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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 62

 頭が、ずきずきと痛んでいた。

 泣きすぎた所為だろう。頭を押さえながらふらふら歩くと、足裏を鋭利な痛みが突き刺した。靴下を履いただけの足が、アスファルトの小石を踏んだのだ。

「大丈夫?」

 隣では栗色の髪の少女が、こちらを気遣うように見上げていた。

 片頬はまだ、赤く腫れたままだった。泥と砂と消火器の粉で汚れた制服に、膝小僧の擦過傷も痛々しい。その大半が自分の所為で負った傷だと思うと、涙腺の壊れた目からまだ涙が零れてくる。

「平気」

 手の甲で涙を拭いながら、きっ、と和音は前を見据える。

 疲労で鈍った歩行を続けると、ぴったり寄り添って歩く撫子も、それ以上何も言わずについて来た。

 血のように赤い空へ、墨を落としたように藍が混じる。日没を迎えて夜の帳が降り始めた住宅街に、満ちる影は朱く、黒い。ぽつぽつと等間隔に灯る蛍光灯の光を道標に、和音と撫子は黄昏と夜の間を、明かりを頼りに進んでいく。

 行先は、決めていた。

「佐々木さん。神社に、行こう」

 撫子の、提案だった。

 風見美也子の自宅から転げるように飛び出した玄関先で、一しきり泣いて動けなくなってしまった和音の腕を、撫子は自分の肩へ回して囁いたのだ。

「ここから、神社って近いんでしょう? 道、教えて。神主さんの所に行って、助けてもらおう」

「でも……それよりも他に、行く所が、あるんじゃ……」

 警察に、通報すべきではないのだろうか。それに、東袴塚学園を今から目指した方がいいのでは。いいや、それよりも、ここからなら神社もだが、和音の自宅も近いのだ。撫子は熱を出している。軽度であれ怪我だってしているのだ。早く、大人に引き合わさなくては。様々な考えが入り乱れて混ざり合い、統率の取れない思考に振り回されていると、撫子が「いいの」と言って微笑んだ。

「神社に行って、神主のお兄さんに会いに行こう。佐々木さんも、知ってる人なんでしょう? 大丈夫。私達のお話も、きっと聞いてくれると思う」

「……」

 和音は、頷いてしまっていた。考えることが、億劫になっていた。それに、そうすべきだと思ったのだ。これでやっと助かるという安堵を茫洋と感じながら、それでいてこのままでいいのだろうかと不安も覚えながら、不思議な充足感に包まれたまま、撫子と共に歩き続けた。

「着いた……」

 溜息のような言葉と共に、撫子が空の彼方を振り仰ぐ。和音も頭上を見上げると、長い石段を上った先に、丹色の鳥居が聳えていた。

「雨宮さんは……ここで待ってて。私が、行ってくる」

 掠れた声で、和音は言った。ここからなら和音の師範である藤崎克仁の家も近いと気付いていたが、どちらにしても、かかる時間と距離はほぼ同じだ。ならば目前の場所へ行くべきだが、この長さの石段に、手負いの撫子を付き合わせる気はなかった。

 だが撫子は「私も、一緒に行く」と言い張って、和音の腕に寄り添った。

「佐々木さんと、一緒に逃げるって約束したから」

「……私のこと、怒ってたんじゃないの?」

「胸のことは、怒ってる。他は何も、怒ってないよ」

「……威張れる体格じゃないでしょ」

「人に失礼なこと言われたら怒っていいって、七瀬ちゃんも言ってた」

「……あっそ」

「それに、もう……一人は、怖いの」

「……そう」

 それだけ、やり取りは事足りた。和音と撫子は互いを支え合いながら、ゆっくりと石段を登り始めた。

 足元の尖った石や硝子の破片に気を付けながら、二人はただ無言だった。着衣を乱し、砂と泥とに塗れながら、擦り傷だらけで歩く自分達は、傍目にはどう映るだろう。漫然と考えて、すぐにどうでもよくなった。和音と撫子が分かっていれば、他人の目などどうでもいい。自分がそんな風に思うのは、もしかしたら初めての事かもしれなかった。

「……雨宮さん。私は多分、人の目を、気にする方なんだと思う」

 和音の突然の告白に、撫子は驚きを見せなかった。清かな空気を吸い込みながら、「そう」と落ち着いた声音で言って、苦しそうに息を吐く。夜気の中へ、白い息がたなびいた。

「厄介事は、嫌いだった。友達に、こういう本音を喋るのも苦手だった。全部、面倒臭かった。だから、自然と笑うようになっていった。そうする事が、私にとって……生きる、方法だったから」

 言葉を選びながら、和音は言った。己の、まだたった十五年の人生を。初めて自分の言葉で誰かに語った。どうしてこんな懺悔めいた告解をしているのかも分からないまま、自然と開いた唇の動きに任せて話していた。

「でも、二ヶ月くらい前に……私、その日は疲れてて。いつもみたいに、笑えなかったの。夜遅くまで、受験勉強してた。そんなやり方しても上手くいかないのにって、自分でも、反省してた」

 撫子は、うん、と頷いた。短い相槌に背中を押してもらえたような気がして、自分でもどう纏めたらいいのか分からない語りを、和音は続ける。

「すぐに、クラスのリーダー格の子に目をつけられて、私は中学に通って初めて、苛めの標的になった」

「……そう」

「その日の帰りだった。私は、ここに来た」

 石段を踏みしめて、和音は顔を上げた。

「ここで、私は――――和泉さんと、出逢った」

 さああ、と冷たい風が吹き抜けて、和音の乱れたポニーテールと、撫子の解けかけのツインテールを揺らしていく。灰色の住宅群を臨む境内に立ち、ついに鳥居の元へ辿り着いた二人は、ふらりと石段に並んでへたり込んだ。早く呉野和泉の元へ行かなくてはと分かっているのに、まだ、それが出来なかった。

 この語りを終わらせるまで、どこにも行ってはいけない気がした。和音は撫子と、共に行くと決めたのだ。それを言葉で約束した。だからなのか、自分には似つかわしくない言動なのに、確かに和音は思うのだ。

 撫子に、もっと自分の事を知って欲しい、と。こんな吊り橋効果のような絆と連帯感だけではなく、きちんと、言葉で不足を補いたかった。

「佐々木さんは……だから、神主さんと知り合いなの?」

「あなたは和泉さんを、そういう風に呼んでるの?」

「ううん。今までに、ちゃんと呼んだ事もなかったの。だから、こういう風にしか言えないだけ」

 撫子は深く息をついてから、ふと何かに気付いたように身体を固くした。

 不審に思った和音が「どうしたの?」と訊ねると、撫子は小さな声で答えた。

「この場所……何だか、痛い」

「え?」

「空気が、ぴりぴりしてる」

 そう言って、寒さに震えるように腕を抱いた。和音には何の事だか分からない。コートを失った所為で上着はブレザー一枚な所為か、本当に凍えているように見えた。

 ただ、撫子が言いたいのはそういう事ではない気がする。和音は周囲を見回したが、人っ子ひとりいない境内はしんと静まり返り、夕陽の名残の紅が夜気に紅く滲みながら、霧のように広がるだけだ。和音は澄んだ風に心地よさを感じたが、撫子の方は違うのだろうか。

 もう一度訊こうとすると、撫子はゆっくりと目をこすった。その仕草から和音は、撫子が眠たいのだと気付く。

「眠い?」

 訊ねると、素直に撫子は頷いた。自然と和音の手は動いて、撫子の肩を引き寄せた。撫子も抵抗せずに、和音の肩に寄りかかる。冷えた藍色の薄闇の中で、身体の触れ合った部分が温かかった。

「佐々木さん。……苛めは、今も?」

「ううん。一日だけだった。あっけないでしょ。全ての苛めが、私みたいに短く済めばいいのにね」

「長さが、どうとかじゃないと思う。だって、辛かったでしょう?」

「……さあ。分からない」

 やはり自然に、和音は答えた。ともすれば反発してしまいそうな同情の言葉に、すんなり相槌を打てていた。和音はそんな己の変化を、水の流れのように受け止めた。それが己の心の変化なのか、言ったのが撫子だったからなのかは分からない。どちらでも構いはしなかった。和音の心は、凪いでいた。その落ち着きが、心地よかった。

「でも、今の私は、それを辛いとは感じてない」

「……強いね」

「……。強くなんか、ない」

 自分の目元が、震えたのが分かった。

「私は、強い人間じゃない。そんなのは、分かってたはずなのに……いつの間にか、忘れてた。雨宮さん。私が少林寺拳法を習ってた話は、七瀬ちゃんから聞いてるの?」

 撫子が頷くと、和音の口元は僅かに綻ぶ。そんな己の反応には少し驚きを感じながら、視線を空へ逃がした。藍と紅の溶けあう空で、一番星が瞬いた。

「たとえ技の練習でも、相手が自分のことを殴ろうとしたり、蹴ろうとしてきたら……怖いって、思うよね。当たれば痛いかもしれない。苦しいかもしれない。それは人として当然の感情で、全然、恥ずかしいことじゃない。……そんな自分の弱さを、認めること。きちんと受け止めて、前に進むこと。それが、私が身に付けたかった流儀」

「弱さを、認めること」

 遠い瞳で、撫子は繰り返す。和音は髪を夜風に流しながら、「うん」と頷いて瞳を閉じた。

「でも私は、それを、忘れてしまった」

 二ヶ月前のあの時も、和音はここに腰かけた。そして神主の男へ語ったのだ。自分が何故、この流儀を選んだかを。それは熱意と呼べるほどに芯の通ったものではなかったが、それでも和音は直向きだった。直向きだったと、今ならはっきり分かるのだ。今までの和音がどれほど愚直に、そして純朴に、己の選んだ道を極めようとしていたかが。可も不可もなくと言いながら、和音は手を抜かなかった。何に対しても、真面目だった。自分で確かに、そう思うのだ。

 それを、きちんと認めること。それもまた、弱さを認めることなのだ。

 今ならこんなにも分かるのに、数時間前の和音には分からないことばかりだった。

 人は間違った道に進まなければ、正しいことを選べないのだろうか。

 だとしたらこの生き方は、苦し過ぎて嫌になる。

 だが、たとえ、そうだとしても。

「そんなこと、ないよ」

 撫子の言葉で、和音は閉じていた目を開いた。

 深い紫へ沈む空へ、また一つ星が瞬いた。

「佐々木さんは、私を助けてくれた。一緒に逃げようって言ってくれた。佐々木さんは、私とそうすることを、選ばないことだってできたのに。でも、佐々木さんは選んでくれた。……それは、強さだと思うの。さっき佐々木さんが教えてくれたみたいな、そんな強さだって、私は思うの」

「雨宮さん……」

 名を呼ぶ以外に、和音は何も言えなくなってしまった。撫子の言う、「選んだ」という言葉が、すとんと身体の奥へ落ちていく。

 和音は、撫子を助けないで逃げることも出来たのだ。撫子の言葉でそんな選択肢に気付いたが、その行動を自分が取る事はないだろうとも、話を聞きながら当然のように和音は思った。

 いざその局面に立たされた時には葛藤があったにも関わらず、今の和音はその選択を、欠片も迷いはしないのだ。そんな自分に、気付かされた。

「佐々木さんは、強い。自分と、ちゃんと向き合えてる。だから……私も。自分と、向き合わなくちゃいけないと思う」

 身を寄せ合った撫子が、腕の中のものをぎゅっと抱いた。

 和音は、今度こそ目を瞠った。

 それを撫子が持ったままだという事を、たった今まで忘れていた。


 ――紺野沙菜の、遺書。


「私一人だけだったら、あの子の残した言葉に、向き合うことはできなかった。でも……一人じゃ、ないから。だから」

「雨宮さん、あなた……それを、読むつもり?」

 こくりと、撫子が頷く。和音は息を呑んだ。

 そして次に、感じたのは――理不尽に対する、怒りだった。

「読まなくていい」

 きつい口調で断言した。これでは美也子の母親の言いなりだ。それに紺野沙菜は撫子の言葉通りに受け取るなら、撫子のことを恨んでいた。和音自身はその恨みが筋違いのものであり、本当は風見美也子へ向けられた感情だと信じていたが、真相はこの遺書を読まない限り謎のままだ。

 それでも、謎のままで構わない。和音は撫子を睨んだが、撫子は首を横に振った。赤と紫の薄闇の中で、琥珀の瞳がこちらを向く。

 頑なな意思の光が、そこで茫と光っていた。

「ううん。佐々木さん。美也子のお母さんも、言っていたけど……私は、知らないといけないの。知るべきだって、思うの」

「どうして?」

「あの子の、為に」

 迷いのない言葉だった。同時にそれは、ひどく悲しい言葉だった。

「私が助けられなかった、あの子の為に。あの子がどんな事を思っていたか、私は、知らないといけないの。……それしか、もうできないから」

「……分かった。じゃあ、こうしよう」

 和音は、妥協する。

 そして答えるや否や、撫子の手からぱっと遺書を取り上げた。

 撫子が、目を瞬く。驚いた様子で手をこちらに伸ばしてきたが、和音はその手を、遺書を持っていない方の手で抑えつけた。

「あなたの気持ちは分かった。でも、私はあなたにこれを読んでほしくない。これ、多分日記帳でしょ? 私が紺野さんなら、生前に書いた日記を他人に読まれるなんて、死にたくなる」

「でも、それじゃあ」

「だから」

 和音は、撫子を遮って言った。


「私が、読む。……あなたの、代わりに」


 撫子は、息を吸い込んで驚いている。何かを言いたげな様子で口を開けたが、和音は再び睨んで黙殺した。

 これではまるで、今日の美也子のようだった。『代わりに謝れ』と謎の暴言を吐きながら、和音を笑った同級生。その真意にまだ理解が及ばないまま、和音も美也子と同じ言葉を声に乗せた。そうすべきだと、思ったからだ。

 目の前の少女は、充分過ぎるほど傷ついてきたのだ。実際のところ人の心の内側など和音の目には見えないが、人の死を背負って生きる人間が、何の痛みもなくここに居るわけがなかった。

 だから、もういいのだ。

 撫子は、これ以上傷つかなくていい。

 それでも撫子が傷を求めようとするのなら、それを罰のように受け止めようとするのなら。和音がそれを、止めるだけだ。

 この行為は何も、撫子に対する罪滅ぼしのつもりではない。ただ和音が、そうしたいと望んだだけだ。

 深みを増していく紫紺の薄闇に呑まれながら、和音と撫子は見つめ合った。白く透明な互いの吐息が、冷たい夜気へ溶けていく。また数刻、夜へと時が進んでいく。

 やがて撫子は観念したように睫毛を伏せると、消え入りそうな声で言った。

「……佐々木さん、読んだ後で、何が書いてあったか教えてくれる?」

「教えない。それじゃ私が読む意味がないでしょ」

 了承の言葉と受け取って和音は会話を打ち切ると、膝の上に乗せた黒い遺書の、一ページ目を開いた。

 そして、目に飛び込んできた文字に、呼吸が止まった。


 ――『みんな、死んじゃえ』


「っ……」

 文庫本サイズの帳面の一ページ目の真ん中に、たった一行だけ書かれた怨嗟。酸素が、喉を通らない。まるで首を絞められたようだった。葛藤を抑え込んで次のページを捲ると、そこに書かれた言葉もまた、たったの一行だけだった。


 ――『誰も、読まないで』


 黒い、鉛筆の文字だった。筆圧は強いが、文字は小さく震えている。書き手の感情を投影したかのようだった。全てを拒絶して背を丸める裸の少女の姿が、文字から、言葉から、如実に浮かび上がってくる。隣で撫子が、和音を気遣うように見てくる。和音は「あなたは見ないで」と引き続き厳しく言い含めると、己の心を奮い立たせた。

 そして、声には出さずに謝った。

 紺野沙菜という名前の、見知らぬ少女へ謝った。

 これから和音は、紺野の心へ踏み込んでいく。許される行為ではないだろう。

 それでも、どうか許してほしい。こんな哀願をすること自体が、身勝手なのは分かっている。

 だが和音は、恐らくだが――紺野に、似ている人間だ。

 これからこの遺書を読むのは、そんな魂の人間だ。痛みは、きっと分かる。たとえ分からなかったとしても、分かる努力はしてみせる。撫子の言葉ではないが、それしか和音にはできないからだ。紺野沙菜という一人の、確かに生きていた人間のことを、人伝の言葉でしか知らない和音には。

 だから、自分にできる唯一のことを、真剣に、心を込めて、させてほしい。

「紺野さん……」

 撫子の囁きに押されるように、和音は意を決して、遺書の三ページ目を捲って――清冽な想いの奔流に、瞬く間に呑まれていった。


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