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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第2章 呉野氷花のラスコーリニコフ理論
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呉野氷花のラスコーリニコフ理論 7

 柊吾は走っていた。

 スポーツ推薦の話が来るほどなのだ。運動にはかなり自信があった。体育の授業は昔からどれも好きで、足も速い部類に入る。

 だが、そんな柊吾でも陽一郎に追いつく事は叶わなかった。

 学校を飛び出し、灰色を基調とした住宅街へ駆け込んでいく陽一郎を追った柊吾は、十字路が連なる区域へ突入した辺りから、追跡に手こずり始めていた。

 追っ手の柊吾を撒く為か、あるいは追跡に気付いてすらいないのか、陽一郎は一度も振り返らなかったので真偽のほどは不明だが、ひ弱なはずの級友は相当な俊足で、しかもこの辺りの地理を熟知しているようだった。

 柊吾も袴塚こづか市で生まれ育ったが、初めて足を踏み入れる住宅区域で、明らかな土地勘を窺わせる走り方をした陽一郎を追い続けるのは難しかった。角を三つ曲がった所までは何とか追えたが、四つ目の時には駄目だった。十字路に陽一郎の姿はなく、荒い呼吸を繰り返す柊吾だけが、ぽつんと佇むのみだった。

「……陽一郎っ……!」

 柊吾はその名を絞り出し、奥歯をきつく噛みしめた。

 あり得なかった。陽一郎の行動全てが滅茶苦茶で出鱈目だった。一体何が、陽一郎をこんな奇行に駆り立てたのか。柊吾にとってこれは奇行以外の何物でもなく、そして理由が分からないだけに不気味極まりなかった。

 だが、追わないわけにはいかなかった。

 撫子の顔が、柊吾の頭から離れなかった。

 ――ぼんやりした様子で、学校に通い続ける撫子。

 ――陽一郎と向き合う時だけ、微かな笑みを覗かせる撫子。

 ――もう柊吾の顔など一度も見ない、視線の合わない撫子。

 どんな気持ちで撫子は、今も学校に通っているのだろう。撫子の見る世界は、人がほとんどいない。親と教師と陽一郎しか存在しない、閉じた世界を生きている。

 陽一郎も、壊れるのだろうか。撫子のように、なるのだろうか。

 だが、だとしたら、一体何を引き金にして、そんなことになるのだろう?

 どうして、撫子は壊れた?

 どうして、人が『見えなく』なった?

「あ……」

 柊吾は、驚いた。

 その発想は――今までに、一度だってなかったからだ。

 撫子が壊れてから、教室は処刑場に変貌した。いつ殺されるとも知れない恐怖と緊張から耳を塞ぎ、目を背け、そのくせ聞き耳を立てながら指の隙間から覗き見て、死んでいくクラスメイトの存在に震撼する空気の中で、生存者と死者共々から降り注ぐ感情の雨に翻弄され、ぐずぐずとうずくまっていた。

 ――何という、ことだろう。

 考えて見れば、柊吾達クラスメイトは、皆。

 ――自分達の事、ばかりだった。

 どうして撫子が壊れたのか、原因にきちんと向き合ってこなかった。人が『見えなく』なった理由を、考えようとすらしなかった。

 ただ、怯えていただけだった。撫子から『見えなく』なるのが恐ろしく、自分達で真実を『見えなく』していただけだった。

 ――とんでもない、馬鹿だった。

 柊吾は、唇を噛みしめる。陽一郎を馬鹿だと罵った柊吾だが、それを言うなら柊吾も同じなのだ。

 これは、撫子の精神の問題ではない。ましてや、陽一郎の精神の問題でもないのだ。

 ――何かが、あるのだ。

 撫子が狂っているのではなく、撫子を狂わせた、何かが。

 そして、その何かが――今。陽一郎に、牙を剥いた。

 陽一郎も、撫子のように人が『見えなく』なるのだろうか。分からない。被害妄想に近い。撫子と結びつける理由も根拠もないのだ。常識的でもない。飛躍しすぎている。案外ひょっこり戻ってくるかもしれないとも考えてみたが、そんな気休めは信用できない。もう『どうにか』なっていると考えた方がいいだろう。

 だとしても、柊吾は陽一郎を放っておくわけにはいかないのだ。

 無論、柊吾は陽一郎が嫌いだ。近寄りたくないし、極力会話をしたくない。口など利きたくないし顔も見たくない。そういうレベルで大嫌いなのだ。

 それでも、助けようと思った。理由など何もなかった。助けたいという気持ちが理由かもしれないが、やはり裏も表も分からない。理由が何であれどうでもよかった。陽一郎に見返りなど期待していない。恩に着せる気もないのだ。そこまで考えた時、はっとした。

 ――『押し付けてるわけじゃない。恩に着せてるわけでもない。だからその上で、きちんと考えろ』

 進路の件で、柊吾を諭した三浦恭嗣の言葉。今の柊吾は、恭嗣と同じ考え方をしている。恭嗣が柊吾を気にかけたように、柊吾も陽一郎を気にかけているのだろうか。このまま闇雲に走り続けて、果たして陽一郎は見つかるのだろうか。

 柊吾に土地勘はない。しかも周りは民家ばかりなのだ。もし陽一郎がどこかの家へ転がり込むようなことをしていれば、柊吾には絶対見つからない。それにこの区画を脱出して、別の場所へ逃げた可能性もある。

 そもそも、どうして陽一郎を見失ってしまったのか、柊吾には不思議で仕方なかった。ひょろひょろした陽一郎など簡単に捕まえられるという、柊吾の慢心の所為だろうか。だが、真剣に追ったつもりだった。こんな時、携帯電話がないことを辛く思った。同級生の半数以上は持っているが、費用がかかるので柊吾は中学卒業まで我慢するつもりでいた。その選択を初めて悔いたが、後悔している暇があるなら、身体を動かして戻るべきだ。

 ただ、元来た道にも学校にも、陽一郎はいない気がした。

 あの状態の陽一郎が、何食わぬ顔で席に着くところなど、想像もつかない。

「……ちっ」

 万事休す柊吾の耳に、民家の植木にへばりついた蝉の鳴き声がしゃわしゃわと聞こえてくる。流れた汗でシャツが張り付き、べったりとして気持ち悪い。湿気を蓄えた空気を振り切るように見上げた空は、先程までの青空が嘘のように、薄暗く曇り始めていた。もしかしたら、一雨降るかもしれない。速い動きで流れていく灰色の雲を目で追いながら、柊吾は焦る。

 どうする? だが、何度自問しても同じだった。学校へ戻り、陽一郎が戻っているか確認するしかない。必要ならば陽一郎の保護者にも連絡すべきだろうが、さすがにそれは残してきたクラスメイトによって達成されているだろう。

 最早、手詰まりだ。今の柊吾にできる事は、何もない。

 悔しかったが――戻るしか、ない。

 柊吾は拳を握りしめ、自分が走ってきた方角を振り返る。急ぎ足で住宅街を出ようと数歩駆け出したが、一縷の望みを賭けて、周囲をもう一度、見回した。

 期待と諦観を抱きながら、未練たらしく、そして恨みがましく、柊吾は背後を振り返り――――吃驚びっくりして、動きを止めた。

 ただの通行人ならば、きっと驚かなかっただろう。

 だが、そこに立った人物の容貌は、日比谷陽一郎を探していた柊吾にとって、あまりに予想外であり、あまりに奇抜だったのだ。

 そこにいたのは、陽一郎ではなかった。

 ただの通行人でも、なかった。

 そして、おそらくは――日本人でも、なかった。


「……成程。〝転校〟ですか」


 柊吾の前方、数メートルの距離を開けて――その男は、立っていた。

 落ち着いた声音は、柊吾の抱えた緊張感とは真逆な程に緩やかで、人を安心させる波長を備えた、嫋やかな声だった。

 謎の言葉を発した男は、茫然とする柊吾と、視線を交わらせて――青色の双眸を柔らかく細めて、友好的に笑いかけてきた。

 笑いかけられた柊吾は、何が何だか分からない。人違いを疑ったが、話しかけられたのは紛れもなく自分だった。反射で身構えながら男の視線を受け止めたが、そうやって見返した男の容貌は、見れば見るほど奇抜だった。

 黒いスーツの上着を腕に引っ掛けて立つ男は、柊吾よりも頭一つ分は背が高い。すらりとした体躯は痩せ形だが、薄く張った筋肉がシャツの上からでも見て取れる。喪服のような白と黒のコントラストを見せつける男の髪色は明るく、いかにも外人然とした灰茶色をしていた。曇天でなく晴天の下であれば、金色にも見えただろう。若干東洋風にも見える容貌は、母が観ていた洋画の俳優のように整っている。

 何故、こんなマスクの男がここにいるのだ。そして自分に、何の用があるというのだ。次第に狐につままれた気分になる柊吾へ、男はふわりと微笑んだ。

「やはり。それに、君は……。ああ、驚かせてしまいましたか。ですが、僕も驚いていたのですよ。まさか、君とここで出会うとは思いもしませんでしたから」

「はあ?」

 柊吾は面食らったが、男は穏やかに笑うだけだ。こちらの狼狽を楽しんでいるのかと訝ったが、そういうわけではないらしい。柊吾が見る限り、男の態度に悪気や屈託は感じられなかった。

「どうやら、君と僕の探し人は、同じ場所にいるようですね。違うことを祈っておりましたが、残念です。……間に合えばよいのですが。急ぎますか」

「探し人?」

 突然の言葉にぽかんとしたが、それが明らかに日比谷陽一郎を指す言葉だと気づくや否や、柊吾はさっと顔を強張らせ、警戒と共に男を見た。男は端整な顔の造形を、困惑気味の微笑に崩す。柊吾に怪しまれている自覚はあるようだ。

「僕は決して怪しい者ではありませんよ。誤解を解きたいところですが、あまり時間がないようです。――僕に付いてきてもらえませんか。三浦柊吾君。申し訳ありませんが、話の続きは走りながらさせて頂きます」

「! なんで、俺の名前、知って」

「上履きに書いてありますよ。ああ、申し遅れました。僕は呉野和泉と申します。呉野氷花さんの兄です。御存知なのでしょう? 僕の不肖の妹を」

「なっ……!」

 ――兄。

 度肝を抜かれる柊吾へ、「さあ、急ぎましょう」と、男――呉野和泉は促すと、すぐにその身を翻した。長い足が一歩踏み出すのを見た瞬間、柊吾は躊躇ったが迷いを一旦据え置いて、和泉との距離を大股で詰める。隣に並ぶと、和泉はさらに歩調を速めてきた。競い合うように並走する柊吾を、見下ろした和泉が笑った。

「僕が兄だと主張すると、大抵の方は冗談だと受け取ります。僕を信用したわけではないのでしょう? それでも来て頂けることに感謝します」

「信用したわけじゃ、ありません。でも陽一郎のこと、知ってるんですよね」

 小走りのまま、柊吾は男を睨んだ。

「なんで陽一郎のこと、知ってるんですか。あと、探し人が同じとか転校とか、わけ分かんないんで、もっと分かりやすくお願いします」

 上辺は礼節を取り繕ったが、不信感は剥き出しだ。「それは失礼致しました」と和泉が慇懃に詫びてきたので柊吾は決まりが悪くなったが、相手の笑みは鷹揚だった。玄関先に躑躅つつじの花が咲く家の角を曲がった和泉は、身体で風を切る音と蝉の合唱が氾濫する世界へ、思いのほか真剣な声を投じてきた。

「君の周りでは、〝転校〟する者が多い。その事実には気づいていましたか」

「転校っ?」

「ええ。転校です。君の学校からは人が消える。君は過去に二人、級友を〝転校〟という形で失っています。覚えているのでしょう?」

 確かにそれは、和泉の言う通りだ。言う通りだが、解せなかった。何故そんな話を今するのだろう。状況は切羽詰まっているのだ。

 だが、今の和泉の台詞に微かな違和感を覚え、その正体に目を向け、考えた途端――背筋に氷を差し込まれたかのように、冷たいものが走った。


 失う。


 転校して、級友を『失う』。遠い所へ行くではなく、会えなくなるでもなく、『失う』。

 異質な言葉だった。転校していなくなる友人に対して、『失う』などとはまず言わない。しかもそれを告げたのは、言葉の使い方を知らない子供ではなく大人なのだ。異国の人間だから、言葉遣いを間違えた? だがそんな思考の甘えを許さない程に、和泉の日本語は流暢だ。

 撫子が壊れ、陽一郎が失踪し、今、目の前には異邦人。収拾がつかなくなっていく事態を前に、思考回路が麻痺してくる。

 ただ、柊吾にはどうしてか、この男が危険だとは思えなかった。

 不思議な感覚だった。氷花の笑みを見た時には怖気と嫌悪を感じたのに、兄を名乗る和泉からは、いやな感じがしないのだ。あるのは優しさと包容力と、それをも超越する別次元の何かだった。その感情の正体に、柊吾はすぐに気が付いた。

 連帯感だ。陽一郎を友人達と追い駆けた時の絆と同じなのだ。今、隣を走るこの大人は、柊吾と同じ危機感で、そして柊吾と同じ目的で動いている。雨の匂いが濃密に満ち始めた空の下で、柊吾はそれを嗅ぎ取った。

 理性的ではないだろう。馬鹿げているのも分かっていた。だが手詰まりである以上、和泉を拒絶したところで、柊吾は学校へ帰るしか術がないのだ。ならば。

 一か八かで、この大人を頼ろう。覚悟の鋏で、柊吾は迷いを断ち切った。

「小学五年で二人、転校しました。でもそれを俺はあんまり覚えてないし、さっき陽一郎に言われてやっと思い出したくらいです」

 いきなり級友の名など持ち出せば初対面の人間は当惑するが、相手は先程の話しぶりから、明らかに陽一郎を知っている。迷路のような住宅街を確固たる足取りで進む和泉は、興味深そうに青色の目をすがめると、はきはき喋る柊吾を見下ろした。

「成程。記憶が薄いのですね。本当はこのような言い方をするのは、僕の美意識に反しますが、致し方ありません。――君達は小学五年生の時、ナデシコの花を植えましたね。一本のケヤキの木の周りに、皆で鉢を並べて。それらが花開いた時、一輪の例外を除いた全ての花が、誰も知らないうちに切り取られました。犯人は、いまだ不明のままです。違いますか」

「! なんで、それ知って」

「僕は氷花さんの兄ですので、少しばかり詳しいのですよ。ああ、思い出せなくても結構です。君はあまり仲良くしていなかったようですから。紺野沙菜こんのさなさんの事を、よく覚えてはいないのでしょう」

「紺野っ……?」

 入り組んだ住宅街の角を何度も曲がりながら、柊吾は思わず訊き返す。

「そういや、陽一郎が言ってたな。……俺は昔、陽一郎と、雨宮って女子とつるんでて、陽一郎には他にも仲良くしてる奴がたくさんいて……俺はあんまり交流なかったけど、明るい奴と、内気な奴がいたと思う。その二人共が転校して……内気な方が、紺野だった」

「ええ。その通りです。……その紺野沙菜さん。〝転校〟した後、どうなったかご存知ですか」

「え? いや……」

 一拍の間が空いた後、聞こえてきた声は冷えていた。

「お亡くなりになりました。交通事故だそうです」

「!」

 絶句する柊吾へ、和泉は悲しげに微笑みかけた。

「転校後の学校に、まだ馴染んでもおられなかったでしょう。そんな折に、車に撥ねられたそうです。今は、その事実だけを念頭に置いて下さい。君に詳しい説明をする時間が残されていないのです」

「呉野、さんが……何の話してんのか、分かりません」

 言い返す声が、少し震えた。驚く気持ちは大きかったが、こんな状況で突然ぶつけられた級友の死を前にして、正しい反応を決められない。故人には悪いが、今柊吾が知りたいのは陽一郎の事だ。紺野沙菜の事ではない。この話が何の為のものなのか、柊吾には理解できなかった。

「理解できなくても結構です」

 和泉は胸中の疑問を掬い上げたかのように言い切った。どことなく素気無い態度にも思え、出会ってからずっと柔和な態度を取り続けてきた男の焦燥が、初めて分かりやすい形で伝わってきた。

「あと、僕のことは和泉で結構ですよ。妹と同じ苗字では呼び辛いでしょう。……柊吾君。君は〝言霊〟という言葉をご存知でしょうか」

「言霊っ?」

「声に出して発した言葉には力が宿り、現実に対して何らかの影響を与えるという考え方です。良い事を言えば良い事が、良からぬ事を言えば、良からぬ事が起こります」

「ちょっ……ほんとに何の話してるんですか!」

 それどころではないはずだ。柊吾は噛みついたが、和泉は「真剣な話ですよ」と律義に返し、脇道に逸れているとしか思えない語りを続行した。

「現実の事件に置き換えてみれば多少は分かりやすいかと思います。『誰でも良かった』という理由で他者を冒涜ぼうとくし、危害を加える人間など幾らでもいます。手が届く距離に獲物がいるという、それだけが動機の全てです。悲しいことですが、人は皆が善人ではありません。この世には想像を絶する悪意やいわれのない誹謗中傷が存在し、それらを無差別にぶつけてくる悪鬼がいる事を僕は知っているのです」

「難しすぎて、分かんねえっ!」

 頭がパンクしかけて絶叫する柊吾だったが、労わるようにこちらを見た和泉の目は、先程の言葉通り真剣だった。

「言霊とは本来、聞き手の存在は関係ありません。声に出しさえすれば、それが現実を変容させます。ただし〝彼女〟の場合、〝言霊〟の力を『会話』によって引き出しています。言霊が現実に対する打撃力となり得るならば、〝彼女〟の言葉は凶器です。ですから、『弱み』を見せてはなりません。それが君にできる『防御』です。〝彼女〟の発する言葉の全てが人に致命傷を負わせるわけでは決してなく、簡単にぐらつく場所、すなわち『弱み』からしか、つけ入る事はできません。それでも、急所を狙われると殺されます。心して下さい」

「なっ……何、言って……!」

「僕の妹の話ですよ。君も気づいていたのでしょう? あの子が時折、どんな目で人を見ているかを」

 言われて、ぎょっとした。

 ――柊吾以外にも、気づいている人間がいたのだ。

「日本には古来から『言霊のさきはふ国』という言葉があり、言葉に込められた霊力によって幸せがもたらされるという信仰が存在します。しかし、極めて精神的、そして物理的な打撃力を誇る〝コトダマ〟を操る者もいる。僕がしているのは、そういう危険の話です。まるで、交通事故のような」

 風を切って走る柊吾は、言葉の突飛さに呑まれていた。氷花の顔を思い出す。暗鬱なしたたかさで赤く歪んだ、悪意の笑みを思い出す。

「……柊吾君。君は、狙われているわけではありません。にもかかわらず、これに関わろうとしています。それは何故ですか」

 ――狙われている?

 柊吾は唐突な言葉に戸惑ったが、隣を走る和泉は「何故です?」と繰り返した。

「君は今、友達の為に走っていますね。それも、嫌いだと一度は思い詰めた友達の為に。君にとってその友達は、許せない存在のはずです。なのに君は、その友達の為に走っています」

 柊吾は、驚いた。何故、これほど知っているのか。追及しようとしたが、和泉が走る速度を上げ始めた。なかなかの俊足だ。柊吾もペースを上げると、家々の屋根の隙間から、濃い緑の枝葉が見えてきた。

 ――山だ。住宅街という海原に浮かぶ孤島のように、小さな山が人々の営みに共存している。逞しく茂る木々を見上げた柊吾は、すぐに和泉へ視線を戻し、見目好みめよい横顔を軽く睨んだ。

「……イズミさん。人の心でも読めるんですか。あと、最初に言っときますけど。俺、イズミさんの妹の事、あんまり良く思ってません」

「承知しております。あの子が悪いのですから、致し方ないことです」

 和泉の呼吸が乱れ始め、言葉が途切れがちになっていく。

「君が友達を追う感情を、僕は、察することができるのですが……叶うならば言葉として、君の口から聞きたいのです。僕は日比谷陽一郎君の事を知っていて、彼がこれからどうなるのかも見当がつきます。だからこそ、君の力にもなれるのです。何故、君は、一生懸命になれるのか。それを声の形で発した言葉で、僕に教えて頂けませんか」

「どうして、そんなことが気になるんですか」

「僕は、人が好きだからです」

 和泉は額に汗を浮かべながら、柊吾を見下ろして笑った。

「僕は人が好きなのです。異邦人の僕を受け入れて下さった御父様も、気さくで明るい友人も、その友人が幸せを願った二人の愛の先行きも、その愛の在り方も、人と人とが紡ぐ未来も、全てが愛おしいのです。その愛が友愛であれ恋愛であれ家族愛であれ、貫く姿が美しい。人の為に一生懸命になれる人の事が、僕は、とても、愛おしいのです。誰も失いたくありません。失うのは、厭なのですよ。……ですから」

 和泉は言葉を切って立ち止まった。

 柊吾も立ち止まったその場所は、山へと差し掛かる色の鳥居の前だった。雑草混じりの石段が空に向かって伸びていて、頂上にも丹色の鳥居がそびえている。

「僕は、君を立派だと思っていますよ、柊吾君。……ですから、どうか。君がここから先へたった一人で進む事を、僕に安心させて頂かなければ、困るのです」

 柊吾は、和泉を見た。

「あの子は、外道です。悪鬼です。ですが、僕の妹です。家族です。中学二年の少女であり……子供です。人間です。君と、同じ。――君は、かけがえのない友人二人の仇討あだうちの現場に、君からすれば全く関係のない第三者がいる事を、望みますか……?」

「……この先に、何があるんですか」

「おそらくは、僕の妹がいるかと。そして、君の探し人も」

 和泉は回答を促すように、柊吾と目線を合わせてくる。

 青色の目に揺れる感情の波は、やはり慈悲だった。

 ――『愛』

 そんな言葉が、脳裏を過った時――ああ、と柊吾は悟った。

 この男の姿は、父のようだった。柊吾の母、遥奈へ愛を囁く、三浦駿弥の姿そのものだ。この男の身の内のほとんどが、純度の高い『愛』で占められている。

「……」

 気が、変わった。これが激励なのだと気づいたからだ。

 詳しい説明は、和泉曰く『時間がない』ので得られないらしいが、どうやらこの先にいるのは氷花であり、陽一郎も一緒にいる。

 和泉の『探し人』は、間違いなく氷花だろう。

 その上で――喧嘩の役割を、柊吾に譲ってくれるらしい。

 ――それに。

 緊張と興奮で、はやる鼓動を止められなかった。

 柊吾は、陽一郎が異変を見せた時の、あの奇妙さを思い出していた。

 ――呉野氷花と日比谷陽一郎。

 アンバランスな、組み合わせ。まるで『愛』を囁くように、陽一郎の耳元へ寄せられた唇の赤色。その直後の陽一郎の、悪霊に憑かれたような変貌。


 ――〝コトダマ〟。


「……」

 先程は、馬鹿にしていた。だが、もう、今はしない。

 信じることの愚かさを、理性的な自分が諭す。だが、全て捨て置いた。

 そんな脳の指図を、受け入れるだけの、冷静さは――たった今、焼き切れた。

 分かったのだ。

 敵が、誰か。

「……さっきの、転校の話。もう一人の奴は、無事ですか」

「ええ。そちらの方は大丈夫ですよ。……今のところは、と言うべきかもしれませんが」

「呉野、何したんですか」

「……」

「〝コトダマ〟って。さっきの。ガチですか」

「……」

「…………雨宮、やったの。あいつですか」

「それは君が、自分の目で確かめてくるといいでしょう」

「……」

「ああ、僕の妹だからといって、容赦は不要ですよ」

 和泉は、笑う。

「君のお好きなように、正しいと思うことをすればいい。……きっと、大丈夫ですよ。君には『愛』の御加護があるのですから……」

 その声を、柊吾は背中で聞いていた。石段を大股で上がりながら、「俺はっ!」と、振り向かないまま、柊吾は叫んだ。

「陽一郎のことなんかっ! ……大っ嫌いだ! あんな奴! 死ねって! 思ったけど! ……それでも! 助けてやるって、決めたんだ! ……それに。雨宮やったのが、もし、イズミさんの妹で、確定なら」

 柊吾は一度だけ振り返ると、優しげにこちらを見守る異邦の男に向けて、まるで暴力のように、威圧を込めた言葉を叩きこんだ。


「ぶっ潰す」


 ――どうぞ、と。

 笑みを含んだ愉快げな声を、柊吾は再び、背中で聞いた。

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