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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 82

 拓海が止めに入る間もなかった。

 七瀬の学ランが夜風を孕んで大きく膨らみ、それが翻るのとほぼ同時に、戦いの火蓋は切って落とされた。

 タイルに薄く積った砂を蹴散らしながら、男子学生の制服に身を包んだ七瀬の身体が、和音に向かって全速力で迫ってくる。

 和音に向かって――つまり。公園の入り口に集結している、拓海、毬、陽一郎に向かって、だ。

「う、うわあぁ! 皆、避けて!」

 核爆弾のような勢いで突っ込んでくる七瀬から、全員が蜘蛛の子を散らすように逃げ惑った。拓海と毬が主に右手へ、和音が左手、陽一郎だけは避けきれずに「うわああん!」と半泣きの声を上げながら、車道に転がるのが横目に見えた。

 直進してきた七瀬は猫科の動物が得物を追うような俊敏さで、足を止めるとにっと笑った。拓海は、その表情に驚いた。

 七瀬は、また笑っていた。怒っているはずなのに笑っていた。

 楽しんでいるのだ。拓海にはそれが伝わった。拓海が東袴塚学園で、和泉との論戦をどこかで楽しんでいたのと同じように、七瀬も始まったばかりの戦いを楽しんでいる。

 だからといって、止めないわけにはいかなかった。

「篠田さん! 佐々木さん! やめるんだ! やめろって……! 頼むから、やめてくれ……!」

 拓海は両手をメガホンの形にして、それから近所迷惑を気にしながら二人に向かって呼びかけたが、突然始まったガールズファイトに、男子の入り込む余地などない。当然やめてもらえるわけもなく、拓海は途方に暮れてしまった。

「七瀬ちゃん、どうして……!」

 和音が、公園の中央で立ち止まった。

 スカートと長髪が、慣性の法則で揺れている。

 拓海がその様子を視界に入れた時には既に、七瀬が地を蹴っていた。

「理由なら言ったでしょっ? 和音ちゃんと、白黒はっきりつけたいから!」

 丁度ここに来た時と立ち位置を入れ替えた形の二人は、見つめ合う間も惜しいとばかりに、すぐさま距離を詰めていく。

 七瀬の手が、和音を狙って突き出された。

 ――顔に向けて、だった。

「甘い!」

 立ち位置をほとんど変えないまま、和音は七瀬の攻撃を受け流した。清流が山を下るような伸びやかさで、逆に七瀬へ肉薄する。

「和音ちゃんこそ! 甘いんじゃないっ?」

 学ランの胸元へ伸びた和音の腕を、今度は七瀬が逆に掴んだ。

 その力に逆らわずに、和音が、七瀬の懐へ飛び込んでいく。

「あ……!」

 直感で、拓海は理解した。

 ――わざと捕まったのだ。

 拓海も最近になって克仁から、少林寺の型を少し習った。受験生なので時々道場を覗いただけだが、あの技には覚えがあった。

 果たして和音の次の行動は、拓海の予想通りだった。

 和音の片手がひらりと動き、七瀬の首に手刀切りを叩き込む。ふらついた七瀬の手を和音は瞬く間に捻り上げて、続けざまに繰り出された拳が、七瀬の側頭部を殴打した。

「篠田さん!」

 思わず拓海が声を張ると、「大丈夫」と隣から声がかかった。

 はっと見下ろすと、毬がいた。

 真剣な面持ちで、二人の戦いを見つめている。

「七瀬ちゃんも、少しだけ習ってたから。それに和音ちゃん、優しいから。私相手に戦う時も、いつもだいぶ手加減してくれてるの。絶対に言わないけど、多分……今だって」

「で、でもっ!」

 毬はそう言うが、拓海が戦いに目を戻すと、和音は七瀬に一本背投げの技をかけていたので目を剥いた。全然手加減しているようには見えなかった。

「危ない!」

 だが、拓海が危惧したような事態にはならなかった。

 和音の背から放り出された七瀬の身体は、くるんと軽やかに宙を回ると、足から地面に着地したのだ。

 二人は声もなく一定の距離を取り合うと、互いに再び、身構えた。

 両者の顔に焦りはなく、負傷している様子もない。

 砂を擦る靴音だけが、夜の静寂を傷つけた。

「……」

 一連の戦いを、拓海は呼吸も忘れて眺めていた。

 やがて深く息を吐いてから、ぽつりと、小さく呟いた。

「手加減の意味……分かった気がする」

「ね?」

 毬が、首を傾けて微笑んだ。

 見ているだけで、心が解れるような笑みだった。和音や七瀬がこの少女を、大事にする気持ちが分かる気がする。拓海も温かな気持ちになると、自然な笑みを毬に返す。

「今の、佐々木さんが配慮した投げ方をしたのか、それとも篠田さんの身体捌きが良かったのか、俺にははっきり分かんないけど……なんとなく、両方な気がしたんだ」

 少なくとも和音には、七瀬を傷つける意思はない。

「うん」

 毬が柔らかく笑んで頷くと、背後から別の声がかかった。

「僕、もう何も信じられないよ……撫子以外の女の子、みんな怖い……」

 毬と共に振り返ると、そこには陽一郎が半べそで立っていた。

 さっき和音に撃退された者同士、親近感が湧く拓海だが、陽一郎の台詞が台詞なので慰め方には難儀した。困ってしまった拓海は結局、ぱっと思いついたフォローを入れた。

「日比谷、そんなことないって。ほら、綱田さんは怖くないじゃん」

「そんなこと……」

 毬が恥じらって俯き、拓海は意外な反応に戸惑ってしまう。陽一郎の方も己の失言を悟ってか、「あっ」と口元を押さえて慌て出した。

 陽一郎が毬のことを忘れたのは、大方和音や七瀬、美也子や氷花といった面々に、圧倒された所為だろう。無理もないと思うので、拓海はやっぱり苦笑した。

 そうやって陽一郎の言った『女子が怖い』という言葉を、頭の中で反芻する。

 そして、やはり曖昧な笑い方をしてしまった。

 拓海自身も本心では、その通りだと思うからだ。

 むしろ、その恐怖に最も強く囚われていたのは、このメンバーではおそらく拓海だ。

 拓海は、女子が怖かった。今でも怖いと思っている。

 忘れたわけではない。克服できたわけでもないのだ。ただ七瀬と付き合いを重ねるうちに、流れた時間が少しだけ拓海を鍛えただけだった。

 去年の夏に見た九年前の惨劇も、拓海の姿勢を正していた。

 強くならなくては、ならなくなった。

 大人にならなくては、ならなくなった。

 拓海が出会った人達に、拓海は魂を変えられた。変えてもらったと思うのだ。

 その変化をきっと人は、『成長』と呼ぶのだろう。

 だとしたら、言葉というものは本当に、多様な顔を持っていた。

 拓海の身に起こった出来事も、その時々で感じた事も、揺れ動いた心も全て、言葉の形で言い表せてしまうのだ。

 中でも声に出して発した言葉は、情感豊かで、複雑で、口数が不足すれば、時折誤解や齟齬を生む。

 まるで、角の欠けた鬼の面。欠けていて尚、清らかな。

 歪で、不完全で、未発達で、その上扱いが酷く困難で、その心髄まで分かりきるのに一生の歳月を費やしそうなそれは、こう考えてみれば生きた人間と何ら変わらなかった。

 拓海は、我ながらびっくりする。

 自分の内側からこんな思想が生まれるなんて、思いも寄らなかったのだ。

 そういえば、と拓海は記憶を回想する。

 神社の神主である異邦の男が、話してくれた事があったのだ。


 ――『僕は、人が好きなのですよ』


 つい最近の、出来事だ。

 拓海は氷花の〝言霊〟の異能の件で、神社へ嘆願に出向いていた。

 氷花の異能に拓海達が巻き込まれるのを事前に食い止められるなら、何でもしようと思ったからだ。

 結局その努力は実を結ばず、事件は起こってしまったが――合間で交わした他愛ない雑談で、和泉は確か、こんなことを言っていた。


 ――『初めて柊吾君に出会った時にも、僕はそう言いましたね。僕は、人が好きなのです。彼も、彼女も、彼等を取り巻く皆が好きです。溌剌としていて輝いていて、人の事を思う心が赤裸々で……全力で今を生きている。……おっと。ここまでにしておきましょうか。ここから先の言葉を、僕は……僕の日本の御父様に、言う予定がありますから』


 悪戯っぽく和泉は笑い、この話題はそれっきりになった。

 人を煙に巻くような喋り方は呉野和泉らしいものであり、拓海もこの時は本来の目的達成のことで頭がいっぱいだったので、深く追求はしなかった。

 ただ、今ここで和泉の言葉を思い出したことで、拓海の心に変化があった。

 ――だから和泉は、言葉を愛したのかもしれない。

 少し欠ければすれ違い、上手く相手に伝わらない。何とも歯痒く難解で、きっと人が人を育てるのと同じくらいに手がかかる、言葉の形をした魂に、惹かれていったのかもしれない。

 人が人を、愛するように。

「……」

 拓海は、顔を上げて戦いを見る。

 眼前には、二人の少女。

 二人の身体は磁極の異なる磁石のように交錯し、七瀬が蹴り、和音が避け、大振りな七瀬の攻撃で生まれた隙を埋めるように和音が攻め、その攻撃を逆手に取って、七瀬が和音の懐へ潜り込む。

 攻守がくるくると入れ替わる様は、まるで花札や歌留多の試合を眺めているような熱狂を、生き生きと華やかに伝えてくる。

 拓海は固唾を呑んで見守って、弱ってしまい、頬を掻く。

 止めに入るつもりが、すっかり見入ってしまっていた。

「坂上君」

 毬が、二人の戦いを見つめたまま、拓海を呼んだ。

「私ね、少しだけ……このまま、見守りたい」

「……うん。俺も、そうしたくなった」

 拓海も、前方に目を向ける。

 危ないことは、して欲しくない。怪我への焦りや恐怖もある。

 だが毬が望んだのと同じように、拓海もまた望んでしまった。

 見てみたくなって、しまったのだ。

 七瀬と和音の二人が、戦いの果てに出す答えを。

 そして、聞きたくなってしまったのだ。

 このぶつかり合いの中で、きっと生まれるに違いない――二人の間を通う、言葉を。

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