花一匁 48
どんっ、と壁に手を付くと、音に驚いたのか少女は震えて和音を見た。
「……」
どくん、どくん、と頭の血管を巡る血が、毒々しく鼓動する。コートを着た身体はずっと熱を帯びたままで、こうして立っているだけで不快だった。
無言で撫子と見つめ合いながら、だが和音は同時に強い戸惑いを感じていた。
――――死ねと言ったのを、聞かれてしまった。
七瀬と拓海の二人へ、死ねと言ったのを聞かれてしまった。
その動揺が破裂して、こうして一階昇降口近くまで、撫子を連れてきてしまったが――――和音は今からこの少女に、何をする気なのだろう?
口封じ? 殴る? 蹴る?
そんな行為、出来るわけがない。いざ撫子を攫ったところで和音は何もしないのだ。しかもそんな己の半端さは、おそらく撫子本人にもバレている。
「……」
撫子は先程から無言だった。無理やり引き摺られた不平不満を一切述べず、ただ和音の顔を見上げている。その顔に、表情はなかった。あるのかもしれないが和音には分からない。この少女は和音が見た時いつも表情が希薄だった。それが和音には気味悪く、落ち着かない気分にさせられた。
自分の心の内側を、見られている気がするからだ。
「……何か、言いなよ」
結局和音が言えたのはそんな小物じみた台詞だけで、口にした瞬間から激しい後悔で死にたくなる。撫子はそんな和音を見上げながら、ようやく口を利いた。
「佐々木さん。私、何も聞かなかった」
「……」
この期に及んで、まだそんな嘘を吐くのか。
自己嫌悪が霧散して、その空隙を黒い怒りが埋めていく。文句が口をついて出かけたが、それより先に、驚きで胸が掴まれた。
撫子が、和音をじっと見ていたのだ。
「……な、何」
和音は、たじろいだ。
撫子の顔はさっきと同じ無表情だ。だが、本当に同じだろうか。さっきと同じだと和音が信じているだけで、実は違う顔ではないだろうか。胸の内が、ざわついた。まただ。同じ感覚だ。心を見られている気がする。顔から感情が汲み取れないのは、これほど心細い事なのか。唾を、ごくんと呑み込んだ。
……手強い。
率直に、苦手なタイプだと思った。それに分かってしまったのだ。撫子は和音を恐れていない。最初に腕を引いた時は怯えられたと思ったが、あの反応は和音の豹変に対する戸惑いであって、和音という人間個人を恐れているのとは違うのだ。ここで和音がどんな口封じをしたとしても、撫子は脅しに屈しない。そんな予感が、僅かだがあった。
「何も聞かなかった、なんて……よくそんな嘘、言えるよね」
和音は吐き捨てて、目を逸らした。慣れない悪態は我ながらひどく嘘っぽく、言葉を吐けば吐くほどに、虚勢のメッキが剥がれていく。
どんどん、醜くなっていく。
「……佐々木さん。言霊って、知ってる?」
撫子が、出し抜けに言った。
「……は?」
和音は、撫子を見下ろした。
何を、言っているのだろう。そんな話を、していたわけではないはずだ。
「言霊は、声に出して言った言葉に魂が宿って、現実世界に影響を与えるっていう、昔からの考え方。良い事を言えば良い事が、悪い事を言えば悪い事が起こるみたい。言霊は声に出した言葉になら、どんなものにも宿るんだって。だから今の私の言葉にも、魂がある事になるのかも」
和音の怪訝な目をものともせずに、撫子は遠い目をして、訥々と言う。
「……それが、何?」
「言霊は、言葉の魂。魂は、声に出した言葉に宿るの。その言葉を聞いてる人がいてもいなくても、声に出せば、宿るの。……でも、あの子の〝言霊〟は違う」
撫子が、和音を真っ直ぐに見た。
和音は、その真剣さに気圧される。
ひりつくような鋭さが、瞳に一瞬、垣間見えた。
「あの子の言霊は、聞き手がいないと成り立たないの。悪い言葉に魂を込めて喋っても、それを聞いてあげる人が誰もいなかったら効果はないの。現実世界にも、何も影響しない。何も、起こらない。……会話が、条件。それが、あの子の〝言霊〟」
「……」
和音はいつしか息をするのも忘れて、撫子の語りに聞き入っていた。
既視感を、覚えたのだ。今の撫子の言葉は全部、一度聞いた事がある。
出会いのあの日。神社の境内で、その少女の兄を名乗った男から、冗談交じりの言葉として、和音は一度聞いている。
「あの子、って……」
まさか、それは――――呉野氷花の、ことなのか。
その推測を、否、確信を、和音は声には出さなかった。
何故なら和音は信じていない。そんな非現実的な言葉を真に受けるなんて馬鹿げている。それについて語った呉野和泉だって、からかうような口調だった。
あれは、冗談の類だ。そうに、決まっているのだ。
「佐々木さん。信じて」
「信じない」
和音は頑なに言い張ったが、そうやって撫子を拒絶しながら、今の語りの意図だけは、脳が先に汲んでいた。
声に出した言葉には、魂――――言霊が宿る。
その魂は、聞き手の存在を必要としない。発声と共に生まれる御魂だ。
だが呉野氷花の〝言霊〟は、撫子曰く違うらしい。
聞き手がいなければ、成立しない。生まれない。たとえ生まれていたとしても、何の意味も為しえない。そんな、脆弱な魂。
「つまり、あなたは私の言葉を聞かなかった。だから聞き手のいない言葉になんて、魂は宿ってない。私の言った言葉には、魂なんて宿ってない。……あなたは、そういう風に言いたいの?」
和音の放った『死ね』という暴言。その言葉に〝言霊〟は宿らなかった。
そう言い張りたいが為に、撫子は『何も聞かなかった』と主張するのか。
言霊は、現実世界に影響を及ぼしてしまう。その霊的な力によって、拓海と七瀬の二人が――――有り得ない話だが、本当に死んでしまうかもしれない。
和音が、死ねと言ったからだ。
それを防ぐ為に撫子は、実際の言霊信仰とは違う理論を当て嵌めて、和音の言葉を、ひいてはその魂の存在を、この世から消したのだろうか。
七瀬と拓海、二人の為に?
……だとしたら、大した優しさだった。
そう皮肉気に思う反面、今の説明が別の意味も兼ねていた事にも、和音は即座に気づいてしまう。
――――言霊。
図書室で、嫌というほど聞いた単語だ。その〝言霊〟について知識を殆ど持たない和音は、話の輪から外れていた。周囲もそれを知っていながら、和音に説明をしなかった。
だから和音は、〝言霊〟を知らない。教えてもらえなかったからだ。
だが、今、それを知った。
――――教えて、くれたのだ。
不覚にも、じんと胸が熱くなった。その感じ方は錯覚だと思いたいのに、目頭の辺りにも抵抗不能の熱が込み上げてくる。その温みに流されて、和音は反論の言葉が出なかった。
そんな和音の反応を、撫子がどう受け止めたかは分からない。
ただ、さっきの言葉へ付け足すように、ぽつりと小声で言ってきた。
「信じられないよね。それが普通だと思う。私も自分が関わらなかったら、どう思ってたか分からない」
言葉の意味は不明だが、何となく、張り合う気概を削がれてしまった。
和音は小さく息を吐いて、壁についた手を退けた。
「……ほら。帰りなよ」
撫子が、目をぱちぱちと瞬いた。決まりが悪かった和音は撫子から身体を離すと、さっと踵を返して歩き出した。
「私も帰る。だからあなたも帰りなよ。七瀬ちゃんと、あの人の所に」
それだけを言い残すと、もう振り返らなかった。
和音は階段ではなく昇降口へ、撫子を残して歩いていく。
一気に、馬鹿馬鹿しくなっていた。本当に自分は一体、何をやっているのだろう。帰ろうと強く思った。あの図書室ではなく和音の家に。置き去りにしたスクールバッグが気がかりだが、もう構わない。捨て置こう。どうせ大した物は入ってないのだし、毬が回収しておいてくれるだろう。そこへ期待を賭ける甘い性根が我ながら許せないと感じたが、撫子にこれほどの事をしておいて図書室に戻れるとは思っていない。毬には迷惑をかけるが、後で連絡を取って、学校の外で落ち合えば――――。
そんな算段を立てながら、和音は下駄箱の隅へ寄せていたローファーが同じ場所にあるのを確認する。そこへ近寄り、上履きを脱ぎ、靴を、履き替えようとして……脱いだ上履きの置き所に、早速困る羽目になる。
「……」
この上履きを、手でぶら提げて帰るのか。
「佐々木さん」
立ち往生していると、ととと、と撫子が寄って来た。
「一緒に帰ろう。図書室に」
ぼっ、と羞恥心に火が付いた。
見られた。勢い勇んで帰ろうとして、早くも壁にぶつかった、小さな葛藤の瞬間を。恥ずかしい。だがこの恥じらいを気取られるのも、肌を掻き毟りたくなるほど嫌だった。かといって誤魔化し方さえ和音は知らない。こんな情けない姿を、人に晒した事などなかったからだ。
ここに来てから本当に、初めての事だらけだった。
「一人で帰りなよ」
辛辣に言い捨てるしかなかった。だがそんな和音の態度に撫子は怯まず、そっと白い手を伸ばして、コートの裾を引いてきた。
「佐々木さん。皆で一緒にいよう。一人でいたら危ないと思うの」
「だから、あなた一人で帰りなよ。……私は、行かない」
「でも七瀬ちゃんも、佐々木さんが帰って来なかったら、心配」
「七瀬ちゃんは関係ない!」
怒鳴り声が、迸った。
撫子が、目を丸く見開く。和音ははっと口を噤み、ぎっと歯を食いしばった。
……もう、何も言うまいと思った。
言えば言うほど、酷い事になってしまう。
足をローファーへ乱暴に突っ込むと、和音は上履きを手の指にぶら提げて昇降口へ向かった。撫子が「佐々木さん」と呼び止めてきたが無視して校舎の外へ出ると、真っ直ぐに石畳を前へ進む。夕日の光りが、ぎらりと和音の目を刺した。空気は赤さを増している。空の彼方を眇め見てから、和音は視線を前へ戻す。 隣の高等部と違って、こちらには急勾配な階段はないようだ。このまま道なりに行くだけで校門前に到着する。この東袴塚学園から家までのルートを頭の中でシミュレーションして、和音は眉を少し顰めた。
ここまではバスで来たが、帰りの交通費はスクールバッグの中だ。
和音の通う袴塚中学の区域までは、徒歩で三十分ほどかかる。早足でも二十分は要するだろう。
それでも、後悔はなかった。帰れるなら何でもいい。和音は人気のない石畳を、黙々と早足で歩き続けた。
だが校門近くまで進んだ所で、和音は異変に気付いた。
小さな足音と呼び声が、背後から微かに聞こえたのだ。
「……?」
和音は振り返り、驚きのあまり絶句した。
「佐々木さん、待って……」
撫子が、走ってくる姿が見えたのだ。
足は上履きのまま、重そうなスクールバッグをぱかぱか揺らして走ってくる。その足取りは遠目にも分かるほど危うげなもので、時折鞄の重みに負けてか身体がゆらっと大きく傾いだ。冷風が、びょうと音を立てて二人の間を吹き抜ける。コートを着ていない痩せた身体を縮こまらせて、撫子がぎゅっと目を瞑った。
「ちょっと……! 何やってるの!」
ぎょっとして、和音は駆け戻った。
倒れる。このままでは。咄嗟にそう思った自分がいた。そのか弱さが毬の姿と重なって、身体が自然と動いていた。和音はふらふら走る撫子の正面に行き、両肩を支えて受け止めた。足を止めた撫子はほっとしたような顔を見せてきたが、冷風に嬲られた続けた顔は、早くも血の気が失せていた。
「なんで……!」
なんで来たのだ。どうして。こんな自分相手に。そう叱ろうとして言葉を呑み込む。何を言われるか予想できていた。撫子はきっと言うだろう。皆で一緒にいないと危ないから。一人でいると危ないから。だから図書室に帰ろうと、和音を諭すに決まっている。
だが撫子の言った言葉は、予想と少し、違っていた。
「帰ろう、佐々木さん。七瀬ちゃんがどうとかじゃ、なくて……私が、心配なの」
「……」
言おうとした。一人で帰れと。だがこんな姿を見せられて、こんな言葉をかけられて、それでもこの少女を突き放せるほど、和音は冷酷になれなかった。
心が、揺れ始めていた。自分は本当に、このまま帰っていいのだろうか?
撫子の頬に、触れたくなった。冷えてしまった身体に触れて温めてあげたくなった。そうしたいと、自然に思ってしまったのだ。さっきまで拒絶していた相手なのに。撫子の事が、心配になってしまったのだ。この捨て身の、行動の所為で。今のたった、一言の所為で。
「あなたは……何なの」
和音は、訊いた。
「私は……あなたにとっての、何者でもない」
撫子は、答えた。
「でも、それでも心配なの。佐々木さん。……一緒に、帰ろう」
す、と手がこちらへ伸ばされた。
和音はその手の平を、戸惑いながら見下ろす。
四年前の夏には、別の少女が拒んだ手だ。その手の平が、今度は和音に向いている。
拒む?
それとも、受け入れる?
「私は……」
返事に迷いながら、和音が言った時だった。
静寂の中で、微かな振動音を耳が拾った。
機械のモーター音のようだと思ってすぐに、携帯のバイブレーションだと悟る。
ばっと撫子を見据えると、撫子の表情に変化があった。
――――何か、隠している。
条件反射で腕を掴むと撫子は小さな悲鳴を上げて、ブレザーのポケットを庇うような仕草をした。
「何してるの!」
腕を、持ち上げる。「あっ」と撫子がさっきより大きな悲鳴を上げたが、そんな大げさな痛がり方も癇に障り、和音は撫子のブレザーのポケットへ手を突っ込むと、中の物を引き抜いた。
「……」
携帯、だった。ちかちかと点滅しながら、ぶうー……ん、と低い唸りを上げている。サブレィスプレイに浮かぶ名前には『坂上拓海』とあった。
「……やっぱり、グルなんじゃない」
「違う」
撫子が首をふるふると横に振った。
「グルとか、そういうのじゃなくて。坂上くん、私が戻らないから、心配してくれてるだけだと思う……」
「どうだか」
和音は鼻であしらった。口ではどうとでも言えるのだ。
心が、急速に冷えていく。そもそもこの少女の優しさは、和音宛てのものではない。和音が毒を吐いた相手、七瀬と拓海宛てのものだ。さっきの〝言霊〟の説明だって、案外惨めな和音を憐れんだだけかもしれない。だとしたらここで片時でも絆されそうになった和音の姿は、撫子にとってさぞ滑稽で見ものだったに違いない。怒りで頭の芯が、じりじりと焼き切れそうなくらいに痺れた。
「じゃあどうしてあなたは電話に出ないの? その人たちと裏で繋がってるくせに、私にも優しくして、言う事聞かせたいだけでしょ。思い通りに、動いて欲しいだけでしょ」
聞くに堪えない嫌な言葉が、後から後から押し寄せてくる。だが言いながら、違う、違う、と泣きたくなった。こんなにも格好悪い台詞を、言いたいわけではないのに。分かっているのだ。苦しいくらいに。熱く煮立った意識の片隅、冷静な自分が訴えている。グルも何も、撫子と拓海は友人なのだ。突然いなくなれば心配になって連絡を取るのは当然で、撫子がそれに応じなかったのは拓海の存在が和音説得の障害になると考えた所為だろう。そこまで客観的に人の心を見れるのに、和音はどうして小さな隠し事の一つを暴き、そこに目くじらを立てながら、何を責めているのだろう?
分かっていた。
怖いからだ。
拓海達が、和音の事を気取ったのではないか。撫子を攫ったのが自分だと勘付いたのではないか。その発覚を和音は過剰に恐れている。この声が震え出したのは、怒りや惨めさだけが理由ではないのだ。ただ幼児のように、恐れているだけなのだ。
そこまで、分かっているのに。
声が、止まらないのだ。
怒りも、収まりきらないのだ。
「佐々木さん、聞いて。違う、違う……」
撫子の必死の声を振り切って、和音は携帯のフリップを開くと通話ボタンを押し込んだ。
「もしもし」
硬く事務的な声が、自分の喉から出た。
通話相手である少年は、かなり驚いた様子だった。『雨宮さん……?』と自信なさげな声で呟いている。声で違うと分かっただろう。和音は白けた気分になった。
「違う。佐々木だけど」
『佐々木さん……、なんで』
「なんでって。あんた達の連れが、私を追い駆けてきたからだけど」
和音が目だけで撫子を振り返ると、撫子は「返して、返して」と手を懸命に伸ばしながら、石畳をぴょこぴょことヒヨコのように跳ねていた。二つに結った髪も動作に合わせて揺れている。場違いに可愛い所作を見た気がしたが、気が散るので和音は空いた手で撫子の頭を抑えつけた。
『佐々木さん、なんで雨宮さんと一緒に……いや、それより、二人共、どこに』
「教えない。でも安心しなよ。私はもう帰るから。それに、この子も。すぐにそっちに戻るから」
達成感が、鈍く心を満たしていった。今度こそ帰れるのだ。これで撫子を介すまでもなく、和音の帰宅をあのメンバーに伝えられた。それに溜飲も少し下げられた。目的は早々に果たせたので、和音は通話を切ろうとした。
まさに、その瞬間だった。
『貸せっ、坂上!』と、拓海との通話に、違う声が割り込んできた。
一瞬理解が遅れ、三浦柊吾の声だと分かった、途端。
『――――返せッ!』
腹の底から出たような怒号が、和音の耳を劈いた。
「……!」
びっくりして、耳から携帯を大きく離した。
『テメェか雨宮攫ったのは! 今どこにいるんだ! 吐け!』
「なっ……!」
『三浦くん待って! 落ち着いて……』
七瀬の声が割り込んでくる。その声を押し潰すような声量で『返せ! 今すぐ!』と怒りに染まった大声が、携帯から間髪入れずに炸裂した。
『お前は、お前は……っ、ふざけんな! 雨宮の事、何も知らねえくせに! そいつが一人で出歩く事が、どれだけ、危ねえ事なのか……全然っ、何にも、知らねえくせに! 何も『見えなく』なるんだぞ! 俺達の事も! 通行人も! 相手がチャリ乗ってたって『見えない』から避けれねえんだぞ! 轢かれたらどうするんだ! お前っ、責任取れんのか!』
「な、何、言って……!」
見えない?
話が読めなかった。何を詰られているのか分からない。だがそれについて訊き返す暇さえ貰えないまま、考える暇さえ貰えないまま、怒声が畳み掛けてくる。
『あいつが、『見えない』所為で誰かを怒らせても! 『見えない』から相手に出来ねえし、逃げるのも謝るのも、何にも、一人じゃ出来ねえのにっ……校外に連れ出してみろ、ぶっ殺す!』
声が、そこで一度途切れた。
『三浦くん、やめて!』と七瀬の声が被さってくる。砂嵐のようなノイズが一度入り、携帯の向こうの、気配が変わった。
『和音ちゃん』
どきりと、心臓が跳ねた。
――――七瀬、だった。
さっきまでの、横槍のような声とは違う。七瀬が携帯を手に取って、電波で繋がる向こうにいる。そんな情景が浮かんできたが、和音は身体を震わせたまま、声を出せないままだった。
――――殺す、と言われた。
同じ歳の少年に、ぶっ殺すと言われてしまった。
そんな暴言、今まで食らった事がなかった。これでは、昨日と同じだった。受験前夜、師範の道場前で呉野氷花と対峙した時と、全く同じ状況だった。和音は言葉の暴力に対して抗う手段を持たないのだ。そんな己の脆い部分をいきなりずたずたに切り裂かれて、放心状態になっていた。
――――自分は、弱い。
それを、突き付けられていた。
『和音ちゃん、聞こえる? 私。七瀬。……お願い。理由は聞かないから。撫子ちゃん、連れて行かないで』
「連れて行くなんて、言ってない……この子が、勝手に、付いてきただけじゃない……!」
やっとの事で枯れかけた声を絞り出したが、そうやって見苦しく怒鳴りながら、それは違うと自分でも分かっていた。七瀬の言う通りだ。最終的に撫子は和音を追ってきたが、そうなるきっかけを作ったのは和音だ。和音が撫子を攫った所為だ。分かっている。自分で撒いた種だ。分かっている。分かっている。分かっている。
理不尽だった。
「七瀬ちゃん、都合良いよね」
思わず、言ってしまっていた。
受話器の向こうで、七瀬が一度黙る。
そしてすぐに『和音ちゃん、まさか、見てた?』と訊いてきた。
和音も黙った。まさか瞬殺で言い当てられるとは、思ってもみなかった。
だが、それならば好都合だ。
遠回しな厭味を言わなくても、すぐに七瀬と話がつく。
「いい気なもんだよね。言霊とか氷鬼とか、馬鹿みたいなことで熱くなって、危ない危ないって大げさに騒いで、それで言ってる本人がいちゃついてるんだから。学校でそういう事して楽しい? 七瀬ちゃんがそんなにやらしい子だったなんて知らなかった」
今度はすらすらと、文句が喉を滑り出た。撫子が驚いた様子で和音を見上げてきたが、ぐいと頭を押してこちらを見ないようにさせた。
携帯の向こうで、息を呑む気配を感じた。その息遣いに明瞭な怒りを感じ取り、和音は暗い安堵を覚える。
怒ればいい。それだけの事を言ったのだ。
だが和音の挑発に、七瀬はすぐには乗らなかった。
『……和音ちゃん。嫌なとこ見せて、ごめん』
返ってきたのは、謝罪だった。
和音は、拍子抜けする。
だが直後、『……でも!』と凄烈な怒りを孕んだ声が、強く叩きつけられた。
『どこまで見たか知らないけど、私達の事と撫子ちゃんは、何にも関係ないじゃない!』
頬を張られた気分になった。
息が詰まる。これも七瀬の言う通りだった。和音は撫子を巻き込んだ。撫子は和音が苛立ちを爆発させた現場に居合わせただけの被害者だ。七瀬と拓海とは関係ない。七瀬の言葉は腹立たしいほどに正しかった。
だが和音の脳裏には、あの図書室での光景が焼き付いて離れないのだ。拓海に抱き竦められた七瀬が抵抗をやめて、熱っぽく潤んだ目を向けて唇を薄く開いたのを、和音は見てしまったのだ。同じ十五歳のはずの友達が、和音の知らない男子に心と身体を許した顔を、和音は見てしまったのだ。甘ったるく上気した、変に艶やかで、婀娜っぽく、女子ではない、女の人のような、そんな受け入れ難く吐き気を催すような色っぽさを、和音は、七瀬に、見てしまったのだ。いくら七瀬に正しい事を言われても、和音はあの光景を許せないと思ったのだ。
今もまだ、許せないと思ったのだ。
「何それ!」
胸の澱を、吐き捨てるように怒鳴り返した。
「あんな事してたくせに! 言い訳しないで!」
『あんな事って何! 和音ちゃんってば何見てたわけっ? 見てたなら分かるでしょ! 未遂だったじゃない!』
「未遂? どうだか。まんざらでもなさそうな顔してたくせに!」
七瀬が、一瞬静かになった。
そして直後、怖い声が返ってきた。
『そうだとしても、それって悪いこと? 和音ちゃんにこんな風に責められないといけないような悪いこと? ……場所は、選ばないと駄目だと思う。でも! ねえ! 和音ちゃん! 好きな人とキスするのって、そんなに悪いことなの!?』
ストレートな言葉に、はっと和音は黙った。
毬の顔が、フラッシュバックしてしまったのだ。
違う顔も脳裏を掠めていったが、この瞬間に女の子の顔が浮かんだ事に和音は激しいショックを受けて、今度こそ何も言えなくなった。
『っていうか! 普段の坂上くんがどれだけへたれで自分から手も握ってくれないか知らないくせに! 一回弾けたくらいが何なの!? 和音ちゃんの覗き! 何妄想してるわけっ? 何もするわけないでしょ! こんな状況で! 和音ちゃんの方がやらしいじゃない!』
携帯の向こうから、『おい篠田やめろ、坂上が死ぬ、死んでる。っていうかお前ら、図書室で何やって』などと、冷静さを幾らか取り戻したような柊吾の声が聞こえたが、『だって誤解されてるもん! TPOくらい弁えるに決まってるでしょ! ねえ!? 三浦くん!』と同意を求められて黙っている。だがそんなやり取りさえ、和音の耳には最早入っていなかった。
かあっと頬がみるみる熱を帯びる。
やらしいと、全員の前で非難された。
思考が一瞬で停止して、唇がぶるぶると震え出した。
「やらしいのは、七瀬ちゃんの方でしょ……!」
『和音ちゃん、いい加減にしなよ! 私はそんな話してるんじゃない!』
「どうして七瀬ちゃんが決めつけるの!」
和音が大声で怒鳴ると、七瀬が電話の向こうで沈黙した。驚いているのだ。和音の声量に。撫子が心配そうに和音の顔を見上げてくる。その頭を、もう一度手でぐっと押した。小さな呻き声を携帯が拾ったのか、七瀬が『撫子ちゃんっ? どうしたの!』と泣きそうな声で呼んできた。
その声を聞いた時が、和音の限界だった。
『和音ちゃん、お願い。撫子ちゃん、返して!』
「――――そんなに大事なくせに、ちゃんと見てない方が悪い!」
七瀬の哀願を断固無視して、和音は怒鳴って通話を切った。
ぶつっ、と接続が切れる音が嫌に大きく虚空に響く。和音は撫子の頭から手を離して携帯電話を突っ返した。青白い顔でそれを受け取った撫子が茫然と和音を見てくる。物言いたげな目にかっとなり、和音は撫子を睨み付けた。
「……信じない」
「え?」
「私は、あなたを信じない」
今の通話が、決定打だった。絶対に戻らない。もう戻ることは出来なくなった。それに撫子だってこんな嫌な女から解放されて内心ほっとしているだろう。
ならばさっさと戻ればいい。和音を置いて、柊吾の元へ帰ればいい。そして七瀬にでも抱きしめてもらえばいいだろう。心がぎしりと、音を立てて軋んだ。
「さよなら」
踵を返す和音の耳に、携帯の振動音が聞こえてくる。折り返しの電話がかかってきたのだ。つくづく愛されていると思う。殺意と怒りが増幅したが、それが何に対するものなのか、和音にはもう分からなかった。
ただ、風がひどく冷たく頬を撫でていったから……和音は自分が泣いている事に、こうなって初めて気づいてしまった。
――――本当に、どこまでも格好悪い。
涙を袖で拭わないまま、和音は夕闇に染まる帰路を走り出した。




