表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
114/200

花一匁 54

 食器の触れ合う音が、かちゃかちゃと台所から響いてくる。甘さを含んだ据えた匂いが、重くリビングに漂った。正面の窓を向くと白いレースのカーテンの向こうで、空は黄昏色を帯びていた。黄土色と藤色とが油彩のように混じり合うのを、焦りながら睨みつけた。

 このままでは、ここで日没を迎えてしまう。

 L字型のソファの隅に掛けながら、和音は落ち着かない時を過ごしていた。

 ソファを見ると、こちらに頭を向ける形で寝かされた少女は、いまだ瞳を閉ざしている。栗色の髪は汗で額に貼り付き、乱れた呼吸が、ふう、ふう、と苦しそうに聞こえてきた。形容しがたい痛みが胸の奥で疼き出し、和音は布団代わりに被せたコートの上から己の手を重ねて、呼んだ。

「……〝七瀬〟ちゃん」

 少女は瞼一つ動かさない。当たり前の反応だ。それは彼女の名ではないのだから。

 美也子の母に連れて来られたのは、二階建ての一軒家だった。灰色の塗料の塗られた家は袴塚市の住宅に共通のもので、質素な普通の家に思えたが、和音はここに近づくにつれて以前に来た時とは明白に違う、不穏な何かを感じていた。

 撫子の容体が、見る間に急変したからだ。

 息遣いに苦悶が滲み、和音の首から垂れた腕には時々何かを訴えるように力がこもった。まるでこの家から漏れ出た毒素にあてられたような反応だった。早く助けなくてはと焦ったが、和音はまだ撫子の為に、何もできないままでいる。

 美也子の母に、それを阻まれているからだ。


『和音ちゃん、少し待ってて頂戴ね。今、お茶を淹れるから……』


 和音をここへ連行した大人は、そんな台詞を砂糖菓子のような甘さで吐いて、キッチンへと消えていった。

 キッチンは和音のすぐ後ろ、カウンターの向こう側だ。目と鼻の先と言っていい距離だろう。そちらを盗み見ると白いエプロンを付けた背中で、茶色の巻き髪が揺れている。やはり若作りの印象が拭えなかった。厚化粧をしている所為か、この家からは白粉の香りが強くする。それとも甘い匂いの大元はこの女性の香水だろうか。詮無い勘繰りをしていると、しょり、しょり、と金属を擦り合わせるような、冷たい音まで聞こえてきた。

 それはまるで、包丁でも研いでいるような音だった。

「……」

 肝心の手元はカウンターが邪魔で見えないが、猜疑心は膨らんだ。

 ――以前にここへ来た時は、こんな風ではなかったのだ。

 和音は一度ここへ毬と一緒に遊びに来たが、少なくともその時には、四十代前半だろうこの大人に、然程の不審を抱かなかった。交わした会話自体は少ないが、それでも普通だったと思うのだ。緊張気味だった和音に『ゆっくりしていってね』と声をかけてくれたこの人は、あの時はまだ、普通だったと思うのだ。

 だが、今はどうだろう。

 美也子の母は、気絶した撫子に気遣いの言葉をかけなかった。

 それどころか足取り軽くこの家を目指し、いざ家に着いたら着いたで和音に電話を貸してくれず、撫子をリビングに運ぶよう命じてきた。

 その間、和音が玄関で靴を脱ぐ時ですら、一度も手を貸してくれなかった。

 本当に、ただの一度もだ。

「……」

 長居は無用だ。そう結論付けて和音は電話を探したが、すぐに出鼻を挫かれ、歯噛みした。

 ――この部屋には、電話がない。

 リビングには和音と撫子の座るソファに、テーブル、それに部屋の角にテレビが一台あるだけだ。他に目を引く物は何もない。しかも不審はそれだけに留まらず、和音は狐につままれた気分になった。

 この部屋にはあまりにも、家具や調度品がなかったのだ。

 以前に来た時と比較しても、明らかに物が減っている。

 何故ここまで片付いているのだろう。美也子は確か父と母の三人家族。食器棚くらいあっても良さそうなものなのに。さらにリビングを観察すると、今度はカウンターの上へ目が留まった。

 白いビニール袋が置かれていたのだ。中には薬局の処方箋と、膨らんだ白い紙袋が三つほど押し込まれているのが透けて見える。

 この家の誰かが、何らかの薬を飲んでいるのだろうか。和音の家でも風邪引きが出た時は、同じようにリビングへ置いている。その薬の袋を除けば、カウンター上には伏せられた写真立てがあるだけで、他にはやはり、特に、何も――――。


「何を見ているの?」


 心臓が飛び上がった。

「……!」

 がたん! と床を蹴り込むような勢いで立ち上がり、撫子を背にして振り返る。

 そこにはふんわり笑う美也子の母が、トレイを持って立っていた。

「驚かせちゃった? ごめんなさいね。さ、座って? 紅茶を淹れたのよ」

「……ありがとうございます。でもそれより、電話を貸してもらえませんか」

 平然を装いながら、立ったまま和音は訊いた。

 だが美也子の母は取り合ってくれず、「まあまあ座って? お茶菓子も用意してあるから……」と言って、トレイをテーブルに置いた。

 湯気が、ふわりと甘く立ち上る。純白のティーカップが二つ、目の前に手際良く並べられた。和音は信じられない思いでティーセットを見下ろした。

 そんなものを、飲んでいる場合ではないはずだ。

「いえ、結構です。電話を貸して下さい」

 きっぱりと言い切ると、美也子の母は動きを止めた。

 そしてひたりと、和音を見下ろす。

「……」

 嫌な沈黙が重く流れ、背中にじっとり汗が滲んだ。

 美也子の母は笑っていた。同級生に似た笑みだが、比べるまでもなく別人だ。昏いリビングで笑う顔の、目元の隈が、酷く濃い。極度の緊張に無言でひたすら耐えながら、和音はこの時、確信した。

 この家には間違いなく、健全ではない何かがある。

「……和音ちゃん、少し待っていてね」

 根負けしたのか妥協なのか、それとも別の理由なのか。

 美也子の母は薄暗い笑みを浮かべると、ふらっと背を向けて扉に向かい、リビングから立ち去った。とん、とん、と階段を上がる音がする。緊張の糸がぷっつり切れて、和音はソファにへたり込んだ。

「はあっ……」

 吐息を乱暴につきながら、きっ、と扉を睨みつける。

 ――どうして美也子の母は、電話を貸してくれない?

 明らかな作為を感じていた。少なくともあの大人には、撫子を救う気が全くない。それにもう一つ厄介な問題があるのに気づき、和音は前髪を掴んだ。

 ――撫子のスクールバッグを、盗られたかもしれない。

 撫子が提げていたあのバッグは、正確には柊吾のものだと聞いている。教材が山盛りに詰め込まれた忌まわしいあの鞄だけは、美也子の母がここまで運ぶのを手伝ってくれた。そしてそのまま、行方が知れない。

 盗られたと、決めつけるには早いだろう。預かられただけだと信じたい。

 だが、だとしたらそれはどこだろう? 最後にスクールバッグを見たのがいつだったか回想して、はっと和音は思い出した。

 ここに、撫子を運び込んだ時のことだ。玄関で靴を脱いでから、和音は一旦床に下ろした撫子を背負い直して、薄暗い廊下を真っ直ぐ歩いた。

 そこもリビング同様に、電気が点いていなかった。薄闇のさらに奥では家庭用消火器が隅の方に置かれていて、その赤色が目を引いた。そのさらに隣にはサイドテーブルが置いてあり、そこに、灰色の電話機が乗っていて――「ああ、もう……!」と呻いた。

 ――廊下だ。

 手痛い判断ミスだった。あそこで無理やり電話を借りれば、すぐに事は足りたのだ。疲労で頭の回転の鈍った自分に激しく腹を立てながら、和音は気を取り直して思案する。


 もし、これから逃げるなら――あの鞄は今度こそ、見捨てなければならない。


 眠る撫子を見下ろすと、まだ呼吸が辛そうだ。玉の汗が額から顎に伝ったので、和音はブレザーから出したハンカチで拭いてあげた。

 気の所為かさっきよりも、さらに具合が悪そうに見える。

「雨宮さん、起きて」

 本気で逃げるなら、今がチャンスだ。和音は撫子を揺すったが、撫子はなかなか目を開けない。仕方がないので火照った身体を抱え起こして、和音は隣に座り直し、紅茶のカップを一つ持った。

 とにかく、水分だけでも摂らせよう。まだ熱いが、冷ませばなんとか飲めるだろう。本当は水が欲しいところだが、贅沢も言っていられない。

 抵抗を捨てて、紅茶に吐息を吹きかけた時――ぱらぱらと硬い粉が、和音のスカートの上に落ちた。

「……?」

 ティーカップをテーブルに戻し、和音はそれを指で掬う。

 粉砂糖のような粒子はチョークのようにそこで伸びて、元々付いていた砂と泥と混じり合った。和音はそれを凝視して、ティーカップへ視線を、戻す。

 飴色に揺らめく紅茶の底で、沈殿している何かが、見えた。

「……」

 その沈殿を、砂糖の類だと思おうとした。

 そんな努力は数秒ともたず、和音は慄然と震え出した。

 ――この粉末は、一体。

「飲まない方が、いいよ」

 いきなり、腕を掴まれた。

「!」

 弾かれたように振り返ると、途端に目が合って鼻白んだ。

 恐怖も緊張もこの一瞬だけ全て忘れ、ほっとしている自分がいたが、認めるのも癪な気がして、睨み付けることにした。

「いつから起きてたの? 白状して」

「このおうちに入る、ちょっと前から」

 掠れた声で、そう言って――撫子は相変わらず感情の読めない顔のまま、眠たそうに目をこすった。

「ごめんなさい。寝たふりしてた方がいいのかなって思ったから。それに私は今、〝七瀬ちゃん〟なんでしょう?」

「……状況、もしかして分かってる?」

「少しなら」

 その台詞に、瞠目した。率直に感心したからだ。前半記憶がないにしては、事態を呑んでくれている。だが目が覚めたならもっと早く言ってほしい。和音が紅茶を冷ましていたのも知っていながら寝ていたのだ。羞恥で顔が熱くなったが撫子は特に気にした風もなく、テーブルへと目を向けた。

「私は、最近の美也子のことは何も知らない。でもそれが何かは分かる」

 撫子は、ティーカップを指さした。

「ソーサー見て。そこにも白いの付いてる」

 言われてカップのソーサーを見ると、撫子の言う通り、粉末はそこにも少量零れていた。中には粒の大きなものもある。摘まみ上げて観察すると、表面に小さな刻印があった。

「これ……薬?」

 紛れもなく、錠剤の破片だった。ぞっと和音は総毛だった。

 これが何かなど知らないが、少なくとも紅茶に混ざっていい代物ではない。

「信じられない……っ、おばさん、何考えてるの!?」

「それ、美也子のお薬だと思う」

 撫子は和音よりも冷静だった。それを和音に伝えた事で興味は失せたと言わんばかりに、和音の顔を見上げてくる。

「佐々木さん。さっき学校にいた時に、坂上くんが私達に、美也子の話を一人ずつ訊いていったでしょ? その時に毬ちゃんが言ってたこと、覚えてる?」

「毬?」

 和音には、何の事だか分からない。何せ東袴塚学園での坂上拓海の尋問に和音は腹を立てていた。語り部が撫子に移ってからは、美也子の過去のショックの強さでつい聞き入ってしまったが、それ以前の話は、あまり頭に残っていない。

「毬ちゃん、言ってた。『美也子は、学校で薬を飲んでた』」

 回想の後押しのように言われて、さすがに和音も思い出した。

 それにこれは本来和音にとって、回想するまでもない事だ。

 毬の語ったその光景を、何度も、見た事があるからだ。

 ――ミヤちゃん、お薬飲んでた、よ?

 ――何の薬か、分かんないけど……お昼に、お茶で飲んでた。それなあにって訊いたら、栄養剤って言ってた気がするけど……。

「……。でも、だからってどうしてこれが、美也子の飲んでた薬と同じって分かるの?」

 訝りながら、和音は訊いた。確かに美也子は日常的に何らかの薬を飲んでいて、本人はそれを栄養剤だと言っていた。今となっては本当なのか疑わしいが、この薬が美也子のものだという仮説は、一応筋が通るだろう。

 だが、仮説はあくまで仮説に過ぎない。

 撫子の確信的な言い方が、和音にはどうにも引っかかった。

「それは」

 撫子は言いよどむ素振りを見せたが、やがて真っ直ぐに和音を見た。

「私も、これと同じようなお薬を飲んだことがあるから」

「え?」

 和音の思考が、停止する。撫子は、落ち着き払った声で言った。

「これは、パニックになった人を落ち着かせる薬。私も去年、一時期飲んでた。私は症状が軽かったみたいだから、お医者さんに錠剤を四分の一に割ってもらって飲んでた。……眠たくなるから、あんまり飲みたくなかった」

「……!」

 何を言えばいいのだろう。経験のない和音には、配慮の形も分からない。感情の錯綜した顔で撫子の顔を見つめても、淡々と語ったその顔には憂いの影すら見当たらない。むしろこちらを見上げる琥珀の目には、怜悧なまでの正気が在った。今という非常事態にこれは必要な告白だろうと、逆に諭された気さえした。

「あなたは……身体の、どこが悪いの……?」

 それとも、患っているのは心なのか。さすがにそこまでは訊けなかった。

 この問いを受けた時だけ、撫子は困ったような顔した。

 そしてたった一言、こう答えた。

「目」

 すぐに訊き返そうとしたが、遠くから足音が響いてきた。

 階段を下りる足音だ。美也子の母が、帰ってくる。

 さっと空気が緊迫し、撫子が和音に耳打ちした。

「佐々木さん、どうして私達は美也子の家に来ることになったの?」

「ごめん」

 すぐに和音は謝った。断りきれなかったとはいえ、やはり拒絶すべきだったのだ。一服盛られかけた今、激しい後悔が胸を焼いた。まだ不良に絡まれていた時の方がいくらか状況がマシだった。それに和音が聞き知る限りでは、撫子と美也子の間には、ある種の確執があったはず。

 そんな人間の棲む家に、撫子を連れてきてしまった。

「美也子のお母さん、今は席を外してる。でもすぐに戻ると思う。雨宮さん。落ち着いて聞いて。多分あの人、あなたのことを探してる」

 和音が美也子の母と出会った時、その形相は尋常ではないものだった。

 ――栗色の髪……妖精……まさか……この子が……。

 明らかに、特定の誰かを意識している口ぶりだった。

 その相手が和音には、撫子に思えてならなかった。

「……そう」

 撫子は、静かに答えた。だがその身体が小刻みに震え出したのが、身を寄せた和音には伝わってきた。

「……怖い?」

「……怖い」

 少しの間を置いて、撫子が頷いた。

 表情の薄さは変わらないか、怯えているとはっきり分かった。

「すごく、怖い。美也子とおんなじくらい、怖い。何だか嫌な感じがするの……ここ、嫌……早く、外に出なきゃ、私、おかしく、なっちゃう……」

 撫子は切々と呟くと、きゅっと自分の身体を和音のコートごと抱きしめた。心細そうに身体を丸めるその姿は、まるで自分の身体の内側から何か恐ろしいものが飛び出してくるのを、恐れているかのようだった。そして同時にこの姿が、あの東袴塚学園で周囲に向けた鬱屈を、必死に堪えた自分の姿と重なって、とくんと胸で、鼓動が一つ高鳴った。

 葛藤で息が、苦しくなる。スカートの上で拳を固く握りながら、和音は己に問いかけた。今から自分は、どうすればいい? いや、違う。訊き直しだ。和音はこれから、どうしたい?

 気持ちが、逸って仕方ないのだ。出来る事があるはずなのだ。和音に今、出来る事が。それを躊躇しているのは、和音が美也子に囚われ続けた所為だった。

 自分と美也子が似ているのではと、拘り続けた所為だった。

 もしここで和音が撫子に手を貸せば、和音はそんな己の中に、美也子の影を見るだろうか。自分のしている事は美也子と大差ないのではと、同じ傷つき方をするだろうか。きっと、そうなるだろう。自分は何度だって、同じ傷つき方をする。

 だが、たとえそうだとしても――とうに、決心はついていた。

「雨宮さん。一緒に逃げよう」

 撫子の手を、和音は上から掴んだ。

 驚いて顔を上げる撫子に、和音は顔を寄せて囁いた。

「とりあえず今は寝たふり続けて。それで、おばさんが次に戻ってきたら、お手洗い借りるとか、言い訳作ってここを出られるようにするから。その時に……一緒に、逃げよう」

 撫子が、潤んだ目で和音を見た。不安に揺れる眼差しの中から、和音は微かな信頼を掬い上げる。責任の重みが身体に乗ったが、和音はそれを、苦痛だとは思わない。頷き合って手を取ると、まるで契りを交わすように、撫子が耳元で囁いた。

「うん。佐々木さんと一緒に、逃げる」

 廊下の足音が大きくなった。

「!」

 和音が撫子の頭を自分の膝の上に押し付けるのと、扉が開くのは同時だった。

「……あらあら、仲良しなのねえ」

 反射で返事をしかけたが、和音は結局つんと澄まして口を閉ざした。相手が目上の人間であれ、紅茶に異物を混ぜた者に振り撒く愛想など持っていない。

 そんな和音の態度に美也子の母は気分を害したようだったが、気を取り直したような微笑を作ると、ソファの端に腰かけた。

 その腕には、黒いノートがあった。

 文庫本サイズで、少し分厚い。闇のように黒い表紙が、外光を鈍く照り返した。

 美也子の母は、にこりと笑った。

 余裕の感じられる、笑みだった。

「昔話をしましょうか、和音ちゃん。おばさんの話に少し付き合ってくれる?」

「それどころじゃ……! 電話を貸して下さい!」

 焦りを隠さず和音は言ったが、返ってきたのはとんでもない暴言だった。

「和音ちゃん、あなたって厚かましいのね? 人の家に上がり込んでおいて、何か言える立場だと思ってるの?」

「!? あ、上がり込んで、って……!」

 凄まじい曲解だった。衝撃を受ける和音を尻目に、美也子の母は悠々と、ノートの頁を繰り始めた。

「和音ちゃん、あなたは知らないでしょうけれど、うちの美也子はね、小学校の高学年の頃、とても酷い目に遭っているのよ」

「は……?」

 ――小五。

 また、小五。東袴塚学園での多様な議論が、瞬時に脳裏へ蘇る。

「小学五年のクラスはね、最初は美也子にとって楽しい場所だったのよ? 今まで仲良くしてた子達も一緒だったもの。それは楽しそう毎日話を聞かせてくれたわ。……でもそんな日々は、長続きしなかった。あの女が、現れたから」

 ぎし、と。嫌な軋みが聞こえて来た。

 ノートを握る美也子の母が、爪を立てた音だった。

 突然昔話を始めた大人の女は、表情だけは笑顔のまま、ノートの厚い表紙を、みしみし、みしみし、潰していく。

「クラスの中に一人だけで、悪い子がいたのよ」

「悪い子?」

「ええ、悪い子」

 ぎちっ、と冊子の表紙に爪が食い込んだ。

「あの子達のクラスでは、春からナデシコの花を育てていたのよ。美也子も一生懸命お花のお世話をしていたわ。でもある時その花が、ぜんぶ誰かに切られてしまった!」

 声が、熱狂を帯びていく。和音は生唾を呑んでから、それは違うと言おうとした。花が切られたのは間違いないが、全滅ではないはずだ。部外者の和音でも、その事実を知っている。

 確か、撫子達の話では――呉野氷花の花だけは、無事に残ったと聞いていた。

 だが、制止はもう利かなかった。

 美也子の母はかっと瞳を見開くと、世にも恐ろしい形相で叫んだ。

「花がっ、全部切られたのよ! しかもこの時、美也子達のクラスでは一人の女の子が苛められていたのよ!」

「!」

 苛められっ子の女の子。

 黒いおかっぱ頭のビジョンが、風のように脳を過った。

「その子はね、苛めを苦に転校していったわ。可哀想に、ばい菌扱いされたんだもの。おばさん、心から同情したわ。――でも、本当に可哀想なのは誰だと思う? それは、うちの美也子よ!」

 ばん! と美也子の母がノートをテーブルに叩きつけた。ティーカップが跳ねて、中の液体が激しく飛び散る。それらに一切目を向けずに、美也子の母は絶叫した。

「小五の担任も同級生のママたちも言ったわ! みーんな! うちの美也子が悪いって! ねえっ和音ちゃん信じられる!? 皆が口を揃えて責めるのよ!? 美也子が悪い、美也子が悪い、美也子が悪い、美也子が悪い!」

「それ、は……っ」

「美也子の所為で一人死んだ! 美也子の所為であの子は死んだ! 美也子が苛め抜いた所為で、紺野沙菜ちゃんが死んでしまった! その所為よ、きっとその所為なのよ! 美也子があんな風になったのは! 紺野沙菜ちゃんは確かに可哀想よ? でも、じゃあ、誰が美也子のことを可哀想だと思ってあげるの? 大事なお花を切られて! 苛めっ子の濡れ衣を着せられて! ねえっ、和音ちゃん! 聞いてる!? 答えて!? 美也子はもう、お薬なしでは生きていけないかもしれないのよ……!?」

 上ずった声が一層高くなっていき、獰猛な呼気が血泡のように言葉の隙間に織り交ざった。唾を飛ばして叫び狂うその姿は、まるで鬼のようだった。戦慄しながら和音は不意に、坂上拓海を思い出した。決然と前を見据えて会話相手の呉野和泉へ力強く言った言葉。それを、今になって思い出す。

 ――この〝アソビ〟、『氷鬼』だ。

「……っ」

 顔が、歪んだ。

 何が『氷鬼』だ馬鹿馬鹿しい。そんなつまらない遊戯など、やはり心底どうでもいい。恐ろしいとも思わなかった。

 本当に恐いのは――今目の前にいる、この〝鬼〟だ。

いつの間にか心を闇に喰い尽くされた、この〝鬼〟こそが恐いのだ。

「ねえ和音ちゃん、でもそんなわけないわよね? あなたは美也子の友達だもの。美也子の味方よね? そうよね? 美也子はとっても優しい子だもの、苛めなんてするわけない、するわけない、するわけない、するわけない、するわけない、するわけないするわけないするわけない!」

「――じゃあ誰が、苛めたんですかっ!」

 無限の念仏のような訴えに、ついに根を上げて叫び返した。

 それは、禁断の問いだった。

 怒鳴った瞬間、しん、と水を打ったように静まり返る。哄笑も、ぴたりと止んだ。美也子の母は顔面の筋肉を震わせながら、にいと般若の顔で笑っていた。狂ったパフォーマンスを見せつけて、無垢を装って笑っていた。

 それとも自分ではこの姿を、本気で無垢だと、信じているのか。

「それは、これを書いた子が教えてくれたわ」

 美也子の母の視線が、鋭く和音の方へ向く。棘のある含みに勘が働き、まさか、と和音は身構えた。

 だが、そのまさかだった。

「これはね、日記帳よ。苛められっ子の女の子が、小学五年の間に書いた日記。――紺野沙菜ちゃんの、直筆の遺書よ!」

「……!」

 紺野沙菜。

 己の事を、ほとんど語らなかったという少女。

 黙したまま死んだ少女は、声の代わりに文字で心を遺したのだ。

「おばさん、その日記……どうして」

 悍ましい予感がした。震える声で訊くと、美也子の母はさらりと言った。

「送られてきたのよ? 紺野さんのご両親から。私達がこの家に戻ってきてからだから、去年くらいかしら。突然だったから驚いたわ。あちらの住所は書いてなかったけれど、短いお手紙が入っていて知ったのよ。紺野沙菜ちゃんは転校した後、交通事故で死んだそうよ?」

「!?」

 送られてきた?

 美也子の家に、紺野の遺書が?

「そんな遺書を、持ってきて……私に、どうしろって言うんですか」

 和音は、硬い声で再び訊いた。単純に解せないからだ。和音は美也子の母から見て、小五の事件とは無関係だと分かるはず。

 そんな人間にどうして今、紺野の遺書を見せるのか。

「それは、あなたにも聞いて欲しいからよ。和音ちゃん」

 美也子の母は、嬉々と喋った。声に、熱がぶり返した。

「さっきの続きを話させてちょうだい? この遺書にはね、『雨宮撫子』って女の子の名前が、いーっぱい出てくるのよ!」

「……!」

 背筋を冷たいものが貫いた。目線が、下に落ちそうになる。そんな眼球の動きを和音は全身全霊で食い止めながら、息を呑むのを必死に堪えた。耳を、強く塞ぎたい。撫子の耳を今すぐに。それが出来ないなら怒鳴りたかった。もう黙って欲しいとこの大人に訴えて、撫子を連れて逃げたかった。

 だが、出来ない。衝動に負けて喋った瞬間、待っているのは破滅だった。それに気付いた瞬間、美也子の母の真意が、読めた。

 怖気と怒りと激しい恐怖で、頭が沸騰しそうに熱くなった。


 怪しまれているのだ。


 この大人は、和音に嫌疑をかけているのだ。

 和音の連れの正体が、〝七瀬〟ではないと疑っているのだ。

 だから、〝七瀬〟の正体を暴く為に――紺野の遺書を、利用したのだ。

「可哀想に! 可哀想な紺野沙菜ちゃん! 紺野沙菜ちゃんの遺書には、『雨宮撫子』への恨みつらみがいーっぱい書かれているもの! どれだけ苛められたらこんな悪口が書けるのかしら! おばさん怖いわ! 想像もつかない! そんな悪女が美也子と同じクラスにいたなんて、ああ! 今でも恐ろしい! この女が美也子を狂わせた元凶なのよ! 花だってこの女が切ったかもしれないわ!」

「おばさん……!」

「この事件の所為でっ! うちの美也子はおかしくなった! 心因性の逆健忘症だって診断されたわ! でも可哀想に、美也子は自分の病も知らないのよ! 教えてもすぐ忘れてしまうわ! ああ! 美也子! あの事件のことが、そんなにショックだったのね! 苛めが、そんなに怖かったのね!」

 美也子の母はいつしか滂沱の涙を流して天井を仰ぎ、呪詛の言葉を絶叫した。

「雨宮撫子の所為で、人生が狂ってしまったのね!」

 その言葉を聞いた、瞬間だったと思う。

 まるで、スイッチが切り替わったように――すとん、と。和音の中から、怒りの感情が抜け落ちた。

「……」

 ――ひどく、驚いていたからだ。

 小五の花の、切り取り事件。その末に起こった少女の自殺。後日送られてきた日記帳。美也子の母の、歪んだ演説。

 その内容に和音はいつしか、純粋な驚きを感じたのだ。

 ――こんなにも、受け取り方が違うのか。

 美也子の母の目で見れば、小五の事件がこう映る。悪意で濁ったフィルターを介せば、撫子はここまで悪人になれるのだ。その発見が、新鮮だった。そしてそこに気付いた途端、あの東袴塚学園での同級生の言葉達が、さあっと朝陽が射すように、白々と、燦然と、和音の中に舞い戻った。

 小五の事件を撫子が語り終えた時、皆はそれぞれの考えをぶつけ合った。

 撫子は、紺野を助けたかったと悔恨を語った。

 陽一郎は、紺野のプライドを思って同情を寄せた。

 柊吾は、撫子への想いから紺野へ怒りを向けていた。

 そして拓海は、紺野の弱さに理解を示した。

 それらの言葉の中で、今の和音に最も鮮烈な打撃を与えたのは――篠田七瀬の、意見だった。

 ――撫子ちゃん。三浦くん。日比谷くん。私、皆の話ききながらずっと不思議だったんだよね。三人から小五の話を聞いても、紺野さんって子の事が、今でも全っ然、分かんない。

 ――紺野さんの事を皆、内気とか大人しいとかって言うよね。確かにそうなんだろうけど、紺野さんが何が好きとか、どんな事考えてたかとか、そういうのが全然分かんないままだった。

 ――でもそれってさ、三人の話し方が悪いって意味じゃないからね。紺野さんの事が分かんないのなんて、当然って言ったら当然なんだよね。……だって。


 紺野さんってほとんど、自分のことを喋ってない。


 この七瀬の台詞を聞いた時、和音は自分の意見を言わなかった。紺野は和音にとって他人だからだ。死者の心などいくら考えても分からないし、どうでもいい。そんな諦めと無関心と、苛立ちとで目が濁っていた。

 だが、分かる。今なら見える。知らない少女のはずなのに、他人の気がしないのだ。自分でも薄々気づいていた。人付き合いが苦手で不器用。はっきりとそれを認めた時、肩の力が、ふっと抜けた。

 何故、認めるのを恐れたのだろう。

 そんな頑なな意識さえも、他者への拒絶に他ならないのに――口を閉ざす紺野からは、自分と同じ匂いがした。

「さあ、和音ちゃん。これを読めばよく分かるわ」

 美也子の母が、勝ち誇ったように胸を反らせて、ノートを手で指し示した。

「うちの美也子はなーんにも悪くなくて、悪いのは全部、あの女だっていう事が!」

「読まなくたって分かりますよ」

 白けた声で和音は言った。

 何故この大人には分からないのか、逆にそれが不思議だった。

「悪いのはおばさん達です。『雨宮撫子』さんじゃない」

 空気が、音を立てて凍りついた。

 化粧で塗り固められた顔に、罅が一つ入った気がした。

 内心で怖気づいたが、それを顔には出したくない。冷静さを装いながら、和音は淡々と意見を述べた。

「その遺書は、紺野沙菜さんのご両親が郵送してきたんですよね。雨宮撫子さんの家じゃなくて、風見美也子さんの家に。それが答えだと思います。『苛められっ子』のお父さんとお母さんが、娘の遺書を送りつけるなら、その相手は『苛めっ子』だと考えるべきです」

 顔も知らない紺野沙菜へ、和音は思いを馳せてみた。

 撫子の手を拒んだ少女は、その時、何を思っただろう。

 娘に死なれた両親は、遺された日記帳を、どんな気持ちで読んだだろう。

 全部、想像するしかない。だが和音はこれで正しいと信じている。

「紺野沙菜さんのご両親は『苛めっ子』を恨んだと思います。辛さとか、悲しさとか、私には想像するしかできない感情を伝えたくて悔しいから、こんなにも悲しい物を怒って送りつけたんだと思います」

 人が死ぬという事。その重みを和音は知らない。だが怒りの感情なら知っている。大人も子供も関係ないのだ。人が人の事を想って怒る、その感情の尻尾なら、和音ももう掴んでいる。

「紺野さんのご両親が本当に雨宮撫子さんを恨んだなら、この遺書は雨宮さんの家に送られたはずです。でも、そうはならなかった。遺書はこの家に届きました。だから」

 和音は、相手の目をきちんと見た。

 その時になって初めて、美也子の母の顔を直視した気がした。渋いものが、身体の内に込み上げる。和音は今まで周囲に合わせてきた心算で、全然できてなかったのだ。こうして大人と向き合っていると、視線がとても恐ろしい。

 我ながら本当に、生意気で傲慢な小娘だ。

 焦がれたばかりの大人には、まだまだ遠い所にいる。

 だからせめて、言葉だけは、凛としていたかった。

「『苛めっ子』は、美也子さんです。自殺した紺野沙菜さんも、紺野沙菜さんのご両親も、風見家の人たちに怒っています。雨宮撫子さんではなく、あなた達に怒っています」

 美也子の母は、しばらくの間黙っていた。

 やがて能面のように白い顔で、表情もなく、言った。

「和音ちゃん。あなた、変わったわね」

「……そうでしょうか」

「ええ。とても変わったわ。以前のあなたは、こんな口の利き方をする子じゃなかった」

「……。そうですね。変わったかもしれません」

 淡白な態度で嘯く和音は、目を逸らして、言い足した。

「まだこれからも、変わっていくと思いますよ」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ