みや鬱積なんて何も知らない、考えない、永遠に分かり合えない同級生で、彼氏の衣服を身に纏った、毬の大切な、友達の――七瀬が。

 和音に、戦いを迫ってくる。

 早く同じ土俵で戦えと、強気の笑みで迫ってくる。

「っ……!」

 和音は、歯を食いしばった。

 軋んで、音が鳴るほどに。きつく、きつく、食いしばった。

 ――やっぱり和音は、この少女が不愉快なのだ。

 だから、こんなにも乱れるのだ。七瀬さえいなければ、上辺くらいは平静を保てるはずの心から、余裕が根こそぎ奪われてしまうのだ。金属のメッキが剥がれるように、錆びた中身が露呈する。人の家を土足で踏み荒らすような礼儀の無さが、和音には不愉快で不愉快で堪らないのだ。

 そんな己の感じ方を、より強固なものにしたい。

 その為だけに和音は拳に力を込めていき、七瀬の腕を振り払った。

「きゃっ」

 大振りな腕の動きに、七瀬が為す術もなく転んだ。三人のギャラリーからも悲鳴混じりのどよめきが上がったが、それらに一切耳を貸さずに、和音は公園の真ん中へ、七瀬へ数歩歩み寄るように進み出た。

 濃紺の空の真下に立ち、蛍光灯のスポットライトを全身に浴びる。

 そして息を深く吸い込むと、ぱんっ! と両手を打ち鳴らした。

「……」

 風が、長髪を巻き上げて揺らしていく。

 和音を見上げる七瀬の目に、好戦的な光が宿る。

 それを真っ向から見返しながら、和音は、唇を動かした。

「――後悔しても、知らないから」

 言い捨てるや否や、合掌をやめて走り出した和音の姿を、七瀬が笑って睨め上げた。

「しないよ! だって、勝つのは私だから!」

 楽しそうな笑みだった。本当に楽しそうな笑みだった。いっそ悔しくなるほどに、七瀬は楽しそうに笑っていた。かあっと和音の頭に血が上った。

 思えばいつもこうだった。七瀬ばかりが楽しそうに笑っていて、同じ場所にいる和音はちっとも楽しく笑えないのだ。いつも、いつも、いつも、いつも、そんな繰り返しだったのだ。いつも、いつも、いつも、いつも!

「師範の型も守れてないくせに、七瀬ちゃんに勝てるわけない!」

 爆ぜた鬱憤を晴らすように、和音は突きを繰り出した。

「じゃあ和音ちゃんは私に勝つのっ?」

 怒声に受けて立つように、七瀬が和音の突きを右手で捌いた。

 師範の教えた避け方だった。まだ七瀬も覚えていたのだ。もう二年も前の教育を、うろ覚えで型破りな拳法を、それでもまだ覚えていたのだ。

 その事実さえもが和音にとって癪だった。もう隠す気さえなくなった。

 瞬時に和音が中段蹴りの構えに入ると、今度は七瀬の攻撃が迫ってきた。和音の首を真っ直ぐ狙って、手刀がぐんと近づいてくる。

 和音が攻撃を引いて防御に回り、その防御の合間に七瀬が攻撃を仕掛けてきた。阻まれ、また仕掛け、また阻まれ、また仕掛け、どちらの攻守がどちらのものか、境界が霞んで溶け合うほどに繰り返した。

 空気が、白熱していく。蛍光灯の白い光が、眼底を突き刺して視界が暈けた。

 七瀬の濡れた髪から飛び散っていく水滴が、きらきらと弾けて輝いた。

 空の星のように綺麗だった。戦う七瀬は、綺麗だった。思考の隙間に生まれたノイズが、細切れになった感情の塵と混ざり合って、流星のように瞬いていく。

 和音と戦っているこの子は、綺麗だ。和音と違って、綺麗なのだ。

 諦観と切望と、やっぱり名前の分からない感情が、幾重にも蓋をしたはずの心の底から噴き出した。

 泣き出しそうになってしまう。そんな自分の弱ささえもが、和音は嫌いだ。大嫌いだ。大嫌いだと思うのだ。今日という一日で、何度そう思ったか分からない。

 いくら戦いを重ねても、束ねられずに乱れる心。まるで床に落とした、花束のような。

 こんなもの、もう捨ててしまいたい。変わっていく自分ごと、全部捨て去ってしまいたい。

 ――なのに、捨てられないのだ。

 捨ててしまったら、それは、もう。

 和音ではない、別人だ。

「勝つっていいなよ! 和音ちゃん!」

 膝のすぐ傍を、ローファーが掠めて抜けていった。

 余所見なんてできなかった。向き合わざるを得なかった。

 強引な力に引き寄せられるようにして和音が拳を向けた先で、七瀬が勝気に笑っている。やっぱり楽しそうに笑っている。

「『七瀬ちゃんには勝てない』? 私のことじゃなくって、和音ちゃん、自分のことを話しなよ! 『私は七瀬ちゃんに勝つ』って言ってよ! そんなことも言えない和音ちゃんに、私は絶対負けないからっ!」

「そんな違いが何なの! 私には、そんなのどうでもいい!」

 不満が、一気に噴出した。自分に向いていたはずの感情が、カードの表裏のように反転する。それは怒りにすり替わり、全身の血を熱くした。

 理不尽だった。何故こんなにも一方的な戦いに、自分が応えなくてはならないのだ。

 だが、戦いを挑まれる理由なら、七瀬の側には確かにある。

 その問題から、和音は目を逸らしてはならないのだ。

「――七瀬ちゃんは! 私の何が不満なの!」

 だから和音は、声に出した。

 必要に迫られたからだ。

 言葉でなくてはならなかった。

 拳では、暴力では、こんな形の勝負では、何にも伝わらないからだ。

「東袴塚学園でのことっ? それとも、撫子ちゃんのことっ?」

「両方に決まってんでしょ!」

 七瀬が回し蹴りを繰り出してきて、風の切れる音がした。

「けど、そんな事で! 私は今、怒ってるんじゃない!」

「分からない!」

 荒い攻撃を和音は左手で受け止めて、血を吐くような激しさで叫び返した。

「七瀬ちゃんが何考えてるかっ、私には分からない! 撫子ちゃんが怪我したから怒ってるんでしょ! 私があの子をっ、学校から連れ出したから! 怪我の原因、作ったから! だからっ、怒ってるんでしょっ!?」

「それだけじゃないって言ってるでしょっ!? っていうか勘違いしないで! 私は撫子ちゃんの怪我のことで、和音ちゃんを責めてない!」

「どうして! だって、撫子ちゃんが、怪我したのに!」

 和音は頭を振った。本気で分からなかったからだ。

 撫子の怪我は、和音の所為だ。傷ついたのは、身体だけではない。心にも重篤な傷を負ったに違いなかった。

 撫子は、和音にもっと怒ればいい。

 七瀬だって、当然頭にきているはずなのだ。

 だが、この和音の煩悶に対する、七瀬の放った答えは――あまりに、簡潔なものだった。

「――『撫子ちゃん』って、呼んでるから!」

 和音は、息を詰まらせた。

 空砲のように響いた声が、紺色の空へと吸い込まれる。冷えた風が、和音の髪を揺らしていった。

「ねえ、好きになったんでしょっ! 撫子ちゃんのこと、可愛いって思ったんでしょ! 大切にしたくなったんでしょ!」

 視界が、髪に覆われていく。黒髪の糸の隙間の向こうで、七瀬が叫んでいる。もう笑っていない七瀬が怒りに顔を赤く染めて、和音に向けて叫んでいる。懸命に、必死に、叫んでいる。

「だから! 和音ちゃんは! 撫子ちゃんのことを守ってたんでしょ!? 風見さんから、守ってたんでしょ!?」

「守れなかった!」

 慟哭のような声になった。

 自覚もあった。これは、慟哭に他ならない。誰にも言えないはずだった、行き場のない慟哭だ。許しを乞わない懺悔の言葉を、ついに口にしてしまった。

 その、瞬間だった。

「――いい加減に、してっ!」

 七瀬の怒りが、目に見えて加速した。

 一切の躊躇いを感じさせない鉄拳が、和音の顔目掛けて飛んでくる。和音は、反応が遅れてしまった。

「ずるい! 和音ちゃんはずるい! そうやって、自分のこと責めるくらいに真面目なくせに! どうしてその真面目さでっ、私のことは何も見ないの!」

「なっ、何言ってるの!」

 七瀬の攻撃を寸でのところで腕で弾き、出鱈目に振るわれる拳の雨を、和音は何とか掻い潜った。

 隙をついて距離を取りながら、混乱で目が回りかけた。

 七瀬が何を言っているのか、全く理解できなかった。

 ただ、酷く理不尽なことを言われた気がして――こちらも、怒りに火が点いた。

「七瀬ちゃんには、分からない!」

 右の拳を固めた和音は、七瀬に向かって振り上げた。

「七瀬ちゃんみたいな人はっ、友達のことで悩んだりなんてしないんでしょ! 七瀬ちゃんみたいな自分に自信のある子にはっ! 私の気持ちなんか分からない! 考えたことだってないんでしょ! 考えたことなんかっ! 一度も! それなのに、分かったような口利かないで!」

 鋭く風を切る音に、自分の上ずった声が混じっていく。

 喉から滑り出た言葉に、和音は、自分でも吃驚した。

 ――なんて、恥ずかしい告白だろう。

 そんな言葉を口にしてしまうくらいなら、死んだ方がマシだ。

 そう思ってきたはずなのに、もう声の形に変わってしまった。

 血の気が引いていくのを、自覚した。視界が薄らと暗くなる。震えた唇から、白い吐息が零れていく。肌寒さを、今更になって意識した。

 ――取り返しが、つかなくなった。

 七瀬はきっと、この和音の姿に驚くだろう。一しきり驚いた後は、きっと呆れ果てるだろう。そして最後には、憐れむだろう。小馬鹿にされてしまうだろう。未来が、目に見えるようだった。

 ――この感情は、劣等感だ。

 毒のような後悔に侵されながら、和音は孤独に理解した。

 理解して、新たな後悔が生まれていく。

 ついに、名前をつけてしまった。

 目も当てられないほど醜い想いに、ついに形を与えてしまった。

 きっと、認めたくなかったのだ。和音が紺野沙菜に似ていることをなかなか自覚できなかったのも、おそらくこれが理由なのだ。和音の見栄が、体裁が、認めることを躊躇した。

 だがそれでも和音は、もう自分が紺野に似ていると認めたのだ。

 だから、分かる。分かってしまう。

 七瀬への、この感情の名前は――劣等感で、正しいのだ。

 最低だった。こんなにも醜い心を核に持った、自分自身に反吐が出る。

 だがこれこそが紛うことなき、和音の本心だった。

 紺野の遺書を、思い出す。

 小学五年の撫子の姿を目で追って、何だか悔しくて悲しくて辛くなったと綴った、紺野の感情に思いを馳せる。

 ――和音も、同じ思いを感じたのだ。

 妬ましいのだ。どうしても。何だか悔しくて、悲しくて、辛いのだ。

 ――七瀬は、何でも持っているのに。

 生きやすさも、呼吸のしやすさも、和音よりずっと上なのに。可も不可もなくを極めなくとも、世界を難なく歩いていけて、どこにだって行けるのに。毬の、心からの笑顔だって。簡単に手に入れてしまえるのに。和音が欲しくて欲しくて堪らないものを、全部、あるのが当たり前みたいな顔で受け取っているのに。

 すとん、と覚悟が降ってくる。

 もう、逃げられないのだと思った。

 自分が自棄になっていることを冷静に自覚しながら、和音は、七瀬の顔を見る。

 七瀬は、身体を斜め前にせり出して、和音の攻撃を躱していた。

 学ランを纏った少女の身体が、和音に向かって迫ってくる。

 その表情と、至近距離で向き合って――和音は、もう一度吃驚した。

 ――七瀬の顔に、強い怒りを見て取ったのだ。

 七瀬は、和音に驚いてはいないのだ。

 呆れてもいない。憐れんでもいない。

 ただ、怒っているだけだった。

 先程よりも一層激しく、和音に怒っているだけだった。

「私を、何だと思ってるの!」

 鼻先を過った手の平を、和音は間一髪で避けた。

 ――平手打ちだった。

 鋭い風の音が鈍く鼓膜を震わせて、拓海と陽一郎と毬の悲鳴が、遅れて頭蓋に響いてくる。和音は頭が、真っ白になった。

「和音ちゃんは、私のどこを見てるの!? 私の学校での友達関係なんて、なんにも知らないくせに! 私の上辺しか見てないくせに、いい加減なこと言わないで!」

「なっ、七瀬ちゃんの友達って、そんなの……っ!」

 七瀬の乱雑な攻撃をがむしゃらに躱していると、和音の視界の片隅に、ショートボブの少女が映る。

 華奢な体躯。ブレザーにスカート姿。

 寒そうな格好だった。剥き出しの白い膝小僧が、骨ばって見える。

 心配そうな、顔をしていた。それでいて何かを強く信じてやまない、敬虔ともいうべき真摯さで、こちらの戦いを見守っている。

 ――毬。

 和音の、七瀬の、大切な友達。

 その存在が瞳に焼き付き、和音は、叩きつけるように叫んでいた。

「毬ならっ! 七瀬ちゃんのことが、好きでしょ! ちゃんと、好きでしょ! それが、何なの!」

 悲鳴のような声になった。心がぎしぎしと軋みを上げた。自分でもこれでは悲鳴だと、泣きたくなるような気持ちで思った。

 だが、七瀬の返答に――和音は、度肝を抜かれてしまった。

「毬じゃない!」

「えっ?」

「毬の話なんて、してない! 私が今! してるのはっ! 私の学校の、友達のことなんだからあっ!」

 頬に、激痛が走った。

 不意打ちが、油断が、命取りになった。

 ついに七瀬の攻撃が、和音に当たってしまった。

「私が学校で一番仲良くしてた、友達は! もう、普通に話せなくなっちゃったんだからぁっ!」

 張られた頬が左に触れるのに身を任せながら、和音は驚き一色に染まった心で、七瀬の言葉を受け止めた。

 痛む頬を、押さえることはしなかった。

 和音はタイルに手をつき、立ち上がり、七瀬の顔と向き合った。

 辛くても、見なければならないと感じたのだ。

 七瀬が、泣いている気がしたのだ。

「私と、その親友は! 同じ人を好きになったの! それでも元に戻れるって思ってた! 期待してたの! 私達の関係が、今までの楽しかったこととか、休みの日にいっしょに出掛けたこととか、おうちに泊まってずっとお喋りしたこととかっ、そういう思い出とか、友情が! こんな問題に負けるわけないって! だから、私言ったの! 私のこと嫌じゃなかったら、これからも一緒にいて、って!」

 七瀬は体勢を崩した和音に向かって、拳を振り上げて迫ってくる。

 濡れた髪が風に流され、七瀬の顔が、月光に青白く照らされた。

 その顔は、泣いてはいなかった。

 鮮烈な怒りと悲しみが混じり合った表情のどこにも、涙に繋がるような寂しさを、和音は見つけられなかった。

「でも、だめだった。元に戻らなかった。負けちゃった」

 ただ、目元だけが不意に歪んだ。

 まるで堪えきれないはずの痛みを、無理に堪えているかのように。

「あの子は私のことを、『大人しい』グループの女の子達に、ビッチって言って回ってた! 私がそれを、知った時には! 私のグループの友達が、あの子を代わりに苛めてた!」

 視界の隅で、毬が口元に手を当てている。陽一郎は口をぽかんと開けていて、拓海は、静かに顔を伏せた。

 まるで七瀬がこの告白をすることを、どこかで予期していたかのようだった。

「言ったよ! 私だって! 夏美にもミユキにも、やめてって! でももう二人がやめたくらいじゃ、止まらないくらいに広がってた! 多分、絶対、私が見てない所で、あの子はまだ苛められてるの、分かるのに! なのに!」

 和音の頬を、七瀬の拳がまた掠めた。

 その腕を、掴めばいい。簡単に制圧できる身体なのだ。

 なのに、和音にはできなかった。七瀬から伝わってくる血の匂いがした痛みの所為で、身体が痺れてしまっていた。

「そんなに辛い思いして耐えてるくせに、葉月は私と話したくないんだよ!? 私の所為でこうなったって思ってて、私のことを避けるんだよ!? 私のことが、そんなに嫌になっちゃったんだよ!?」

「それはっ……罪悪感とか、そういう気持ちも、あるんじゃないのっ!」

 何とか、和音は反論した。

 だが、こんな反論は口にすべきではなかったのだ。

 和音の台詞は間違いではなかったが、七瀬の言葉だって正しいのだ。

 同じ少年を好きになってしまった、仲のいい友達同士。

 恋が成就した方を片方が妬み、陰口を広めてしまい――結果として、学校での居場所を失った。

 愚かだ。率直に思った。全く救いようがなかった。

 決して言ってはいけない言葉を、その友人は言ったのだ。

 ――まるで、今日の和音のように。

 七瀬と拓海の二人に向けて、『死ね』と言った和音のように。

「罪悪感? あるかもね、すっごく優しい子だからね! でも、そんなの理由にならないよね!」

 七瀬は、容赦なく切り捨てた。

「ねえ、罪悪感を持ってたら、何を言っても許されるのっ? 私みたいな『派手』な子だったら、何を言っても傷つかないって思ってるのっ? そういう態度が、私だって許せないよ! 自分ばっかり怒って、妬んで、理不尽なことばっか言いふらして! 私だって辛いのに、被害者面ばっかで腹立つよ!」

 ずきんと胸を、重量のある痛みが襲った。

 自分のことを、言われたような気がしたのだ。

「悲しいよ! すっごく! ねえ、どの辺が『友達関係に何の悩みも抱えてない』ように見えるわけっ!? 和音ちゃんは! 私の何を見てきたの!? 私だって女の子だよ、和音ちゃんと一緒だよ! 普通に学校のことで悩んだりするよ、友達関係で寂しい思いだってしてるよ! ――私だって、こんな風になりたくて、こうなったわけじゃないんだからっ!」

 言葉が、心に突き刺さった。

 今の七瀬の台詞に対し、何一つ反論できなかった。

 魂をかけたような叫びに射抜かれ、和音の動きが鈍った。

 七瀬は手心を加えなかった。隙を逃さず、和音の腹に向かって蹴りを入れてくる。すかさず和音は腕で受けて薙ぎ払ったが、覇気が自分でも分かるほどに欠けていた。戸惑いの渦に呑まれた身体は、水中でもがいているかのようだった。

 混乱した頭で、和音は茫然と考える。

 ――七瀬も、和音と同じだったのだ。

 一見器用なこの少女にも、和音の知らない傷があった。学校の形を取った戦場で、和音と同じように戦って、時に傷ついて立ち止まり、先の長い学校生活に憂いを覚える日々があったのだ。

 だが、たとえそうだとしても。和音は、気力を奮い立たせた。

 七瀬には、毬がいるではないか。

 友達の、たった一人が何なのだ。

 毬の心を掴んでいて、それ以上何を求めるのだ。

 ――だがその『たった一人』こそが、和音にとっての毬なのだ。

 七瀬はさっき、『親友』という言葉を使っていた。

 滅多な事では、使わない言葉だ。少なくとも、和音は使ったことがない。

 ――もし毬が、和音を拒絶したら?

 そんな想像を巡らせて、和音は顔色を、青くする。

 ――耐えられない。

 たった一言の拒絶だけで、和音は容易く壊れるだろう。

 そんな惨い態度を、七瀬は、どれほどの数受けたのだろう?

 一度や二度では、ないはずだ。七瀬のグループの少女達が、代わりに『親友』を苛めたほどだ。確実に、いろんな暴言を見聞きしてきたに違いない。

 にも関わらず、七瀬は――和音の、目の前に立っている。

 凛と冴え渡った眼差しで、背筋を伸ばし、地面に足を踏ん張って、世界そのものと戦っているかのような負けん気を携えて、和音と相対して立っている。

 気高い不屈の精神に、和音は明確に気圧された。

 ――強い。

 はっきりと、そう思った。

 和音よりも、七瀬は強い。

「でも、後悔してない」

 鋭い眼光のまま、きっぱりと潔く、七瀬は言った。

「私は、親友を失ったことを、後悔してない」

「どうして……?」

「坂上くんを、選んだから」

 立ち止まった七瀬が、学ランを着た身体を両腕で抱いた。

 まるでそれが、とても大切な物であるかのように。

 瞳を閉じて、顎を引いた。

「去年の、十月くらいかな。どんどん一人ぼっちになってくあの子に、私は近寄れなかったんだ。近づいても、逃げられちゃうから。それでも追い駆けたいって思えるくらいに、私ももうあの子のこと、好きじゃなくなったのかもしれないね」

 七瀬が、薄く笑った。

 まるで何かを、諦めるように。

 いや、違う。この顔は、何にも諦めていない顔だ。

 多分、おそらく、きっと――何かを、吹っ切った顔なのだ。

「ねえ、人ってさ。こんなに滅茶苦茶言われて、それでも相手のことを好きでいられるものなのかな。そういう優しい人だって、世界にはいるのかもしれないけど……私には、出来ないよ。ううん、したくないんだ。そういうのを、優しさだって思えないんだ。こんな考え方しちゃうから、私は周りの人達から、きつく見られちゃうのかもしれないね。私は、『派手』で、怖い子だ、って」

 和音は、答えられなかった。

 そんな目で七瀬を見ていた大多数の一員に、和音だって、含まれる。

「友達も、好きな人も、どっちも諦めたくなかった。……でも、どちらかを選ばないと、前に進めないなら。私は、坂上くんを選ぶ」

 瞳を開いた七瀬が、拓海の立つ方向を振り返る。

 そして突然、大声で叫んだ。

「――坂上くん!」

 どこか切実で甘やかな声音が、とくんと和音の心臓を叩いていく。撫子の声が、リフレインする。これは、恋をしている声なのだ。今日で二度目の感慨を、和音は静かに抱いていた。

「篠田さん」

 そんな声に、拓海は応えた。

 師範の服の裾が、夜風に涼しく揺れている。

 柔和な面立ちに、少し苦しげなものを交えた顔。

 七瀬に、選ばれた少年。

 見つめ合った二人は、神妙な空気を刹那だけ醸し出した。

「……」

 和音は、漠然と予感した。

 一人の少女の存在は――きっとこの先永遠に、二人について回るだろう。

 過去は、消えないものだからだ。それにこの記憶を消し去ることを簡単に許してしまえるほどに、二人共、残酷な性格はしていない。

 そんな考え方をして、はっと和音は気付かされた。

 ――この二人のことも、今日一日で随分深く知ってしまった。

 和音と七瀬の衝突によって紐解かれた、七瀬と拓海と、もう一人の少女の過去。

 拗れた友達関係を交えた所為で、爪痕を付けられた二人の絆。

 だが、重苦しさを振り撒く過去を、記憶を、二人はものともしなかった。

 口火を切ったのは、七瀬だった。

「私ね、一人ぼっちになったあの子に、坂上くんだけが話し相手になろうとしてたの見た時! 嫌だなって思ったの! これって、独占欲なんだと思う! 坂上くんへの、独占欲なんだと思う!」

 明るい声がすかんと響き、夜の寂しさを切り拓いた。

「それが分かった時にね、私は選んだの! どっちも諦めたくなかったけど、それでも、私は選んだの! ねえ、私ってこんなひどい女だけど、でも、ひどいなりに考えて、いっぱい考えて、ずーっと前から、決めてたの!」

 七瀬が、弾けるように笑った。

「私、坂上くんが好き! 大好きーっ! これからも一緒にいたい! 高校でも、ずっと! だから、見てて! 私が絶対、勝つんだから!」

 拓海は七瀬の声量にどぎまぎしたのか、「えっと、えっと」などと相変わらず挙動不審っぷりを発揮して、手をおろおろと振っている。

 その顔に、ふっと、爽快な笑みが浮かんでいく。

 両手を口元に当てた拓海が、七瀬に大声で叫び返した。

「俺も、好きだー! 篠田さん! 高校でも、一緒にいよう! その後も! これからも! ずっと俺と、一緒にいよう!」

 七瀬の顔に、赤みが射す。

 恥じらいさえ感じられる謙虚な笑みに、生来の勝気さが加わっていく。

 花のように笑った七瀬も、さらに拓海へ叫び返した。

「声が小さーい! もっと大きな声でー!」

「えっ、まだ足りない? あの、近所迷惑なるから……、これが終わったら、ちゃんと言うからー!」

「今じゃなきゃ、やだー!」

 そのやり取りを、見ていると――ぷつんと、和音の中で何かが切れた。

 わなわなと、拳が震える。

 もう、いつぞやのように憚りはしなかった。

 滾々と湧水のように溢れてきた感情に、和音は、素直に従った。


「――本っ当に、むかつく!」


 堂々と声に出して言い捨ててやると、和音は見つめ合う二人の間へ割り込むように回り込んで――決着を七瀬とつけるべく、腕を大きく振り上げた。

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