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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 70

 しゃき、しゃき、と鋏が打ち鳴らされる音がした。

 まるで祭囃子のようなその音に、柊吾は顔を、ゆらりと上げた。

 首だけで、振り返る。

 少し離れた先の木の根元で、美也子が立ち上がっていた。

 俯き気味の姿勢の所為で、柳のように垂れた茶髪が顔半分を隠している。僅かに覗いた口元は、三日月型に吊られていた。

 手加減なしで、殴り飛ばしたつもりだった。にも関わらず四年ぶりに顔を合わせた風見美也子は、顔を殴られたことなど取るに足らないと言いたげに、壊れた笑みを浮かべている。ああ、と乾いた心で柊吾は思った。

 この少女は、狂っている。

「三浦君、久しぶり……えへへへ、会いたくなんて、なかったけどね……」

「……」

 音が、遠い。耳鳴りが酷い。そのくせ頭の芯は奇妙に冴え渡っていて、身体中を巡る血が、熱く沸き立ち脈動した。久しぶりの感覚が、柊吾の全身を包んでいた。

 皮肉だった。呉野氷花に撫子を弄ばれて、仇討に目覚め、拓海や七瀬達と出会い、和泉と親交を深めるうちに、己の中で次第に薄れていった、胸を焦がすほどに鮮烈だったはずの、殺意。

 一度は手放しかけたその感情を、まさか、こんな形で取り戻す事になろうとは。

「……雨宮。待ってろ」

 柊吾は、撫子の頬へ手を伸ばした。

 撫子は、眠りに落ちている。青い月光に照らされた撫子の顔は、血で汚れていても綺麗だった。満身創痍の身体に触れると、目頭が熱くなった。

 このまま二人で、こうしていたい。もっと寄り添い合っていたい。その切望に断腸の思いで蓋をすると、柊吾はその場に撫子を横たえ、己のブレザーを脱いで掛けた。

 そして、ぼそりと呟いた。

「あいつ、殺してくる」

 その宣誓とほぼ同時に、背後の殺気が膨張した。

「三浦君! 死ねぇぇ――っ!」

 咆哮に振り返った瞬間、美也子が大地を蹴って跳躍した。

 月光射す森の空へ、少女の黒い影が躍る。風に遊ばれた落ち葉が一斉に空へと巻き上げられ、逆光で黒く染まって乱舞した。圧倒的な密度の狂気が唸りを上げて、柊吾へ矢のように迫ってくる。

 その殺気に全力で柊吾も答えながら、右腕を弓のように引き絞った。

「ぶっ殺す! 風見美也子――――っ!」

 だが衝突寸前の互いの殺意は、そこで唐突に断ち切られた。

 両者の間に第三者が、弾丸のように飛び込んできたのだ。

 柊吾は、目を見開いた。

「お前は……っ」

 巻き髪が、ぶわりと眼前に翻る。石鹸の香が、鼻腔を掠めた。

 電光石火の勢いで割って入ったその人物は、美也子目掛けて渾身の体当たりを食らわせた。濁った悲鳴を上げた美也子が再び地面を転がり、木の幹にぶつかって沈黙した。

 勝者の少女が着地と同時に、柊吾の方を振り向いた。

 滑らかな足さばきが軽やかに大地を蹴り、スカートが番傘のように翻る。セーラー服の襟は旗のように、夜風を孕んでたなびいた。

「篠田っ!」

「だめぇ!」

 名を呼ぶのと同時に、七瀬が柊吾の腕に掴みかかった。

 突然の横槍に柊吾はたたらを踏み、七瀬の方も飛び出した勢いを殺せなかった。力を相殺し合うように二人で茂みへ倒れ込むと、湿った土と潰れた草の、青い匂いが鼻腔を衝いた。

 ぱしっと乾いた音がして、柊吾は一拍遅れで驚いた。

 先に身体を跳ね起こした七瀬が、柊吾の腕を掴んだのだ。

「何やってるの……違うでしょ? そんなの、三浦くんらしくない……」

 手が、腕が、震えている。これは、七瀬の震えだった。寂然と青い森の中で、柊吾は静かに理解した。

 七瀬も、もう知ったのだ。美也子が、撫子にした行為を。

 それを全て、知った上で――今、柊吾を阻んでいる。

「……篠田、どけ」

 不様なくらいに震えた声が、己の喉から吐き出された。今の自分の身体のどこにも、震えていない場所などない。心がもう壊れたのだ。身体だって、後を追うに決まっている。

「させない。三浦くん」

 七瀬は言う事を聞かなかった。柊吾を抑え付ける手の力をきつくして、焼け付くような意思の目で、柊吾を睨み付けている。

「三浦くん。風見さんを、殺さないで。殺すのだけは、絶対させない」

「……なんでだ」

 目元までもが、痙攣のように震え出す。涙を堪えたいのにそれさえ出来ない。声にも、身体にも、心にも、何にも抑えが利かないのだ。

 だから急に声だけが、壊れた銃のように暴発して飛び出した。

「離せよ! なんでなんだ! 雨宮がああなったんだぞ! お前だって見ただろ! 分かるだろ! 分かってるなら止めるなよ!」

「見たよ! 分かってるよ! 私だって分かってるよ!」

 七瀬が頭を振った。涙が、ぱっと散っていく。柊吾を掴む手に力がこもり、爪が激しく食い込んだ。柊吾もその腕を掴み返して激昂した。

「邪魔だ! 篠田! どけ!」

「思い出してよ! 三浦くんは何の為に、仇討しようと思ったの!?」

 柊吾の胸倉を、七瀬がめちゃくちゃに掴んだ。

「呉野さんを許せないって思ったからでしょ!? 簡単に人を傷つけて、それを当然に思ってるあの子みたいな人のことを、許せないって思ったからでしょ!? だったら! 貫いてよ! そういう三浦くんのままでいてよ! ここで風見さんを殺したら、三浦くんだって同じじゃない!」

「知ったことか!」

 振り切れた感情に、身を任せて絶叫した。

「あいつを殺せるなら、俺は! どうなったって構わねえんだ!」

 ぱんっ、と再び音がした。

 顔が、大きく横に揺れた。痛みが、頬で熱を持った。麻痺した聴覚も皮膚感覚も、一斉に目覚めて蘇る。見えていたのに、避けれなかった。

「撫子ちゃんがこうなって、辛い思いしてるのが自分だけだなんて思わないでよ!」

 七瀬の両目に、大粒の涙が盛り上がった。その顔は歪んでいた。怒りだけではない明らかな悲しみで、七瀬の顔が歪んでいた。歪んで見えるのはどちらの涙の所為なのか、柊吾にはもう分からなかった。

 ただ、思った。その言葉に怒るでも傷つくでもなく、理不尽だといきり立つわけでもなく、ただただ柊吾は思ったのだ。

 七瀬も、傷付いているのだ、と。撫子が好きだから、こんなに傷ついているのだ、と。

 だから今、泣いている。柊吾と同じ痛みを堪えながら、堪えきれずに泣いている。

「許せないよ、腹立つよ、殺したいよ! 私だって! 私だって思ってるよ! でも、だめなんだよ! そんなやり方じゃ! 三浦くんにだって分かってるんでしょ!? だからこんなやり方じゃない別の方法で、呉野さんと戦いたかったんでしょ!? ねえ! 答えてよ、三浦くん……!」

 撫子と過ごした時間が、走馬灯のように脳裏を巡る。写真のネガをばらまいたような風景の中には、七瀬の顔もたくさんあった。撫子に抱き付いて楽しそうに笑っている。撫子の表情は希薄だが、柔らかな微笑みが、花の蕾がほころぶように顔へ乗った。新たな涙が目に溜まり、視界があっという間にぼやけていった。

「させない。三浦くん」

 七瀬が、もう一度柊吾の両手を握った。

 その手の温度は残酷なほどに柊吾へ理性を呼び戻し、放り出しかけた良識も、現実と一緒に突き返された。もうここまでなのだと観念した時、とどめの一言を、七瀬が言った。

「私の友達に、人殺しはさせない」

 すとんと身体から力が抜けて、柊吾はその場に、くずおれた。

 七瀬に、殺意を手折られた。

 だから、自分を支えるものが、なくなった。

「……畜生ぉぉぉっ……!」

 拳を地面に叩きつけながら、柊吾は喉を潰すような声で咆哮した。

 生き地獄だった。生まれた怒りと憎しみが、どこにも行けずに柊吾の中身を食い荒らす。胸を掻き毟りたくなるような情動が、まるで身を焼くようだった。悔しくて腹立たしくて堪らなくて、このまま気が狂いそうだった。撫子の仇が目の前にいるのに、この拳一つ振るうことさえ許されない。

 美也子が、憎い。狂おしいほど美也子が憎い。

 だが、どんなに憎くても駄目なのだ。七瀬に言われた通りだった。

 そして七瀬に言われる以前から、それは自分でも決めていたことだった。

 衝動だけで、人を殺すことなどできない。いくら殺したいと思っても、その行為を実行に移すことなどできない。理屈ではないのだ。この手でさっき、美也子を殴ったことを思い出す。少女の柔らかい肌を殴りつけた己の武骨な拳を見て、血の気がすうと引いていった。項垂れながらもう一発、地面に拳を叩きつけた。

 ……これが、柊吾の限界なのだ。

 殴った相手が仇敵であれ、柊吾自身の良心が、己の行為に竦んでいる。自分は、そんな人間だ。十五年の人生で培ってきた良識が、善悪が、魂が――柊吾を、鬼から人へ戻すのだ。

 柊吾は、美也子を殺せない。

 他の誰でもない己自身が、もう答えを出していた。

「殺せなくても、いいの」

 七瀬の手が、柊吾の手の平を包み込んだ。

 青白い月光が、水面を冴え冴えと照らしている。昏い森に繁った冷たい下草に二人で膝を付きながら、七瀬も嗚咽して泣いていた。

「悔しいよ、悔しいよ……私達、絶対もっと早くここに来れた……でも、それでも合流できたんだよ? 三浦くん、撫子ちゃんを連れていこう? 早く大人に連絡して、それから怪我も、手当しなきゃ。風見さんのことは、その後でもできる。ねえ、そうでしょ……?」

 柊吾は言葉もなく、ただ頷くことしかできなかった。

 殺意を失くせたわけではない。だが自分と同じ傷を負った人間が、ここで血の涙を流しながらも歯を食いしばって耐えたのだ。撫子の為に、そして自分が人のままでいる為に、無理やり感情を呑んだのだ。柊吾は七瀬の手を振り解くと、ぐいと手の甲で涙を拭った。

「……ぶっ潰す。必ずだ。雨宮が、ちゃんと、目を覚ましてから」

 柊吾が元の柊吾の一端を取り戻したのを喜ぶように、七瀬が安堵の息を、ほっと吐いた時だった。

「お話、終わった?」

 ぽん、と。柊吾の肩が、小さな手に叩かれたのは。

「あ……!」

 七瀬の顔が驚愕に引き攣るのと、柊吾の身体を凄まじい速さで冷気が駆け巡ったのは同時だった。

「っ……!」

 総毛だった。

 嘘だ、と声が喉をついて出かかった。有り得ない。異常だった。何故、柊吾の背後に立てたのだ。出会い頭に殴りつけ、その後は七瀬から体当たりも食らったのだ。最初の一撃だけでもかなりの痛みがあったはずで、並みの少女なら容易に起き上がれはしないはず。

 その油断が、仇となった。

 柊吾は、膝をついた姿勢のまま――ぴくりとも『動けなく』なっていた。

「三浦くん……!」

 慄然と震える七瀬の声を聞きながら、柊吾は足を動かそうとした。微かにだが、動かせる。だが鉛をぶら提げたような倦怠感が疼痛のように冷たく身体を縛っていて、皮膚に刺すような痛みが走った。

「やーいやーい、お馬鹿さんだね三浦くん! 〝鬼〟の前でそんなにのんびりしちゃうなんて!」

 勝ち誇ったような美也子の声が、『動けない』柊吾を嘲笑った。

 ――怒りが、脳天にまで突き抜けた。

「風見ぃ……っ!」

「このっ……!」

 立ち上がった七瀬が美也子へ掴みかかろうとすると、美也子は「きゃあ!」と悲鳴を上げて逃げ出した。七瀬は追撃しようと駆け出したが、何を思ったかくるりと方向転換した。

 その動向を膝立ちのまま柊吾は見送り、はっとした。

 七瀬は、泉の畔――撫子の手前に、立っていた。

「篠田……!」

 足を止めた美也子が振り返り、撫子を守るように立つ七瀬を見た。

 殴られて赤く腫れ上がった頬が、怒気でさらに赤く染まっていく。

「……!」

 まずい、と柊吾は叫びかけた。七瀬が美也子の逆鱗に触れたのが、何故だか理解できたのだ。逃げろ、と続いて叫び掛けたが、声の形にはならなかった。

 もし、七瀬がここで逃げたなら――撫子はどうなる?

 それに気づいた途端、本物の恐怖が黒い波となって、一瞬で柊吾を呑み込んだ。

「あ……」

 馬鹿だ、と自分で自分を詰った。かつて拓海に言われた言葉が針のように、今更になって身体に冷たく刺し貫いた。


 ――『もし三浦が言うように俺らが綱田さんを助けに行って、その所為で俺らのうち誰かが巻き添えになったら。三浦、どうするつもりなんだ?』


 受験終了直後、まだ美也子の事件に自分達が巻き込まれていることにさえ気づいていなかったあの時。

 拓海と電話で話しながら、あの頃の柊吾は自分達の平穏な毎日が、こんな形で切り崩されるなど夢にも思っていなかった。

 被害者候補はあくまで綱田毬一人であり、その黒幕と睨んだ呉野氷花を叩けばいいと、ただ安直に思っていた。

 拓海はそんな柊吾の詰めの甘さを、あの時から分かっていた。

 だから夏の惨劇をただ一人その目で『見た』拓海は、危機感の薄い柊吾達へ、再三警句を発したのだ。

 それを柊吾は、聞かなかった。


 ――『やられるのが俺とか三浦だったら、それでも最悪だけどまだマシだ。でも雨宮さんだったら? 篠田さんだったら? 三浦、どうするつもりなんだ。もしもう一度酷い目にあったら、今度は……二人とも、耐えられるか分からない』


 その台詞の正しさを後ろめたさと共に知りながら、柊吾はあの時、こう答えた。

 自分が、面倒を見るのだと。

 二人が、やられないように。


 とんでもない、驕りだった。


 撫子は心身ともに傷つけられて眠っていて、その撫子を守る為に、本来〝アソビ〟に何の関係もない七瀬が、盾となって立っている。

 そこで盾になるべき柊吾は、凍って一歩も『動けない』。


 犠牲者が、さらに増える。


 直感した瞬間、凄まじい喪失感と恐れが膨れ上がった。

 柊吾は恥も外聞もかなぐり捨てて、美也子へ向かって吠え猛った。

「風見! やめろ! そいつらに……近づくな……っ!」

 恫喝ではない。懇願だった。唯一自由が利く声を使って、柊吾は必死に訴えた。

 七瀬へ近寄りかけた美也子が、動きを止めて柊吾を見る。

 驚いた様子のあどけない顔が、舐るような笑みの形に歪んでいった。


「……土下座してくれたら、考えてあげてもいいよ? 三浦君がその格好から、和音ちゃんみたいに『動ける』ならね? あ、そうそう、さっきの和音ちゃんってばゾンビみたいで、すっごく不気味だったんだよ? 可笑しいよね! あはははははは! あははははははっ!」


 心底気持ちよさそうに、演説して笑う美也子の顔は――大股で近づいた七瀬によって、平手で強く叩かれた。

 三度草むらに倒れた美也子の顔から、笑みが消えた。


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