花一匁 72
撫子ちゃんが、目覚めてくれた。
そして、私のことを見てくれた。
だから、私は嬉しくなった。
だって今まで撫子ちゃんは、私の目を見なかった。私がどんなに撫子ちゃんを見つめても、視線はずっと交わらない。想いはいつだって一方通行でしかなくて、撫子ちゃんは私のことを避けていた。
私のことが、嫌いだからだ。
でも、それは撫子ちゃんの誤解なのだ。当時の私達の間には、言葉があまりに足りなかった。四年という歳月が、さらに私達の絆を希薄にした。
失った時間は戻らない。けれど四年の空白は埋められる。
たくさん言葉を交わし合って、撫子ちゃんに私のことを知ってもらって、私も撫子ちゃんのことをもっと知って、私達は一つになる。
それを夢見て、走った私は――撫子ちゃんに、拒絶された。
「どうして……?」
私は馬鹿みたいに茫然として、頬にぺたりと手で触れた。
じわ、と悍ましい痛みが電気みたいに熱く走った。
……引っ掻き傷だ。
和音ちゃんに、額を切られた所為じゃない。三浦君に、頬を殴られた所為でもない。
目の前にいる女の子から、爪で引っ掻かれて怪我をした。
「かざみ、みやこ」
美しい声に名を呼ばれて、私はへたり込んだまま顔を上げた。
頭上からは透明な月光が、霧みたいに降っている。
清冽なその光を全身に浴びた撫子ちゃんは、怖いくらいに綺麗だった。
着ている制服はぼろぼろなのに、白い肌は怪我まみれなのに、汚い『赤色』に染まったのに、瞳孔の開いた瞳は冴え冴えと青く澄んでいて、私をひたと見つめていた。
――美しかった。今までに見た、どんな撫子ちゃんよりも。
人も、鬼も、神様だって、この美しさには及ばない。そんな風に誰かに対して思うのは、今日で二度目のことだった。一度目に誰にそんな印象を持ったのかは、もう私には思い出せない。
ただ、私はこの撫子ちゃんの美しさに、激しい衝撃を受けていた。
どうして? どうして撫子ちゃんは綺麗なの?
私は、撫子ちゃんを穢したのに。恋した男の子のことなんて忘れさせてあげるくらいに、『ばい菌』をたくさん、たくさん、眩暈がしそうなほど付けたのに。
なのに、撫子ちゃんは綺麗なのだ。
どんなに私が穢しても、赤い色に染まっても、白い妖精じゃなくなっても、撫子ちゃんは変わらない。私にとって誰より綺麗な存在で、一人の『人間』の少女なのだ。
――そう、『人間』なのだ。
私の歯の根が合わなくなって、かちかちと硬い音がした。
この撫子ちゃんは、妖精じゃない。何だか、とても怖いのだ。まるで教室の隅で囁かれた陰口をうっかり聞いてしまった時のような、ざわざわとした嫌な悪寒。そんな悪寒が波紋になって、撫子ちゃんから届くのだ。水面ではなく空気を直接震わせて、ひしひし、ひしひし、届くのだ。
「――やめろっ! 雨宮あああぁぁぁぁぁっ!」
三浦君が叫ぶのが、遠い世界の出来事みたいに聞こえてくる。音は水中に潜ったみたいにくぐもっていて不明瞭で、私は何だかぼんやりしながら、撫子ちゃんの右手を見た。青色の鋏が、握られている。
ああ、私、死ぬのかな。そう考えたら少しだけ、気持ちが落ち着いて嬉しくなった。
私は、撫子ちゃんに殺されるのだ。私達はこれから地獄に行くけれど、その道先案内人は、撫子ちゃんが務めてくれる。
なんて素晴らしい最期だろう。私は何だか安心して、くたくたになって笑った。
「撫子ちゃん。来て」
両手を広げて、私は撫子ちゃんへ身を委ねた。
「撫子ちゃんになら、私、殺されてもいいよ……」
けれど、神様はやっぱり無慈悲だった。
私に味方をしてくれても、最後にはいつも見放される。四年前もそうだった。
ナデシコの花の首が落ちた、私達の遊びの終わりの日。
あの日と変わらない拒絶の言葉が、私の魂を引き裂いた。
「きらい」
「え?」
「わたしは、美也子が、だいきらい」
この場にいる全員が、息を呑むのが聞こえた。
三浦君も、陽一郎も、髪をサイドで結った女の子も、学ランの男の子も、誰もが撫子ちゃんの言葉に絶句している。声にならない驚愕を、私は他人事のように聞いていた。
頭を鈍器で殴られたような衝撃が、遅れて私に襲いかかった。
――だいきらい?
「美也子が、きらい。わたしは、美也子がだいきらい」
何度も、撫子ちゃんは言った。
透き通るような声だった。風に揺れる風鈴のような、凛と綺麗な声だった。耳に心地いいその声は、一切の聞き間違いを許さずに、私の耳朶へ突き刺さる。
私は、叫ぼうとした。惨めさを振り切って、泣きたい気持ちを我慢して、ありのままの私の心で、全身全霊で叫ぼうとした。知ってるよ、って叫ぼうとした。
撫子ちゃんが私を嫌いなことくらい、四年前から知ってるよ、って。
でも、私はそれを叫べなかった。
――叫べば、死ぬと分かっていた。
「美也子からいっしょに遊ぼうって言われた時、私は困るって思った。美也子は私にしか興味がなかった。私の友達は邪魔だって思ってた。隠してたみたいだけど、私には分かりやすかった。紺野さんも、気づいてた。顔を見ただけで分かってた。だから私は、困るって思った。美也子に好かれて、困るって思った。私の友達をだいじにしてくれない美也子とは、たのしくなんて遊べない」
撫子ちゃんの声は止まらなかった。堰を切ったように溢れ出した本当の心の奔流が、私を呑み込んで沈めていく。このまま溺れ死ねるなら、一体どれだけ楽だろう。痛みの泡に喉を塞がれ、顔を鬱血させながら、絶望の水底で私は思った。
でも、楽には死ねなかった。
撫子ちゃんを鋏で苛め抜いた私が、楽に死ねるわけがなかった。
「美也子は紺野さんをいじめてた。いじめてたのは美也子だけじゃなかったけど、私は美也子がいちばんこわかった。美也子だけは、自分のしてることを正しいって信じてる顔してた。私はそれがこわかった。美也子は人のことを『ばい菌』だって思ってる。人間だと思ってない。美也子はクラスメイトを汚がるのに、私だけは、贔屓してる。美也子はどうしてそんなに、私のことが好きなの?」
表情がほとんど読めない顔で、撫子ちゃんは小首を傾げた。
「私は、だいきらいなのに」
全員が、今度こそ背筋を凍らせたのが分かった。
「う……うう、ううう……ぁぁああああ!」
私は、出鱈目な声を張り上げて泣き出した。
今すぐ死んでしまいたかった。生きている意味なんて一つもない。殺してほしい。誰でもいいから。もう撫子ちゃんでなくても構わないから。
私は、撫子ちゃんに嫌われている。そんなことくらい分かっていた。
でも、だからって。こんなにも辛くて悲しくて、目を逸らせるものなら逸らし続けていたかった現実を、よりにもよって撫子ちゃん本人から、面と向かって言われたのは――――今が、初めてのことだった。
「私は、美也子のことがきらい。美也子は、私の友達じゃない。美也子は――私の、敵」
撫子ちゃんは、やめてくれなかった。追い打ちをかけるように、真綿で首を絞めるように、あるいは鉈を振るうように、私の息の根を止めていく。
私は、抵抗できなかった。耳を塞ぐことも目を閉じることもできないまま、撫子ちゃんの惨い言葉を、月光と一緒に浴び続けた。
「美也子は、私のだいじなものを全部うばう。私の世界を、壊してしまう。美也子がいたら、私は生きていけなくなる。……だから。私の生活に、美也子はいらない。いなくなって。美也子。私の前から、いなくなって」
三浦君が、何かを必死に叫んでいる。でも一体何を叫んでいるのか、私には言葉の形が分からない。涙で滲んだ景色みたいに、声の形もぐにゃぐにゃだ。目も鼻も熱っぽくて、視界は靄がかかったみたいに暈けていて、撫子ちゃんの顔だけが、透き通るほどクリアに見える。
撫子ちゃんは、私の顔を見つめていた。今まで隠してきた感情の内臓を晒しながら、情なんて欠片もないような目で、私を冷然と見つめていた。
黒いタールみたいな諦念が、私の心を喰い尽くした。
私達の間には、決して埋まらない隔たりがあった。私が〝鬼〟に身を窶しても、この溝は越えられない。あとさらに四年をかけても、もっと長い時間をかけても、永遠に触れ合うことは出来ないのだ。
撫子ちゃんの目に、涙が薄く盛り上がった。
「美也子なんて、死んじゃえ」
その言葉を受け止めた時、私の魂は死んだ。
涙を涎のように流し続ける私の身体は自由が全然利かなくて、動きたくても動けない。動く気力も、失くしていた。
撫子ちゃんが、鋏を携えて歩いてくる。青い月光を薄絹のように纏いながら、夜露に濡れた下草を踏みしめて、一歩、二歩と歩いてくる。
美しかった。どれだけ拒絶されたって、何度でも私は思うのだ。
この清らかな存在に、巡り合えて良かった。
この子と仲良くなりたくて、私は友達を利用した。
……でも、その子はもういない。
私が撫子ちゃんに拒絶されても、慰めてくれる友達はどこにもいない。
……もう、死んでしまったからだ。
私は、泣き笑いの顔になった。
「紺野ちゃんが死んだ時に、私も、一緒に死にたかった……」
未練を絞り出した私の頭上へ、青色の鋏が迫った時――二人分の人影が、私の前へ躍り出た。
 




