花一匁 81
「ちょっと、七瀬ちゃん、待って……!」
シャワーを止めた七瀬に引き摺られるようにして浴室を出ると、「やだ、こっち寒い!」と七瀬が震え出す。
仕方なく和音がタオルケットを指さすと、それを頭から引っ被った七瀬が、隣で稼働している洗濯機に気づいた。
「えっ、うそっ洗濯? まさか私の服、この中なのっ?」
「そうだけど……七瀬ちゃん、もうちょっとシャワーに当たってて! 大体、そのつもりで洗濯してたんだから……!」
「待てない」
七瀬の指が、洗濯機の停止ボタンを押した。
間の抜けた電子音と共に、洗濯機が回転を止める。
唖然とする和音をよそに、七瀬は洗濯槽から躊躇なく下着を引っ張り出した。そして手早くそれらを身に付けると「嫌あぁー! 冷たいー!」と絶叫した。
「あ、当たり前でしょ……」
開いた口が塞がらないが、何とか和音は言い返す。
七瀬は肌着にも袖を通しかけたが、「こんなの着てらんない!」と叫ぶや否や、濡れた制服一式を再び洗濯槽へ叩き込んだ。
「もうっ、とにかく着れるもの調達しなきゃ! 和音ちゃんも早くスカート履いて! これから外行くから!」
「外っ?」
「少林寺の道場。私達、そこで決着つけよう!」
「だからっ、さっきから何を言って……!」
和音は必死で抵抗したが、途中で無駄だと気付いてやめにした。頭に血が上った七瀬に何を言ったとしても、馬の耳に念仏だ。何も聞きやしないのだ。
ならばこのお転婆を無理やり風呂場に連れ戻してから、せめて衣服を先に乾かそう。
そんな算段を立てていると、七瀬の視線が洗面台の隅に向いた。
そこには紺野の遺書と、拓海が置き忘れていったおにぎりの乗った盆。
まじまじと、七瀬がそれらを見つめている。
「これ、食べていいの?」
「た、たぶん……」
和音が迷いながら答えると、七瀬は間髪入れずに決断した。
おにぎりを一つ掴み取ると、迷いのない手つきでアルミホイルを剥がし、白米にかぶりついたのだ。
「ほら! 和音ちゃんも食べて!」
今度こそ唖然とする和音にも、七瀬はおにぎりを突き出してきた。
「お腹すき過ぎて倒れるとか笑えないからね? 食べないと力でないから!」
「ちょっと、そんな場合じゃ……!」
和音は食ってかかったが、七瀬は目の前の軽食をがむしゃらに食べている。捨て鉢な気持ちになった和音も、脱いだ制服を身に付けてから七瀬に倣って一口食べた。不覚にも、それは美味しかった。空腹感など、たった今まで忘れていた。
「行こう、和音ちゃん!」
バスタオルを身体にぐるぐると巻いた七瀬が、和音の腕を掴んできた。
和音は、盆を持ったままたたらを踏んだ。
「行こうって、そんな格好でどこに……!」
「まずは服の調達だってば!」
七瀬は脱衣所の引き戸を開け放った。ぱあん! と威勢のいい音が家中に反響し、和音はぎょっと目を剥いた。
――まさか、この格好で、家中を歩き回るつもりだろうか。
「ま、待って七瀬ちゃん! 私が何か探してくるから!」
「待ってらんない! 私も探す!」
「待ってってば! 止まって! パンツ見えてるから!」
「パンツくらいでビビらない! 女の子でしょ!」
「頭おかしいんじゃないの!?」
駄目だ、怒り狂い過ぎて何にも聞いてもらえない。極度の冷えか湯あたりか、脱衣所で頭の螺子を大量に落としてきたのではないだろうか。
だが七瀬に何を言われても、ここで止めなくてはならなかった。
「とにかく、止まって! 家の中には、坂上君と日比谷君が……!」
ずかずかと歩く七瀬に引き摺られて廊下の角を曲がった和音は、顔面の筋肉を引き攣らせた。
ほんの二メートルほど先の玄関には、まだ毬と陽一郎がいたのだ。
二人共こちらに背を向けていて、逆光の月明かりで立ち姿が黒く見える。
毬の方が先に和音達に気付いて振り返り、バスタオル一枚の友達の姿に仰天したのか、あんぐりと口を開けている。
陽一郎の背中がぴくりと動き、首が、こちらに向きかけた。
「見ないで!」
突然の修羅場に、やむなく和音は廊下を走った。
そして今まさに振り返った陽一郎の顔面目掛けて、手に持ったままだった赤い盆を、問答無用で、走った勢いも上乗せして、一切の容赦なく押し付けた。
「むー!?」
パイ投げのように見舞われた攻撃に、空気がこもったような悲鳴を上げた陽一郎が玄関マットへひっくり返る。盆に残ったおにぎりも吹っ飛び、毬からも悲鳴が上がった。だが、まだ男子を一人仕留めただけだ。もう一人残っている。
情けなさ過ぎて頭が痛い。何故こんな犯罪の火消しのような真似事を自分がしなければならないのだ。
理不尽さに歯噛みしながら振り返ると、バスタオルを巻いた和音の同級生、否、痴女は、大股で居間へ踏み込んでいくところだった。
「七瀬ちゃん! いい加減にっ……!」
襖の前で和音が七瀬に追いつくのと、室内から声が上がるのは同時だった。
「えっ?」
和洋折衷の居間の奥、台所へ繋がる扉の前で――拓海が、明かりも点けずに立っていた。
手には携帯を持っていて、ぽかんとした表情で、和音と七瀬を見つめてくる。
その顔が、徐々に朱に染まっていく。
やがてがしゃんと携帯を取り落とし、「あ、うわ、わ、わあああ」などと叫び声を発しながら、謎の足取りで後退した。
和音の判断は早かった。
七瀬の彼氏であろうと知ったことではない。所詮中学生の恋愛だ。破局も有り得る。そうなれば後で泣くのは七瀬だ。
よって和音は、傍にあった伽羅色のクッションを引っ掴むと、腕のスナップを利かせて捻り、拓海目掛けてぶん投げた。
剛速球で飛んだそれは、吸い込まれるように拓海の顔へヒットする。「ぶっ」と呻いた拓海はクッションを顔にめり込ませたまま、仰向けに倒れていった。どすんと重い音が天井にまで響き渡り、揺れた電燈から埃がちらちらと降ってくる。和音は、肩で息をする。妙な爽快感が少しだけあった。
「か、和音ちゃん……」
背後から、毬の恐れをなしたような声がする。
「緊急事態だから」
和音は涼しく答えると、テーブルの傍で伸びている拓海へ向き直った。
ともかく、七瀬を風呂場に連れ戻すか、それが不可能なら申し訳ないが、拓海と陽一郎の二人をこの家から叩き出すしかない。
数秒考えてから和音が後者を選んだ時、予想外の事件が起きた。
「坂上くん、丁度よかった!」
目を回している拓海の元へ、七瀬が自ら近寄っていったのだ。
「ちょっと、七瀬ちゃん! 何してるの!」
和音は狼狽した。折角和音が骨を折っても、これでは台無しではないか。
上体を起こした拓海も見事なくらいに動揺していて、「あの、えっと、その、あの」などと口籠りながら近寄る七瀬をしっかり見ている。
和音は二個目のクッションを掴んだが、七瀬の方が、和音より行動が早かった。
拓海の正面で、すとんと七瀬がしゃがみ込む。
そして、がしっと。
拓海の学ランを、両手で強く掴んだのだ。
「坂上くん。一生のお願い」
「へ?」
「この服、今すぐ貸して」
「ふ、服っ? えっ、えっ?」
「いいから! 今すぐ! 服脱いでー!」
了承も聞かず、七瀬は拓海の学ランの前ボタンをぶちぶちと外し始めた。見る間に剥ぎ取られた学ランが宙を飛び、腰から引き抜かれたベルトもその後を追った。シャツのボタンも毟り取るような勢いで外されていく。
「うわああああ!? やめっ、待っ、助け……!」という男子生徒の悲痛な叫びを和音は信じられない思いで聞いていたが、次第に顔が熱くなり、ばっと勢いよく目を逸らした。見てはいけないものを見てしまった気がした。
「な、七瀬ちゃん……」
背後から、毬の恐れをなしたような声がまた聞こえた。和音はクッションを投げつけた手前主張し辛いものがあるが、とりあえず自分の非は棚に上げることにして、同意を込めて頷いた。
「よし」
七瀬は、もとい、理不尽な狼藉を働いた追剥は、満足げに頷いて立ち上がる。
そして少しだけ申し訳なさそうに、足元に向かって手を合わせた。
「坂上くん、ありがと! ごめんね、時間がなかったから! 坂上くんは師範の服でもゆっくり探してて! 師範には後で私から謝るから!」
ぶかぶかの学ランに袖を通した七瀬が、和音を振り返った。
「じゃ、行こっか。和音ちゃん」
濡れた髪を手櫛でさっと梳いてから、にっと強気な笑みを見せてくる。
先程の消耗を一切感じさせない、いつもの七瀬の姿だった。
「行こう、って……」
和音は、ちら、と少しだけ目を泳がせる。
テーブルの影には「ひ、ひどい……」と震え声で訴える、バスタオルに包まった憐れな少年の後姿が垣間見えた。
「いいの!」
無慈悲に告げて、七瀬は和音の腕を引っ掴んだ。そして玄関マットの上で盆を顔に貼り付けたまま伸びている陽一郎へ、不思議そうな目を向ける。
「和音ちゃん、何したの?」
「七瀬ちゃんの所為でしょ!」
誰が好き好んでこんな事をするものか。だが、反論はそこまでだった。七瀬に腕を掴まれたまま、和音は外へ連れ出される。
夜気が、甘く頬に吹き付けた。
春の風だ。もう真冬のような鋭さはない、次の季節を迎える風。
なし崩し的に靴をつっかけて家を出てから、誰かの靴を履いてしまったと、遅れて気付いて和音は焦る。多分、毬のローファーだ。引き返そうと振り返るが、七瀬がそれを許してくれない。双六のように飛び石の埋まった白砂を踏んで、平屋の建物の手前まで和音は七瀬に引き摺られた。
七瀬が、引き戸をスライドさせる。
がちっと澄んだ金属音が、二人の行く手を堅く阻んだ。
施錠されているのだ。
当然といえば当然だ。家人が留守なのだから。和音は少しほっとした。これでようやく七瀬の暴走に、歯止めが掛かると思ったのだ。
だが和音の知る篠田七瀬は、この程度の障害で諦めるような、割り切りの良い人間ではない。
七瀬が、和音を横目で見た。
「行こう。ついて来て」
何一つとして諦めようとしていない、強い眼差しがそこにあった。
腕を引かれ、和音の身体が揺れ動いた。ずきんと微かに頭の奥が脈打ったが、痛覚はすっかり鈍っていて、はっきり知覚できなかった。
家を飛び出して二人でアスファルトを走りながら、これからどこへ行くのだろうと和音は茫漠と思いを馳せた。何も考えつかなかった。思考も鈍磨しきっていた。
ただ、月明かりの青さだけが、胸を打つほど美しかった。
まるで、一昨日の夜のように。三月三日、毬の誕生日に起こった、和音と美也子の喧嘩の日。あの夜と同じ青さで冴え渡った夜の中で、吐息が白く流れていく。見上げた空に冬の星座を見つけた時、和音はようやく悟って、前を見た。
「……ここは」
運命的な、ものを感じていた。
ここが、七瀬の決めた、戦いの舞台。
――公園、だった。
小さな公園だった。ブランコ、雲梯、砂場、東屋。それらが犇めき合うように押し込まれた、子供のおもちゃ箱の中身のような公園。その入り口に立ちながら、和音はすぐ傍の花壇の黒い土に、黄色い花を見つける。
土にごろりと落ちたそれは、茎の断面が鋭利だった。
――美也子が、切ったのだ。
直感で、和音は理解した。美也子が、花を切ったのだ。和音とここで別れてから、鋏で花を、切り落とした。
「和音ちゃん」
公園の中央に進み出た七瀬が、和音を振り返った。
疎らに設置された蛍光灯の白い光が、男子学生姿の少女へスポットライトのように降り注いだ。ばらばらの方向から照った光が、七瀬の足元に放射状の影を描く。
――これでは、あの日の再現だ。
待つ美也子と、呼ばれた和音。待つ七瀬と、呼ばれた和音。
和音は呼ばれてばかりだった。巻き込まれてばかりだった。自分から能動的に、動こうとはしていない。
それでも、ここに、立っている。
やはり、運命を感じていた。
和音と美也子の衝突に、端を発したという〝アソビ〟。
その〝アソビ〟が終わり、幕が引かれた舞台の裏側に――和音はまだ、立っている。
「私と決闘しよう! 和音ちゃん!」
ぱんっ! と七瀬が両手を叩いた。
凛と張られた通る声に、手拍子の残響が重なった。
胸の前で、祈りのように合わせられた両手の平。
和音は、鮮烈な既視感に目を見開く。
――これは、戦いの姿勢だ。
同時に、戦う相手への敬意と礼節を示す姿勢。和音も今日、同じ姿勢を一度取った。これは和音にとって血肉の一部と同義なくらいに、馴染み深い姿勢だった。
この姿勢を、最後に七瀬が取るのを見たのは――中学一年の春。
七瀬が、師範の道場を辞めた日だ。
「和音ちゃん、強いんでしょ? だったら私と勝負しよう!」
大声で、七瀬が叫んでいる。学ランの裾をマントのように夜風に涼しく流しながら、勝気に笑って、叫んでいる。
「ねえ、私に言いたいことあるんでしょっ? 私だって、和音ちゃんに言いたいことたくさんあるよ! ……でも私達、何にも言えなかったよね? 何にも、言おうとしなかったよね? だから、戦おう! 和音ちゃん! 私達はここで決着をつけて、それで全部チャラにしよう!」
和音の背後から、ばたばたと足音が聞こえてきた。
「七瀬ちゃん、和音ちゃん……!」
振り返れば、公園の入り口に毬と陽一郎が駆けつけていた。
和音は、申し訳なさでいっぱいになる。毬はサンダルを履いていた。明らかに師範が庭に出る時用の突っ掛けだ。陽一郎は、鼻の頭が赤かった。こちらも少し申し訳なかった。
「篠田さん、佐々木さん!」
切羽詰まった表情の拓海も、二人に遅れて走ってきた。麻の白シャツにカーキ色のズボン姿で、おそらくは慌てて師範の服を着てきたのだ。
師範は怒らないだろうかと、和音はそちらが心配になった。すっかり子供達の好き放題にされている。
「篠田さん、何してるんだ! 戻ろう! 無茶しちゃ駄目だ!」
「止めないで! 坂上くん! みんなも!」
七瀬は、耳を貸さなかった。
厳しい表情で言い放つと、視線を、和音に戻してくる。
「これは私と和音ちゃんの問題なの! だから、止めないで! 私達は、ここで戦わないといけないの!」
「駄目だって! そんな事してる場合じゃ……!」
「そういうの、聞き飽きたから!」
七瀬は一喝して、拓海を睨み付けた。
「ねえ坂上くん。一つおさらいさせて。――言霊って、言葉には力が宿るっていう昔からの考え方なんでしょう?」
「え? ああ、うん……正確には、声に出した言葉には、だけど」
「言葉に、魂は宿る」
七瀬は、据わった目で繰り返す。
その様はまるで言霊の持つ本来の意味を、自分にも周りにも擦り込んでいるかのようだった。
きっと七瀬も、そのつもりで言ったのだ。
だが和音が七瀬の意図を読めたのは、ここまでだった。
そして次に放たれた言葉は、完全に和音の、そして全員の常識を超えていた。
「ねえ、じゃあさ、肉体言語にも魂って宿る?」
「に、肉体言語……?」
拓海が、茫然自失の顔で固まる。
やがて、七瀬の言葉の意味を正確に理解したのだろう。ぶんぶんと激しく首を横に振って、必死に七瀬を止め始めた。
「宿らない! それ〝言挙げ〟してないじゃん! 何にも宿らないって!」
「でも『言語』ってついてるけど? 宿るんじゃない? 試してみる?」
「篠田さん待った! 待って! 仲間割れは駄目だって……!」
夜風に戦闘服をたなびかせながら、七瀬はもう拓海を見てはいなかった。
和音だけを瞳に映し、勝気な笑みで見つめてくる。
「どうして……」
やっとのことで、和音はそれだけを言った。
どうして七瀬に戦いを挑まれたのか、まるで理解できなかった。
「どうして、って?」
問いを受けた瞬間、七瀬の顔から、笑みが残らず消え失せる。
その顔に、燃え立つような激しい怒りが、それこそ本物の炎が衣服の繊維を舐めるように、音もなく、激しく燃え広がって――走り出した七瀬が、和音へ一直線に向かってきた。
「もういい加減、ごちゃごちゃ面倒臭いからに決まってんでしょ!?」




