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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 57

 かしゃんっ、と硬い音を立てながら、携帯が階段を転がっていく。

「何これ……っ!? 何が起こってるの!?」

 七瀬が慌てて走り出すのを、拓海は腕で押し留めた。代わりに階段を駆け下りて携帯を拾うと、声はまだ聞こえていた。

『嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき……!』

 呪詛の言葉が念仏のように溢れ出し、総毛だった拓海は固まった。

 だが、それは些事だった。

 さっき、確かに聞こえたのだ。

 感情の箍が外れたような女の金切り声の直後、『七瀬ちゃん!』と呼んだ少女の声を。

「坂上、まさかっ……!」

 柊吾が顔色を変えて叫んだ。他の全員も慄きの顔で拓海を見ている。さっきの『呼び声』の主に皆もすぐに気付いたのだ。

「うん。間違いない」

 出来ることなら信じたくないが、これが拓海達の現実だ。

「佐々木さんと雨宮さんは、風見さんの家にいる」

 和音と撫子。この学園から消えた二人。

 その二人の、現在地は――よりにもよって、美也子の家だ。

「なんでっ……! なんであいつら、風見の家なんかにいるんだ!」

 壁を殴りつけた柊吾へ、毬が「どうしよう」と涙目で訴えた。

「ミヤちゃんのお母さん、どうしちゃったの? 何だか声、怖かった……」

『大変な事になりましたねえ』

 男の笑う声が、無事な方の携帯から聞こえてきた。

 他人事のような笑い声に、柊吾の顔が朱に染まる。拓海は「三浦」と呼んで諌めると、恐怖で固まっている七瀬の手から、携帯をそっと取り上げた。

「イズミさん。佐々木さん達は今、風見さんの家ですね?」

『そのようですね。拓海君、君はこれからどうします?』

「助けに行きます。状況は分からないけど、風見さんの家はやっぱり危険だ」

 そう口にしながら、拓海には一つの懸念があった。

 美也子の母の、あの豹変は何だろう? 電話をかけた七瀬は一言程度しか喋らなかったはずなのだ。

 その僅かな〝言挙げ〟を境に、狂気が膨らんで爆ぜるような気配があって――事態が、激変を見せたのだ。

 直感で、拓海は理解した。

「……佐々木さん、まさか。雨宮さんのこと、篠田さんの名前で紹介した?」

「え? 私?」

 動揺する七瀬へ、拓海は頷いた。

「そう考えれば筋が通る。どういう経緯で二人が風見さんのお母さんに行きついたかは分からないけど、佐々木さんは雨宮さんのことを、〝篠田さん〟だって嘘の紹介をしたんだ。……いや」

 首を、横に振った。この想像が正しかったとしても、やはり経緯が不明なままだ。それにこの問題は後回しにするべきだ。

 二人は今、まさに窮地に立たされている。

「みんな! 荷物をまとめてくれ! イズミさんの通話はこのままにして、今からは移動しながら話そう!」

 拓海が声を張ると、揶揄の笑い声が返ってきた。

『急いだ方がいいのでは? 和音さん一人でどこまで健闘できるかは分かりませんよ』

「それは……っ」

「それは、大丈夫だと思う」

 声が、会話に割り込んだ。

 七瀬だった。

 まだ蒼い顔のまま、それでも強い意志を持った目で、携帯を睨みつけている。

「お兄さん、和音ちゃんのこと舐めすぎじゃない? 和音ちゃん、強いから。風見さんのお母さんがどんなにヤバいかなんて知らないけど、あんなにプライド高い子が、ぽっと出の中ボスみたいなのに負けるわけないでしょ?」

『大した御信頼で。それでも助けに行くのでしょう?』

「当然!」

 そう叫んだ七瀬は、この時初めて、やるせなさそうな顔をした。

「皆。ごめん。やっぱり電話、掛けなきゃよかった……」

「篠田さん、もういいから。……それにまさか、ここまで酷いことになるなんて、さすがに読めなかったから……」

 よもや名乗り一つで惨事になるなど、誰が予想出来ただろう。拓海が慰めると柊吾も「篠田。お前は名乗っただけだろ。別にいい」と、低い声で擁護した。

「……それに、お前のおかげで、雨宮の居場所が分かった」

 その目には、ぎらぎらとした不穏な光が覗いていた。

 拓海は一瞬黙り、柊吾の眼前に立った。

「三浦。佐々木さんのこと、思うことあるだろうけど、今は」

「ああ。分かってる」

 柊吾の目から、獰猛な光が失せた。代わりに、後ろめたそうにぼそりと言う。

「今は信じてやる。さっきの篠田の話に免じて。……佐々木の事は、会って直接確かめてやる。雨宮が、無事かどうかで」

「三浦くん、ありがとね。――行こう!」

 七瀬が、宣言した時だった。

 携帯の音声が、突然荒れたのだ。

 まるで暴風域に突入したかのような轟音だった。全員が思わず身を引くと、その謎のノイズに紛れて小さく、本当に小さく――少女の声が、聞こえてきた。

『――あるもん! ちょっとくらいは、あるもん……!』

『あ、あなた状況分かってるの!? ほら! さっさと逃げて! 早く!』

『あるもん! あるもん!』

『いい加減にしてくれる!? って、泣く事ないでしょ! ……ああ、もう! 分かったから! ごめん!』

 その声を最後に、廊下には奇妙な沈黙が降りた。

「……えっと?」

 拓海が呆けていると、横合いからにゅっと柊吾の手が伸びてきた。

 携帯を奪った柊吾は、凄絶な顔つきで目を見開き、言った。

「今の声、雨宮だ」

「えっ? あ、言われてみれば……」

 拓海はぽかんとした。あまりに感情的な声だったので撫子だと気づかなかったが、考えるまでもなく撫子だ。

「それに、もう一人の方は和音ちゃんだった、よね……?」

 七瀬と毬も、狐につままれたような顔をしている。そちらも拓海は指摘を受けてから気が付いた。もう一人の声も撫子に負けず劣らず感情的だったので、和音だとは思わなかった。

 拓海は、茫然と呟いた。

「何が、起こってるんだ……?」


     *


 鈍色の光を放ちながら、出刃包丁が空を裂いて飛んでくる。

 ――刺さる!

 激痛と大怪我、最悪の場合の死を覚悟した和音の目に、包丁の切っ先が迫った。

 だが、和音の全身を襲ったのは、全く予想外な痛みだった。

 足首が、ぐっと掴まれたのだ。

「!?」

 がくん、と視界が上下に揺れた。強い力で引かれたのだ。傾いだ身体の横を鉛色の風が吹き抜けた。刃物が玄関に打ち付けられる甲高い音と共に、和音は体勢を崩して壁に激突した。

「……!」

 前のめりに倒れながら、驚愕した。

 すぐ隣に、撫子がいた。床で横向きに倒れたまま、和音の足を掴んでいる。

 その目は既に開いていた。いつの間にか起きたのだ。

「雨宮さん……!」

 どうやら助けてくれたらしかったが、慌てて和音は口を噤んだ。そして上体を起こした時、和音は異変に気が付いた。

 撫子の手が、和音の足首から離れない。

「雨宮さん?」

 床に倒れた撫子は、強い力で和音の足を握っている。

 その目はやはり、開いていた。

 ――瞳孔もまた、開いていた。

「……っ、ちょっと、どうしたの!?」

 状況を忘れて、和音は撫子に掴みかかった。

 撫子は和音の目を見なかった。虚ろな眼差しで中空を眺めている。元々、表情の希薄な子だ。感情がダイレクトに伝わってこない子だ。だが、それでも異様だった。身体の痙攣が伝わってきて、和音は顔面蒼白になった。

 ここに至るまでに、ひたすらに悪化し続けた撫子の体調。

 それが最悪の段階に入ったのだと、理解するには充分だった。

「雨宮さん! 雨宮さん! 返事して……!」

 撫子の頬を打ち、必死に呼びかける和音の背に、別の女の声がかかった。


「雨宮……やっぱり、あの女なのね……!」


 撫子の目が、虚ろなまま和音を見る。その瞳はやがて廊下の中央、声の方向へ向いた。

 そこでは美也子の母が、頭髪を柳のように揺らめかせながら、ゆらり、ゆらりと立っていた。

 幽鬼の如きその姿を、視界に認めた瞬間。

 和音は、撫子を突き飛ばした。

「――雨宮さん、下がってて!」

 掛け声と同時に一足飛びに跳躍すると、背後から「きゃっ」と小さな悲鳴が上がった。和音は刹那はっとした。

 撫子の声に、自我が戻った気がしたのだ。それはさながら抜け殻の身体へ魂が戻ってきたような、確かな正気の声だった。気を取られたが和音はすぐに意識を眼前に戻し、狂人へ矢のように肉薄した。

 美也子の母が、和音の反撃に息を呑む。その一瞬を見逃さずに和音は当身を食らわせると、あっという間に大人の女を組み伏せた。

「おばさん、いい加減にして下さい!」

 床にうつ伏せに押し付けると、美也子の母が獣のように叫びながら激しくもがいた。その背中目掛けて和音は膝を落とし込み、腕を関節と反対方向に捩じり上げた。制圧を確かめてから、和音は背後へ叫んだ。

「雨宮さん! 大丈夫!?」

「……」

 撫子は身体を起していて、きょろきょろと辺りを見回していた。やがて和音に目を留めると、こてんと首を傾げている。

「わたし、さっき……」

「何? とにかく、無事ならよかった」

「待って、思い出す……」

「? 待って。何か言いたいことあるなら、後で」

 聞くから、と続けようとした瞬間だった。

 床に押し付けていた美也子の母の感触が、うねるように蠢いた。

「! 動かないで! 骨が折れますよ!」

 和音は慌てたが、相手は聞かなかった。獰猛な獣のように形振り構わず暴れ回り、明らかに肩が脱臼したと分かるような、厭な音が鈍く響いた。

 その音に、さあっと頭から血の気が引いていった。

「あっ……」

 高笑いと悲鳴が入り混じったような、凄絶な絶叫が轟いた。

 脅威の形相の女の顔が、ぐるんと首が捩じ切れんばかりの勢いで振り返る。

「和音ちゃん、捕まえたぁッ!」

 吐息がかかるほど近い距離で、凶悪な笑みを向けられた。口腔が丸見えになるほど大きく開いた口を見て、恐怖が、身体を支配した。

 腕から、力が抜ける。拘束していた、手が外れた。美也子の母は自由になった両手で和音の顔を鷲掴みにした。唇が、塞がれる。指が、口内に侵入した。

「んん……!」

 体勢が逆転した。掴まれた顔が床に叩きつけられ、後頭部を強打する。激しい眩暈に襲われて、視界が急速に白くなった。美也子の母が、嫌そうに顔を歪めた。

「嫌だわ……『汚い』。虫唾が走る……。和音ちゃん。あなたも汚い『ばい菌』まみれの子だけれど、おばさんが綺麗にしてあげる……」

 首に片手がかかり、締め付けられた。

「美也子を穢す『ばい菌』は! みーんな! 私が殺菌処理してやる!」

 その宣誓の、瞬間だった。


 桜吹雪のような薄桃の嵐が、廊下に吹き荒れたのは。


「! ぎゃあッ!」

 濁った悲鳴が耳朶を貫き、首に掛かった手が外れた。覆い被さっていた体重も和音から遠ざかり、驚愕する和音の視界も、嵐に埋め尽くされていく。

「何……っ!?」

 声を出した途端、煙を吸い込んで咽た。ごうごうと、海流のような轟音が家じゅうで唸りを上げている。和音は無我夢中で身体を捩って転がると、無意識で口を覆い、目を庇った。

 直感で、分かったのだ。何故か家財道具の減った家に、ガラクタのように残された物品。その中身を和音は一度、小学校の火災訓練で見た事がある。不自由な視界のまま立ち上がり、息苦しさに喘ぎながら、叫んだ。

「消火器っ……!」

 

 覚悟と共に、目を見開いた和音が見たのは――消火器を携えて立つ、撫子の姿だった。


 赤い消火器に身体全体でしがみついた撫子は、毅然とした顔で黒いノズルを握っていた。そこからは薄桃色の粉塵が、凄まじい勢いで、かつ出鱈目に噴射されていた。

「雨宮さん……っ! 交代する! 先に逃げて!」

 和音は、撫子の元へ駆け戻った。

 撫子が決死の顔を跳ね上げて、泣き出しそうな顔をした。がくがくと震えた手から和音はノズルを奪い取ると、消火器のレバーを強く握り、薄桃の霧が充満する廊下へ向けた。

 よくやってくれたと思う。おかげで窮地を抜け出せた。

 これで、撫子も自分も逃げられる――と思いきや、いきなり横合いからぽこんと肩を殴られた。

「ちょっ、何!」

 撫子が手をグーの形にして、涙目で和音を見上げている。今の行為は何なのだ。苛ついた和音が怒鳴ろうとすると、身体を更にぽこぽこ殴られた。

「あるもん! ちょっとくらいは、あるもん……!」

「はあっ? ……って、まさか」

 ぎくりと、和音は固まった。

 ……まさかとは思うが、さっきの和音の暴言のことを言っているのだろうか。

 じわ、と撫子の目に涙が溜まった。間違いない。聞かれたのだ。しかも相当気にしている。あの程度の言葉で撫子が傷つくとは思いもよらず、和音は大いに動揺した。

「あ、あなた状況分かってるの!? ほら! さっさと逃げて! 早く!」

「あるもん! あるもん!」

「いい加減にしてくれる!? って、泣く事ないでしょ! ……ああ、もう! 分かったから! ごめん!」

 捨て鉢のように謝罪の言葉を叩きつけながら、和音は消火器を放り捨てた。その勢いのまま撫子の胴体をがっちり掴んだ。今度は失敗しなかった。火事場の馬鹿力で撫子の身体を担ぎ上げると、そのまま転がるように玄関へと躍り出た。

 ばん! と凄まじい音を立てて、体当たりした扉が開く。

 外気が、さあっと一斉に肌を撫でた。

 薄紫に色付いた空気に、清涼な花の香が薄く混じる。一体、何の匂いだろう。刹那気を緩めた和音の視界の片隅に、白い花弁が淡く光り、雪のように消え失せた。

 その夢幻に瞠目して、夢か、現か、意識を狭間に攫われながら――和音と撫子はもつれ合うように地面へ倒れ、風見家の玄関先に転がった。

 タイルに、頬を打ちつけた。腕からすっぽ抜けた撫子の身体が、少し離れた所へ吹っ飛んだ。痛そうな悲鳴が上がり、和音は慌てて跳ね起きた。

「立って! 早く!」

「……。佐々木さん、急がなくても、もう平気」

「え?」

「見て。……あの人、追って来ない」

 撫子は身体を起こすと、玄関の方をじっと見た。

 和音もそれに倣って振り返り、戦慄の光景に身震いした。

「……!」

 確かに撫子の言うように、美也子の母は、外に出た和音達を追ってこなかった。

 玄関の上り框で、消火器の粉をかぶったまま座っている。その姿は桃色がかった粉の所為で、まるで頭から血を浴びたかのように見えた。

 そんな異様な姿の美也子の母は、様子を一変させていた。

 全身をおこりのように震わせながら、血走った目を零れんばかりに向いている。はあ、はあ、と荒い呼気が、離れたこちらにまで聞こえて来た。

「おばさん……?」

 恐れを露わに思わず呼ぶと、美也子の母は、まるで雷にでも打たれたかのように仰け反り、天へ向けて絶叫した。

「――『汚い!』」

「えっ?」

「『汚い!』 『汚れた』! 『ばい菌』が! ああ! 早く綺麗にしなくちゃ、綺麗にしなくちゃ、綺麗にしなくちゃ……!」

 美也子の母は立ち上がり、よたつきながら廊下を走った。そして一度だけ足を止めて、和音達を振り返る。

 その瞳には、凄烈な殺意と怨恨がいまだ漲ったままだ。

 だがそれでいて同時に、ひどく被虐的な悲しみもまた同居して、存在感を放っていた。

「必ず、復讐してやる。一生、苦しめばいい……」

 美也子の母はそう吐き捨てると、廊下の果てへと消えていった。

 そして、あとには――虚脱状態の和音と撫子だけが、残された。

 冷たい風が、灰色の住宅街へ吹き抜けていく。しんと冷たい夜の気配が、ひしひしとブレザーから皮膚に伝わっていく。茫然と、和音は呟いた。

「おばさん、どうしちゃったの……」

「多分、出て来られないんだと思う」

 撫子が言った。和音への鬱憤はとりあえず収めてくれたのか、その声音は冷静なものに戻っていた。

「どうして? だって元々、おばさんとは外で出会ったし、外に出られない理由なんて、ないはず」

 和音は言いながら、さっきの美也子の母の様子を思った。

 歯茎を狂犬のように剥き出しにして、涎を垂らしながら、それでも美也子の母は、こちら側には来なかった。

 家と、その外へと通じる世界。その姿はまるで、人でなしの鬼の身でその境界を越えることを、誰かに禁じられているかのようだった。

「でも、出られないんだと思う。あの人、何かに縛られてる感じがする」

 撫子が寂しそうに言ったので、和音は純粋に驚いた。

 今まで美也子の母は撫子へ、ありったけの憎悪をぶつけてきた相手だ。

 その相手にまでこの少女は、憐憫を向ける事ができるのか。

「この人。さっき言ってた。『学校のルール』って」

「……それが、何なの?」

「私にも、分からない。でも多分、坂上くんなら、こう言うんじゃないかなって答えなら、見つけた」

 撫子はおもむろに腰を屈めて、足元に落ちた物を拾い上げた。和音は息を吸い込む。

 ――それは、紺野の遺書だった。

「美也子は、学校生活を大事にする子だったから。あの子の中には、自分の生き方みたいな、美也子だけの特別なルールみたいなものがあったと思う。それが、もし、『学校のルール』って呼ばれるものなら……おんなじような法則を、美也子のお母さんも、持ってるかもしれない」

 遺書を胸に抱きながら、まるで喪に服するように、撫子が睫毛を伏せた。

「もしかしたら……『綺麗』さに、拘ってるのかも。裏返したら、『ばい菌』が……『汚れている』状態が、嫌なんじゃないかな。許せないくらいに。だから……私達よりも、身体を綺麗にすることを、優先したんだと思う」

「……」

 確かに、今までの美也子の母の言動には、思い当たる節があった。

 それでも和音は、撫子の推察に肯定も否定も返さない。核心を突かれた気はしたが、その非現実さに頷くことは出来なかった。こんな狂乱に巻き込まれて尚、和音自身の頑固さが、許容することを許さない。和音は、唇を強く噛んだ。血の味が、口内に広がった。悔しさと怒りと理不尽を、血と唾と一緒に飲み下す。

 不条理だと、感じたのだ。身勝手で不可解な個人の規範が、何の関係もない周囲を巻き込んで、滅茶苦茶に翻弄する事が。

「この人が、自分自身に対してどんな『ルール』を持ってたとしても。人に刃物を向けるなんて、人間のすることじゃない……」

「……それなら。私は、人間じゃない」

「え?」

 撫子が、家を振り返る。

 開け放たれた玄関の向こうに、人影はもう見当たらない。消火剤の粉塵が、ちらちらと埃のように舞うだけだ。その闇を見つめた撫子は、遺書を胸に、深く、深く、お辞儀した。

 和音は、息が出来なかった。感じていた不条理さが、一層、胸の内で膨らんだ。

 小さな身体に、重い咎を背負った少女。

 この姿を承服できない自分がいて、思わず、強い口調で言っていた。

「謝らなくていい」

 撫子の肩が、小さく揺れた。

「謝らなくていい」

 言いながら、涙が零れた。その事実に、和音はひどく戸惑った。

「……どうして……」

 何故、泣いているのだろう。慌てて撫子から顔を背けたが、手からも足からも力が抜けて、ふらついた和音の身体を、撫子が後ろから支えた。

「佐々木さん」

 遺書を抱え直した撫子が、そっと手を伸ばして、躊躇うように引っ込めて、和音の頬を撫でた。

「怖かった、ね」

 その声に、心の堰が決壊した。

 涙が、いよいよ止まらなくなる。身体の震えも大きくなった。虚勢も、プライドも、全部涙と一緒に流れ落ちた。アスファルトに膝をついた和音は、撫子の身体を掻き抱いた。ぶつけた身体のあちこちが、じくじくと痛み出す。

 我慢できるはずの痛みなのに、もう我慢ができなかった。

「……怖かった……殺されるかと、思った……怖かった……」

 撫子は黙ったまま、和音の背中をさすってくれた。

 夕闇の住宅街に、すすり泣きと、家の中から聞こえるシャワーの暴力的な水音だけが、ただただ静かに響いていた。

 陽は、とうに沈んでいた。


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