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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 71

 柊吾を追って森に入った七瀬は、状況をかなり正確に理解していた。

 泣き叫ぶ柊吾。その柊吾が殴り飛ばした美也子。そして、美也子がさっきまで蹲っていた場所に倒れ、柊吾に抱き起された少女――撫子の姿を見つけた途端、七瀬は腰を抜かしてへたり込んだ。

 間に合わなかった。その時にはそう思った。心が鋏で切り刻まれたようにばらばらになっていき、群青の空へ巻き上げられそうになってしまう。

 だが七瀬は、意思の力でそれを止めた。

 間に合わなかったのではない。間に合ったのだ。撫子は気を失ったようだが、外傷は見る限り命に関わるものではない。心の傷は、七瀬達が全力で癒せばいい。それをさせてもらう為の時間は、これから存分に作っていける。

 ここで生き伸びることさえできれば、七瀬達は撫子を救えるのだ。

 だから、七瀬は立ち上がった。

 だから、同じように柊吾にも立ち上がってもらう為に叱咤した。

 だから、柊吾が殺意に呑み込まれずに、きちんと自分を取り戻してくれたのが嬉しくて――油断を、許してしまったのだ。

 だが、同時に信じられない思いだった。柊吾が美也子を殴ったところを七瀬も走りながら見ていたのだ。

 容赦のない殴り方だった。歯の一本は折れていてもおかしくない。痛覚の欠如を感じさせる美也子の常軌を逸した立ち姿に、七瀬の肌が粟立った。

 この少女は、七瀬の手には負えない。

 感覚でそれを理解しながら、それでも七瀬は、美也子に手を上げてしまった。

「……あなた、だあれ?」

 三度にわたって地面に倒れ伏した美也子は、立ち上がるなりそう言った。

 顔からは笑みが消えていて、眼光は夜空を映す泉のように、昏く澱んで底がない。怖気が電流のように背筋を駆けたが、本能の鳴らす警鐘を無視して、七瀬も美也子を見返した。

「何回名乗らせる気? グラウンドで会ったでしょ?」

「……。撫子ちゃんのこと、好き?」

「好き。大好き。愛してる」

 大声で言ってやると、案の定美也子の顔には動揺と、それをも超える怒りが滾った。

「篠田やめろ! 挑発すんな……!」

 少し離れた所から、柊吾が必死の声で諌めてくる。これではさっきと立場が逆だ。

 だが柊吾はどんなに七瀬の身を案じても、『逃げろ』とだけは言わなかった。

 きっと柊吾にも分かっているのだ。もしここで七瀬が逃げたら、撫子が再び無防備になる。『動けない』柊吾には、美也子の残虐行為を止められない。

 だから、七瀬を逃がさないのだ。逃がしたくても、逃がせないのだ。

 頼りになるのは、己だけ。七瀬は、唾を呑み込んだ。

「来なよ、風見さん。こっちに来たら、私が捕まえてあげるから」

 ただの挑発の文句ではない。本気で七瀬はそう言った。

 勝機なら充分にあるのだ。小学生のような取っ組み合いをして勝てばいい。たとえ触られたとしても、七瀬なら身体が『凍る』ことはない――。

 そう強気に構えた途端、七瀬は度肝を抜かれて絶叫した。

「ちょっと! なんで来たの!」

 見えたのだ。神社の境内の方角から、学ランの少年が走ってくる。

 拓海だった。

 ただし拓海一人なら、七瀬も動揺しなかった。

 問題は、拓海の背後からやって来たもう一人――ブレザー姿の男子の方だ。

「坂上くん! 来ないで! 後ろ! 後ろ止めて!」

 七瀬は慌てて叫んだが、それは完全に逆効果だった。背後を振り向いた美也子もその人物を見つけてしまい、まずいと気付いた時には遅かった。

 美也子は獰猛に目を光らせると、新たな得物目掛けて突進した。

「! 風見さん……!」

 拓海は、驚愕の顔で足を止めた。七瀬を見て、その足元に眠る撫子を見て、その少し離れた先で膝立ちのまま『動けない』柊吾を見て、最後に自分へ向かってくる美也子の形相を見て、表情が恐怖に引き攣る。その怯えをすぐに切り替えた拓海が、ばっと両手を広げて通せんぼした。

「違う!」

 七瀬は頭を抱えた。意味が全然通じていない。

「坂上くん! 早く! 早く後ろ見て――――っ!」

「へっ? 後ろっ?」

 弾かれたように振り返った拓海もまた、仰天の叫びを張り上げた。

「日比谷! なんでっ! 来ちゃ駄目だって言ったじゃん!」

「だ、だって! 言いたいことが、あるからっ……!」

 拓海の後方を産まれたての小鹿のような足取りで走ってきたのは、日比谷陽一郎だった。腕には三冊の本を抱えている。何やら拓海と騒いでいるが、内容なんてどうでもいい。

「もう! ばかっ!」

 罵倒しながら、七瀬は二人の元へ急行したが――いくらなんでも、間に合うわけがなかった。

「うわ!」

 拓海の横を美也子が猛然と駆けていき、軌跡に枯葉と小枝を蹴散らしながら、陽一郎へ飛びかかった。

「陽一郎! みぃつけたあーっ!」

 正面から美也子にぶつかられ、陽一郎がひっくり返った。「うわあ!」と気の抜けた悲鳴と共に、三冊の本がその場へばさばさと落ちていく。激しいやるせなさに襲われながら、七瀬は陽一郎を怒鳴りつけた。

「嘘でしょ!? なんで来たの、ねえっほんとになんで来たわけ!?」

「えっと、みんなに言いたいことが、どうしてもあって……」

 潰された蛙のように地面に伸びた陽一郎が、涙目でぼそぼそ言い訳した。あまりに無駄な犠牲を前に、拓海も魂が抜けたように突っ立っていたが、「……それは、何?」と惰性のように訊いている。

「えっと、まずはみいちゃんに、一昨日の電話、途中で切ってごめんねって、言いたくて……ほら、紺野さんが死んじゃったこと、教えちゃったの僕だし……」

「そんなの後でいいでしょーが! アホかぁーっ!」

 思わず柊吾の言い方がうつった七瀬が怒鳴ると、美也子がこちらを振り向いた。

 そして、にたぁ、と溶け崩れた蝋燭のように笑んできた。

「……『撫子ちゃんのことが好きな誰かさん』? ほら私、もうこんなに仕留めたよ? すごいでしょ? でも、あなたは仲間に入れてあげないよ?」

「頼まれたって、こんなくだらない〝アソビ〟なんか私はしない!」

 啖呵を切ると、美也子の形相が鬼のように変化した。

「な、何……っ」

 気圧された七瀬が後ずさると、拓海が顔色を変えた。

「篠田さん!」

 拓海は七瀬の元へ駆けつけると、残してきた美也子と陽一郎へ向き直る。

 そして先程と同じように、両腕を大きく広げて立ちはだかった。

「坂上くん? 日比谷くんはいいのっ?」

「日比谷も心配だけど、後ろの二人……三浦と雨宮さんよりはマシだ。とにかくここから先は、風見さんを通しちゃ駄目だ。……篠田さん。前を向いて。俺が今から言うことは、風見さんには気取られないようにするんだ」

 拓海の声が、潜められた。

「……犠牲者は、袴塚西中の三人。三浦、日比谷、雨宮さん。この三人が『動ける』ようになるには、他の〝アソビ〟メンバーに、触ってもらう必要がある」

 訥々と語られる声に耳を傾けながら、七瀬は顔を言われた通りに前へ向けた。美也子は倒れたままの陽一郎へ陽一郎の頬っぺたを、鋏でぺたぺた撫でている。

 しばらくは、時間が稼げるだろうか。思案する七瀬へ、拓海が短く断言した。

「でも、それは不可能だ」

「……どうして?」

 前方へ注意を向けたまま、七瀬は小声で訊き返した。美也子はその場を離れた拓海には、あまり関心がないようだ。そんな感情の変遷が、七瀬にはすぐ読み取れた。

 一緒に遊んでいる友達にしか、興味をきちんと示せない。自分の好きな人の顔だけしか、その瞳に映せない。美也子はきっとそんな少女だ。

「神社にいる残りの〝アソビ〟メンバーは……佐々木さんと、綱田さんだ。あの二人が風見さんを突破して、三浦と雨宮さんのいる所まで走るのは、不可能だ」

 七瀬は、唇を噛みしめた。厳密には不可能ではないはずだが、さすがに食い下がる気にもなれなかった。和音は負傷しているのだ。その代役に毬を立てるなど論外だ。

 二人に負担は、強いられない。

 命が、懸かってくるかもしれないのだ。

「でも、篠田さん。三人が『動けなく』なった状態でも、俺達は〝アソビ〟に絶対負けない」

「……その根拠は?」

「呉野さんだ」

 隣で必死に話す拓海は、今どんな顔をしているだろう。緊張感が空気を伝い、七瀬の身体に伝わってくる。拓海もまた怖いのだ。七瀬が今この〝アソビ〟を恐れているのと同じように、拓海もまた恐れに胸を掴まれている。

 それでも、戦おうとしているのだ。

 七瀬も拓海と同じように、通せんぼして腕を広げた。

 互いの指先が触れ合ったから、七瀬はその指を、握りしめた。

「学校でも、俺は言った。呉野さんも間違いなく、今回の〝アソビ〟参加者だ。その呉野さんが逃げてるんだ。……多分、居場所は、近いと思う。でも、雨宮さんがこうなったのに、音沙汰が全くなかったのを見ると……違ったのかもしれない。ごめん、自信がなくなった。本当にあの家に和泉さん達がいるのか、今の俺には分からない」

 拓海の声が、僅かに沈んだ。

「それでも、この〝アソビ〟の場から呉野さんは隠れてるんだ。たとえ〝アソビ〟メンバーが、ここで全滅したとしても……三浦達は、絶対負けない。この〝アソビ〟は、終わらない」

「終わらない、〝アソビ〟……」

 拓海が、七瀬の指を握り返した。

 その所作だけで、分かってしまう。望みを絶たれたような切なさが、七瀬の胸を苦しくした。

 ――拓海はまだ、見つけられていないのだ。

 この〝アソビ〟を、終わらせる為の方法を。

「三浦達は、〝アソビ〟には負けないかもしれない。でも、それだけじゃ駄目なんだ。こんな膠着状態を維持したまま、いつまでもここにはいられない。……篠田さん。俺達は絶対に、風見さんをここから先に通しちゃ駄目だ。三浦達はここで全滅しても、〝アソビ〟に負けることはない。風見さんより有利なんだ。……それを悟らせちゃ、絶対駄目だ。俺達は、弱い。絶体絶命の状態だ。敵には、そう思ってもらわないと駄目なんだ。もし俺達が有利に立ってるのが、風見さんに知られたら……風見さんは『動けない』三浦と雨宮さんに、何をするか、分からない……」

「……。坂上くん。ちょっと待って」

 言いつけを破り、七瀬は思わず拓海を見た。

 ――驚いて、いたからだ。

 だが、驚くのも筋違いだ。拓海は七瀬と柊吾よりも遅れてここへ着いたのだ。だから柊吾が何故『凍った』のか、そして撫子が何故今倒れているのか、その現場を見ていない。七瀬はそこに気付いてしまった。

 拓海の推理の、前提には――致命的な、誤りがある。

 七瀬がそれを、伝えようとした瞬間だった。

「あのっ、坂上君、聞いて!」

 地面に伸びたままの陽一郎が、突然情けない声で叫んだ。

「僕、佐々木さんに伝言を頼まれたんだ! 坂上君に、どうしても伝えてって! やっぱり坂上君は知っとかないと、困るかもしれないから、って!」

「俺に? 佐々木さんが……っ?」

 拓海の顔に、驚愕が浮かぶ。陽一郎の傍にしゃがんだ美也子は、級友が自分ではなく拓海に話しかけた所為だろう、不満げに唇を尖らせた。そんな非難の視線に震えながら、陽一郎が回らない首を傾けた。

「その本! 紺野さんの遺書なんだって!」

「えっ?」

 七瀬と拓海は、陽一郎の目線を辿った。

 茂みの中へ、三冊の本が落ちている。さっきも注意を引いた本だ。

 植物図鑑。『山椒大夫・高瀬舟』。陽一郎が、図書室から持ち出してしまった二冊の本。

 そして、残る一冊は――黒い文庫本のような、見覚えのない本だった。

「佐々木さんに、頼まれたんだ! さっきみいちゃんに襲われた時に、佐々木さんが言われた言葉を、坂上君に伝えて欲しいって! 推理の材料にして欲しいって! 撫子を、助けて欲しいって!」

 撫子、と陽一郎が口にした瞬間。美也子の笑みに罅が入った。

「みいちゃんはさっき佐々木さんと撫子に、 この〝アソビ〟の参加メンバーの名前を挙げていったんだって!」

 陽一郎は、尚も叫んだ。

「そのメンバーの名前は、佐々木さん! 綱田さん! 柊吾! 撫子! 僕!」

 美也子が、鋏を構え直した。

「呉野さんに、〝鬼〟のみいちゃん! あと、一人は――!」

 鋏が、陽一郎の喉へぴたりと向いた。

 陽一郎が、声を詰まらせて黙り込む。

 だが、臆したのは刹那だった。

 つっかえながらも最後まで、一緒に〝アソンデ〟いる友達の名を、陽一郎は告げた。


「紺野さん。……みいちゃんはこの〝アソビ〟に……もう死んじゃった人を、混ぜてる……」


 しょきん、と鋏が鳴った。

 噛み合わされた凶器が開かれ、閉じられ、また開く。

 月光を照り返す二つの刃の切っ先で、美也子が陽一郎の喉を撫でた。

「陽一郎? 紺野ちゃんは死んじゃったかもしれないけど、それって、そんなに重要なことかなあ……?」

 額からの流血で赤くなった美也子の顔に、不自然なほど清らかな微笑が浮かぶ。陽一郎は今度こそ、一切の言葉を呑み込んだ。

 だが、もう充分だった。

 情報は、拓海と七瀬へ届けられた。

「紺野さんも……〝アソビ〟に……?」

 新たに発覚した事実に、七瀬は茫然と立ち尽くす。

 和音が陽一郎を寄越してまで、拓海に伝えたかった真実の断片。

 その意味を考え、七瀬だけでは考え切れず、縋るように拓海を見た。

 そして、七瀬はびっくりした。

 拓海の顔が、切羽詰まったものへ変わっている。

「死者……? 三浦達は、死者を混ぜて遊んでる……? 嘘だ……それじゃあ、まさか……!」

「何? 何なの? 坂上くん! 死者が混じってたら何なの?」

「終わらない」

「えっ?」

「この〝アソビ〟、永遠に終わらない」

「そんな! どうして!」

「死者が混じってる所為だ!」

 拓海が、決死の形相で振り向いた。

「死んだ人間は、遊べない。生きてる人間とは、遊べない! そんなの当たり前だ! そんな人間を混ぜられたらっ、終わるものも終わらない!」

「待ってよ! そんなの……おかしいよ!」

「おかしくない! 紺野さんは、遊べないんだ!」

 食ってかかった拓海の権幕に、七瀬は反論できなかった。

 当然だった。真面目に考えるまでもないことだ。肉体を持たない死者が、今も生きている人間と一緒に遊ぶのは不可能だ。そんな可能性、七瀬は考えもしなかった。

 ――そもそも、考えつくわけがないのだ。

 普通の人間は、そんな風には考えない。

 死者を巻き込んでまで遊ぼうなどと、考えつくわけがない。

 だが、この〝アソビ〟を始めたのは――普通の人間、だっただろうか?

「う……」

 強い眩暈に、襲われた。深く息を吸い込むと、冷気が針のような鋭さで、身体の内側を抉っていく。

 ……何となく、さっきから感じてはいた。

 空気が、ほんの僅かにだが――全身に、ぴりぴりと刺さるのだ。

「この〝アソビ〟でもしメンバーが全滅したらどうなるか、推理できない理由がやっと分かった」

 頭まで、割れるように痛くなった。拓海は、何も感じていないのだろうか。苦痛を必死になって殺しながら、七瀬は地に足を踏ん張った。

 絶対に、これはただの体調不良とは別格だ。七瀬に霊感の類はないはずだが、それでもはっきり分かるのだ。

 ――この森は、禍々しい。

 神社の山だとは思えないほどに、邪悪なものが、犇めいている。

「この〝アソビ〟にゴールはないんだ! 参加者は、永遠に〝アソビ〟に囚われる……!」

「……じゃあ、どうすれば……っ」

 眩暈を振り切り、七瀬は声を絞り出した。

 だが、苦悶している場合でも、絶望している場合でもなかった。

 美也子は陽一郎から視線を剥がすと、目の色を変えてこちらを見た。

 そして、ゆらりと歩いてくる。精神の決壊した顔で嗤いながら、〝鬼〟の少女が歩いてくる。死者と〝アソンデ〟いる女が、七瀬と拓海、柊吾と撫子のいる方へ歩いてくる。唇が裂けそうな笑みで歩いてくる。

「……!」

 身体が竦んだ。足が意思に反して一歩、二歩と後ずさりする。その弱気と全力で戦いながら、七瀬はその時見てしまった。

 美也子の進路に、小さな黒い冊子が落ちている。

 ――紺野沙菜の、遺書だ。

 和音が陽一郎へ託し、その陽一郎が拓海と七瀬に託した、一人の少女が思いを言葉で綴って遺した、この世に唯一残された魂。

 ローファーを履いた美也子の足が、ぐしゃりと無慈悲に、それを踏んだ。

「……。足、どけなよ」

 清冽な怒りが滾々と、身体の底から泉のように湧き上がる。

 その奔流に冴え冴えと背筋を貫かれた七瀬は、背筋を伸ばして、顎を引いた。

 負けられない。恐怖を乗り越えてそう思った。

 すると、七瀬の右手が、再び強く握られた。

「……まだ、諦めたわけじゃない。解決方法を、探すのを……まだ、諦めたわけじゃない」

 俯いた拓海はそう言って、月光の雨を受けた顔を跳ね上げた。

 光の雨垂れが弾かれ、抗戦の意思が瞳に燦然と宿っていく。

「まだ、諦めたわけじゃない!」

「そうこなくっちゃ!」

 七瀬も手を握り返し、二人でその場へ立ち塞がった。

「坂上! 篠田!」

 柊吾が、背後から叫んでいる。七瀬と拓海が振り返ると、膝立ちのまま『凍った』柊吾が、見た事もない表情でこちらを見ていた。

 なんて顔を、しているのだ。七瀬は本心からの笑みを見せた。

「……負けないよ。だから、逃げないよ」

 その〝言挙げ〟を最後に七瀬と拓海は、柊吾に背中を向けた。

 この瞬間、二人の覚悟は一つだった。

「……邪魔、するの?」

 鋏をかちかちと鳴らしながら、美也子が無垢に小首を傾げた。

 そんな小さな動き一つが奇妙に大げさに感じられ、そのまま人形の首のようにころりと頭が落ちるような、厭な錯覚に囚われる。

 柊吾が殴り、七瀬が体当たりし、恐らくは和音もまた何らかの抵抗をぶつけたであろう美也子の身体は、一目で分かるほど悲愴だった。

 それでも瞳だけが、狂気で爛々と光っている。

 人間の命など、簡単に奪えてしまうだろう。善悪も、良識も、社会の規律も一足飛びに踏み越えて、この少女は何だってやってのけるだろう。

 そんな彼岸にまで心を流した鬼の子を、果たして七瀬達人間は、止めることが出来るだろうか。

 やはり、手に負えない相手だろう。

 ――でも、一人じゃない。

 蒼然と光る森の中で、七瀬と拓海は頷き合う。

 そして二人が、戦いの中へ身を投じようとした時だった。


 どくん、と。

 山の空気が、蠕動(ぜんどう)した。



     *



 まるで心臓の脈拍のような鼓動が、円環状の波動となって森の内から外へ広がっていく。空気までもがその鳴動に、捻じれ、歪み、震え、唸り、根源的な畏怖の念が、地から、岩から、木々から、森から、山全体から湧き上がった。それらは青い月へと焚火の煤のように、あるいは蛍の群れのように昇っていく。

 時が、止まったような気がした。

 拓海は、動けなかった。

 正面の美也子も、動かなかった。

 陽一郎の口が、僅かに動いた。誰かの名前を、呼んでいる。

 七瀬は、愕然と瞠目した。背後を振り返り、何かを思い出したような目で拓海を見て、視線を背後へ戻した。

 一同の視線の先から、拓海も目を逸らせなかった。

 ただ、淡々と理解した。

 さっきの己の推測に、一つ、誤りがあったことを。


 ――…ならば、君は。己が最も大切とするものから、決して、目を離さない事ですよ。


 呉野和泉の〝言挙げ〟が、耳に凛と蘇る。

 錫杖が鳴るように、あるいは砕けた鏡の破片が触れ合うように、涼やかに、清らかに、男の〝言挙げ〟が蘇る。


 ――柊吾君。痛みは恐ろしいですよ……。


 視線の先で、一人の少女が立ち上がりかけていた。

 まるで糸を手繰られたマリオネットのように、少女は身体を起こしていく。膝を付き、片足を上げ、膝が伸び、起立する。その身に掛けられていたブレザーが、ばさりと下草の上へ落ちた。

「……!」

 拓海は、叫ぶことも、目を逸らすことも出来なかった。

 少女は、満身創痍だった。ずたずたに裂かれた制服を襤褸のように纏っていて、身体を覆うのは下着とスカートだけだった。露出した素肌には赤い蚯蚓腫れが縦横無尽に走っていた。左右で不揃いに切られた髪が、冷風に嬲られて揺れている。

 その様は東袴塚の図書室で急いで読んだ文学で、出逢った女のようだった。人買いに売られ、その果てに視力さえも失って、ただ引き離された家族へ想いを馳せて哀しい愛を口ずさむ、厨子王の母親のようだった。

 少女の両手は、だらりと弛緩して下がっていた。

 顔は、俯いていて見えなかった。

 拓海は唾を飲み下し、震える唇を、動かした。

 そうやって拙く、神主である異邦の男の、託宣の続きを、なぞった。


「……『痛みは、恐怖を加速させる』……」


 七瀬が、蒼ざめた顔で拓海を見た。

 その動きが、ひどく緩慢に目に映る。


「『加速した恐怖は、人から理性を奪う』……」


 〝鬼〟の美也子の顔に、『人間』の驚きが広がっていく。やがて満面の愉悦がそこへ弾け、美也子は地を蹴って駆け出した。


「『乱れた感情が、狂気を呼んで』……」


 〝言挙げ〟する拓海の隣を、美也子の矮躯が駆け抜けていく。七瀬だけが、我に返った。拓海を呼び、美也子へ叫び、止めようと身を翻して走り出す。握り合った、手が離れた。拓海のズボンのポケットで、何かが割れる音がした。

 時間の感覚も感情の奔流も、その激しさも熱さも全て、この瞬間だけはぼやけていた。

 まるで神憑りのようだった。己の身体と心の全てを、誰かに委ねたようだった。

 夢と現の狭間に立ちながら、和泉に託された言葉の御魂を――拓海は森へ、解き放った。


「『呼び寄せた狂気は――きっと、破滅を齎す』」


 ――閃光が、奔った。

 その色は、月光の青だった。透明に澄んだ青色の雨が、一人の少女を濡らしていた。あの夏の日にこの泉で遊んでいた、白磁の肌の女のように。少女のざんばら髪が玲瓏な光を照り返しながら、颯と柳のようなしなやかさで、身体と共に揺れ動いた。青い光に混じって微かに、栗色の光が瞬いた。

 絞り出すような、声がした。それは柊吾の声だった。すぐ傍で蹲る柊吾が、少女の名前を呼んでいる。どくん、と山が再度拍動した。それを合図に拓海は自我を取り戻し、現実を愕然と掌握した。

 ――美也子という〝鬼〟に捕まり、『動けなく』なったのは。

 三浦柊吾。

 日比谷陽一郎。

 ――そしてまだ『凍って』いない、〝アソビ〟生存メンバーは。

 佐々木和音。

 綱田毬。

 呉野氷花。

 紺野沙菜。


 そして、あと、もう一人。


 歓喜の叫びを上げた美也子が、風を切り、下草を乱暴に踏み、そこに芽吹く命を散らしながら走っていく。

 少女の虚ろな琥珀の目が、己へ迫る〝鬼〟へ向いた。

 痛ましい姿にも関わらず、何故だか少女は怖気をふるうほど美しかった。

 そして、少女は針金のように痩せた腕を、緩やかに振り上げて――〝鬼〟の頬へ、鋭い一閃を走らせた。

 美也子の茶髪が、横凪に揺れた。

 垣間見えた横顔は、憤懣も嫉妬も愛憎も、執着も怨嗟も欺瞞も、何もかもが欠落した、人形のような目をしていた。そのまま息絶えたとして何の不思議もない顔で、美也子の身体が倒れていく。

 その様を、誰もが絶句して見送った。

 やがて、最初に言葉を発したのは……少女のすぐ傍にいる、柊吾だった。


「……あま、みや……?」


 雨宮撫子は、柊吾の呼び声に応えなかった。

 ただ、美也子の頬へ振るった右手の爪に、うっすらと付いた血を見下ろすと、ぺろりと舌でそれを舐めた。

 そして徐に地面へしゃがみ、何かをゆっくりと拾い上げた。

 それは、青色の鋏だった。

 先程まで美也子が持っていた鋏は、まるであるべき場所へ収まったとでもいう風に、撫子の小さな手に馴染む。唇に血の紅を引いた撫子が、顔を上げた。

 その目は、明らかに焦点がずれている。

 琥珀色の瞳孔は、見た事がないほどに開いていた。

 何らかの感情が、そこへ鈍く、緩慢に、浮かび上がる。

 人が『見えない』はずの病んだ目で、撫子は一人の人物を見つめていた。



「かざみ、みやこ」


 ひた、と。

 撫子の鋏の切っ先が――へたり込む美也子へ、向いた。


「――――やめろっ! 雨宮あああぁぁぁぁぁっ!」


 柊吾の叫びが、空へ突き抜けた瞬間――――惨劇の舞台となった泉の前で、封じられた狂気が渦を巻いて、撫子を起点にして、爆ぜた。



     *



「……御目覚めのようです」

 声が、薄暗い和室に反響した。

 障子は破れ、文机はひっくり返り、畳に敷かれた布団には大量の書物が散乱している。台風一過の様相を呈した一室で、和装の異邦人は縁側へ近寄り、障子の破れ目から世界を見る。

 青色の双眸が、神妙な色を湛えて、細められた。

「……御満足ですか? ですが、僕は貴女の名前を呼びません。決して〝言挙げ〟しませんよ。貴女は、貴女ではありませんから。それを僕という個人は、欠片も疑っておりません。……ですから、決して〝言挙げ〟しませんよ。僕は〝言挙げ〟しませんよ……」

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