花一匁 68
神社の異常に誰より早く気付いたのは、真っ先にそこへ到達した柊吾だった。
毬の教えてくれた道順に従って灰色一色の住宅街を駆け抜け、その果ての行き止まりである小山の入り口の鳥居前へ、辿り着いた時だった。
石段の先を仰いだ、柊吾は――その時初めて、バスを降りてから足を止めた。
どくん、と心臓が不吉な響きで脈を打った。
――石段の中腹に、誰か人が倒れている。
ざっ、と柊吾の隣で足音が止まった。弾む吐息と、「どうしたの」という声。七瀬が追いついてきたのだ。他のメンバーは、まだ来ない。
返事をする猶予はなかった。
柊吾は地を蹴って駆け出すと、石段を猛然と上がり始めた。
隣の気配も息を呑むと、次の瞬間柊吾をあっという間に追い越した。
「和音ちゃん! 和音ちゃん! 和音ちゃん――!」
巻き髪を乱した七瀬が悲痛な絶叫を藍色の空へ響かせながら、倒れた人間へ駆け寄った。
石段へしなだれかかるように意識を失くした少女は、袴塚中学の制服を着ていた。一つに結われていた髪は解けていて、ばらりと背へ流れている。
呉野氷花のような、癖のない真っ直ぐの黒髪。蒼白な顔の半分は、べったりと血で汚れていた。石段には血の手形が、いくつも、いくつも捺されていた。立ち上がろうと、何度も一人でもがき苦しんだかのように。
「和音ちゃん! しっかりして! 和音ちゃん! 和音ちゃん……!」
「篠田! 佐々木はっ……!」
「三浦くん! 和音ちゃんに触って! 早く!」
追いついた柊吾へ、七瀬が振り向きざまに掴みかかった。
「身体が冷たいの! それに身体を動かそうとしても、全然動かないの! 『動けなく』されてるの……!」
悔しさで震える七瀬が、柊吾のブレザーを揺さぶった。
「私じゃ、『動ける』状態に戻せないよ……!」
即座に柊吾はしゃがみ込んで、和音の肩を強く掴んだ。
ふっ、と温もりが互いの間で交叉して、和音の身体が、弛緩する。石段から身体がずり落ちかけると、七瀬が「和音ちゃん!」と叫びながら抱き留めた。ぐらりと身体が仰向けになり、喉が反る。瞼が動き、和音の目が細く開いた。
意識が戻ったのを認めるや否や、柊吾は和音の胸倉を掴み上げた。
「雨宮は」
何があった、とか、何故こんな怪我を、とか。訊きたい事はたくさんあるのに、急いて、言葉が出なかった。手が震え、頭から血の気が引いていく。和音の流した血の色が網膜に沁み込んだかのように、視界が赤く点滅した。
何故、和音はここで『動けなく』なっていた?
何故、ここに――撫子は、いない?
「美也子が……」
和音が、掠れた声で言った。
虚ろな目にやがて生気が戻り始め、和音は絶望の顔で鳥居を見上げ、次に鎮守の森の方角を見た。
そして弾かれたように振り返ると、柊吾の腕を掴んだ。
柊吾は、目を瞠った。
「……、お前……」
血と泥で汚れた和音の顔に、怒り、悲しみ、悔しさ、歯痒さ、あらゆる感情が次々と浮かび上がる。それら全てを一瞬で律した少女の目が、ただただ直向きに柊吾を見た。
何かを、託そうとしているのだ。すとんと、柊吾は理解した。まるでバトンを渡すように、和音は今、柊吾へ何かを繋ごうとしている。
どくんと、また心音が不吉に打った。
「撫子ちゃんは、和泉さんを呼びに行った」
砂に塗れた腕を伸ばして、和音が人差し指を森へ向けた。
「美也子も、その後を、追っていった」
助けて――――と。贖罪のように囁く声は、鳥居の外側へ置いていった。
石段の残りを一足飛びに駆け上がり、柊吾は神社の敷地へ飛び込んだ。
あちらとこちらの境を越えた、その一瞬にだけ身体に微かな痛みが走る。水中に潜ったような抵抗が、柊吾の存在を押し返した。見えない糸が張り巡らされて、身体を阻むようだった。それを全身で振り切るように前へ前へと進みながら、柊吾はただ森を目指して駆け出した。
七瀬が、叫んでいる。追いついてきた他のメンバーの呼び声も加わった。毬の悲鳴が聞こえる。拓海が「日比谷と綱田さんは動いちゃだめだ!」と必死に叫ぶのも聞こえてきた。柊吾を追ってくる足音も聞こえたが、それが誰のものでも構わなかった。柊吾には目の前のこと以外、何にも考えられないのだ。
――雨宮……!
撫子が、この先にいるのだ。和音が〝鬼〟に敗れて一人残された戦場で、たった一人で戦っている。手負いで、身体も弱く、すぐに目も『見えなく』なる撫子が、最も戦いの術を持たない撫子が、たった一人で〝鬼〟から今も逃げている。
無茶だ。逃げ切れるわけがなかった。撫子のことなら何だって柊吾は知っている。知っているのだ。知らないわけがなかった。柊吾は、撫子のことを知ってきた。まだ知らないことだってたくさんあるかもしれない。だが柊吾達の二年間は、氷花の事件をきっかけに結びついたこの絆は、決して無意味なものでも軽いものでもないのだ。
風が、冷たい。形振り構わない走り方に、頬の古傷も激しく痛んだ。鮮血の中、泣きじゃくる撫子を思い出す。手の甲で、ぐいと頬を拭った。血などもう流れていない。かわりに別の液体が、早く気づかなかった事を後悔するように流れるだけだ。
こんなものが、何なのだ。
この事件が終わったら、撫子にたくさん伝えたい言葉がある。
柊吾がたった今改めて見つけたこの答えを、単純すぎて泣きたくなるようなこの想いを、撫子に言葉で伝えたい。
会いたい。強く思った。
柊吾は、撫子に会いたいのだ。
「雨宮! 雨宮! 雨宮ああぁぁぁ……!」
何度も撫子を呼びながら、土を蹴散らし、全速力で、一本道を駆け抜けた柊吾は、やがて木々が開けた先の、小さな泉の前へ辿り着いて――――。
*
血と、汗の匂いがした。
私は荒い息をつきながら、べたべたにぬめった鋏を握り直す。
どんどん、やりにくくなってきた。私の身体はさっきから淀んだ興奮で熱を帯びて、頭も何だかぐらぐらする。
それに、相手の白くて綺麗な部分だって……だいぶ少なくなってきた。
「撫子ちゃん、まだ、教えてくれないの?」
撫子ちゃんは、まだ抵抗を続けていた。
私がブラウスを鋏で切って新しい切り傷を増やしても、唇を噛んで耐えていた。力加減を強くしてもそれは同じで、撫子ちゃんは頑として口を割らなかった。ただ力なく涙を流しながら、唇に歯を立てながら、『罪』の告白を拒んでいる。
「ねえ、喋ってよお? ね?」
刃先で唇の端を突っつくと、撫子ちゃんは目をぎゅうっと瞑ってしまった。
私の顔も、見てくれない。
心の中で、ささくれ立った何かに火が点いた。
――こんな酷いこと、友達相手にするなんて。
ルール違反だ。許さない。
私がもう何度目かも分からない『罰』を与えると、撫子ちゃんの口の端から、唾液混じりの血が伝った。
やっと、唇が開いた。生ぬるい気持ちに麻薬みたいに蕩かされながら、私は夏にもこんな風に思ったなあと、漠然と思い出していた。
『人間』初心者の紺野ちゃんと一緒に遊び続ける中で、私はこんな甘い気持ちに何度も何度も浸かり込んだ。私のことをこんなに気持ちよくできる紺野ちゃんって、実はすごい女の子なんじゃないのかなってあの時はぼんやり思っていた。
でも、撫子ちゃんにも同じことができるのだ。
その発見に、私はとてもびっくりした。
だって、私はこの色を憎んだはずだった。四年前に紺野ちゃんが撫子ちゃんを鋏で切りつけた時だって、あんなに心が乱れたのに。友達にこんな酷いことをするなんて最低だ、絶対におかしい、『ばい菌』に違いないって、とっても怒ったはずなのに。
――でも、本当は違ったのだ。
私が、撫子ちゃんを切りつけた紺野ちゃんに、ひどく腹を立てたのは。
そんな理由じゃ、なかったのだ。
私が、そうしたかったからだ。
私が、切りつけたかったのだ。白くて綺麗な撫子ちゃんを、この手で切りつけたかったのだ。『ばい菌』なんて一かけらだって持っていない清らかで美しい妖精の身体に、私の手で『ばい菌』をつけたかったのだ。
紺野ちゃんは、邪魔だった。私にさせてほしかった。私がああしたかったのに先を越されて悔しくて、それが許せなかったから、私はあんなに怒ったのだ。
私は、撫子ちゃんを、ずっと汚したかったのだ。
この手で、汚したかったのだ。
私で、汚したかったのだ。
撫子ちゃんの『動かない』身体から、力がくたりと抜けていく。
開いたままの唇から、小さな囁きが零れ落ちた。
「みうらくん……」
私は、目を、零れそうなほどに見開いた。
撫子ちゃんの目は虚ろで、今の言葉が意識せずに呟かれたものだと分かる。やがて撫子ちゃんの青白い顔が、そこだけは傷つけたくなくて何もしなかった綺麗な顔が、恐怖でさらに青白くなった。
――沸き立つ憎しみで、眩暈がした。
私はきっと、すごい顔をしているだろう。それこそ、本物の鬼みたいになれただろう。人って、すごいな。これがもしかして殺意かな。本当に人を殺したいって思う時、人は鬼に変わるのかな。
私、今、今度こそ本当に、人間をやめようとしているんだ。
「撫子ちゃん」
私は、鋏を天へ掲げた。
不浄を正す剣のように、あるいはここにいない神社の神主さんの代わりのように。今まで閉じていた鋏の刃を、私はついに開いた。
二つの刃が、ぎらりと光る。
泉には、いつしか青い月が映っていた。
「今すぐ、死んで」
さようなら、私の永遠の妖精、撫子ちゃん。
私達は、二度と会わない方が良かったんだね。お互いの思い出の中だけで、相手を想えば良かったんだ。
私はとっても馬鹿だから、そんなことにも気付かなかった。
この一線を、越えたなら――私は、紺野ちゃんに会えるかな。
そんな事を考えながら、私が撫子ちゃんの喉へ、鋏を向けた瞬間――――横合いから突然、凄まじい力で顔を殴り飛ばされた。
「雨宮! 雨宮! 雨宮! 雨宮あぁぁぁ……!」
目のすぐ下を殴られた。視界の端が文字通り変形して、撫子ちゃんの姿も森の風景も何もかも、凸面鏡で映したみたいに歪んだ。歪んだと思った時には、私の身体は投げ出されていた。顔で受け止めた衝撃に身体まで引っ張られて、枯れた落ち葉と雑草と、湿った土の中へ身体が倒れ込んでいく。口の中で、血の味が広がった。闇色と赤色でちかちかする目を無理やり開けて、霞む視界の中に私は、男の子の姿を見る。
大きな身体だった。あの頃よりも、ずっと背が伸びたんだね。高校生みたいだね。悔しいくらいに逞しくて、立派な男の子になってるね。私は「あはははは」と笑い出した。
泉の畔に片膝をついて、血だらけの撫子ちゃんを抱きかかえる姿は、厭味なくらいに四年前の事件の終わりの再現だ。
この男の子は何度でも、私から妖精を攫ってしまう。
撫子ちゃんが、呻き声を上げた。その唇が「み……」と囁いたのを聞いた私は、天地がひっくり返るような衝撃と共に、淡々と諦めて、でも諦めきれなくて、悲しみの涙を静かに流した。
「そっか……『美也子』じゃ、なかったんだね……撫子ちゃんは最初から、三浦君を呼んでたんだ……あはは、ひどいよね。本当に、ひどいよね……」
私は痙攣する手を這わせて、下草の中から鋏を探り当てる。
そして、ふらふらと、立ち上がった。
もう、みんな許さない。
私の〝アソビ〟で残らず全員、地獄へ叩き落としてやる。
*
「雨宮! 雨宮! 俺が分かるか! 雨宮! 雨宮! 雨宮あぁ……!」
自分は、壊れる。生まれて初めてそう思った。心が、このままでは壊れてしまう。涙が意思に反して頬を伝い、その熱さだけがこの場で唯一、場違いなほどに温かかった。
撫子の身体は冷えきっていた。冬場の泉へ浸かったと思しき制服は水をぐっしょりと吸って重くなり、痩せた身体に貼り付いている。
――だがそれは、衣服がある部分に関してのみの話だ。
柊吾が呉野和泉の住む襤褸屋前へ到達し、そこで撫子に覆い被さる美也子を殴り飛ばした時。
呼吸が、止まった。
心臓さえも、止まった気がした。
――撫子の姿は、凄絶だった。
ブレザーは脱がされていた。ブラウスは着ていたが、ずたずたに切り裂かれていた。キャミソールも同じ道を辿っていて、下草の上に布の残骸が紙吹雪のように散っている。
暴き立てられた白い肌は、夥しい数の蚯蚓腫れに、びっしりと赤く覆われていた。
何故、そこまで出来たのか。まるで親の仇であるかのように、執拗に、かつ無尽蔵につけられた愛憎と狂気と妄執の傷。それらのいくつかには出血しているものもあり、残された胸の下着に沁みていた。
顔に、蚯蚓腫れはなかった。
だが、どれほどの傷がその心に刻まれたのか、焦点の合わない虚ろな瞳が、全てを物語っていた。
涙はまだ頬を伝い、唇には歯型があった。口の端から流れた血が耳の方まで流れている。七瀬を真似て伸ばしていたという髪は、片側だけ顎のラインまで短く切られ、不揃いにばらばらと揺れていた。
撫子は、ここで耐え続けていたのだ。
たった一人で、耐え続けていたのだ。
「み……う……あ……」
撫子が、声を上げた。
呂律の回らない声で、拙く、柊吾をうわ言のように呼ぼうとしている。その身体を滅茶苦茶に掻き抱きながら、柊吾は言葉にならない声で絶叫した。
――うわ言のように、ではないのだ。
これは、うわ言だ。一目見た時から分かっていた。
いつからこんな状態だったかは、分からない。
だが撫子は、おそらくはこの森に来てからずっと、目が。
「雨宮、俺だ……今、来たから……書くから、今、書くから……っ!」
あの時のように、柊吾が地面に指を伸ばした時。
腕の中の撫子の重みが、ほんの少し増した。
かくん、と。糸が切れたように、撫子の首が、天を向いた。
柊吾を一度も映さなかった瞳が、ゆっくりと閉じられていく。
「あ、あああ、ああ……ああああ、あああぁぁぁ――――!」
慟哭が、森の空気を切り裂いた。
泉の真ん中に映る月影に、波紋が一つ、音もなく広がった。




