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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 75

「雨宮さんのお宅ですか? どうも、三浦です。ええ、何度もすみません。いつも柊吾がお世話になってます。撫子さんですが、家内と一緒にいます。ええ。そちらは安心なさって下さい。怪我の具合は、家内が見た限り大事ないそうです。指だけは、念のため医者に診せた方がよさそうですが……お嬢さんが、嫌がるもんで。ご家族で一度相談してもらうということで。はい。……ああ、そのまま家に居て下さい。車を出しますから。恐縮なさらないで下さい。奥さんが走って来られるよりは、こっちが迎えに行った方が早いですから。撫子さんの元には、家内と柊吾を残して行きますんで。はい。家を出る時にまた連絡させて頂きます。ええ、それから……もう一つ。撫子さんと柊吾の、小五の同級生だった女の子のことで……雨宮さんは、覚えておられますかね?」

 三浦恭嗣(みうらゆきつぐ)は、そこで言葉を区切る。

 そして底冷えするほど厳しい声音で、言った。

「『風見美也子』さんという子のことで、撫子さんから何か相談を受けてませんか? 随分昔に、ここから引っ越したそうですが……いつの間にか、戻ってきてたらしいですわ」

「……」

 無機質に流れるその会話を、柊吾は薄い襖越しに聞いていた。

 襖にもたれ、狭い自室に閉じこもり、膝を抱えて、聞いていた。

 水浸しになった制服は、既にジャージに着替えていた。脱いだ制服は脱衣所へは持っていかずに、ビニール袋へ丸めて入れた。風呂場から人が消えたら、後で持っていくつもりだ。

 泥の匂いが仄かに冷たく鼻につき、柊吾は怠惰に、己の爪先へ視線を落とす。

 泉に足を浸した所為で、指の皮膚がふやけていた。畳に投げ出した足にも少し、拭い損ねた泥を見つけた。

 どうでもいいと、目を逸らした。

 ほんの十分前の出来事を、柊吾は孤独に、回想する。

 ――柊吾達の、〝アソビ〟は終わった。

 災いの種を撒いた氷花は去り、美也子は壊れ、そして恐らくは正気の心を、完全に喪失してしまった。

 その蛮行を、暴虐を、柊吾達は止めることができなかった。

 ――あの後、場は騒然となった。

 誰が、誰を、気遣えばいいのか分からなかった。

 誰が、誰を、責めればいいのか分からなかった。

 誰が、誰に、何を問い質せばいいのか。

 それさえも、判別できなくなっていた。

 記憶も、曖昧になっていた。七瀬がずぶ濡れの身体のまま、和泉の住まいである襤褸屋へ乗り込もうとしたのは覚えている。それを、拓海が止めていた。

 何故止めるのかと怒鳴る七瀬に、まずはメンバーの安全確保が先決だと、拓海が強く諌めたことで場が動いた。

 そこまで記憶を辿ったことで、柊吾はようやく思い出す。

 柊吾はあの時、半狂乱になって……撫子を抱きかかえて、拓海と七瀬へ詰め寄ったのだ。

『携帯を、貸してくれ』

 拓海の胸倉へ片手で掴みかかり、毒気を抜かれた顔の七瀬に気遣われている内に、背後からやって来た陽一郎が、携帯を怖々と差し出した。

 奪うようにそれを受け取り、柊吾は頭に入っている番号を叩き込んだ。

 自宅の番号だった。

 電話に出たのは――恭嗣だった。

 柊吾の父、三浦駿弥(みうらしゅんや)の兄。

 母の遥奈(はるな)とは、来月にささやかな式を挙げることになっている。

 柊吾にとって叔父であり、これから、父親になる男。

 恭嗣が柊吾の家にいる理由を、こんな状況でありながら、柊吾はすぐに思い出した。柊吾の受験が、終わったからだ。母も恭嗣も、狭いアパートの一室を温めて、ごちそうを用意して、柊吾の帰宅を待っていた。

 電話が繋がるなり、柊吾は叱られた。

 どこに行っているのか、と。受験は終わったはずなのに遅すぎる、と。受話器の向こうで、母が恭嗣を諌める声も聞こえる。一日頑張ってきた柊吾に、もう少し優しい言葉をかけてあげて、と。母の温かい声がする。

 ――日常が、なだれ込んできた。

 柊吾達が、今日という一日で、遠く離れてしまった普通の日々。その尊さが、温もりが、柔らかさが、愛しさが、言葉では言い尽くせないほどの質量で胸へ迫り、限界を迎えた柊吾の口から、自然に言葉が、滑り出た。

『雨宮が、怪我をしたんだ』

 絞り出すような、声になった。撫子の顔は血の気が失せて白いのに、唇だけが悪夢のように赤いのだ。このままでは本当に、自分は壊れてしまうと思ったのだ。

 柊吾が電話をしている間、七瀬と拓海が二人がかりで、撫子の身体を引き受けた。陽一郎は撫子の格好を気にして目を背け、毬は泣き、和音は少し離れた所で、硬く拳を握っていた。

 俯く和音がどんな顔をしていたかは、柊吾にはよく見えなかった。

 分かっているのは、一つだけだ。

 和音が決して、あの場を離れなかった。その頑なな姿勢、だけだった。

『助けてほしい』

 情けなく、震えた声で、柊吾は大人に、縋りついた。

『雨宮を、助けてほしい』

 ――助けは、五分とかからずに訪れた。

 撫子の身体を柊吾のブレザーで包み直し、柊吾は撫子を負ぶって神社の山を駆け下りた。それと時を同じくして、白い車が猛スピードで道路を真っ直ぐやって来た。急停車した車から、血相を変えた恭嗣と母が飛び出してくる。

『何があった』

 硬い声で、恭嗣が言った。

 柊吾は、他校の奴にやられたのだと答えた。意識を朦朧とさせた撫子は、涙を流した母に強く抱きしめられて、唇を薄く開いていた。

 裂かれた制服と、無惨に切られた栗色の髪。ブレザーで覆っても隠しきれない、素肌に走る蚯蚓腫れ。恭嗣の顔色が変わった。

『警察を呼ぼう』

 撫子を後部座席へ寝かせながら、恭嗣は普段は愛嬌のある丸い瞳を別人のように険しく見開き、鬼の形相で言った。

 だが、母がそれに反対した。

『兄さん、もっと二人から話を聞かなきゃだめよ!』

『そんな悠長なこと言ってる場合じゃない! 女の子が乱暴されたんだぞ!』

『傷つくわ!』

 母は引かなかった。頭を振り、ショートの黒髪が乱れる。あどけない顔に、身が切れそうな切望が浮かぶ。二人の口論を聞いた柊吾は、一拍遅れで気が付いた。

 恭嗣も母も、誤解している。

『母さん、ユキツグ叔父さん。これやったの、男じゃない』

『は?』

『女だ。……他校の、同い年の、女子だ』

 車の前で大人二人は、茫然の顔で柊吾を見る。

 後部座席から小さなくしゃみが聞こえ、『シャワー、あびたい』と蚊の鳴くような声で、撫子が恥ずかしそうに、訴えた。

 ――こうして、柊吾は自宅にいる。

 ここへ撫子を運んだのは、母の強い要望によるものだ。

 撫子の家よりもこの家の方が近いからという理由だが、実情は、撫子の事が心配で堪らないからに違いない。恭嗣は難色を示したが、撫子もそうしたいのだと希望をおずおず述べたので、苦りきった顔で許諾した。

 それが、車内でのやり取りだ。

 車の後部座席に乗った母は撫子に膝を貸していて、撫子は細く開いた瞳を潤ませながら、母の手を握っていた。

 その様子を助手席に座った柊吾は、サイドミラー越しに見た。俯いた柊吾を恭嗣がそれとなく気にしていたのも、横目に見て気付いていた。


 ――母の遥奈は、撫子の目に『見える』相手だ。


 その事実を発見したのは、中二の夏。夏休みが目前となった日の事だ。

 柊吾が目の『見えない』撫子を連れて自宅へ帰ると、撫子が母を『見て』お辞儀をしたのだ。

 それが一体何故なのかは、今のところ分かっていない。

 ただ、経験上、何となく憶測はできる。

 撫子にとって、柊吾の母は――生きていくのに『必要』な大人なのだ。

 柊吾の母は、撫子のことを、とても大切に思ってきたから。

 撫子もそんな母のことを、とても好いているに違いないから。

「……」

 では、どうして撫子は。

 柊吾の姿は、『見えない』のだろう。

 分かっている。それは柊吾が子供だからだ。あと一か月もすれば高校生になるのだとしても、所詮は十五歳の少年だ。

 もし、柊吾が大人になれたなら……ずっと撫子の目に『見える』、そんな存在になれるだろうか。

「……」

 部屋を見回し、吐息をついた。

 四畳半の、柊吾の自室。学習机が部屋の隅にあり、その隣には恭嗣が買ってくれた本棚がある。そこへ収まる『罪と罰』の上下巻が、何だかひどく目についた。

 撫子も、確か……これを、読んだと言っていた。

 シャワーの水音が、耳朶を打つ。思考は水の循環のように何度でも、撫子へと巡っていく。母が、撫子の入浴を手伝うと言っていた。

 その間にも恭嗣は、撫子の家へ何度も電話をかけ、切り、またかけるを繰り返している。

 おそらくは、撫子の父がまだ仕事から帰っていないからだ。撫子の母は恭嗣と連絡を取りながら、撫子の父にも絶えず連絡を入れている。登校の迎えで何度も顔を合わせた大人の心へ、柊吾は漠然と、思いを馳せた。

 撫子の母も、きっと今頃……胸が張り裂けそうな、思いをしている。

「……小五の連絡網が残ってる? それは助かります。風見さんの番号は……いえ、雨宮さんからは電話を少し待って下さい。まだうちの柊吾から事情を全て訊けてないんですわ。ええ、申し訳ない。本人も動揺しているもんですから……」

 ――神社に残したメンバー達は、今頃どうしているだろう。

 柊吾は皆にろくな別れも言えないまま、慌ただしく車に乗ってしまった。

 それでも拓海とだけは、境内の階段を降りる前に、忙しく言葉を交わし合った。

『悪い。後は、頼んだ』

 掠れた声で懇願すると、拓海は青白い顔で、だが力強く頷いた。

 そして『後で必ず、落ち合おう』と約束して、柊吾を送り出してくれた。

「……はい。それで旦那さんは何と。……風見さんの家に、電話をかけられた? ……繋がらなかった? 待って下さい。うちからも連絡を入れます。それで駄目なら、今あの子が通ってる学校へ、連絡を……」

 ――これから、柊吾達はどうなるのだろう。

 大人達の電話の声をラジオのように聞きながら、柊吾は膝に、顔を埋める。

 こうやって膝を丸めていると、今までの事が全部、夢のように思えてくる。

 今日という一日の、魔法が解けたようだった。

 受験が終わり、異能の遊戯に巻き込まれ、拓海が大人を相手取って論戦し、解決の糸口を皆で探した。だが見つけられずに苛立つうちに、和音が撫子を攫って消えてしまった。

 解決を求めてさらなる議論を重ねながら、柊吾達は仲間を探して、夜に沈む袴塚市を走った。

 その果てに、撫子と和音を、探し出して――最後は大人に助けを求めて、こうして、部屋で座っている。

 ――本当に、子供に戻ってしまった気分だった。

 異能も、〝言霊〟も、仇討も。

 何の関係もない中学生に、戻ってしまった気分だった。

「シュウゴ。質問がある」

 襖を、軽くノックされた。

 柊吾は身体をずらすと、同時に開いた襖から、恭嗣が顔を出す。

「撫子ちゃんの母さんを、これから迎えに行ってくる。旦那さんが仕事で車を出しててな、こっちに向かう足がないんだ。その旦那さんにも連絡はついたんだがな、超特急で帰っても着くのは九時を回るそうだ。……父親は、大変だな。一人娘の高校受験が終わる日くらい、早く帰りたかっただろうに」

 労うように、恭嗣が笑う。その笑みは何だか温かくて、撫子の父へ向けたものというよりは、柊吾に向けられたものなのだろう。柊吾は、唇の端を噛みしめた。

 そんな慰めが、傷口に塩をすり込まれたかのように、沁みる。

 ぼんやりと襖の向こうの置時計を確認すると、時刻は七時半だった。

 ……まだ、こんな時間だったのだ。

 ……それとも、もうこんな時間だったのか。

「けど俺達には、先にやるべき事がたくさんある。分かるな?」

 恭嗣の目つきが、厳しくなる。

 普段の柊吾であれば、恭嗣の圧に楯突いたかもしれない。だが今は反抗する気力もなければ、そもそも小さな言い回し一つに噛みつくような場面でも、状況でもないのだ。柊吾は従順に、怠惰に、頷いた。

 恭嗣も浅く頷くと、どっかりと柊吾の隣へ腰を下ろした。居間にあるテーブルからは、揚げ物のいい匂いがした。

 息苦しさで、柊吾は下を向く。ラップを掛けられた夕飯は、直視することができなかった。

 母と恭嗣は、ここで柊吾を待つ間……どんな気持ちで、いたのだろう。

「撫子ちゃんの家には、連絡がついた」

 郷愁を断つように、恭嗣が口火を切った。

「本当はあちらさんの家にあの子を届けるのが筋だろうって、俺は今も思うけどな。でも本人たっての希望じゃ、しゃーない。警察沙汰にするかどうかは、これから保護者同士で決める。撫子ちゃんのシャワーが済んだら、ハルちゃんにも保護者への連絡を手伝ってもらうつもりだ。……で、だ。シュウゴ。その『保護者同士』で連絡がついてるのは、まだ雨宮さんだけなんだが」

 恭嗣が、目線を柊吾に合わせてきた。

「関係者の名前。全員。言えるな?」

「……ユキツグ叔父さんが、知らない奴等ばっかだと思う」

「これから連絡すれば、全員知り合いになるわけだ」

 皮肉気に、恭嗣が笑う。笑っているのは口だけで、目は笑っていなかった。

「……同じ学校のやつは、俺と雨宮の他には、陽一郎」

「ああ、いっつもシュウゴの後ろで泣いてた、あの」

 恭嗣は、相好を崩す。今度は目も笑っていた。「他は?」と促されて、柊吾は訥々と名を、列挙する。

「東袴塚学園の奴らが、二人。坂上って男子と、篠田って女子」

「その子らも、知ってるぞ。シュウゴに仲のいい友達ができたんだって、ハルちゃん、嬉しそうに話してたからな」

「……」

「大事にしろよ、そういう友達は」

 恭嗣が、柊吾の頭をくしゃくしゃと撫でた。険しい表情が一転して、目尻に優しい皺が寄る。怒っていたかと思えば、ころりと笑う。直情で裏表のない叔父の笑みに、少し心が、ほだされた。

「お前の傍にいる友達が、お前が大人になった時に、どれだけ残ってるかは分からんさ。つまんねえ仲違いをするかもしれないし、お前の性格だって変わるかもしれない。相手だって同じだ。毎日変わっていく世界で生きてんだ。別々の道を行く日が来るかもしれないし、もしかしたら、ある日突然いなくなっちまうかもしれない。……隣から人が消える瞬間なんて、いくらでもあるんだ」

 遠い目つきで、恭嗣が言う。

 父のことを、思い出しているのだろうか。それとも、撫子のことも言っているのだろうか。この事件で、柊吾が失いかけた撫子のことを。

 柊吾には判断がつかず、思考を止めたままでも出来ることは、先程の質問に答えることだけだった。疲労で重くなった口を、のろのろと開く。

「……他の、メンバーは……袴塚中学の、女子が……四人」

「……。最後だけ、妙に多いな。メンバーは?」

「佐々木と、綱田と……呉野と、風見」

「おでましか」

 恭嗣は徐に床へ手を伸ばし、白い紙と鉛筆を持った。

 最初からメモを取る心算で、そこへ置いていたのだろう。

「そのメンバー全員、連絡先を教えろ。風見さんは、携帯を持ってるか分かるか? 持ってるなら、そっちの番号で教えてくれ。自宅はもう押さえてるから」

「携帯?」

 意外な要求に、柊吾は恭嗣を見返す。

 恭嗣は「繋がらねえんだよ」と、苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てた。

「自宅にさっき連絡したんだがな、いつまで経っても出ねえんだ。さっき柊吾が言った袴塚中学に問い合わせるか、警察に行くか……何にせよ、逃がしゃしねえからな」

 声に、凄みが滲む。だが柊吾は言葉の不可解さに混乱し、恭嗣に答えるどころではなくなっていた。

 ――美也子の家に、電話が繋がらない?

 何故だ。ただの話し中ならそれでいいが、楽観できない不穏さを、柊吾はひしひしと感じていた。

 美也子の家といえば――和音が撫子と共に、訪れた場所のはずだ。

 その出来事を、恭嗣に言うべきか迷った。

 ただ、それについて語るには、柊吾はあまりに今回の事件について知らな過ぎた。東袴塚学園を出た二人の足取りは、柊吾達にとって謎のままだ。

 ここに、和音はいない。撫子が、事情を説明できるとも思えない。

 迷った末に、結局柊吾は口を噤み――代わりに、最初の質問に答えた。

「電話番号が、分かるのは……陽一郎と、坂上と、篠田。あとは呉野だけだ」

 しかも氷花に関しては、和泉の携帯電話の番号しか知らない。

 それに和泉を思い出したことで、柊吾はあれから和泉と連絡を取っていない事実にも気が付いた。

 神社で別れたメンバーの誰かが、あの後電話をしただろうか。

 だとしたら、拓海か、七瀬のどちらかだ。

 だが、連絡して、何がどう変わるというのだろう。

 あんなにも怪我人を抱えて、恭嗣にはまだ言えていないが、あんな状態の美也子もいる。拓海の強張った顔を思い出して、不安が音もなく加速した。胸に冷たい鋏を突き立てられたような、鋭利な痛みで、息が苦しい。

 ――柊吾は、置いてきてしまったのだ。

 友達を、仲間を、あんなにも寂しい森の中に。

「呉野」

 恭嗣が、目を瞠る。

 遅れて「異人さんか」とぼそりと呟いたので、驚いた柊吾は顔を上げた。

「ユキツグ叔父さん?」

「シュウゴ。その呉野は後回しにしよう。俺からきっちり連絡をつける。他は? 何も知らねえのか?」

「篠田に連絡を取れば、綱田と、佐々木にも連絡がつくかもしれないけど……あそこの家、厳しいから。もしかしたら篠田本人しか、二人の連絡先は知らねえかも、しれない……」

 歯切れの悪い言い方に、恭嗣が眉根を寄せた。

「何気難しそうな顔してんだ。その篠田さん本人に連絡がつけば、話は早いじゃねえか」

「まだ、あいつらが……家に帰ってるかも、分かんねえ」

「っていうか……なんだ? お前ら、通ってる学校バラバラで、連絡先も全然分かんねえって……一体、どういう関係なんだ? そもそも、なんでこんな事になった? なんで、お前らは集まった?」

 くっと喉で、息が詰まる。

 答えられない。答える言葉を、持っていない。

 呉野氷花という、共通の仇。そして風見美也子という、共通の知人。二人の鬼の少女の〝アソビ〟が、柊吾たち中学生の歩く道を、今日という日に交叉させた。

 その奇縁を、巡り合わせを、非現実的な現実を、どう説明すればいいのだろう。

 これでは、氷花と戦った時と同じだった。〝言霊〟の異能を操る氷花を、柊吾は罰することができない。社会の規範や法律では、氷花を捕まえられないからだ。

「シュウゴ。雨宮さんを待たせてることを忘れるなよ?」

 恭嗣が、据わった目で柊吾を見た。

「じゃあ質問を変える。お前らの中で怪我をしたのは、撫子ちゃんだけか?」

「……雨宮の他は、佐々木が……石段から落ちて、頭を打った」

「……おい! 一大事じゃねえか!」

 恭嗣が、目の色を変えた。

 柊吾の肩が強く掴まれ、武骨な大人の節くれだった指が食い込む。皮膚の痛みを知覚して、柊吾は茫然の顔を恭嗣へ向けた。

 恭嗣の感情に、柊吾の感情のテンポが合わなかった。疲労が、思考を鈍らせた。心の瞬発力は伸びきったゴムのように緩んでいて、数秒遅れで、ああ、と柊吾は呻きを漏らす。

 当然、だった。恭嗣の、この激昂は。

 人が石段から落ちたのに、柊吾はそれを、軽視した。

 だが、忘れたわけではなかったのだ。ただ、色々なことがあり過ぎて、流された血も多すぎて、考えが及ばなかっただけなのだ。

 ――言い訳だと、気付いていた。

「その佐々木さんは、今どうしてるんだ!」

「まだ、家に帰ってるか分からな……」

「じゃあ今は、誰が一緒についてるんだ!」

「多分、坂上が、面倒見てくれて」

「あてになるか!」

 ばっさりと、恭嗣に切り捨てられて――かっと、怒りに火が点いた。

 萎んだ気概が、膨れ上がる。拓海を、友達を馬鹿にされた。

「坂上がいるなら、大丈夫だ」

 声に芯を通わせて、柊吾は恭嗣を睨めつけた。

「あいつなら、ちゃんと佐々木のこと見てくれる」

 だが、その場限りの勢いだけでは……大人に、敵いはしなかった。

「何言ってんだ! 思い上がるな!」

 恭嗣は、怒鳴って一蹴した。

「坂上君だって、シュウゴと同じ中坊だろうが!」

 ずん、と言葉が、石のように胸へ重く沈みこんだ。

「ガキが簡単に人の命を背負いこめると思うな! お前らが見放した所為で脳に障害でも残ったらどうするつもりなんだ! お前も、坂上君も、責任なんか一つも取れねえだろうが! 面倒見る? 何を見たって言うんだ! 家か病院に送り届ける所までしてから言え!」

 一言も、言い返せなかった。悔しさが、マグマのような熱さで口腔へ迫る。鼻の奥がつんとした。ぐちゃぐちゃに引っ掻き回されて氾濫した感情で、目の前が赤く染まる。

 柊吾は、中学生なのだ。それをさっき考えて、打ちのめされたばかりだった。どんな〝アソビ〟に巻き込まれても、死線を潜り抜けたとしても、所詮は子供に過ぎないのだ。まだ子供で、撫子の目には『見えない』のだ。

 大人には、手が、届かない。

「……雨宮さんに連絡して、少し自宅で待機してもらえるか掛け合う」

 恭嗣が、低い声で言った。柊吾の至らなさを嚥下したような抑えた声に、居た堪れなさが痛みとなって、先程よりずっとひりひりと胸に沁みた。

「他にはもう、怪我した子はいねえだろうな?」

「……篠田が……全身、水浸しで、首を、噛まれて」

「意味が分かんねえ!」

 恭嗣が頭を抱えた。「どういう状況だ! って、もういい、とりあえず次の怪我人を言え!」とやけくそのように言われ、柊吾はたどたどしく、次の同級生の名を挙げようとする。目頭に込み上げた熱は、根性でねじ伏せた。

 こんなものを、こんな状況で、恭嗣の目に晒すのだけは、死んでも耐えられなかった。

「坂上が……おでこ、切った」

「理由はっ?」

「……転んだ」

「……。他に怪我人は?」

「風見が……ほっぺた、腫れてる」

「……誰にやられた?」

「俺が、やった」

 柊吾は、目を逸らした。

「俺が、殴った」

 ――頬に、熱が叩き込まれた。

 頭が、ぐらんと揺れる。激痛と眩暈と衝撃で畳に崩れ落ちそうになる身体を、なんとか踏ん張って止まらせた。

 恭嗣は、今までに見た事のない形相になっていた。力み過ぎてばらばらに弾けていきそうな身体を繋ぎ止めようとするかのように、歯を食いしばって震えている。

「シュウゴ」と重く、名を呼ばれた。呼ばれただけにも関わらず、御魂の存在を、そこに感じた。

「暴力に、暴力で返すな」

 なんて、矛盾した台詞だろう。恭嗣だって、今手を上げたではないか。理不尽だ、と言いたくなった。だがそんな台詞を言ったが最後、柊吾は、自分を許せなくなる。口にする前から分かっていた。

 安堵で、肩の力が抜けていく。自分が今まで緊張していたのだと、やっと柊吾は認められた。まるで親に悪戯が見つかった、幼い子供のように。

 柊吾のしたことは、殴られて当然のことなのだ。

 叱られて、当然のことなのだ。

「シュウゴ。お前は、身体がデカい。力も強い。周りの中坊より、ずっとだ。それは加減一つで、相手の人生を変えてしまうかもしれない。止めてしまうかもしれない力だ。――シュウゴ。感情に、呑まれるな。たとえ、お前の大事な子が、酷い目に遭わされたんだとしても。どんなに悔しくて、相手を殺してやりたいって思ったとしてもだ。お前まで感情に呑まれたら、それは結果的に、お前から全てを奪うんだ」

 ゆっくりと、噛んで含めるように、震えた声で恭嗣は言う。

 万感の想いが、そこにあった。血濡れの言葉だと、柊吾は思った。痛みの匂いが、鼻腔を刺す。ああ、と柊吾は漠然と思った。

 恭嗣も、この痛みを知っているのだ。呑まれたことが、かつてあるのだ。だから、声が生々しい。この血濡れの言葉は、生きている。命を滴らせて、生きている。

「思い出せ。シュウゴ。お前の父親だって言ってたはずだ。こういう痛みはな、『した』側の人間の方が、忘れちまうのが早ぇんだよ。『された』側ばっか、いつまでも覚えてやがるもんなんだ」

 刺激される、記憶があった。

 夕暮れ時。父がいる。まだ柊吾がアパートではなく、一軒家に住んでいた頃。柊吾へそれを諭した父は、幼い撫子へ優しい微笑を向けていた。

 父の顔立ちは、目の前の恭嗣とよく似ている。

 身体の頑健さは、兄の恭嗣にはない。柊吾の父の方が恭嗣よりも、身体付きは屈強だった。恭嗣の背丈だって、柊吾より少し高い程度だ。

 それなのに何故、その姿が、大きく見えてしまうのだろう。

「お前が殴った子は、その前に撫子ちゃんを傷つけた。だから、お前から殴られた。……分かりやすい、連鎖だろ? やられたから、やり返す。やられたから、やり返す。やられたから、やり返す。……どこまで行っても、終わりがねえ。お前らは自分の大事なものが全部めちゃくちゃになって潰れるまで、傷つけ合って果てるんだ」

 やられたから、やり返す。その言葉が泉の水面に落ちた紅葉のように、柊吾の中でぐるぐる回る。その波紋に呑まれながら、やがて柊吾は心の中で、首を緩く、横に振る。

 あの時柊吾が、美也子を殴りつけたのは……報復の気持ちだけが、理由ではなかった。

 では、何なのかと己に問うた。美也子を殴ったあの時の、熱く煮立った感情は。

 それを言い表す言葉を、柊吾はすぐに、見つけ出す。

 ――衝動、だった。

「……言いたいことあるなら、言い返せ」

 柊吾の胸に生まれた齟齬を、恭嗣は適確に見抜いてきた。

 細められた目で睨まれ、柊吾は躊躇い、決意する。

 発声の為に息を吸い、恭嗣へ、大人へ、言葉をぶつけた。

「俺が、風見を殴ったのは……かっとなった、から。雨宮のことで、許せないって、思ったから」

 実際に声に出してみると、想像よりずっと拙い言葉になった。

 思わぬ苦戦に歯噛みして、柊吾は必死に知恵を絞る。せっかく探り当てた衝動の言語化が、こうも難解なものだとは、まるで思いもしなかった。頬が、熱く火照っていく。想いを言葉に変えるのは、勇気が要ることなのだ。

 それを、初めて知った気がした。

「でも、かっとなったって、いうのは……ユキツグ叔父さんが言ったような、みたいなことを、あの瞬間に考えられたわけじゃ、なかった。……あの気持ちは、かっとなってって、言う風にしか……俺には、言えない」

 柊吾は、硬く拳を握って俯いた。

 悔しかった。もっと、言い様があるはずなのに。あの時に感じた情動は、こんなにも不完全で未熟な言葉で、表現すべきものではないのに。

 堪えていた涙が、目尻に滲んで頬を伝う。くぐもった嗚咽を堪えながら、柊吾は静かに泣いた。こんなことで、自分が泣くとは思わなかった。その弱さが、余計に悔しかった。

 だが、『こんなこと』だろうか。

 撫子を、あんな風にされた。それに対して感情を剥き出しにすることは、『こんなこと』で済ませていいことだろうか。

 ――そんなわけが、なかった。

「……そうか」

 恭嗣の眼光が、心なしか和らいだ。

「なあシュウゴ。あの子だろ? お前の彼女。話に聞いてたよりずっとちっこい子で、びっくりした」

 思いがけない言葉に、柊吾は呆ける。

 自分が泣いていることさえ、一瞬忘れてしまった。

「……本人は気にしてるから、あんまり言わないでやってほしい」

 かろうじてそう言い返すと、かははと恭嗣は愉快気に笑った。

「可哀想に、びしょ濡れでさあ。ガキの時に近所にいた野良猫思い出したわ。あ、名前はチビな」

「だから、あんまり言ってやるなって」

「あの子、ハルちゃんに似てるな」

 呼吸が、止まる。

 柊吾は、恭嗣を見た。

 恭嗣は何事もなかったかのように笑うと、話を戻した。

「誰しも、誰かを知らずに傷つけちまうことはあるさ。それはある程度はお互い様だって、少なくとも俺はそう思って生きてきた。……それでも、誰かに対してすげえ腹が立って、どうしようもなくなって、相手をどうにかしないと息が出来なくなるような、そんな台風みてえな感情に、憑りつかれることは……これから先、何度だってあるだろうな。誰でも、俺でも、お前でも。生き続けてりゃ、うんざりするくらいにな。――だがな」

 言うや否や、恭嗣は動いた。

 柊吾の手を、痛いほど強く握ったのだ。

「これを使うことは、俺らは自分の意思で止められる。シュウゴ、なんでか分かるか?」

 分からない。いや、分かるかもしれない。分かるはずだ。頭の奥が、鈍く疼く。混乱した思考を纏め、柊吾は痺れた頭で考える。言葉で、言い表そうとする。

 人を、殺そうと思うこと。

 歯止めの利かない感情を、己の中から消せなくとも、一線を越えずに、踏み止まること。

 その方法を、柊吾はもう知っているはずだ。多分これは、恭嗣に改めて教育されるようなことではない。強い確信があった。柊吾は、答えを知っている。今までにも色んな場面で、色んな人から、教わり続けてきたはずなのだ。父から。母から。教師から。友達から。撫子から。

 ちかりと、何かが頭の奥で光った。意識の暗がりの片隅で、答えが柊吾を待っている。早く見つけろと、待っている。

 なのに、あと少しの所で、手が届かない。

 柊吾は、深く項垂れた。

 最初から答えに手が届くなら、柊吾は人を、殴らなかった。

「……教えて、ほしい」

 恭嗣は、頷いた。

 柊吾が見つけられなかった、その答えは――やっぱり、知っているものだった。

「俺達が、衝動を止められるのは――俺達が、人間だからだ」

 美也子の声が、脳裏で悲痛に響き渡った。私は『ばい菌』じゃない。涙ながらに叫んでいた。

 美也子は、『人間』になりたかったのだ。

 焦がれなくとも、人であるにも関わらず。

 では、『人間』とは、何なのだ。柊吾は知らず息を詰めて、恭嗣の言葉を待っていた。

 差し込む光を、感じたのだ。

 大人の声に、教育に、微かな希望を、感じたのだ。

「人間だから、理性がある。社会がある。規範がある。その線引きと決まりがあるから、人間は衝動と、向き合わざるを得なくなる。窮屈に見えるかもな。けど、それが大事なんだ。あいつが気に入らない。許せない。腹が立つ。殺してやりたい。そんな感情に抗うのは、辛いぞ。流れに逆らって走るんだから、摩擦が起きるのは当たり前だ。……だがな、その苦しみで、守れるものもあるんだよ。お前が規律を守るのと同じように、他者も規律を守るからだ。皆が決まったルールを守り合って、自分と他者を守り合って生きている。それが人間が築き上げてきた、社会だ。お前と、お前の大事なもの。それらを守るために、理性がある。規範がある。社会がある。それらが機能してるから、俺達は、人間でいられるんだ。それを守れるのが、人間なんだ」

「社会、規範……」

「だから、な。シュウゴ。人間でいることを、やめるな」

 柊吾の手の甲を恭嗣が、ぱんと叩いて、笑った。

「お前が人を殴ったその拳は、ハルちゃんの手を握ってきた手だ。違う女の子の手も握った手だ。自分と同じ人間を、大事にしてきた手だ。……傷つけることに、使うな。守ることに、使え。そういう戦い方があることも覚えて、お前はこれから、大人になれ」

 大人になれ。

 その台詞も、ずんと胸に沈んでいった。

 赤い焼石のような言葉の熱が、柊吾の血潮を巡っていく。

 大人になれ。

 叱られているのかもしれない。そんな言葉だ。だが、柊吾はそう取らなかった。

 これは、そんな言葉ではない。感情に呑まれて、受け流していい言葉ではない。呑まれては、ならないのだ。感情に、呑まれては。柊吾は柊吾のままで、その言葉を受け止められる。きっと、出来るはずなのだ。

 魂が、『人間』である限り。

「……分かった」

 柊吾は、言葉で返事をした。

 頷くだけでなく、きちんと言葉で、返事をした。

「……ユキツグ叔父さんが、こんなに頭良さそうな話するなんて思わなかった」

「こら、茶化すな。真剣な話したんだぞ。あー、慣れねえこと語るとこっぱずかしいわ。とにかくシュウゴ、ここに篠田さんの連絡先を書け。電話すっから。それと、風見さんにも会いに行くぞ。保護者共々、居場所を突き止めたらな。曲がりなりにも女の子の顔を殴っちまったんなら、こっちも頭下げなきゃ駄目なのは分かるな? まあ、こっちが相手に言いたいことも山ほどあるし、退く気はねえから安心しろ。だがな、やった事は、ちゃんと謝れ。いいな?」

「……分かった」

 もう一度、柊吾は返事をする。こちらに関しては素直に頷けない気持ちが強かったが、通すべき筋なのは間違いない。

 そんな気概は、恭嗣にも伝わったのだろう。「よし」と軽い調子で言った恭嗣が、ぽんと柊吾の頭を叩いた時、居間で電話が鳴った。

 立ち上がった恭嗣が、「書いとけよ」と柊吾に念押ししてから電話へ向かう。

 柊吾は鉛筆を手に取ったが、すぐにそれを床へ置くと、代わりに自室を振り返り、膝立ちで畳を移動した。

 鞄は敷きっ放しの煎餅布団へ、無造作に置いていた。

 神社から持ち帰っていて良かったと思う。この中の生徒手帳のメモ欄に、友人の自宅の電話番号をメモしていた。

 だが柊吾は、鞄のチャックを開けて唖然とした。

 鞄の中にはノートと参考書が詰まっていたが、どれも柊吾のものではない。

 慌てて鞄を見直すと、持ち手にはウサギのマスコット。

「……」

 柊吾は、頭髪を掻き回す。入れ替わったことなど、忘れていた。眉間に皺を寄せていると、切羽詰まった声が聞こえた。

「?」

 振り返ると、恭嗣の横顔が、真剣そのものになっている。

 小声で話される内容は、柊吾には聞き取りにくかった。

 誰と、話しているのだろう。撫子の母親だろうか。だが何となく受け答えの改まった雰囲気から、新たに別の人物が会話に加わったような気配がある。

 柊吾がしばらく見守っていると、やがて恭嗣は受話器を置いて、洗面所の戸をノックした。

「ハルちゃん。そっちは終わりそうか? 話がある」

 戸の内側から、くぐもった母の声が聞こえる。恭嗣は二言三言、母と言葉を交わしてから、扉を開けて入っていった。

 柊吾はぎょっとしたが、戸を睨んでも仕方がない。そわそわと待っていると、ほどなく再び、戸が開いた。

 そして、茫然としてしまった。

「あ……」

 湯気が、ふわりと空気にほどける。石鹸の香りが、漂った。

 真っ先に、恭嗣が扉から出てきた。

 その恭嗣の腕に、抱え上げられて――撫子が、姿を現した。

 服装は、丈の長いワンピース。母の服を、身に付けている。

 白い足に、いくつもの絆創膏が見えた。手には包帯が巻かれ、頬にもガーゼが当てられている。

 目の焦点は、恭嗣には合っていない。

 恭嗣のことが『見えない』のだ。

「ほら、撫子ちゃん。柊吾の部屋で下ろすからな。だーいじょうぶだ。怖くないぞ。……って、俺が言っても分かんねえか。ハルちゃん、通訳頼む」

「ええ。……撫子ちゃん、こっちよ。柊吾が待ってるわ」

 自然に交わされたやり取りに、柊吾はさらに驚かされる。

 恭嗣は、撫子の『目』の事情を知っているのだ。

 母が、話していたのだろう。柊吾が何も言えないまま見守っていると、恭嗣と母は柊吾の自室へ到着した。

 布団に座る柊吾の対面に、撫子がゆっくりと下ろされる。

 撫子は布団へ両膝をつき、次いで両手をついて、心細げに周囲を見回す。その様子は恭嗣の言葉ではないが、知らない家へ迷い込んだ子猫のように見えた。

 撫子は母を振り返り、その隣にいる恭嗣を曖昧に見て、「すみません」と、小声で言った。恭嗣は軽く手を振り「いいってことよ」と答えたが、撫子には、その声が届かない。不安げな面持ちは、変わらない。

「三浦くん……いるの?」

 撫子が、手をおそるおそる伸ばしてくる。

 柊吾のいる場所が、布団の窪みで分かるのだ。

「雨宮……」

 一声呼んだきり、柊吾は何も言えなくなった。手を差し伸べることすら、できない。布団についた両の手は、すっかり震えてしまっていた。

 撫子の髪からは、シャンプーの匂いがした。柊吾の家のシャンプーだ。栗色の髪が、蛍光灯の光を照り返す。綺麗な髪だ。口にしたことはなかったが、いつも、綺麗だと思っていた。

 その髪が、今や片側だけ短いのだ。

 美也子に、鋏で切られたから。

 この怪我も、全て、美也子が。

 衝動が、迫ってくる。その熱さに自分で歯止めを効かせる前に、攻撃的な感情は、全て残らず萎んでいった。

 ――柊吾は、守れなかったのだ。

 撫子がこうなってしまう前に、助けにいくことができなかった。

 そんな自分に、撫子に触れる資格があるだろうか。

 葛藤と自責で、伸ばされた手を、掴めない。

「三浦くん……? どこ……? 三浦くん……」

 撫子の手が、柊吾のすぐ傍まで伸びる。膝に触れかけた包帯だらけの手が、ぎゅっと強く握られた。震える手を顔に当てて、撫子が小さく嗚咽した。

 恭嗣の目元に、険が寄った。

「シュウゴ」

「……ごめん」

 柊吾は、撫子の手を握ろうとして……怪我を気にして、腕を取った。

 びくりと、撫子の身体が震える。

 怖がらせて、しまったのだ。急に柊吾が、触ったから。「ごめん」ともう一度、声に出した。届かないと、分かっていても。

「……ねえ、柊吾。お願いがあるの」

 母が微笑み、身体を屈めて柊吾を覗き込んだ。

「少しの間、撫子ちゃんと留守番をしていて欲しいの」

「雨宮と……? 母さん達は?」

「出かけてくるわ。陽一郎君のお母さん達と、今から外でお話をしなくちゃいけないの」

「陽一郎の……?」

 疑問が湧き、混乱した。何故そんな事が決まったのだ。原因はすぐに思いついた。さっきの電話。あれの所為だ。

 あの通話の相手は、陽一郎の家族だった?

 そもそも、陽一郎は帰宅できたのだろうか。矢継早に訊こうとすると、穏やかに微笑んだ母が瞳を閉じ、首を緩やかに横へ振る。

 そうやって、静かに諭された。

 隣にいる存在を、忘れてはならない、と。

「帰ってきたら、きっと話すわ。だから撫子ちゃんをお願いね」

「そういう事だ。撫子ちゃんのお母さんもこれから迎えにいって、保護者同士で集まってくる。お前が留守番することは、向こうの親御さんも知ってるから。しっかりやれよ。シュウゴ」

 二人はそう言って、手早くコートを着こんで玄関へ向かった。

 扉を出る前に母が振り返り、「すぐに戻るわ」と笑った。

 恭嗣も振り返り、「頼んだぞ」と激励し、勝気な笑みを見せてくる。

 そうして、扉がゆっくり閉まり――ばたんと、嫌に大きく、音が響いた。

 後には――柊吾と撫子だけが、残された。

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