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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 59

「氷花、ちゃん。遊び、ましょ。氷花、ちゃん。遊び、ましょ……」

 人気のない鎮守の森に、唄が単調に流れていた。

 舌足らずな少女の声が、同じ唄を唄っていた。時折節をつけるように、しょき、しょき、と鋏を打ち鳴らす音が混じる。

 それを、止める者はいない。

「……て。退屈凌ぎに碁でも打ちますか。克仁さん」

 山の屋内、襤褸屋にて。縁側を臨む和室には、二人の男が潜んでいた。

 一人は、和装の異邦人。敷かれた布団に上体を起こし、薄笑いを浮かべている。

の状況を指して、よく退屈などと云えたものです」

 もう一人は、初老の男。元は柔和だろう表情を、険しいものへ変えている。

 呉野和泉と藤崎克仁。

 先刻の坂上拓海の推理によって、神社潜伏が暴かれた二人だった。

「克仁さん、声量を絞った方がいいですよ。僕等はきっと安全ですが、貴方の行動次第では、その安全も崩れます」

 枕元へ携帯電話を置きながら、和泉は克仁へ釘を刺した。その携帯を横目に見て、克仁が厳めしい顔になる。

「君は誤解をしているようです。私はさっきから何度もっているじゃあないですか」

 言葉と同時に、克仁が立ち上がった途端――ぶわり、と。幻の花が、人気に惑うように揺れ動いた。

 和室に、花が降っていた。葉も茎も持たない頭だけの花達は、見る者の目によっては〝生花〟にも〝氷〟にも見える花。音もなく降る花の首を、克仁の手が一つ掴んだ。

 硬い手の平に乗った花は、白いナデシコの花だった。

 克仁の顔が、微かな憐憫に歪んだ。

「……可哀そうに。私達が手を貸せば、すぐに彼女は助かります。れなのに君は何故、辛い道を選ぶのです」

「克仁さん。何度言っても同じですよ。これが僕なりの〝惟神かむながら〟です。そうでなくては、意味がありませんからね」

「……だから、止めるというのですか。此の私を、君は此処で」

「ええ。止めてみせますよ。克仁さん、この部屋の花は幾らでも愛でて頂いても結構ですが、どうか障子戸に掛けた手だけは、そのまま下ろして頂けますか」

 部屋を出ようとする克仁へ、和泉は莞爾と笑った。

 そして声音だけは長閑なまま、剣呑な言葉を口にした。


「御山を練り歩く鬼の子が、私達に気付いてしまっては事ですから」


「……気づかれても、いいのですよ。いいえ、今すぐ止めるべきです」

 障子戸を睨んだ克仁が、押し殺した声で答えた。

「ここで私が、彼女を諭せば済む事です。其れを君がどうしても承服しないというのなら、然るべき所へ彼女を通報すればいい。解決策なら、幾らだって有るのです。其れが、大人の責任というものです」

 振り返った克仁が、毅然と和泉へ言い放った。

「知っていながら、見過ごす事。其れは、罪です。イズミ君」

「……。その〝言挙げ〟はまるで、〝苛め〟を責めているようですね?」

 反論の揶揄に、克仁の手がぴくりと動いた。

「いいでしょう。克仁さん。ここで貴方が風見美也子さんの前に現れて説得に成功、もしくは美也子さんの身柄を警察や彼女の自宅へ引き渡したと仮定します。この場合、ひと時の解決と安寧は、確約される事でしょう」

 流れるように、和泉は言う。

 外からは少女の狂った歌声が、いまだ絶えず聞こえていた。

「ですが現時点での彼女の行為は、鋏を携えて他校へ乗り込み、学園を騒がせた一点のみ。しかもその凶器さえも他愛のない文房具。警察沙汰は厳しいでしょう。学園を混乱させた事で何らかの注意は受けるでしょうが、言ってしまえば、それだけです。――彼女はすぐに、日常へと帰ってきます。この袴塚市へ、撫子さんのいる日常へ、必ずまた帰ってきます。一度は封じられた、記憶と共に」

「……」

「その場合、ひどく厄介な事になるのです。克仁さん。この過程に則るなら、貴方の行動によって美也子さんの〝アソビ〟は、一度邪魔されたことになりますね? 子供好きの貴方ならお分かりかと思いますが、子供は、無邪気で残忍です。楽しい〝アソビ〟を邪魔した者を、きっと許しはしませんよ」

「其れの何を、恐れることがありましょう」

 すぐさま、克仁が口を開いた。

 粛々と、それでいて堂々と、和泉に言葉を返している。

「然様ならば、仕方がない。君も知る言葉ですよ。道理にかなった恨みならば、私は其れを受けましょう。……ですが、うでないなら話は別です。私は一個人として、風見さんと向き合いますよ」

「克仁さん。やはり貴方はお優しい。ですが判っているのでしょう? 貴方へ向いた恨みは、〝貴方〟という個人を狙いはしませんよ」

 克仁が、沈黙した。

 障子戸に掛けた手が、ほんの僅かだが震え出す。

「貴方の道場に通う門弟達。合計で一体何十人になりますか。袴塚市は小さな町ですが、この地区一帯の子供達は貴方を大層慕っているので、門弟以外にも交友のある児童はたくさんいますね? ああ、大人も通っていましたか。その大人達の子も入れれば、さらに被害者候補は増えますね?」

「……」

「克仁さん。〝先見〟の異能者として僕は警告したはずです。ここで貴方が顔を出せば、被害は撫子さん達七人だけでは済まなくなる上に、殆ど無差別に近い惨事へ発展します。数で正義を語るのが正しい事とは思いませんが、止められる蛮行は止めるべきだと、僕という個人は思いますよ」

「……其れを私が、信じるとでも?」

「信じているから、ここに来てくれたのでしょう?」

 和泉は障子戸へ目をやると、戸の合わせ目から細く開けた景色の中で、学生服の少女が一人、ふらり、ふらりと彷徨うように歩いている。

 狂的な笑みの横顔が、乱れ髪から、垣間見えた。

「僕の指示に従っていなければ、貴方の家に氷花さんを捜しに来た美也子さんと鉢合わせて、貴方、殺されていたかもしれませんよ?」

「……私が、子供に負けるとでも?」

「その場では勝ちますよ。ですがその後の報復で、精神的に殺されます。はてさて、可愛い門弟を一体何人殺されれば、貴方の心は死にますかね?」

「イズミ君。口を慎みなさい。大体君は、厭な言葉を嫌ったでしょう」

「ええ。勿論。今だってそれは変わりません。ですが僕とて必死なので、手段は選んでいられません。……それに。拓海君も、同じ台詞を言いましたよ」

 和泉は柔和に微笑むと、密やかな声で囁いた。

「子供の〝アソビ〟に、大人が混じるなど。興醒めですよ、克仁さん」

「……。何故、風見さんの母親へ、〝アソビ〟の嫌疑をかけたのです?」

 溜息を吐いた克仁が、別の切り口から和泉を責めた。

「嫌疑とは? ああ、『氷鬼』の鬼かもしれないと、彼等を脅かした事ですか」

 とぼける和泉を、克仁がじろりと睨み付けた。

「彼女が〝鬼〟でないくらい、私でも判りますよ。本当に〝鬼〟なら拓海君の指摘通り、身体に触れられれば『凍る』筈。ですが和音さんも雨宮さんも、身体に別状は無さそうです。イズミ君、また天邪鬼を出しましたね? 意地悪など云わずに危機だけ伝えれば良かったじゃあないですか」

「仰る通りですが、今の僕は敵なので。致し方ないことですよ。……ですが、おかげで和音さんと撫子さんは、重要な物を手に入れました。〝アレ〟を手に入れる為に、これは誰かが払うべき犠牲でした」

「犠牲という、其の言葉。私は好きになれませんね」

「奇遇ですね。僕もですよ」

 もう一度溜息を吐いた克仁が、葛藤の顔のまま障子戸に掛けた手を下ろした。

 和泉はその様子を確認してから、口調を穏やかなものに変えた。

「克仁さん。一説によれば、花が降るのは『天狗』の遊びだそうですね。人間を驚かそうとしているのか、天から花を降らすという。……不思議なものです。この部屋に降る花は、夏の花ばかりでしたが……今は全て、〝ナデシコ〟です」

 和泉はそう言って、夢幻の花を見渡した。

 その〝花〟の一つを手に取ると、郷愁か、感嘆か、情感を湛えた声で囁いた。

「この現象、中学生諸君の中にも『見えた』者がいるようです。それも、この〝ナデシコ〟を。……天狗の気まぐれな遊戯にしては、人為的な意思を感じませんか? 赤ら顔に長い鼻、手に羽団扇、足には高下駄、丸い房飾りのついた法衣を纏う、まるで山伏のようなこの御魂。――死して尚、修験道を往きますか。……僕の御父様は生まれ変わって、『天狗』に姿を変えられたのでしょうか」

「戯言ですね」

 夢想の言葉を、克仁は一刀のもとに切り捨てた。

「戯言の心算はありませんよ。そう考えた方が楽しいでしょう?」

 和泉は気分を害した様子もなく、ただ朗らかに言い返した。

「あの御方は気難しい御仁ですが、気骨のある若者の事はきっと御好きでしょうからね。柊吾君が撫子さんを見失った際に、導きの如く降った花。國徳御父様が柊吾君に味方したと考えるのは、自然なものだと思います」

「其の考え自体が、無理のあるものです」

 克仁は、甘えを許さなかった。

「イズミ君。君は死者の存在を信じているのですか?」

「それは、呉野神社の神主としての、僕へ向けてのものですか?」

「いいえ。私の息子、イズミ・イヴァーノヴィチへ訊いています」

「では、その答えに僕は『いいえ』と答えましょう」

 そう答えた一瞬だけ、和泉の顔から笑みが失せた。

 つ、と逸らされた視線の先には、障子戸の隙間が見えている。

「ですが。死して尚、感情が其処に残る事。それは、認めている心算です」

「……だから、ですか。君が撫子さんを利用しているのは」

「利用、ですか。そうですね。言い換えればそうかもしれません。ですが克仁さん。いずれにしてもです」

 和泉の手から、花がころりと落ちていった。

 花は畳の上で一度弾むと、空気に溶けて霞んでいく。

 その末路を、和泉の目は見ていない。戸の隙間から僅かに覗く薄紫の空だけを、遠い瞳で見つめていた。

「たとえ戯言であったとしても、これがただの天狗の遊びに過ぎないとしても……僕としては、國徳御父様であって欲しいのです。もしそうなら、それは証左となりますから。僕がこれから為す行為が、決して間違いではないのだと。清らかな魂は、必ず生まれ変われるのだと。御父様がその御魂で、示して下さった事になりますから」

「イズミ君。目を覚ましなさい。拓海君がしたように、私は君に反論しますよ」

 克仁は、和泉の言葉を無理やりに断ち切った。

「まず、三浦柊吾君の目に〝花〟が見えた事。此の事象を國徳さんに結びつけるのは暴論です。君も知っての通り、三浦君は特別です。たとえ現のものとは異なるものが見えたとしても、驚く事はありません」

 予想通りの反駁だったのか、和泉は「おやおや」と肩を竦めた。

 克仁は「そしてもう一つ」とさらに続けた。

「和音さんの目にも〝花〟が見えた事。此れもまた驚く事はありません。彼女は現在、雨宮撫子さんを連れています。彼女と身体が接触したなら、『見えて』も不思議はありません」

「ほう。……今のは、解せませんね?」

 和泉は、意地悪に食い下がった。

「克仁さん。貴方、可笑しなことを仰いましたよ。何故撫子さんを連れていると、和音さんに此の世ならぬ〝花〟が見えるのですか? 奇妙ですね? 不思議ですね? それでは道理に合いませんね? 克仁さん、僕は貴方に理由の説明を求めます。それは一体、何故ですか?」

 罪を糾弾するように、和泉は笑顔で畳み掛けた。


「貴方の言い方では、まるで――撫子さんが、我々の〝同胞〟のように聞こえますよ?」


「……。もし然うだとするなら、君。酷い矛盾を抱える事になりますよ。去年の夏と、同じような」

 克仁はそう囁くだけで、和泉の尋問に応えない。

 そして突然「退屈凌ぎに、碁でも打ちましょうか」とおどけた調子で笑うと、和泉の傍に正座して、手中の〝花〟を、畳へ置いた。

「さあイズミ君。去年の夏に、拓海君を我が家へ呼んだ時のことを思い出して御覧なさい」

「拓海君に我々の過去を見せた時のことですか。懐かしいですね」

「私が拓海君に触れることで、彼も〝花〟を『見る』ことができました。我々の異能の力を、他者と共有するのは容易です。只其の身に触れる、其れだけでいい。他者へと共有する異能の加減も、意思で調整が可能です。……ですが」

 そこで言葉を切った克仁は、淡々と、厳かに、断言した。

「あの子に、其れは出来ますまい」

「……。克仁さん。雨宮さんの『目』に何か思う所でも?」

「勿論、沢山ありますよ。彼女と初めて出逢った時、私は驚きましたから。決して丈夫ではない身体に、其の身に抱えた異常な深手。何より――あの『目』。イズミ君。あれは不可いけません」

「いけない? それはまた面妖な」

「君だって判っている筈ですよ」

 克仁の手が不意に動き、中空の〝花〟をもう一つ掴んだ。

 それを先の〝花〟の真後ろへ置くと、克仁は顔を上げて言った。

「イズミ君、覚えていますか? この〝花〟の配置は去年の夏に君の部屋で、謎解きをした時と同じです」

「……。ええ。覚えていますよ。今回の事件になぞらえるなら、この〝花〟はどんな役割を持つのです?」

「今回は、三つ使います」

 克仁は言葉と同時に、さらに三つ目の〝花〟の首を掴んだ。

 それらは和泉と克仁の間を繋ぐように、縦一直線に並べられた。

「イズミ君。縦一列に並べた此の〝花〟の、君から見て一番手前。それを〝和音さん〟だと仮定します」

「和音さんですか」

 意外そうな顔の和泉へ、「ああ、和音さんでなくとも結構ですよ。……正常な『目』を持った者なら、どなたでも」と、克仁が人を食ったような目で笑う。

「では、残り二つの花は?」

「〝和音さん〟の後ろは〝三浦君〟でお願いします」

「……柊吾君ですか。では彼の後ろは〝撫子さん〟ですね?」

「ご明察。何故分かったのです?」

「柊吾君といえば、撫子さんのあの目では『見えない』相手ですからね」

「……おや。理解が早いですね」

 克仁がにやりと笑い、〝和音〟の花を指でさした。

「扨て。〝和音さん〟の視点に立つなら、背後の〝柊吾君〟と〝撫子さん〟の姿は、彼女の目には『見えます』ね。……嗚呼、一応云っておきますが、今回は〝三浦君〟の影に隠れて〝撫子さん〟が『見えない』などと云う心算はありませんよ。此れは、然ういう話ではないですからね」

「成程。では〝和音さん〟の目を介せば、この場の〝花〟は二人とも『見える』。貴方が言うように、これはそういう状態ですね?」

「ええ。其の通り。――では、ここで。〝花〟の並びを変更します」

 克仁が、二つの〝花〟を同時に掴んだ。

 和泉が、瞠目する。

 掴まれたのは、〝和音〟と〝撫子〟の花だった。

 二つの配置が入れ替えられ、克仁は再びにやりとした。

「君。まだ私を蚊帳の外扱いする気ですか? ……まだまだ青いですね、イズミ君。地獄に逝くには、早いのでは?」

「……」

「さあイズミ君。答えて御覧なさい、今度は〝撫子さん〟の視線に立って、二つの〝花〟を見るのです。――此の〝花〟の目には、背後の〝花〟は、どういう風に映りますか……?」

「……〝撫子さん〟の真後ろに〝柊吾君〟、その後ろに〝和音さん〟ですね」

「其の通り。ではここで更に、配役を一名変更します」

「……。変更?」

「はい。〝和音さん〟役の〝花〟を、別のモノへ変更します」

 刹那の沈黙が両者に流れ、無音の空隙を調子の外れた唄が埋めた。

 やがて口火を切ったのは、笑顔を繕った和泉だった。

「……別の、モノ。はて、その正体は?」

「其れは、今は伏せておきます」

「それは、不親切ですよ。克仁さん」

 和泉が茶化すように不平を言ったが、その目は、片時も克仁から逸らされない。

 緊迫感が薄らと、狭い和室に張り詰めた。

「イズミ君。続けましょう。引き続き〝撫子さん〟の視線に立って、真後ろの〝花〟二つを見て下さい。但し〝撫子〟さんは先程の〝和音さん〟と違い、『目』に欠陥を抱えています。その症状を加味するなら、〝撫子さん〟には真後ろの〝三浦君〟は『見えません』。ですが……其のさらに、背後。正体が一切不明の〝モノ〟なら、如何でしょうね?」

「……」

「『見える』ものが極端に減り、『見えない』ものが増えていく……」

 歌うように朗々と、克仁が〝言挙げ〟しながら〝花〟を拾った。

 それは〝撫子〟でも〝柊吾〟でもない、三番目の〝花〟だった。

 正体不明で得体が知れない、名を伏せられた〝花〟だった。

「単純な問題です。彼女の『目』。体調によって瞳が焦点を合わせる場所が、大きく変動するのです。即ち――『見えなく』なったものがあれば、其の代わりに別のものが、『見えて』いるやもしれません。……イズミ君。君の狙いは、其れでしょう?」

 一拍の間を置いて、克仁はとどめの言葉を〝言挙げ〟した。


「三番目の、此の花は――〝撫子さん〟の目に『見えて』、〝和音さん〟には『見えません』ね?」


 和泉は暫くの間沈黙すると、何食わぬ顔で笑い出した。

「酔狂を仰る。証拠がありませんよ。克仁さん」

「論より証拠を求めますか。イズミ君、私は屹度、君に証拠を突きつけますよ。……ですが其れは、今ではないという事です」

「成程。……どうやら、そのようですね」

 その台詞を合図にして、庭の唄声が大きくなった。


「――氷花ちゃん、遊ぼうよお!」


 ざっ、ざっ、と砂を踏みしめる足音が聞こえた。

 呉野神社を徘徊していた鬼が――風見美也子が、家の庭まで迫っていた。

「来ましたね」

 その声と同時に、凄まじい声量の哄笑が上がった。

 襤褸屋の空気が震撼し、室内の〝ナデシコ〟の花が一瞬全て動きを止めた。

 まるでそこに息づく命が、一斉に怯えているかのようだった。

「氷花、ちゃん、遊びましょ! 氷花ちゃん、遊びましょ! ねーえ、出てきてよ! 氷花ちゃん! 私だよ! 美也子だよ! 遊びましょ、遊びましょ、遊びましょ……!」

 乱暴な足音に廊下の床板が激しく軋む。その蹂躙の音は瞬く間に大きくなり、克仁と和泉の部屋へ近づき、ついに障子戸へ少女の影が映り込んだ。鋏を構えた少女の影絵が、白いスクリーンで踊り出す。妖怪のように振り乱された頭髪に、元の髪型の面影はない。克仁が顔色を変えないまま、潜めた声で囁いた。

「……此のままでは、見つかります」

「いいえ。見つかりません。必ずです」

 和泉もまた、顔色を変えずに言い返した。

「僕は、それを知っています」


「あははははっ、氷花ちゃん、氷花ちゃん、氷花ちゃん、氷花ちゃん……!」


 少女は手を鞭のように蠢かせて、障子戸目掛けて叩きつけた。

 木枠で囲われた薄い和紙に、刃が立て続けに突き刺さる。バリバリと威勢のいい音が澄んだ空気を引き裂いた。破れ目からは森の緑と夜の気配、鬼の少女の髪が、唇が、目玉が、狂気が、まるで万華鏡のように色と艶とを変えながら、代わる代わる閃いた。けたたましく笑った鬼は障子に幾つもの穴を穿ちながら、台風のように廊下を走り去っていった。

 あとには切り裂かれた障子戸と、その戸の内側に男二人が残された。

 克仁の額に脂汗が滲んだのを、和泉が見逃さずに冷やかした。

「ほら、克仁さん。隠れていて良かったでしょう? 貴方のような健全な人には、彼女の相手は務まりません」

「君、煩いですよ。……其れにしても、よく見つからなかったものですね。何度か目が合った筈ですよ」

「実際、気付いていたとは思いますよ。ですが彼女にとっては大人など、空気に等しい存在です。それより克仁さん、この惨状を見て下さい。貼り換えたばかりの障子が台無しです。全く、破る方はさぞ気持ちがいいのでしょうね」

「何を阿呆のような心配をしているのです」

 克仁は呆れ果てていたが、その顔に、僅かな焦りがさっと浮かんだ。

「其れよりイズミ君。妹の心配をしてはどうです。〝先見〟の異能者としての君へ訊きます。彼女は本当に、大丈夫なんでしょうね?」

「……ああ。氷花さんですか」

 和泉は今思い出したと言わんばかりに目を瞬き、忍び笑いを漏らした。

「そういえば居ませんね。いつの間に部屋を出たのです?」

「白々しい。君が私の作った粥を食べている間に部屋を出て行きましたよ。暑苦しい兄貴に首根っこを掴まれて、鬱陶しい厭味をたんまり云われて、ほとほと愛想が尽きたのだと。他にも不愉快だの汗をかいただの散々不平を云ってましたが、君という兄は一つも聞いてないのですね」

「ああ、そういう理由でしたか」

 頷いた和泉が、屈託なく笑った。

「相変わらず、事態の重さを認識しているのかいないのか。柊吾君の言葉を借りるなら、僕の妹は阿呆ですね」

「阿呆の兄貴には彼女も云われたくないでしょうが、兎も角。着替えてくると言って出て行きましたよ。イズミ君、氷花さんは大丈夫なんでしょうね?」

 立ち上がりかける克仁を「大丈夫ですよ、克仁さん」と和泉が制した。

 そして――今度は意味深に、含み笑う。

「僕の妹は、確かに筋金入りの阿呆ですが……ただの阿呆では、ありませんから」

「……。君、私にまで紛らわしい態度は止しなさい。どういう意味です?」

「〝アソビ〟の鬼である、風見美也子さんという少女。確かに彼女は『美しさ』に対し並々ならぬ執着を見せました。十四という、若い身空でこの妄執。なかなか見上げたものですね。……ですが。残念ながらと、言うべきか。年季の面で言うならば――氷花さんの方が、上なのですよ」

 少し離れた部屋の方から、激しい物音が聞こえてきた。

 障子が破られる音だった。

 はっと克仁が腰を浮かすが、和泉は狼狽えずに話し続けた。

「東袴塚学園では、坂上拓海君によって様々な議論が為されました。彼の情報収集によって判明した事象は様々ですが、その中から一つ拾うなら――風見美也子さんはどうやら、小学校の低学年時に、苛めに遭っていたようですね」

 苛めという言葉に、克仁が目元を歪ませた。

 苦界を知る者の顔だった。そして同時に、和泉の話の落とし所が読めたのだろう。顔に、複雑な陰りが颯と差す。

「苛めに遭った彼女は、その際の己の行いを悔い改め、以降、誰とでも仲良く出来る、協調性豊かな少女、『綺麗な』美也子である事を、己の魂に課しています。小学校低学年といえば、年齢でいうと八歳、九歳辺りでしょう。……ならば、まだまだ、と言わざるを得ませんね。この程度では、まだまだです。何故なら僕達の知る〝鬼〟は、もっと年若い幼女でしたからね……?」

「イズミ君。時間がありません。もっと端的に言いなさい」

 克仁がぴしゃりと言った。

 和泉は「承知しました」と莞爾にっこりした。

「美也子さんと氷花さん。『美醜』に憑りつかれた鬼の娘。――その拘りがより強いのは、一体、どちらの娘です?

「……どちらも、中学生の少女ですよ」

「そして、どちらも鬼ですね」

「ですが今回の〝アソビ〟の鬼は、風見さん一人の筈でしょう」

「さあ、どうでしょうね? そこに拘り続ける貴方も、〝アソビ〟に囚われるあまりに『盲目』になったように見えますが?」

「其れは、あの文学作品に出てくる『母親』のように、という揶揄ですか? 云ってくれますねイズミ君。では、厭味な君に訊きましょう。文学作品『山椒大夫』。此れを話題に挙げたのは、意味があっての事ですか?」

 片眉を跳ね上げた克仁が、この時初めて挑戦的な笑みを見せた。

 議論に熱中するあまりに危機を刹那忘れたような、純粋な歓喜の顔だった。

 その顔を受けて和泉も笑みを返したが――そこには仄かな照れが薄らと、美貌の上へ浮かんでいた。

「いやはや、それを言われてしまうと、降参するしかありませんね。……元々、他の文学でも良かったのです。それこそ僕の好きな文学作家の作品から、また選ぼうと思ってましたが……折角の、機会ですから。できるなら彼等には、多様な文学に親しんで欲しいと思いまして」

「呆れた男ですね。そんな体たらくだから弟子に言い負かされるのです」

「文学は良いものですから。あの清らかさを知らずに死ぬのは、勿体ないことですよ。それに僕が拓海君に負けたのは、彼の頑張りによるものです。……克仁さん。安心なさって下さい。氷花さん自身、己の強みを知っていて、だからこそ〝彼女〟にだけは強いのです。――たった一言の〝言霊〟で、あっさり勝ててしまうほどに」

「……やれやれ。君には、妹の危機を救おうという兄心は無いようです」

 呆れる克仁へ、和泉は飄々と構えていた。

 だがその余裕は、次の瞬間一変した。

「……時に克仁さん。御父様の本棚から一冊、本が消えたように思うのですが」

「はい? ああ。氷花さんが持っていきましたよ」

 部屋の隅の本棚を眺める和泉へ、克仁がさらりと答えた。

「退屈凌ぎに本が読みたいと云ってましたよ。着替えついでに、別室で本を読むそうです」

「僕としたことが見過ごしました。一体いつそんな狼藉を働いたのです?」

「君が拓海君達との通話を終えかけた頃ですよ。狼藉とは物騒な。本くらい貸してあげれば宜しいでしょう」

 すっくと和泉が立ち上がり、和装を翻して歩き出す。

 克仁が、その背に問いかけた。

「どちらへ?」

「本を取り戻しに行ってきます。……あの本は、特別ですから」

「もう良いのではと私などは思いますよ。……國徳さんも、お叱りにはならない筈です。あの方も氷花さんの事を、真から恨んでいたわけではないでしょう」

「故人の遺志を、僕達の感傷で曲げてはなりませんから。……たとえあの御方が〝同胞〟でなく、その真実や感情が、どんな形に『見えた』としても」

 障子戸の前で振り返った和泉は、克仁へ、優しく笑いかけた。

「死者の心は、僕にも『見えません』からね」

 克仁も、ふっと破顔した。死者を悼む顔だった。

「……君は、本当に頑固ですね」

「……あの御方の、そして貴方の子ですから」

 その言葉を残して、和泉は和室を後にした。


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