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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 76

「……」

 部屋が、一気に静かになる。互いの息遣いさえ耳が拾ってしまうほど、深い沈黙に包まれた。布団に座った姿勢のまま、柊吾も、撫子も動けない。

「……雨宮」

 小声で、呼んだ。

 撫子は、返事をしない。俯いたまま、顔も上げない。泣いて赤くなった目を、包帯を巻いた指で拭おうとして、躊躇い、布団へ下ろしている。

 柊吾は、おそるおそる指を伸ばした。撫子の、涙で濡れた頬へ触れる。

 吸いつくような感触と、その柔らかさに、柊吾は内心で怖気づく。学校の時と、今とでは違う。後戻りが、できなくなる。

 分かっているはずなのに、柊吾の手は撫子の頬を触って、栗色の髪を梳いている。心と身体が、別々になったかのようだった。

「……」

 撫子はまだ、何も言わない。下ろされた手も、布団の上から動かない。ただ睫毛を伏せて、身体を少し震わせた。どくりと熱っぽい血の塊が、身体の奥底で疼いた。

 だが、そんな衝動に――柊吾はすぐに、蓋をした。

「……ごめん」

 撫子から、手を離した。

 呑まれては、ならないのだ。そう教わったばかりだった。

 撫子が、柊吾を『見て』いる時でなくては。ちゃんと気持ちが、伝わらない。

「……」

 部屋の沈黙が、深くなる。

 撫子は、いよいよ俯いてしまった。

 柊吾は、かける言葉が、分からない。

 何かを、言わなくては。義務のようにそう思った。奇妙に人工的な焦りが、緩慢に柊吾を急き立てる。撫子に、何かを言わなくては。せっかく異能の〝アソビ〟から、皆で生還できたのだ。

 なのに何故、こんなにも重苦しい空気の中に、柊吾達はいるのだろう。

「……少し、待ってろ」

 柊吾は撫子の腕を離すと、立ち上がって学習机に向かった。

 出しっぱなしにしていた数学のノートを一冊、手に取る。傍には恭嗣が残していったメモ用紙もあったが、それでは足りないと感じたのだ。

 撫子の元へ戻った柊吾は、布団へ腰を下ろしてから、ノートの真っ新なページを開く。何を書くべきか迷い、一先ずはこう書いた。


 ――『三浦』


 ――『俺ひとり』


 ――『母さんとユキツグ叔父さんは、用事で出かけた』


 書きながら、既視感を噛みしめる。

 こんな風に撫子へ己の存在を示すのは、今日で二度目のことだ。

 一度目の時は、まさかこんな事になるなんて、夢にも思っていなかった。

「……本当に、ひとり?」

 撫子は、小さな声で言った。柊吾は頷き、それでは駄目だと頭を振って、ノートの罫線に沿って『ひとり』ともう一度書き連ねる。

「……私にも、鉛筆、貸して」

 撫子が、俯いたまま言った。

 さっきよりも、ずっと小さな声だった。

 その声に、柊吾は黙ったまま従う。撫子が望むなら、どんな願いでも聞き入れようと思った。

 握っていた鉛筆を、差し出しかけて……躊躇う。

 渡したく、なかった。柊吾の言葉が、文字の形になるのは仕方がない。

 だが撫子の声は、ちゃんと肉声で聴きたかった。

 一度目の時だって、そんなやり取りをしたではないか。

「……」

 撫子は俯いて、ノートへ視線を落としている。

 沈黙の重みと訴えに、柊吾はこれ以上抗えなかった。錆びついた機械のような硬い動きで、鉛筆を撫子へ差し出す。

 受け取った撫子は、ぎゅっと強くそれを握って、じっとしていた。

 柊吾は、無言で待った。まるで断頭台に首を乗せられたような心地で、撫子が伝えようとしている言葉を、想いを、ただ待った。

 撫子は、やがて鉛筆を動かして……一文字一文字、ゆっくりと書いた。


 ――『別れてください』


「……」

 柊吾も、息をゆっくりと吸い込んだ。

 喉を抜ける空気の音が、耳の奥で、木霊する。

「もう、いやなの」

 撫子が、顔を覆って泣き出した。

 震える手から鉛筆がすり抜け、ノートの上を弾んでいく。

「三浦くんが、私のことを好きって言ってくれて、嬉しかった。嬉しいの。ほんとなの。でも、もういやなの」

 鉛筆が、転がっていく。布団の上から畳へ落ちて、柊吾の元から離れていく。その動きを視界の端に捉えながら、柊吾は何も言えなかった。

 突然溢れた熱い心の奔流に、為す術もなく、呑まれていた。

「私は人を、殺しかけたの。さっきだって、殺しかけたの。紺野さんのことだって。助けられなかった。死んじゃった。でも私はそれを、私のせいだと思ってないの。悲しいとも思ってないの。その所為で死にたいとも思ってないの。でも、そんな私が三浦くんを縛るのは、嫌なの。悲しいの。辛いの。三浦くんにだって、もう全部知られちゃった。私は、三浦くんが好きになったような、きれいな女の子じゃない」

 撫子の言っている意味が、分からない。きれい。汚い。カルタのように対を為して巡る言葉に、撫子が何故拘るのか、その理由が分からない。本気で、柊吾には分からないのだ。今すぐ撫子にそう訊きたかった。それは自分達にとって本当に、重要なことなのか、と。

 少なくとも、柊吾の方は――それを、重要なことだとは思わない。

「それでもいいかなって、考えたよ。好きになってもらえたなら、どんな理由でもいいかなって、何でもいいって、思ったよ。でも、人を殺しかけた私に、美也子が言ってたみたいな『汚い』女の子の私に、三浦くんをつなぎとめるのは、もういやなの。三浦くん。もう、いやなの。たえられないの」

 嗚咽した撫子が、つっかえた息をそのままに、言った。

「別れてください。三浦くん」

 俯いたまま、泣き崩れて、涙ながらに、言い続けた。

「今まで、ありがとう。三浦くん。今まで、ごめんなさい。三浦くん。だから、もう別れてください。私と、別れてください。今まで、迷惑いっぱいかけて、ごめんなさい。これからは、私のことは、忘れてください。私は……三浦くんの、いない所に行きたい。誰にも見られない所に、ひとりで、行きたい……」

「……なんだよ、それ……」

 硬くしゃがれた声で、何とか柊吾は、そう言った。

 筆談でないと伝わらないと知っていても、声の形にしか、出来なかった。

「忘れる、なんて……できるわけ、ねえだろ。俺達は、高校受験、受かったら……同じ高校に、行くんだぞ」

 撫子が、返事をしなくなった。

 柊吾の中で、熱い温度を持った何かが急激に膨れ上がった。

 息が、一気に苦しくなる。心拍数が、上がっていく。

 偶然だ。撫子の、この反応は。柊吾の声は、聞こえていないはずなのだ。だから、このタイミングで黙られたのは、きっと偶然に決まっている。そう思い込もうと試みたが、自分を騙すことは出来なかった。腕が、痙攣のように震え出す。

 訊いては、いけない。だが、訊かなくては、ならない。

 加速する心臓の鼓動を、意識した。柊吾は唾を、飲み下す。

 そして訊きたくない問いかけを、薄氷を踏むような慎重さで――口の端から、絞り出した。

「お前の、その言い方じゃ……死にたいって、言ってるように、聞こえる」

 沈黙が、重さを増した。身体を潰さんばかりに、迫ってくる。

 蛍光灯の点いた部屋に、落ちる影が、濃くなった。

 泣きじゃくる撫子の嗚咽だけが、狭い自室で、響いている。

「だって……お前、今日は……高校受験、だっただろ?」

「……」

「いつもみたいに……学校に、一緒に行って、一緒に帰って……今度は、一緒の高校行くんだって、約束……お前は、俺と……したはずだ」

「……」

「……まさか、高校……初めから、行く気、なかったのか?」

「……」

「最初から、そのうち、死ぬ気で……白紙で出したりなんか、してねえよな……?」

「……」

「……答えろよ、雨宮」

「……」

「……雨宮あぁっ!」

 声を荒げても、何も変わりはしなかった。

 掴みかからんばかりに叫ぶ柊吾の顔を、撫子の目は『見て』いない。ただ俯いて、俯き続けて、涙をぼろぼろと零している。

 柊吾は、待った。待ち続けた。すぐに待ちきれなくなって、弾かれたように鉛筆を探し始めた。引っ手繰るように鉛筆を拾い上げ、指先が畳を引っ掻いた。その痛みが何だか他人事のようにぼやけていて、手にも力が入らない。

 構わず無理やり力を込めて、柊吾はノートの余白に、言葉を書き殴ろうとして――腕から、力が根こそぎ抜けていった。

「……」

 ぼた、ぼた、と熱い雨垂れが、開かれたノートへ落ちていく。『別れてください』という文字の上に、小さな水溜りがいくつもできた。文字が滲み、溶け出した鉛が涙の泉で揺蕩った。視界そのものも霞んでいき、吸い込む空気が、ひどく、熱い。

 ――撫子は、死にたいと思っていたのだ。

 今までずっと、死にたいと思いながら、撫子は……柊吾の隣に、いたのだ。

 柊吾は撫子の、そんな想いに……欠片も、気付かなかったのだ。

 どうして、気付けなかったのだろう。そこまで、思い詰めていたことを。

 いつから、思い悩んでいたのだろう。氷花を、殺しかけた時からだろうか。

 柊吾は、思い上がっていた。恭嗣に言われた通りだった。

 言葉は足りていると思い込んで、撫子のことを、何も知ろうとしなかった。

 その慢心の代償が、こんな所にまで及んだのだ。

 涙が、後から後から溢れてくる。止まらなかった。嗚咽も出ない。こんなに静かに泣いたのは、生まれて初めてのことだった。

「……なみだ……」

 撫子の肩が、震える。ノートに出来た、涙の染みをじっと見ている。柊吾が泣いていると、気付いたのだ。手が布団から離れ、虚空を彷徨う。柊吾の姿を、探すように。

 だが撫子は結局、やはり柊吾に触れようとはしなかった。強く握られた華奢な手は、再び布団へ、下ろされる。後悔に打ちひしがれながら、途方のない断絶を柊吾は感じた。

 撫子は、心を決めてしまっている。

「さよなら、三浦くん。さよなら……」

 嗚咽を殺した撫子の、俯く頬にも涙の雨が伝っている。柊吾は涙で湿った紙面に向き合い、撫子の言葉を見つめ直す。

 ――『別れてください』

 返事を、書かなくてはならなかった。撫子が、待っている。撫子の望むことなら、何でもしようと決めたばかりだ。撫子は、一人になりたいのだ。柊吾のいない場所へ、行きたいのだ。

 その為の返事は、簡単だ。

 一言、書けばいいだけだ。

 それで、全部終わるのだ。

 柊吾と撫子が、過ごしてきた時間が、全部。

「……」

 鉛筆を、握り直した。

 柊吾の心も、決まっていた。だから、これ以上乱れることはなかった。

 手の甲で涙を拭い、柊吾はノートの『別れてください』の文字へ、鉛筆を近づける。


 そして、尖った芯を、押し付けると――力任せに、塗り潰した。


「……」

 撫子の嗚咽が、止まる。

 目が丸々と見開かれ、潰された文字を凝視する。

 ぐしゃぐしゃと真っ黒に塗りたくった文字が抉れ、湿ったノートが派手な音を立てて破けた。濡れた音を鈍く耳に捉えながら、柊吾の手は止まらなかった。

 畳み掛けるように、たった今捻り潰したばかりの撫子の言葉の隣のページを、一枚丸ごと豪快に使って――大きく、己の答えを書き殴った。


 ――『い や だ』


 撫子が、何かを言おうとした。俯いた柊吾の視界にその様子が映ったが、柊吾は構わず次のページを捲り、新たな言葉を刻み込んだ。


 ――『お前が好きだ』


「そんなの……どうして? おかしいよ、三浦くん、おかしいよ……」

 頭を振った撫子が、か細い声で叫んでいる。柊吾はノートの罫線をまるで無視して、次々に浮かぶ言葉を力を込めて書き連ねた。

 ――『おかしくない』

 ――『雨宮が好きだ』

 もどかしい。本当は声で伝えたい。想いを綴る言葉の速さに、感情が全然追いつかない。声ならもっと早いのだ。瞬時に撫子へ伝えられる。まるで螺旋階段を早足で駆け下りて行くように、時間に急き立てられながら、全身全霊で想いを込めて、魂を込めて、懸命に柊吾は書き殴った。

 ――『お前はきれいだ』

 ――『汚くなんかない』

 ――『お前はきれいだ』

 ――『お前が好きだ』

 何度も書いた。同じ言葉をひたすら書いた。それでもまだ追いつけない。まだまだ全然足りないのだ。撫子をこの場所へ繋ぎ止める言葉が、想いが、魂が、まだまだ全然足りないのだ。速く、もっと速く。柊吾はがむしゃらに書き続けた。

「私は……、きれいなんかじゃ、ない……!」

 撫子が、呻く。目元に苦悶を寄せて、歯を噛みしめ、さっきより激しく頭を振る。長さがばらばらの栗色の髪が、涙の伝う頬を叩いた。

 愛しかった。ごく自然にそう思った。

 だから、書く言葉に迷いはなかった。

 ――『お前はきれいだ』

「やめて……もう、やめて……!」

 やめなかった。柊吾は何度も、撫子を『きれいだ』と書き続けた。百回だって書いてやるつもりだった。ノートのページが足りなくなっても、手がどんなに痛くなっても、撫子が信じてくれるまで、何度でも書き続けるつもりだった。

「きれいじゃない……私は、ぜんぜん、きれいじゃない!」

 撫子が、立ち上がった。

 突然のことに驚いた柊吾は、尻餅をついたような格好のまま、目線を上げた。

 黒いワンピースの裾が、大きくたなびく。傷だらけの手が、服の前を留めるボタンを外した。もどかしげな手つきで撫子がそれを全て外しきると、衣服がすとんと、布団へ落ちた。

 母の服が、撫子の身体から剥がれ落ちる。

 白い裸身が、白い蛍光灯の下で照らし出された。

 撫子が激昂しているのだと、柊吾はようやく気がついた。

 荒い息を弾ませて、撫子が柊吾を睨み付ける。剥き出しの感情を柊吾に明かした撫子は、やがて、泣き笑いのような顔をした。

「……ほら。ぜんぜん、きれいじゃないでしょ?」

 自分を見下ろす小さな身体を、柊吾は茫然と見上げた。

 痩せ細った、身体だった。痛々しい、身体だった。

 薄い皮膚にはあばら骨が浮いていて、白い乳房も小さかった。赤い蚯蚓腫れに穢し尽くされた身体は、見ているだけで、辛かった。

 だが、目を逸らそうとは思わなかった。

 どんなに痩せていても、痛々しくても――柊吾にとっては、初めて好きになった女の子の身体なのだ。

 鉛筆を握り直し、歯を食いしばり、柊吾は手を動かした。


 ――『きれいだ』


「どうして……そんな、嘘つくの……?」

 撫子が、へたり込んで、すすり泣いた。

「三浦くんは、どうして私のことが好きなの? 理由、教えて。いままでに、ちゃんと聞かせてもらったことない」

 どきりとした。だが刹那でも手を止めたら最後、撫子はもう二度と、ここへ戻ってこなくなる。そんなことは耐えられなかった。全力で引き留めなくてはならなかった。柊吾は思いつく端から、撫子を好きな理由を洗いざらい書き出した。

 ――『顔がきれいだから』

 ――『声が好きだから』

 ――『かわいいから』

 書けば書くほど、取ってつけたような言葉になった。違うのだ、と歯噛みする。嘘ではない。だがこんな軽薄さでは、真剣さが届かない。撫子が涙の溜まった琥珀の瞳で、柊吾のいる辺りを睨んでいる。やっぱりこの言葉では駄目なのだ。それでも量を書くしかなく、柊吾はがむしゃらに手を動かし続けた。

 ――『気づいたら好きだった』

 ――『お前じゃなきゃだめなんだ』

 ――『お前がいないと生きていけない』

 ――『たのむから死なないでくれ』

 どんどん湿っぽくなってきた。『死』なんて言葉を使った所為で、涙腺の壊れた目からどっと涙が溢れ出す。

 どんな言葉なら、届くだろう? もう思いつく言葉は限られていた。好きだ。好きだ。好きだ。単純な想いだけが、単純な言葉の形で、頭の中身を埋め尽くす。探せ、と自分を叱咤した。まだあるはずだ。ないなら作れ。撫子に届く言葉を、撫子に届く形に変えて、今すぐ声に出して伝えるのだ。

 母の顔が、脳裏を掠めた。

 父の顔も、泡のように浮かんでくる。

 向かい合って、笑む二人。温かで懐かしい空気が、ふんわりと夕餉の香りのように、鼻腔を掠めて流れていく。二人の間を何度も通った一つの言葉の存在を、はっと柊吾は思い出す。

 それ以上、深くは考えなかった。

 ただ、それを思い出せた感動を、ちゃんと触って確かめようともしないまま――柊吾は一切躊躇わずに、その言葉を書いていた。


 ――『あいしてる』


「……うそつき……」

 撫子が、また泣き笑いの顔になった。

 柊吾は、かっと頭に血が上った。

 ――『本気だ』

「意味なんて、ぜんぜん、分かってないくせに……」

 撫子が目を強く瞑って、シーツをぎゅっと握り込んだ。

 ――『これから、分かるようになればいい』

 諦めずに言葉をノートに穿っていると、もどかしさが頂点に達するのとほぼ同時に、鉛筆の芯が、ぼきりと折れた。

 もう、限界だった。

 切迫感が、切望が、堰を切ったように溢れ出す。

「――好きなんだ! 雨宮!」

 ついに鉛筆を放り出した柊吾は、立ち上がるなり撫子へ一息で距離を詰めると、両肩を強く掴んで、怒鳴るような声で叫んでいた。

 文字では、どうしても駄目なのだ。速さが足りない。想いが収まらない。何もかもが追いつけない。手遅れになってしまう。

 声でなくては。

 声でなくては、言葉に魂が、宿らないのだ。

「俺は、雨宮が好きなんだ! どこが好きとか、何がきっかけで好きになったとか、そんなの訊かれたって分かんねえよ! 全部好きだ! お前のことが、全部好きだ! だから、死なないでくれ! お前が悩んでることは、俺も一緒に悩むから! お前が呉野のことでそんなに苦しんでたなら、俺もお前とおんなじくらいに、これから一緒に苦しむから! だから、だから、だから……俺の前から、消えないでくれ! 別れるなんて、できるか! さっき書いた通りなんだ! 俺は、お前がいないと生きていけないんだ!」

 なんて情けないことを口走っているのだろう。女々し過ぎて、これでは嫌われてしまうのではないか。しかも、自分でも言いながら気づいていた。

 この言葉、柊吾は一度――身近な人間から、聞いている。

 記憶が、蘇ってくる。

 父がまだ、生きていた頃。母のことを、二人で話した。

 身体の弱い母は、いつか遠い所へ行ってしまうかもしれない。

 その悲しさをぶつけあって、柊吾達は、親子で泣いた。

 今ほど、血を感じたことはなかった。異性に惚れた柊吾達一族は、みんな同じ女々しさで、同じ言葉を吐いてしまう。もし拒絶されたなら、ひとたまりもないだろう。それこそ文字通り、生きていけないかもしれない。

 だがそれ以前に、この惨めで必死な告白は、撫子に届いてすらいないのだ。

 分かっている。そんな事くらい。撫子の目が壊れた時から分かっている。

 ――いい加減に、その程度のことで、自分が縛られるのもうんざりだった。

「お前が好きだ! 分かれよ! 分かれよ! 俺がどれだけお前が大事で、お前じゃなきゃ駄目なんだってことくらい、お前より周りの奴等の方がよっぽど知ってるんだぞ! 好きでもない奴の手なんか引いて歩くか! 好きだから、そうするんだ! お前だから、そうしてきたんだ!」

 声が枯れるほどの大声で、柊吾は叫び続けた。

 届いてほしい。氷花の言葉に魂が存在するのなら、柊吾の声にだって魂があるはずだ。この言葉に、声に、魂が宿らないわけがなかった。

 こんなに、誰かのことを好きだと切望したことはなかった。自分は今、一生分の恋をしている。撫子以外の誰かをこの先の人生で、好きになるわけがなかった。

 撫子でなければ、だめなのだ。

 代わりなんて、誰もいない。

 柊吾は、撫子でなければだめなのだ。

「四年前からお前が好きだ! それより前の、初めて会った時から好きだったんだ! 小五でおんなじクラスなれて、俺、本当は、すげえ嬉しかった! けど、そんなのお前に言えなかった! ……好きだ! 雨宮! 好きなんだ! 昔っから、落ち着いてて、いつ見ても涼しそうで、大人っぽくて、時々笑ってくれると、なんかすげー嬉しくなって、母さんみたいで、俺は、そんな雨宮が、好きなんだ!」

「お母さん……」

 撫子が、涙を手で拭って、笑った。

「三浦くん。それは、恋じゃない」

 頭の中が、真っ白になる。唇が、わなないた。

 やっと、柊吾にも分かったのだ。

 撫子の、本当の痛みが……一体、どこにあるのかを。

 だとしたら、それは誤解だ。誤解なのだと、柊吾がきちんと責任を持って、誠意を示して、説得しなければならなかった。

 だがこの土壇場では、うまく言葉が出なかった。

「恋でも、恋じゃなくても、どっちだって俺は――!」

 結局開き直った柊吾は、そんな言葉を叩きつけて……その瞬間に、はっと気づいていた。


 撫子が――――柊吾の言葉に、返事をしている。


「……雨宮……俺の声……目は……」

「恋じゃなかったら、何……?」

 言葉が、すぐに飛んできた。

 肯定の、代わりだった。撫子が顔を上げ、ひたと柊吾を見つめてくる。

 目には訴えかけるような恨めしさが、仄かにだが浮かんでいる。

 ……こんなに、怒らせていたのだ。

 それとも、こんなに寂しい思いをさせていた、の間違いだろうか。

 今日は、初めて気づくことばかりだった。

 撫子の質問に、何と答えるべきなのか。

 答えは、柊吾の魂が知っている。

 明白すぎて泣きたくなるようなこの答えを、柊吾はすぐには、明かさなかった。

 代わりに撫子へ、こう訊いた。

 「高校受験……白紙で提出したり、してないよな……?」

 これだけは何としても、はっきりさせておきたかった。

 撫子が、不意を打たれたような顔をする。やがて、恐る恐ると言った体で、こくりと小さく頷いた。

 柊吾の身体から、力が抜ける。深い安堵で、長い吐息が漏れた。

「死にたかったの。三浦くん」

 でも、と言って、撫子が顔を上げた。

「三浦くんが、いるから……生きたいの。両方、おんなじくらい、思ってるの」

「雨宮」

 柊吾は、撫子の両肩に沿えた手に、力を込める。

 しっかりと互いの顔を見つめ合い、言葉が届くことを確認してから――心に浮かんだ、素直な言葉を口にした。

「さびしい」

 溢れる涙で、前が見えなくなってきた。撫子の白い身体が、くしゃりと歪んだ泣き顔が、一人の綺麗な少女の姿が、みるみるうちに霞んでいく。

「俺は、雨宮がいないと、さびしいんだ」

 撫子が、ふるふると首を横に振る。まるで、質問に答えていないと詰るように。

 その激昂が、怒りが、蟠りが、目の前でするりと解けていくのを、柊吾は感じた。まるで、花が散るように。

 撫子が、多様な想いの入り混じった目で柊吾を見る。

 傷だらけの手が、そろりとこちらへ伸びてきた。

 二人の身体の間をゆっくりと手が上がっていき、やがて熱い手の平が、柊吾の頬の、古傷を撫でた。

「三浦くんは、私が死んだら、さびしいの?」

「――――当たり前だ! 馬鹿野郎!」

 撫子の身体を引っ張るように抱き寄せながら、柊吾の胸に、後悔と罪悪感が過っていく。撫子に、暴言を吐いてしまった。

 ようやく抱きしめられた撫子の身体は、熱かった。眩いほどに白く清らかな身体を抱きながら、もう自分は死んでもいいかもしれない、と、初めて柊吾は、死を思った。裏返しの生へ想いを遠く馳せながら、もう二度と離さないと胸に誓った。柊吾は撫子を、二度とこんな風には泣かせない。

 だから、今だけは……気が済むまで、泣き合いたかった。

 声を張り上げて柊吾は泣き、撫子も負けないくらいに大きな声で泣いた。二人して赤子に戻ったかのようだった。

 泣きながら、あいしてる、と囁いた。

 嗚咽で潰れて、自分の耳にも聞こえなかった。

 それでも、何度も、伝え続けた。

 背伸びをして、拙くても、何度も愛を、伝え続けた。

 声の形で、伝え続けた。

 何度も、何度も、伝え続けた。

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