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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第2章 呉野氷花のラスコーリニコフ理論
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呉野氷花のラスコーリニコフ理論 9

「ねえ、柊吾。……昨日、恭嗣義兄さんに何か言ったでしょ」

 朝食を終えて歯磨きをしていると、近づいてきた母にいきなりそう言われた。

「……」

 柊吾は歯ブラシを口にくわえたまま、ふるふると首を横に振る。「もう。嘘」と言ってむくれた母は、生成きなりのロングブラウスにエプロン姿で、柊吾を鏡越しに睨んでいた。櫛で整えられた肩口までの黒髪は、洗面所を照らす蛍光灯の無機質な光を、天使の輪の形に弾いていた。

「……今日、恭嗣義兄さんに会ってくるわ。夕食のお誘いを頂いたの。柊吾は今日の放課後、部活に行ってから帰るのよね?」

「いや、今日は用事あるから、部活なしで帰る。でも、俺は行かない」

「どうして?」

「ユキツグ伯父さん、今日は俺がいない方がいいと思う。っていうか、誘われたの母さんだけじゃん。母さんだって分かってるくせに」

「……やっぱり。柊吾の差し金なのね」

 母がさらに近寄ってきて、そっぽを向いて歯磨きを続ける息子の頬を、いきなり人差し指でぷにっと突いた。目を逸らしていた所為でその奇襲を鏡で見ていなかった柊吾は「うぶっ」と呻き、文字通り泡を食う格好となってしまった。

「ちょっ、何して」

「柊吾。大人をからかうんじゃありません」

 母はエプロンの裾をぎゅっと掴み、少女のように頬を薔薇色に染めて、柊吾から目を逸らしてしまった。こちらはからかう心算つもりなど全くなく、母を苛める気も困らせる気もないのだ。顎に歯磨き粉の泡を伝わせながら、柊吾は一応弁解した。

「そんなんじゃないって。大したことは言ってないし」

「やっぱり、何か言ってるんじゃない。学校から帰るなり義兄さんの所に行くって言い出すし、帰ってきてからもこそこそ電話してるんだもの。怪しいって思ったわ」

「……俺。母さんが、父さん以外の人を好きになっても、幻滅なんてしないから」

 柊吾は泡塗れの口のままそう言ったが、さすがに格好がつかないので、口内と口周りを水ですすいだ。そしてもう一度「幻滅なんて」と言いかけたら、「柊吾」と母に名を呼ばれた。

「私は……柊吾にも、義兄さんにも、一度だって……恭嗣義兄さんの事が好きだと、言った事はないわ」

「うん。言ってない」

「……」

「言ってない、けど」

「うん?」

「……別に、言葉だけが、全てじゃないと思うし」

 母が、少し驚いたような顔になる。柊吾は手繰り寄せたタオルをいじりながら、言い難さを堪えて続けた。

「何言ってんのか、自分でもよく分かんねえけど……俺はもうユキツグ伯父さんを家族みたいなもんだと思ってるし。そういうのを嫌とか、思ってねえし。ごめん。何言いたいのか、ほんとに分かんなくなってきた。でも、俺がいるからとか、そういう風に引け目に思われるのは、ヤだって思う。母さんが引け目に思ってるかどうかなんて、今まで訊いたことないから、分かんねえけど……」

「……。柊吾。大きくなったのね」

 笑顔になった母が、柊吾の短い髪を、精一杯手を伸ばして撫でてくる。恭嗣相手なら振り払えるのに、母が相手だと出来なかった。くすぐったいし気恥ずかしいが、母が幸せそうなので「ん。まだデカくなるから」とだけ言っておいた。

「晩御飯、柊吾はどうする? リクエストがあるなら、作り置きを増やしてから家を出るわ」

「どっかで食ってきてもいいって思ってたけど……何でもいいから作っといて。家がいい」

「うん。任せて」

「じゃあ、そろそろ俺、行くから。……ごめん。さっき言った用事の件だけど」

 洗面所を出た柊吾は、母を振り返る。

「病院に行きたいんだ。見舞いに」

「お見舞い? ……それって」

「……。病院、急いだ方がいいみたいなんだ。だから、ごめん。今日の授業、途中でサボる」

「そう」

 母は、反対しなかった。笑顔も陰のあるものではなく、柊吾の心を映したように、ほんの少し晴れやかだ。息子の決心と行動に対して、母がどの程度察したかは分からない。それにおそらくは一部誤解を与えたと思う。ただ、柊吾の内面が昨日までと大きく変わっている事には、きっと気がついているのだろう。

 そんな風に簡単に気取られてしまうのは、やはり少し面映ゆい。

 それでも、今の柊吾にとっては、母の対応が嬉しかった。

 過度な激励は、何も要らない。ただ単純に、そして素朴に、そっと背を撫でるように、優しく肯定してくれる。それだけで、何かが支えられる気がするのだ。

 ――母親は、子供を守っている。

 確かにその通りだ、と得心した柊吾は薄く笑った。

「いってらっしゃい。柊吾、あんまり無茶しないでね」

「ん。行ってきます」

 アパートを出た柊吾は、二階のベランダを振り返り――華奢で若々しい母親へ、軽く手を振って、歩き出す。


     *


 ぐりぐりと色鉛筆を擦り付けて、人型の生き物への着彩が終わった。

 イラストの少年の真下には、でかでかと主張の強い下書きの文字が躍っている。度重なる書き直しを受けた紙は、筆圧の強さも相まって表面が傷んで凸凹でこぼこだ。父母の感性は繊細なのに、何故自分はこうも不器用なのだろう。通学鞄に収まっている紙のブックカバーに至っては、最早かろうじて本を覆っているだけの紙屑といった有様だ。

 活気に満ちた図書室で過ごす生徒のうち、既に三分の一ほどが課題の提出を終えている。仲の良い者同士で喋ったり、本を黙々と読んだりしている終了組の輪の中に、本来ならば柊吾もすぐに行けただろう。ありふれた日常にも、未来の分岐点は潜んでいる。一つ一つの選択が、今の柊吾を作っている。

 これから何度、柊吾は人生の岐路に立つのだろう。未知数の選択肢へ束の間思いを馳せてから、ペンを握って清書を急いだ。インクを乾かす為に用紙の端を摘まんであおぐと、ぬるい風がのろのろ動く。冷房の入っていない図書室は、やはり茹だるように暑い。壁掛け時計に目を向けると、時刻は十時十七分。

 班員の男女が忙しない動きを不審がり、「三浦君、急ぎ過ぎじゃない?」「まだ提出期限あるのに、どうした?」と訊いてきたので「もうすぐ早退するから」と適当に答えた。案の定「なんで?」と飛んできた言葉のボールを「用事」と短い一言で打ち返し、下書きに消しゴムをかけていく。凸凹の紙に潜り込んだ黒ずみも、これで何とか綺麗になった。完成した読書紹介シートを手に貸出カウンターに行くと、初老の国語教師は日だまりで微睡む猫のように顔を上げて、手元の提出表へメモを取った。

「三浦柊吾、『星の王子さま』……と。最初に聞いてたタイトルと違うようだが、なんだ。ガタイに似合わず、えらいメルヘンなものを選んできたな」

「先生。それ、俺に失礼です」

 柊吾は憮然としたが、悪い気はしなかったので軽口で応え、「じゃあ、授業前に言ってましたけど、早退します」と伝えて頭を下げた。ゆるゆると頷く教師に背を向けて、自席に戻って帰り支度を整える。

 そうして、図書室の外に出た所で――ばったりと、出会った。

「……」

 互いに無言になったが、無視する理由はないのだ。怒る理由ならたくさんあるが、避けてどうにかなるものでもないだろう。柊吾は一日経って、そんな風に思えるほどの余裕を取り戻していた。

 だから、仏頂面にこそなったものの、一応相手を気遣えた。

「陽一郎。怪我はもういいのか」

「……」

 陽一郎は、気まずそうに俯いた。やがて「柊吾こそ。平気?」とごにょごにょ言ってきたので、浅く頷いて見せる。

「俺は別に、大したことない。怪我なら、お前の方が酷かっただろ」

 今朝から、陽一郎は欠席だった。自宅療養中だろうと踏んでいたが、まさか陽一郎がこんな見た目のまま学校に来るとは思わず、柊吾は少しだが驚いていた。

 ――陽一郎が氷花にやられた傷は、柊吾が負った傷より酷いものだった。

 戦いの場となった神社で、激しく立ち回っていた柊吾に対し、意識を失っていた陽一郎は、防御が全く取れなかった。額と瞼を中心に貼られたガーゼや絆創膏は、頼りない細腕にまで及んでいる。まるで壮絶な乱闘をくぐり抜けた喧嘩少年の図だったが、もやしのようなひょろひょろの体躯の少年では、不良に絡まれて一方的にやられたか、土手を転がり落ちていったか、間抜けな図しか想像してもらえない辺りが不憫だった。現に、茫然自失状態の陽一郎を柊吾が家まで送り届けた時、陽一郎の母親は息子にどこで転んだかを追及していた。情けない限りだと柊吾は思う。

「怪我は……痛いけど、平気だよ。見た目が派手なだけで、軽い打撲と擦り傷だし。顔の切れてるところも、痕には残らないんだって」

「そうか」

 そんなことだろうとは思っていたが、それを聞くと安心した。もう少し幼稚な痛がり方をするかと思っていたので、そちらも安堵の要因の一つだった。会話のついでにもう一つ、柊吾は思い切って訊いてみる。

「……昨日の事だけど。お前、どこまで覚えてる?」

 陽一郎が息を吸い込み、柊吾からまた目を逸らした。

「……ほとんど、全部。覚えてるよ」

「……」

「言い訳みたいで、こんなこと言ったら、柊吾は怒ると思うけど。呉野さんからハンカチをもらった事は覚えてて、でも、何を言われたのかは覚えてなくて……柊吾を突き飛ばした事も、神社に走った事も、覚えてるのに……なんでそんなことをしたのか分からないんだ。何となくで、そんなことをしちゃった感じ」

「それで俺が、納得すると思ってんのか」

「……ごめん。柊吾」

 泣き出しそうな目をした陽一郎が、柊吾へ深く頭を下げた。そこまでされるとは思わず、柊吾は面食らう。

「やっちゃいけないって、悪いことだって、分かってたのに。そんな風にしかできなかったんだ。怒られて、辛かったし。撫子の事でも、僕、いっぱいいっぱいで。だから……理不尽って思っちゃったところ、あるよ。柊吾に」

「……」

「だから僕、ああなっちゃったのかな。意識はあったのに、駄目なのも分かってたのに……呉野さんに、そういう罪悪感とか全部、降ろせって言われた気がする」

「陽一郎。お前さあ」

 柊吾は、頭を上げた陽一郎へ、おざなりに言った。

「昨日、神社でキスしてただろ。あれ、二回目なのか」

「へ? ……なっ、何、言って……!」

「だから。呉野とするの二回目なのかって訊いてるんだ。さっさと答えろ。雨宮と付き合う前に、お前は陰でそんなことをしてたのか? 答え次第では、殺す」

「そんなわけないじゃん!」

 血相を変えた陽一郎が、首をぶんぶんと横に振る。かなり気合の入った否定だった。

「だって、あれ! 僕だって、どうしてか、分かんなくてっ!」

「あー、もう分かったから。お前、やっぱうるさい」

「柊吾が訊いたのに……」

 陽一郎は顔を真っ赤にして、涙目でむくれた。柊吾は通学鞄を肩に提げ直すと、「じゃあな」とだけ言い捨てて、歩き去ろうとする。

 すると、「柊吾」と陽一郎に呼び止められた。

「僕、撫子とやっぱり別れるよ」

 柊吾は、足を止めて振り返る。ガーゼまみれの級友の目には強い怯えが浮かんでいたが、一昨日とは違う感情の色も見えた気がした。

 その正体を咄嗟には掴めず、柊吾は文句を言いそびれた。「だって」と言った陽一郎は、照れ臭そうに頭を掻いた。

「僕、こんなだし。自分でも分かってるよ。これじゃ撫子も不安になると思うんだ。一昨日、柊吾に撫子と別れるって言った時、僕、自分の事ばっかりだったけど、もっかい、ちゃんと考えたんだ」

「自分の事ばっかりって自覚、あったんだな」

「うん」

「でも、その自覚、足りてねえぞ」

 柊吾は厳しく、陽一郎を睨んだ。

「お前はさっき、雨宮の事でいっぱいいっぱいだったって言った。……雨宮絡みじゃないなら、お前のそういうところなんて、俺、どうでもよかった。でも、お前、彼氏なんだろ。相手がいる事なんだ。ちゃんとしてくれないと……見てて、殺したくなる」

「……だから、別れようって思ったんだ。柊吾」

 陽一郎は笑ったが、頬の傷に障ったのか「いてて」と呻いて顔を顰め、結局泣き笑いのような顔になる。

「家と学校の送り迎えは続けるよ。……僕くらいしか、できないし。でも、僕じゃ大事にできなかったから。そんなの撫子に失礼だし。次に撫子と会う時に、ちゃんと話すよ。……早く良くなるといいね。撫子」

「……ああ。そうだな」

 何だか、肩の荷が下りた気分だった。陽一郎の事を馬鹿だの阿呆だのと散々罵った日々だったが、めぐる季節が本格的な夏を運ぶ前に、陽一郎の方でも様々な思いが芽吹いていたということだろう。やはり会話の端々に苛々させられもするが、もうそれは昨日ほどではなかった。

 一応の、和解だろう。柊吾は小さく息を吐いたが、次の陽一郎の台詞で和やかさは消し飛び、目を剥く事になるのだった。

「でもさ、呉野さんって結局、何がしたかったんだろ」

「は? 何って?」

「いや、だってその、ハンカチもらって……キ、キスしたくらいしか、覚えてないし……転校しちゃって、もういないし。何だったんだろう、って」

「何もクソもねえよ」

 柊吾の言葉遣いが荒れた。陽一郎がぎょっとして身を引いたが、柊吾は怒りが収まらなかった。

「あれに理由なんかねえから。呉野の阿呆は最低最悪の愉快犯で、ラスコーリニコフに酔っぱらったクソガキだ。陽一郎。俺の前で今後そいつを擁護するような言葉を一つでも言ってみろよ。殺す」

「柊吾っ? なんでそんなに怒ってるの?」

「俺は、なんでお前が怒ってないのかが不思議だ。その顔面と腕の傷、全部あいつにやられたんだぞ。なあ、やっぱり警察沙汰にしろよ。そうしたらあいつ、社会的に抹殺できる」

「抹殺っ? いや、だって……気づいたら僕こんなことになってたけど、誰にされたか、覚えてないし……」

「いいから黙って警察行け。散々お前にむかついてきた三週間だったけど、ここで役に立つなら全部帳消しにしてやる」

 柊吾が全身から立ち昇らせた殺気に怖気づいたのか、陽一郎はあわあわと悲鳴を上げながら逃げ出した。「逃げんな陽一郎!」と言葉と共に足が出た柊吾は、よたよたと走る陽一郎の退路を足蹴りで断った。壁が派手な音を立てると同時に、背後からも悲鳴が上がった。

 ……。背後? 柊吾は振り返り、目を丸くした。

 図書室の窓が全開になっていて、二年一組のクラスメイト達が顔を出していたからだ。柊吾達は目立ち過ぎたらしい。昨日までの重苦しさはそこになく、男子はどことなく面白そうに見物していて、女子は何故か黄色い声で叫んでいる。女子側の興奮にいささか鬼気迫るものを感じたが、特に意味はないのだろう。

「日比谷ぁ、昨日どうしたんだ?」

「すっげぇ足速かったじゃん。普段の体育、手ェ抜いてたんだろ!」

「うっわ、絆創膏だらけ! どこで転んだんだよ!」

 男子生徒達は口々に、陽一郎を軽口で迎えた。陽一郎はぽかんとしてから、ふにゃりと半泣きの顔になる。柊吾は足を退けると嘆息して、陽一郎を腕で小突いた。

 ――柊吾と氷花が対決している間、二年一組は二年一組で、教師に掛け合って自習の時間をもぎ取っていたらしい。そこで行われた話し合いについて、柊吾は陽一郎を自宅に送った後で、学校に帰還してから知った。

 陽一郎の事だけでなく、今まで言及を避けていた、撫子の今後の事も。これからどう接していけばいいのか、転校せずに袴塚西中学へ留まってもらう為に、自分達に何が出来るのか。全員で意見を出し合ったそうだ。

 それに、この対応は――突然奇行に走った陽一郎が戻ってきた時、きちんと受け入れられるように、と。十四歳なりの拙さで出した、一つの結論だったのだ。

「……お前、しばらく登校拒否になるんじゃないかって、皆で心配してたんだぞ。覚えてるなら、お前を追っかけてくれた奴には、後で詫びとけよ」

「うん……ありがと……」

 陽一郎が赤い目を擦った時、背後から「三浦!」と切羽詰まったような大声が聞こえた。――この人物には本当に、背中から声を掛けられる。

「監督」

 振り返った柊吾は、大柄な体躯を見上げた。

 授業中の廊下に森定がやって来たのは、偶然ではないのだろう。柊吾の早退と昨夜の連絡を受けて、慌ててすっ飛んできたに違いない。岩のような強面に浮かぶ感情は、戸惑いが多くを占めている。ひたむきな目と向き合った柊吾は、クラスメイト達がまだ見ているのは承知の上で、軽く頭を下げた。

「すみません。電話で済ませて。明日きちんと挨拶に行くつもりでした」

「いや、それはいいんだが……本気なんだな?」

「はい」

 頭を上げた柊吾は、まだ顔から戸惑いが消えない恩師に、自分の意思を伝えた。

「スポーツ推薦、蹴ります。俺、普通科を受験する事に決めました」

 背後で、どよめきが起こる。柊吾の推薦の話は、氷花の言った通り噂になっていたらしい。森定は驚きの目で柊吾を見下ろしていたが、やがて、にやりと好戦的とも取れる眼差しになった。

「ん、そうか。目標ができたんだな、三浦」

「はい」

「教え子が成長するのは、嬉しいもんだな。頑張れ。応援する」

「はい。……監督」

「ん?」

 小声で、柊吾は言った。

「去年、職員室で揉めてる時に割って入ってくれたこと。一生忘れません。ありがとうございました」

 森定は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった。照れ臭さが湧いた柊吾は、クラスメイト達の目を避けるように「じゃあ」と言い残して走り出した。「廊下、走んなよぉ!」と森定が笑いながら叫んでくる。その声量では授業の迷惑だろうに、気にした様子が全くない。本当に、同年代のガキのような先生だと思う。クラスメイト達もやんやと声を上げたので、盛大になってしまった見送りに、柊吾は走りながら苦笑する。一度だけ振り返ると、国語教師が図書室から出てきて、森定と生徒達に注意を始めたところだった。

 ――まるで、魔法が解けたようだった。

 氷花の退場と共に、日常が帰ってきたようだった。

 日向の香りを切りひらいて、柊吾は走る。こんなにも爽快な気分になれたのは、随分久しぶりだった。初夏の日差しも、蝉の声も、窓の向こうで煌めく青葉にも、生き生きとした命を感じる。靴を履き替え、昇降口を出た柊吾は、抜けるように青い空の下、熱せられた空気の中へ、挑むように駆け出して行った。

 行き先は、決まっていた。


 *


袴塚こづか市名物の異人さんから電話が掛かってくるなんて、珍しい事もあるもんだな』

「ほう、異人と仰いますか。民俗学的で大変興味深いですね。貴方くらいですよ。そんな酔狂な呼び方をするのは」

『まあ、蔑称っぽい感じするからな。嫌だったらちゃんと呼ぶぜ?』

「お好きなように呼んでいただいて結構ですよ。実はその呼び名、気に入っているのです。キョウジさん、貴方には先見の明があるのやもしれません」

『何だそりゃ? ま、人の名前をちゃんと呼ばないのは、お互い様ってことだな。で、なんで民俗学?』

「貴方が知らないわけないでしょう? 実は読書家のキョウジさん。僕を異人と呼ぶからには、『遠野物語』辺りを読まれたのでは?」

『おお、それそれ。ずっと前に和装のイズミ君を見た時に、正直似合うんだか似合わないんだかよく分からんって思ったけど、山とか神社とか鳥居とか、日本の自然を背景に据えて立つと、凄い調和してんなあ、って感動したんだよ。キレイ過ぎて現実味もなかったから、昔話に出てくる天狗とか人攫いって言われても、案外ころっと信じられそうな雰囲気もあったしな』

「和装は、またお披露目しますよ。ですが、僕は天狗でも人攫いでもなく、ただの呉野和泉です。人を攫うだなんて、そんな大それた犯罪。到底できませんよ」

『あんた、やっぱり面白い奴だな。話してて退屈しねえ』

「それはどうも。僕もキョウジさんとのお電話、好きですよ。ただ、今日は雑談を楽しんでばかりもいられないようです。昨日のお話、よろしくお願い致します。できる限り、目を離さないであげて下さい」

『俺にはどうしてイズミ君が心配するのか分かんねえけど、何か事情があるんだろう?』

「おや。追及はしないのですね」

『したら答えるのか?』

「さて、どうでしょうね」

『ほらな。まあ、ハルちゃんの暮らしを気にかけてくれる気持ちは有難いから、別に根掘り葉掘り訊いたりしねえけど。分かんねえなあ。イズミ君は、人の恋路なんかに口挟むような出しゃばりじゃないはずだ』

「滅相も御座いません。僕は出しゃばりですよ。そうでなければ、中学生の友人ができたりはしなかったと思います。良い御縁をたまわりました」

『へえ? 歳食ってくとさあ、若者とどう付き合っていけばいいのか考えさせられるよな。結局悩んでるのが馬鹿馬鹿しくなって、いつも地でいってるけどさ』

「キョウジさん、そんなお話をされるにはまだ若過ぎますよ。三十七でしょう」

『あんたに歳の事を言われたくないな。イズミ君、いくつだっけ?』

「二十六です。若造が出過ぎた事を申しました」

『二十六の若造の喋り方じゃねえよ。ガキの頃のイズミ君は、外国の油彩画に描かれた天使みてえだったのに、変な奴になりやがって』

「ところでキョウジさん。妙な訊き方になりますが、首尾は如何いかがなものでしょう」

『……五分五分ってとこか。いや、多分何回かはフラれる』

「そうですか」

『そうですかって何だテメェ』

「他になんと申せば良いか分からなかったものですから。申し訳ありません」

『謝られると余計傷つくわ! やめろ! ……まあ、諦めるつもりはないけど』

「ああ。やはり勝算はあるのですね。安心致しました」

『一緒になりたいとか、そういうのはさあ。俺はどうでもよかったんだ。そこまで望むのは駄目だろう。それこそ出しゃばり過ぎだ。俺は『義兄さん』だしな。色々壊れると思うし、単純にそれが怖かったのもある。元々ある幸せに分け入るっていうのは、どう考えても無粋だ。俺はあの家族の『愛』を見てるだけで、結構幸せなんだ。だからイズミ君の頼みでも、絶対突っ撥ねたと思うよ。同じ話を先に、甥っ子に言われてなかったら』

「おやおや。子供は不思議ですね。大人が思うよりも遙かに多くのことを思考して、時折思わぬ行動に出る。案外大人よりも観察眼が優れているのやもしれません。見抜かれていますよ、キョウジさん」

『二十六ならイズミ君だって子供だ。あんた老成し過ぎて笑えてくるな。……今回の事は、真剣な話として受け取っとくよ。どうせ理由を教える気はないんだろ?』

「教えた場合、僕が狂人呼ばわりされる未来が見えますね」

『それなら心配無用だ。あんたもう結構な狂人っぷりを発揮してる。……でもまあ、信じてやるさ。見守る以外の『愛』なんざ初めてだけど、形は違えど『愛』は『愛』だろうよ。……はあ、それにしても『愛』ねえ。愚弟が甘ったるい奴だった所為で、抵抗なんかどっか行ったわ』

「その弟さんと、惚れた女性の為に、安産祈願のお守りを血相変えて買い求めに来られた方のお言葉とは思えませんね。その御縁でのお付き合いには、感慨深いものがありますよ」

『イズミ君、それ、言いふらしたら殺す。……っと、しまった。言葉遣い直さねえとな。俺の口が悪い所為で、シュウゴまで最近言葉遣いが乱れてるんだよ。あいつ、ハルちゃんの前では純朴そうに喋ってるくせに、友達の前ではやっぱりちょっと口がりぃから。こないだついに友達と電話してるところを聞かれて、殺すとか言ってるのがバレたらしい。俺までハルちゃんに怒られた』

「それはまた物騒な……いや、道理でと言うべきですね。彼はその容貌から連想される性格よりも、ずっと純朴で優しい少年ですから。殺すという言葉は似合わないと思っていました。貴方が原因なら納得です」

『……。やっぱりさっき言ってた中学生の友人。シュウゴか。同じ日に二人の人間から同じことを言われるなんて、絶対おかしいって思ってたんだよ。なんだ、お前ら結託しやがって。若者が大人をからかうな』

「その台詞。貴方の愛しい人と同じですね」

『ん? 何か言ったか?』

「いえ。それより、僕らは結託などしていませんよ。これは本当に偶然です。ただ、彼に伝えそびれた事があるので、少々困っておりまして。キョウジさん、彼はもうこの事を知っていますか? 間に合えば良いのですが」

『ああ。シュウゴは帰った後だったけど、夜に電話で伝えてやったよ。……あいつ、何かあったみたいなんだよな。ちょっとびっくりした』

「何か気になることでも?」

『土下座されたんだ。普通科の高校に通わせてほしいから、金出してくれ……って。いきなり家に押しかけてきたのにも驚いたけど、その時のシュウゴの格好も凄かったしな。制服を汚したとかでジャージでさあ、顔も腕も擦り傷まみれで。運動する奴だから、それくらいじゃあ驚かねえけど……なんか、目つきが変わってたんだよな。生き生きしてるっていうか。まあ、何であれそんな理由で土下座されるのは腹立つから、ちょっと喧嘩になってな。その後で全額出してやるって言ったけど』

「お優しいのですね。貴方は」

『これくらいで優しいなんて言うな。当たり前のことだろう。あ、あとシュウゴの奴、妙なこと言ってたな。俺、あいつに難しい本を貸してたんだ。学校の課題でいるとかで。でもさ、急いで読むんじゃなくて内容をしっかり理解したいから、なんて言い出してさ。課題は結局、別の本で済ませたらしい。しかも貸してたその本、欲しいって言われたんだ。買ってやるよって言ったけど、俺の本がいいんだと。イズミ君、どう思うよこれ? 詮索も野暮かと思って訊かなかったけど、何があったんだろうな』

「それは、貴方への感謝の気持ちに他なりませんよ。あとは――『武器』ですかね」

『は? 武器?』

「知識が時に武器となり得ることを、柊吾君は知ったのです。あれは初めて柊吾君が、大人からの教育が現実に対して役に立ち、戦いに使えるものなのだという確信を掴ませてくれた物ですから。記念の品、もしくは覚悟の意味合いもあるのでしょう。買った本では駄目なのです。貴方の本が良いのですよ」

『……。何、シュウゴ、俺に惚れてんの?』

「遥奈さんにフラれますよ、キョウジさん。柊吾君にも怒られるかと。……ああ、病院に到着しました」

『ん、そうか。……まあ、お大事にな。何て言ったらいいのか、よく分かんねえけどさ。事情は適当にしか教えてもらってないから。相当そっちが悪いみたいだし、もしシュウゴに累が及ぶなら、俺、こっちの味方するから。悪いけど、そのつもりで』

「勿論ですよ。ご迷惑をおかけしました」

『ん。じゃあな、イズミ君』

「それではまた。恭嗣さん」

 ――ぷつん、と。

 通話を切って、そのまま電源も落とした携帯を、スーツのポケットへ滑り込ませながら――呉野和泉は、迷いのない足取りで歩く。

 病院のエントランスを抜けて、エレベーターに乗り込んだ長身痩躯は、あっという間に整形外科の入院患者が過ごす病棟へと辿り着く。和泉は目的の扉の前に立つと、ノックの姿勢で動きを止めた。

 ――扉の向こうから、少女の声が漏れていた。

 低く紡ぎ出された少女の声は、抑揚と人間味を欠いていて、聴く者のいないラジオか、あるいは唱えられた経文のようだった。

 しばらく立ち止まっていた和泉は、やがて扉を、スライドさせた。


「殺す、殺す、殺す、殺す…………」


「……」

 室内に入った和泉は、扉を後ろ手に閉めて、肩を竦める。そうして軽い笑みを浮かべると、ラジオを解体ばらして捨てるように、少女の読経を途切れさせた。

「まるで呪詛ですね。幽鬼のようですよ、氷花さん」

 一人部屋の窓際で、水色の入院着姿の呉野氷花が、ベッドで上体を起こしていた。長い黒髪は帯のようにシーツへ広がり、前髪の向こうで殺意を滾らせた双眸は、言葉通り幽鬼のようなおどろおどろしさで、ひたと兄を捉えていた。

「……何しに来たの」

「見舞いです。ですが、見舞いではありません。退院ですよ、氷花さん。貴女の怪我は元々、入院するほどのものではありません。速やかにここを出て、ベッドを他の患者さんに明け渡して下さい」

「嘘よ!」

 氷花は噛みつくような勢いで和泉を睨み、激しく身体をよじった。しかしそんな動作がよほど身体に響いたのか、ぎりぎりと悔しげに歯噛みしている。

「こんなに痛いんだもの! 罅が入ってるって言われたのよ! ……三浦柊吾、許さない。殺す、殺す、殺す……」

「つまらない呪詛は後にして頂けませんか。退屈です。もう一度言いますよ。貴女の怪我は入院するほどのものではありません。確かに肋骨に罅は入っていますが、ごく小さなもので、検査の結果、臓器を傷つける危険もないと判断されました。湿布とバンドの自宅療養で安静にしていれば治るものです。見苦しく痛がって図々しく居座り、病院を困らせるのもいい加減にして下さい。貴女の名前、ブラックリストに載ったと思いますよ。いくらごねようと、これ以上居座るのは不可能ですから。さ、荷物を纏めましょう。手伝いますよ」

「あんたが全部やってよ」

「貴女の荷物でしょう」

「信じらんない! 入院患者にさせるなんて!」

「僕はどういうわけだか、貴女の事は『分かりません』。それでも、貴女が必要以上に痛がって我儘を言っていることくらいは簡単に見抜けるつもりです。そんな悪党にかける慈悲などありませんので、悪しからず。あと、入院患者を名乗るのもおこがましいかと。貴女は病院に齧りついているだけですから」

「やっぱりあんた、嫌いだわ。死ねばいいのに。……『弱み』、晒してよ」

「効きませんよ。何を言われても。諦めが悪いですね」

「……ふん。まあ、いいわ。……いいのよ、別に、ふふふ……」

 瞳いっぱいに嘲りと憎悪と怒りを湛えた氷花が、口元を震わせて笑った。狂気を病室中に振り撒きながら、氷花はベッドをまさぐり、シーツから携帯を取り出した。

「情報網を駆使して、調べたのよ。……三浦柊吾。あいつの『弱み』が分かったわ」

「大層な執念ですね。形ばかりのご学友から、一体何を訊き出したのやら」

「三浦柊吾は、母子家庭よ。小六の時、父親が事故死してるわ。以来、あの家族はずっと二人。……あいつの『弱み』は『母親もいなくなる事』よ。……三浦遥奈。十四歳の息子を持つには若いわね。綺麗なお母さん。羨ましいわ。……まあ、もうすぐいなくなるけどね。……消してやる。三浦君。残り短い家族で過ごすひと時を、精々楽しめばいいわ。殺す、殺す、殺す……」

「……。そんなことだろうと思っていました。貴女は外道で、小物ですから。卑怯者の手口は実に分かりやすいですね」

「小物っ? ふふ、三浦遥奈がどうにかなった後で、同じ台詞が言えるかどうか見物だわ!」

「手なら、既に打ちました。まずは貴女の転校です。袴塚市内ですが、学区は柊吾君や撫子さん達の通う袴塚西からは最も遠い。中学生活を送る貴女が、遥奈さんに手を出し辛いようにしました」

「それが何? ふふ、それくらいが何なのよ! あはははっ、お兄様、馬鹿なんじゃないの?」

「あと、貴女は誤解していますよ。柊吾君は母子家庭ですが、あの家は二人だけではありません」

「はあっ?」

「少なくとも、家族という括りでは三人です。柊吾君は学生なので、遥奈さんにぴったりついて守り続けるのは確かに不可能です。ですが、柊吾君の目が届かない所で、遥奈さんを守れる人は存在します。相手も社会人なので時間の制約は柊吾君と同じですが、何かしら知恵を絞ってくると思いますよ。ここは一つ、『愛』ある三浦家の方々の言葉をお借りしましょうか。――大人の恋『愛』に、中学生で十四歳で真っ盛りの『クソガキ』が、どこまで健闘できるのか。それこそ見物ですね。貴女、柊吾君にも言われていましたね。グロテスクだと。僕もそう思いますよ。貴女が『愛』を語るには、些か早すぎたようですね」

「……うるさいわ。死ね。俗っぽい言葉を放つお兄様なんて、醜くて大嫌いよ」

「借り物の言葉では、美しく響かなくとも道理でしょうね。ああ、折角ですので、種明かしをもう一つ。今まで僕は、貴女が小学五年の時の事件について、知ることが出来ませんでした。理由は、僕が当時の事件を知る少年少女と出会わなかったからです。ですが、僕は三浦柊吾君と出会いました。――ようやく分かりましたよ。事件の概要と、その記憶。そして、紺野沙菜さんの事が。やはり、貴女の仕業だったのですね。確信はしていましたが、残念です」

「私は、なかなか面白かったわよ?」

 悪びれもせずに、氷花は威張る。和泉は病室に来た時から薄い笑みを浮かべていたが、この時だけは、顔色が僅かに曇った。

「柊吾君は、犯人に気づいているようでしたよ。撫子さんも。……貴女達が小学五年の時に、ナデシコの花を全て切り取った犯人は、紺野沙菜さんですね」

 和泉は、言った。淡々とした声だった。

「貴女は、紺野沙菜さんに〝言霊〟を使いましたね。彼女の『弱み』はたくさん見当がつきますが、おそらく、一番心に刺さる言葉は――『雨宮撫子』。違いますか」

「あら。さすがね」

 ご明察とばかりに、氷花はにやにやと笑った。

「紺野沙菜。大人しくて地味でブス。友達を自力で作る事すらできなくて、一緒にいた子のおかげでなんとかクラスと繋がれてた、妬みと僻みとやるせなさと絶望で身体ができているような、劣等感の塊みたいな女の子。――彼女を狙ったのは、あの頃の私の〝言霊〟の実験よ。あの子が誰に対して一番強い羨望を持っているか、分かっちゃったんだもの。ナデシコの花を植えている時に、クラスの子がやたらとナデシコナデシコってうるさかったのよね。花と同じ名前の雨宮撫子が、脚光を浴びたってわけ。……そんな様子を、じいっと見てた女の子。『弱み』を遠回しに突き付けた時、それでも効果が得られるか。試してみたかったの」

 艶めく髪を指でき、氷花は陶然と笑みを深めた。

「だから、やったわ。『雨宮撫子』の名前を、しつこく何度も出してみた。それで、たまに褒めてみる。雨宮撫子の立ち居振る舞い、顔。そういうものを、褒めてみる。……見えるようだったわよ? 剥き出しの嫉妬と劣等感が。口が達者なわけでもないのにクラスに馴染んで、顔も自分よりずっと綺麗。息苦しさなんてまるで感じさせない涼しい振る舞い。可愛いわよね、羨ましいでしょう? 肌も色白で、綺麗なものに思うはずよ。だからこそ……憎いんじゃないかしら?」

「……」

「効果は、すぐに出たわ。まさかあんなに派手な事件を起こすとは思わなかったけど。それに転校しちゃったし、最後はつまらなかったわね」

「煽るものでは、ありませんよ。劣等感というものは」

 答えた和泉は、何かに見切りをつけるようにかぶりを振った。

「何故、ああいう風に紺野沙菜さんがしなければならなかったのか。貴女は実験だと言いながら、まるで分かっていないのですね」

「……ふぅん? じゃあ、教えなさいよ」

「最初はおそらく、雨宮撫子さんの花だけを切ったのでしょう。氷花さんが駆り立てた嫉妬が、彼女にそんな短絡的な行動を迫ったのです。……ただ、彼女はそんな凶行を実行に移すには、あまりに心が優しく……いえ、もっと適切な言い方をしましょうか。小心者です」

 曖昧な言葉をいとうように、和泉はきっぱりと言った。

「だからこそ、行為に及んでから相当焦ったはずです。級友の花を無残に切り落としてしまった。どうしよう。犯人が自分だとバレてしまったら……。罪の意識もあったでしょうが、発覚の恐れの方が格段に強かったはずです。そうして、ナデシコの花を一輪切り落とすという彼女の『罪』は――もっとたくさんの『罪』を呼び寄せる結果となりました」

 言葉を切った和泉は、腕に提げた鞄から一冊の文庫本を取り出すと、ベッドの氷花へ見舞いの花のように手向けて見せた。

 ――『罪と罰』。著者はドストエフスキー。

 しかし、上巻のみだった。

「木の葉を隠すなら森の中へ。悪意を隠すなら悪意の中へ。一輪だけ切り取られたナデシコの花。その憎悪の行き着く先が、雨宮撫子さんである真実を隠す為にすべき事は――憎悪の対象が、誰なのか分からないようにしてしまう。これに尽きると思いますよ。悪意をぶつけられた張本人である撫子さんや、柊吾君のように感情の機微に繊細な人間は気づいていたようですが。その後の転校は、彼女が保護者へ強く訴えた末に実現したもののようですね。苛められているから転校させてほしい、と。……自殺、でしょうね。その後の事故は。おそらく」

「それくらいで死んじゃうなんて、軟弱ね」

「追い込んだのは、貴女ですよ。貴女の花だけが切られなかった意味、分かりませんか? 彼女なりに精一杯、貴女を弾劾していたのだと思いますよ。自分を狂わせた元凶に、どこかで気づいていたのでしょう」

 語りに一区切りをつけた和泉は、氷花の手に握られたままの携帯を、ぱっとおもむろに取り上げた。

 ぽかんとした氷花は、すぐさま整った容貌を怒りの色に染め上げた。「何するのよ! 返して!」と文句を喚きながら手を伸ばしたが、和泉は『罪と罰』を代わりに押し付けただけで、氷花に携帯を返さなかった。

「三浦柊吾君は、貴女を仇だと呼びました。その〝言挙げ〟に込められた感情が憤りであれ殺意であれ、僕は彼を尊敬します。それは紛れもない『愛』だからです。友愛であれ恋愛であれ家族愛であれ、彼は薔薇を育てるように『愛』を大切にしています。僕は絆を大切にする人の事が好きなのです。……僕は貴女の事も、妹として大切にしようと思っているのですよ。氷花さん」

「……何よ、突然」

「だって、そうでしょう。貴女は柊吾君にとって『仇』ですが……僕にとっても、『仇』なのですから」

 和泉は、普段と寸分違わない調子で、笑った。

「貴女という〝言霊〟を悪意で弄ぶ者に抗う、強い意志を持った者達を、僕は尊敬しています。憤りであれ殺意であれ、それらの情動は僕に欠けたものだからです。貴女には『愛』がありませんが、僕にはおそらく『憎悪』がない。『愛憎』が欠け合う兄妹など、全く、可笑しなものですね」

「……」

「親殺し。……忘れたとは、言わせませんよ。ですが僕は、僕自身が貴女に直接手を下そうとは思いません。そんな情動がないのです。……それに。『愛』していますよ。氷花さん。仇討の気概を持たない僕は、ただ貴女の破滅を見届けたいのです。貴女がその身を滅ぼしていくのを、ただ観察させて頂きたいだけなのですよ。あるいはこの感情が『憎しみ』でしょうか。あまりぴんと来ませんね」

「……。あんた、狂ってるわ」

「貴女なら、そう言うでしょうね」

 和泉は暴言を意に介さず、氷花から奪った携帯を振って見せた。

「貴女が柊吾君一家の『弱み』探しの為に使用した、携帯電話。養父の方に僕から連絡しておきましたので、今日中に止められると思います。まだ使えるようですが、時間の問題です。高校まで携帯はお預けですね」

「……。はあっ!? ちょっと、どういうことよ!」

「氷花さんも年頃ですので、少々いかがわしいのではないかと危ぶまれるサイトの数々を、ネットを利用して閲覧ばかりしている、と。僭越ながらリークさせて頂きました。このままでは教育上大変よろしくない上に、多額の請求が来る日も近いと警告したところ、すぐさま解約の手続きを行うと請け負ってもらえましたよ。良かったですね。形ばかりのご学友との御縁、これで後腐れなく断ち切れます」

「……っ! 良くないわよ! 何てこと言うの! 出鱈目じゃない! ……そんなのっ、見ないわよ! 死ね! 死ね! 死ねぇぇっ!」

 羞恥と怒りを爆発させて赤鬼の形相になる氷花をよそに、和泉は涼しく澄ましていた。携帯をぽんと懐へ収めると、氷花が受け取らずにベッドへ落ちた本を見下ろしている。

「貴女の学校で、面白そうな国語の授業があったそうですね。――読書紹介。貴女はどうせ、転校を名目にろくに着手していなかったのでしょうが、見栄だけはしっかり張ったようですね。提出予定の本のタイトルに、『罪と罰』を挙げるとは。しかし貴女、中身を全く読んでいませんね? 下巻は貴女の部屋をいくら探しても見つかりませんでした。最初から読む気などなかったのでしょう。背表紙のあらすじに記されたラスコーリニコフの犯罪理論に心酔し、そこにのみ焦点を絞って調べましたね」

「……そんなこと、ないわよ」

「貴女の演説、なかなか面白かったですよ。ですが、他者の理論を持ち出しては、勝てる喧嘩も勝てませんね。初めから貴女に、勝機などありませんでしたが」

「そんなことないわ!」

 きっ、と顔を上げた氷花が和泉に食ってかかったが、和泉は首を横に振り「いいえ、貴女は柊吾君には勝てません。何度争っても、それは変わらないでしょう」と同じ〝言挙げ〟を繰り返した。

「彼が何故、三浦『柊』吾君という名前なのか。氷花さんには分かりますか?」

「はあっ? 何それ。他人の名前なんか、どうでもいいわよ!」

「まあ、そう仰らずに」

 和泉は氷花を宥めると、窓際へ歩み寄った。定規で引いたような白い日差しがブラインドから細く射し込み、異国の髪色を金色に輝かせた。

「柊吾君の名前には、ヒイラギという植物が入っていますね。ぎざぎざした棘のある葉はクリスマスの飾りつけにも使われますし、氷花さんも見た事があるはずです。触ると棘が手に刺さり、ひりひりと痛い。そんな痛みを表現した『ひいらぐ』という言葉があります。この言葉が和名の由来だそうですよ」

薀蓄うんちくね。あんたのそういう、うざったいところ、嫌いよ」

 氷花は露骨に嫌がったが、和泉は気にした風もなく、窓に背を向けて解説を続けた。

「ヒイラギは、古来より魔除けの植物と考えられてきました。日本には『柊鰯ひいらぎいわし』という風習があり、ヒイラギの小枝に焼いた鰯の頭を刺して、正月や節分に玄関先へ飾ります。鰯の臭気で、家に近づく鬼を追い払うのです。ですが逆に、鰯の臭気で鬼が家に誘われてくるという解釈も存在するようですね。しかし、臭気で誘われてきた鬼の目は、ヒイラギの棘が突き刺します。よって、鬼は家に近寄れません。別名『オニノメツキ』とも呼ばれます。『古事記』にもヒイラギが神聖な植物である事を示す話が所収されていますので、興味があれば調べてみると良いでしょう。『罪と罰』を雑にしか読めなかった貴女が、自発的に調べるとは思えませんが。これを機に、読書を楽しんでみては如何いかがです?」

「兄さん。……結局、何が言いたいの?」

「雨、降ったでしょう。もし、あのまま柊吾君が貴女の〝言霊〟を打ち破れなかったとしてもです。あの時降った雨が、柊吾君を救ったはずです。衣服が雨水を吸えば、立派な目印になりますからね。……状況は全て、貴女ではなく、柊吾君に有利なように動くかと」

「何が言いたいの!」

「……。相手は『ヒイラギ』です。『鬼』の貴女が、勝てるわけがないでしょう?」

 目元に前髪の影を蒼く落として、和泉は笑った。

「『愛』が深い名前だと僕は思いますよ。遥奈さんのお身体を思うと、産まれてくるお子さんの事がとても心配だったのでしょう。その昔日本では、女児よりも男児の方が身体が弱く、丈夫な発育を願って女児のふりをさせたり、女児の名前を付けたりしたという風習もあります。どことなく、それらと似た祈りを感じませんか? 両親の授けた、慈悲深く嫋やかな『愛』の御加護です。無病息災を願われたのだと思いますよ。名前は両親が子供へ捧げる初めての愛情だと、あの少女も言っていましたね。父親が早逝したところで、その守りは不変です。彼は美しい『愛』に守られています。貴女では敵いません。何せ、貴女はグロテスクですからね」

「……殺す」

 氷花は凄んだが、和泉は「ところで」と話題を変えて、妹を見下ろして微笑んだ。その笑顔は、今まで三浦柊吾に向けてきた笑顔とは、質が異なるものだった。

「雨宮撫子さんは、結局誰の事が好きだったのでしょうね?」

「はっ? 何を寝ぼけたことを言っているの。日比谷陽一郎でしょ」

「本気で、そう思いますか?」

「……?」

「雨宮撫子さん。貴女が撒き散らした狂気に両目を塞がれ、人が『見えなく』なった少女。彼女の目を通した世界では、『見える』人間がどんどん減っていきましたね。その一方で、彼女にとって『必要』な人間になればなるほど、『見える』側の人間として生き残りました」

「そうよ。そして残ったのが日比谷陽一郎じゃない」

 他人の努力を嗤うように、嘲った氷花が胸を張った。

 和泉も笑みを返したが、歪な笑みのままだった。

「貴女が撫子さんを傷つけたことで出来上がった、あの世界のルール。しばし一緒に考えて見ませんか?」

「ルール? 壊れた女の妄想の、一体何を考えろって言うの?」

「興味深いですよ。実に。……貴女は先程、紺野沙菜さんを追い詰めたことを『面白い』と言いましたね。僕にとっては、こちらの方が面白いのですよ」

「……説明、しなさいよ」

 氷花が、笑みを消した。何かがおかしいと気づき始めたのか、顔が、微かに強張った。

「まず、撫子さんの世界でごく最近まで生き残っていたメンバーを挙げていきましょう。三浦柊吾君。日比谷陽一郎君。両親。学校関係者。――ここから、撫子さんがこれから生きていく上で、確実にいなくては困る人間を引いていきます。すぐにでも消去法といきたいところですが……果たしてこの前提は、本当に正しいものなのでしょうか?」

「兄さん、何を言っているの?」

「撫子さんが最近まで『見えて』いたのは、三浦柊吾君。日比谷陽一郎君。両親。学校関係者。……本当に、これだけですか?」

「そうよ。それだけに決まってるじゃない」

「それは、誰が言ったのです?」

「……学校の、皆よ」

「学校の皆」

 くつくつと、和泉は笑った。乾いた笑い方だった。じわじわと雰囲気を妖しげなものへ変えていく兄をベッドから見上げた妹の顔が、はっきりと引き攣った。

「何が……可笑しいのよ!」

「いえ。失礼致しました。それにしても、妙ですね。貴女も、学校の皆も、『雨宮撫子』さんではないというのに。何故断言するのです? 『見えて』いるのが、先程のメンバーだけだと。その確信を、何故疑わないのです? 何を根拠に、そんな結論に至ったのです? 一体何を理由にすれば、それほどまでにはっきりと、メンバーを特定できるのですか……?」

「そ、そんなの、……っ、知らないわよ!」

「知らないなら、教えて差し上げましょう。撫子さんの『目線』と『態度』。この二つを元にしたクラスメイト達の判断によって、根拠のない結論が蔓延するに至ったのです。氷花さん、貴女は小学五年生の時、撫子さんと同じクラスでしたね。彼女の事を、どう思いましたか? 碌に会話は交わしていないのでしょう。印象だけで結構です。何を思いましたか。聡明な少女という印象を、持ったのではありませんか? 楚々とした振る舞い。落ち着いた物腰。あまり感情を露わにはできない性質ですが、だからといって、彼女は人形ではありません。血の通った人間です。生きている、思考する、言葉を話す、感情のある、慈悲深い、そして――『憎悪』もする、人間なのですよ……?」

「……分からない! あんた、何言ってるのよ! 分からないわ!」

「ラスコーリニコフにかぶれた貴女に、柊吾君に代わってもう一度、『罪と罰』の概要をお話ししましょう」

 ブラインドを背にした和泉が、顔色を失くした妹を見下ろした。逆光の所為か、瞳を照らす明かりを失った青色は、酷薄な薄暗さを宿していた。

「貧乏書生、ラスコーリニコフ。彼は独自の犯罪理論を己の中で育て上げ、その理論に基づいて、阿漕あこぎな商売をする高利貸しの老婆を、斧で叩き殺します。――ここまでは、柊吾君も貴女に説明しましたね。しかし、タイトルをよく考えて下さい。この本は『罪と罰』です。柊吾君の説明では、まだ不足していますね。彼の説明には『罪』しかなく、貴女の齧り取った犯罪理論も『罪』の部分に相当します。――『罰』を、お忘れですよ。氷花さん」


 きい、と。扉が軋む、音がした。


 スライド式の扉が静かに開いていき、あまりにゆっくりとした動きの負荷で、扉が軋む。氷花はベッドで上体を起こしたまま、目を大きく見開いた。

「ラスコーリニコフは、世の善行の為ならば、非凡人はあらゆる規範を踏み越える権利を持つという理論に則り、犯罪を遂行します。ですが――その時、彼にとって予想外の出来事が起こりました。老婆を斧で叩き殺した現場に、老婆の妹である女性、リザヴェータがやって来たのです。犯行現場を押さえられたラスコーリニコフは、この女性をも手にかけてしまった。――阿漕な老婆だけでなく、関係のない、妹まで。ラスコーリニコフは、激しい苦悶と罪の意識に苛まれ、徐々に、精神的に追い込まれていく……。紺野沙菜さんの『罪』は、花を切り取った事。そして『罰』が彼女の死に値するのなら――ラスコーリニコフをかたった悪鬼、現代の『罪と罰』。貴女にはどんな『罰』が下されるのでしょうね。……ただ、この展開は、僕にも予想外でした」

 涼しく瞠目した和泉は、開け放たれた扉を見る。

 そして、友好的に笑いかけた。

「こんにちは。雨宮撫子さん。貴女はやはり、見た目の印象通りの聡明さを秘めた少女でしたね。きっと、たくさん考えたのでしょう。己の身に起こった事を、気が遠くなるほどの孤独の中で、一人きりで考えたのでしょう。そして、気づいたのですね。誰の〝言葉〟をきっかけにして、人が消えた孤独な世界に、連れて来られてしまったのか。……気づいた時から、孤独に戦おうと決めたのですね。クラスメイトさえも欺きながら。……そして、機会を伺っていた。己に悪意を向けた元凶を叩けば、こんな『見えない』世界は終わる。……そう、至ったのですね? 貴女は、調べたのですね。僕の不肖の妹の事を。ここに昨日、我儘で入院した事を。壊れゆく世界の中で、『愛』だけが執着の理由にはならないでしょう。『憎悪』もまた、『愛』に引けを取らないほどに強い感情でしょうね。『敵』の存在は、生きていく上で、時として、非常に――『必要』な存在です。……貴女は。『見えて』いたのですね……?」


「くれの、ひょうか」


 片言の声が、病室に響いた。

 真夏の風鈴に似た、凛と涼しげな声だった。

 背の低い、針金のように痩せた身体。白いブラウスに、青と白のチェック柄のスカート。襟に留められたリボンタイで、金色のボタンが光っている。高い位置で少しだけ二つに結われた栗色の髪が、身じろぎに合わせて揺れた。

 呉野和泉の言葉に、全く反応を示さない少女――雨宮撫子が、顔を上げた。

 琥珀色の瞳は、どこか焦点がずれている。現実を真っ直ぐに捉えることが叶わない瞳は、〝言霊〟で幻惑されて一時的に正気を手放した日比谷陽一郎を見る者に彷彿とさせた。

 氷花は、凍りついたように動きを止めて、撫子を見つめていた。撫子の目も、氷花の姿を真っ直ぐに捉えた時、白い手がスカートのポケットへ伸びた。

 その手が、ポケットから引き抜かれた時――折り畳み式の小さなナイフが握られていて、きんっ、と怜悧れいりな音を響かせて、刃が伸びた。

 氷花が、顔面蒼白になった。

「あ、あ、あ……ぁぁぁああああ!」

 どちらの叫びか分からない悲鳴と怒号が迸った。真の処刑場と化した病院の一室で、やいばを構えた撫子が氷花に向かって駆け出した。

 逃げようとした氷花の鼻先に、大きく振りかぶられた刃先が掠める。「ひっ」と短い悲鳴を上げた氷花がベッドへ倒れ、頭が勢いよく枕へ沈んだ。撫子は身軽にベッドへ飛び乗ると、その頭目掛けてナイフを思い切り突き立てた。くぐもった音が響き渡り、間一髪避けた氷花の耳元で、ナイフが枕を刺し貫く。撫子が刃を引き抜いた瞬間、ぶわりと羽毛が花吹雪のように舞い散った。

「い、嫌っ、やめ、助け……! 兄さん! 何見てんのよ! 止めなさいよ!」

 氷花は撫子の身体を突き飛ばしたが、その手の平にも撫子がナイフを向けた事に気づき、身体を強張らせ、ベッドから落ちた。耳をつんざく落下音とともに、脇腹を打ち付けた氷花の顔が歪む。だが撫子がベッドの上でゆらりと立ち上がったのを見るや否や、恐怖の形相で床を這い始めた。

「さて。撫子さんに貴女が『見えて』いたという前提を加えて、先程の考察の続きと参りましょう。生存メンバーは、三浦柊吾君、日比谷陽一郎君、そして貴女。あとは両親と学校関係者」

「こんな時に何言ってるのよ! 助けなさい! 助けなさいってば!」

 撫子が、ベッドから降りる。床を這う氷花が、腹部を押さえて身体を折った。

「撫子さんは『陽一郎とキスをした』という貴女の〝言霊〟によって変容した世界で、一部の人間だけが『見える』ことを許されました。生存メンバーとして最後まで残れば残るほど、撫子さんに必要とされている、すなわち『愛』があるということになります。……ただし。この〝言霊〟に則るならば、実はこの世界では『日比谷陽一郎』君だけは、絶対に生き残るようになっているのですよ。陽一郎君を起点として巻き起こった狂気です。彼はおそらく、どんなことがあろうと最後まで『見える』側として残るでしょうね。残らなければ、彼女の世界は成り立たないのだと思います。肉親、教師が見える理由も同様です。彼らは撫子さんが生きていく上で、本当に、最低限、いなければまずい人達です。――氷花さん。貴女は先程、撫子さんが陽一郎君の事を好きだと断言しました。果たして、そこに『愛』はあるのでしょうか? そして、同時に――そんな生命の維持如何(いかん)にかかわらず、最後まで、本当にぎりぎりまで残った人が、一人いますね。その人物にだけ唯一、撫子さんは助けを求めています。その人物は、それを彼氏である陽一郎君が頼りないからだと解釈していたようですが、僕は違うと思いますよ。氷花さん。それは一体、誰の事でしょうか……?」

「……っ、『雨宮撫子は、人が見えない』! 『あんたは一人ぼっちなのよ』! 寂しい女! こっちに来ないで!」

「無駄ですよ。貴女の〝言霊〟は、もう彼女には届きません。壊れた女と、先程仰ったのは貴女でしょう? 彼女に言葉が届かないようにしたのは、他の誰でもない、貴女なのですよ……?」

「助けなさいよ! 馬鹿兄貴! あ、う、あああ!」

 撫子の細腕が描いた一閃が、氷花の髪を掠った。長い黒髪が腕に絡み、「くれの、ひょうか」ともう一度呟いた撫子が、蜘蛛の糸のように巻き付く髪を引っ張った。強い引き方ではなかったが、床に伏せた氷花は最早動けず、涙が目の縁に盛り上がった顔のまま、がたがたと恐怖で震え続けた。

「……。やれやれ。無様なものですね。貴女の破滅に興味がある身としてはもうしばらく観察していたいのが本音ですが、撫子さんが社会的に抹殺されるのは僕の本意ではありません。仕方ないですね。お助けしましょう」

 嘆息した和泉が、ナイフを緩やかに掲げた撫子へ近づいていく。

 その気配にも、靴音にも、声にすら撫子は反応しなかった。

 ただ、静かに泣いていた。瞳に涙を薄く溜めて、理不尽を成した仇を見下ろしていた。

 かつて、己の身に降りかかった悪意を受け止め、慈悲の心で許した少女。その少女が初めて他者に向けた、悪意に対する制裁として、白い掌に握りしめた『武器』。

 敵を討てば、終わる。〝言霊〟で暴虐された生傷だらけの自我を必死に繋ぎ止めて、朦朧とする意識で弾き出した、一つの答え。そう信じた末の、決死の凶行。

 凄絶な覚悟と狂気の入り混じった刃に、和泉の手が、触れかけた時だった。


 ――足音が、狂乱の病室に向かってきた。


 誰の耳にも大股でやって来たと分かる足音を聞いた和泉は、つと柳眉りゅうびを寄せると、撫子の手から急いでナイフをもぎ取ろうとした。

 だが、開かれたままの扉から、和泉達の前にその人物が躍り出る方が早かった。


「――呉野ぉ!」


 大柄な体躯に短髪、白いカッターシャツに、青と白のチェック柄のズボン――三浦柊吾だった。

 病室に駆けつけた柊吾は、三者の鬼気迫る様子に気づき、息を呑んだ。

「あ……、雨宮が、なんで……」

 発しかけた戸惑いの声は、リノリウムの床へ膝をつく撫子がナイフを握っていて、その切っ先が氷花の喉元に向いていると気づいた途端に止まり、さっと表情が緊張したものへ変わった。

「雨宮ぁ!」

 叫んだ柊吾が、撫子の元へ滑り込んだ。氷花を突き飛ばし、華奢な腕を握り締める。撫子の目が見開かれ、喉から細い悲鳴が迸った。ナイフを握る撫子の手に力がこもり、制服のシャツを着た柊吾の腹を、一度、二度と刃先が叩く。生地を引っ掻く刃先が大きく振れて、柊吾の頬を鋭く撫でた。

 鮮血が、流れ出す。柊吾の顔が、痛みで歪んだ。『見えない』人間に怯えた撫子が抵抗する度、いくら柊吾が押さえ込んでも、刃先は小刻みに振れ続ける。柊吾は埒が明かないとでも思ったのか、刃先をまるごと、自分の手の平で強く掴んだ。

「っ!」

 呻くような悲鳴と共に、溢れ出す血潮。撫子の目に、怯えよりも遥かに強い、驚きが浮かぶ。

「雨宮……ごめんな。助けてって、言われたのに。俺、何もできてなかった。……ごめん。お前がまた、『見える』ようになったら……その時にまた、謝るから。だから……怖がるな。雨宮。俺だ。三浦だ。ここにいる。……待ってろ。今、分かるようにするから」

 柊吾は撫子の両手を掴む手から、片方を外した。撫子は、瞳に揺れる怯えの色を再び強めた。がたつく刃の切っ先が柊吾の腹を何度も掠め、やがてシャツから薄く血が滲んでも、柊吾は何も言わなかった。ただ、床に、手を伸ばした。

 み

 う

 ら

 書き終わりかけた瞬間、撫子の手から血で滑ったナイフが落ちた。からん、とナイフが涼やかに弾み、柊吾の書いた名前を潰して、床に血の滴が飛散した。

 台無しになった血文字を見ても、柊吾は冷静だった。落胆を顔に一切出さず、苦悶の色一つ浮かべずに、ただ、ふと思い直したように愁眉しゅうびを開き、新たな覚悟に臨む顔で――傍らで怯える少女の為に、新しく文字を、書き直した。

 今度は――たったの、一文字。


 柊


「……あ……」

 撫子が、まるで赤ん坊のように声を上げた。

「ひいらぎ」

 空っぽの両手を、撫子は見下ろす。血で汚れた手の平。自らの血ではない、誰かの血液。命の温度を手に乗せた撫子の目が、もう一度床を見る。

「ひいらぎ。……しゅう。……しゅう、ご……」

 そして――――柊吾を、見た。

「みうらくん」

 血の赤色に塗れた撫子の白い手が、そろりと、柊吾の顔へ伸ばされていく。やがて震える指先が、血を流す柊吾の頬に触れた。

「みうらくん……みうらくん。……みうらくん、みうらくん、みうらくんっ、う、ああ、あああぁっ」

 透明な涙を流す撫子の手が、柊吾の肩に、胸に、触れていく。柊吾はしばらくの間されるがままだったが、血で汚れたままの手で、撫子の肩にそっと触れた。血が、服に染みていく。柊吾の胸板へ倒れた撫子は、柊吾の名前を何度も呼んで、声を上げて泣き続けた。

 血液だけを絆にして存在を確かめ合い、すれ違い続けた時間を埋めるように抱き合う二人へ、誰も何も言わなかった。撫子がしゃくり上げる声だけが病室に流れ、やがて廊下から近づく複数の足音に反応した和泉が、得心したように微笑んで、扉をぴたりと閉めた。

「……完璧です。『愛』はやはり、こうでなくては」

 足音が遮断され、四人きりの時間が継続された、白と赤に染まる空間で――泣きじゃくる撫子に胸を貸していた柊吾は顔を上げ、厳しい眼光で一点を睨み据えた。

 視線の先には――呉野氷花。

 床に尻餅をついて茫然とする黒髪の少女だけを、柊吾は睨み据えていた。

「やはり来ましたね。柊吾君。この子が退院するまでに、必ず来ると思っていましたよ。――では、要件を伺いましょう。君は何の為にここへ来ました? 見舞いではないのでしょう?」

「宣戦布告に決まってる。知ってたくせに、よく言う」

 柊吾は和泉を軽く睨み、撫子を支えていない方の手を持ち上げると、氷花へ人差し指を突き付けた。

 血に濡れた指先が、仇を真っ直ぐ指でさす。氷花はそこから零れる血の滴に慄いて、大きく身を引いた。

 そんな仇の醜態を、柊吾は容赦なく睨みつけながら――恫喝を込めた言葉を、強い語調で、言い放った。

「俺は、普通科の高校に行くから。勉強、できるようになってやる。賢くなって、偉くなって……お前みたいな奴を社会的に抹殺できるような力、つけてやる。〝言霊〟だろうが何だろうが、お前がやったのは犯罪で、罰せられるべきなんだってことを、俺が示してやる。絶対だ。首洗って、待ってろ。……ぶっ潰す」

 指の先から血の玉を降らせた柊吾は、宣戦布告を〝言挙げ〟した。


「ぶっ潰す! 呉野氷花ああああぁぁぁ!」



【第2章・呉野氷花のラスコーリニコフ理論:END】→

【NEXT:第3章・鏡よ鏡】

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