花一匁 78
灰色の家々の間を縫うように車道を歩き、ようやく辿り着いた目的地の前で――佐々木和音は、絶句していた。
「……」
隣では拓海も、眼前の家を凝視している。その背には七瀬が負ぶわれていて、拓海の肩へ力なく項垂れている。
「……ここで、何があったの?」
和音は、訊いた。自分が訊かなければ、誰も訊かないと思ったからだ。
それに場の誰もが、その台詞を誰かが言うのを待ちわびていたに違いない。「どうしよう」と陽一郎が、堰を切ったように忙しく言った。
「泥棒? ねえ、これ泥棒だよね?」
和音は、脱力する。この少年の舌足らずな声を聞くと、緊張感が抜けるのだ。
「警察、呼んだ方がいいよね……?」
硬い声で言ったのは、毬だ。寒そうに身震いして、両腕で身体を抱いている。
七瀬から借りたコートを脱がせた所為で、また寒い思いをさせてしまった。和音は後悔したが、貸せるものは何もない。早く屋内に入りたかったが、それを躊躇わせるに足る光景が、全員の足を、玄関先に縫い留める。
「……」
誰もが、言葉を待った。
この場のリーダーが誰なのかを、学校の枠を超えて全員が分かっている。従う義理はないのだが、そんな風に壁を作る己の考え方自体が、何となくむず痒い。和音は深く、息を吸った。
肩肘を、張らなくていい。強がらなくてもいいのだ。師範に教えてもらった拳法の足運び、身体さばきのように、心の重心を半分己に残したまま、和音は流れに身を委ねる。
そうやって、待った。かつての自分のように泰然と、だがかつてとは違う、新たな色にも染まった魂を感じながら、和音はリーダーの反応を待った。
かくして、学ランを着た他校の男子学生であるリーダーは――拓海は。七瀬を負ぶったまま顔を上げて、毅然と前を見据える。
そして全員の期待と不安がない交ぜになった沈黙を受けて、ついに言った。
「犯人は、分かってる。……風見さんだ」
その横顔が思いのほか凛々しくて、和音はしばし見入ってしまう。すぐさま乱暴に頭を振って目を逸らし、もう一度前方を睨めつけた。
目の前には、灰色の瓦屋根を頂く一軒家。
表札には、『藤崎』。
玄関から扉までを黒と灰色の飛び石が、双六のように繋いでいる。飛び石の道は途中で二又に分かれていて、途中で右折すれば平屋の建物へ辿り着く。
和音と毬の通っている、少林寺の道場だ。
そして、もう一方の飛び石の道の先、藤崎邸の玄関の扉は――嵌め殺しの窓が叩き割られ、左隣にある居間の窓硝子も、割れていた。
砕けた植木鉢の欠片が硝子の破片と混じり合って、庭の草地へ散っている。窓硝子にいくつも出来た蜘蛛の巣のような割れ目の向こうに、昏い闇が覗いていた。
……屋内も、相当荒らされているようだ。
空き巣。強盗。そんな言葉が、頭を巡る。師範の安否が気になったが、泡のように浮かんだ不安を、和音は意思の力でねじ伏せた。
師範は、強い。藤崎克仁の門弟である和音には自明の理を前にして、怖がることなど一つもない。たとえ暴漢の類が襲いかかってきたとしても、師範なら必ず勝てるだろう。
だとしたら、この家は――無人ということで、いいのだろうか。
白塗りの壁の一軒家は、黙したまま語らない。
家人が誰もいないことを、静寂が代わりに伝えてくる。
「美也子は、何がしたかったの……?」
和音は呟き、拓海の言葉を待った。
犯人は、拓海が言うように美也子だろう。それくらいならば和音にだって分かるのだ。証拠は何も無かったが、今日という異常な一日の締め括りが空き巣だなどと、誰が信じるというのだろう。知人の犯行に決まっていた。
分かり切った犯人よりも、和音はその動機について知りたかった。
何となく拓海には、ここでの出来事の全貌が、映画の巻き戻しのように見えている。そんな気がしてならないのだ。
「風見さんは多分、〝アソビ〟の為にここに来たんだ」
期待の重圧を感じたのか、拓海の声音は重々しかった。
「〝アソビ〟の為?」
和音からすれば、謎の言葉だ。拓海は「ああ」と、掠れた声で肯定してから、七瀬の身体を背負い直す。
その横顔には微かだが、疲労の色が垣間見えた。
「風見さんは〝氷鬼〟のメンバーを探しに来たんだと思う。ここが荒らされたのは、俺達の受験が終わってからで間違いないはずだ」
「時刻まで特定できるの?」
「受験終了後にグラウンドで、俺と篠田さん、佐々木さんと日比谷は、鋏を持った風見さんを見た。俺達はあの後、東袴塚学園の中等部の方で籠城したけど、その間の風見さんの行方は、次に神社で再会するまで不明だ。……空白の時間は、ここしかない。風見さんは他の〝アソビ〟メンバーを探す為に、別の場所を当たったんだ」
「それが、どうして……師範の家なの?」
和音は、思わず拓海を睨み付けた。
動揺してしまったのだ。ここに住んでいるのは、和音の師範だ。和音と毬に少林寺拳法の稽古をつけてくれた初老の男で、確か随分前に妻とは死別したはずで、一人暮らしだと聞いている。
夫婦の間に、子供はできなかったのだ、と。門弟なら、誰でも知っている有名な話だ。
「……」
拓海が、言い難そうに眉尻を下げる。
だが躊躇いながらも、真実を告げてくれた。
その内容に、和音は――自分でもはっきり分かるほどの、ショックを受けた。
「克仁さん、本当は一人暮らしじゃないんだ。九年前に一人の女の子を預かって、今も一緒に暮らしてる。――その女の子の名前は、呉野氷花。神社の神主になったイズミさんの妹で、佐々木さんの知ってる、あの呉野さんだ」
「……!」
「ええっ? そうなのっ?」
陽一郎が、目を丸くして騒いでいる。毬も口に手を当てて驚いていて、「本当に?」と訊き返している。拓海は頷いたが、和音は信じたくなかった。
頭を、横に振る。あの師範が、あの氷花と。
嘘だ。どうして、黙っていたのだ。
しかも和音がショックを受けたのは、師範と氷花、二人の繋がりだけではない。
「……『克仁さん』?」
異国の言葉のようだった。その名前の男が、和音が『師範』と呼ぶ人間と同じ者を指すのだと、脳が理解するのに時間がかかった。胸が、ちくりと痛んだ。この一日の間に、何度も経験した小さな痛み。細やかな、だが鋭利で、熱く、決して無視できない痛み。それを乗り越えられたと思った矢先に、波が寄せるように、また痛みが。
「この家を襲った犯人は、厳密に検討するなら、風見さんの他に風見さんのお母さんも、状況的に容疑者として考えられると思う。でもこの二択から犯人を選ぶなら、俺は風見美也子さんの方だと思う。そう考える理由は、俺は母親という〝大人〟を、〝アソビ〟参加メンバーだと考えないからだ。イズミさんと戦ってる時にも喋ったけど、子供の〝アソビ〟に大人が混ざったら興醒めだ。風見美也子さんなら、そう考える気がするんだ。犯人は風見美也子さんだと仮定すると、ここを襲った目的が見えてくる。――風見さんは、東袴塚学園で見つけた〝アソビ〟メンバー以外の中学生を迎えに来たんだ。その為に、ここに来た。……つまり」
拓海が、七瀬をもう一度背負い直す。息が、軽く切れていた。
きっ、と顔を上げた眼差しの強さが、夜闇の中で、月光の青と一緒に光る。
「風見さんの目的は、呉野さんだ。呉野さんを探すために、わざわざここまで、迎えに来たんだ。でもこの仮定に則るなら、前提として、風見美也子さんは呉野さんの住まいが、ここだと最初から知ってた事になる……風見さんは、一体誰から聞いたんだ……? 社交的で友達も多いって雨宮さんが話してたから……自力で、ここまで調べ上げた……? 呉野さんの家族構成を、家の事情を、現在の家を、風見さんは調べた……それは、いつから……? 公園で、〝言霊〟を受けてから……? だとするなら……三月三日の夜……佐々木さんと喧嘩した日……〝アソビ〟が始まってからすぐに、風見さんは行動を起こしたことになる……」
拓海の思考が、加速していく。それが手に取るように分かった。最初は皆へ推理を述べる為だったはずの語りが、徐々に己の内面へ語りかけるようなものへ推移していく。その変容に誘い込まれるようにして、和音も美也子の心理に迫ろうと試みた。
だが、駄目だった。心が、こんなに乱れては。気にしないよう努めても、ざらざらと細かな砂をまぶされたようなこの気持ちに、和音は嘘をつけなかった。
胸に抱いたままだった紺野の遺書を、一層強く、抱きしめた。
この感情が、どんな名前のものなのか。和音はもう、知っている。
「……風見さんがどういう行動を取ってきたか、何となくだけど、見えてきた」
拓海は深く長く息を吐いて、考察を締め括った。その身体がふらりと軽くよろけたので、はっと気づいた和音は反射で支えた。
「平気?」
「うん、大丈夫。……けど、ごめん。そろそろ重くて、無理そうだ」
七瀬が聞いたら、半殺しにされそうな事をぼやいている。
だが、無理もなかった。七瀬の濡れた衣服の大半は脱がせたが、肌着やスカートまで脱がすわけにはいかなかった。その上から学校指定の冬物コートを着せているので、もし和音一人だったなら為すすべも無かっただろう。
拓海は水の重さが加算された七瀬を、ここまで頑張って運んだのだ。すらりとした身体付きだが、ちゃんと男の子だ。和音も吐息を短くつく。
この少年はやはり相当の変人だが、少しだけ、和音は拓海を見直した。
「どうするの? 家はこんな有様だけど、勝手に入るつもり?」
もちろんその心算で来たわけだが、一応訊ねた。
侵入するなら、窓硝子が叩き割られている縁側からだろうか。考えを巡らせていると、「佐々木さん、ごめん。ちょっと手を貸して欲しい」と拓海が首をこちらに向けて、それから少し身を屈めた。
拓海の黒い前髪と、七瀬の濡れた髪が、和音の目線の下で揺れる。学ランの襟の内側、白いカラーの傍で何かがちかりと光り、和音は目を瞬いた。
銀色の細い鎖が、首にかかっている。
「悪いんだけど、これ引っ張ってくれる?」
和音は躊躇したが、拓海の首に手を差し入れると、襟ぐりからネックレスを手繰った。月光の青を燦々と浴びた鎖は、人肌の温度で温かった。
その先に連なったものが目に入り、和音は呼吸を止める。
――鎖の先には、鍵があった。
何の鍵かは、言うまでもない。
「ありがとう。これで、入れる」
拓海は露骨にほっとした表情になったが、和音の顔色は曇った。自分でも、曇ったのが分かってしまう。まるで取り繕えなかった。
「……僕、鍵開けてこよっか? 開けていいんだよね?」
和音の不機嫌が敏感に伝わったのか、それとも手持無沙汰な状況に押されるようにしてか、陽一郎が拓海の首からネックレスを取り上げた。
すると拓海が「うん。克仁さんからもらった合鍵だから、大丈夫」などと言い出したので、流石に和音は唖然とした。
陽一郎がたかたかと走って扉にとりつき、鍵をあっさりと開けている。その様子を見つめながら、和音はさっき神社で拓海が語った、例え話を思い出す。
拓海は、和泉達の潜伏場所へ踏み込むのを、頑なに和音達へ禁じた。
その理由は、現在の和音達では、彼等に太刀打ちできないからだと、そう和音は解釈している。
さっきは、話が途中になってしまった。半端なところで切れた会話も、和音を落ち着かない気持ちにさせていた。
だが、和音が今最も気になるのは、拓海の言った『鍵』のくだりだ。
これから事を進める為に、必要な鍵。それは和音達が、掴み損ねていたヒントであり、拓海の言う〝アソビ〟の後始末とやらに、必要なものだろう。
それを、和音達は持っていない。
だから、まだ大人達とは戦えない。強さも、不足しているからだ。
だが少なくとも、鍵の方なら……他でもない拓海自身が、もう手に入れていたのだ。
それも、和音の良く知る大人の家の、よりにもよって、合鍵を。
「あなたは……何なの?」
誰何とも言えない、不躾な訊き方をしてしまった。
多様な心が、この一言に入り混じったと思う。
他者への棘と、自己嫌悪に塗れた、酷い台詞。
そんな〝言挙げ〟を受けた拓海は、またしても困ったような顔をした。おそらくは見た目通り、心根の優しい少年なのだ。そんな少年に、和音は刃を向けている。居た堪れなさで、消えたくなった。
もうこんな態度は、やめにしたいと思っていたのに。
「ごめん。分からない」
拓海は真っ直ぐに和音を見ると、申し訳なさそうに言った。
七瀬が、何事かをその時言った。遅れて小さく、和音の耳にも声が届く。頭脳の奥で、声が言葉の形に変換される。その言葉に、和音は目を見開いた。
「……撫子ちゃんは、無事……?」
もう一度、七瀬が言った。
拓海は、不意を衝かれたような顔をした。
それから、「ああ、大丈夫だよ。三浦がついてるから」と囁き、微笑んだ。
毬も、ぎこちなく微笑んだ。陽一郎も顔色を引き攣らせたが、無理やり笑っている。和音だけは、何の反応もできなかった。
嘘だ。撫子があれからどうなったかは、誰も知らない。連絡を受けていない。和音は、拓海を睨み付けた。だがそうやって糾弾しながら、本気で拓海を責められない。咎められなかった。
和音なら、どう答えるだろう?
意識を朦朧とさせた七瀬に、この現状を伝えるだろうか。
それとも、拓海のように嘘を言って――安心させる方が、いいのだろうか。
無性に、腹が立ってきた。何故だか、悔しくもあったのだ。拓海のことが、許せない。許せないと思う自分自身も、何だか堪らなく許せない。
優しさは、卑怯だ。足元の飛び石を睨みながら、和音は思った。
そんな言葉を使う人を、憎み切るなんてできない。
「佐々木さん」
拓海が、和音に向き直った。
照れ笑いのような、淡い笑い方をしている。
そしてどことなく面映ゆそうに、拓海は和音に、こう言った。
「克仁さんは俺にとって……多分。もう一人のお父さんみたいな存在っていうか……大事な人なんだ。家族とか、篠田さんと、おんなじくらいに」
そこで限界が来たのか、「ごめん」と断りを入れた拓海は、足早に玄関の扉へ直行し、上り框へ盛大に倒れ込んだ。傍に立った陽一郎が仰天して、しんとした一軒家の玄関先の暗がりが、一気に賑やかになっていく。
「……和音ちゃん」
棒立ちになる和音の隣に、毬が近寄り、並んだ。何となく心情を見透かされたような気がして、和音は顔を上げれなかった。
「さっきのお話、お父さん、って……師範、本当は子供がいたの?」
「……そういう話じゃ、ないと思う」
おろおろする毬の腕を取ると、「行こう」と促して和音も飛び石を踏んで、大股に歩き出した。
胸に湧き上がった感情は、否定しない。綺麗な感情ではなかったが、あるがままを受け入れた。
それが和音の本心だからだ。自分の一部を、切り離すことはできない。
――面白く、なかった。
その感情とどう向き合えばいいのか、これからどうすればいいのか。考えながら、和音も玄関の扉をくぐった。
できる事なら、もう二度と――こんなにも薄汚れた心の所為で、誰かを傷つけるのは嫌だ、と。
ほんの数時間前に、自分が攫った少女の顔を、脳裏に緩く描きながら。
和音は胸に紺野沙菜の遺書を抱いて、ただ、己の心と向き合い続けた。




