花一匁 47
混乱していたのは、多分、数秒の間だけだった。
「――――いい加減にっ、してったら!」
渾身の力で突き飛ばし、勢い余ってフルスイングした手の平は、拓海の頬へ吸い込まれるようにヒットした。
ばちーん! と風船でも叩き割ったような音と共に形容し難い悲鳴が上がり、拓海の身体が吹っ飛んでいく。そのままパイプ椅子を二・三脚巻き込んで長机に激突した。七瀬はぜいぜいと肩で息を吐きながら、ざっと大きく、後ずさった。
「……っ、はあ……、はあ……!」
危なかった。
あと少しで、許してしまうところだった。
手の甲を、唇に押し当てる。身体中が、沸騰しそうなくらいに熱かった。心臓は自分のものではないみたいに早鐘を打っていたが、七瀬は首をぶんぶんと横に振って、気持ちをきっぱり入れ替える。
動揺している場合でも、流されている場合でもないのだ。
「ねえ? 状況分かってる? だめだって言ったよね? 待ってって言ったよね? 冗談じゃなくて、本気で言ったんだけど」
七瀬は長机に突っ伏す形で伸びている彼氏、もといキス魔に近づくと、腕を組み、据わった目で、仁王立ちで見下ろした。
「だ、だからって、本気で殴んなくても、いいじゃん……」
「それは、ごめんね」
そこは素直に謝ったが、まだ拓海から謝ってもらっていない。声音は自然と険しくなった。
拓海の気持ちは嬉しいが、それはこんな状況でなかったらの話だ。TPOくらい弁えて欲しいし、拒んだ理由はもう一つ、別の所にもあった。
――――和音の事を、思い出していたからだ。
七瀬達を見る和音の、突き放すような眼差し。
拓海に抱きしめられた瞬間に、その冷たさが電流のように七瀬の脳裏を駆けたのだ。
「……あのね、坂上くん。私達、ちょっとまずいと思う」
七瀬は言った。
最初は七瀬自身、あまり気にしてはいなかった。だが今起こっている〝アソビ〟の内容と風見美也子の異質さが明らかになるにつれ、この懸念は無視できないものになっている。言わないわけには、いかなくなった。
「こんな事になって、皆に集まってもらったけど、もともと皆も受験終わったばっかだし。疲れてるし、気が立ってきてたよね。三浦くんもだし……和音ちゃんも」
迷ったが、敢えて名前を出した。
七瀬は、直感していたのだ。
和音にだけは、七瀬達のこんな状態を見せられない。本来の和音であれば人の恋愛ごとに関心などないだろうが、今の和音は普段と様子が違うのだ。些細な事であっても感情の導火線に火がつかないとは限らないし、そもそもこの状況下でいちゃつくカップルなど目撃すれば、誰であっても殺気立つ。
七瀬が見る限り拓海は、どうもその辺りの認識が甘いように思えた。
その甘さが余計に、和音を苛立たせている。そんな気が、不意にしたのだ。
「だって、先に抱き付いてきたの篠田さんだし……」
目を回していた拓海は机から顔を上げて、寂しそうにぼやいている。口調が舌足らずなので頬が痛むのかもしれない。やり過ぎてしまったと七瀬は反省したが、「そうかもね」と、わざと淡白に言い捨てた。
「でも、私はすぐに離れたもん」
「そんな……俺からの時だけ、怒るとか、ひどい……」
「エッチ」
「……」
拓海がもぞもぞと身体の向きを変えて、パイプ椅子へ寄りかかるように座り込んだ。七瀬は眉根を寄せて、腕を組むのをやめにした。
追及がなくなったのは助かるが、ここで黙られてしまうのが、いい事だとも思えない。
「あのね。こういう状況でこんな事して、あとで一番ヤな気持ちになるの坂上くんでしょ?」
「それは……分かんない」
「私は見たら分かったけど? そういう顔してた」
拓海が、目を逸らした。眉尻が下がって気弱そうな顔になったが、七瀬を頑なに見ようとしない。七瀬も頬を膨らませた。
「ねえ、じゃあ私の方からも言わせてもらうけど。坂上くん、自分の言葉遣いが学校でいろんな誤解生みまくってるの自覚してよ。嫉妬する方も忙しいんだけど。それに坂上くんが私に内緒にしてる事も。結構もやもやしてた」
「……」
「それに関しては、嫉妬とはちょっと違うかな。でも嬉しい半分、寂しい半分ってとこ。冷たいかも、しれないけどね」
「……なんか、ごめん」
「いいよ。……ありがとね。あの子は嬉しいと思う」
七瀬は、少しだけ笑ってみせた。実際には口で言うほど、気にしてはなかったからだ。
ただ、七瀬もそれについて、知っているという事だけは。
拓海にも、知っていて欲しかった。
「……ねえ、坂上くん。辛いとか疲れたとか、ちゃんと言ってよ。態度とかより先に、口で。さっき言ってくれたみたいに。そういうの、頼りないなんて思わないから」
「篠田さん……」
拓海が、力みの抜けた顔で七瀬を見た。
七瀬は少しほっとして、「よかった」と小声で言った。
状況には不満があったが……やっと、弱いところを見せてくれた。
本音を言えば、さっき拓海に抱きしめられた時。七瀬は少しだけ怖くなった。あの瞬間だけ拓海の事が、七瀬の知らない人に見えたからだ。
だがあの激しさだって、拓海の心の一部なのだ。今まで内側に仕舞い込まれて、七瀬に隠されてきた部分。その正体はきっと、恐れ、怒り、不安。まだ他にもあるかもしれない。七瀬の知らない感情が、きっとたくさんあると思う。
だがこうやって向き合った拓海のことを、七瀬は怖いとは思わない。
「坂上くん。さっきここで紺野さんの話をしてた時に、私が言ったこと覚えてる?」
言いながら、七瀬は拓海の両手を握った。
途端に、拓海が狼狽えた様子で見上げてくる。さっきの勢いはどこに行ってしまったのだ。七瀬はくすりと笑ってしまった。
「私、紺野さんって女の子の事は分からないよ。でもね、紺野さんみたいな女の子が……私みたいなタイプ相手に、いろいろ喋りにくい気持ちは分かるんだ」
「……」
「言い難いよね。怖いよね。でもそういうのって、紺野さんに限った話じゃなくて……誰でも、だよね。声に出して自分の思ってること言うのって難しいし、恥ずかしいよね。当たり前みたいにそれが出来る子もいるけど、そうじゃない子もいるんだっていうのは……知ってるし、見てきたから分かるよ。分かり切れてないかもしれないけど、分かる所も、あるよ。……撫子ちゃんみたいな、言い方になっちゃったね」
七瀬は、うっすらと笑った。
知らないわけではない。理解がないわけでもないのだ。知っている。理解している。そんな七瀬のスタンスを、相手も分かっていると信じていた。
今もまだ、寂しいままだ。
だが時の流れは残酷に、七瀬達を変えていく。
この感情はもう既に、寂しいだけのものではない。
……そんな現実が、やっぱり、寂しい。
「そういう難しい事、坂上くんはここに来てずっと続けてきたんだよ? だから私、かっこよかったって言ったの」
「でも、それは、だって……俺が頑張らないと、皆が、危ないから」
拓海が、目を伏せた。
七瀬にしか聞こえないような、とても小さな声だった。
「俺がこんな風に喋るのって、元々向いてないし。緊張もしたし、まだこれからも続けないと駄目なんだって思ったら、怖い。でも俺がやらないと、皆が危ないから……出来るとか、出来ないとかじゃなくて。頑張らないと、駄目なんだ」
「それっておかしくない? 一人で頑張らなくたっていいでしょ」
「一人で頑張ってるってつもりは……ない、けど」
「でも、そういう風に聞こえた」
「……そうかも、しんない。うん、そういうつもり、だったかも」
拓海が頷いて、俯いた。
黒髪が目元にかかり、蒼い影が頬に落ちた。
「……それに、弱音ばっかりだ」
「弱音って、吐いちゃだめなの? そんなわけないでしょ」
七瀬が言い返すと、拓海が顔を上げた。
驚いている、顔だった。構わず七瀬は、先を続けた。
「じゃあ私が何かで悩んでたとしたら、坂上くんは私に、弱音なんて吐くなって言う? 私が弱音吐いたら、幻滅する?」
「それは……絶対、しない」
「でしょ」
拓海の目に、薄い光が灯っていく。七瀬は安堵から吐息をついた。
思っていた通りだった。拓海は、真面目過ぎるのだ。
仲間に相談する事を、自分にだけは、許していない。
「言葉にするのって、体力いるし、勇気もいるよね。そういうの嫌だーって思ったら、何も言わないで黙ってるとか、代わりに他の誰かに喋ってもらうのも、一つの手かもしれないよね。……言えるのが、当たり前の事じゃないんだよね」
紺野という少女の事を、七瀬は思った。
他人の少女。顔も知らない。
ただ、夏の庭で撫子の手を拒んだ紺野の切望だけが、人伝の言葉にも関わらず、痛ましく耳に残っていた。
――――『代わりに、言ってよ! 私じゃ、何にも、言えないよ……!』
「助けてくれるなら、全部私の代わりに、言って、……かあ」
寂しい言葉だった。自力で助けを求めることも出来ない。伸ばされた手さえ掴めない。振り払って、傷付けることしか出来ない。紺野という少女は、そこまで追い詰められていた。
その弱さを、甘えだと切り捨てるのは容易い。以前の七瀬なら、そんな考えをしたかもしれない。
なのに、今の七瀬には出来なかった。
どうしてだろう。七瀬は理由を考えてみる。
そして、ふ、と淡く微笑んだ。
やはり七瀬は拓海と出会って、少し変わったのかもしれなかった。
「坂上くん。これからはもっと弱いとこも見せて。急に大人っぽくなんなくていいよ。高校生になるのはこれからだもん。私、まだ挙動不審の坂上くんのままでいい」
去年の夏頃から、拓海が見せるようになった不安定さ。その脆さにいつか拓海が呑み込まれるのではないかと、七瀬はずっと怖かった。
その不安が、恐れが、雪のように溶けていく。
その温もりを拓海と共有する手段は、幾通りもあるだろう。それこそ、さっきの拓海のやり方でもいいかもしれない。
だが、今はそうしたくなかった。
「ね、元気でた?」
七瀬は悪戯っぽく問いかけて、拓海の手から手を離した。
拓海が、茫然と七瀬を見上げてくる。その顔にやがて照れ隠しのような笑みが浮かんで、「うん」と小さな返事が聞こえてきた。
……もし七瀬が、さっきの拓海の甘え方に、ただ応じてしまったら。
辛さや苦しさを何にも知らないまま、ただ身体で受けとめてしまったら。多分拓海は、その分だけ弱くなった。
だが言葉の形で、その辛さや苦しさを引き受ける事は――――甘えられる事でも、甘やかす事でも、そのどちらでもないと七瀬は思う。
初めから、こうすれば良かったのだ。
言葉の形で、吐き出してもらえばいい。拓海が自分から言ってくれないなら、こちらから訊けばいいだけの話だった。拓海のようなやり方は、その後でだって遅くはないのだ。
その時ふと、七瀬は既視感を覚えて首を傾げた。
「あれ? こんな風に、前にも言った事あったっけ」
「……うん。去年の。今頃に」
拓海が、立ち上がった。
そして「篠田さん」と七瀬を呼ぶと、温和な笑みを七瀬に向けた。
「ごめんな。……うん、そうだよな。駄目だよな。まだ、終わってないもんな」
言いながら拓海が、窓の外を振り仰ぐ。その姿に七瀬は少しどきりとした。
空を見据える拓海の目が、何だか凛々しく見えたのだ。
振り返った拓海が笑って、七瀬へ距離を詰めてきた。
「このごたごたが片付いた後だったら、今度は殴らない?」
「? どういう意味?」
「一個、言うこと聞いてくれるってやつ」
「えっ、……まだ引っ張るのっ?」
「言い出したの、篠田さんじゃん」
「う……」
七瀬は、言葉に詰まった。
軽い気持ちで言ったばかりに、何だか大事になってきている。何をさせられるのだろう。逃げようとすると拓海の手がすっと伸びて、とんと長机に手を置かれた。
退路を塞がれる格好になった七瀬は「もう! 何してんの!」と怒ってその手を叩いたが、拓海は「いてて」と痛がりつつも柔和に笑ったままだった。
どことなく、余裕の感じられる態度だ。七瀬は調子が狂ってしまい、拓海の顔を睨み付けた。
拓海は以前よりも、おどおどしなくなった気がする。
というよりも、中途半端に度胸がついた所為で、生来の天然タラシっぷりに磨きがかかっている。
そんな変化に気付いた途端、七瀬の耳にはさっき拓海から言われた恥ずかしい台詞の数々が蘇ってきてしまい――――さあっと頭から血の気が引いた。
「……坂上くん。当分は、挙動不審の坂上くんでいいからね?」
「へ?」
「いいからっ、そのままの坂上くんでいいからね? 進化しなくていいからねっ? っていうか、困るから! それ以上進化しないで!」
「進化っ? えっ、えっ?」
疑問符を浮かべて混乱する拓海に、七瀬は強く言い含めた。
このままではいけない。中三にしてここまで歯が浮くような台詞群を衒いなく言える拓海が、この上自覚的に迫ってくるなんて危険過ぎる。七瀬は心臓がいくらあっても足りなくなるし、それに懸案事項は他にもあった。
どうしよう。急に意識してしまった。七瀬も拓海もこれから高校生になるのだ。まだまだ、七瀬達は変わっていく。これからも変わり続けていく。
もう一度あんな迫られ方をする日も、案外近いのかもしれない。
「篠田さん、まだ怒ってる?」
「し、知らないっ」
おそるおそる訊いてくる拓海に、七瀬が顔を真っ赤にして言い返した時だった。
外から何か、物音が聞こえてきた。
「? 何? 足音?」
「誰か帰ってきたんじゃないか?」
拓海は扉の方へ目を向けて、はっとした様子で口を噤んだ。
「坂上くん?」
七瀬もそちらを振り向き、拓海同様に黙った。
開け放された扉の向こうに、何か、黒い物が落ちていたのだ。
……さっきまでは、あんな物はなかったはずだ。
瞬間、廊下から怒号が聞こえた。
「――――雨宮あぁぁっ!」
「!」
七瀬の反応は速かった。
図書室の床を蹴って走り出し、一息で引き戸までの距離を詰めた。その間に拓海と身体が接触して弾き飛ばしてしまったが、心の中で謝りながら廊下へ身体を躍らせると、廊下を走ってくる男子生徒の姿が見えた。
「三浦くん!」
柊吾だった。
濃紺のブレザー。チェック柄のズボン。遠目だったがすぐに分かった。
駆け寄ろうとして、七瀬は凍りつく。
廊下に落ちた物が、撫子のコートだと気付いたからだ。
「どうしたの……、何、これ」
コートへ近寄りながらそう言うと、こちらへ到達した柊吾が滑り込むようにしゃがみ込み、鬼気迫る表情で撫子のコートを凝視した。
柊吾はぎりっと音がしそうなほど歯を食いしばり、直後、いきなり立ち上がって駆け出した。
「ちょっと、三浦くん!?」
七瀬はびっくりしてしまい、その腕を掴んで引き留めた。
途端。
ぐるんと振り返った柊吾が、七瀬の肩を掴んできた。
「きゃ……!」
「篠田、携帯貸してくれ!」
咄嗟に返事ができずにいると、「頼む! 早く!」と声に懇願の色が涙のように、湿っぽく入り混じった。
「三浦! 俺が持ってくるから、落ち着けって!」
遅れてやってきた拓海が割り込み、只事ではない様に顔色を青く変えながら図書室へと引き返す。柊吾の手が七瀬から離れ、七瀬は茫然と柊吾を見上げた。
「三浦くん……撫子ちゃんは……?」
柊吾は、返事をしなかった。
ただ「畜生」と低い唸り声を上げて、廊下の壁を殴りつけた。どんっ、と鈍い音と共に空気までもが震撼する。七瀬がびくっと震えると、柊吾が淡々と、静かに言った。
「……雨宮、いなくなった」
「え?」
「俺が目を離した少しの間に、空き教室から、いなくなった。鍵かけて待ってろって、言ったのに。荷物も、あいつの鞄もコートも、俺の鞄まで、全部なくなってて……雨宮の荷物が、ここに落ちてた」
「そんな……うそ、どうして……!」
七瀬は言いかけて、それ以上口にするのを意識的にやめた。不用意に話しかければ、どうして撫子を一人にしたのかと詰っていまいそうだった。
だがそれだけは、言ってはいけないと分かっていた。
もう柊吾はそれを後悔している。柊吾の見せたこの怒りは、おそらく自分自身に対するものだ。そんな事くらい、声を聞いただけで分かってしまう。
「……三浦くん。ここを二人で出てから、撫子ちゃん、起きたんだよね? 撫子ちゃんと、何か話した?」
躊躇したが、慎重にそう訊いた。
ともかく状況を知らなければ、解決の糸口も見い出せない。
柊吾が首を、浅く縦に振ってきた。
「教えて。撫子ちゃん、何か言ってた?」
「……今までありがとうって、言った」
息を、呑んだ。
「あいつ……ここ、触りながら、今までありがとうって、言ったんだ」
柊吾は、自分の頬を指でなぞった。
その顔は、無表情だった。身体の内側で感情が煮詰まって飽和して、己でも形が分からなくなってしまったような、凄絶な虚無の顔だった。
「俺、言われた時にはちゃんと聞き取れなくて、後で、分かったんだ。あの時、あいつ……今までありがとうって言ったんだ、って。あいつを一人にしてから、気付いた。すぐに戻ったけど、遅かった」
撫子のコートを握る柊吾の手に、ぎゅっと力がこもった。
柊吾は「なんでだ」と、血を吐くような声で呻いた。
「雨宮、まさか……自分から、いなくなったのか?」
七瀬も血の気が引いてしまい、柊吾に返事ができなかった。
……話には、一度だけ聞いていた。
撫子がかつて、刃物を握った事を。
その刃物で、柊吾の手と頬を切りつけた事も。
だが柊吾も撫子も、その出来事を乗り越えたと思っていたのだ。それに撫子は確か、あの時の記憶が薄いはず。現実感も、なくなりつつあったはず。そういう風に、七瀬は聞いていたはずだった。
――――それは、思い違いだったのだろうか。
一人の少女が刃物を手にして、人を、殺しかけた事。
その出来事を七瀬達は、勝手に過去のものにしていたのだろうか。
当事者の撫子を置き去りにして、先に安堵していたのだろうか。
まさか、まだ、撫子は。
気に病んで、いたのだろうか?
乗り越えられて、なかったのだろうか?
「いや。三浦。それはないと思う。雨宮さんは、自分から消えたわけじゃない」
冷静な声が、二人の間の空気を割った。
柊吾が、毒気を抜かれた様子で振り返った。
「坂上……」
拓海だった。
いつの間にか図書室から戻っていたのだ。耳に携帯をあてた格好で撫子のコートの傍で片膝をついている。七瀬もその姿に驚いていると、拓海はこくんと頷いてきた。
安心していいのだと、諭すような仕草だった。
「三浦。雨宮さんがどうして消えたのかは、まだ分からない。でも雨宮さんがどれだけ意味深なことを言い残したとしても、少なくともこの失踪は、雨宮さんの意思じゃない」
「なんで、そんな事が分かるんだ?」
「その前に、さっき三浦が言ってたのを確認させて欲しい。三浦が雨宮さんと一緒にいた空き教室の荷物は、三浦が戻った時には全部なくなってた。間違いない?」
「荷物? ああ。でも、それがどうした?」
「三浦の鞄も?」
柊吾が、不意を打たれた顔になる。コートが床に、するりと落ちた。
そして一拍の後に頷くと、拓海は「じゃあ、次」と迅速に続けた。
「三浦は雨宮さんを教室に残した時、どういう風に言い聞かせた? できるだけ正確に思い出してくれ」
「それは……。あいつら……陽一郎と綱田を止めて、図書室に追いやってから、戻るから。俺が出てったら鍵かけて、待っててくれ。……って、言ったと思う」
「やっぱり。それだ」
拓海が断言した。
柊吾は不可解そうな顔をしたが、次の拓海の言葉で、驚きの顔に変わった。
「三浦。雨宮さんは、俺達の前から消えようとして教室を出たわけじゃない。三浦を追い駆けただけだ。多分寂しかったんだと思う。引き留められたりしなかった? ほら。これ見てくれ。――コートも、鞄も、両方とも雨宮さんの物だ。三浦の鞄がどこにもない」
七瀬も近寄って見てみると、鞄にはウサギのマスコットが付いていた。白くて長い耳がもったりと、黒い布地の上に垂れている。
撫子の鞄だ。間違いない。柊吾も今になって自分の鞄が行方不明である事態を受け止めたのか、慌て辺りを見回し出した。
「じゃあ、俺の鞄は」
「雨宮さんが、持ってる事になる」
拓海は言いながら、もう一度携帯を操作している。撫子にリダイヤルしているのだろう。繋がらないのか表情が僅かに曇ったが、拓海はもうさっきまでの鬱屈や憂いを、全く顔に出さなかった。瞳には透徹された光りが浮かび、ここで起こった出来事全てを解き明かす覚悟と気迫を感じた。
七瀬は安堵の息を吐きながら、そっと胸を撫で下ろす。
……拓海はもう、大丈夫そうだ。
問題は――――袴塚西の、二人の方だ。
「三浦が雨宮さんを空き教室に残した時、雨宮さんは、三浦を追い駆けて廊下に出たんだ。だから自分の荷物だけじゃなくて、三浦の分も全部抱えて移動した。でも闇雲に追っても三浦の居場所が分からないし追いつけない。だから図書室に……三浦が行くって言った図書室に、先回りして行ったんだ」
「なんで……っ」
柊吾が、叫んだ。
「なんで雨宮は……そんな短い時間が待てなかったんだ!」
「心細いからでしょ」
七瀬は、口を挟んだ。
柊吾には悪いが、七瀬は撫子の心情の方へ、共感の針が傾いた。
「この状況で一人にはなりたくないよ。どんなに短い時間でも、やだよ。……それに。三浦くんと、離れたくなかったんでしょ」
柊吾が、黙った。
やがて苦しげに、その顔が歪む。
「でも、あいつは……」
「三浦。大丈夫だ。雨宮さんが、自分から消えるわけない」
拓海が柊吾へ、はっきりとした声で言い聞かせた。
「雨宮さん、責任感強いじゃん。この状況で自分が消えたら俺らに迷惑かかるって絶対考えると思う。今までありがとうの意味は、会った時に確かめよう。今は探すのが先決だ。……とにかく」
拓海はきっと顔を上げて、廊下をぐるりと見渡した。
「ここで、何かがあったんだ」
七瀬と柊吾は息を潜めて、拓海に倣って周囲を見る。
無人の廊下。
がらんどうの教室。
廊下の果てにある階段。
そして手前の、もう一つの階段。
そんな寂れた校舎の廊下に、ぽつんと残された鞄と、コート。
「この図書室前まで歩いてきた雨宮さんは、この場所で、何かのトラブルに巻き込まれた。その時に、荷物を落とした。――――三浦。篠田さん。雨宮さんはもしかしたら。ここで誰かに拉致された可能性が高い」
「え? 拉致っ?」
ぎょっとして柊吾を見ると、柊吾も顔色をなくして七瀬を振り返っていた。
顔を見合わせながら、脳裏に去来する言葉が、一つ。
――――人攫い。
「雨宮さんが荷物をこんな所に投げ出して、しかも三浦の荷物を抱えて一人で帰るのは不自然だ。……イズミさん、言ってたよな。『山椒大夫』の話を引き合いに出して、俺らに〝人攫い〟に気を付けるような事を言ってた。……攫われたんだ。多分。そう考えたら、荷物がここに落ちてる事に説明がつく」
七瀬は、その様子を想像してみた。
柊吾に置き去りにされた撫子。不安と心細さに居ても経ってもいられずに、コートを羽織る時間も惜しみ、重い荷物を二つ抱えて、よたつきながら歩く矮躯。
その身体にすうと伸びる、何者かの、悪意の手。
緊張感が、ぞっと背筋を駆け抜けた。
――――ここで一人、人が消えたのだ。
そして一拍遅れで、怒りがふつふつ込み上げた。
――――理不尽に対する、怒りだった。
「ひどい……、こんなの、ひどい。坂上くん、それってまさか、風見さんの仕業じゃ……!」
「いや、それは違うはずだ」
勇んで言った七瀬へ、拓海は冷静に返した。
「風見さんだけは違うはずだ。風見さんはこの〝アソビ〟の鬼だ。雨宮さんの身体に触れたら、雨宮さんは『動けなく』なる」
「それって……!」
七瀬もすぐに、言われた意味を理解した。
「篠田さん、風見さんって確か体格は華奢な方なんだよな? 雨宮さんも小柄だけど、だからって『動けなく』なった女の子の身体を、風見さんが運べるとは思えない」
「撫子ちゃんなら、誰でも運べるんじゃない?」
七瀬は一応反論したが、確かに拓海の言う通りだ。グラウンドで出会った美也子の体格を思い出せば、不可能だとすぐに分かる。あの少女は十五の少女の平均身長より背が低い。見た目の印象から運動も、そこまで得意ではないはずだ。
美也子に、撫子は運べない。
状況的に怪しい人間ではあったが、犯人と断定するには厳しかった。
「探す」
柊吾が、短く言った。
議論しているよりも、身体を動かして見つけた方が早い。今にもそう言い出しかねない怖い顔で、七瀬と拓海を一瞥してくる。
「まだ近くにいるはずだ。校舎一周してくる。坂上は雨宮に電話を続けてくれ」
「待って三浦くん! 私も行く!」
七瀬は柊吾の前に回り込んだ。
「手分けしようよ。私は四階と五階を見るから、三浦くんは二階と一階をお願い。坂上くんはこの階を見て。あと、毬と日比谷くんがまだ帰って来てない!」
しっかりと柊吾の目を見て、七瀬は矢継早に指示を出した。
一人で探すよりも、分担した方が着実だ。それに柊吾の状態も心配だった。冷静さを欠いている。いくら体格が頑健で運動神経に優れていても、柊吾の〝アソビ〟参加は確定なのだ。それに精神的な不安定さは、場合によっては命取りになりかねない。七瀬達の戦う相手は、『弱み』を見せたらおしまいなのだ。
……負けるつもりはなかった。
絶対に、取り返す。
撫子が本当に攫われたというのなら、こんな形で友達を失うなんて七瀬は嫌だ。弱気になっている場合ではないのだ。七瀬は懸命に自分自身を叱咤した。
「集合場所は図書室にしよう。その間に電話もかけよう。あの二人を見つけたら、図書室に来るように、言って」
そう言った時だった。
遠くの方から「柊吾ぉ!」と、甲高い叫び声が聞こえてきた。
見ると廊下の果てから男女が二人駆けてくる。ふらふらとした足取りだ。七瀬は驚いて二人の名前を叫んだ。
「毬! 日比谷くん!」
毬と陽一郎だった。
戻ってきたのだ。
二人は七瀬達の前で足を止めると、崩れ落ちるように身を折った。
呼吸は荒く、かなり急いで走ってきたようだった。
「陽一郎……」
柊吾は今初めてその存在を思い出したかのように、呟く。怒りで据わった双眸に、僅かな光が戻った。
陽一郎が激しい呼吸に喘ぐ隣で、先に回復した毬が顔を上げた。
「あのっ、撫子ちゃんはっ……」
言いかけた言葉が、床に落ちたコートと鞄を見て途切れた。
「……毬。日比谷くん。撫子ちゃん、いなくなった」
七瀬はコートを拾い上げて、言った。
鞄の方は、拓海が拾っている。携帯をもう一度耳に当てた拓海は、渋面で首を横に振った。七瀬は俯きながら、続けた。
「荷物だけここに残ってて、連絡もつかないの。今から皆で校舎を探そうとしてたとこ」
「七瀬ちゃん、でも、この階と、一つ下の階にはいなかったよ?」
毬が掠れた声で言って、陽一郎を振り返る。
陽一郎もこくこくと頷き、汗の浮いた顔で七瀬を見た。
「僕達、さっきまで柊吾探して走ってたけど、撫子は見なかったよ」
「そう……」
七瀬は唇を噛んだ。
探す場所が減ったのは有難かったが、それだけ希望をかける場所が減ったのだ。
柊吾も拳を握りしめて、今にも走り出しそうな勢いで廊下と階段を睨んでいる。
そして痺れを切らしたのか「先に行く。篠田、図書室で集合するぞ」と言い残し、ぱっと駆け出そうとした。
「柊吾、待ってよ!」
その背中に、陽一郎が追い縋った。
「一人で行動しないでよ! 柊吾、足速いから、いなくなっちゃったら僕達、追いつくの大変なんだよっ?」
「今ならまだ、追いつけるかもしれないだろ!」
柊吾が激しく怒鳴りつけた。
もう我慢の限界だったのだ。七瀬も同じ気持ちだから分かる。拓海の言うように撫子が誰かに攫われたのだとしたら、まだこの学校か、もしくは校舎周辺にいる可能性が高い。
一刻の猶予もない。早く探すべきだ。
陽一郎には悪かったが、帰ってきてくれた事で探す手間が省けた。あとは撫子捜索に専念すればいいだけだ。
七瀬も柊吾の背中を追って、階段の方へ足を向けた。
「柊吾、待っててば! 篠田さんも!」
だが陽一郎は諦めなかった。
怒鳴られて震え上がりながらも、さっき図書室で柊吾と別れた時と同じように追い駆けてくる。その姿はまるで、置いて行かないでと泣きながら親に訴える幼児のようだった。
「待ってよ! 撫子を探すの、皆で一緒にやった方がいいよ!」
「そんな悠長なこと言ってられるか!」
「日比谷くん、確かにそうかもしんないけど、全員で固まって動いてる暇なんてないでしょ! 分担して探した方がいい!」
七瀬も加勢して怒鳴ると、「でも、でも!」と陽一郎がごねた。
「だって、心細いじゃん! もうすぐ外も暗くなるし、ここ知らない学校だし、なんか、遊びとか言われても、僕、分かんないし、呉野さん関わってるとか、ちょっと怖いし……! わああん、怖いよお!」
「ちょ、ちょっと! 今は呉野さんの事なんてどうでもいいでしょ!」
なんて見当違いな心配をしているのだ。
今は氷花よりも撫子だ。一人だけ危機感がずれている。
呆れた七瀬は振り返り様に叫んだが、既に陽一郎は半べその顔だった。よほど氷花から酷い目に遭わされたと見える。可哀想だと心の隅で思ったが、構っている暇はなかった。
七瀬は柊吾と頷き合うと、七瀬は階段の上へ、柊吾は下へと、示し合わせて駆け出した。
「待ってよお! 柊吾! 篠田さん!」
陽一郎の声が、七瀬達の背に叩きつけられた。
「まだ佐々木さんも見つかってないのに……柊吾達までいなくなったら、僕、困るよ!」
全員が、黙った。
「…………」
嫌な沈黙が、流れた。
七瀬は、足を止めた。
階下を見ると、柊吾も足を止めてこちらを見上げていた。
その顔色は、紙のように白い。目が、かっと見開かれている。
陽一郎だけが、「え? え?」と動転した様子で皆の顔を窺っていたが、それを除けば全員が、声を失くしてしまっていた。
忘れていた。だが、今、思い出した。皆も一斉に気付いたのだ。
撫子の他に、もう一人――――本来ここに居るべきで、なのにここに居ない、存在に。
「……和音ちゃん、どこにいるの」
七瀬が、乾いた声で言った時だった。
「あ」と拓海が、声を上げた。
一同の視線が、拓海に集中する。
四人分の視線を浴びた拓海は、携帯を耳に当てたまま、青白い顔で、呟いた。
「雨宮さん……?」




