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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 80

 ――和音ちゃんの声がする。

 篠田七瀬は、薄目を開けた。

 身体中が、ぴりぴりと痛い。気を張っていなければ、歯がかちかちと音を立ててしまう。ぼんやりと覚醒した七瀬は床に身を投げ出しながら、霞む視界に少女を見る。

 顔半分が、真っ赤だった。青い闇の中にいても、その色彩が赤だと分かる。

 ――まだ、怪我、治療してない。

 和音らしくない、と七瀬は思う。和音なら、自分の怪我を放っておかないはずだ。半端なことが嫌いだからだ。そんな個性や拘りを、七瀬はとうに知っていた。

 目を、もう少しだけ開いてみた。

 白い、けれど少しくすんだ天井。洗濯器に、藤で編まれた脱衣籠。寝かされている所為で、見上げるもの全てが大きく見える。湯気で湿った空気の匂いが、鼻腔に柔らかく流れてきた。

 この場所には、覚えがあった。去年の夏に、七瀬は師範にここを使わせてもらった。それに、拓海がここまで、運んでくれた。それを七瀬は覚えている。その間に交わした会話も全て、何となくだが記憶にある。

 どうやら七瀬は、これから和音に、お風呂に入れてもらえるらしい。

 恥ずかしいな、と少しだけ思った。女の子同士でも、裸を見せるのがこちらだけではあんまりだ。コートのボタンを外されながら、七瀬は和音の手つきを見る。

 ――指、震えてる。

 触るのが、怖いのだろうか。緊張が、素肌に伝わってくる。七瀬は身体を動かそうとしたが、駄目だった。自分でも驚くほどに、身体が強張ってしまっていた。

 苦笑が少しだけ、唇の端に上る。

 この身は、〝アソビ〟とは関係ないはずなのに。

 身体が凍っても、無理のないことをした。これは、その代償なのだろう。

 ――疲れちゃったなあ……。

 七瀬は、心の中で伸びをする。実際には、何もできていない。和音が後ろめたそうな顔をしているのを、服を脱がされながら見ているだけだ。腕を引かれ、身体を引っ張り上げられる。互いの顔が近づいた時、土と砂の匂いがした。

 和音も、一緒にお風呂に入ればいいのに。そんな風に考えながら浴室に引っ張り込まれたが、足が立たなくて倒れてしまう。浴室の蓋にしなだれかかった格好で、七瀬は〝アソビ〟のことを考える。

 美也子と氷花の〝アソビ〟は、確かに終わったかもしれない。

 だが残された七瀬達の戦いは、まだ何も終わっていないのだ。

 悔しかった。倒れさえしなければ、七瀬はあの襤褸屋に殴り込みをかけれたのに。青紫色になった唇を噛みながら、全身に走った激痛に仰け反った。お湯が熱いのだ。シャワーの流れのひと筋ひと筋が針や杜のように肌へ刺さる。だが悲鳴も文句も、声にならない。睨みつけたい友達も、いつの間にか消えている。浴槽の蓋に頬をつけて、七瀬はゆっくりと目を閉じた。

 湯の焼け付くような鋭さが、徐々に柔らかな肌触りに変わっていく。氷を解かすような温もりに、七瀬は深く、息をついた。

 ――撫子ちゃん、大丈夫かな……。

 別れ際の、撫子を思った。柊吾の背に負ぶわれながら、意識を混濁させた撫子。この浴室まで担ぎ込まれた今の七瀬と、境遇が少し似ている。盲目の闇を揺蕩いながら、七瀬は漫然と、そして切実に思う。

 ――全部、忘れてくれたらいいのにな……。

 かつて撫子が言ったことを、七瀬はちゃんと覚えているのだ。

 撫子は、中学二年の初夏の記憶を、手放しかけているのだ、と。薄らいでいく記憶のことで、随分悩んでいる様子だった。

 その記憶を完全に手放してしまう前に、また同じことが起こってしまった。

 それでも、七瀬は思うのだ。

 ――全部、忘れていいんだよ……。

 もう、充分だと思うのだ。撫子は、苦しんだ。それに誰も、死んでいない。取り返しのつかない悲劇は、何も起こっていないのだ。

 七瀬は、友達には笑っていてほしい。撫子には、笑っていてほしい。そんなありふれた幸福を願ってやまないほどに、七瀬は、撫子の罪には拘らなかった。どうでもいいとさえ、思っていた。

 撫子がこれからも、七瀬達と一緒にいてくれるなら。同じ高校に通って、今までと同じように、もっと楽しい思い出を重ねていけるなら。

 きゅっ、と唇を噛んだ。土の味を、舌の奥に感じた。

 ――この気持ちを、ただの願望で終わらせるのは嫌だった。

 指先に、力を込める。こんな所で、寝ている場合ではないのだ。

 だが、まだ駄目だった。感覚はすっかり麻痺している。まだ、もう少し、このままで、身体を温め続けなければ。

 歯痒さで呻きながら、七瀬は無理やり、右手を伸ばす。

 シャワーの位置が、遠かった。もっと近くで、お湯を浴びたい。

 だが、七瀬の手では届かない。一人では、届かない。

 助けを求める呻き声は、掠れた呼び掛けに、変わった。

「和音ちゃん……」



 *



 洗濯器に背を向けて浴室へ戻ると、七瀬の身体がほんの僅かに動いていた。

 すっかり癖の取れたストレートの髪が、濡れた項に貼り付いている。湯の玉が背筋を滑るのが何だか夜露に濡れる花のようで、艶めかしさに、和音は戸惑う。見たくて見ているわけでは、ないのに。

「七瀬ちゃん……何してるの」

 意図的に、強気の声を出した。そうしないと、何かに負けてしまう気がした。浴室に踏み込んだ和音はタイルに膝をつくと、手にしたタオルに石鹸を擦りつけて泡立てた。

 自分は、何と戦っているのだろう。もう不毛な争いなんてしなくていいはずなのに、それを幾ら分かっていても、長年染みついたスタンスが、和音に戦いを強いている。

 七瀬が、そうさせているのだろうか。七瀬に緊張しているから、こんな態度を取るのだろうか。

 分からない。まだ、和音には分からない。

 泡塗れのタオルで七瀬の身体を擦ると、「痛い……」と恨めしそうに呟かれた。

「文句言わないで」

 一蹴してから、七瀬の身体中にある擦り傷に気付いてしまう。和音は迷い、躊躇い、結局タオルの泡を手で掬って、直接七瀬の背を撫でた。

「……」

 七瀬は何か言いたげに唇を動かしたが、やがて目を閉じ、動かなくなった。

「……」

 黙々と、和音は手を動かし続ける。後ろめたさが、肌に塗りつけた泡のように、心で延べ広がっていく。もう全部、やめにしてしまいたい。叫び出したくなった。

 どうして和音は、七瀬に触れているのだろう?

 二度目の自問だった。和音はどうして、七瀬に触れているのだろう?

 元々、仲の良い友人ではなかった。毬が間にいたから、話すようになっただけだ。その程度の間柄だ。学校も違う。少林寺の道場を七瀬が辞めてしまった以上、和音と七瀬の歩く道は先細りして、やがて二又に分かれていく。

 行く高校だって、別々だ。

 もうすぐ和音は、きっと、七瀬と会わなくなる。

 迫りくる別れを意識して、和音は不意に、はっとした。

 七瀬のことを、こんなにも考えたのは――今日が、初めてのことだった。

 正確には、今日が、ではない。今が、だ。

 元々今日は、七瀬に振り回されてばかりだった。和音が〝アソビ〟に巻き込まれたと発覚したのは、東袴塚のグラウンドで、美也子に襲われた時だ。

 そして和音は七瀬と再会してしまい、拓海と出会い、同い年の少年少女達による教室での籠城に付き合わされた。

 疎外感と憤りが育つのに、そう時間はかからなかった。惨めで独りよがりで最悪な気持ちをきちんと整理できないまま、和音は、抱き合う七瀬と拓海を見てしまった。

 それから、和音は、学校を飛び出して――撫子と、友達になったのだ。

 ――撫子は今、どうしているだろう?

 無事だろうか。七瀬もさっき、同じことを気にしていた。

 拓海は、柊吾がいるから大丈夫だと言っていた。

 それを、信じていいのだろうか。本当に、信じてもいいのだろうか。

 会いたかった。もう一度。謝り足りないのだ。和音の所為で、あんな目に遭わせてしまった。少なくとも撫子が美也子と会わなければ、あの悲劇は起きなかった。

 だがいくら和音が頭を下げても、撫子はそれを拒むだろう。和音の所為ではないのだと、簡単に許されてしまうだろう。和音が友達になった表情の希薄な女の子は、そういう性格をしているのだ。それが簡単に分かるほどに、和音は撫子を知ってしまった。

 今日出会ったばかりの和音でさえ、こうなのだ。

 もっと長い時間を撫子と過ごした七瀬なら、もっと寂しいに違いない。

 ――寂しい?

 自分で考えた言葉に、茫然としてしまった。

 和音は、寂しいと思っている?

 撫子が、ああなったことに対して?

 もちろん、そうだ。当然だ。

 だが、それだけではなかった。それだけでは、ないのだ。

 胸の内側が、急にかっと熱くなった。何故だか和音は臆面もなく泣きたいような、幼い子供みたいに怒鳴り声を上げたいような、制御の出来ない情動に呑まれていった。それが正しい感情の在り方だと、心の奥底が知っていた。

 和音の感じていた寂しさは、感じ続けてきた寂しさは、たったそれだけではないはずだ。

 では、それは何だろう?

 分からない。分からない。分からない――――。

 だが一つだけ。はっきりと分かることがあった。

 和音は撫子と出会った事で、この寂しさからたとえ一時でも解き放たれた。

 その結果として、七瀬のことを忘れたのだ。

 篠田七瀬という少女のことで、あんなにも思い悩んだこと。

 それを、撫子と共に過ごしたことで、忘れたのだ。


 *


 そもそも七瀬は、どうして和音に面倒を見られているのだろう? 素肌を撫でる泡の感触に戸惑いながら、微睡みの淵で考える。

 少し、頭がぼうっとしてきた。熱い湯に当たった所為かもしれない。身体中の血が温められていくのを感じる。その感覚が心地よくて、湯気の温度をした眠気に、意識がどんどん溶け出していく。

 いけない、と自分を叱咤する。シャワーで散らされそうになる意識に、七瀬は必死にしがみ付いた。

 誰のことを考えれば、七瀬は起きていられるだろう?

 美也子のことを、考えればいいのだろうか。

 脳髄が痺れるような熱さの怒りが、意識を俄かに目覚めさせる。だがそんな付け焼刃の怒りでは、身体を支えきれなかった。

 浴槽に寄りかかった腕が、かくんとずり落ちかけてしまう。それを何とか自力で止めながら、七瀬は唇を噛み続けた。

 悔しかった。美也子は撫子を血だらけにして傷つけた。絶対に許せない相手のはずなのだ。なのにいくら美也子の事を考えても、何の活力にもならなかった。

 怒りが、足りなかった。身体を動かす為の、怒りが。

 躍起になって、七瀬は己の中から怒りの火種を掘り起こす。今の七瀬を動かす活力に変わってくれるなら、何でも燃料にしたかった。

 美也子で駄目なら、氷花のことを考えてみてはどうだろう?

 凄烈な怒りが、脳を揺らした。

 こちらも七瀬にとって、美也子に負けず劣らず許せない相手だった。氷花の許せない点を挙げ始めたら、両手の指で到底足りない。

 中でも七瀬が最も許せないのが、〝アソビ〟の終わりに氷花が放った、美也子への罵倒の台詞だった。

 最低の言葉だった。人を人とも思っていない、鬼だからこそ言える言葉。

 氷花は、美也子を冒涜した。

 だが七瀬は氷花に腹を立てながら、同時に、氷花の言葉に納得している自分がいるのも感じたのだ。

 思い出すだけで、苦しかった。痛痒く膿んだ胸の傷に、手を差し入れられて触れられたような、耐え難い気分の悪さが迫ってくる。

 どうして、美也子は――氷花に、抵抗の言葉を言わないのだ。

 言い返したかったはずだ。顔を見れば分かるのだ。何でもいいから、言い返したいに違いなかった。言葉で、声の形で、氷花へ、怒りを、悲しさを。

 なのに、美也子は言わなかった。笑って、痛みに耐えていた。無尽蔵に溢れ続ける悪意の言葉の惨たらしさに、周りの方が先に我慢できなくなった。怒りを、覚えてしまうほどに。

 美也子は、抵抗できたはずだ。『大人しい』少女ではないのだから。氷花相手に物怖じなんてしないはずだ。それが可能な個性のはずだ。

 なのに、どうして、言わないのだ。代わりに言いたいくらいだった。

 代わりに、というフレーズが、七瀬の記憶を呼び起こす。

 撫子の声で、蘇る思い出。失われた、命。紺野、沙菜。

 はっと七瀬は、目が覚めたような心地になる。

 たった今、無抵抗に笑う美也子の顔を――紺野に似ていると、感じたのだ。

 七瀬は出会ったこともない、顔も知らない紺野沙菜。

 おかっぱの黒髪。大人しい個性の少女。言いたいことを言えないまま、人知れず心を封じた少女。想像するしかない紺野の俯きがちな白い顔が、七瀬の頭の中で、違う少女の姿と重なっていく。

 ああ、と七瀬は、息をついた。

 やっと、答えが分かったのだ。

 七瀬は、多分、最初から……ずっとそこに、憤っていたのだ。


 ……『大人しい』も、『大人しくない』も、何の関係もなかったのだ。


 どんな魂をしていても、人は誰しも違う『弱み』を抱えて生きている。きっとその『弱み』の根っこの部分は、世界の始まりの海のように同じ温度で揺れていて、あるいは回した万華鏡で覗いた煌めきのような、嘘っぽくて、即興の、安上がりで、けれど一瞬一瞬が切実な、傾きを一ミリ変えるだけで世界が終わってしまうような、途方もない痛みの欠片でできている。

 美也子だって、言えないのだ。言いたくても、言えないのだ。

 そういう生き方をどこかの時点で身に付けて、相手の考えを見透かす能力に長けていって、相手の欲しがる言葉を読み取り、へつらい、笑って、心を隠す。本当は泣きたいくらいに寂しくても、全部笑顔で蓋をする。綺麗に笑った顔だけが、万人の目に、映っている。

 七瀬は、思う。

 最悪だ。

 血が、沸き立つような熱量を帯びていく。指を、七瀬は動かした。きちんと、五指が動く。腕を、次に伸ばしてみる。問題なく、動いた。萎えた足に、力を込める。まだ、少し痺れていた。

 もう一歩。あるいはあと数分。いや、やはりもう一歩。活力が、身体に、心に、足りなかった。手の平の肉に爪を突き立て、獲物の喉笛を狙う猫のようにじっと身体を丸めながら、七瀬は湯を浴び続ける。

 ――まだ、眠るわけにはいかなかった。

 それに、どんなに身体が眠たくても、こんな状況で眠れるわけがないのだ。

 くすぐったくて、身を捩った。和音は一体どんな気持ちで、七瀬に触れているのだろう?

 目を開けて、顔を上げて、直接訊いてみたかった。その律義さと向き合って、和音と話がしたかった。

 だから、七瀬は目を開けた。

 自分で考えていた通りに、顔を上げて、首を巡らせ、和音の顔を見つめる。

「和音ちゃん……」

 掠れた声で、友達の名前を呼んだ。

 湿気でけぶる視界の中に、長い黒髪が揺れる。青い光が、髪の毛の一本一本をきらきらと照らした。

「……」

 七瀬と目が合った和音は、あからさまな驚きを顔に浮かべた。

 唇を薄く開いて息を吸い、まるで涙を堪えるように目を細め、赤らんだ頬を隠すように、顔ごと七瀬から逸らした。

 それだけ、だった。

 何の言葉もなく、目を逸らされてしまった。

 ――かっと、なった。



 *



 自分でも、不思議だった。和音は、瞠目して手を止めた。

 気付けば和音は、自由になっていたのだ。はっきりと今、そんな風に自覚した。

 あんなにも、和音は囚われていたのに。七瀬の存在に、意識を絡め取られていたのに。

 七瀬が拓海と言葉を交わすだけで、言い様がないほど癪だった。攻撃的な気持ちがむくむくと頭をもたげて、己の心の軸が大きく揺さぶられるのを感じた。あの動揺は、衝動は、それほどに目覚ましく、濁っているのに鮮烈で、無視できないものだった。

 和音は、七瀬に囚われていた。

 だが、それが撫子に出会って変わったのだ。

 七瀬のことだけではない。美也子のことだってそうだ。自分は美也子に似ているのではと深刻に思い悩んだはずなのに、和音はいつしか、それをすっかり忘れていた。

 だって、と和音は俯き、己への言い訳のように回想する。

 撫子と学校を出てからは、本当に波乱の連続だったのだ。

 まだあの時の和音は、撫子に心を許していなかった。

 だから和音を追ってきた撫子を、手酷く拒絶してしまった。

 その所為で撫子を危険な目に遭わせてしまい、罪滅ぼしに学校へ送ろうと奮起すれば、今度は美也子の母に捕まった。

 美也子の母に切った啖呵を、和音はもう一度思い返す。

 そもそも和音は、どうしてあんな啖呵を大人相手に切ったのだろう?

 それは糾弾された撫子を、美也子の母から庇う為で、その為の言葉を探せば、七瀬の顔が頭に浮かんで、そんな自分は紺野に似ていて、その紺野はある人物への憧れを、悲しみの下に隠していて――和音は、手を完全に止めていた。

 もう、気付きかけていた。

 ――どうして和音は、七瀬に触れているのだろう?

 三度目の自問を重ねながら、見つかった答えを噛みしめる。

 ようやく掴んだ本心は、言葉の形をしていない。言葉の形に、しなければ。まるで神社の山の神様だとか、そんな超常的な自然の力に導かれるようにして、和音は思考を加速させる。

 どうして和音は、苦手な女の子と二人きりで、浴室で一緒にいるのだろう? 

 倒れた同級生を助けるのは、人として当然だから?

 違う。こんな道徳の教科書に載っていそうな理由では断じてない。ここまではっきり分かるのに、本質に手が届かない。分かるはずだ。あと一歩だ。ほんの少し今より力を抜くだけで、和音はそれを、言葉にできる。

 何故なら和音は、紺野の遺書を読んだのだ。

 自ら命を絶った少女の、ついに声の形を持てないまま、文字に遺された言葉の魂。

 あの言葉が、魂が、和音に教えてくれたのだ。

 和音は、あの少女に似ているのだ。風見美也子ではなく、紺野沙菜に似ているのだ。

 それに気付けて、和音は変わった。これからも、変わり続けていく。

 まだ、変われる。

 他人事のように、そう思った。

 和音は、変わる。

 変わろうとしている。

「和音ちゃん……」

 名を呼ばれたのは、その時だ。

 突然のことに吃驚して、和音は息を吸い込む。

 ――七瀬が、こちらを見ていた。

 湯気で霞んだ七瀬の瞳が、和音を真っ直ぐ捉えている。厳しい眼差しはまるで和音の思考をすべて見透かして、糾弾しているかのようで、和音は、慌てて、目を逸らした。

 目を、逸らしてしまったのだ。

 そんな己の軽率さが、引き金を、引いた。



 *



 熱いシャワーが滝のように頬を打ち、顔を湯が伝い落ちる。

 七瀬は構わず開いた目で、和音の横顔を睨み続けた。

「……和音ちゃん、返事……」

 和音は、目を逸らし続ける。

 七瀬の声が、聞こえていないのかもしれなかった。湯の雨の音に消された声は、自分の耳にも届かない。

 分かっていても、怒りに抑えが利かなかった。七瀬は、睨むのをやめなかった。

「……こっち、見なよ……」

 掠れた声が、湯で濡れた唇から零れ落ちる。ほんの少しの間でも使わなかった喉の機能は、油を挿し忘れた自転車のように錆びていた。

 和音は七瀬の顔を見ないようにして、何かから己を守るように動かない。その横顔を睨んでいたら、どんどん腹が立ってきた。

 看過できない怒りだった。氷花にも美也子にも腹が立つが、目の前で気まずそうに目を逸らす和音に対して、七瀬は誰より強い怒りを覚えていた。

 そして、唐突に思い出す。

 元々七瀬は、和音に腹を立てていたはずなのだ。

 東袴塚学園での和音の態度を、過剰に庇う気は七瀬にはなかった。あの軋轢がたとえ神社の神主によって周到に仕組まれたものだとしても、和音の自我は和音の自我で、あの行動も態度も言葉も、全部和音が選んだものだ。それを、和泉の所為に七瀬はしない。

 だが知ってしまった和音の孤独に、七瀬の怒りの質は変わった。

 助けようと、七瀬は思った。孤独の淵に一人立ち、立ち去ろうとした和音を。

 その和音を前にして、七瀬は改めて、こう思った。

 ――許せない、と。

 和音への怒りの質が七瀬の中でどんなに変わっても、同情しても、助けたいと思っても、分かり合いたいと思っても、最初から抱き続けてきた想いの熱さは、七瀬の中で揺るがないのだ。

 何故なら和音は、七瀬を見てはいないからだ。

 出会った時から今に至るまで、一度も、たったの一度もだ。

 本当に、和音はいつまで七瀬を見ないつもりなのだ。和音が思う篠田七瀬が一体どんな女の子か、言葉にされなくても充分過ぎるほどに分かっていた。

 和音は、七瀬の上っ面しか見ていない。七瀬の上っ面だけを見て、薄っぺらな苦手意識で、遠巻きに眺めて避けている。

 その内側にいる七瀬を、一度も見てはいないのだ。

 これからも、見ないつもりなのだ。

 我慢の限界を、超えた。

「……」

 残念ながら七瀬は、和音の親友の毬のように優しくない。ここまで酷い無視と無関心を許せるほど、寛容な性格にはなれそうにない。少なくとも、今は無理だ。大人になったらなれるだろうか。あんまり想像できなかった。

 七瀬はようやく、少し笑った。

 この堅物の友達と、心を通わせる方法。

 それが、やっと分かったのだ。

 笑みを消した七瀬は、胸いっぱいに息を吸い込む。

 そして充分に温まった全身に、熱い血潮が巡るのを感じながら――右手を、勢いよく突き出した。



 *



 横面に視線が、槍のように突き刺さる。凄まじい眼光で、七瀬が和音を見つめている。和音が目を逸らしても、七瀬の方は、まだ見ている。

 心音が、加速して音を刻む。我知らず息を詰めながら、湯がタイルを叩く雨音だけが、静寂を穿って流れていく。

 七瀬はまだ、和音の横面を睨んでいる。睨んでいるのだと、和音には分かった。

 どういうわけだか知らないが、七瀬は和音に、怒っているらしかった。

 和音は戸惑い、次第に腹が立ち、その怒りが過ぎ去る頃には、静かに悔いて、俯いた。湧き上がった反発も、己の中で始末した。

 七瀬の怒りは、当然だ。撫子があんな怪我を負ったのは和音の所為で、言い逃れをする気はなかった。これが和音の罪であり、責められて当然の咎なのだ。

 だから、ここで頭を下げるのも、当然のことだと和音は思う。

 七瀬だけでなく、全員に。和音はそうしなくてはならないのだ。

 和音は引き結んだ唇を開くと、淡々と、粛々と、謝罪の言葉を言おうとした。

 まさに、その瞬間だった。


 ぐるんと、視界が回転した。


 白い閃光が視野に走った。それが七瀬の右手だと、気付いた時にはもう既に、胸倉を掴まれた後だった。

 あっと声を上げる間もなく、浴室の眺めが変貌した。

 窓から射す月光は光の筋の角度を変え、支え主を失ったシャワーのホースが蛇のようにのたうった。湯の粒子が、撒き散らされる。ごうんと音を立ててシャワーヘッドがタイルに落ちた。出鱈目な方向に湯の雨が降り注ぎ、夜霧のような湯気の中で、散った飛沫が青く光った。

 鈍い衝撃と共に和音の背中は、タイルに叩きつけられていた。

 さああああ……と。雨が、静かに降り注ぐ。

「……」

 ブラウスの背中に、じわりと湯が浸みていく。その熱い温度だけが確かな現実感を持っていて、目の前のこの光景は、嘘か、さもなくば誰かの夢のようだった。

 だが、確かに現実だ。

 和音は愕然と、目と鼻の先にある少女の顔と向き合う。

 薄青い闇に白い身体が、茫、と浮き上がって見えた。

 少女の左手は和音の胸倉を掴んだままで、もう片方の手は和音の顔のすぐ隣にあった。自分は押し倒されたのだ、と。覆い被さる身体を見上げて、認識が現実にやっと追いつく。滴り落ちる湯の熱さが、頬で弾けるのを感じた。

「七瀬ちゃん……」

 呼びかけた瞬間、胸倉をまた引っ張られた。

 ぐんと互いの顔が近づき、吐息が触れ合う。和音は、動揺と驚きで声を出せない。脳の中枢が麻痺していた。この乱暴さに、怒ることすら出来ない。怒りに澄んだ七瀬の目を、見つめ返すしか出来なかった。

「和音ちゃん」

 唇さえ触れ合いそうな距離に、七瀬の顔がある。濡れた髪の毛先が和音の頬をくすぐった。

 いよいよ動けなくなった和音の耳に、七瀬の囁きが、聞こえた。

「ちょっと、面貸して?」

 ドスの利いた、声だった。


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