花一匁 67
騒がしい音を立てながら、私の友達の身体が石段から落ちていった。
私は「きゃっ」と叫んで顔を手で覆ってから、その指をそうっと外した。
そうやって、友達の末路を見下ろして――喉の奥から、変な笑い声が漏れ出てきた。
「これが、和音ちゃんの『罰』なんだね……?」
惚れ惚れする光景だった。これで私のことを『気持ち悪い』と言った、和音ちゃんの罪は赦された。美しくて清らかな気持ちになった私は、うっとりと微笑んだ。
ばいばい、和音ちゃん。切り刻む気でいたけれど、そこで寝ていてくれるなら、やめてあげても構わないよ?
「二人っきりだね、撫子ちゃん……」
顔を横へ向けた私は、そこでむっとしてしまった。
撫子ちゃんは、私を見ていなかったのだ。
石段の最上段に立って「ああ、あああ……」と悲痛な声を絞り出して、頬を涙に濡らして震えている。寒いのかなあ。コートを着ていないしマフラーだって巻いていない。毬ちゃんの薄着みたいな格好を見て、私の心の奥底で生乾きの瘡蓋が、一枚捲れて、ひりついた。
私は、笑うのをやめた。
「撫子ちゃん……? ねーえ、私達、四年ぶりに、再会したんだよ? 和音ちゃんばっかりじゃなくって、もっと私のことも見て……?」
撫子ちゃんは、やっぱり答えてくれなかった。
それどころか、石段に向かって駆け出そうとした。あっと私が叫ぶと同時に、藍色の空へ声がすかんと響き渡った。
「――来ないで!」
私は、胸を衝かれる思いがした。
そういえば、この子も声が綺麗だった。音楽の授業で初めて聞いた歌声に、びっくりしたのを思い出す。もう一度歌ってと休み時間にねだったら、恥ずかしいからと軽く怒られてしまったっけ。
私は、この子と、学校で――確かに、友達、だったのに。
「いつまで……そこに、突っ立ってる気なの……」
私の友達だった女の子の、苦痛にしゃがれた声がする。信じられないものを見た私は、真っ青になって絶句した。
石段を、十段ほど下った場所。
そこで頭を下にして、仰向けに倒れていたはずの和音ちゃんが――うつ伏せの体勢で、石段を這い上がりかけていた。
片手を石段について、全身をぶるぶると病気のように震わせて、和音ちゃんは決死の形相で私達を見ている。視線だけで人を殺せそうな顔で、すごくすごく怒っている顔で、でも何だか泣きそうなくらいに切ない顔で、私じゃない子を見ている。撫子ちゃんを、見ているんだ。
ああ、好きなんだ。私はすとんと理解した。和音ちゃんも、撫子ちゃんのことが、好きになってしまったんだ。
でも私がショックを受けたのは、和音ちゃんの気持ちに対してじゃない。
――さっきは見えなかったはずのものが、今や鮮明に見えたからだ。
和音ちゃんの、額から――つうと血が流れ出して、顔半分が赤くなっていた。
「あ……」
――なんて、『汚い』。
体温が急激に上がり、身体中から嫌な汗が噴き出した。
私が憎んでやまない醜さが、和音ちゃんの、頭から。過去の記憶が嵐のように、ぶわりと私の中を駆け巡る。小学五年。『ばい菌』ごっこ。私達が無邪気で真っ白で美しくて、けれど残酷で真っ黒でとっても汚かった頃。
誰も、私を見てくれなかった。
誰も、私の声を聞いてくれなかった。
私は、知ってほしかった。私がここにいることを、皆と仲良くしたいことを、私は知ってほしかった。
だから私は、がんばった。
でも、そんな私のがんばりは――汚い『ばい菌』として処理された。
私は、この色が大嫌いだ。鉄錆に似たこの色は、汚く醜いものだから。あの小学校の中庭に打ち捨てられていたロッカーと、とっても似ている色だから。これは『汚さ』の象徴なのだ。存在しているだけで空気に異臭が混じるような、汚らわしいものなのだ。こんなものがここにあるから、私は死にたくなったのだ。今までの私を消して、新しい私になったのだ。こんなものが、こんなものの為に、私は、私は、私は、私は!
「――――居なくなれえええええ!」
私は足元の石を拾い上げると、喉が引き攣れるような叫びと共に和音ちゃん目掛けて投げつけた。
腕に丸い石が当たっても、和音ちゃんは呻き声一つ上げなかった。激情で燃える目に、頬に、制服の襟に、赤い汚染が次々と広がっていく。私は恐慌に呑まれながら玉砂利をがむしゃらに蹴り続けた。
「早く消えてえええええ! 消えちゃえええええ! 消えろおおぉぉ! 死ねえええええっ!」
雪崩のように玉砂利が石段を転がった時、私の身体を鈍い衝撃が襲った。
どんっ、とエコーの利いた重い音がして、踏み止まれなくて尻餅をつく。
泣き濡れた顔を、私は馬鹿みたいに上げた。
……目の前には、撫子ちゃんがいた。
真っ白できれいな顔を私と同じように涙で濡らして、荒い息を吐きながら、両手を突き出して立っている。
……ああ、私は撫子ちゃんに突き飛ばされたんだ。
嬉しくなった。私は、やっと撫子ちゃんと出逢えたんだ。私は撫子ちゃんを殺さないといけないけれど、もし撫子ちゃんが私を殺してくれるなら、それでもいいよって言いたいな。私は、とっても幸せだった。もう死んでもいいくらいに幸せだった。
石段を下りようとした撫子ちゃんの行く手を、立ち上がった私は全身で阻んだ。
「撫子ちゃん……〝鬼〟の私の、勝ちだね?」
私は、この〝アソビ〟の鬼。
本当の〝鬼〟の女の子の代わりに〝鬼〟になった『ばい菌』で、罪と罰とをたくさん背負った、早く死ぬべき存在だ。
でもこの〝アソビ〟の間だけは、私達は互いに生きている者同士、一緒に仲よく過ごせるのだ。にたぁと私が勝利の笑みを浮かべると、撫子ちゃんが、何かを言った。
「……い」
「え? なんて?」
「……ゆるさない」
撫子ちゃんは、涙を溜めた目で私を睨み付けていた。
頬が、怪我だけじゃない赤みで染まっている。唇は、色を失って青白い。けれど、何かを伝えようと震えていた。
……見た事のない、顔だった。
ううん。違う。そんなことない。私は、冷水を浴びせられた気分になった。
……知っている、顔だった。
この顔をした撫子ちゃんと、私は一度向き合っている。私は忘れっぽい馬鹿だけれど、白く鮮烈なこの呪いが、何度でも私に突き付ける。
私は撫子ちゃんのこの顔を、一生忘れられないのだ。
「私は、美也子を、許さない……!」
これは、『人間』の顔だった。
私が恋い焦がれた、妖精の顔ではない。華奢で愛らしい少女の器に、生々しい感情を毒々しく詰め込んで、私の〝はないちもんめ〟の遊びを台無した、一人の『人間』の顔だった。醜い、汚い、『人間』の顔だった。藍色の闇の中、夜が迫る境内で、私たちは見つめ合った。
「あなたは、誰……?」
その言葉に撫子ちゃんが、顔を引き攣らせた瞬間だった。
私の耳元を、風が剛速球で抜けていった。ちりっとした痛みが頬に走り、足元で小石が弾ける音がした。
びっくりした私は、石段を振り返って目を剥いた。
――和音ちゃんが、本当に石段を這い上がり始めていた。
「何、してるの……逃げてって、言ったでしょ……」
ぎし、と骨同士が軋み合うような嫌な音が聞こえてきた。和音ちゃんは歯を食いしばりながら、時折短い悲鳴を殺しながら、それでも無理やりに痙攣する身体を引き摺って、ゾンビのように這ってくる。私は、あまりの執念に怖気づいた。
嘘、どうして? 無茶苦茶だ。動けるわけがないのに。動いてはだめなのに。
撫子ちゃんが、はっと息を吸い込んだ。切望を涙のように目にいっぱいに溜めながら、小さな身体が私の隣をすり抜けようとする。
「来ないで!」
即座に、制止の声が鋭く飛んだ。
びくりと、撫子ちゃんが動きを止めた。ざっ、と靴下が砂を擦る音がした。
「逃げて! 逃げるの! 助けようなんて思わないで! 自分のことだけ考えて! 逃げなかったら、許さない……逃げなかったら、許さない……!」
血の滴を散らしながら、和音ちゃんが顔を跳ね上げた。
「撫子ちゃんがここで私を見捨てても、私は絶対恨まない! だから走って! 和泉さんの所まで! 逃げて! 撫子ちゃん! 逃げて! 逃げて! 逃げてええぇぇ――――っ!」
懇願の絶叫を聞いた私は、「あはははは!」と嘲った。
だって、なんて可笑しい姿だろう。和音ちゃんってばあんなに格好つけてたくせに、今は地面に這いつくばって私の事を見上げている。
惨めだね、和音ちゃん? お馬鹿さんだね、和音ちゃん?
あなたの最後のお願いも、私がこの手で潰してあげる。
でも私の友達だった女の子は、私の油断を的確に突いてきた。
「――っるああああぁぁっ!」
裂帛の気合いの声が、境内の空気を切り裂いた。
和音ちゃんが突然、全身で振りかぶるようにして右腕を回したのだ。
捨て身だった。私は思った。〝鬼〟の私が、触ったのに。まるで命そのものを削りとるような凄烈さで、風のように動いた右腕。
そこから投擲された、尖った石が――私の額を、切り裂いた。
ぬるりと熱い液体が、鼻筋を通って伝い落ちた。
鉄錆の匂いが、立ち上った。
「――――嫌あああああああ!」
血が、血が、血が、血が。手についたそれを見た私は、へたり込んでのた打ち回った。半狂乱になりながら、両手で顔の血を拭った私が見たのは――撫子ちゃんが瞳に明確な意思を宿して、くるりと背を向けた姿だった。
「逃げるんだね……あははは、あはははっ、撫子ちゃん、逃げちゃうんだぁ……! いいのかなあ! いいのかなあ! 和音ちゃんに酷いことしちゃってもいいのかなあ!」
私は唾を飛ばして叫んだけれど、撫子ちゃんは真っ直ぐに鎮守の森へ走っていって、広葉樹の枯れ木の森の、昏い彼方へ消えていく。
「……逃がさない」
鋏を、私は構え直して立ち上がった。
「絶対に逃がさないよ! 撫子ちゃん!」
地を蹴って駆け出す私の背後で、重くて鈍い音がした。和音ちゃんが気絶でもしたのかなあ? でもあんな野蛮な子なんて後回しだ。それに和音ちゃんは〝アソビ〟のルールに刃向ったけれど、ルールはルール。和音ちゃんは『凍った』のだ。
だから〝鬼〟は、次の標的を、仕留めなくちゃ。
鋏をじゃきじゃき鳴らしながら、土と枯草と道を私は走った。
ざざざざざ……と私達が空気を切り拓いて走る音が、鼓膜で波のように鳴っている。木々の梢の間から、愛しの妖精の姿が何度も何度も垣間見える。栗色のツインテールの片方が、激しい動きと風に乱され、弾けるように解けていく。艶やかな髪だった。私のものにしたいくらい。私は息を切らせながら、予想外の事態に内心で臍を噛んでいた。
撫子ちゃんが、私より足が速かったのだ。
「神主さん、助けて! 助けて! 助けて……!」
切れ切れの息で叫びながら、撫子ちゃんは走っていく。枯れ枝が跳ね、小石が弾み、下草と落ち葉が湿った音を響かせた。
どうしよう。私は焦った。このままじゃ、撫子ちゃんを逃がしてしまう。そんなの嫌だ、絶対に。やっと再び出逢えたのに。私は懸命に追い駆けた。激しく息を吸う度に、肺に冷たい空気が満ちていく。森の緑の匂いが深くて、その香りが何だか不思議と心地よかった。私は、少しぼうっとした。
最初の異変は、その時に起こった。
密集した木々が開けて、神主さんの襤褸屋が見えてくる。見通しが一気によくなった私は、思わず「あっ」と声を上げた。
泉の畔で撫子ちゃんが、足を押さえて転んでいたのだ。
――左のふくらはぎから、血が出ている。
一文字の長い切り傷が、走り続けるうちに下がったソックスの上に走っていた。撫子ちゃんの横顔が、驚き一色に染まっている。私も、驚きで声が出なかった。
――どうして、こんな怪我をしたの?
私が混乱していると、撫子ちゃんは自分を取り戻して立ち上がった。足の傷をものともせずに、「神主さん……!」と命乞いを再開して走り出す。
途端に、二度目の異変が訪れた。
撫子ちゃんのブレザーが、今度はすぐ傍の木の枝に引っかかったのだ。つんのめった撫子ちゃんを見た私は、とてもびっくりしてしまった。
撫子ちゃんは運動が得意な子ではなかったけれど、ドジな子ではなかったはず。私は引っ掛かりを覚えたけれど、すぐにとびきり嬉しくなった。
――この山の神様は、私に味方してくれたのだ。
だったら、私はそれに応えなくちゃ。
私が一目散に走り出すと、はっと顔色を変えた撫子ちゃんが、ブレザーを脱ぎ捨てて逃れようとした。
けれど、私の方が早かった。
「撫子ちゃん、捕まえたぁ!」
細い腕がブレザーから抜ける前に、私は撫子ちゃんへ全身で抱き付くようにぶつかった。
「あっ」と苦しそうに喘いだ撫子ちゃんの身体が、私の腕の中で冷たく冷たく冷えていく。その感触が生々しくて、湿った土と枯草の上を二人で転がっていきながら、私は何だかぞくぞくした。
捕まえた。やっと捕まえた。私はちゃんと、紺野ちゃんから引き受けた〝鬼〟の役目を果たしている。
薄暗くなった冬の終わりの森の奥で、私達の身体は四年ぶりに触れ合っている。深い藍色に赤を溶いたような夕暮れの空を映す泉に、撫子ちゃんの身体半分は浸っていた。私も左の手足をついた泉は、身が切れそうなほど冷たかった。夜の色を映した水は墨汁のようにも見えて、闇に繋がっているかのようだった。
「撫子ちゃん、私といっぱい話をしよう?」
四年の空白を、今すぐ埋めたい。
私は撫子ちゃんを畔まで引き上げると、濡れた身体の上へ馬乗りになった。
「……!」
撫子ちゃんが、蒼白になって口を開けた。可哀想に、怖がっているのだ。私がさっき撫子ちゃんを殺すと言った所為だ。私は悲しくなって泣いた。涙の滴が雨みたいに、撫子ちゃんの頬を叩いた。
「可哀そうな撫子ちゃん。こんなに赤い怪我だらけになっちゃって……でも私と紺野ちゃんの〝アソビ〟が、撫子ちゃんをきっと綺麗にしてくれるよ……?」
「……っ! ……っ!」
撫子ちゃんは、まだ何も喋ってくれない。けれど私達の時間は有限なのだ。
〝鬼〟の私は一刻も早く、他のメンバーの捜索に戻らなくてはならないからだ。
まだ『動ける』メンバーは……毬ちゃん、陽一郎、三浦君、氷花ちゃん。
私には、確信があった。
このメンバー全員を、私が捕まえられたなら……紺野ちゃんはきっと、私の前へ出てきてくれる。
放課後のかくれんぼの時みたいに、私の呼び声に応えてくれる。
それから、笑ってくれるのだ。私にしか見せない秘密の顔で笑ってくれる。幸せな未来を想像して、私は犬の遠吠えみたいに声を張り上げて泣き出した。
――ねえ、紺野ちゃん。本当に、私はこうしなくちゃだめなの?
――撫子ちゃんを切らないと、私を赦してくれないの?
四年前の、あの日。私が始めた〝はないちもんめ〟が駄目になって、撫子ちゃんが私のことを怖いって言って、紺野ちゃんが死にたいって叫んで泣いたあの日。
紺野ちゃんはなんて汚い子なんだろうって、私はあの時思ったんだ。
紺野ちゃんは花を切った。皆が悲しくなるような、してはいけないことをした。せっかく私が『人間』にしてあげたのに、紺野ちゃんは進んで汚い『ばい菌』に戻ってしまった。
けれど、この紺野ちゃんの罪こそが。
同時に、私の罪なのだ。
「紺野ちゃんって、酷いよね……私から、撫子ちゃんをとるなんて」
撫子ちゃんが、苦しそうに唇を動かした。何かを言おうとしているのだ。
でも私は、それを聞きたくない。命乞いをされたとしても、私が撫子ちゃんにする行為はなんにも変らないからだ。
『ばい菌』に戻った紺野ちゃんを救うには、未練のお花が必要なのだ。それこそが紺野ちゃんを一人ぼっちにした私の、『罪』を浄化する『罰』なのだ。
でも、だけど、私は。
本当に、そんな事はしたくないのだ。
どうして私は、最愛の妖精を、自分の手で殺さないといけないの?
嫌だ。悲しい。辛い。苦しい。撫子ちゃんを殺すなんて無理だ。私は本気で思っている。魂をかけて思っている。
そもそも私と紺野ちゃんの間で行き来している『罪』も『罰』も、撫子ちゃんには関係ないのだ。何故なら撫子ちゃんはあの夏に、もう『罰』を受けている。紺野ちゃんから鋏で切られて、その後で痛い思いもしたのだ。
だから私に鋏を向けられてしまう撫子ちゃんは可哀想で、本当に可哀想で――可哀想過ぎて、愛しかった。
私は、歓喜で微睡んだ。
何だか頭の芯が溶けていて、考えるのも億劫だった。
「怖がらないで、撫子ちゃん……大丈夫だよ? 私と紺野ちゃんはこの〝アソビ〟が終わったら二人で一緒に地獄にいくけど、生死の差なんて関係ないよ? 私達はね、そんな境界線なんて簡単に飛び越せちゃうくらいに、仲良しな友達だよ? ……ね、撫子ちゃんも一緒にいかない? そう思ったら、怖いのもなくなるでしょ……?」
撫子ちゃんは答えなかった。ただ私の体重に苦悶の表情を浮かべながら、「神主さん……」と諦め悪く呼んでいる。
私はそれを、にこにこ聞いていたけれど……どんどん、面白くなくなった。
「撫子ちゃん? 人の話を聞かないのは、『ルール違反』だよ?」
罰が、必要だ。私は撫子ちゃんの解けた髪を、左手で引っ掴んだ。
じゃきん! ……と。
毛束を切断する音が、静かな森へ木霊した。
撫子ちゃんの瞳が、大きく、大きく、見開かれた。栗色の髪の毛が、まるで絹糸のように繊細な光で舞い飛んだ。妖精の羽って、こういう風に散るのかな。私は夢見心地になってしまった。
「撫子ちゃん、髪けっこう伸びたんだね? ずうっと短い髪の毛を結んでたのに、なんで伸ばすようになっちゃったの? ねえねえ、誰かの真似でもしてるの? 私は前の方がいいと思うよ?」
「やめて! 美也子、やめて……!」
じゃきじゃきと髪のサイドに鋏を入れると、撫子ちゃんの身体が抵抗で震え、私も鋏を操りながら陶然と震えた。この光景はずっと昔に図鑑で見た、蝶の標本によく似ている。虹色にぴかぴか光る蝶の羽を、細いピンで留めていた。愉悦で、唇が吊り上った。自由は、私が奪ったかもしれない。けれど、美しさは永遠だ。
「お願い……やめて……! 誰かあぁ……っ!」
がたん、と少し離れた襤褸屋で何かが動く音がした。でもきっと私の空耳だ。それに外野なんてどうでもいい。目の前には涙を流す撫子ちゃんの顔がある。頬を赤くして、目に涙を溜めて、今までにないくらいに感情を表現して、私に見せてくれている。
なんて愛らしいんだろう。刃で頬っぺたをするりと撫でると、「みっ……!」と叫んだ撫子ちゃんの身体が大きく跳ねた。「動いちゃだめー」と私が腕を押さえつけると、その時初めて、甲高い悲鳴が撫子ちゃんの喉から迸った。
私は、びっくりして手を離した。
「ああっ、ごめんね? そんなに痛かった? でも私、ちょっと腕をよけただけだよ? ……あ、そっかあ。『動けない』もんね? 今の撫子ちゃんは、決まったポーズ以外なーんにも出来ない、お人形さんだもんね……?」
恍惚と、私は目を細めた。
「すごく、可愛い」
撫子ちゃんの身体から、ぐにゃりと力が抜けていった。
全身が痙攣していて、目からはぼたぼたと涙が零れて、口ははくはくと動いていた。何て言っているのかな? さっき『み』って言ったから『美也子』かな? 撫子ちゃんのいじらしい声に免じて、私は『罰』を終わりにした。
けれど、私はそこで少し慌てた。
――もしかして、このまま気絶しちゃうの?
そんなの嫌だ、まだ私達は、全然お話出来ていないのに。
「起きてよお、撫子ちゃん」
軽く肩を掴んで揺さぶると、ぐらっと撫子ちゃんの頭が揺れて、白い項が、剥き出しになる。袴塚西中学の金色のボタンがきらりと光った。
それらの眩しさに誘われるように、私は撫子ちゃんの乱れたブラウスと、誰かに引き千切られたように垂れさがったリボンを見て……息が、止まった。
露わになった鎖骨の近くに、赤い痕がついている。
「……撫子ちゃん、起きて?」
撫子ちゃんは、返事をしない。半開きの虚ろな目で、涙だけが零れていく。
私は、必死に我慢した。耳の奥ではごうごうと、血液の流れる音がする。自分の顔が無表情なのか、笑っているのかも分からない。
もう、我慢の限界だった。
「撫子ちゃん、いつの間にそんなにいやらしい子になったの?」
私は鋏を振り上げると、刃で撫子ちゃんの首筋を鞭のように打ち据えた。
「っ……!」
撫子ちゃんの身体が再び跳ねた。怪我だらけの白い身体に、私がつけた赤い筋が刻まれる。蚯蚓腫れの真ん中に、じわりと血の線が滲み出した。背徳感と罪悪感と暴力的で手の付けられない感情が、ぐちゃぐちゃに混じって溶け合った。口の中で胃液の酸っぱい味がする。誰か止めて。私の中でもう一人の私が叫び出した。でも止まれないのだ。止まりたくないのだ。私の手は別人みたいな動きをして、撫子ちゃんのブラウスを力任せに引き裂いた。
新しく露わになった白い肌へ、私は鋏の切っ先を押し当てた。
「ねえ、誰? 私に教えて?」
こんな言い方でも、通じると思った。
案の定撫子ちゃんは、「ちが……」と否定の言葉を涙ながらに言っている。
答えの形になっていない。間髪入れずに鋏の切っ先を滑らせると、撫子ちゃんはもう一度、長い悲鳴を上げた。
けれど、その声を急にぴたっと殺して、唇を噛んで耐え始めた。
ぶつりと、私の中で何かが音を立てて焼き切れた。
撫子ちゃん、それがあなたの罪なんだね?
四年前に紺野ちゃんから罰を受けたはずなのに、罪を重ねてしまうんだね?
そうやってどんどん人間になって、私の妖精じゃなくなってしまうんだね?
そんなの、絶対許さない。
「『罰』をあげる! 撫子ちゃん!」
裏返った声で、宣誓して――断罪の鋏を、私は頭上高く振り上げた。




