花一匁 60
「氷花ちゃん、遊ぼうよお!」
私は山を走っていた。
山で友達を呼びながら、満面の笑みで走っていた。
楽しい〝アソビ〟に選んだ子達は、ほとんどが東袴塚学園にいてくれた。
でも、氷花ちゃんはいなかった。
それにまだ、もう一人。見つからない子が残っている。
「紺野ちゃん」
切なさを堪えながら、私は虚空へ手を伸ばす。
天国に伸ばしているわけじゃない。それは違う。絶対違う。
何故なら紺野ちゃんは、今も逃げているからだ。
私という〝鬼〟から逃げて、どこかに隠れているからだ。
かくれんぼをした放課後に、誰からも忘れ去られた紺野ちゃん。
あんなに寂しい思いをもう二度とさせない為に、寂しがりの紺野ちゃんは、私が見つけてあげないとだめなのだ。
そして紺野ちゃんの残した未練を、残らず果たしてあげるのだ。
「ないなあ……ナデシコのお花。紺野ちゃんが切れなかった、氷花ちゃんのお花……」
その名を呼んだ瞬間、ぶわっと私の心に怨嗟の炎が燃え盛った。
呉野氷花ちゃん。許さない。私の用意した〝アソビ〟の庭から、全力で逃げ出した腰抜け女。氷花ちゃんが最悪の逃げ方をした事を、私はもう知っていた。
東袴塚学園を離れた私は、『藤崎』の家へ直行した。
氷花ちゃんがその家に、こっそり住んでいるからだ。女の子の情報網が、私に全部教えてくれた。その魔法に従った私は『藤崎』の家に着くと、窓硝子を植木鉢で叩き割って、居間へ足を踏み入れた。
そして、怒りで身体を震わせた。
家は、無人だったのだ。
氷花ちゃんは、家にいるはずだったのに。あの子の受験はまだだから、家にいるはずだったのに。
しかも『藤崎』という氷花ちゃんの養父のおじさんも、一緒に姿を消していた。一階から二階まで隈なく捜してみたけれど、二人の姿は見つからない。煮え湯のように沸き立つ怒りが、私の視野を真っ赤にした。
氷花ちゃんは最低だ。こんなに楽しい〝アソビ〟から、大人の手を借りて逃げたのだ。私は悔しくて悲しくて腹立たしさでいっぱいで、家中の物を鋏で薙ぎ払ってみたけれど、心は何にも満たされない。
この逃げ方は、反則だ。ルール違反に決まっている。
氷花ちゃんは、学校のルールに違反したのだ。
にたぁと、私は笑みを深めた。
――罪には、罰が必要だ。
かつて罪を犯した私は、紺野ちゃんに罰を乞うている。
それと同じように氷花ちゃんも、私に罰を乞えばいい。
乞わないなら、勝手にあげる。受け取ってくれるまで追い駆けてあげる。『ばい菌』から『人間』に、私の手で戻してあげる。命乞いする氷花ちゃんの汚い顔を想像したらぞくぞくするほど楽しくなって、私は鋏を打ち鳴らした。
「氷花、ちゃん、遊びましょ! 氷花ちゃん、遊びましょ! ねーえ、出てきてよ! 氷花ちゃん! 私だよ! 美也子だよ! 遊びましょ、遊びましょ、遊びましょ……!」
歓喜を勢いに変えながら、私はぐんと走り出した。
行先は決めていた。まだ検めていない唯一の場所。小さな泉を越えた先に、一軒の朽ちた家がある。神社の人の住む家だ。私は全部知っている。ここが氷花ちゃんの本当の家だ。『藤崎』の家は仮住まい。氷花ちゃんは絶対に、この家のどこかに隠れている。
「あははははっ、氷花ちゃん、氷花ちゃん、氷花ちゃん、氷花ちゃん……!」
庭から縁側へ飛び乗った私は、滑るように廊下を走り、障子戸を目についた端から鋏でざくざく突き刺した。
高揚した。興奮した。穴の開いた障子から、和室の奥が見通せた。居ない。居ない。氷花ちゃんが見つからない。でも、居るのだ。絶対に。私を『キチガイ』と言った『ばい菌』が。家をひたすら壊しながら、私は廊下の突き当たりを右に折れた。
その先の障子戸にも、幾度か鋏を突き立てて――私は手を、止めてしまった。
和紙に、虫食いのように開いた穴。
そこから覗けた、六畳ほどの和室の奥。
灯りの点いていない、薄紫の、闇の中に――。
紅白の着物を着た女性が、背中を向けて座っていた。
私は、息を吸い込んだ。
部屋の最奥の障子窓は、全て開け放たれていた。深山のくすんだ緑の匂いが、畳の匂いと混ざり合って、霧のように立ち込める。
暈けた、けれど白く澄んだ障子窓の手前には、古風な文机が置いてあった。
その文机に向き合っている、女性の黒髪は長かった。風にそよいで、腰で揺れる。藍の座布団と緋袴の間に挟まる裸足は白かった。
力の抜けた私の手から、汗でぬめった鋏が落ちた。
かつん、と床板の上で一度、二度と跳ねて転がる。その残響さえも、私の耳には届かない。
――なんて、綺麗な人だろう。
純白の着物に、緋色の袴。紅白の衣裳は、神様に仕える人の装いだ。日の出の光のような純白の着物に、袴は神社の鳥居と同じ色。やっぱり、そうだ。神様の色だ。格の違った敬虔さに、私はぼうっと見惚れていた。
この女の人は、美しい。顔も見えないのに分かっていた。清らかなその佇まいが、馬鹿な私を諭していた。この人がここに居るだけで、私は負けを認めていた。そんな風に誰かに対して思うのは、生まれて初めてのことだった。
女性は私の視線を気にせずに、文机に置いた本を読んでいた。
かなり古い本だった。褪色した紙の上に、細かな字が躍っている。
私はごくんと唾を呑むと、意を決して、声をかけた。
「何、を……読んでる、の?」
声が、少し掠れてしまう。こんなに緊張しながら誰かに声をかけたのは、小学五年生の春以来だ。運命の出逢いを思い出し、私はうっすら涙ぐんだ。
「……本を、読んでいるのよ」
澄んだ声に、私は我に返った。
女性が、答えてくれたのだ。
声に聴き覚えを感じたけれど、曖昧にしか思い出せない。
それに、声の綺麗さなら……あの妖精には、及ばない。
「『化銀杏』よ。貴女はきっと、知らないわ」
消沈する私に、女性は素っ気なく言った。
冷たい言い方だったけれど返事をもらえて嬉しくて、「うん。知らない」と私は笑顔を作り、女性の背中に笑いかけた。
「私って、馬鹿だから。何にも分かんないんだあ。ねえ、それってどんなお話?」
「美しいお話よ。ひどく清らかな、悲しみの」
女性は私を振り返らずに、本のページを捲った。
その本の側面は、淡い金色に光っていた。何だか行燈みたいな光だった。
あの日の、白い折鶴のような。同時に、今の女性の言葉のような。ひどく清らかな悲しみの光に、鈍い眩暈が私を襲った。
錯覚を、感じていたからだ。この障子戸の向こう側には、違う時間が流れている。空気の匂いが違うのだ。時代が、時間が、感性が、観念が。美意識が、規範が、感情が、言葉が。未知の世界の気配を前に、私は何だかとろんとした。
これは――本当に、現実?
「この物語は私の兄が、読むのを挫折しかけたそうよ」
夢と現を彷徨う私へ、幻のような女性は言った。
何かの覚悟を薄く感じる、不思議な響きの声だった。
「だから私は決めていたの。私も、必ず読んでみせるわ。この『化銀杏』を、最後まで。そう言う風に、決めていたの」
「ふうん? ええと、それで面白かった?」
「愚問ね。美しく清らかな物語は、人を魅了するものよ。興味があるなら貴女も読んで御覧なさい」
「じゃあその本、私に貸してくれる?」
「厭よ。自分で手に入れなさいな」
断られた私は、しゅんと項垂れた。
すると女性が、淡々と言った。
「ねえ、貴女。……〝アソビ〟は、楽しい?」
私は、はっと顔を上げた。
この人は、私の〝アソビ〟を知っている。
「……うん! すっごく楽しいよ!」
何だかすごく嬉しくなって、私は強く頷いた。
「でも、ちょっとだけ寂しいんだあ。私、鬼役だから。みーんな私から逃げちゃうもん。……紺野ちゃんもこんな気持ちだったのかなあ」
罪悪感と責任感を、同時に私は思い出した。
のんびりしている場合じゃない。私は早く氷花ちゃんを捕まえて、紺野ちゃんを見つけ出して、未練の花を刈り取らなくてはならないのだ。
でも、家の奥まで探したのに、氷花ちゃんは見つからない。
二階に隠れているのだろうか。私は、おずおず訊いてみた。
「あの、氷花ちゃんはどこにいますか? ……もしかして、氷花ちゃんのお姉さんですか?」
女性は、答えてくれなかった。きっと、私の言葉が見当違いで呆れたのだ。とっても大人びたこの人は氷花ちゃんのお母さんかもしれない。
でも、少し変だった。
私は、首を傾げてしまう。
確か、氷花ちゃんの家族は……『藤崎』のおじさんと、お兄さんだけのはずなのに?
他には、誰もいないはずなのに?
「あなたは……だあれ……?」
私の無意識の呟きにも、女性は反応しなかった。その背中を私はしばらく見守ってから、「さようなら!」と元気よくお辞儀をして、鋏をきちんと拾ってから、元来た道を歩き出した。
女の子の情報網だって万能ではないのだ。嘘や間違いもあるだろう。
あの人が、誰であっても構わない。
綺麗な人と出逢えただけで、私は何だか幸福だ。
ただ、ほんの少しだけ……その美しさに切なくなった。
もしあの人が、本当に神様に仕えている人なら――いつか私と紺野ちゃんを、天国へ導いてくれただろうか?
でも、たとえそうだとしても。
私と紺野ちゃんの行先は、とうの昔に決まっている。
小五の春。今よりもっと幼かった春の夕べ。泣いた私へハンカチをくれた紺野ちゃんを、手酷く傷つけたあの日。許しを求めてただ走った、赤く暮れていく空の彼方。灰色の街の、道路の果て。
決して清められない『ばい菌』という、穢れに染まった私達は。
この〝アソビ〟が終わったら、二人で一緒に、そこに行く。
「紺野ちゃんと、一緒なら……地獄だって怖くないよ。ほんとだよ? 嘘じゃないよ? だから私は、〝鬼〟になったよ? ……だから」
溜息のように、口づけのように、私は懺悔の言葉を囁いた。
「もう、赦して……」
そう、呟いた時だった。
ふらり、ふらりと歩く私の隣を、誰かがすれ違っていったのは。
ダークブラウンの髪が、ふわっと、視界を掠めていく。
私は、目を奪われた。
――着物姿の、男の人だ。
慌てて振り返ってみたけれど、背の高いその人は廊下の角を曲がってしまい、私の視界から消えていた。
今の人は、大人の男性。私の〝アソビ〟相手じゃない。
だから拘る必要なんて、一かけらだってないはずのに――私は、激しく動揺した。
今すれ違った、男の人の髪色は――あの妖精の髪色に、とってもよく、似ていたのだ。
「ああ……撫子ちゃん……撫子ちゃん……撫子ちゃん……!」
一瞬で、心が攫われていった。
憎い氷花ちゃんの顔も、紺野ちゃんの未練も、見つからないお花のことも、怒りも、悲しみも、自責も、罪も、罰も、私の頭から霞のように消えていく。
代わりに一人の少女の存在が、私の中で膨張した。
撫子ちゃん。撫子ちゃん。あなたは今、どこにいるの?
――早く、会いに行かなくちゃ。
私ったら、一体何をしているのだろう。どうして東袴塚学園を出て、こんな所に来たのだろう。私が本当に心の底から好きな人は、あんなにも近くにいたはずなのに。他に求めるものなんて、何にもなかったはずなのに。涙をほたほたと零しながら、私は目を、両手で覆う。
――私は撫子ちゃんと、ちゃんとしたお別れもしていない。
小五の夏の別れの日から、私は学校に行かなかった。撫子ちゃんとは、あれから一度も会っていない。
今、どんな姿をしているの? 髪型は? あの時と同じだろうか。
撫子ちゃん。恋しいのだ。撫子ちゃんが私のことを嫌いでも、私は撫子ちゃんが好きなのだ。あの時だって私は思った。たとえ何度忘れても、何度だって思い出すから。ほら、私、覚えてる。
撫子ちゃん。好きなのだ。今もまだ、好きなのだ。
――だから。
「撫子ちゃん、撫子ちゃん、撫子ちゃん、撫子ちゃん……」
唇の端が、ぴりっと裂ける。また切れてしまったのだ。でも身の毛のよだつ不快感より、悦楽の方が上だった。
目隠しをした、手を下ろした。
私の顔は、笑っていた。頬が痛いくらいに、目が零れ落ちそうなくらいに、顔が壊れてしまいそうなくらいに笑っていた。きっと鬼みたいな顔をしている。祖父母宅で見た怖いお面みたいな顔。これが『人間』をやめて『鬼』を選んだ私の顔。
撫子ちゃん。
私を見て。今の私に、早く会って。
そうすれば今度こそ、私達は仲良くなれると思うのだ。
四年前は、私が撫子ちゃんを見てばかりだった。だから今度は撫子ちゃんが、私のことを見てほしい。琥珀色の綺麗な眼に、私の姿を映してほしい。他には何も映さないで、私だけを見てほしい。私を見て。早く気づいて。こんなに撫子ちゃんが好きなのだ。
なのに、いない。見てくれない。
こんなに好きなのに、見てくれない。
思慕と切望が渦を巻いて、恋い焦がれた私の喉から、愛の唄が溢れ出す。
「撫子ちゃんが、欲しい」
それは、あの夏の日にできなかった〝はないちもんめ〟の唄だった。
私は四年前からこの唄を、ずっと唄いたかったのだ。
「かーって嬉しい、はないちもんめ。まけーて悔しい、はないちもんめ。あの子が、欲しい。あの子じゃ、分からん。相談、しましょ、そうしましょ。撫子ちゃんが、欲しい。撫子ちゃんが、欲しい。撫子ちゃんが、欲しい。撫子ちゃんが、欲しい。撫子ちゃんが、欲しい……えへへへ……えへへへへ……」
縁側から庭へ下りた私は、再び唄いながら山の中を歩いていく。
ここへ来た時に唄ったものと、歌詞は変わっていたけれど。
私は、とっても馬鹿だから。
唄のどの辺が変わったのか、全然分からなくなっていた。
*
薄暗がりの和室の中で、一人の少女が身じろぎした。
少女の姿は和装だった。紅白の衣裳を身に纏い、居住まいを正して坐している。
酷薄に細められた眦は、ずたずたに裂かれた障子の向こうへ向いている。
その彼方の森に向かった、鬼の姿はもう見えない。
神社の境内の方角へ、既に姿を消していた。
「……。嘘と欺瞞、自己犠牲と自己陶酔の、見本市みたいな醜い女。……やっぱり私、貴女が嫌いよ。風見美也子」
つ、と流し目で、障子から顔を背けた少女――呉野氷花は。
滝の白糸の如き黒髪を、颯と揺らして、嘯いた。




