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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第2章 呉野氷花のラスコーリニコフ理論
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呉野氷花のラスコーリニコフ理論 8

 閑散とした境内に、その少女は立っていた。

 長く艶のある黒髪を風に靡かせ、制服のスカートを軽く押さえた少女は、鳥居と拝殿を繋ぐ石畳を、弾むように歩いていく。

 さして広くない境内には、小さな拝殿と賽銭箱、手水舎ちょうずやと鳥居の他には一対の狛犬が在るだけで、他には鎮守の森へと続く土の小道が、石畳の一本道の半ば辺りからひっそりと伸びるだけだった。

 鎮守の森の手前まで歩いた少女の元へ、一人の少年が近づいてきた。

 半袖の白シャツに、少女のスカートと同じ青と白のチェック柄のズボン。日比谷陽一郎だった。

 森の暗がりから歩いてきた陽一郎は、夢遊病者の様相を呈していた。瞳は焦点が定まらず虚ろだが、少女の姿を認めた途端、ぼやけた笑みが顔に浮かぶ。積年の旅の果てにこの世で唯一の同胞を見つけたような、重篤な安堵と執着が覗く笑みだった。見る影もない凡庸さを喜ぶように、少女はけたけたと笑い出した。

「可哀そうに。日比谷君。こんなになるまで、雨宮撫子に振り回されて。本当に可哀そう」

「……僕は、かわいそう」

「そうね。可哀想よ」

 片言のような言葉を受けて、少女――呉野氷花は、大げさに眉を下げた。

「可哀想。貴方あなた、とても可哀想よ。だってそうでしょう? 雨宮撫子が貴方に背負わせたものが、私には分かるわ。もう貴方の事しか分からない、貴方だけを頼りにして学校に行く、貴方が見捨ててしまえば生きていけない、雨宮撫子。自分のか弱さに酔いしれて、貴方に縋って甘えているのよ。その重圧を、あの子は何も分かっていないんだわ。ねえ、日比谷君。私にだけ、教えて? 貴方は雨宮撫子の事を、本当はどう思っているの……?」

「僕、は」

「重いんでしょう?」

 氷花の赤い唇が、笑みの形に吊り上る。

「重いんでしょう? 異常者になった雨宮撫子が。なのに、自分はそんな雨宮撫子と付き合っている。こんなはずじゃなかったのに。何故こんな病んだ女が、自分の彼女として隣にいるんだろうって、貴方は一度も考えなかった? ……罪悪感なんて、捨ててしまえばいいじゃない。簡単に、捨ててしまえるのよ」

「捨てるなんて……できない」

「できない? どうして?」

「シュウゴが、怒る」

「誰それ」

 あっさりと氷花は笑い飛ばした。

「自分で決めればいいじゃない。捨てるなんて、簡単なのよ。出来ない方がおかしいくらい、簡単に出来てしまうのよ」

「捨て方が……ぼくには、わからないよ」

「私が知っているわ」

「どうすれば……」

「本当に、簡単なことなのよ」

 氷花の手が、陽一郎の頬に伸びた。生白い細指に頬を撫でられた陽一郎が、慄くように目を見開く。

「他に好きな人ができればいい。彼女を捨てる理由としては、もってこいだと思わない?」

「でも……」

「でも?」

「なでしこは、僕が、いないと」

「いないと?」

「……」

「私よりも、雨宮撫子がいいの? 日比谷君。貴方以外の人間がどんどん見えなくなる、あの女の方がいいの?」

「……しゅうご、が、おこる」

「……誰よ、シュウゴって」

 氷花の切れ長の目に、冷徹な光が宿った。

「ねえ、忘れちゃいなさいよ。雨宮撫子も。そのシュウゴ君も。いいじゃない。軽くなるわよ。そんなに忘れられないくらいに酷い怒り方をするなんて、シュウゴ君が悪いのよ。ねえ、怒られてどう思った? 理不尽だって思わなかった? 日比谷君。シュウゴ君の事、酷いって思わなかった?」

「……」

「思ったのね? ほら。やっぱり。貴方、シュウゴ君の事も重いんだわ。何故そんなに背負い込むの? 何故そんなに苦しむの? そんなに重いものなんて、全部降ろしちゃえばいいじゃない」

 立ち尽くす陽一郎が、涙ぐむ。戸惑いで揺れる瞳には、にんまりと悪辣に笑う氷花が映っている。

「――『貴方は、雨宮撫子の事を重いと思っている』」

「……」

「――『貴方は、シュウゴ君の事を重いと思っている』」

「……」

「貴方は二人を捨てる為に、どんな行動を見せてくれるのかしら……?」

 見えない力に導かれるように、陽一郎の手が、氷花の肩を掴んだ。

 元々かなり近くまで寄せられていた二人の顔が、さらに近づく。心細そうに震える唇への距離を一息に縮めたのは氷花の方で、触れ合ってすぐ離れようとする陽一郎を、氷花の腕が引き留めた。身体を寄せて密着してくる氷花の背に、陽一郎の腕が、回りかけた時――


「汚ねぇもん見せんな。グロい」


 唐突に叩きつけられた罵声が、逢瀬に見せかけた調教の場に、すかんと抜けて響き渡った。

 手拍子のような声を合図に、境内の空気が明確に震えた。陽一郎の身体から力が抜けて、ずるずると雑草混じりの地面に崩れ落ちていく。

 まるで、糸が切れたようだった。あの日壊れた、撫子のように。

 氷花はぎょっとした様子で振り返り、鳥居の真下に立つ少年に気づく。

 瞬間、悪鬼の形相に歪んだ顔で、闖入者ちんにゅうしゃを睨んだが――やがて、わらった。


「……ふぅん。シュウゴって、あんたの事だったのね。小学五年以来かしら。会話なんてマトモにするの。ねえ? ……三浦柊吾君」


     *


 相手の名前をフルネームで覚えていたのは、こちらだけではなかったらしい。自分が呉野氷花の記憶にインプットされているとは意外だったが、驚きよりも不気味さの方がまさっていた。

 眼光を険しくする柊吾へ、氷花はにたにたと陰鬱に笑ってきた。柊吾の登場は予想外のはずだが、氷花がこの状況をたのしんでいるのは明らかだった。

「ほざけ。俺もお前も、互いに嫌いだっただろ。ろくに話した事もないはずだ。おべんちゃらは余所でやってろ」

「……へえ? やっぱりあんた、私の事が嫌いだったのね。何となくそんな気がしてたわ。後学こうがくのために、理由を教えてくれないかしら?」

「テメェで気づけよ、それくらい」

 悪態で返した柊吾は、用心深く状況を窺った。

 ――間に合ったと見ていいのだろう。鎮守の森の傍で昏倒した陽一郎が気になるが、先程まで逢瀬を楽しんでいたのだ。問題ないと信じたい。それに、今は陽一郎の無事さえ確認が済めば、不埒ふらちな級友などどうでもよかった。

「ほら、教えてよ。何が嫌だったの? あんまり話した事がないはずなのに、どうして三浦君は私を避けていたの?」

 肩にかかった黒髪を氷花は軽く手で払い、執拗に回答を迫ってくる。辟易したので、柊吾は答えを吐き捨てた。

「お前って本当に昔から、目つきの悪い、にやにやした女だな」

「はあっ? 私の質問、聞いてた? 回答の形になってないわね。日本語もできないの?」

「じゃあ、分かりやすく言ってやる。見た目」

「……」

「見た目」

 氷花の切れ長の目に、殺意が閃く。柊吾も負けじと睨み返した。

「やっぱりお前、自分の顔に自信あって、周りの奴らを見下してるクチか。分かるんだよ、そういうの。顔とか態度にめちゃくちゃ出てるぞ。そういうガツガツしたところ、ガキの頃から苦手だった。揉めるのがヤだから、口に出さなかっただけだ。そんなことをわざわざ女子に言う趣味もない」

「……じゃあ、今わざわざそんなことを女子に言いに来た、その理由を聞かせてもらえないかしら?」

「喧嘩しに来たからに決まってる」

 一歩前に踏み込むと、上履きの爪先が玉砂利を蹴飛ばした。首筋を抜ける風は、最早()せ返りそうなほどの雨の匂いを孕んでいる。曇天の下で、柊吾は威圧を込めて低く言った。

「雨宮に、何をした」

 氷花の足元で眠る陽一郎を、完璧に無視した上での言葉だった。柊吾は元々そこで伸びている級友を連れ戻しに来たわけだが、こうなった以上、もう事情が違っていた。陽一郎と氷花の繋がりも、やがて訪れるであろう見え透いた破滅にも、柊吾は興味がないのだ。

 今、柊吾が知りたい事実は一つだけだ。

 ――果たして呉野氷花は、雨宮撫子の仇か否か。

 仇ではないなら、陽一郎を回収して帰るだけだ。不愉快極まりないこの少女を野放しにするのは癪だったが、陽一郎一人なら、仇討など心底どうでもいい。

 だが、もし。仇ならば。

 撫子を壊した、張本人なら――柊吾は。

「……そう。喧嘩、ね。だから来たの。ふぅん」

 氷花は不機嫌から一転して、にやりと意味深にうそぶいた。じっとりとした視線で柊吾をねぶり、声を上げて笑い出した。

「それって、仇討あだうちと言った方が適切ではないかしら? どちらにしても三浦君、やっぱり貴方って野蛮ね。可愛らしいことで熱くなっちゃって。……あ。なあに? もしかして、雨宮撫子の事、好きだった?」

「……そうか。やっぱりお前がやったのか」

 認めた。やはり、仇だった。

「さっきそこで、お前の兄貴と会った。お前、〝コトダマ〟とかいうわけ分かんねえの使えるらしいな」

「!」

 氷花が目を見開き、口元を歪めて舌打ちした。

 美少女とうたわれ持てはやされてきた少女の、あまりに悪辣な態度と豹変。憎々しげな表情を見るにつけ、不条理を突き付けられた柊吾はきつく拳を握り込む。

 学校での氷花と言えば、その容貌から羨望の的となり、軽いアイドル扱いだ。そんな少女が内包する粘着質な悪意と狂気に、気づいた者は少なかった。もっと同級生達の観察眼が優れていたなら、こんな悪党などすぐに正体を看破され、学校社会から抹殺されていただろう。悔しさが湧いたが、柊吾はかぶりを振った。

 詮無い思考を巡らせて、敵を外部に増やしても仕方がないのだ。湧いた怒りの捌け口を、余所へ向けるのは愚かだった。――敵なら、目の前にいるのだから。

「お前の〝コトダマ〟の弱点、知ってるからな。お前、『会話』を前提にしないと相手を破滅させられないんだろ?」

「貴方、馬鹿なの? 矛盾だらけだわ。今まさに私と会話してるじゃない」

 憎しみを引っ込めて、氷花が柊吾を嘲笑った。

「ねえ三浦君、私はあなたが嫌いなのよ? 私がその気になれば、いつでも貴方を破滅させられるわ。大きな口を利けているのも、今のうちなんだから」

「ダッセェ」

 柊吾は取り合わなかった。

「お前、それマジで言ってんのか? 十四にもなって超能力使えるとかスタンド持ちとか、そういう頭湧いてそうなこと言ってんのか? 呉野がこういう痛々しい奴だって知ったら、周りもびっくりだな。ちやほやしてた奴も接し方変えてくると思うぜ? 雨宮を見限りやがった、そこの阿呆みたいに」

「いいわよ、別に。もう転校だもの」

 柊吾の放った言葉の棘を、氷花は涼しくあしらった。聞き捨てならない台詞を受けて、柊吾の拳に力がこもる。

「転校……」

 ――また、転校。

「俺らが小五の時の、転校。それも、お前が何かしたからなんだろ。お前は小五で紺野を事故死させて、中二で雨宮をあんなにして、今、陽一郎の阿呆を腑抜けにしたってことか」

 中には推測でしかないものもあったが、構わず纏めて全部ぶつけた。嘲笑が返ってくるかと思いきや、氷花が見せた反応は、柊吾の予想を裏切った。

 笑みの不遜ふそんさが、不意にやわらぎ――日が射したように明るくなったのだ。

「あら、興味あるの?」

 嬉しそうに声を上げる様子は、柊吾にそれを言及してもらえて喜んでいるようだった。異様な反応を見せつけられて、こちらの顔は引き攣った。

「紺野沙菜ね。随分と懐かしい名前を掘り起こしてきたものだわ。大人しくて地味でブスで、劣等感の塊みたいな女の子。あんまり隙だらけでかえって面白くなかったくらい。身体中が『弱み』でできてるんじゃないかしら。何を言われても傷つくくせに、何も言われなかったらひがんでたわね。大抵の言葉が意識しなくても勝手に刺さる、スポンジみたいな女子だったわ」

「……はあっ!? スポンジって、お前……」

「その点、日比谷君の方がまだマシだったわね。というよりも、別にこいつがどうなろうと私の知ったことじゃないのよね」

 ローファーの爪先で、氷花は陽一郎の脇腹を小突いた。蹴られた陽一郎が、身じろぎした。

「平凡で、意志薄弱。全然男らしくない卑怯者。こいつも『弱み』だらけで面白くないけれど、壊し方次第では、面白くもなるのよね」

「……」

「だって、そうでしょう?」

 思わず黙る柊吾へ、氷花は楽しげに笑いかけた。

「日比谷陽一郎の『弱み』は『雨宮撫子が重いこと』よ。雨宮撫子はもう、このへろへろした男くらいしかマトモに識別できない阿婆擦あばずれ。でも、日比谷陽一郎には雨宮撫子を捨てる勇気もない。どこかの野蛮人が、酷い叱り方をしたらしいわね?」

 阿婆擦れ――。かっと頭に血が上った。柊吾は目で凄んだが、氷花は喜色満面で語り続けた。

「日比谷陽一郎が他の女の子を好きになったら、どうなると思う? 捨てるのよ? 雨宮撫子を。学校での唯一の支えを失ったあの子、これからどうなるのかしら。ああ、転校の話、出てるんだっけ? 失恋が先か、転校が先か。残念だわ。私も転校だから見届けられない。だから急いで日比谷陽一郎を何とかしなきゃって思ったんだけど……このへたれ、シュウゴシュウゴってうるさいのよ!」

 氷花が陽一郎の脇腹を、もう一度蹴飛ばした。

 先程よりも強い蹴りに、陽一郎がぐっと呻く。柊吾が無言のまま距離を詰めると、氷花はぱっと陽一郎から離れ、挑戦的な目で柊吾を見やった。

「お前は……」

 微かに震えた声で、柊吾は言う。湿気を多く含んだ初夏の空気が肌にべたべたと触れていき、汗と混じって流れていく。

 言葉にするのを、極限まで躊躇いながら――柊吾は、ついに、言葉にした。

「お前は……雨宮から陽一郎を取り上げて……その反応が見たいから、って、そんなクソみたいな理由で、陽一郎にこんな真似をしたっていうのか?」

「そうよ」

 とびきり無邪気に、とびきり悪辣に笑った氷花は、とびきり明るく、肯定した。

「雨宮撫子の事だってそうよ。私、雨宮撫子の事もあんたと同じくらい、小学五年の頃から大嫌いだったわ。特に何かに秀でてるわけじゃない。綺麗な顔はしてるけど、図抜けて美人ってわけでもない。個性も何もない、清潔感くらいしか持ってなさそうな、何を考えているのか分からない、感情が死滅した能面みたいな女。なのに独特の雰囲気があるからか、羨望の目は集めてたわね。そういう涼しい顔で冷静沈着を気取ったいけ好かない女が、発狂してぐちゃぐちゃに潰れてくところ、見てみたかったの」

「……!」

 凄まじい悪意だった。

 あけすけな罵詈雑言の嵐を前に、柊吾は言葉を失くす。氷花の方はうきうきと話し続けていて、顔面を強張らせた柊吾に気づいた様子はなかった。

 女子の、本音。他者への羨望と憎悪が混じり合った、剥き出しの本性。

 だが、そんな風に割り切ってしまう事さえ、他の女子に失礼だ。普通、言わない。言葉にしない。仮に感情の濁りを本心に認めたとしても、それを他者が共有できるような言葉の形に置き換えたりは決してしない。それが柊吾の普通なのだ。それが常識であり、良識であり、他者にとってもその認識は同じであると信じていた。いや、今も、信じている。

 目の前の少女が撒き散らす言葉の群れは、どれを取っても酷かった。醜い悪意で歪み、徹底された憎悪で鋭く研磨され、どす黒く濁り、濁り尽くして、もう黒い。呉野氷花という少女は、本当に真っ黒だった。

 そんな真っ黒な少女に、〝コトダマ〟の力がある。

 ――とんでもない事だった。

 今、目の前にいるのは、絶対的な悪意の権化だった。さっき出会ったばかりの呉野和泉の台詞を思い出す。聞いた瞬間には戯言としか思えなかった言葉の数々が脳裏を掠め、過り、瞬いていく。

 言霊。悪鬼。凶器。悪意。弱み。防御。

 ――急所を狙われると殺されます。心して下さい。

 あれは、警句だったのだ。そして、戦い方だったのだ。和泉は本気で、柊吾に言っていたのだ。走りながら、苦しい呼吸の中で、柊吾がここで、生き残る為に。この悪意に呑まれずに、生きて神社から下界に戻ってくる為に、必要な知識を授けてくれたのだ。

 そんな備えがないまま、もし、こんな人間の形をした〝悪意〟に遭遇していたら? ――ぞっとした。

「……冗談じゃ、ねえぞ」

 柊吾は言う。怒りで声が震えるなど、生まれて初めての事だった。

「ぶっ潰す。……お前は、最悪だ」

「あはははははは! 壊れるくらいに脆い方が悪いのよ!」

 氷花が高らかに笑った。風に靡いた長髪が柳のようにざわりと広がり、やはり幽鬼のようだった。

「言葉一つで心の形を保てなくなるほど脆い『弱み』を、私の前でちらつかせるのが悪いのよ! あははははっ。なあに? 三浦君。怖い顔しちゃって。何をそんなに怒っているの?」

 哄笑こうしょうを上げた氷花が、一層愉しげに両腕を広げた。

「折角こんなに面白いことが出来るんだもの! 使わない手はないし、使うべきよ! 道徳も倫理も法律も、そんなもの私には関係ないし、踏み越えるべきよ! そんなものを馬鹿正直に守る必要なんて私にはないし、むしろ要らな……」

「アホか! いい加減にしろ!」

 柊吾は激昂した。もう我慢ならなかった。これ以上こんな不快な言葉を聞き続けていたら、それこそ柊吾は発狂する。〝コトダマ〟で殺される前に、この稚拙で濃密な悪意に心が暴虐されてしまう。氷花は演説を邪魔された事が心底不愉快だったのか、目元に深い険が寄った。

「野蛮ね。やっぱり私、あんたなんか大嫌いだわ。早く死んでほしいんだけど」

「それはこっちの台詞だ。テメェが死ね」

「うるさいわよ、死ね!」

「死ねって言われたくらいで誰が死ぬか! 馬鹿野郎!」

「アホとか馬鹿とか、ボギャブラリーが貧困過ぎるんじゃないのっ? あんたみたいなのが生きてると目障りよ! 死ね!」

「へぇ、なんだ。死ねって言われて怒るくらいには、やっぱお前って人間なんだな」

「当たり前じゃない。何を言っているの?」

 少し調子を取り戻したらしい氷花が、にやりと意地悪く笑った。

「そうよ、私は人間よ。でも、あんた達みたいなのと一緒じゃないし、してもらったら困るわ。私が遊びたいように遊ぶ事は、別に罪なんかじゃないわ。貴方に咎められるものではないはずよ!」

「ふざけんな! お前がやってるのは犯罪だ!」

 狂った演説を掻き消すように、柊吾は氷花を怒鳴りつけた。

「人が人を傷つけたら! 捕まるし、罰せられる! そんなの当たり前のことだ! 人間だって言うなら、道徳も倫理も法律も守れ! 守れてないお前は、犯罪者だ!」

「ふぅん? それで?」

 氷花はせせら笑い、瞳に挑発を滾らせた。

「じゃあ、捕まえて御覧なさいな。三浦君、私を警察に連れて行く? 一体どういう罪状で、私を捕まえるつもりかしら?」

「……っ」

 悔しいが、それには反論できなかった。

 犯罪だ。少なくとも柊吾はそう思う。だが、立証しろと言われたら確かにできないのだ。警察を始めとした大人相手に、〝コトダマ〟の事などどう説明しろというのだろう。過去の紺野沙菜の事故も、雨宮撫子の奇病も、日比谷陽一郎の奇行も。そのどれもが、氷花がやったという裏付けが取れないのだ。

 科学と常識と現実の壁が、こんな時に立ちはだかる。柊吾自身、心底から〝コトダマ〟を信じているかと問われたら、首を縦には振れなかった。こんな状況に身を置きながら、常識的な考えも並行して持っている。今はそれをも上回る敵意と怒りで、信じた形になっただけだ。非現実を真っ向から受け止める覚悟も勇気も、柊吾には足りていない。

 それでも、敵は氷花なのだ。それだけは間違いないのだ。言葉の力がどうとか、その異能で世界が変わるとか変わらないとか、現実的にあり得るとかあり得ないとか、そんなことは今の柊吾にとって、本当にどうでもいいことなのだ。

 敵か、否か。それだけだった。

 そして、敵だった。撫子の仇だった。戦う理由は明白なのに、現実を盾にされて追い詰められない。だが、追い詰めたかった。今目の前にいるのだ。数歩進めば手が届くほど近い場所に、敵が、仇が、氷花が。

 何とかしたい。どうすればいい?

 殴る? 駄目だ。こちらが社会的に抹殺されるだけだ。しかもこちらが攻撃の手段を持たないのに対し、相手は言葉の凶器を持っている。このまま打つ手なく黙っていれば、やはり柊吾は抹殺される。

「ふふ、反論できないでしょ? 三浦君はここに、一体何をしに来たのかしら。授業を抜けてまで喧嘩を吹っ掛けに来るなんて、暇なのね。道徳? 倫理? 法律? 学校に戻って社会の授業でも受けてきたら? 三浦君ってスポーツはできるそうだけど、他はどうなの? 自慢の体力に頼らないと、進学は危ないんじゃない?」

「このっ……!」

 調子に乗り始めた氷花へ、目の前が真っ赤になるほどの殺意が湧き上がる。そんな柊吾が余程滑稽(こっけい)なのか、氷花はけらけらと笑った。

「ほら! 立証できないでしょ! 凡人の道徳も倫理も法律も、私には関係ないし、踏み越えていいのよ! あはははは! 捕まえられなくて悔しいでしょ! 残念だったわね! 犯罪でも何でも構わないわ! この世には何をやっても絶対に捕まらない、規範を踏み越えていける人間がいるのよ!」

「そんなわけあるか!」

 柊吾は感情に任せて怒鳴り、更なる罵倒の言葉を目の前の少女にぶつけようとして――――違和感に、気がついた。

 今。何かが意識に引っかかったのだ。

「なあに? 黙っちゃって。ふふ、ついに反論の言葉も出尽くしちゃった? また死ねとか馬鹿とかアホとか言えば? もうそんな言葉しか出て来ないんでしょ? ほら、ほら?」

「お前、うるさい。ちょっと黙れ」

「はあっ?」

 氷花が眉を吊り上げて何やら罵詈雑言をぶつけてきたが、柊吾は耳を貸すどころではなくなった。身体の中で確かな感触を残した引っかかりの正体を、手探りで追うのに忙しかった。

 何が、こんなにも引っかかるのだろう。緊張感と、それに相対する高揚感で、心臓が早鐘を打ち始める。柊吾は、違和感の正体へ手を伸ばす。意識の暗がりに転がり込んだ答えを、あと少しで光の射す場所まで引き摺り出せそうな気がするのだ。

 そもそもこの違和感は、何に対するものだろう? 決まっている。氷花の言葉だ。先程から続く氷花との会話に、柊吾は違和感を覚えたのだ。

 ――折角こんなに面白いことが出来るんだもの! 使わない手はないし、使うべきよ! 道徳も倫理も法律も、そんなもの私には関係ないし、踏み越えるべきよ!

 ――そうよ、私は人間よ。でも、あんた達みたいなのと一緒じゃないし、してもらったら困るわ。私が遊びたいように遊ぶ事は、別に罪なんかじゃないわ。貴方に咎められるものではないはずよ!

 ――ほら! 立証できないでしょ! 凡人の道徳も倫理も法律も、私には関係ないし、踏み越えていいのよ! あはははは! 捕まえられなくて悔しいでしょ! 残念だったわね! 犯罪でも何でも構わないわ! この世には何をやっても絶対に捕まらない、規範を踏み越えていける人間がいるのよ!

 道徳。倫理。法律。そして。

 それをも踏み越える――罪。

「……あ」

 ――恭嗣。

 伯父の顔を、柊吾は思い出す。柊吾をからかうのが大好きで、三浦遥奈を『愛』しているかもしれない、兄のような、柊吾の――家族。

 今ほど、恭嗣に感謝した事はなかった。

 今ほど、恭嗣の言葉の数々を、教育として受け取った事はなかった。

 そして今ほど――その教育が、『武器』となる瞬間を得られた事も、なかった。

 茫然とした柊吾は、やがて――真っ直ぐに、氷花を見た。

 理解したのだ。違和感の、正体を。

「……おい、呉野」

「なあに? 改まっちゃって」

「それ、聞いたことあるぞ」

「え?」

「さっきの。道徳とか、倫理とか、法律とか。あと、それを踏み越えるとか、しつこいくらい言ってたけどな……それ、全部。俺、聞いたことあるぞ。っていうか、知ってるんだけど」

 ぎくりと、分かりやすい狼狽で身体を弾ませた氷花の笑みが、固まった。

「俺もまだ、全然読めてないし、最後まで読むのに時間が掛かりそうだから、あらすじだけ先に調べたんだ。読みやすくなるだろうと思って。……だから。話、知ってるんだからな。……おい。お前、一体どういうつもりなんだ……?」

 逃げ腰の仇へ、柊吾はさらに一歩近づいた。犯罪の証拠を突き付けるように、とどめの言葉を容赦なく、一語一句畳みかけていく。

「主人公は貧乏大学生で、高利貸しの婆さんを斧で殺す。その理由は、こうだ。『非凡人は、凡人の法律や道徳を踏み越えてもいい』。選ばれた非凡人は、世界に対する善行の為なら、あらゆる罪を踏み越えていく事を許される。道徳や法律は凡人の為のもので、そんなものに非凡人は、縛られなくてもいい。そういう風に思う事を、自分の良心に許す。……そんな思想が描かれた、小説のタイトルは」

「! 待っ」

「――『罪と罰』。作者は、ドストエフスキー。かなり有名なタイトルだよな」

 柊吾は待たなかった。

「さっき俺が言った内容は、主人公の貧乏大学生、ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフが、独自に組み立てた犯罪理論だ。……おい、呉野。さっきしつこく言ってたお前の持論。もっかい聞かせてみろよ」

「……似てるだけよ」

「まんまじゃねえかよ!」

 柊吾は追撃を止めなかった。

「しかも、お前っ、お前のは! 善行とか入ってねえから! 『罪と罰』で主人公が婆さんを殺すのは、婆さんから奪った金で世の中の為になる事を、いずれ為すためのはずだ! ――お前、いい事、何もしてねえ! 誰も幸せになってねえ! ラスコーリニコフじゃねえから! ……っていうか……っ、どこまでっ、馬鹿なんだ、お前はぁぁあああ!」

 怒りと不甲斐なさが一気に噴出した。気が狂いそうなほどの眩暈がした。

 ――呉野、氷花は。

 言霊に溺れ、出会った文学に心酔し、そこから齧り取った犯罪理論を、さも自分のものであるかのように振りかざし、幼稚な悪意をそこかしこに撒き散らして――撫子を、手にかけた。

 冗談ではなかった。十四歳だからといって、大目に見られるものではない。むしろ、同じ十四歳だからこそ許せなかった。

 気まずそうに顔を俯けながらも、悔しさと怒りと羞恥がない交ぜになったような激しい形相の氷花を、柊吾は真っ向から睨みつける。

 そして、自分の意思を、自分の言葉を、目の前の仇に叩き込んだ。

「お前の言葉は、全部借り物だ! どんな〝コトダマ〟が使えるんだか知らねえけどな、少なくともお前は、現実と虚構を一緒くたにした、ただの阿呆だ!」

 そして、柊吾がそう言った、瞬間。


「――殺す」


 氷花が、顔を上げた。

 双眸に冷徹な光が宿り、長い黒髪がぶわりと大仰にたなびいた。

「三浦柊吾! あんたの『弱み』は『雨宮撫子が好きな事』よ!」

 ざああ――と突如巻き起こった風が木々を揺らし、葉のさざめきが雨のように降り注ぐ。柊吾は「アホか!」と一喝し、氷花へ一歩詰め寄った。

「たとえそうだとしてもだ! 人が人を好きな事が、大切に思う事が! どう勘違いしたら『弱み』になるんだ! お前はやっぱりただの阿呆だ!」

「じゃあ分かったわ! 思い出した! 三浦柊吾! あんたそういえばアスリートだったわね! 野球部のエース!」

 氷花が勝ち誇ったように嘲笑い、次なる一球を投じてきた。

「三浦柊吾! あんたの弱みは『怪我や故障を恐れる事』よ! 隠してたみたいだけど、スポーツ推薦、噂になってるのを知らないでしょう! 腕、動かなくなったらどうする? バット、これから握れなくなったらどうする? 足が動かなくなったら? 走れなくなったら? ねえ、ねえ、どうするの? 生きていけるの、三浦君! 運動一筋の世界にこれから飛び込む人間が、一番切られたら困る生命線だものね!」

「知ったことか!」

 悪意の攻撃を言葉のバットで打ち返し、柊吾は足を踏み出した。

「お前をぶっ潰す為なら、刺し違えてもいい。俺が怪我や故障を恐れてるって、それでもお前は思うのか?」

「……ふん、強がりじゃないの?」

 氷花は思案気に嘯いたが、嗜虐的な眼差しは変わらなかった。まだ、疑っている。探している。柊吾の『弱み』を探している。レントゲンのように身体を見透かし、一撃で致命傷を与えられる場所を言い当てようと、視線をぞわぞわ這わせている。べたつく視線を正面から受け止めながら、柊吾は歩みを止めなかった。

「俺はお前が嫌いだ。お前は自分のやりたい事を好きなようにやって、それを正当化する為に文学を持ち出してきたクズだ。主張も全部人のもので、自分のものなんか何にもない、我儘で動いてるだけの大馬鹿野郎だ!」

「うるさいわよ!」

 顔を醜く歪ませた氷花の髪とスカートが、爆ぜた感情のあおりを受けたかのように翻る。湿気た空気を殺意の熱できしませながら、氷花は悪鬼のかおで叫び返した。

「『雨宮撫子を日比谷陽一郎に取られた』くせに! 間男まおとこは黙ってなさいな!」

「陽一郎とくっついたくらいで誰がへこむか! そんなちっせぇ問題、『弱み』なわけあるか!」

「そうかしら!」

 不敵に笑う氷花の顔に、禍々しい憎悪がみなぎった。

「しかも、他の男の子に取られたその子から、今はもう『見て』すらもらえないんでしょう? やっぱりあんたの弱みは『雨宮撫子を好きな事』よ! 理屈こねたって無駄よ! 好きなんでしょう! 雨宮撫子が!」

 柊吾は口を挟もうとしたが、出鱈目な〝言葉〟の投球は止まらなかった。境内というグラウンドに立つ柊吾の元へ、悪意の〝コトダマ〟が殺到した。

「『雨宮撫子には見えない三浦柊吾』! 可哀そうに!」

「雨宮にそうさせたのはお前だろうが!」

「『雨宮撫子の事が好きなのに』! 三浦君ったら可哀そう!」

「おい、いい加減にしろ。お前はさっき、そこの阿呆といちゃついてただろうが!」

 柊吾は近くに転がる陽一郎を、顎で示して挑発した。

「お前、誰かを好きになった事なんてないんだろ。誰かに好かれた事もないんだろ。〝コトダマ〟の力を借りないと恋愛もマトモにできないのか? それでこんな阿呆誑かしてるんだからお笑いだな。さっきの、滅茶苦茶グロテスクだったぞ。すげぇ気持ち悪かった!」

「――『三浦柊吾は、雨宮撫子には見えない』!」

 割れるような大声で、氷花の憎悪が炸裂した。

 そして、閃光のように放たれた次の言葉が――柊吾の世界を、まばゆき尽くしていった。


「『三浦柊吾は、雨宮撫子に必要とされていない! ――要らないのよ! あんたなんか! ()()()()()()()()()()()()()()()()んだわ!』」


「!」

 ダレカラモ、ヒツヨウト、サレテイナイ。

 イラナイ。

 その言葉が、本物の刃物のような冷たさで、胸の真ん中を鋭く抉った。

 頭に、人の顔が過っていく。父の顔が過った。恭嗣の顔が過った。森定の顔が次に過り、その次に過った顔は、たくさんの大人の顔だった。

 場所は、職員室。柊吾をねちねちと説き伏せる、たくさんの大人は教師達だ。その内の一人が、言うのだ。柊吾の記憶に焼きついた、あの台詞を言うのだ。


 ――お前は、親や、親戚、学校の先生、色んな人に生かされて、今ここにいるのだ、と。


 生かされて。生かされて。生かされて。それは、考えてはいけない事だ。生きているのだ。今、息を吸って。片親の子でも、柊吾は幸せに生きている。母と一緒に、支え合って生きている。

 だが――そう思っているのは、自分だけだとしたら?

 もし、誰からも必要とされていなかったら?

 恭嗣から。森定から。友人から。クラスメイトから。それに――母から。

 金食い虫。知っている。そうだろう。正しいだろう。子供とは、金のかかる生き物だ。母の元に残されたのは、父ではなく、何も出来ない子供の自分。恭嗣に頭を下げた、母の笑顔を、思い出す。

 ――『要らない』子供が残されて、その子供を『生かす』為に、生きている。

 びしり、と。空間に罅が入ったような音が聞こえた、瞬間。


 柊吾の目の前から、氷花と陽一郎の姿が掻き消えた。


「なっ……!」

 我に返った。柊吾は慌てて周囲を見回したが、石畳にも、拝殿にも、森へ分け入る小道の先にも、二人の姿はどこにもない。そもそも陽一郎は地面に倒れ伏していたのだ。一瞬でこの場を去るなど不可能だ。

「……っ、陽一郎! おい! 返事しろ! ……呉野! 何をした!」

 返事は、なかった。ざわざわと、不穏に枝葉が揺れている。孤独な柊吾を嗤うように、ざわざわ、ざわざわ、揺れている。

 そして、急に――地面に落ちた一本の長い枯れ枝が、持ち上がった。

「!」

 遮蔽物のない場所で、動くものは非常に目立つ。反応した柊吾が身体を向けたのとほぼ同時に、枯れ枝がこちら目掛けて飛翔した。

 反射的に腕で庇うと、叩きつけられた枯木がぱきんっと軽い音を立てて折れた。鈍い痛みが、皮膚に走る。まるでポルターガイストだった。驚く間もなく背後から足音が迫ってきて、振り返った柊吾の腹に、今度は竹(ぼうき)がぶつけられた。

「っ……!」

 強い力ではなかったが、庇うのが遅れた。柊吾はぐらついた身体の勢いを利用して後方に飛び退き、前方の攻撃から距離を取った。

 目の前には――独りでに動く竹箒。

 さすがに、そこまでされて理解できないほど馬鹿ではない。自分の置かれた現状に、柊吾はもう気づいていた。

 ――〝コトダマ〟に、やられた。

 おそらく陽一郎は、倒れていた場所から動いていない。そして柊吾が今対峙しているのは、先程と変わらず氷花だ。

 ――今の柊吾は、人が『見えなく』なってしまったらしい。

 からん、と音を立てて竹箒が石畳へ放り出された。次いで小石が弾ける音が聞こえ、土と下草を踏む足音が、森の奥へ消えていく。氷花だ。そちらへ駆け出そうとした柊吾だが、その瞬間に前方から何かが幾つも飛んできた。

 ――石。

 容赦のない投擲とうてきを見た瞬間、脊髄反射で跳躍し、地面を勢いよく転がった。柊吾が先程までいた場所で、小石が砕ける音がする。

 だが、逃げ延びて転がった柊吾は、突然『何か』にぶつかった。木々の手前には地面が広がるだけのはずなのに、ぐにゃりと生暖かい障害物が背中を打つ。

「つっ……!」

 これは、結構痛かった。呻いた柊吾は、はっと気づく。

 ――陽一郎。

 ここにいるのだ。柊吾には『見えない』陽一郎が、ここにいる。透明な身体に手を伸ばした時、頭上から再び石が降ってきた。立ち上がった柊吾は、攻撃を躱して逃れたが――石の音が自分を追ってこない事に気づき、振り返り、絶句した。

 先程まで柊吾がいた場所に、石の雨は降り続けていた。大小様々の尖った石は、地面に落ちる前に中空で一度止まり、溜まり、落ちていく。

 まるで『見えない』せきでもあるかのように、石が宙で積もるのを見た途端――あまりの卑劣さに、頭が真っ白になった。

「――呉野ぉぉおっ!」

 吠えたけったが、返事は何も聞こえなかった。すぐさま石が飛んでくる茂みに分け入っても、足音は既にそこから消えている。そして別の所からまた石が飛んできて、ごん、と背後で鈍い音がした。

「! 陽一郎!」

 幾ら氷花の気配を追い駆けても、『見えない』仇はすぐに立ち位置を変えてしまう。投げられた石は柊吾ではなく陽一郎へぶつけられ、その度に鈍い音が地面を穿ち、時折べちんと響き渡る。柊吾が足掻けば足掻くほどに、陽一郎が傷つけられていく。不吉な赤色が、空間にじわりと滲んだ。

 そして、一際大きい石が宙に浮いたのを見た柊吾は――『見えない』級友に駆け寄って覆い被さった。

 ごっ、と重い音を立てて、背中に石が落とされた。

「……!」

 背骨が軋み、息が詰まる。確実に追い込まれているのを理解しながら、こんな姿勢を取らされてしまった以上、最早柊吾は顔を上げる事すらできなかった。

 そこに、いる。この悪意をひたすらに柊吾へ降らせる悪党が、この石の雨雲の晴れた先に必ずいる。せめて声が聞こえればいいのに、耳が拾うのは石が地面を叩くざらついた砂音ばかりで、氷花の声は聞こえない。

 絶対に、氷花は笑っているだろう。散々自分を罵倒しておきながら、〝コトダマ〟の術中に嵌まって地面に這いつくばる柊吾を、間違いなく高笑いで見下ろしているに決まっている。

〝コトダマ〟を食らった瞬間の、胸をナイフで抉られたような冷たい痛みを思い出す。その瞬間に胸中を過った、紛れもない自分の感情も。

 だが、違うのだ。あんなものは、本心ではないのだ。己の心に対する言い訳ではなく、本気で柊吾は思っている。

 もちろん、考えた事はあった。だが、それは考えてはいけない事だ。疑う事さえ愚かな事だ。そして十四歳になった今の柊吾は、それをきちんと確信として受け止め、育んでいたはずなのだ。

 そんな家族の絆に影を落とす、小さな、本当に小さな意識の綻び。引け目。触れられたくない傷痕。痛み――『弱み』。

 そんなものを、赤の他人に掬い上げられた。

 そして、まるでそこから傷口を抉るかのように引き裂かれ、自分でも考えてすらいなかった方向へ、思考が飛ばされたのだ。まるで、被害妄想のように。

 ――馬鹿だった。あり得なかった。

 母が自分を『必要としていない』など、そんなことはあり得ないのだ。

 おごりではない。本気で思っている。そう確信すべきだと思っている。自信を持って、頷けばいいのだ。必要と、されているのだと。

 それを教えてくれたのが、柊吾の周りの人達だ。父が説いた『愛』を恭嗣が支えてくれた。森定が肯定してくれた。母が示してくれた。覚束ない自信をそうやって固めてくれて、真実へと変えてくれた。信じてもいいのだと、柊吾へ強く、背中を押してくれたのだ。だから、柊吾は、ここにいる。

 それなのに。

 ぐらついた。

 自信がこんなにも強固だと、自覚がある柊吾でさえ――人間が『見えなく』なってしまった。

 紺野。撫子。陽一郎。柊吾の周りで、壊れていった者達。三者の人柄と個性に思いを馳せた時、土と雑草と尖った石ごと、柊吾は拳を握り込む。柊吾でもこの有様なのだ。他の三者など論外だ。現に、既に死者が出ている。飛躍した感情が導き出す狂気など、簡単に想像がついてしまう。

 許せなかった。氷花の事が。やはりこの少女は、〝コトダマ〟で遊んでいる。人の感情を玩具おもちゃにしてもてあそび、個人の葛藤を嗤っている。

 憎い、許せない、腹立たしい――だが、何よりも悔しかった。

 こんな風になるまで、柊吾達は何を『見て』いたのだろう。撫子が壊れた時、柊吾達は壊れていなかった。人の姿がきちんと『見えて』いた。健常な目を持ちながら、何も『見えて』いなかったのだ。

 今の柊吾が『見て』いるのは、まるで撫子の世界だった。人の気配が遠く、声も聞こえない。限られた人間しか同じ場所に立てない、圧倒的な孤独が支配する、寂しい世界。

 撫子は、今もそこにいるのだ。孤独の中で、撫子は戦っている。誰の助けも得られない過酷な場所で、たった一人で戦っている。

「……あ、ま、み、や」

 柊吾は、その名前を呼ぶ。

 柊吾が助けたかった、少女の名前。

 だが、助けようとしなかった、少女の名前。

 ……謝りたかった。撫子に。

 何もできないなんて、そんなことは、ないのだ。できる事がある。今は思いつかないが、絶対あるに違いないのだ。

 その方法の模索を、撫子に『見て』もらえなくなったから、放棄した。腐っていただけだった。そんな体たらくでは『見て』もらえなくなって当然だ。柊吾の思慮が足りなかっただけなのだ。

 母の顔を、不意に思い出す。撫子を気にかけていた、母の寂しげな顔を思い出す。

 ――元々、柊吾が強くなろうと思ったのは。

 身体を鍛えようと運動を始め、その運動が楽しくなって、進路の話まで出てくるほどに、極めることができたのは。

 母を、守りたかったからだ。母の事が、好きだからだ。

 そんな風に、思い出した時――一つの記憶が、蘇ってきた。

 柊吾達が、小学五年生の時。ナデシコの花を、皆で植えた。

 しかし、全員の花が開いた時――ほぼ全ての茎が切られ、花の首は土に落ちた。

 その事件に対し、怒る者や落胆する者は多かった。陽一郎も残念がり、泣いていた者もいたと思う。


 だが、雨宮撫子だけは違った。


 撫子だけは、表情を変えなかった。当時から感情を顔に出さない性質たちではあったが、それにしても表情が動かない。訝しんでいると、撫子は休み時間に席を立ち、皆の鉢を見に行った。気づいた柊吾は、後を追った。

 今にして思えば、気がかりだったからだと思う。同じ名を冠した花が、無残に切られて台無しになった。撫子自身も熱心に育てていたように思うので、多分だが、柊吾は撫子が心配だった。

 だから、思わずついて行った。

 そして、中庭に林立するケヤキを囲んだ鉢植えと、そこに立つ撫子の姿を見た時――小さな手の平に乗せられた、花びらがふわふわとしたナデシコの亡骸を見た時。撫子も悲しんでいた事に、柊吾はようやく気づいたのだ。

『雨宮』

 柊吾が呼ぶと、撫子は振り返った。当時から二つに結っていた栗色の短い髪が、ぴょこんと弾むように揺れる。季節は七月で、この時の撫子は怪我をしていて、身体のあちこちに貼られた絆創膏が痛々しかった。

『三浦くん。……犯人、気づいたの?』

 唐突な、言葉だった。目を瞠ったが、柊吾は頷いた。撫子も目元に微かな驚きを添えて柊吾を見たが、やがて『そう』と静かに告げて、睫毛を伏せた。

『でも、言わないであげて』

『俺が言わなくても、隠し通せるとは思えないぞ。あいつ、真っ青じゃん。俺以外にも気づく奴、そのうち出てくると思う』

『ううん、それは大丈夫だと思う。……転校、するらしいから。だから、それまで。お願い。言わないであげて。三浦くん。見逃してあげて』

『なんで、雨宮は庇うんだ』

 柊吾は、率直な疑問をぶつけた。

『友達だからか? でも、これは悪いことだろ。悪いことを黙るのが友達なら、俺はそんなの、いらない』

『悪いことだよ。でも、こうするしかなかったんだと思う。こうしなきゃいけなくなった気持ちとか、こんなことをしちゃった理由とかは、見当つくの。……三浦くん。これは多分、私のせいだと思う』

『雨宮の? そんなわけない』

『そんなわけ、あると思う』

 答えた撫子は、初めて淡い笑みを見せた。

 驚くほど、透明な笑みだった。この夏が終われば頭上に広がる秋空のような、柔らかな慈悲が笑みにはあった。撫子は、犯人を許している。清々しい哀惜の目と向き合って、柊吾は黙らされてしまう。撫子は透き通った声で『それに』と続けた。

『人が、人に悪いことをしたら。やっぱり悲しいでしょう? そういう風に思われてるんだってだけで、傷つく人はいると思う。それが、自分のことじゃなかったとしても。……陽一郎は、優しいし、泣き虫だから。犯人探しに興味があるみたいだけど、やめてほしいなって思う。恨まれてるのが自分じゃなくても、陽一郎は泣いちゃうと思うから』

『……』

『それに、陽一郎って、もしそういう悪いことをされても、なかなか気づかないと思う。だから、陽一郎が気づく前に、私がよけてあげればいいと思う』

『……なんか。母さんみたいだな』

『お母さん?』

 撫子が、目をしばたく。やがて、そっと微笑んだ。

『ほんとだね。じゃあ、陽一郎は、私が守ってあげないと』

『守る?』

『だって、そうでしょう?』

 驚く柊吾を見上げて、撫子は穏やかに言った。

『お母さんは、子どもを守るものでしょ? 三浦くんのお母さんも、三浦くんを守ってる』

『それ、逆じゃないのか?』

『逆でもいいけど、やっぱりその逆でもあると思う』

 何だか、卵が先か鶏が先かを論じている気分になる。撫子も言いながら混乱したのか、視線を中空へ彷徨わせながら、ゆっくりと語った。

『……私が、ナデシコなのは。お母さんの好きな花だからって、お父さんがつけた。お母さんと結婚する時にも、花束にしてプレゼントしたって言ってた。一生守るから、って。そう言って、あげたんだって。三浦くんがシュウゴなのは、何か意味があるの?』

『俺?』

『うん』

『なんで、そんな質問』

『名前って、親が最初にくれる愛情だって、よく聞くから。それに』

 撫子は、柊吾を見つめた。琥珀色に輝く瞳は、柊吾の瞳よりも色素が薄くて澄んでいると、初めて知ったのはこの日だった。

『シュウって、ヒイラギでしょ? 名前が植物なの、おそろいだって思ってた』

『……。意味、聞いたことあるけど。難しすぎて分かんなかった』

『ふぅん?』

『でも。雨宮の、言った通りかもしれない』

『え?』

『守る、って。さっき、言ってたやつ』

 照れ隠しのように目を逸らし、柊吾はぼそりと囁いた。

『俺の名前は〝お守り〟だ、って――父さんと母さんに、言われたんだ』


 ――撫子は。


 柊吾にとって、初めて自分とは違う考え方を示してくれた少女だった。

 母は、子どもを守るもの。それは本来、柊吾にはない考え方だった。

 母を、父と柊吾で守る。少なくとも三浦家ではそうだった。他の家庭ではまた事情が違うと頭では分かっていても、現実味がなかったのだ。

 だから、初めて〝言葉〟として自分に届いた解釈に、柊吾は大きな衝撃を受けたのだ。他の誰にとって他愛のない発見でも、柊吾にとっては違っていた。

 ――まだ、氷花からの攻撃は続いている。石と玉砂利をまるでひょうのように降らせ続ける氷花の姿は相変わらず見えないが、ただ、何だか笑えてきた。

 何故、今まで気づかなかったのだろう。撫子が倒れた時の、針金のように痩せた身体を思い出す。抱え起こした瞬間に、あまりの軽さに驚いた事も。

 守らなければという義務感に駆られた、あの日の出来事をさかのぼっていくと――今度は泣きたい気持ちになってしまった。

 撫子は、やっぱり――母に、少しだけ似ている。


 ……ひどい初恋だと思う。


 柊吾は、ゆらりと立ち上がった。横面を石が掠めたが、構わなかった。陽一郎にも砂利がかかっただろうが、ひたすらに寝続けている級友を庇っていては、いつまで経っても戦えない。少しの間我慢してもらうしかなかった。

 ひゅっと風を切って飛んでくる石を、素早く躱しながら――柊吾はその方向へ、手中に隠し持った石を投擲した。

 小ぶりな石の剛速球は、かんっ、と木の幹を激しく打ち鳴らし、あらぬ方向へ飛んでいく。柊吾を狙う石の雨が、同時にぴたりと降り止んだ。

「そこか!」

 狙いを定め、柊吾は即座に足元を蹴飛ばした。最後に石が飛んできた方角へ砂利と土が撒き散らされ、跳ねた泥が宙で止まる。泥は浮いたまま、動かない。

 ――見つけた。

 足と、衣服。ついに目印が付いた。柊吾は泥目掛けて駆け出したが、透明人間はすぐさま後退し、竹箒がかたんと持ち上がった。――いよいよ分かりやすくなってきた。

 こちらに向かって振りかぶられた竹箒の柄を、柊吾は掴んだ。そのままへし折る勢いで、引き寄せると――おそらくは慌てて竹箒を手放したであろう逃げ腰の氷花へ、回し蹴りを叩き込んだ。

 重量感が、足に伝わる。どんっ、と石畳に倒れ込むような鈍い音が聞こえた時、「俺は!」と柊吾は『見えない』相手へ、割れんばかりの声で叫んだ。

「俺は、必要とされてるんだ! 親に! 親戚に! 家族に! お前が言ってるのは全くの出鱈目で、そんなことで俺達は、誰も揺らいだりはしないんだ! ……さっきの、取り消せ。取り消さないんだったら、もう一発食らわせる。……取り消せ!」

 ざざ、と空気が音を立てて歪んだ気がした。眼前の世界というテレビの映像が乱れ始め、掠れたノイズに微かな声が入り混じる。


「……女子に……手を、あげるなんて、最低……」


 氷花の声だった。まだ姿は見えないが、声が今、確かに聞こえた。ただ、ようやく知覚が叶った声に対して、安堵を覚える余裕はなかった。

 まだ、終わっていない。まだ、喧嘩の途中なのだ。

「お前は女子じゃない。クソガキだ」

 柊吾が吐き捨てた時、ぽつ、ぽつ、と腕に冷たいものが弾けた。最初はまばらに身体を打ち、どんどん数を増していく。柊吾は、空を振り仰いだ。

 ――雨だった。

 さああああ……と。木々の梢が擦れ合うような、柔らかい雨音が響いた。土が、石畳が、みるみる色を変えていく。細い雨は鼠色に垂れこめた厚い雲から降り注ぎ、三人の中学生しかいない神社の境内を濡らし、柊吾達の衣服についた泥を清め、洗い流していく。

「雨……」

 氷花の茫然とした声が、雨音に混じって聞こえる。

 声を受けた柊吾が、思わず足元を見下ろした時――そこには、黒髪を石畳へ放射状に広げて倒れる、呉野氷花の姿があった。

「……」

 世界が、元に戻っていた。

 人の姿が――『見えて』いる。

 柊吾も茫然としていたが、はっと我に返ると陽一郎の姿を探した。すぐに傷だらけで倒れ伏す男子生徒を見つけ、急いで駆け寄る。額とまぶたの端を少し切っているが、それ以外は腕に掠り傷があるだけで、深刻な外傷はなさそうだ。息をついた柊吾は、氷花の元へ取って返した。

「おい、呉野」と呼んでみたが、うつ伏せに倒れた氷花は答えなかった。軽く揺すっても意味を為さない言葉をうなるだけで、まともな返事が返って来ない。身体を仰向けに転がしてみると、脇腹の辺りが泥で汚れていた。柊吾が蹴り飛ばしたのは、ここだったようだ。

「……謝らないからな。先にやったのは、お前だ」

 呟いた柊吾は、氷花の上体を抱え起こす。雨に濡れた身体を引っ張り上げて背中に担ぎ、ずるずると歩き出した。

 さああああ……と。全ての狂乱を無にかえすように、雨は神域に降り続ける。雨脚が、少し強くなった。柊吾の背中からずれ落ちそうになる氷花の髪が、腕に絡みつく。雨を吸って重くなった制服が、ぴったりと貼りついて気持ち悪い。

 それでも、この生暖かさは人の温度だ。生きている人間が持つ、血の温度だ。仇であれ、柊吾達と同じものが流れている。命の温度を担ぎながら、柊吾は黙々と歩いた。

 そして、鳥居のすぐ傍まで、不自由な歩行を続けた時――柊吾は石段を上がってくる人間の姿に気づき、立ち止まった。

 灰茶色の髪をした黒いスーツ姿の男は、雨に全身を打たれながら、傘も差さずにやって来る。相手も鳥居の前まで辿り着くと、柊吾と向き合って立ち止まった。

「……。イズミさんの妹、蹴りました。こいつ本人に謝る気なんかさらさらないけど、イズミさんは兄貴だから、一応謝ります。家族蹴飛ばして、すみませんでした」

「屈折した謝罪ですね」

 前髪から雨水を滴らせた長身の異邦人は、存外に明るく笑った。

「いいのですよ。謝りたくはないのでしょう。君がどれほど意思を曲げて氷花さんを蹴ったか、僕には分かるつもりです。優しい君は、相手がこんな〝クソガキ〟であれ、女子を蹴ってしまったとこれから気に病む瞬間があるでしょう。そんな君から謝罪を受けるなど、こちらが申し訳なくなってしまいます」

「……普通の家族は、そんな風には言わないと思います。イズミさん、さっきも思ったけど、やっぱり変わってます」

 クソガキと罵ったところを聞かれていたのだろうか。柊吾は決まりの悪さを覚えたが、和泉は気を悪くした風もなく微笑んでくれた。

「よくぞ打ち勝ってくれましたね。君なら大丈夫だと信じていましたが、安心しました」

「……俺、どうして、また『見える』ようになったんですか」

 疑問が唇から零れたが、あまりに言葉足らずだったと気づき、緩慢な焦りが喉に張り付く。いきなり『見える』『見えない』などと言っても、普通は分からないだろう。

 だが、和泉は了解を示すように、あっさりと首肯した。

「それはきっと、君の〝言挙げ〟によるものでしょう」

「言挙げ……?」

 聞き慣れない言葉だった。意味を考えていると、和泉がこちらへ歩み寄り、柊吾が背負った氷花をひょいと両腕で抱え上げた。雨水を吸った黒髪が、帯のように地面へ垂れる。その時になって初めて柊吾は、氷花が少し吐いていた事に気づいてぎょっとした。和泉は冷静なもので、「いくら妖艶な人間を気取ったところで、喧嘩の末に吐瀉物に塗れているようでは、全くどうしようもありませんね」と皮肉気に囁いているので、案外この人物は腹黒いのではないかと少し疑った。

「言挙げとは、己の意思をはっきりとした声に出して言葉にする事を言います。僕の妹は、君に暴言を吐いたでしょう。君はその言葉に宿った霊威に一度は呑まれかけたのでしょうが、不屈の意思を言葉の形でぶつけた事で、〝言霊〟に打ち勝てたのでしょう。……ただ、この考えはあくまで憶測であり、真実は僕にも分かりません。僕の妹の標的となった人間が、無事に帰還を果たした事は、一度もありませんでしたから」

「なっ……」

「僕はここに、一人で来るつもりでした。氷花さんの新たな標的となった日比谷陽一郎君を救う為です。その過程で君と出逢った僕は、これでも動揺していたのですよ。君は仇が氷花さんだと知れば、僕が止めても一人で戦いに行ったはずです。ですから、迷ったのですが……君の名を知った時に、大丈夫だと判断し、行かせました」

「名前……」

 和泉の話は、柊吾にはよく分からなかった。

 だが、名前という言葉を聞いた時――蘇る、顔があった。

 さああああ……と。雨は、まだ降り止まない。顔面を伝う雫を拭いもせずに、柊吾は言った。

「俺は、雨宮を助けたいだけです。俺がやったのと同じように、雨宮も〝言挙げ〟すれば……あいつの目、また『見える』ようになりますか」

「……」

「イズミさんの妹と話して、分かったんだ。雨宮、逆恨みされてただけだった。あいつに悪いところなんて、何にもなかった。見た目とか、印象で、そいつに僻まれただけだった。……そんなのって、あるか。そんなつまんねえ理由で『見えなく』なるなんて、許せないし、許したくない。俺は、今でも、そいつが……殺したいくらい、憎い」

「……雨宮撫子さんが、この子に何を言われたか、教えましょう」

 雨の音に溶けそうな声で、和泉は告げた。

「――『陽一郎と、キスをした』、です」

「……は……」

「たったの、これだけです。そしてこの言葉が、撫子さんの世界を変えました。……撫子さんは、日比谷陽一郎君の事を、小さな子供のように思っていましたね。あの少年は、いささか幼いところが目立ちます。中学二年生の少年に大人の自立を求めるのは酷でしょうが、彼の周囲はしっかり者が多いですから。君と、撫子さんのような。だからこそ余計に、稚拙さが際立ってしまうのでしょうね」

 柊吾は、思い返す。撫子が、陽一郎の事に少しだけ触れた、在りし日の花壇の中庭を。

「幼い子供のような少年と、母親のような少女。もちろん本物の親子ではありませんが、愛着はあったでしょうね。撫子さんにとって陽一郎君が、放っておけない存在だったのは確かでしょう。そんな存在が、急に他の女の子とキスをしたというのです。誰であっても驚くでしょうが、『母親』なら特にびっくりするでしょうね。ですが、撫子さんは『母親』ではありません。いくら『子供』のように思ったところで、相手は同じ歳の少年です。――そこが、ぐらついたのです。曖昧な境界線をいきなり鋭く突いて攻撃すれば、驚いて混乱するのも無理はないと、僕は思いますよ」

「……」

「友愛と恋愛と家族愛が入り乱れていく眩暈の中で、最も適当な感情を『恋愛感情』だと定めた撫子さんは、陽一郎君に告白しました。『自分から離れてしまう事が怖い』からです。陽一郎君を取られた気持ちになったのかもしれません。〝言霊〟で急かされて、そんな風に思い詰めたのかもしれません。……おそらくはそれが、彼女が壊れた原因です。その感情は、本当にささやかなものだったはずですが……君なら、そんな小さな感情が、どういう変容を遂げて膨れ上がったか、想像できると思います」

「……それが、どうして……『見えなく』なる事に、繋がるんですか」

「陽一郎君が離れてしまう事が恐ろしいという恐怖を突き付けられたのです。推測に過ぎませんが、『二人しか、いなければいい』。そんな風に、考えが至ったのでしょう」

「それは、どういう……」

「愛し合う二人の事を、二人だけの世界、と詩的に表現するでしょう。文字通り、そんな世界が出来上がったと思われます。ただ、彼女の恐怖は非常に曖昧です。その結果がもしかしたら、親しい友人や親といった、彼女が生きていく上で必要な人間の生き残りを許したのかもしれません」

「……じゃあ、俺が、さっき『見えなく』なったのは」

「それは、君の『弱み』と撫子さんの『弱み』が似ているからでしょう。……必要とされないなら、要らない。要らないなら、誰からも『見えなく』なればいい。あるいは、他人が『見えなく』なればいい。君達はこんなにも違うのに、至り方は同じなのですね」

「…………じゃあ、俺は、どうすればいいんですか」

 柊吾は、俯いた。雨が、頬を滑って流れていく。生暖かい。冷たい雨に、ぬるいものが混じっていく。

「俺は、仇討のつもりでここに乗り込んできたけど、結局こいつと喧嘩しただけで、状況、何も変わってない。雨宮をやったのがそいつって分かっただけで、俺が勝ったみたいな形になっただけで、でも、勝ててなんかないんだ。これは、そういう勝負じゃないんだ。…………雨宮、返して下さい。そいつに無理なら、イズミさんが返して下さい」

 視界が、一気に滲んだ。声が、湿っぽくなっていく。止められなかった。無理に声を整えようとしても、普段の調子を取り繕って絞り出した声の輪郭は、どうしようもなく滲んでいる。もう限界だ、とこの数日の間に何度も思った。本当の限界は、ここだった。取り繕えないまま、雨に流すように、ぽつりぽつりと、柊吾は言った。

「陽一郎が、雨宮を見放そうとしてた事、俺、すごくむかついた。でも、半分は自己嫌悪だって、分かってたんだ。陽一郎の気持ちが、分からないわけじゃ、なかったから。あいつが好きなのは、前の雨宮だから。頭良さそうで、落ち着いてて、いつ見ても涼しそうで、あんまり怒ったり笑ったりしない奴だけど、時々驚いたり、少しだけ笑ったりして、そういうところを見ると、皆も嬉しくなったりする、そういう雨宮が、好きなんだ。……俺だって、あんな雨宮は嫌だ。でも、雨宮が何も悪くなくて、なのに、仇を討っても何も変わらなくて、じゃあ、俺は、どうしたら、雨宮を助けられるんですか。どうすれば、元のあいつに、戻してやれるんですか。……助けてって、言われたんだ。雨宮に。でも、俺は、何もしてやれなかった」

「それは、もう君が自分で答えを出したと思います」

 優しい声が、雨と一緒に頭上から降ってきた。柊吾が濡れそぼった顔を上げると、雨上がりの空のような微笑の異邦人と目が合った。

「君は、氷花さんと対立していた時に、何を考えましたか。雨宮撫子さんの事を、考えたのではありませんか。たくさん、たくさん、考えたのではありませんか。『見えない』あの子へ、できる事を。手を差し伸べる心意気を持つだけで、変わる何かがあるのだと。君は、自発的に気づいたはずです。誰も、教えていません。君が、自力で掴んだ答えです。そんな君だからこそ、僕の妹に勝てたのですよ。それに、撫子さんの事も。僕は少し安心しました」

「……どうしてですか」

「こんなにも大切に思っている人が、すぐ傍にいるのです。軽はずみに大丈夫だとは言えませんが……これからも、一緒にいてあげて下さい。孤独ではないのだと、伝えてあげて下さい。その方法の模索が、きっと何よりの治療ですよ」

「……イズミさんって、何者なんですか。日本語、ぺらぺらだし……」

「僕はただの呉野和泉ですよ。……またいつでも、神社へお越し下さい。友人が増えるのは嬉しいものですね。歓迎しますよ」

「……ん?」

 スーツ姿の異邦人は、愉快げに笑う。その顔と向き合った瞬間だけは、『愛』のみで満たされたかのような男の内に、確かな人間味を見た気がした。

「いずれ、こちらで神主を務めさせて頂く日が来ます。その時にはまた、どうぞよろしくお願い致します」

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