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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 49

「くそっ……!」

 廊下の壁を激しく蹴飛ばす、重い音が反響した。

「三浦……」

 拓海は声をかけたが、制止はせずに見守った。柊吾の気持ちは痛いほどに分かるのだ。拓海だってこの事態に狼狽えているのは同じであり、もし消えたのが撫子でなく七瀬なら、もっと酷い取り乱し方をしたと思う。

 それに今となっては、申し訳なさもあったからだ。

「坂上くん。ごめんね」

 謝罪の声に振り返ると、七瀬が拓海をじっと見ていた。

 目には、はっきりとした怒りの色。自分への怒りではないと分かっていたが、拓海は項垂れると吐き出すように言った。

「篠田さん、謝らないで。……ごめん。俺の所為だ」

 耳に当てた携帯からは、呼び出し音ばかりが聞こえている。撫子が電話に出ないのだ。一緒にいる相手に通話を阻まれているのか、詳しい状況は不明だが――――和音が撫子を、攫っていってしまった。

 そしてその原因を作ったのは、他でもない拓海なのだ。

「坂上くんこそ謝らないで。絶対気にしないでよね。私が謝ったのは、こんな喧嘩を聞かせたちゃった事だけだから」

 七瀬はむっとした口調で言うと、柊吾の元へ歩いていく。壁を蹴り続けていた柊吾は唇を引き結んだ七瀬に気付くと、動きを止めて振り返った。

「三浦くん。ごめん。私の所為だと思う」

「……俺は、篠田の所為とは思ってない。坂上の所為とも思ってない。ほんとだからな。気にすんな。……けど」

 ぎっと歯を食いしばった柊吾の声が、最後だけ震えた。

「佐々木の事は、許さねえ。あいつ、雨宮攫いやがった」

「……三浦くん。和音ちゃんのこと、恨まないでなんて言わない。でもね、やっぱりおかしい」

 真剣な顔で、七瀬が言う。そして毬を振り返った。

「ねえ、毬。和音ちゃんどうしちゃったの? まさか、最近ずっとこんな感じだったの……?」

 視線が、ショートボブの少女へ集まる。

 綱田毬は蒼白の顔を俯けて、「……うん、少し。でも原因は分からないの。ごめんなさい」と、消え入りそうな声で言った。

「和音ちゃん、二か月前からちょっと変わったって思ってた。よく私と一緒にいるようになって、その代わりにミヤちゃんのこと、少し避けるようになっちゃったの」

「ミヤ……風見さんを?」

 その言葉に、拓海は純粋に驚いた。

「綱田さん。佐々木さんが風見さんを避けた理由、心当たりある?」

 拓海は訊いた。おかしいと感じたのだ。和音が美也子を避けたのは、拓海が話を聞く限り三月三日の喧嘩が理由のはずだ。だが毬の言い様ではその絶交の二ヶ月前から、和音は美也子を避けている。

 ――――やはり、何かがあったのだ。

 この〝アソビ〟の開始以前に、佐々木和音の身に、何かが。

「坂上。もういい。綱田も。あいつの近況なんかどうでもいい」

 拓海と毬の間に、柊吾が身体を割り込ませた。

 その目は、完全に据わっていた。

「佐々木の奴、帰るとか言ってただろ。雨宮の携帯使ってやがったし、あいつも一緒に校外に連れてかれたんだ。……雨宮が空き教室で目ぇ覚ました時、俺の事も『見えて』なかったんだ。すぐ『見える』ようになったけど、あの分じゃいつまで保つか分かんねえ。早く連れ戻さねえと〝アソビ〟以前に、外でトラブルになったらヤバい」

 柊吾は眉間に皺を寄せると、「篠田達は校内を一応探してくれ」と言い捨てて、階段の方へ歩いていく。

「待ちなよ。三浦くん」

 素早く動いた七瀬が、柊吾の腕を引っ掴んだ。

「校外なら私も行く。だいたい携帯持ってない三浦くんに単独行動されたら、撫子ちゃん見つかっても連絡取れないでしょ。そんなのじゃ、私達も困る」

「離せ。時間がない」

 柊吾はその腕を顔も見ずに振り解いたが、七瀬は柊吾の進路へ回り込むと、頭一つ分はゆうに高い長身を、きっ、と果敢にも睨め上げた。

「どこ見て喋ってるわけ? 人と話す時は、目ぇ見て話しなよって言ったよね」

「……」

「三浦くん、聞いて」

 七瀬が、柊吾の目をひたと見た。

「撫子ちゃん、たぶん大丈夫だと思う」

 柊吾が、驚いたように息を吸い込む。

 拓海もびっくりして七瀬を見ると、七瀬は毬と目配せを交わし合った。

「和音ちゃん、今は普通の状態じゃないよ。それに変わったって思う。でもね、和音ちゃんって元々は面倒見よくて優しい子なの。毬に対してだってそうでしょ? 人のこと、突き離せないの。自分のこと一番に考えてるって顔してるのに、人のことも同じくらいに考えてるの。だから三浦くんが思ってるよりは和音ちゃんは撫子ちゃんのこと、大事に扱ってくれると思う」

 毬も「私もそう思う」と、その言葉に確信を添えるように言った。

「私も、和音ちゃんに助けてもらったことたくさんあるの。だから和音ちゃんが撫子ちゃんに酷いことするとか、そういうのは考えられないの。……ほっとけないと思うの。和音ちゃんは、撫子ちゃんのこと」

「でも現実に、あいつが攫ってったんじゃねえか! 雨宮を!」

 柊吾は我に返った様子で叫んだが、七瀬と毬は「大丈夫」と、諭すように切り返した。

「三浦くん。和音ちゃんがなんでこんな事したのかは私にも分かんない。でも和音ちゃん、さっき電話で撫子ちゃんのことを『連れて行くなんて言ってない』って叫んでた」

 その指摘に、拓海は不意を打たれた気分になる。

 記憶を手繰るまでもない。拓海も直接訊いたのだ。和音の絶叫は携帯から漏れて、この場の全員に聞こえていた。確かに和音は言っている。撫子を連れて行くとは言っていないと。それどころかむしろ撫子が和音に付いて行ったというような内容を口走っていた。

 七瀬が、「ねえ」と、沈んだ声で言った。

「和音ちゃんもしかしたら、後に引けなくなってるだけなのかな。もしそうなら私は……やっぱりさっき、怒るべきじゃなかったのかな」

「篠田さん。でも、それは」

 拓海は擁護しかけたが、それよりも柊吾の方が気にかかり、結局率直にこう言った。

「どんな形でも校外に出たかもしれない雨宮さんの事を、佐々木さんが本当に面倒見てくれるかは……俺とか、三浦とか、佐々木さんをよく知らないメンバーには、どう信じていいか分からない」

 ここにいる半数の者が、和音の個性を知らないのだ。今の和音しか見えていない。冷徹な目の和音しか。しかもその和音が撫子を攫って蒸発し、今は連絡もつかないのだ。そんな状況で七瀬と毬が以前の和音の個性を持ち出して庇うような言葉をかけても、拓海はともかく柊吾は納得しないだろう。

 だが七瀬も毬も二人共、迷いなく拓海へ言い返した。

「三浦くん、坂上くん。信じて。和音ちゃんと撫子ちゃんが一緒にいる分には大丈夫。〝アソビ〟で危ない目に遭う可能性はあっても、和音ちゃんが撫子ちゃんを襲ったりなんて絶対しない」

「私からも。信じて。和音ちゃんなら、撫子ちゃんを守ってくれると思うから。だから、お願い。許してあげて。殺すなんて言わないで」

 七瀬は真面目な顔で、毬は哀願するように、拓海達を見上げてくる。

 本気で、和音を信じている。それは、そんな顔だった。

「篠田は、綱田は……なんで、信じられるんだ?」

 柊吾は、茫然と訊いた。

「友達だから」

 七瀬は、きっぱり言い切った。

「良いところも悪いところも知ってる、友達だから」

 柊吾が、明らかな動揺を顔に浮かべて沈黙する。何に驚いたのか拓海にも分かる。この言葉が毬ではなく、七瀬から出たことに驚いたのだ。

 七瀬は今、どんな思いでいるのだろう。さっきの電話でのやり取りには内面をかなり抉られた拓海だったが、それ以上に七瀬の方が、より傷ついたはずなのだ。怒り以上に、辛い思いをしたはずなのだ。

 それでも、七瀬は言ったのだ。

 和音のことを、友達だと。

「篠田さん……」

 声のかけ方も分からないまま、拓海が七瀬を呼んだ時だった。

 携帯の呼び出し音が、ぶつっと唐突に切れた。

 そして入れ替わるように『おかけになった電話は、現在電波が届かない所にあるか、電源が入っていない為――――』と、アナウンスが機械的に流れ出した。

「あっ……、切られたっ?」

 慌てて携帯を見下ろすが、呼び出し画面は既に通話終了画面に切り替わっている。血相を変えて柊吾が「坂上、どうしたっ?」と振り返ったので、拓海は首を横に振った。

「電話、切られた。いや、」

 和音が切ったのか、それとも、もしや――――撫子が、切ったのか。

 その可能性が、脳裏を過った瞬間だった。

 携帯が、ぶぶぶ、といきなり震え出した。

「!」

 全員に緊張が走った。

 着信だった。

 撫子かと色めきたったが、画面に表示された名前は、違う人物のものだった。

「あ……」


 呉野和泉。


 何故、このタイミングで。撫子への電話が謎の切れ方をした直後に、狙い澄ましたかのように。嫌な悪寒が背筋を駆けて、全身の産毛が逆立った。今まで雲のように曖昧で形を成さなかった疑惑の霧が、ようやく明確な形となって、拓海の中で凝固する。

 ――――和泉は、やはり。

「坂上っ、イズミさんなのか? 早く出ろっ、雨宮のこと何か教えてくれるかもしんねえ!」

 縋るように柊吾が叫ぶ。そこからは期待と安堵が熱く伝わってくる。拓海は胸を痛めながら、硬い声で言った。

「三浦。……俺に任せてほしい」

「坂上?」

 呆ける柊吾を尻目に、拓海は携帯を見下ろす。

 呉野和泉。イズミ・イヴァーノヴィチ。これから拓海が相手にするのは、どちらの男なのだろう。その青年のいた空席に座った拓海は、師のような存在である男との、対決回数を数えてみる。

 一回。いや、二回とカウントすべきだろうか。最初はすぐに論破されてしまい、食い下がった二回目で何とか勝ちを譲ってもらった。

 だから、これは三回目だ。

 そして、これで最後にしよう。

 拓海は通話ボタンを押し込んで、耳に当てると、呼びかけた。

「イズミさん?」


『――なかなか、苦戦しているようですね』


 くつくつと、嗤い声が聞こえてきた。

 愉快がるような声だった。その響きが鼓膜から全身を震わせていった時、拓海の中で覚悟が決まった。

 最後の論戦が、始まったのだ。

「イズミさん。この電話をさっきみたいに皆にも聞こえるようにしていいですか。ここにいるメンバーといないメンバーの名前は、言わなくても分かりますよね。イズミさんなら」

『ほう。挑戦的な言い方をしますね。いいでしょう。坂上拓海君。通話も皆さんに聞こえるようにして下さい。それに当ててあげましょうか。君達の現在地は図書室の外、階段前。そこに集まったメンバーは拓海君、柊吾君、七瀬さん。毬さんと陽一郎君もいますね。いないメンバーは、撫子さんと和音さんの二名。……だから、気を付けるように言ったのですよ。〝花一匁〟と〝山椒大夫〟で警告してあげたというのに、やはり君達はそうなりましたか……』

 拓海は携帯を操作して、音声が全員に聞こえるよう設定する。

 途中から聞こえ出した歌うような男の声に、柊吾達の表情が凍った。

「坂上、おい、イズミさん……なんで……」

 柊吾の動揺も無理はない。和泉の言い様では撫子と和音がこうなったのを、面白がっているように聞こえるだろう。拓海は携帯を床に、皆の輪の真ん中へ置くと、携帯の向こうに坐する男と対峙した。

「イズミさんの言った〝人攫い〟。その正体は風見美也子さんの事じゃなくて、佐々木和音さんの事だった。イズミさんは最初からそれを知っていた。知ってて、俺らを泳がせたんだ。その目的は、何ですか」

『いきなり答えを求めますか。いけませんね拓海君。〝言霊〟と〝言挙げ〟こそが僕と君との絆のはずです。第三ラウンドと参りましょうか。どうぞ、お好きなように攻めて下さい』

「お兄さん、ちょっと待って! 坂上くんも!」

 七瀬が、慌てた様子で叫んできた。

「まさか……、お兄さんって、黒なの?」

「八割がた黒だと思う」

「はあっ? ちょっと何なの八割がたって!」

「いや、だって十割黒じゃないはずだから」

 拓海がごにょごにょと応対すると、柊吾もショックを受けた様子で「待てっ、ふざけんなイズミさん!」と割り込んできた。

「イズミさん、こうなるって分かってたのに止めてくれなかったのは……まさか、雨宮が消えるように、イズミさんが仕向けたから? イズミさんが、雨宮を消したのか……?」

 柊吾の言葉に、和泉の笑い声が返ってきた。

 ――――挑発的な、声だった。

『柊吾君。君は警告を守りませんでしたね。君、〝花一匁〟を思い出して御覧なさい。日本ではその昔、花のことを女児や子供の暗喩としておりましたが、彼等が花に例えられる理由は、現代でも明瞭には判っていません。ですが人買いに買われていくのは、割合として女児の方が多かったようですね。その理由は中学生でも想像がつくでしょう。売られた少女達は遊郭に売られるのが一般的であり、客が女を買う代金の事を、当時『花代』と言ったそうです。……〝人買い〟に攫われた、花の名前を持つ少女。この現代で花街に流れ着く事はさすがにないでしょうが、文学でも人買いの手にかかった少女の末路は悲惨ですからね。いやはや、どうなることやら』

「……っ、いい加減に、しろっ!」

 激昂する柊吾を、拓海は「三浦」と一言呼んで宥めた。

 腹立たしさは分かるが、挑発に乗っている場合ではないのだ。

「イズミさん。そもそもイズミさんはなんで佐々木さんと知り合いなんですか。三浦からは、佐々木さんは呉野氷花さんの標的になりかけて外れたって聞いてます。その流れで知り合ったのは分かりますが、イズミさんが佐々木さんに対してだけ異能の説明を端折った理由が不明確です。イズミさん、答えて下さい。それは何故ですか」

『それは、君。和音さんが氷花さんの標的から外れたからですよ』

 いけしゃあしゃあと、和泉は言う。肩を竦める仕草が、目に浮かぶようだった。

『言霊の異能によって、現実が変質するなどという世迷言。誰が信じるというのです。一般人に濫りに知識を分け与えて、惑わせる事はないでしょう』

「でも、イズミさんのその選択が発端ですよね」

『ほう?』

 和泉が、感嘆めいた吐息を付く。空とぼけているようにも聞こえるし、続きを促しているようにも聞こえる。拓海は、焦らずに先を続けた。

「イズミさんが佐々木さんに、〝言霊〟の説明をちゃんとしてなかったから。だから俺らも佐々木さんには一から説明をしなかった。信じてもらえないと思ったし時間もなかったから、佐々木さんには悪かったけど……俺らも、説明をしなかった」

 柊吾の顔へ、苦々しさが僅かに浮かぶ。毬や陽一郎も沈痛な面持ちで俯いた。

皆にも自覚があったのだろう。拓海達が寄って集って、和音を仲間外れにした事に。

 その罪悪感に背を向けて、ここまで来たつけがこれなのだ。

 だとしたら拓海達はさっき七瀬が言ったように、和音に憤るばかりではいけないのかもしれない。贖罪の気持ちから拓海も俯きかけたが、しゃんと背筋を、無理やり伸ばした。

 責任で落ち込むのは、後になっても出来るのだ。

 今出来る事をしなければ、この手強い男から、拓海は撫子を取り返せない。

「イズミさんは佐々木さんがこうする事を、異能であらかじめ知っていた。俺らに色んなヒントをくれてた事からそれは明らかです。だから俺は、こう考えました。――――『イズミさんは佐々木さんに、雨宮さんを攫わせるよう仕向けた』。違いますか?」

 皆が、はっと息を詰めた。

 和泉が再び、密やかな嗤い声を立てた。

「佐々木さんが異能について知らないのは、さっきイズミさんが言ったような配慮が理由じゃありません。イズミさんは敢えて佐々木さんにだけ知識を持たせないようにしたんだ。そうやって、俺らと出会った時に仲間外れになるよう仕向けた。寂しくなるように。疎外感で、俺らの事を恨むように」

 厳しい考えかもしれない。だがそう考えれば辻褄が合うのだ。

 和音が、何も知らない事も。その末に孤独を深め、結果として撫子を攫うという暴挙に出た事も。これらは何か一つでも条件が欠けていれば、成立しなかった事態だろう。

 その危ういバランスを最初から知っていて、予定調和が崩れないよう管理できる者がいるとすれば――――それはこの男を置いて、他にいない。

「イズミさん。イズミさんが、佐々木さんと出会ったのは……本当に、偶然ですか?」

 一拍分の、沈黙が流れた。

 その果てに聞こえたのは、またしても愉快気な声だった。

『甘い言い方ですね。拓海君。君、本当はこう言いたいのでは? ――――『僕、呉野和泉は、佐々木和音さんを利用する為に、彼女に近づいたのではないか』。どうです?』

 七瀬が「え?」と声を上げた。

「お兄さん、ちょっと」

「篠田さん。待って。俺がもっと話す」

 携帯に近寄ろうとする七瀬を、拓海は腕を広げて制止した。まだ和泉に追及すべきことがある上に、この男と戦うだけで手いっぱいなのだ。そんなこちらのやり取りをこの異邦人は『見て』いるのか、和泉は妙に静かな声音で言った。

『……拓海君。君は佐々木和音さんの『弱み』を知っていますか』

「え?」

『彼女の弱みは、『童謡を恐れる事』です』

「童謡? それって昔話っていうか、歌っていうか……子供向けの、あの?」

『ええ。そうです』

 戸惑う拓海へ、和泉は優美な口調で言う。

『僕の日本の父である藤崎克仁氏は、いやはや困ったもので、この袴塚市で何やら独自の怪談を流布しているようでして。黄昏時を過ぎた暗い時間になっても家へ帰らない子供達に、こんな言葉をかけて脅かしているのです。――――『早くおうちに帰らないと、天狗や異人が現れて、君達を攫って行ってしまうよ』、と』

「あ、それは……」

 拓海は、唖然と呟いた。

 和泉の声が別の声にすり替わって、耳の奥で再生される。

 ……知っている、怪談だった。

『君達の中にも一人くらいは、この怪談に聞き覚えがあるのでは? ああ、克仁さんの家に出入りしている拓海君や、彼の門弟である綱田毬さんも御存知のようですね。貴女もこの怪談を、恐ろしいと思いますか?』

 水を向けられた毬がびくっと竦み上がった。隣で陽一郎まで何故か一緒に怯えていて、「アホか。なんでお前まで」と柊吾に呆れられていた。

「イズミさん、それが佐々木さんの『弱み』? 佐々木さんは克仁さんの怪談が怖いんですか?」

 拓海は訊いた。

 この怪談を何故和泉が持ち出すのか、その突拍子のなさが不穏だった。

『平たく言えばそうですね。思えば七瀬さんの『鏡』の事件も怪談がらみだったでしょう。〝怖い〟という感情は、容易に『弱み』と結びつくのですよ』

「それが一体、この〝アソビ〟と何の関係が……」

『拓海君は天狗という存在がどういうモノか知っていますか? 日本における天狗の初出は『日本書紀』で、轟音を立てながら空を駆けた流星の事を『アマツキツネ』――――漢字で『天』の『狗』と書く妖怪の鳴き声だと、僧が人々に教唆する一幕が描かれています。ですが現代の一般的なイメージとしての天狗は、そうですね。赤ら顔に長い鼻、手に羽団扇(はうちわ)、足には高下駄、丸い房飾りのついた法衣を纏った、山伏(やまぶし)の格好をしたものでしょうね』

「山伏?」

『修験道を極める者ですよ。古来より日本では山を神域と考えており、俗世と異なる清らかな世界とされてきました。そういった霊山で修練に励み、呪術や祈祷といった超自然的霊力を習得するのが修験者、山伏です。山に伏す。名前通りですね。さて、その山伏の格好をした天狗ですが……天狗隠しという言葉を、拓海君は知っていますか?』

「天狗隠し?」

 拓海は、訊き返す。

 何だか、嫌な予感がした。

『神隠しという言葉であれば、聞き手にも馴染みがあるでしょう。子供や若者が突然姿を消してしまい、数か月後、あるいは数年後に戻って来る。あるいは、二度と戻って来ない。……拓海君。天狗もまた、人を攫うモノですよ。日本各地に口伝が残っておりますので、調べてみるのも一興かと』

「イズミさん」

 拓海は、遮った。

 これ以上聞くまでもなく、意図を推察したからだ。

 相手も拓海の理解に気付いたのか、陰鬱な含み笑いが漏れ聞こえた。

『鼻の高い高慢な態度の人間の事を、『天狗になっている』と揶揄する事もあるでしょう? 君、皮肉だとは思いませんか? 天狗、異人、人を攫うモノを恐れた少女、自らが――――人を攫うモノそのものに、変貌を遂げて見せたのですから……』

 七瀬が、顔色を変えた。

「お兄さん……!」

 怒鳴り声が上がったが、和泉は七瀬に応えなかった。

『拓海君。君の質問に答えましょう。僕と和音さんの出逢いが偶然だったのか否か。その答えは、偶然です。氷花さんは標的を気分で選んでいるのですから、僕の意思が介在する余地などありませんよ。ですが、正直に言いましょう。運命的だとは思いましたよ』

「運命的……って。どういう意味で、言ってるんですか」

 拓海は、極力感情を抑えた声で言った。

 今の和泉の、言い方は……さすがに拓海も、許せなかった。

『利用できると思いました』

 和泉は、はっきりと言った。

 聞き間違いを許さない、明瞭たる声だった。

『僕の願望を果たす為に、佐々木和音さんは使える。彼女なくしては警戒心の強い君達から、撫子さんを引き離す事は出来なかったでしょう。何、籠城する人間の陣形を崩すなど造作もない事ですよ。仲間割れをさせればよいのです。これは様々な文学にも例示されていますね。古今東西あらゆるミステリーで登場人物たちは仲違いを起こし、陸の孤島で自滅していくではありませんか。まあ、君達はなかなか粘った方だと思いますよ。ご苦労様でした』

「――――この野郎っ!」

 柊吾が携帯に掴みかかろうとして、陽一郎と毬に止められている。拓海も慌てて駆け寄りかけたが、思い止まって和泉に言った。

「イズミさん。佐々木さんを使ってまで、雨宮さんを俺らから連れ出した目的は何ですか」

『君はそれを、判っているのでは?』

「……それは」

 拓海は少しだけ躊躇して、柊吾の顔を見た。怒りで顔色を失くした柊吾は荒い息を吐きながら、拳をぶるぶると震わせている。苦しかったが、それでも告げた。

「イズミさんが、雨宮さんを連れ出したのは――――〝アソビ〟の鬼である風見さんと、雨宮さんを鉢合わせさせる為ですか?」

「!」

 柊吾が、弾かれたように拓海を見た。

「おいっ……、そんな事になったら、あいつらは……!」

「うん。……まずい事になる」

 四年前、美也子は撫子が好きだった。撫子へひたむきなアプローチを続ける美也子の想いは、質がおそらく友愛よりも恋愛だ。

 少女が少女に恋することを、拓海は異様とまでは思わない。だが小五の美也子の偏執的な行為を思えば、その脅威と狂気は他人の拓海にも窺い知れる。

 現在の美也子が、撫子へどんな想いを向けているかは不明だ。

 だが、もし、美也子が今も、撫子に固執しているのなら――――〝鬼〟である美也子は〝アソビ〟参加者の撫子に、どんな風に迫るだろう?『拓海君。君は何故、そういう風に考えたのです?』

「イズミさんの行為が、〝アソビ〟の進行を促しているように思えたからです」

 淡々と言う和泉に、拓海も淡々と答えた。背筋を汗が伝っていき、自分が緊張しているのだとはっきり分かる。呼吸を整えると、きっ、と前を睨み据えた。

 ここからが、正念場だ。

「最初から、イズミさんに対して違和感はありました。俺らを助けてくれてるようで直接的には全然助けてくれてない。むしろ突き放されてる感じもしました。でもそれはイズミさんの個性の問題だと思ったし、俺らに調べものをしろって言ったり明確な助言を避けたのも、何か事情があるからだと思いました。……でも、やっぱり変なんです。イズミさんの言動は」

『僕の何が変だと言うのです? 僕は妹から変人だの奇人だの異端だのと散々言われ慣れているので、ちょっとやそっとでは驚きませんよ』

「まず、一つ目。イズミさん。克仁さんに電話が繋がりませんでした。どこにいるか教えて下さい」

 空気の流れが、止まった気がした。

『……さあ。どこでしょうね。僕は九年前に養父の家を出ましたから、彼のプライベートは存じません』

 和泉は飄々と返してくる。拓海は確かな手応えと共に、「そうですか」と頷いた。

「じゃあ、二つ目。イズミさん。呉野氷花さんについて疑問があります。氷花さんは今、どこにいますか?」

『……失踪中だと、言ったはずですよ?』

「本当に?」

『……』

 携帯の向こうで、息遣いがまた笑った。

 その嗤い声には、やはり愉快がるような響きがあった。だが最初の時とは雰囲気が少し違っている。今のは状況を揶揄したものではなく、拓海達への挑発でもなかった。ただただ純粋に拓海の言葉に驚いて、まるで何かを懐かしんでいるような、郷愁にも似た慈愛があった。ああ、やはりと拓海は思う。

 この男は一体どこまでが本心で、どこまでが偽りで、何の為にここまでして、拓海を阻んでいるのだろう。そして何故この期に及んで、拓海は和泉を、敵だと思えないでいるのだろう。

 その理由が何故なのかを、拓海はもう知っている。

 だから、その〝言挙げ〟をする為にも――――拓海は和泉に、勝たなくてはならないのだ。

「……変、ですよね。中学生の女の子が、家族が、妹が、昨夜から失踪して、もうじき丸一日になるのに。……イズミさん。克仁さんも。差し出がましいかもしんないけど……捜索願、まだ警察に出さないんですか?」

『……』

「分かってます。イズミさん。捜索願を、出さないんじゃない。出せないんです。だって」

 拓海は、言った。

「呉野さんは、失踪なんてしてないから。そうですよね?」

「なっ……!」

 柊吾が、七瀬が、目を見開いて拓海を見た。

 毬と陽一郎も、唖然と口を開けている。

 携帯からは、哄笑が上がっていた。箍が外れたように笑う異邦人の声だけが、閑散とした放課後の校舎の廊下に、不気味に、楽しげに、響いていた。

「イズミさんは、俺達を〝アソビ〟に参加させようとしてる。そんなイズミさんの行動を怪しんだ時、俺は呉野氷花さんが失踪したっていう、イズミさんからの情報の信憑性を疑いました。――――呉野さんは、失踪なんてしてない。本当に失踪してたら、克仁さんやイズミさんが今まで放っておくわけない。その怪しさに加えて、克仁さんにも連絡が繋がらない。……イズミさん。それに克仁さんも。その真相を、俺はこう推測しました」

 息を細く吸い込んで、拓海はその確信を〝言挙げ〟した。


「イズミさんと克仁さんはグルだ。それに、呉野氷花さんも。

――――この三人は、今。同じ場所にいる」


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