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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 66

 篠田七瀬は、顔を上げた。

「篠田さん……?」

 拓海が、七瀬の些細な動きにすぐ気付いた。何かを気遣うように様子を窺ってくるので、七瀬は「ううん」と生返事をして鞄を肩に掛け直した。

 他のメンバーは先を争うように立ち上がって、バスを続々と降りている。七瀬もそれに続こうとしたが、意識はほんの数秒前の出来事に、引き摺られたままだった。

 先程、神社の傍をバスが通り過ぎた時のことだ。

 降りる予定の停留所は、神社がある住宅街より少し先の地点だった。よって目的地を僅かだが、バスで通過することになる。

 おそらく、その時だったと思う。

 ……和音の声を、聞いたような気がしたのだ。

 空耳かもしれない。本当に小さな声だった。和音の事ばかりを考え過ぎた所為で、記憶の声を実際の声のように思い込んだだけかもしれない。

 そんな曖昧なものであっても、普段の七瀬であれば皆に相談しただろう。何しろ事件の渦中なのだ。情報は少しでも、多いに越したことはない。

 ただ、今ばかりは躊躇ってしまった。


 ――柊吾の精神状態が、七瀬が見る限りあまりに危うくなっていたからだ。


 和音が撫子を連れて校外に出た直後は、柊吾にこんな不安定さは見られなかった。現状への怒りと殺意で、心を支えていたのだろう。

 だが〝アソビ〟に巻き込まれた現状で、よりにもよって撫子と引き離されるのが、どんなに心に響くのか……それは、想像するに余りある。

 それに、撫子が柊吾に言ったという言葉も……かなり、堪えているようだ。

「篠田さん、行こう」

 背後の拓海に急かされたので、七瀬は「ごめん」と答えて前へ進む。そのさらに前を進む柊吾だって、葛藤を無理やり振り切ったような顔でバスを足早に降りていったのだ。ここで七瀬が足を引っ張るわけにはいかない。

 とはいえ、先程の和音の声は気になった。

 目的地である神社から、和音の悲鳴が聞こえた気がした。

 そして一たびそれを『悲鳴』だと思うと、いよいよそうとしか思えなくなってしまう。底知れぬ不安に誘われるように、七瀬の手は自然とスカートのポケットへ伸びたが――そこで、はたと気が付いた。

 肌身離さず身に付けていた、大切な物がそこにない。

「……ん? 何?」

 振り返ると、拓海がバスの運賃を手にきょとんとする。学ランの胸ポケットには、プラスチック製のウサギの耳が覗いていた。

 撫子と和音の失踪騒動で、すっかり忘れていたが……七瀬の鏡は、拓海に取られたままだった。

「坂上くんってば、もう……ううん、いいや」

「へ?」

「鏡、そのまま持っててよ。お守り代わりに貸してあげる」

「鏡? ……あ」

 言われてようやく気付いたのか、拓海は薄桃色のウサギの耳を見ながらぽかんとして、露骨に顔を赤くした。

 大方、この鏡を奪うに至ったやり取りでも思い出したのかもしれない。七瀬の方にも照れがぶり返してきたが、そんな感情に囚われている場合ではないので、無理やり怒った顔をして見せた。

 そもそも拓海は、呉野和泉との携帯を介した論戦の間、ずっとこの格好で喋っていたのだ。本人以外は皆それに気づいている。今にして思い返せば陽一郎などは興味津々と言った様子で拓海を見ていたように思う。あの時は七瀬の心にも余裕が無かったが、改めて振り返ると少し笑みが零れ出た。

 拓海のこういう所を、七瀬は可愛いと思ってしまう。状況は最悪のままだったが、それでも緊張が解れるのを感じていた。

「ご、ごめん……」

 慌てた拓海が鏡を返そうとしてくるので、「持っててってば」と七瀬はその手を押し留めると、くるりと踵を返して歩き出す。

「ねえ坂上くん。私達は〝アソビ〟参加者じゃないけど、だからこそ逆に出来ることって、やっぱりたくさんあると思うんだ」

 バスのステップへ近づくと、切れかけの蛍光灯が、じじ、と羽虫のような音を立てた。光が、揺れる。人工的な白い光が、寸断されて、また瞬く。夜を切り取る灯火が、ふっつり切れて、呑み込まれる。濃い藍色の夕闇に、場が塗り替えられていく。胸騒ぎと郷愁で、身を切られる思いだった。

 この〝アソビ〟は、日が暮れても終わらない。

 だから、どうしても思うのだ。さっきの声が、ただの幻聴であったとしても。

 ――和音は今、一体どうしているだろう?

 今、どこにいるのだろう? 何を、思っているだろう?

 連れ出してしまった撫子とは、上手くやっているだろうか。

 和音は最初、撫子のことを、あまり良くは思っていなかった。だが、今はどうだろう? きっと、違う。変わったのだ。風見美也子の家に電話をかけてしまった時に、僅かに聞こえた決死の声が、七瀬達に伝えていた。

 ……ただの情や責任だけで、あんなに必死な声が、出せるわけがなかった。

 和音は撫子のことを、大切に思い始めている。

 だが、そうだとしたら……悔しかった。

 七瀬はそれを、自分の言葉で訊きたかった。

 偶然耳が拾ってしまった言葉ではなく、きちんと七瀬が自分の声で、和音に向かって訊きたかった。和音の真正面に立って、目と目を合わせて、訊きたかった。

 そうしたら、和音に答えて欲しかった。

 その想いが、どれだけ温かなものなのかを。

 ……話したかった。和音と、二人で。

 言いたい事は、山のようにあるのだ。いなくなってから、こんなにも胸が締め付けられる。時間ならいくらでもあったのに、それをしなかった所為だった。

 だがそれを、自分一人の所為だけにする気はなかった。

 何故なら――友達に向けて喋る言葉は、相手がいなくては、成り立たない。

 思えば呉野氷花の〝言霊〟も、そんな特性を持っていた。実際の言霊信仰とは異なり、聞き手のいない言葉には、何の御魂も宿らない。

 会話が、条件。それが、氷花の〝言霊〟だ。

 相手に魂を届ける行為に、必ずしも他者が必要とされる理由。

 それはきっと、こんな風に、言葉の形にすることがひどく難解で、同時にひどく単純で――当たり前だからに違いない。

 何故なら、少なくとも七瀬にとって言葉とは。

 相手がいなくては、成り立たないものではなく――相手がいてこその、ものだからだ。

「坂上くん。私、和音ちゃんを助けたい。ううん、和音ちゃんと、もっと話したいんだ」

 七瀬は、言う。この言葉に、魂は宿るだろうか。拓海がいれば、宿るのかもしれない。だがそれでは意味がないのだ。この言葉に〝言霊〟が宿るなら、それを届けたい相手はここにいない。

 だから、こんな所で、不安に駆られたまま、夢なのか現なのかも分からない声に惑わされたまま、逃げるわけにはいかないのだ。

「坂上くんには、反対されちゃったけど。私達二人は、〝鬼〟の風見さんに触られても平気だもんね。……それってさ。もしかしたらすごく強いってことじゃない?」

 軽く振り返ると、拓海は神妙な顔つきになっている。

 また『危ないから』と止められてしまうのかもしれない。だがあれだけ異能の事件から七瀬を遠ざけていた拓海は、今や中心に立ってその解決へ向けて動いている。今さら七瀬が動くことで、反対されはしないだろう。

 そう思う一方で、拓海の優しさや正義感が、七瀬の関与を許したくないのも、自惚れを承知で分かっているつもりだ。

「篠田さん。俺は……今でもやっぱり篠田さんには、これに関わって欲しくない」

 拓海は案の定、辛さを押し殺したような声で言った。

 蛍光灯が、ぱちりと再び音を立てた。夜色が車内を水のように満たす中を、対向車のテールライトが緑色の閃光となって、流星のように泳いでいく。

「嫌なんだ。俺は誰にも、痛い目にも苦しい目にも遭ってほしくない。あんな犠牲は、絶対に……もう、二度と出しちゃだめなんだ。……だから、今からでも、逃げられるなら。篠田さんには、逃げて欲しかった」

 真摯な声が、耳朶を心地よく打っていく。人の命の尊さを、ちゃんと知っている声だった。そこに込められた感情は、青色の凪に反して、裂傷を負った肌のように、痛々しいほど、酷く、熱い。

 今日という一日で、拓海は随分饒舌になったと思う。素直に内心を吐露してくれたのが嬉しくて、七瀬も素直に頷いた。

「うん。そうだよね。でも、ごめんね。それはできない」

 透明な言葉には、透明な言葉を返したい。それが、七瀬の思う誠意だった。

 だから、それを拓海に返せたことで、七瀬の中で踏ん切りがついた。

「よし、行こっか」

 そう言って七瀬は笑い、歩き出す。

 ――もう、言うべきことは言い合った。

 ここを出たら、もう戻れなくなってしまう。皆で和音と撫子を捜す為にがむしゃらになって、他の事など何も考えられなくなる。

 そうなる前に、せめて最後にもう一度だけ、拓海と話しておきたかった。

 それが叶えられた今、もう思い残すことはなかった。

 七瀬はバスの運賃を払い、ステップを降りようとした。

 すると拓海が、引き留めるように口を挟んだ。

「……あの、さ」

「ん?」

「えっと、その、あの…………篠田さんが、無茶をしても。俺が、守るから」

 小さな、掠れた声でそう言われた。

 七瀬は、軽く目を見開いてしまう。時が止まり、紺色の闇に呑まれつつある空気が、刹那の間だけ白く光った気がした。

 すぐには何も言えないでいると、バスの運転手の初老の男性が、心底鬱陶しそうに盛大なクラクションを鳴らした。びくっと身体を大げさに拓海が身体を弾ませて、止まった時間が動き出した。七瀬は思わず吹き出してから「ごめんなさい!」と謝ると、拓海を引っ張ってバスを降りた。

 そして降りた直後、弾むように拓海の胸へ飛び込んだ。

「そう言ってくれるの、ずっと待ってた!」

 首に両腕を回すと、拓海はおろおろと面白いくらいに狼狽えた。バスが、走り去っていく音がする。冷たく澄んだ冬の夜気と、排気ガスの煙、それから、七瀬が初めて好きになった男の子の匂いがした。

「ごめんね」と囁いてから身体を離すと、対向車のライトに掠めるように照らされた拓海の顔は、ほんのりとだが赤かった。

 本当は、こんな時に、こんな事をする気はなかった。柊吾にも和音にも撫子にも悪いと思う。七瀬だって、そう拓海に怒っていたのだ。

 だが、今こうしたかった。今でないといけない気がした。

 少しの罪悪感と、それから切なさを抱えながら、七瀬は今度こそ前を見る。

 これで、戦える。

 後悔はなく、曇りもなく、ただ真っ直ぐに七瀬は思った。

「篠田、坂上! 道が分かった!」

 声に振り返ると、少し離れた歩道の隅に、柊吾と陽一郎が毬を間に挟んで立っていた。この辺りの地理に詳しい毬から、道を訊き出していたのだろう。

「ここを、真っ直ぐ。……急ぐぞ!」

 柊吾は強い声音で、だが明らかに青白く、無理をしているのだと分かる表情で叫ぶと、その台詞を号令とばかりに走り出した。

「三浦! 待てって!」

 咄嗟に拓海が制止したが、「大丈夫だよ、坂上くん!」と七瀬は柊吾の肩を持ってから、二番手として駆け出した。

「私達が三浦くんに追いつけばいいだけでしょ! 行こう!」

 陽一郎が「柊吾、足速いのにい」と泣き言を言っているが、「つべこべ言わない!」と突っぱねると、拓海が「篠田さん!」と声を張って追いついてきた。

 七瀬に並走しながらズボンのポケットから何かを出そうとしているので、訝しんだ七瀬は横目に叫んだ。

「何してるのっ?」

「いや、あの、俺からも、〝お守り〟を代わりに渡そうと思って――」

「? 分かんないけど、両方っ! 坂上くんが持ってて! ね、行こう!」

 申し出は有難いが、目の前の柊吾の背中がみるみる小さくなっていく。焦った七瀬が走るスピードを上げると、あっという間に拓海を引き離してしまった。

 悪いとは思うが、拓海からは気持ちだけを受け取らせて欲しい。

 もうここから先は、和音と撫子の事しか考えられない。

「和音ちゃん、撫子ちゃん……遅れてごめんね、今行く……!」

 白い呼気を風になびかせながら、淡い紺色に紅を溶かし込んだような夜の中へ、七瀬は脇目も振らずに走っていった。

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