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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 61

 柊吾達は、バスに揺られていた。

 袴塚東学園を出て少し歩いた先のバス停から、このバスに乗車した。東袴塚学園に通う拓海と七瀬の判断だ。薄紫の闇を拓きながら、バスは真っ直ぐ走っていく。がらんと空いた車内で蛍光灯が瞬いた。

「最短ルートで行くなら、十五分もかからないと思う」

 最後尾のシートで、並んで座る拓海が言った。塞ぐ柊吾への配慮だろうか、事務的で落ち着いた声だった。

「このままバスで十分。そこから五分で神社まで走ろう。学校から歩いたら三十分はかかるけど、休まないで走れば早く着ける。タクシーが拾えたらいいけど、期待できないから。日比谷や綱田さんにはきつい思いをさせるかもしれないけど、頑張って走ろう。付き合ってくれる?」

「うん、がんばる」

 柊吾達の前の二人掛けのシートに座った毬が、悲壮な表情で頷く。対してその隣に座る陽一郎の返答は、芳しいものではなかった。

「僕は、自信ないよ……」

 そう言って、鞄を抱きしめている。その腕には、二冊の本も一緒に抱えられたままだ。あの図書室で扱った、『山椒大夫・高瀬舟』。もう一冊は植物図鑑だ。

 返すタイミングを外して持ってきてしまったのだろう。植物図鑑の表紙に描かれた色鮮やかな花々を見ながら、柊吾の思考は闇へずるずると沈んでいく。

 消えた撫子の事を、ずっと考えていた。

 ――三浦くん。

 図書室を出て、二人きりになった空き教室で。撫子は、柊吾に言ったのだ。

 ――今まで、ありがとう。

「……っ」

 ぐしゃりと、右手で前髪を掴んだ。握った左の拳を、腿へ強く打ち付ける。隣に座った拓海と七瀬が柊吾を労しげに見てきたが、あまりに胸が苦し過ぎて気にする余裕もなかった。

 撫子は――どうして、あんな言葉を言ったのだろう?

「坂上。……お前に、訊きたい事がある」

「……。うん。何?」

 拓海が、柊吾に顔を向けた。労りが濃く覗く表情を、何とか無に保とうとして、痛ましげな目をした拓海の顔。柊吾はその顔を直視して、直視できずに目を逸らした。

「なんで、さっき。雨宮の『目』の事なんか訊いた?」

 学校を出る直前、拓海は撫子の『目』について言及した。その問答の不穏さも、柊吾の不安を煽っていた。

「それは、前から気になってたから……っていうのが、理由の一つ」

 拓海は、やはり落ち着いた声音で言った。顔を背けた柊吾には拓海がどんな顔をしているか見えないが、きっとさっきと同じ、労りの顔だ。

「雨宮さんの『目』は、呉野さんを『見る』ことができる。その意味を俺達は今まで考えてこなかった。もしかしたらイズミさんや克仁さんはこの意味を知ってて、俺達が訊いたら教えてくれたかもしれないけど……訊かなかったから、教えられなかった。イズミさん達ってなんとなく、こういう事は訊かない限り教えてくれない気がするんだ」

「それは……なんでだ」

「……傷つくからだと、思う」

 拓海の答えに、「うん」と七瀬が頷くのが聞こえた。

「三浦くん。もしね、私が撫子ちゃんみたいな目に遭わされて、誰の事も見えなくなって、一人っきりの世界に置き去りにされて……好きな人のことも、見えなくなったら。私は自分にそれだけの事をした人を、許せないと思う」

 そこで言葉を切った七瀬は、「でも、そんな自分は、知られたくないかな」と、寂しげに続けた。

「……篠田がそう思う理由を、教えてくれ」

「難しいよ。そういうのを、言葉で言うのって。でも多分、自分でも分かってるからかな」

「何を?」

「これは、綺麗な感情じゃない、……って」

「……」

 ――三浦くんは、分かってない。

 撫子は、教室で言っていた。切々と、訴えるように、目に涙を溜めながら。

 ――三浦くん。女の子は、怖いよ。三浦くんが思ってる以上に、何でもするよ。嫌なことも、汚いことも、考えるよ。

「だから、って……俺は、そんなの気にしない」

 七瀬は何か言いたげな目をしたが、唇を結んで前を向いた。その所作だけで、柊吾は理解する。これは、柊吾が気にするかどうかの問題ではないのだ。撫子が、気にするかどうかの問題なのだ。

 ――ごめんなさい。ごめんなさい……。

 謝りながら泣く撫子の声が、雨音のように耳朶を打つ。

 その撫子を抱きしめた自分が、何も言わなかった事も思い出す。

 撫子の痛みに、耳を傾けなかった事も。

 言葉は、足りていると思った事も。

 ――足りてなど、なかったのだ。

 柊吾は撫子の事を、全然、分かっていなかった。

「三浦くん、坂上くんの言った通りなんじゃないかな。撫子ちゃんの『目』のこと、お兄さんと師範が知ってて隠してたんだったら……それって、撫子ちゃんを傷つけない為かもしれないね。……私達には、言って欲しかったけど」

「……」

 人を憎み、殺したいと思うこと。

 撫子も、そんな感情を抱いたのだろうか。

 氷花へ向けて? それを、柊吾に黙っていた?

 いや、違う。そんな事はない。柊吾はそれを知っている。撫子が氷花へ刃物を向けたのを見た時から、そんな事は分かっている。

 だが柊吾はそれを、言葉の形で聞いただろうか?

 氷花の事が嫌いだと、憎いのだと、撫子の声で聞いただろうか?

 ――聞いて、いない。

 殺意など、言う必要のない言葉だ。撫子は氷花を殺そうとしていたのだ。意思の存在は明確だ。だから、わざわざ言わせなかった。撫子も、言わなかった。それでいいと思っていた。それがいいと、思っていたのだ。

 それは、間違いだったのだろうか。

 あの時に、撫子の中から取り出せなかった言葉の種。それが今になって芽吹いて、伸びた蔦が撫子を絡め取り、柊吾の前から攫ってしまった。拳をきつく握り込むと、爪が手の平の肉に突き刺さる。

 柊吾は一体、今まで何を『見て』いたのだろう。そんな後悔は昨年の初夏にもしたはずだ。『見える』目を持ちながら、まるで『見えて』いなかった。ずっと隣にいたはずの少女の心に、目を向けていなかった。

 その結果が、これなのだ。もう自分でも気づいていた。撫子を攫った佐々木和音の存在など、何の言い訳にもなりはしない。

 撫子は、柊吾の所為で消えたのだ。

 柊吾の知らない心と想いを抱えたまま、いなくなってしまったのだ。

「……三浦。雨宮さんの言葉を、気にしてる?」

 拓海の気遣わしげな問いかけに、柊吾は肯定も否定もできなかった。気にしている。当然だ。その程度のことくらい、拓海にだって分かるはずだ。反発で胸が焼けた時、自然と言葉が、零れ出た。

「坂上は……雨宮のこと、気付いてたのか」

 思えば、拓海は――柊吾達の受験が終わった時から、撫子へ危惧を抱いていた。

 拓海が、正しかったのだ。やはり、拓海の方が正しかった。そんな拓海なら、撫子の事で他にも気付けたことがあったのではないか。悔恨なのか嫉妬なのか、それともただ己が不甲斐ないだけなのか、ただ熱く煮詰まっただけの感情が、柊吾にそんな質問をさせていた。

 だが拓海は「いや、気付いてなかった」と、柊吾の葛藤を否定した。

「三浦。俺が雨宮さんの『目』が、『憎悪』の感情と関係があるんじゃないかっていうのは、この〝アソビ〟が始まってから気になり出したことだよ。他は気付いてなかった。だから俺は、雨宮さんが何を気に病んでたかとか、そういう心に対する思いやりが、全然足りてなかったと思う」

 それは、違う。拓海は撫子の安全に配慮していた。口を挟もうとしたが、できなかった。重い怠惰が、唇の動きを鈍らせた。

「でも、こういう風に、雨宮さんがいなくなってからは……気に病んでたんじゃないかって、俺も、考えてる」

「……」

 拓海は気鬱そうに黙ってから、すぐに「三浦」と改まった口調で柊吾を呼んだ。

「俺が雨宮さんの『目』の事を考え直そうって思ったのは、三浦から『今までありがとう』の言葉を聞いたからなんだ。でも、三浦。聞いてくれ。雨宮さんは、三浦にそれを言ったんだ」

「そうだよ、三浦くん」

 七瀬も、同調するように声を上げた。がたんとバスが一度揺れて、数少ない乗客の誰かが降車ボタンを押す音が、間延びしたエコーを伴って響く。

「気にしないで、って言っても無理なの分かるけど、そこは気にする所じゃないよ。このメンバーの中で、誰が一番撫子ちゃんに心を許されてるか分かるでしょ? ねえ、いつも思ってた。なんでそんなに自信ないの? 三浦くん、撫子ちゃんが関わる時だけ、心細そうな顔してる」

「それは……」

 言葉が、そこで止まってしまう。七瀬の言う通りだ。だがその理由は自分でも知っているのだ。撫子への引け目が、柊吾にそうさせてしまうのだ。撫子の弱みに浸け込んで、隣に居座っているのだと。

 そしてその引け目を、自分は乗り越えたはずだった。

 その矢先の、事だったのだ。撫子が、消えたのは。

「……三浦くん。こんなこと言ったらお節介かもしんないけど、撫子ちゃん見つけたら、二人でいっぱい話しなよ」

 七瀬が、小さく息をついた。

 柊吾が横目に様子を窺うと、七瀬は意外にも薄く笑んでいた。その感情が何だか意外で思わず拓海の顔も見ると、こちらも同様の笑みを浮かべていて、七瀬と顔を見合わせている。

「言葉で言い合わないと、吐き出してもらわないと……分からないことも、伝わらないこともあると思うんだ。三浦くん達にはそういうのってもう必要なさそうな空気あったけど、案外そんな事なかったって、それだけの話でしょ? ……ちゃんと話してきなよ。撫子ちゃん、必ず見つけるから」

「……もしかして、お前らも何かあったのか?」

「別に?」

 くすりと七瀬が笑うと、拓海が頬を赤らめた。もしかしたら、柊吾と撫子が図書室を外した時に、拓海と七瀬の間にもすれ違いがあったのかもしれない。照れ臭そうに笑う二人の気遣いに触れたことで、乱れた心が少し、凪いだ。

「三浦。俺が雨宮さんの『目』の再確認を急いだ理由の二つ目は、雨宮さんの体調が心配だからだ。雨宮さんの『目』、もしかしたらまた『見えなく』なってるかもしれない。合流が叶った時に雨宮さんの目が『見えなく』なってたら大変だから、確実に雨宮さんの目で『見える』メンバーを洗い出しておきたかったんだ」

 拓海は難しい表情で、窓の景色を見据えている。柊吾も倣って見た空は橙と藍が入り混じり、細く開いた窓からは冷気が流れ込んできた。焦りが、どくりと胸を打つ。

 ――袴塚市に、夜が迫っている。

「でも坂上くん。そうなると……このメンバーの中じゃ、必ず撫子ちゃんの目に『見える』のって、一人しかいないんじゃない?」

 七瀬がじっとりと目を細めると、全員の視線が陽一郎へ集中した。

 注目を浴びた陽一郎は、「ひえええ」と悲鳴を上げて蒼ざめた。

「でも僕、何していいか分かんないよっ?」

「日比谷、落ち着いて。俺達は別に、特別なことを要求してるわけじゃないんだ。雨宮さんを見つけた時にもし『目』が見えてなかったら、俺達がどう呼びかけても声が届かないし、いきなり触って怖がらせるわけにもいかないじゃん。だから『見える』日比谷が雨宮さんに、俺達が迎えにきた事を伝えてくれるだけでいいんだ」

 拓海は真摯に言い聞かせたが、それを聞いた陽一郎は顔色を一層青くした。

「む、無理だよお! 責任重大じゃん!」

「ちょっと日比谷くん! どの辺が責任重大なわけ? ただ友達に声かけるだけのことでしょ!?」

「だ、だって! 僕達って今、えっと、怖い事件に巻き込まれてるんでしょ? 呉野さんだっているんでしょ? そんな敵の本拠地みたいな所に今から行くんでしょ? わああん、やだよお! 外だって暗くなってきたし、帰りたいよおお!」

「あああーっ! ウザい! 意気地なし! 元カノのピンチでしょーが! しっかりしてよ、あんたそれでも元カレなの!?」

 七瀬が後部座席から腕を伸ばし、陽一郎にヘッドロックをかけ始めた。「ぐええ」などと呻く陽一郎に毬は慌てていたが、顔をそろりとこちらへ向けてきた。

「あの……三浦君。坂上君。七瀬ちゃんも」

 柊吾が毬を見下ろすと、毬はやるせなさそうに目を伏せた。

「和音ちゃんの事……ごめんなさい。和音ちゃんがこんな風に撫子ちゃんを連れて行っちゃった原因は……たぶん、私も作ったから」

「毬。そんなことないでしょ」

 七瀬が陽一郎を解放しながら口を挟むが、毬は、首をゆるゆると横に振った。

「ううん。七瀬ちゃん。私の所為。和音ちゃんと一緒にいた時間が一番長いのは、私だったのに。私がもっと、気付いてあげないといけなかったの。なのに……私。自分の事ばっかりに、精一杯だった。でもね、七瀬ちゃん。皆。お願い。これだけは聞いてほしいの」

 毬が涙で潤んだ瞳を開いて、懺悔のように、囁いた。

「私は、自分の事ばっかりだったのに。和音ちゃんは、私の事ばっかりだった」

 祈りにも似たその言葉に、柊吾は鋭く胸を衝かれた。

 今更になって、気付いたからだ。

 撫子を連れ去った、佐々木和音に対する怒りが――いつの間にか、柊吾の中から薄らいでしまっている事に。

 何故、こんな事になったのだろう。俄かには信じ難い発見だった。撫子を攫われた時は怒りで我を忘れ、殺すとまで口走った相手なのに。

 きっと、皆が庇うからだ。七瀬も毬も、和音の人となりを幾度となく言葉で表し、柊吾達の知らない和音の心を、声の形で補った。それに他でもない柊吾自身が、もう和音を知りかけている。さっき風見美也子の自宅へ繋がった電話の声から、微かに漏れ聞こえた怒号。決死の叫び、呼び声。伝わってくる懸命さ。柊吾は声を失って、電話へ呼びかける事さえできなかった。

 和音は、確かに撫子を攫ったかもしれない。

 だが、どういうわけだか――その撫子を、守ってもいるのだ。

「……和音ちゃんが、素直じゃない事くらい。私だって分かってるよ、毬」

 七瀬はふわりと毬へ笑いかけると、毅然とした声で言った。

「毬。お願いがあるんだ。和音ちゃんのことは私に任せてほしいの」

「七瀬ちゃんに?」

 毬は驚いていたが、それには柊吾も驚いた。あの東袴塚学園の喧嘩別れを全員が覚えている。それに七瀬と和音の確執は、おそらく一朝一夕で生まれたものではないだろう。周囲の無言の心配をものともせずに、七瀬は気丈に頷いた。

「私に行かせて。和音ちゃんだって私が行くよりは毬が行った方が喜ぶの分かってる。でも、させてよ。私にも。友達らしいこと」

「……うん。七瀬ちゃんに、任せる」

 毬の懇願の声に七瀬は勝気に笑ってから、改めて一同を見回した。

「で、皆どうする? 日比谷くんはこう言ってるけど、一人だけバス降りて帰ってもらう? むかつくけど〝氷鬼〟の〝アソビ〟のこともあるし、メンバーがばらけてた方が安全ではあるんだよね……」

「いや、連れて行こう」

 それには、拓海が即断した。陽一郎が再び涙目になって「なんでえ?」と抗議する。呆れる気力も尽き果てた柊吾は聞き流していたが、拓海は律義に理由を述べた。

「確かに、メンバーの中で誰か一人が遠くまで逃げるっていうのはアリだと思う。でも、ごめん。時間ないからはっきり言うけど、もし〝アソビ〟メンバーが全滅しかけて、日比谷が最後の一人になった時。日比谷は『鬼』の風見さんから逃げられないと思う」

 全員の肯定の沈黙に、陽一郎が「えっ誰か否定してよ」と訴えるが、拓海は「それに」とさらなる追い打ちを掛けた。

「もし〝アソビ〟参加メンバーの大半が『動けなく』なって、残り一人だけって状況になった場合。『鬼』から逃げ続けられる持久力のあるメンバーは、三浦か佐々木さんだけだ。……えっと、日比谷。その局面で逃げ切れなかった時の方が、責任の重大さがヤバい」

「……」

「〝アソビ〟の事を考えるなら、俺達はここで行先をばらけた方がいいのかもしれない。でも、もう佐々木さんと雨宮さんもいないんだ。皆で助けに行こう。誰か一人に負担を背負わせる事も、前線に残った人間が辛い思いをするのも、やめよう。……ここまできたら、全員で戦おう」

 戦う、という明確な意思の言葉に、全員が息を詰めた。バスの車体が、ごとんと揺れる。緊張の面持ちで各々が頷く中で、柊吾は頷く事ができなかった。

 撫子の顔が、脳裏を過る。

 別れ際に、今までありがとうと言った顔。その涙の意味を思うだけで、心は、何度でも削れていく。

 こんな心では、戦えない。撫子に会えなくては、戦う事ができない。その撫子を取り返す事が戦う事に他ならないのに、それを理解していても、身体も心も、魂が抜けたかのように空っぽだ。喪失感と、焦りと、怒り。それをも超越していく切望と悲しみが、空の心を埋めていく。

「だから、日比谷に〝アソビ〟に残り続けてもらって、雨宮さんのサポートをお願いしたい。……けど、俺自身は。この役目、三浦じゃなきゃ駄目だって思ってる」

 柊吾は我に返り、それを言った拓海を見た。

 目を、覚まされた気分だった。拓海は、真剣な目で柊吾を見た。

「三浦。確かに日比谷は雨宮さんの目に『見える』。だから〝アソビ〟の場に居てほしい。でも俺は、この役目は日比谷じゃなくて、三浦がすべきだと思うんだ。俺だけじゃない。ここにいる全員が、同じ考えのはずだ」

「坂上……」

 驚く柊吾へ、七瀬と毬が頷いてくる。陽一郎もこちらを見上げると、どことなくすっきりとした笑みを柊吾へ向けた。

「柊吾、撫子は僕じゃ頼りないよ。あ、でも皆、さっきはああいったけど、僕、やっぱり一緒に行くよ」

 そう言って、陽一郎ははにかんだ。

「僕、こんなだから、今までだって泣いてばっかりで、撫子にその度に庇われてきて、助けられてきてるから……僕がいても足手まといかもしんないけど、僕だって撫子のこと、心配だし。それにほら、僕、元カレだし!」

「何調子に乗ってんの! やっぱりウザい!」

 七瀬がすぐさま騒ぎながら、陽一郎へ再びヘッドロックをかけ始めた。その様子を見た拓海が真顔になって、「あの、あんまりくっつかないで」と、しかつめらしく割り込んでいる。毬はおろおろと慌てていた。賑やかな四者の様子を横目に見ながら、柊吾は拳を、握りしめた。

 割り切れない感情で、心がささくれ立っていく。このまま神社へ向かっても、そこに撫子がいる確証はないのだ。もし撫子がいなければ、次はどこを捜せばいいのだろう?

 和泉を、問い詰める?

 ――分からない。

 まだ、心は揺れたままだ。この瞬間の自分の心で、最も強い想いを選べない。名前の定まらない感情の欠片が、万華鏡の中身のように心の筒から零れていく。

 撫子に会えた時、どんな顔をすればいいのか。それさえ分からなくなっていく。

「雨宮……」

 ぽつりと、呼んだ。もう一度、「雨宮」と呼んでみる。すぐに目が『見えなく』なる撫子の手を引いた日々の事が、走馬灯のように脳裏を過る。

 柊吾の顔を見上げる、ぼんやりとした眼差し。その瞳の焦点が急速にこちらへ結ばれて、うっすらと優しく微笑まれた。陽光を虹色に透かす栗色の髪。鮮血の中で泣きじゃくる顔。頬の傷に落とされた口づけ。その唇が、言うのだ。今まで、ありがとう。今まで、ありがとう。今まで、ありがとう……。

 鼻の奥が、つんとした。瞳から零れそうになるものを、歯を食いしばって堪える。こんなに自分が脆かったなんて、今まで考えたこともなかった。

 髪を掴んで俯く柊吾の耳に、撫子の声ばかりがリフレインする。三浦くん、と呼ぶ声が、何度も耳に蘇る。

 その声を、もう一度聞きたい。それだけを、柊吾は思った。


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