花一匁 74
「雨宮さん……! 目が、『見える』ように、戻ったのか……っ?」
「……」
撫子は、虚ろな目を拓海へ向けた。拓海の言葉の意味を考えている風だったがその様子はまるで、大人から難解な質問を受けた子供のように柊吾には見え、到底拓海の言うように、目が『見える』ようになったとは思えなかった。
「撫子ちゃん……?」
倒れたままの七瀬も、弾んだ息を整えながら撫子を見た。
だが、撫子は七瀬を見ない。さっきから何度も名を叫んでいる柊吾を振り返りもしない。ただ、己の肩を掴んでいる拓海の顔だけをじっと見ている。
拓海も、その様子の異様さに気付いたらしい。息を呑んで、黙った。
青く冷たい森の中へ、沈黙が流れた。
今までに一度もなかった現象が、柊吾達の時間を等しく止まらせた。
無言の時の中で、拓海はすぐに落ち着きを取り戻し、顔に微笑を形作る。
そして学ランのボタンを外して脱ぐと、撫子の肩へ回しかけた。
「……雨宮さん。俺達と、帰ろう」
撫子は、ぼんやりとそれを聞いている。拓海は、優しい声で続けた。
「こんなこと全部、もうやめよう。三浦と、俺と、篠田さんと……佐々木さん達と、皆で。神社から、帰ろう」
「……帰れない」
撫子は、ぽつりと言った。
そしてもう一度、「帰れない」とはっきり言った。
声に、心に、悲しみが通う。新たに溢れ出した涙が、撫子の赤い頬を濡らした。
「わたしはもう、帰れない。こんなにひどいことを考えてた子、みうらくんのそばにいられない」
「雨宮さん……」
拓海が、驚きの顔で撫子を見た。柊吾も、同じ気持ちだった。膝立ちのまま、泣きじゃくる撫子を見つめ返す。
撫子は嗚咽して、手で顔を覆い隠した。
「坂上くん。とてもこわいの。みうらくんが『見えない』の。私の目がこんなだから、みうらくんが『見えない』の。みうらくんに、会えないの。……だから、私の目をこんなにした人を、やっつけるの。敵がみんないなくなれば、わたしの世界は、元に戻る」
手を顔から下ろした撫子が、拓海を見た。
撫子は、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
唇を震わせながら、悲しそうに、悔しそうに、辛そうに、はっきりと目に『見える』感情で泣いていた。
今までの、希薄な表情とは全然違った。生々しいまでに鮮烈な心が、確かな温度でそこにあった。熱い血潮の流れる人間の顔で、撫子は泣いていた。
「三浦くんが好き」
涙で潰れ、感情で濁った、だが透明な声で、撫子が言った。
「私は、三浦くんが好き。小学生の時から、好きだった。学校の図書室で、美也子が三浦くんのこと好きかもしれないって聞いた時、私、すごくこわかったの。三浦くんを取られちゃうって、思ったの。だから、中学生になって、三浦くんから付き合ってって、言ってもらえて……私、すごくうれしかった。……だから、私は……もう一度、三浦くんに会うために……だいきらいな敵を、ころさないといけないの。私の敵は、いつも……三浦くんを、連れていくから」
撫子の目が、葛藤で歪む。
悲しみのはずの感情は、何故だか恨みに似ている気がした。
「……でも、分かってるの。私は美也子をころしても、三浦くんには会えない」
しゃくり上げた撫子が、静かに泣いた。
「私がこんな汚いことを考えてるって、知られたら……三浦くんは私のこと、きらいになる……」
柊吾は、何も考えられないまま、その告白を聞いていた。
思考が、まるで働かなかった。突然告げられた撫子の想いの向く先が、自分だというのが信じられない。嘘だと、思った。自分に都合のいい夢を、見ているに違いない、と。
「もう、もどれないよ」
撫子は涙を手の甲で拭い、空虚な目で拓海を見た。
諦めの笑みだと、一目で分かった。
「和音ちゃんも、言ってた。どんな理由があっても、人に刃物を向けるなんて、人間のすることじゃない、って。……私はもう、人間じゃない。人間に、もどれない」
「戻れる」
即答したのは、拓海だった。
強い意志を宿した目が、撫子を射るように見つめている。
「俺は、諦めたくないんだ。雨宮さんだって、本当はそう思ってるはずだ。それに、俺は……俺の周りの、大事な人達を……〝言霊〟で失うのは、嫌なんだ」
その声に応えるように、別の声が掛かった。
「戻れる」
七瀬だった。項の歯型をセーラー襟で隠しながら、這いずるように歩いてくる。やがて拓海の隣に並び、撫子の手を、強く掴んだ。
撫子は七瀬を最初見なかったが、拓海が七瀬の身体も支えた途端、感電したかのように身体を震わせ、七瀬の顔へ、目が向いた。
柊吾は、もう何度目かも分からない驚きで、目を瞠った。
――七瀬のことも、『見えた』のだ。
「撫子ちゃんが、さっき言ったことが、本心でも……今こういう風にしてることは、撫子ちゃんの本心じゃない。……それくらい、分かるよ。ここにいる皆が、分かってるよ。撫子ちゃん、悲しいんでしょ? こんなこと、したくないんでしょ? ……私達、友達だもん。言葉になってない部分だって、ちゃんと、分かるようになったんだよ。いつの間にか、そんな友達になってたんだよ?」
「ななせちゃん……」
撫子の目に光が灯り、七瀬は、勝気に微笑んだ。
「私だって、やっぱり分かってたんでしょ?」
「どうして」
「ずっと、泣いてるから」
七瀬が、撫子の傷だらけの身体を抱きしめた。
「戻れるよ、撫子ちゃん。一度、戻れたんだから……今度だって、大丈夫」
「そうだよ。雨宮さん。俺は……戻れないまま居なくなった人を、見た時から……自分の友達は絶対に、あんな風にはさせないって、決めたんだ」
――荒れ狂う感情の波が、すう静かに凪いでいくのを感じた。
ひどく清かな空気が流れ、撫子はもう声を上げずに泣いていた。何かが洗われていくような感覚に、柊吾の身体から力が抜ける。
「収まった、のか……?」
これで、終わったのだろうか。まだ分からない。安心するには早い気がした。それに、せっかく撫子が正気の一端を取り戻しても、柊吾は駆け寄ることすらできないでいる。
為す術もなく泣きじゃくる撫子を見守っていると、拓海が、柊吾を振り返った。
――真剣な、眼差しだった。
「三浦。……俺、『弱み』が分かった」
「……『弱み』?」
突然の言葉に、何のことだか分からなかった。
「雨宮さんの、『弱み』だ」
短く断言した拓海は、その場に立ったまま続けた。
「雨宮さんは、『敵を討たないと、世界が正しく戻らない』狂気に、憑りつかれてる」
「敵……?」
何故ここで、撫子の『弱み』の話なのだ。元々〝アソビ〟を終わらせる為に『弱み』を知りたかった相手は、今も蹲って泣いている美也子のはず。
戸惑う柊吾へ、拓海は続けた。
「雨宮さんの目は呉野さんの〝言霊〟で、一部の人間しか『見えない』状態になったよな? 三浦達が中学二年の、初夏頃に。その原因を雨宮さんはこう考えて、呉野さんを襲った。――『自分の目をこんなにした人間を討てば、自分の目は正常に戻る』」
「……雨宮の前で、繰り返すな」
柊吾は吐き捨てたが、撫子は七瀬の胸に顔を埋めて泣いている。
疲れ果てて、泣き疲れて、言葉は耳に入らない。そんな印象を柊吾は持った。
拓海は同じ印象を持ったのだろう。後ろめたそうにしながらも、話の軌道は戻してきた。
「雨宮さんが、そんな答えを出した理由。三浦には、分かるか?」
「……ああ」
その点については今更拓海に言われなくとも、撫子が改めて言葉で言わなくとも、柊吾にだって分かっている。
何故なら撫子が、氷花を『敵』と定めたからだ。
だから、あんな事件が起こりかけた。
「……多分、三浦が考えてるようなこととは、違う」
拓海は、何だか寂しげな顔をしていた。
「? じゃあ、何なんだ?」
柊吾は、苛立った。憐憫を向けられた気がしたのだ。
それに、言葉の意味も分からない。首を捻ろうにも身体は動かず、鈍い痛みに苛立ちが増した。
だが、次に拓海に言われた言葉で――全ての思考が、吹き飛ばされた。
「――『三浦に、また会いたい』からだ」
呼吸は、その瞬間に忘れてしまった。
時間の流れから自分一人だけが、置き去りになった気分だった。
森の青い闇も月光の清い白さも、対照的に禍々しい気配も、事件も、〝アソビ〟も、美也子のことも、諸悪の根源である氷花の〝言霊〟さえも、この瞬間は無に還って、柊吾の世界から消え去った。
「なんで雨宮さんが、こんな考えに至ったか……やっと、分かった。一握りの人間しか『見えない』世界に放り込まれて、その中には『三浦』が入ってないんだ。雨宮さんは『目が『見えなく』なったことで、三浦に会えなくなってしまった』」
拓海の言葉を、受け止めきれない。手を伸ばして、抱き留めて、自分のものにしていいのか分からない。
まだ、どこかで怖いのだ。認めてもいいのか、自惚れではないのか、独りよがりな気持ちではないのか、拒絶されるのではないか、必要と、されていないのではないか。あらゆる怖さが歯止めとなって、怖気づいて、手が伸びない。
「……当然、だよな。好きだったら、会いたいよな」
俯いた拓海が、悲しげに微笑した。
小さなすれ違いを、憂うように。
「『三浦にまた会いたいから、敵を討って世界を正しい形に戻す』。『三浦のいる世界に戻るために、敵を殺さないといけない』。『三浦と自分を引き離した、その元凶を叩かないと、自分の世界が壊れてしまう』。雨宮さんも、言ってたじゃん。……『三浦を風見さんに取られるのが、怖い』……って」
柊吾は、撫子を見た。
目線は、合わない。撫子の目に、『柊吾』は見えない。
必要と、されていないからだ。
あの頃、柊吾はそう思っていた。
撫子の目が、『見えなく』なってしまった時。
柊吾は、自分も壊れたと思っていた。
柊吾と撫子はこんなにも近くに立っているのに、違う世界を生きている。壊れているのは同じなのに、同じ世界に立てないのだ。あの頃は、そう思っていた。
では、今は?
さっき、撫子も言っていたではないか。
――小学生の時から、柊吾のことが。
「……これが、雨宮さんの本当の『弱み』だ。『三浦のことが好き』だってことが、雨宮さんの」
「そんなのが」
柊吾は、拓海を遮った。
「『弱み』なわけ、あるか」
――三度目の既視感を、感じていた。
この台詞を、かつて柊吾は言ったことがある。脳裏を、長い黒髪がたなびいた。
美貌を悪辣に豹変させ、品のない笑みで柊吾を嘲笑う顔を見た時に、柊吾は抗おうと決めたのだ。柊吾の大切な存在を、撫子を滅茶苦茶に弄んだこの少女を、仇と定めて、決めたのだ。戦おうと、決めたのだ。
豪雨のような悪意の中で、戦い方を模索した柊吾が、がむしゃらになって放った台詞。
その魂の〝言挙げ〟を、柊吾ははっきり思い出す。
「そんなのが、『弱み』なわけ、あるか」
顔を跳ね上げた。
腹に力を込めた柊吾は、もう何故泣いているのか分からない目で――前を睨めつけ、絶叫した。
「人のことを、好きだって思う気持ちが――『弱み』なわけ、あるか!」
発声の瞬間、身体の奥から湧き上がる力を感じた。
皮膚に触れる空気に冴え冴えとした膜が張られ、エメラルドグリーンの光がちらちらと網膜で踊った。その残光の形はヒイラギの葉に似ている気がして、柊吾の全身は眩い緑の風に呑まれ、脳の芯が白く痺れた。
――……私が、ナデシコなのは。お母さんの好きな花だからだって。お父さんがつけた。お母さんと結婚する時にも、花束にしてプレゼントしたって言ってた。一生守るから、って。そう言って、あげたんだって。三浦くんがシュウゴなのは、何か意味があるの?
在りし日の撫子の声が、柊吾の耳朶に蘇る。
小学五年、紺野に花が切られた中庭に立つ、今より幼い柊吾と撫子。
あの日の撫子は、身体のあちこちに怪我をしていた。
前日に、ナデシコの花の切り取り事件があったからだ。
思い詰めた紺野沙菜を、十一歳の撫子は救おうとした。
だが、すれ違いは埋まらなかった。撫子の手は紺野に届かず、紺野は転校の準備を進めていた。そんな舞台裏の悲しさを、あの頃の柊吾は何も知らなかった。
それでも、追い駆けた。
気がかりだったからだ。
撫子のことが、どうしても。
――シュウって、ヒイラギでしょ? 名前が植物なの、おそろいだなって思ってた。
無垢に訊ねる撫子へ、柊吾はなんと答えただろう。
まだ、ちゃんと覚えている。忘れたことなんて一度もない。
柊吾がなぜ柊吾なのか、柊吾はちゃんと覚えている。
それこそが、愛の正体だからだ。
流行歌や本で山ほど謳われるものとは格が違う、真っ白で、綺麗で、底が無くて、きらきらしている。湧水のように滾々と、尽きることなく無償で生まれてくる何か。それらが結晶して、言葉の形を取ったもの。
それが、名前なのだ。
この世に生を受けた柊吾たち子供が、父と母から最初に授かる、愛の言葉。
――……きっと、大丈夫ですよ。君には『愛』の、御加護があるのですから……。
次に蘇ってきた声は、大人の男の声だった。柊吾は硬直した腕に、足に、身体の芯に、全身に、あらん限りの力を込める。
――こんな所で、『凍って』いる場合ではなかった。
一刻も早く、『動かなくては』ならないのだ。
柊吾は撫子の元へ、『動かなくては』ならないのだ。
「雨宮……今の、お前の言葉は、全部……本心で、本心じゃない」
膝が、がくがくと笑っている。筋肉の繊維が引き千切れそうな痛みで、魂ごと弾けてしまいそうだった。
これが〝鬼〟の敷いた『ルール』に抗い、禁忌を犯す代償なのか。
だとしたら、あまりに安すぎる。
膝立ちの姿勢から……柊吾は、身体を、立ち上がらせた。
「お前のそれが、無理やり言わされたんだとしても……お前が本当に、俺のこと、そう思ってくれてるのは……分かったから」
美也子が、愕然の表情でこちらを見た。七瀬が、泣き笑いの顔で拳を握った。陽一郎も、柊吾にエールを叫んでいる。
だが今は、今だけは、外野なんてどうでもよかった。柊吾達の世界はいつも分断されてばかりで、ようやく再会が叶ったものの、全く話せていないのだ。
だから、今くらい、二人きりにさせてほしかった。
「俺からも……ちゃんと、言わせろ。雨宮。お前のが、〝言霊〟に言わされた台詞でも……俺の方は、本心だ」
撫子は、柊吾を『見ない』。まだ拓海と七瀬しか『見えない』のだ。
それでもいい。聞いてもらえないからと、口にするのをやめたくない。言霊は声に発した言葉に宿るのだ。だがそんな理解や伝承さえも、今の柊吾には不要だった。
柊吾が今、こうするのは。こうしたいと、思ったのは。
言霊なんて、関係ない。
撫子が、先に言ったからだ。
男の柊吾が、言わないわけにはいかなかった。
「……雨宮さん。三浦が、もうすぐ来る」
拓海も泣き笑いのような安堵の顔で、撫子の身体を柊吾の方へ向かせた。
泉の畔の辺りを歩く柊吾へ、撫子の目が向いた時――突然の異変が、訪れた。
「! 雨宮さん!?」
「きゃっ……!」
撫子が、拓海と七瀬を突き飛ばしたのだ。
途端に、撫子の目の焦点が暈けていく。拓海達の姿が再び見えなくなったのだと、直感で柊吾は理解した。
「雨宮……どこに、行くんだ」
柊吾は歩みをやめずに、ただ訊いた。
目が『見えない』撫子は、返事をしないかと思われた。
だが撫子は、唐突に柊吾を振り返った。
そして――小さな、笑い声を立てたのだ。
「ひみつ」
血濡れの唇が細い声を紡ぎ出し、撫子が柊吾の目の前を横切っていく。酷い切られ方をした髪が、艶やかに月光を弾いてたなびいた。羽織られた拓海の学ランが、外套のようにぞろりと揺れる。
「雨宮。……待てよ」
柊吾は、その後を追った。一歩一歩が痛む足で、全身にピアノ線を張り巡らされたような抵抗と生々しい熱を引き摺りながら、ざぶざぶと泉を進んでいく。
どこにも、行かせる気はなかった。まだ、柊吾は何も言えていない。撫子に言わせるばかりで、こちらの返事が終わっていない。だから、無心に追いかけた。
泉へ靴ごと踏み込み、ズボンの裾を濡らしながら、こんなにも身が切れるような冷たさの中へ七瀬は全身を浸からせたのかと、少し心配になって降り返った。
七瀬は、柊吾を追いかけてか泉に入ろうとした所だった。その胴体を拓海が必死に抱き留めていて、柊吾の耳には、綺麗な唄が聞こえてくる。
「鬼さん、こちら、手の鳴る、方へ……」
――撫子が、唄っているのだ。
透き通るような、声だった。風鈴のように澄んだ音が、頭蓋の奥で凛と響く。手拍子を取って笑う目は、吃驚するほど妖艶だった。まるで狐にでも憑りつかれたかのように、細められた目が弧を描く。唇の赤が、ぬらりと光った。
「……」
柊吾は、立ち止まった。
撫子は、こんな嗤い方はしない。
「……。誰だ?」
意図せず口から漏れ出た言葉に、拓海の顔が青ざめた。
「三浦! これを使ってくれ!」
拓海はズボンのポケットから何かを取り出し、こちらへ向かって投げてきた。
柊吾の手はそれを掴めず、二の腕に当たったそれは、泉へぼちゃんと水没した。
青白く光る水面へ目を凝らし、柊吾は月光の反射に目を眇める。
――黒い定期ケースが、浅い水底に見えた。
「中に、『鏡』が入ってるんだ!」
拓海が、声を張り上げた。
七瀬が、「えっ?」と叫ぶのを聞きながら、柊吾もまた瞠目した。
「『鏡』……っ?」
記憶が、一年前へと遡る。
粗目糖のような鏡の破片が、銀の粒子となって瞬いた。
「篠田さんの『鏡』の事件で、粉々になった『鏡』の欠片だ! ほとんどは神社で供養して引き取られたけど、一かけらだけ俺が持ってたんだ! さっき雨宮さんの目に俺が『見えた』のは、多分その『鏡』のおかげだ! 三浦! それを使ってくれ! それさえ持ってれば、雨宮さんに、声が、届く……!」
「使えって、言ったって……くそっ、無茶、言いやがって……!」
こちらは、歩くだけで精一杯なのだ。だが柊吾なら出来ると信じて疑っていない在り様は、悪い気はしなかった。柊吾はもう一度、黒い水面へ目を凝らす。
水底に沈む定期ケースが、淡い光を放ち出す。
霊験あらたかな『鏡』に、柊吾が手で触れずとも――変化は、既に起こっていた。
霧のように白い光が泉全体へ染み渡り、微かな燐光が火の粉のように、水面から浮かび上がる。空へと昇っていく光に、柊吾は花の影を見た気がした。
ナデシコの花だ。学校で柊吾の行く先を導いた、あの花と同じ匂いがする。
下駄の音を、耳が拾う。空を映す水面の『鏡』へ、山伏の影が揺らめいた。
「……」
全て、幻想かもしれない。夢も現も分からなかった。
ただ、思ったのだ。自分は今、何らかの助けを受けたのだ、と。
真実でも虚構でも、どちらでも構わなかった。
柊吾はそれが当たり前であるかのように、見たもの、感じたものを受け入れた。
「……みうらくん?」
名を呼ばれて、柊吾は顔を上げた。
――撫子が、泉の中央で立ち止まっていた。
先程のような、妖しげな雰囲気が消えている。目には、素朴な驚きが浮かんでいた。まるで赤子に戻ったかのような無垢な目で柊吾を見つめ、目から、透明な涙が零れていく。
ああ、と柊吾は息をついた。
遠い昔、母の手を握った時のような、穏やかな安堵が胸へ緩やかに広がった。
……撫子が、やっと柊吾を『見て』くれた。
「雨宮。……お前に、伝えたいことが、あるんだ」
柊吾は、身体を引き摺って歩いた。
水面に揺れる月光が、白い光を反射している。聖なる『鏡』を沈めた泉は幽玄の美を湛えながら、ただただ静謐に澄んでいる。清浄な空気がいつしか身体の痛みを和らげて、柊吾の足は、自然な足取りを取り戻す。
そして、柊吾は撫子の前へ立った。
撫子が、怯えを露わに逃げようとする。
その腕を、柊吾は掴んで引き寄せた。
すると、撫子の手から何かが落ちて、水面を強く打った。
水飛沫が顔を叩き、柊吾は水底へ目を向ける。
そして、僅かにだが驚いた。
同時に、腑に落ちるものも感じていた。
足元へ、沈んだのは――錐のように細く鋭い、包丁だった。
「分からないの、三浦くん。ごめんなさい、分からないの……」
撫子が、柊吾を見上げて震えている。秘密が見つかってしまった子供のような怯えの目で、柊吾の目だけを見つめている。
互いの間に落ちたものへは、目を向けることさえしていない。
――気づいていないのかも、しれなかった。
「私は三浦くんが『見えない』のに、どうして……? 七瀬ちゃんと坂上くんが、戻れるって言ってくれたから……? 分からないの、三浦くん、分からないの……」
撫子は混乱しているようだった。しきりに分からないと繰り返しながら、泣き顔を両手で隠そうとする。
そんなことは、しなくていい。
柊吾は手に力を込めて、掴んだ腕を、開かせた。
「来ないで。離して」
撫子は泣きながら、柊吾を振り解こうと抵抗した。
弱々しい動きだった。もう、先程のような力は残っていない。あんなにも暴力的で、荒々しくて、撫子のものでありながら、撫子のものでない感情は、凪いだ海のように落ち着いている。
――やっぱり、柊吾の知る撫子だ。
「やめて、私は、三浦くんに何をするか、分からな」
「お前になら」
柊吾は、最後まで聞かなかった。
「何をされてもいい」
血濡れの唇に唇を押し付けると、鉄錆と土と、伝った涙の味がした。七瀬の怪我を思い出して、舌を噛み切られるかもしれない、と頭の端で考えた。一瞬でもそんな事を考えたのが、我ながら馬鹿馬鹿しかった。
撫子の息遣いが、乱れていく。涙の熱が、頬に伝わる。腕を回した小さな身体は、硬く強張って震えていた。撫子は、本当に怖がりだ。
初めて唇を重ねた時も、思い返せばそうだった。
撫子は、怯えて泣いてしまった。泣かれた柊吾は、しばらく立ち直れなかった。
初めて手を繋いだ時は、二人とも学校から家に帰りつくまで、一言も口を利けなかった。
初めて抱き合った時は、離れるタイミングが分からなかった。
離れたくないと、思った。
時が止まれば、いいと思った。
永遠になれば、いいと思った。
今も、そう思っている。
「お前にも、分かってるはずだ」
唇を離し、吐息が触れ合うほど近い距離で、柊吾は言った。
「お前は、俺を知ってるはずだ」
驚きで見開かれた琥珀色の双眸に、柊吾の顔が映っている。
今なら、声が届く。想いも、魂も、全て。
もっと早く、はっきりと言うべきだった言葉。
四年の歳月をかけてようやく、柊吾はそれを口にした。
「俺も、好きだ。四年前から、好きだった」
ふら、と撫子の身体が傾いだ。
羽のような軽さで、華奢な身体が倒れていく。
柊吾は撫子を抱き留めながら、「雨宮」と小声で呼びかけた。
撫子は、返事をしなかった。
ただ閉じられていた瞳をもう一度開いて、柊吾を見て、こくりと一つ、頷いた。
――安堵で、膝から崩れ落ちそうになる。
撫子が、帰ってきた。拓海と七瀬が信じたように、そして柊吾も信じたように、撫子がここへ帰ってきた。
これで、全てが終わったのだ。
ほっと気が緩み、虚脱感で眩暈を覚えた、その時だった。
一つの終焉の訪れが――幕引きの使者を、惨劇の舞台へ上がらせた。
「……不様ね」
不遜な声だった。だが凛とした響きの声には、常のような棘がない。柊吾の知る少女と全く異なる別人が、鬼になりすましているかのようだった。
だが、疑うべくもない。
紛れもなく、本人だ。
「……」
柊吾は振り返り、元凶の少女を睨めつけた。
泉からほど近い、小さな襤褸屋の縁側に――和装の少女が、立っている。
――呉野氷花だった。
白い着物に緋袴を合わせた氷花は、冷風の吹き込む縁側で背筋を伸ばし、長い黒髪を手で払いもせずに、風に嬲られるに任せている。
顎の引かれた白い顔には、僅かな侮蔑の色があった。
袴塚市の花の切り取り事件から、行方をくらましていた呉野氷花。
全ての鍵を握る異能の少女が、花が、鬼が、ついに柊吾達の前へ現れたのだ。
「……」
氷花は無感動な眼差しで、鎮守の森を見回した。
小道に転がる陽一郎へ目を向け、座り込む美也子に眉を顰め、泉の畔に立つ七瀬と拓海を流し目で見る。
最後に視線が柊吾と撫子へ戻ってくると、その時初めて面白そうに、「ふぅん?」と氷花は薄ら笑った。
「……その女、生きてるってわけ。残念だわ。風見美也子が始末してくれるなら、私としては願ったり叶ったりだったのに。みいちゃんってば本当に、愚図で愚鈍で使えない女ね。そんな体たらくだから苛められるのよ? 仮にも女なら、要領の良さを学びなさいな。集団生活の中で生き抜けない女なんて、人間ですらないのよ? お馬鹿なみいちゃんは知らないのかしら? 四年経っても目障りで汚くて厭な女、風見美也子。貴女なんて社会のゴミよ。さっさと消えて居なくなって」
「お前はっ……!」
聞き捨てならない言葉の羅列に、身体中の血が沸き立った。
許せないと、感じたのだ。言われた相手が、たとえ美也子であってもだ。
気色ばむ柊吾と対照的に、氷花は冷めた目つきにすぐ戻った。
「……?」
違和感を覚え、柊吾は息を詰める。
氷花の視線が、異様なまでに冷徹だったからだ。
先ほど己が言った「面白い」という台詞とは対照的に、瞳には無慈悲なまでの無関心が透けて見える。
普段の氷花とは、様子が違った。
そしてどこが違うのか、柊吾はすぐに思い至った。
――氷花が、笑っていないのだ。
柊吾達は美也子の〝アソビ〟に翻弄されて、その果てに撫子は〝言霊〟の霊威に呑み込まれた。メンバーの半数が、その過程で負傷している。
そんな柊吾達の体たらくを、氷花は嘲笑しなかった。
あの呉野氷花が、だ。
「氷花ちゃん……? 今、私のこと愚図って言った?」
美也子が、へたり込んだまま氷花へ訊いた。
柊吾は振り返り、美也子の顔に笑みが貼り付いてるのに気づく。
「なんで……」
口をついて、疑問が出た。何故笑っているのだと、純粋に不思議に思った自分がいた。同時に、怒りを覚えた自分もいて、笑みを気味悪く思う自分もいた。
だが様々な想いと笑みの齟齬への違和感を、色違いの花のように抱きながら、納得している自分もいた。
美也子は――氷花の事も、〝アソビ〟に加えていたからだ。
そして拓海は、柊吾達が〝アソビ〟に巻き込まれた理由を、確かこう推理した。
この〝アソビ〟が始まった理由は――友達と、遊びたいからだ、と。
だとするなら、この笑みの理由は『嬉しさ』だ。
友達に会えて嬉しいから、これから一緒に遊べるから、美也子は嬉しくて笑っている。
だが、そんな『嬉しさ』を顔に浮かべ、差し伸べた手のひらへ――『友達』は、悪意のナイフで返してきた。
手の肉に抉り込んだその痛みに、反応がまるで追いつかずに――美也子は、固ってしまっている。
「……」
柊吾には、かける言葉がなかった。
分かってしまったからだ。理屈ではなく魂で、美也子の心の内側が。
――美也子は今、氷花の言葉で傷ついたのだ。
「ええ、言ったわ」
氷花は、悪びれる風もなく答えた。
青い光が、清らかな衣裳と艶やかな髪を、夜露のように飾った。
「どうして?」
「貴女は、私に気付かなかったわ。装いを変えた、それだけで。……貴女、本当は他人に興味なんて欠片もないのよ。そんな女を、愚図で愚鈍と言わずに何と言うの?」
「え……?」
「もう忘れた、ってことかしら」
氷花は、鼻を鳴らした。
「やっぱりつまらないわね、貴女って。失敗したわ。こんなにつまらない事になるって分かってたら、最初から佐々木和音ひと筋で行くべきだったわ。ああ、興醒めだわ。莫迦らしい」
「氷花ちゃん……? 何言ってるのか、分からないよ……」
美也子は困惑した様子で、笑った。
柊吾は、胸騒ぎに似た刺々しさが、体内に蟠るのを感じた。今度ははっきりとした本心で、疑問が怒りと混じり合い、柊吾の胸中で熱を持つ。
七瀬も、同じ怒りを持ったようだ。唇を結び、氷花を睨んでいる。
拓海も、痛々しげに美也子を見ていた。
遠くの方では陽一郎も、辛そうな目で泣いていた。
「風見……」
何故ここまでされて、美也子は笑うのだ。
まるで虎の威を借る狐のように、美也子は阿諛追従して笑っている。なけなしの協調性を身体中から振り絞るようにして、痛みに蓋をして笑っている。
へつらう理由など、ないはずだ。これほどあからさまに、馬鹿にされているのだ。言い返せばいい。怒ればいい。抵抗すればいいのだ。柊吾達が今まで氷花に向かって、抗い続けたのと同じように。
なのに、美也子はそれをしないのだ。
美也子だけは、戦わない。
氷花と、戦おうとしない。
――それともこれが、美也子の戦い方なのだろうか。
柊吾が受け身だと思ったこのやり方は、美也子なりの抗戦なのだろうか。
美也子はこんな風にして、血の涙を流しながら、それを笑顔の仮面で隠してきたのだろうか。そうやって必死に、美也子なりに生きてきたのだろうか。
この土壇場になって剥き出しになった、美也子という人間の本質。
そのあまりの脆さと危うさに、誰もが口を噤んでしまう。
「……」
美也子の痛々しい戦い方を、氷花は値踏みするような目で見ていた。
その沈黙を許しと受け取ったのか、美也子は幼児のようにあどけなく微笑むと、氷花へ手を差し伸べた。
「氷花ちゃん。一緒に、あそぼ?」
泉を挟んで対峙する二人の間に、沈黙が降りる。
神社の娘であり呪われた異能の申し子は、その時初めて、本来の性を露わにした。
――悪辣に、笑ったのだ。
「――――『絶対に、嫌よ!』」
空気が激しく掻き混ぜられ、おおん、と獣の咆哮のように風が唸った。
「きゃ……!」
七瀬が悲鳴を上げ、拓海も何事かを叫んだ。柊吾も撫子を抱きしめ直すと、突風に乱された水面が波打ち、月光の波紋が弾け、飛沫が飛び魚のように宙を跳ねた。枯葉が、青色の世界で荒れ狂う。
「――『だぁぁれが! こんなゴミ同然の〝アソビ〟なんかに付き合ってやるもんですか! 『氷鬼』? なあにそれ! みいちゃんったら可哀想! お馬鹿なみいちゃんにはこれが小学生の遊びだって分からないのね! 私はね、十五歳よ! こんな手垢のついた遊びなんて、御布施を貰ったってやらないわ! あははははっ! 可笑しい! 可笑しい! 傑作だわ! 三浦君達も親切ね! わざわざ付き合ってあげるんだもの! 拒否しちゃえばいいじゃない! 嫌なら嫌って言えばいいのよ! 私だったらそうするわ! 雁首揃えて莫迦ばっかり! あははははっ、あははははっ、あははははははっ……!』
目を眇めて暴風に耐えた柊吾は、霞む視界に立ち上がる美也子の姿を見た。
美也子の顔は、真っ白になっていた。一切の虚勢も鎧も全て取り払った生身の少女が、絶望に身を裂かれながら、ふらりと歩みを進めていく。
そして突然、気が触れたような勢いで走り出した。
泉の畔を駆け抜け、襤褸屋の玄関先を抜け、庭へ踏み込み、縁側へと跳んで――美也子は氷花へ掴みかかり、押し倒した。
だが、何も起きなかった。
氷花は何事もなかったかのように上体を起こすと、愕然と顔を引き攣らせる美也子を嫌そうに見る。
そして「退きなさいよ、ゴミ」と吐き捨てると、馬乗りになる美也子を、白足袋を履いた足で蹴飛ばした。
美也子が、縁側から転がり落ちる。そして呉野和泉が昨日火を熾していた庭へ、尻餅をついて倒れ込んだ。
氷花が埃を叩いて立ち上がり、傲然と美也子を見下ろした。
嗜虐的に歪む美貌を、凄絶なまでに青い光が照らし上げる。
「まだ分からないみたいね。いい? お馬鹿なみいちゃん。三度目の言葉をかけてあげる。この〝アソビ〟を終わらせる言葉、私が言ってあげるわ」
「――呉野おぉぉぉっ……!」
柊吾は腹の底から咆哮すると、撫子を抱えたまま水底を蹴って駆け出した。
敵も味方も関係なかった。今の氷花の〝言挙げ〟で、怒りが脳髄を焼き切った。
新たな飛沫が上がり、白々と輝く水面の静寂が乱れた。
泉の端まで、走ったが――そこで、時間切れだった。
一人の少女を、殺す言葉。
悪意の乗った〝言霊〟を、氷花は易々と、空に放った。
「――『私は『人間』だもの。不潔な『ばい菌』とは遊べないわ』」
美也子は、ふっつりと糸が切れたように倒れ込んだ。
呼吸を止めて、そのまま本当に息絶えたかのように微動だにしない姿に、場の全員も息を忘れた。
「おい……風見……?」
何とか柊吾が声をかけたが、美也子はこちらに背を向けて倒れたまま、ぴくりとも動かない。
その様を睥睨する氷花が、「大げさね」と嘲り笑った時だった。
柊吾の腕の中で、脈動する気配があった。
「……くれの……ひょうか……」
ぐぐ、と柊吾の腕が強く掴まれる。柊吾は、はっと見下ろした。
――撫子が、目覚めていた。
かっと瞳は見開かれ、瞳孔も開き始めている。猫のように丸い目に、敵愾心が爛々と赤く燃え盛る。
熾火のように燻り出した殺意の波動に、氷花もすぐさま気が付いた。
「ひっ」と息を呑んで腰を抜かし、床に尻をつけたまま後ずさっている。
そして、餌を待つ雛鳥のような姦しさで、「何見てんのよ! 早くここから消えなさいよ! 私がいなかったら一生キチガイと遊んでる愚かで悲しいあんた達の為に、わざわざ出張ってあげたのよ!? 分かったらそこの化け物を連れて、さっさと森から出てって頂戴! ほら、早く帰って! 帰りなさいよ!」と捲し立てると、氷花は風のように身を翻し、襤褸屋の奥へと引っ込んでいった。
それと入れ替わるようにして、別の少女の声が聞こえてきた。
「七瀬ちゃん、撫子ちゃん……!」
和音と毬が、森の小道を走ってきた。
和音は息を切らせていて、その和音に肩を貸している毬の顔は蒼白だ。
同じ制服を着た二人の少女は、柊吾達それぞれの立ち姿に驚愕し、そして同時に表情を凍らせた。
「ミヤちゃん……」
毬が、名を呼んで立ち竦んだ。
和音も、蝋のように白い顔で、一人の少女を凝視している。
その視線の、先には――涎を垂らし、濁った目で遠くを見ながら、何事かをぶつぶつと念仏のように呟いている、風見美也子の姿があった。
「私は、『ばい菌』じゃない。私は、『ばい菌』じゃない。私は、『ばい菌』じゃない……紺野ちゃん、違うって言ってよ……会いたいよ……」
妄執の名残が、切々と山へ響き渡る。
全員が、総毛だった。
もう、何も言えなかった。
「……」
柊吾は、鎮守の森を一望する。
集まった中学生は、八人。
血だらけの撫子。その撫子を支える柊吾。
氷花を追い駆けようとする七瀬。その七瀬を止める拓海。
身体を起し、不思議そうに己の手を見る陽一郎。
顔から血の気が失せた毬に、立ち尽くす和音。
――そして、〝鬼〟の美也子。
この場を去った氷花を入れれば、その人数は、九人になる。
その内、美也子の〝アソビ〟に参加させられていた者は、鬼を含めれば七人。
もう一人を、交えたなら……その人数は、八人だ。
――〝アソビ〟は、終わった。
日は暮れて、子らは親の元へと帰り、鬼の少女も、人に戻る。
それでも、少女は現れなかった。
美也子が〝アソビ〟に誘ったという、死者の少女は、現れない。
「……」
和音が、枯葉を踏みしめて歩き出した。
俯いたまま歩く姿は、まるで葬送の行進のようだった。暗く沈んだ表情が、何かを雄弁に訴えている。血に濡れた顔の片側で、瞳が強い意志を放っていた。
全員の目が、自然と和音に集中した。
その視線を振り切るように歩いた和音は、やがて座り込んでいる陽一郎の傍で足を止める。しゃがんで伸ばされた手の平が、黒い冊子を拾い上げた。
――紺野沙菜の、遺書だった。
「……」
和音は遺書に付いた土を、無言で叩く。
もういない少女の言葉を胸に抱いて、和音は睫毛を伏せて、瞳を閉じた。
まるで黙祷のようなその様子を、柊吾達は、黙って見ていた。
「生きてる人間は……死んだ人間とは、遊べない」
拓海が、静かな口調で言った。
散り散りに千切られた魂の断片を拾うように。あるいは、想いの最期を看取るように。炎に巻かれた風車の、生まれ変わる先を見るように。
「もう、二度と、遊べないんだ」
〝言霊〟を巡る狂乱の遊戯は、こうして、最悪の終わりを迎えた。




